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小山秀綱

佐野昌綱 Sano Masatsuna(1529年-1574年)佐野泰綱的次子,幼名小太郎,法名天山道一居士。佐野氏本為藤原秀鄉的後代,奉足利七郎有綱之子基綱為初祖,是基綱入封下野安蘇郡佐野庄後方稱佐野氏,在鐮倉幕府滅亡後,臣從於室町幕府新設的關東公方足利氏。據佐野記所載,佐野昌綱其父泰綱當政情形,是讚道:「國中無事四民業樂。」可見佐野泰綱已為諸子留下穩健的基礎,至兄長豐綱繼任家督時,亦效力於關東公方麾下和山內上杉氏等家族交鋒,在河越夜戰後北條家直竄為關東第一強權時,投向繼任關東管領的上杉謙信,於永祿元年(1558年)五月,上杉謙信攻打宇都宮家時出陣,卻在多劫城下被宇都宮老臣多劫長朝擊破戰死。兄長英年早逝後,在一門與重臣認可下,由佐野昌綱繼任家督之位,從佐野記中描述佐野昌綱的言詞:「幼年時便才智過人,勇力絕倫。成年後軍略優秀、槍法精妙,施仁惠於民、與鄰近諸將和睦。」當然出自佐野家臣所撰的佐野記,自要對己家之主褒揚一番,而不免有過溢之處,但也能這樣的記載看出,佐野昌綱的繼位因為他的能力尚算繼任平順,也在家臣領民中有著一定的威望。佐野昌綱繼承佐野氏後卻犯了難,正如其他關東國人眾一般,佐野氏同樣包夾在上杉、北條兩大勢力之間,初時佐野昌綱延續兄長的外交方針,與上杉家親善,也因此在永祿二年(1559年)北條氏康便看準佐野氏新主甫立,正陷於重整期,派遣長子氏政領三萬五千兵馬圍攻佐野氏居城唐澤山城。唐澤山城,又名根古屋城,乃是佐野氏數代傳承的城池,經過建有堅固的石垣,加上有豐富的水資源,使北條氏政大為苦惱,久攻不落。相對地佐野昌綱便趁北條軍糾結於城下時,遣使向布陣於上野平井城的上杉謙信求援,謙信聞訊後隨即點八千精兵急襲北條軍,謙信一馬當先於城西督戰領四十五人衝陣,引兵馬集於一點攻擊,使圍城的北條軍發揮不出數量優勢,一舉衝進城中和佐野昌綱會合,隨即突出城外大破北條軍。永祿三年(1560年),佐野昌綱開始進行領內整頓,重理領地分配,於八月派小野寺景綱為寺岡代官,確保當地領民的年貢上納,將該地收為佐野氏的直轄領,一來增加主家實力,同時也減少領民被庄屋、地頭等擅加稅賦的情事。也在同年十一月,在給家臣福地右衛門三郎領地事務的印判狀中開始使用貫高制度,以金錢收入標立家臣領地,以重臣大貫武重經營足尾銅山,建設本家財政基盤。永祿四年(1561年),佐野昌綱因為和上杉謙信不睦,在上杉謙信回歸越後,北條家再度大肆侵略之際,服從古河公方足利義氏的命令臣從北條家,引起上杉謙信不滿,鑑於佐野氏領地追位居下野南部的交通要衝,是下野攻略的必爭之地,旋於翌年三月在攻打館林城後,出兵唐澤山城,當初讓北條氏政難以攻陷的堅城同樣讓上杉謙信無法順心擴大戰果,在北條氏康自河越城出兵來救,無奈退兵歸國。為此上杉謙信在永祿六年(1563年),再度出兵唐澤山城,但在佐野昌綱的固守下,依然難越雷池一步,所以上杉謙信便轉向壓制周邊的佐野氏領地,使佐野昌綱大為所苦,因為他深知兵法通曉自家實力不足以和上杉軍進行野戰,但是無能出城任上杉軍於城下肆虐,必使來年的年貢收入銳減。可是佐野昌綱也只能咬牙硬撐,畢竟堅守還有希望,出城則必然落入下風,上杉謙信見佐野昌綱依舊不出,便解圍撤走。來年元月,上杉謙信再度冒著寒冷南下攻打唐澤山城,意圖以迅雷不及掩耳之勢破城,但佐野昌綱早有應戰準備,昌綱仍能藉唐澤山城之防禦力守備,雙方一時激戰。佐野昌綱終因連年征戰而無力應付,而轉托常陸佐竹家、下野宇都宮家出面仲介,臣服於上杉謙信,謙信收佐野昌綱末子虎松丸為養子,上杉謙信也為保唐澤山城不失,遂調來越後平林城主色部勝長與荻原伊賀守、吉江織部擔任城將。