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小寺政職

三木通秋 Miki Michiaki(1534年—1584年)天文3年(1534年)8月10日、三木通明(みちあき)の嫡男として英賀城内で誕生。天文13年(1544年)に元服して掃部助通秋を名乗り、三木氏の家督を相続し、英賀三木氏9代目の当主となる。永禄12年(1569年)に赤松義祐と室町幕府15代将軍・足利義昭や織田信長の支援を受けた赤松政秀が対立した際には義祐方に与し、政秀の侵攻を受け窮地に立たされていた小寺孝隆(黒田孝高)の救援に駆けつけて、共に政秀を破り逆転勝利に貢献した(土器山の戦い)。元亀元年(1570年)より始まった石山合戦では、領内に英賀御堂を始めとした本願寺門徒衆を多く抱え、自身も熱心な門徒であった事から顕如の檄文に呼応して挙兵し、兵430人を畿内に派遣し石山本願寺に3,000俵を送って支援をして織田氏への対立姿勢を露わにし、親織田に傾きつつあった赤松義祐や、小寺氏・別所氏ら播磨の周辺勢力とは疎遠になり始める。天正5年(1576年)に毛利輝元が本願寺支援を決めたことで毛利氏と同盟し、英賀に毛利家臣の浦宗勝の軍勢を上陸させて播磨きっての親織田派であった小寺孝隆を5,000の兵で攻撃したが、孝隆の奇策の前に敗退した(英賀合戦)。天正6年(1578年)になると小寺政職や別所長治などの播磨国衆が織田から毛利に転じたため、通秋は三木合戦の始まりを受けて海路を使って別所氏を積極的に支援し、援軍や兵糧を送っている。しかし、天正8年(1580年)1月に三木城が落城して別所長治が自害に追い込まれると、英賀城も織田軍の猛攻を受けて2月13日(4月26日とする書もある)には陥落。通秋は子の安明(やすあき)ら一族とともに命からがら英賀城から抜け出し、九州へと落ち延びた。しかし、天正10年(1582年)に羽柴秀吉に罪を許され英賀に戻り、かつてのような所領は失ったものの再び同地に居住して郷士頭となっている。天正11年(1583年)12月16日に死去。享年50。遺体は播磨の西徳寺に葬られた。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%80%9A%E7%A7%8B
小寺政職 Kodera Masamoto(1529年-1584年)享禄2年(1529年)、播磨御着城主・小寺則職の長男として誕生する。小寺氏は、赤松氏の分家にあたり、祖父・政隆(まさたか)の代までは姫路城を本拠としていた。天文12年(1543年)から塩田城主であった遠戚である小寺福職(とみもと)の補佐役として塩田城へ在城し、天文14年(1545年)父から御着城主を譲られる。小寺氏は代々、播磨国守護・赤松氏の重臣として仕え、赤松政村が「晴政」に改名した1540年から1541年ごろに元服してその偏諱(「政」の字)を受け、政職と名乗る。その後は幾たびかの小競り合いを制し、播州平野を中心として半独立勢力として割拠した。政職は外様家臣であった小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)の能力を認め、自らの従姪(櫛橋氏の娘・光)を娶らせるなど厚遇している。播磨に東から織田氏、西から毛利氏と大勢力が迫ってくると、当初は織田方に通じる龍野城主赤松政秀や三木城主別所安治・長治親子と敵対し、永禄12年(1569年)には青山・土器山の戦いで赤松軍と、天正元年(1573年)には増位山・有明山城で別所軍と戦っている。しかし後に小寺孝隆の進言を受けて織田信長への従属を決め、天正3年(1575年)に孝隆を岐阜に派遣し、同年のうちに自らも信長の元へ赤松氏・別所氏とともに挨拶に参上している。天正5年(1577年)には播磨沖に襲来した毛利軍を孝隆の奇策によって英賀合戦で打ち破った。これに前後して信長は播磨諸侯に人質の提出を命じたが、政職は子の氏職が病弱であったため、小寺孝隆の子・松寿丸(のちの黒田長政)を代わりに提出させたとされるが、真偽は不明。この頃から小寺孝隆は小寺家臣というより、信長によって派遣された羽柴秀吉の部将として活動することが多くなる。天正6年(1578年)に荒木村重が摂津有岡城で信長に謀反すると(有岡城の戦い)、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。当時は東播磨の一大勢力である三木城の別所長治が既に毛利方に寝返っていたが、天正7年(1579年)に有岡城が、天正8年(1580年)に三木城がそれぞれ織田軍の攻撃によって落城し、御着城も天正8年に落城。政職は英賀を経て毛利領の備後国鞆の浦のもとへ落ち延びたという。天正12年(1584年)5月に鞆で没した。妻は族兄にあたる小寺福職の娘で、永禄10年8月5日(1567年9月17日)に亡くなっている。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E6%94%BF%E8%81%B7
後藤基次 Goto Mototsugu(1560年-1615年)黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は又兵衞で、後藤 又兵衛(ごとう またべえ)として広く知られる。黒田如水、豊臣秀頼に仕え、数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四騎」「黒田八虎」「大坂城五人衆」の一人に数えられた。諸説あるが、『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に播磨国姫路近郊の神東郡山田村に生まれる。父は別所氏家臣で、後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門(基国?・後藤氏当主・伯父説あり)の次男として生まれた。天正6年(1578年)、黒田孝高が荒木村重によって有岡城に幽閉された際、黒田家家臣一同の誓紙への署名を又兵衛の伯父・藤岡九兵衛が拒否したため一族追放となり、仙石秀久に仕えることとなる。当時の記録に基次の具体的な足跡が現れるようになるのは、天正14年(1586年)、九州征伐の宇留津城攻めの頃からである。戸次川の戦いにおいて仙石秀久が島津家久に大敗し、領国の讃岐国に逃げ帰った後には、黒田孝高の重臣である栗山利安の与力となり、黒田家に100石で仕えている。領地替えを巡って徹底抗戦を行った城井氏との戦いでは、吉田長利と共に途中で黒田長政に退却を勧めるが聞き入れられずに敗北を喫し、天正15年(1587年)12月の長岩城攻めの際には瀕死の重傷を負った。文禄元年(1592年)から始まる朝鮮出兵にも従軍し、第二次晋州城攻防戦では亀甲車なる装甲車を作って城壁を突き崩し、加藤清正配下の森本一久らと一番乗りを競った。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは石田三成家臣の剛槍使い、大橋掃部を一騎討ちで破るなどの武功を挙げ、戦後大隈城(益富城)16,000石の所領を与えられた。如水(孝高の法号)の死から2年後の慶長11年(1606年)、基次は一族揃って黒田長政が後を継いだ黒田家を出奔する。当初は豊前国の細川忠興を頼ったが、元から関係がこじれていた両家(黒田家・細川家)が一触即発の状況となり、徳川家康などの仲裁により細川家を退去する。基次の智勇を惜しんで福島正則・前田利長・結城秀康などから召し出しがかかるが、長政により「奉公構」という措置がなされていたため実現しなかった。一旦故郷である播磨国に戻り、領主となっていた池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えた。しかし、「奉公構」の影響で慶長16年(1611年)より京都で浪人生活を送ることになる(浪人した時期は慶長18年(1613年)6月、池田輝政の死後とも)。慶長19年(1614年)、大坂の役が勃発すると、大野治長の誘いを受け、先駆けて大坂城に入城する。旗頭として天満の浦での閲兵式の指揮を任された際、その采配の見事さから「摩利支天の再来」と称される。徳川家康からは、基次と御宿政友のみが警戒される名望家であった。歴戦の将として大坂城五人衆の一人に数えられ、山川賢信、北川宣勝以下を与力として、大野治長・治房らを補佐した。冬の陣では6000人の遊軍を任され、鴫野・今福方面を木村重成と協力して守備し、上杉及び佐竹勢と相対した。翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦し賞賛された。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した。享年56。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1