同年四月,佐野昌綱重新整頓戰後領地,發佈下都賀郡寺尾、千手、梅澤村的在地領主小曾戶長門守給予上都賀郡粕尾鄉五十貫以及松崎、布施谷、遠木一帶二十名武將的安堵,穩定人心,並將次子親綱過繼分家桐生氏。十月,佐野昌綱內通北條家再次樹立反旗,但上杉謙信反應快速,隨於二十七日發兵征討,佐野昌綱不敵再降,上杉謙信遂讓虎松丸連同三十餘名佐野氏人質和色部勝長回歸越後。但是在永祿十年(1567年),佐野昌綱又再次反出上杉家,上杉謙信即聯合在地國人眾小山秀綱、太田資正一同發兵,並請來常陸佐竹氏協陣,由於敵軍勢大,雖然佐野昌綱仍堅守未落,也知難以討好,又表達降意,上杉謙信認為可以只要控制唐澤山城便替上杉家箝制下野增一基地,使北條家的下野攻略受挫,因此再度同意,但為了防止佐野氏又倒向北條家,便以色部勝長為城將,正式分薄佐野昌綱對領地的控制權,但也引起佐野昌綱不滿於心。然而就在永祿十二年(1569年),色部勝長隨上杉謙信攻伐叛變的本庄繁長時陣亡,使上杉家對唐澤山城的代官人選一時懸空,失去了有力的節制者,佐野昌綱便聯合北條氏康、氏政父子再度叛出上杉家,而上杉謙信為確保在下野的勢力,領兵包圍唐澤山城,但同樣又是僵持居面,在佐野昌綱的領導下上杉謙信始終未正式攻陷唐澤山城,只是佐野昌綱亦自知野戰對佐野氏不利,而屢屢迴避上杉家的挑釁動作,而呈現不勝不敗的局面。直到當年三月,為對抗武田信玄的駿河攻略,北條家轉與上杉謙信同盟,這才由北條家出面,仲介佐野昌綱和上野的北條高廣重投上杉謙信陣營,唐澤山城城代由色部勝長之子顯長繼任。天正二年(1574年),佐野昌綱逝世,享年四十五歲,葬於本光寺,法名天山道一居士。佐野昌綱雖在上杉、北條兩家之反覆無常,卻也不能不說是戰國時代小大名的無奈,但觀期能在兩大勢力之中力保不失,尤其十三年中受到有軍神美譽之上杉謙信近大大小小十餘攻打,都能屹立不搖,可見佐野記予他文武兼資的評價並非完全不實。只可惜在失去昌綱之後,佐野氏歷經幾度搖擺,終於失去向心力而分裂,在其子宗綱戰死後,一舉分裂。家臣為保安泰迎入北條氏康五子氏忠入繼,昌綱三弟房綱憤而出走往依豐臣秀吉。雖然佐野房綱終究靠著秀吉之勢得回舊領,但仍因無子而收秀吉家臣富田一白之子信吉為繼,後來佐野信吉在江戶時代因大久保長安之事及其兄富田信高與阪崎直盛的爭執被連座,失去領地,直到寬永十五年(1638年)才被重新招為旗本,方能延續家名。出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/80945476/
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小山秀綱 Oyama Hidetsuna(1529年-1603年)小山高朝の長男。初めは父・高朝の1字を取って小山氏朝(-うじとも)、のち氏秀(うじひで)と名乗る。双方の「氏」の字はそれまでの慣例に倣い古河公方足利氏より偏諱を受けたものと思われる。「秀綱」はその後に名乗った諱である。永禄3年(1560年)頃に家督を継ぐ。この頃の関東は足利藤氏(古河公方足利晴氏嫡男)を擁し、上杉憲政より関東管領を受け継いだ上杉謙信と足利義氏(藤氏の異母弟・生母は北条氏康の異母妹)を擁する北条氏康の二大勢力の狭間にあった。秀綱は永禄4年(1561年)上杉謙信による北条氏の小田原城攻撃に参加するが、永禄6年(1563年)には北条氏に内応。その翌年に居城の祇園城を謙信に攻められて降伏。更にその翌年には再度北条氏に通じるなど、小山氏の存続のために両陣営を度々移り変わった。このため、早くから北条氏側についていた弟の結城晴朝と度々争っていたという。