櫛橋光 Kushihashi Teru(1553年-1615年)櫛橋伊定の娘。小寺政職の従姪であり養女。筑前福岡藩祖、黒田孝高(官兵衛・如水)の正室。兄に櫛橋政伊・櫛橋則政、姉に上月景貞室(妙寿尼)、妹に井上之房室がいる。院号は照福院(しょうふくいん)。雅号に幸圓(こうえん)がある。1567年(永禄10年)、小寺氏の家臣・黒田孝高に正妻として嫁いだ。孝高は側室を持つことはなく、1568年(永禄11年)に黒田長政、1582年(天正10年)に黒田熊之助を産んだ。織田信長の才能を高く評価していた夫・孝高は、主君の小寺政職に臣従を進言し、毛利氏攻めなどの先鋒を務める。ところが、1578年(天正6年)3月、播磨国の別所長治が殆どの周辺豪族を引き込んで信長に反旗を翻すと、志方城の兄・櫛橋政伊もこれに呼応して敵対した。しかし同年7月、志方城は織田信雄の兵に包囲され、出撃を数度繰り返すも被害は大きく、別所氏の神吉城が落とされると、同年8月10日に生家の櫛橋氏は降伏した。この降伏の際に志方城主は人質を出して兵士たちの助命を条件に自害したとされるが、父・伊定とも兄・政伊ともいわれており、また、他にも諸説あるため詳細は不明。なお、兄の子は許されて、後に黒田氏に仕えた。その後、夫・孝高は豊臣秀吉の腹心として活躍し、豊前国中津12万石の大名になると、光は他の大名家の妻子と同様に大坂に置かれた。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いが起こると、石田三成が大坂に残っている大名の妻子を人質にしようとしたが、細川ガラシャが拒否して玉造の屋敷に火を放った際に伴い監視が緩むと、孝高の家臣たち(栗山利安、母里友信、宮崎重昌)によって、光や長政室・栄姫は長柄の屋敷から救出され、孝高の居城の豊前国中津城まで船で脱出した。夫・孝高や息子・長政は受洗してキリシタンとなったが、光は熱心な浄土宗の信徒で、1604年(慶長9年)夫・孝高の死後に出家し、照福山顕光院圓應寺(後に火災で焼失)を建立した。黒田家では「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えていた)」と称えられた。また、京都において、浄土宗報土寺に塔頭、照福院を建立(その後、報土寺が寺地を移転により本寺に統合されたが、墓所は現在に残る)しており、夫・孝高や豊臣秀吉も同寺を訪れたと過去帳に記載がある。本人の肖像画も伝来し、現在は京都国立博物館に寄託されている。1627年(寛永4年)、筑前国福岡において死去(卒年75)。戒名は照福院殿然誉浩栄大尼公。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AB%9B%E6%A9%8B%E5%85%89
浦上宗景 Uragami Munekage(生年不明-卒年不明)享祿四年(1531年)、父親浦上村宗在攝津國與細川晴元聯合軍,於天王寺一戰中戰死,後兄長浦上政宗以年幼之身繼承了家督之位。但在天文二十年(1551年)、尼子晴久入侵備前國之時,宗景與政宗在對策上有了意見的分歧。此後,兩兄弟各擁山頭,形成兩大權力集團;宗景團結了國中同樣暴露在尼子氏威脅下的國人眾勢力,與傾向尼子氏的哥哥完全對立而分裂了浦上氏。天文二十三年(1554年)、宗景在天神山城揚旗,並與毛利元就同盟,以對抗和尼子氏站在同一陣線的政宗。宗景在毛利本隊及從屬於毛利氏的備中國大名三村家親親率的「備中眾」等援軍的幫助下,紛紛在各地擊破政宗、尼子聯合軍隊。永祿三年(1560年)左右、將兄長浦上政宗的勢力從備前國東部驅逐出去,完全掌握了備前國的支配權。但是,和備中國的三村氏相同,在這個時期充其量只是處在毛利氏庇護下的弱小大名,而且內政上也受到毛利氏的介入,很難說是完全掌握權力的戰國大名。此外,三村氏也開始將勢力伸進美作國,兩家因而產生嫌隙。而政宗的勢力雖然已經大幅削弱,但仍存在於備前國,因此宗景的敵人還是很多。永祿六年(1563年)5月左右、和政宗和談、斷絕後顧之憂的宗景,和三村家親發生戰爭。同年12月前宣布和毛利氏斷交,開始步上戰國大名之路。翌年,永祿七年(1564年)、發生政宗和其嫡男清宗為赤松政秀殺害的事件,繼承家業的政宗次子浦上誠宗對此事並未採取任何動作,宗景得以專心和三村氏作戰。經過明禪寺之戰等勝利,終於在永祿十年(1567年)時,成功將三村、毛利氏的勢力驅逐出備前國;同年,浦上氏分家的當主.誠宗也遭其暗殺。翌年,永祿十一年(1568年)、剿滅備前國中為數不多的國人眾松田氏,並將版圖擴展到除瀨戶內海的兒島外,領有備前國全域及美作國東南部,確定了浦上氏在戰國時代的地位。可是,在此之前的戰爭中立下顯赫戰功的宇喜多直家及其家臣岡氏、長船氏等人,已經成為有獨立傾向的強大勢力。對宗景本身可以說是「在軍事上有著從屬關係的盟友」的勢力,很難說是像大名和家臣那樣的主從關係。因此,宗景在直家領內如水運等重要據點設下很多直轄地、並派官員管理,來限制直家的統治權。此外,浦上氏雖然將勢力擴展到美作國,但直家的封地卻始終限制在西備前國外圍的程度,而美作國仍然交與沼本氏和菅納氏等在地的國人眾治理。在現今、傳聞直家當時已凌駕於主家的論點是有誤的,就算以陪臣(家臣的家臣)水準的俸祿來比較,直家也並未逾矩。然而,直家獲得松田氏舊領的一部分,並在拉攏家臣團上有所建樹,對備前國的影響力也日益增加,這些都成為日後不利於宗景施政的要素。永祿十二年(1569年)、赤松義祐和赤松政秀失和。宗景和舊播磨國守護家的赤松義祐、赤松則房及播磨國有力領主小寺政職等人結盟;以出兵援助為名義,吸收了兄長政宗在播磨國的遺領;並為了討伐赤松政秀,率領「備作眾」攻進西播磨。此外,積極支援亟欲復興尼子氏的尼子勝久等反毛利勢力,並和九州的大友宗麟同盟,顯露和毛利氏對抗的態勢。但是,抵擋不住宗景猛攻的政秀,向同年中順利上洛的將軍足利義昭和織田信長請求援軍。8月到9月、宗景受到信長派遣的池田勝正、別所安治的攻擊;同時,私通信長的宇喜多直家也對宗景掀起反旗,令宗景陷入危境。不過,義昭、織田軍在攻下播磨國數城後很快就撤退了;反而是政秀被浦上軍打到節節敗退,困守在龍野城中。11月、政秀投降,將其領地都收歸在手。而直家眼見形勢不對,也在同年向宗景請罪,重新回歸家中。解除織田信長威脅的宗景,在翌年的元龜元年(1570年)、入侵備中國南部。此外,派遣援軍前往出雲國幫助尼子勝久;另一方面,還派出分隊向東支援赤松則房,攻擊別所長治的三木城(別所安治於此年過世),在軍事行動上非常活躍。元龜二年(1571年)、經由締結同盟的三好氏篠原長房的協助下,在備前國兒島戰勝毛利軍。同年秋天以後,又在備中國的佐井田城、松島城等地擊退毛利、三村軍隊。但在元龜三年(1572年)、毛利氏和大友宗麟在北九州的競爭暫時告一段落,毛利軍集結東進而來;宗景向足利義昭、織田信長請求調停,謀求和毛利氏的和睦。最初、毛利輝元不肯答應和議;但在同年10月、毛利氏和浦上氏終於締結和約,雙方歸還城池。天正元年(1573年)12月、在信長的斡旋下,與別所長治達成和解;宗景也從信長手中取得備前、播磨、美作三國的朱印狀而被認可擁有上述三國的支配權。於是,宗景得到相當於以前守護的地位,浦上氏的勢力也凌駕於舊主赤松氏之上;浦上氏在宗景一代,其強盛達到了頂點。然而,根據此朱印狀,原先不屬於浦上氏的東播磨領主小寺、別所等人、也形同浦上氏的家臣,這個情形也招來了反感。注意到這點的直家,暗中向小寺政職探詢,意圖將浦上政宗之孫久松丸帶往備前。在得到政職的承諾後,久松丸被秘密送進了岡山城。翌年,天正二年(1574年)3月、擁立久松丸的直家再度反叛,宗景的直屬部隊「天神山眾」在備前、美作國各地和宇喜多軍戰鬥。之後宗景也即刻展開外交戰,和備中的三村元親、美作的三浦貞廣等人結盟。此外,也向大友宗麟、三好長治請求援軍,但兩家有各自的敵人要應付而無暇相助。和前次的謀反不同,因為有久松丸的存在、直家在事前施展謀略將沼田氏、菅納氏等美作國人眾及宗景麾下諸將相繼策反,使得宗景陷入苦戰。而且,旁觀的毛利輝元無視於織田信長讓兩家和解的要求,更因為三村氏的反叛,決定支持宇喜多氏打倒浦上氏。天正三年(1575年)6月、毛利軍攻下備中松山城後,三村元親切腹自殺。在經過名為「備中兵亂」的一連串戰事後終於平定三村氏,毛利氏也全力支持直家而將宗景打到走投無路。接著家中重臣明石景親等人也遭到策反。同年9月、從天神山城宇喜多軍的重重包圍中成功逃離。之後,宗景得到信長派遣的荒木村重支援,奪回了宇喜多端城(所在地不明),之後就以此為居城。遭驅逐出天神山城的宗景,家臣並未全部投向直家。宗景以播磨為據點,和坪井氏、馬場氏等舊浦上家臣暗中取得聯繫。他們與一族的浦上秀宗蟄伏在備前國內,等待再起的機會。為了實現復興的夢想,宗景到天正五年(1577年)前曾多次上京拜見信長,但卻得不到積極的支援。結果,得不到信長幫助的宗景只得獨力成事。天正六年(1578年)12月左右、潛伏在備前的秀宗、坪井、馬場等反宇喜多勢力、以幸島為據點紛紛起兵,宗景也率兵前來會合,浦上軍成功收復天神山城。可是在翌年的天正七年(1579年)4月、文獻中記載秀宗和坪井等人退往播磨,可以想見這期間的叛亂已經得到了鎮壓。因此,殘存在備前的浦上派勢力也遭一掃而空,重掌備前國的夢想終究無法達成。失去宇喜多端城的時間則不詳。關於宗景的晚年並未留下確實的史料,死亡的年代並不明確。『天神山記』中相傳曾應黑田長政邀請前往築前國,於此地出家並在七十~八十多歲時病逝。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%AE%97%E6%99%AF