天正3年(1575年)に居城の祇園城を北条氏照に攻められたが、籠城してこれをしのいでいる。このときすでに北条氏から離反していた晴朝や近隣の宇都宮広綱・佐竹義重の協力のもと、北条氏政に和議を申し入れたが断固として聞き入れられなかった(『小山市史』)。 翌天正4年(1576年)に再び攻め込まれると、祇園城を開城し、嫡子伊勢千代丸(後の政種)とともに佐竹義重のもとへ身を寄せた。その後、祇園城は北条氏の直轄領として北関東攻略の拠点となっている。その後、佐竹義重の協力の下、祇園城奪還を試みるものの、天正9年(1581年)には嫡子政種が戦死してしまうなど、思うようには進まなかった。天正10年(1582年)5月18日になると、織田信長の惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。そのため、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、北条方として参陣せざるを得ず、豊臣秀吉によって改易された。旧小山氏領は弟である晴朝に与えられ、秀綱は晴朝を頼ることとなり、庶長子の秀広は結城氏の重臣に迎えられた。だが、関ヶ原の戦い直後に秀広が病死したため、秀綱は結城氏の越前移封には従わずに隠退して程なく病死したという。これにより戦国大名としての小山氏は滅亡した(家督は秀広の子の秀恒が継いだ)。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%A7%80%E7%B6%B1
渋江政光 Shibue Masamitsu(1574年-1614年)小山氏、のち佐竹氏家臣。出羽久保田藩(秋田藩)の家老を務めて藩政改革を行った。通称は内膳。子に光久(庶長子、初め荒川光康といい、のちに宣光の後を継ぐ)、宣光、佐竹義章室。政光は元々下野国の小山秀綱家臣・荒川秀景(あらかわ ひでかげ)の子である。天正18年(1590年)に豊臣秀吉の小田原征伐の際に抵抗した小山氏は改易されて、政光も浪人となった。しかし、政光の才能を見込んだ佐竹氏家臣・人見藤道の推挙で佐竹義宣に仕え、20歳の時に佐竹家の重臣であった渋江氏を相続することになり、荒川弥五郎から渋江内膳政光に改名(「政」の字はこれ以前に小山秀綱の子・政種から1字を受けた可能性もある)。関ヶ原の戦い後、秋田に減転封された佐竹家では義宣が家中の改革を断行し、慶長8年(1603年)に政光は家老に抜擢された。だが、他家の旧臣である政光らの抜擢に譜代の家臣からの不満が高まり、遂には義宣と政光の暗殺を企てた家老川井忠遠らが逆に粛清されるという事件(川井事件)まで起こっている。この影響で政光の家老昇格は一旦見送られ、正式に家老に任じられたのは慶長12年(1607年)だった。政光は久保田城築城に際して梶原政景と共に縄張に従事。また検地制度の改革などを実施して、農業生産と藩財政の安定に尽力した。これを渋江田法(しぶえでんほう)と呼んで、他藩や江戸幕府も農業政策の参考にしたといわれている。慶長19年(1614年)、主君・義宣とともに大坂冬の陣に出陣し、今福において後藤基次・木村重成と激突した(今福の戦い)。この際、主君を守って奮戦した政光であったが、最後は流れ弾を受けて41歳の若さで戦死した。政光の死後は、義宣より1字を受けた嫡男の宣光(のぶみつ)が跡を継いだ。しかし宣光は嗣子なくして死去し、庶子のため跡目から外されていた長男(宣光の兄)の光久(みつひさ)がその跡を継いでいる。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E6%B1%9F%E6%94%BF%E5%85%89