糟屋武則 Kasuya Takenorie(1562年-卒年不詳)糟屋朝貞的次子、母為小寺政職之妹;幼名正之助,別姓糟谷、粕屋,別名宗重、宗孝、真安、真雄、數正、助右衛門武則。依照「寬政重修諸家譜」的記載糟屋氏乃是出於藤原北家的良方流,武藏七黨中的橫山黨並且以相模大住郡糟屋莊為封地。在室町時代糟屋氏成為了播磨守護代別所氏的家臣。在秀吉侵入播磨的時候,擔當家督的哥哥朝正跟隨主家別所氏守衛三木城,而武則做為居城加古川城主負責家中事務。在眼見三木城在羽柴軍密不透風地包圍下必絕無生機的情形,為了延續家名武則毅然決定背棄自己的兄長朝正,透過黑田孝高於天正五年(1577年)改仕織田家,成為秀吉陣下的旗本。天正十年(1582年)六月,在明智光秀掀起的本能寺之變中織田信長身故。翌年,秀吉為了爭奪信長所留下的霸權,和織田家元老柴田勝家在近江賤岳展開一場大戰,當時秀吉故意以織田信孝反叛的理由帶著大軍離開大本營木之本,待柴田軍先鋒佐久間盛政發動突擊後,再由大垣急速回援,重新回到賤岳戰場的秀吉為了提振士氣,連身邊的侍童勤務兵也投入沙場以鼓勵麾下將士建立武勳。糟屋武則把握著這千載難得一逢的佳機,與福島正則、加藤清正、加藤嘉明、肋阪安治等一同出戰,武則於烏打阪南方遇見佐久間軍的將領宿屋七左衛門並將他討取,立下戰功,戰後得到播州賀古郡內二千石、河州河內郡內一千石合計三千石的知行,名列「賤岳七本槍」之一。此後,參與小牧、長久手之戰、九州平定、小田原征伐等戰事,武則做為秀吉本陣的後備直屬部隊出陣,並且於天正十四年(1586年)擔當方廣寺大殿的工事。因積功於同年受到秀吉的推舉,官拜從五位下內膳正。後在天正十九年(1591年)時協助增田長盛負責丈量檢地的任務,並參加朝鮮之戰,於文祿二年(1593年)攻擊普州城立下戰功,得到加古川一萬二千石的封賞,改名宗孝。秀吉死後,糟屋武則在關原之戰中投身西軍,率領三百六十人出戰,曾經加入攻打伏見城,戰後失去領地。直到慶長七年(1602年),才又被招出成為五百石知行的幕臣。出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/61339436/
豐臣秀吉 Toyotomi Hideyoshi(1537年-1598年)木下彌右衛門之子,母為阿仲(大政所),繼父竹阿彌,猶父近衛前久,正室為淺野長勝養女.寧寧(高台院),側室為淺井長政長女.茶茶(淀殿)、成田氏長之女.甲斐姬;幼名日吉丸,初名藤吉郎,後改名秀吉,取丹羽長秀和柴田勝家各一字,改姓羽柴;認近衛前久為猶父,以其本家藤原氏為姓、後受天皇賜姓豐臣;別名元吉,綽號猴子。由於秀吉的出身並非顯貴,有關於他早期的文獻記載十分有限,僅大概知道他少年時曾在尾張、三河、駿河等地方活動,父親曾在尾張地方國人眾蜂須賀氏(蜂須賀正利)麾下當雇傭性質的雜兵,修理兵器鍛造,七歲喪父造,八歲母改嫁。入光明寺當小沙彌(被喚為禿鼠的原因),曾經在遠江國引馬城支城頭陀寺城成為松下之綱的部下,『太閤記』記載秀吉元服時由松下之綱為烏帽子親並命名中村秀吉,但離開原因不明。後從遠房姨媽伊都父親清兵衛的鍛冶屋拿針販賣。天文二十三年(1554年)以小者的身分成為了織田信長的家僕,被信長喚為猿或禿鼠(禿げ鼠),地位在足輕與「中間」之下,作為小者中的「草履取」的等級,若隨信長上陣,「中間」可以持脅差或木刀,小者只能幫主公提武具或充當「人夫」。後來因幫信長拿草鞋時將草鞋放進懷裡暖鞋獲得信長的歡心。天文二十四年(1555年)陪同信長側室生駒吉乃回娘家小折城的生駒屋敷,經吉乃介紹認識生駒氏親戚蜂須賀正勝與川並眾。永祿四年(1561年)與淺野長勝的養女.寧寧結婚,從妻姓,更名為木下秀吉。永祿十三年(1570年)信長準備進攻朝倉義景的中途,在金崎遭到盟友淺井長政攻擊背後,此戰秀吉為殿後軍一員,保護信長安全撤離(金崎之戰)。元龜元年(1570年)姊川之役後,秀吉擔任此役奪取的近江國橫山城城代,並以此領地可動員的兵力一千人及在地情報,天正元年(1573年)在小谷城之戰從防禦土壘最矮(約一米五)的中段京極丸,切斷淺井父子倆的防守區域,因此信長擊敗了淺井長政,長政自盡,淺井的舊屬歸織田家所有,以此功秀吉支配(領有一小部分600貫約2400石-3000石)北近江三郡十二萬石成為城主,將根據地移至近江國今濱城,利用小谷城的土石建材增建今濱城後易名為長濱城。後賜苗字「羽柴」。他同時也招募家臣,在封為城主前他底下的家臣就是蜂須賀正勝(與力)、重治(寄騎小姓)、前野長康(小六若黨),尚未元服的福島正則、加藤清正,一門眾的淺野長政、羽柴秀長。而大谷吉繼、石田三成等家臣,皆是出身於近江地侍小姓,增田長盛則出身尾張國中島郡增田村,原為信長家臣後改寄騎羽柴秀吉。天正四年(1576年)支援北陸柴田勝家對抗上杉軍,秀吉因為和勝家戰略上意見不一而擅自撤離,結果勝家在手取川之戰中大敗,使勝家和信長有所不滿。在織田信忠的指揮下,秀吉參與攻擊松永久秀的戰鬥。天正五年(1577年)赤松則房、別所長治、小寺政職臣從信長之下,秀吉受命攻略中國地方,任播磨國國主,根據城為姬路城,受命後不久別所長治及荒木村重背叛織田信長,秀吉討伐,天正七年(1579年)使宇喜多氏完全臣服於織田氏,天正八年(1580年)別所長治和荒木村重戰敗,別所被捕,切腹自盡;荒木逃離,全家被信長誅殺。秀吉開始與毛利氏及山名氏交戰,攻下了鳥取城、三木城、高松城等重要據點,秀吉在此發揮了長時間包圍戰城池戰法——斷糧(干殺し),使敵軍提早開城投降。天正十年(1582年)明智光秀於支援秀吉出兵毛利氏途中,發動背叛兵變,攻佔京都並夜襲投宿在本能寺的織田信長,是為本能寺之變,信長焚毀本能寺,屍骨無獲,其長子織田信忠於二條御所戰敗後切腹自盡。當時羽柴秀吉正親自率兵包圍備中國的高松城。由於黑田官兵衛(黑田孝高)用計水攻高松城,而使光秀向毛利氏報信的信使隔天在被水包圍的城下被羽柴軍所抓,所以秀吉在事變隔天便得知消息。秀吉向毛利氏隱瞞信長身亡的消息,透過毛利家外交僧安國寺惠瓊與城主清水宗治斡旋。之後,在毛利氏大老小早川隆景主導下,他迅速與毛利氏議和,並率兵在五日內「強行軍」約200公里返京,並隨即與明智軍展開決戰,這次行軍史稱「中國大撤退(中國大返し)」,行動之迅速大大震撼了京師的明智軍。回師之時,秀吉以信長之名為號召,成功收納流竄在各地的信長舊屬,於山崎之戰,大敗準備不及的明智光秀,最終明智光秀逃走時被獵殺落難武士的村民殺死,秀吉乘機控制京都一帶,不過無法阻止織田氏內部出現派系分裂。主要分裂為柴田勝家、織田信雄、織田信孝以及羽柴秀吉等派系。秀吉在清洲城重臣在清洲會議上得到多數織田族人與家臣支持,擁立尚在襁褓的織田信忠長男三法師(織田秀信)繼任家督。但為此得罪了同屬織田重臣的柴田勝家,導致其擁立信長三子織田信孝對抗秀吉。隔年,雙方決裂,秀吉先迫使信孝投降,後來羽柴與柴田軍在賤岳決戰,最初勝家佔盡優勢,中川清秀遭到突擊陣亡,但是秀吉率兵衝上前線使形勢急變,最終秀吉取得勝利。隨著羽柴軍包圍北之庄城,勝家與妻子阿市自殺,此外織田家另一重臣瀧川一益則被迫蟄居,織田信孝不久被殺,丹羽長秀和池田恆興歸服,大致上平定了織田家內反秀吉勢力。天正十一年(1583年),秀吉在石山本願寺的舊址上建大阪城,當時到訪的大友宗麟將它稱為「戰國無雙的城」,但城堡在防禦上亦有缺點,在大阪冬之陣中,真田信繁進行了修築加強防禦。天正十二年(1584年),原先與秀吉合作的信長次子織田信雄聯合德川家康反對秀吉,羽柴軍便與兩人展開史稱小牧.長久手之戰的戰事。此戰之初擁有兵力優勢的羽柴軍直撲德川領地,但途中卻遭到德川軍伏擊,有「鬼武藏」之稱的大將森長可與池田恆興戰死,秀吉其後撤兵,改為攻擊美濃國織田信雄,信雄投降,迫使雙方談和,德川軍與羽柴軍達成和戰協議。天正十三年(1585年),秀吉派遣秀長、小早川隆景等將領攻打剛統一四國的長宗我部氏,利用兵力的差距迫使其歸降並減封至只剩土佐一國。此外秀吉派遣藤堂高虎為首的部隊,平定了雜賀眾,首領鈴木重意被斬首處死。此外,秀吉派重兵攻打越中國佐佐成政,開戰派大軍包圍,成政不戰而降。秀吉原本覬覦征夷大將軍一職,不過流浪的前將軍足利義昭拒絕以秀吉為猶子,不入源氏籍,便無法成為將軍。於是秀吉轉目標為關白(需入攝家),當任的關白二條昭實也拒絕了秀吉要求。天正十三年(1585年)秀吉找上公家的前關白近衛前久幫忙,讓近衛前久認自己為猶子(以本家藤原氏為姓),迫二條昭實讓位,就任關白。天正十四年(1586年),為了攏絡德川家康使其成為自己的助力,秀吉將其妹旭姬(四十二歲)嫁與德川家康(四十三歲),並為家康正室,甚至將自己的母親大政所送回家康身邊成為人質,德川家康此後臣從秀吉。同年,受天皇賜姓豐臣並就任太政大臣(平民出身者第一人),確立了政權。天正十四年(1586年),九州大名大友宗麟向秀吉請求支援,天正十五年(1587年)派遣秀長率領大軍攻擊島津氏的支城,使義久投降,戰後島津氏被分配到薩摩、大隅、日向三國。平定九州後遷入聚樂第,同年十月於北野天滿宮舉辦北野大茶會,邀請農民與公卿貴族,據說兒時玩伴石川五右衛門也有參加。天正十六年(1588年)秀吉開始實行刀狩令,加強了兵農分離的政策。天正十五年(1587年),禁止基督教。天正十七年(1589年)北條氏的家臣豬俁邦憲奪取了真田昌幸管轄下名胡桃城,導致秀吉下令全日本大名討伐北條氏,不服從者將會受到失去領土的處分。次年3月1日秀吉率20萬大軍向北條氏攻擊,攻陷北條各個支城下逐漸向小田原城包圍,7月北條氏政、氏直父子開城投降。氏政、氏照兩兄弟切腹自盡,氏直被流放到高野山,戰後秀吉為各大名分封新的領土。天正十九年(1591年)奧州大名「獨眼龍」伊達政宗自動來請降,日本三島(本州、四國、九州)到此統一。天正十九年(1591年),將關白之位讓給外甥豐臣秀次,自稱太閤。天正十九年(1591年)秀吉進行他人生中最後一場日本國內戰爭,派遣了蒲生氏鄉、淺野長政及石田三成聯同東北地方大名平定九戶政實之亂。同年,秀吉命令茶人千利休切腹自盡,詳細原因不明。一說是利休於寺廟擺設自己的雕像激怒到秀吉;另有一說是由於利休過於向秀吉進諫(例如反對秀吉意欲向大明出兵)以致。文祿元年(1592年)秀吉率兵20萬侵略朝鮮,史稱「文祿之役」(朝鮮方面稱為壬辰倭亂)。兵員以西日本諸大名為主。戰爭初期,久經沙場的日軍攻勢猛烈、勢如破竹,以極快的速度先後攻佔朝鮮王京漢城與陪都平壤,並迅速攻佔朝鮮境內大量主要城市,直趨明朝邊境。朝鮮宣祖馬上向明朝求救。秀吉於5月攻佔漢城後便研議要遷都北京,將北京周圍10「國」之地獻為御用,賜公卿以俸祿,賜其部下以10倍於原有的領地,甚至命豐臣秀次為大唐(中國)關白,日本關白由羽柴秀秋或宇喜多秀家擔任,朝鮮則交給羽柴秀勝或宇喜多秀家統治。明神宗派遣遼東總兵李如松率兵入援朝鮮。在明軍(約5萬)和朝鮮三道水師提督李舜臣等的反擊下,日軍攻勢遇阻。終於在文祿二年(1593年)日軍因遭逢損失,秀吉遂被迫與明朝和談。其實日方代表小西行長出身商人家庭,精於商業謀略,偽造秀吉降表與明朝議和,而明方使者沈惟敬本是市井無賴,就稱秀吉的目的是要求恢復雙邊貿易。雙方於是締結和約,日軍就此暫退釜山。文祿四年(1595年),秀吉將豐臣秀次流放到高野山,然後將秀次處死,其過程嚴酷出乎人們意料,秀次的一家連同侍女和孩子39人都被砍頭,之後屍首被拋荒不得埋葬。此外亦令秀次支持者切腹,包括前野長康等人。賜死的原因可能是當時輿論流傳著「殺生關白」(豐臣秀次的綽號)過去所發生的亂行,加上秀吉打算以年幼的次男秀賴作為家中的繼承人,因此秀次就成了眼中釘。文祿五年(1596年)九月,秀吉歡喜地迎接明朝使者,明、朝議和使來日,秀吉宴饗之。然宣讀國書,始知議和實為冊封,大明欲封秀吉為日本國王。秀吉方覺受騙,大怒道:「吾掌握日本,欲王則王,何待髯虜之封!且吾而為王,何以對天皇!」,並欲殺明朝使節,為旁人勸止,於是下令驅逐明朝使節。慶長二年(1597年)正月,秀吉再次遣兵入侵朝鮮,史稱「慶長之役」(朝鮮方面稱為「丁酉再亂」)。日軍盤據釜山,再進逼漢陽。然而明朝援軍(約8萬)加入戰鬥行列後,日軍攻勢再度受阻,被迫死守於海岸各倭城。慶長三年(1598年)8月18日,秀吉在伏見城突然逝世,年六十二歲。死前他亦已託付前田利家監視德川家康及輔佐豐臣秀賴。而入侵朝鮮半島的豐臣軍在接獲德川家康為首的五大老命令及以石田三成為首的五奉行安排下,向明朝隱瞞了秀吉的死訊,隨後與明朝議和並逐漸從朝鮮撤軍。可是這場戰役豐臣氏為首的軍隊損失巨大;大名元氣大傷,此役也埋下了德川家康日後成為征夷大將軍的一個重要伏因。而日本與朝鮮的關係,到慶長十二年(1607年)才恢復正常。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B0%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
赤松義祐 Akamatsu Yoshisuke(1537年-1576年)赤松晴政的長子、正室為細川晴元之女?;幼名道祖松丸、通稱次郎、受將軍足利義輝偏諱「義」字,名為義祐。天文二十三年(1554年),密通三好長慶,和安宅冬康一起攻擊正在播磨國明石城的細川晴元。成年後和父親晴政以連署體制共同執行政務。永祿元年(1558年)8月,在握有家中實權的浦上政宗擁立下,義祐將父親流放,繼承家督之位而成為赤松氏的當主。遭到流放的晴政前往投靠女婿赤松政秀,以龍野城為根據地和義祐對抗。此外,也一度和兒子則房失和,關係緊張到義祐不得不暫住到別所安治的三木城,不過沒多久兩人就和解,義祐也回到置鹽城。永祿七年(1564年),發生赤松政秀突襲浦上政宗長男.清宗和黑田職隆女兒的結婚典禮,殺死政宗和清宗父子的事件,家中的動亂仍然持續著。永祿八年(1565年),因為晴政的病故,使得政秀失去和本家繼續對立的理由而與義祐達成和解。之後,政秀為擴展勢力,獨斷發起軍事行動攻下利神城;還在永祿十年(1567年),和當時正在流浪的足利義昭私下接觸。另一方面,東播磨的有力領主別所安治也開始不受控制。在義祐統治下的赤松氏,已經逐漸失去駕馭周遭領主的力量。永祿十一年(1568年)9月,在織田信長的協助下,足利義昭就任征夷大將軍,成為室町幕府第15代將軍,赤松政秀也將自己的女兒送到將軍家當侍女服侍義昭。政秀這種無視於本家,擅自和將軍家加深交情的行為觸怒義祐,於是命令御著城主小寺政職前往京都綁架政秀的女兒,並以「無道之仁」的理由彈劾政秀;且催促備前國的浦上宗景發兵,欲聯手將政秀徹底打垮。收到請求的宗景,認為這是一個擴展勢力的好機會,率領備前、美作的國人眾進攻播磨國,威脅政秀的領地。翌年永祿十二年(1569年)2月,政秀女兒得到釋放到達京都,但宗景仍然持續猛攻政秀,難以抵擋的政秀只好向足利義昭請求援軍。得到救援請求的義昭,命令信長援助政秀。同年8月,以池田勝正為大將的攝津眾、加上別所安治的軍隊,攻進義祐的領地。同一時間,浦上軍因為宇喜多直家的謀反,不得不返回備前國;義祐和小寺聯軍不敵池田、別所聯軍,庄山、高砂城等相繼陷落。形勢一轉,義祐從攻擊方陷入窘境,困守在置鹽城中,忍受著池田、別所聯軍的攻擊。但是幸運的是,在當時三好氏等勢力仍然安在,織田氏還不能說是已經在畿內站穩腳步的階段;9月,信長將攝津眾召回畿內,別所安治也隨後退兵。之後,義祐立即和織田氏接觸,進行關係的修復;並命則房出兵,和攻擊龍野城的浦上軍相互對峙,以做為向織田氏臣屬的證明。另一方面,赤松政秀發兵攻打黑田職隆、黑田孝高父子的姬路城,但卻在青山、土器山之戰(永祿十二年(1569年)5月至6月)慘敗。之後在浦上宗景的攻擊下,居城龍野城為浦上軍攻佔,政秀被囚禁並在翌年遭到暗殺。而在掀起反旗的宇喜多直家重新歸順浦上氏後,這一連串的動亂終於平息,義祐也脫離困境。宗景以救援義祐為名義,出兵攻打龍野城,而與之對峙的則房卻無戰意。11月,池田勝正、和田惟政、伊丹忠親等人急援政秀,但在同月中政秀投降浦上氏,援軍幾乎未曾交戰就又返回畿內;而則房也在浦上軍離開播磨國後,回到置鹽城。翌年元龜元年(1570年),義祐將家督之位讓與兒子赤松則房。在隱居6年後,天正四年(1576年)過世,年40歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E7%A5%90
黑田孝高 Kuroda Yoshitaka(1546年-1604年)黑田職隆的長子、母為明石正風之女(小寺政職養女)、正室為櫛橋伊定之女・光;幼名萬吉、通稱官兵衛、別名小寺祐隆、小寺孝隆,號如水軒、 法名如水圓清。永祿五年(1562年)成為小寺政職的近習。同年初次上陣,與父親黑田職隆一同征伐國人眾。永祿七年(1564年)嫁到浦上清宗的妹妹在婚禮當日被赤松政秀攻打,丈夫被絞死。永祿十年(1567年)時,孝高繼承父親職隆的家督和家老職,迎娶小寺政職的姪兒櫛橋伊定的女兒光(てる)為正室,任命為姬路城代。永祿十二年(1569年),赤松政秀得到擁戴足利義昭的織田信長麾下的池田勝正、別所安治、宇喜多直家等人支援,率領3,000兵攻打姬路城,但孝高施展突襲等戰術,僅以300兵擊退三木通秋援軍,是為青山・土器山之戰)。政秀投降於浦上宗景。天正元年(1573年)小寺氏等播磨的大名,被討伐淺井長政、流放幕府將軍足利義昭,成功在近畿擴張勢力的織田信長、以及取得山陰山陽的毛利輝元2大勢力夾於其中(浦上宗景投靠信長、宇喜多直家則投靠輝元。)。天正三年(1575年),孝高由於其才能得到信長賞識,被主君・小寺政職勸說投往在長篠之戰中大破武田勝賴的織田氏。同年7月,在羽柴秀吉的安排下到岐阜城謁見信長。而政職亦與赤松廣秀、別所長治等人一同前往京都謁見。另一方面,同年9月、宗景敗於投靠毛利氏的直家。天正四年(1576年),迎接了流放中的將軍・足利義昭的毛利氏,派遣水軍大將小早川隆景麾下的浦宗勝,以5.000兵從毛利同盟的三木通秋轄下的英賀上陸,進軍播磨,但孝高僅以500兵擊退毛利・三木軍(英賀合戰)。此役後,孝高將長子松壽丸(黑田長政)送往信長當人質。天正五年(1577年)秋、信長在信貴山城之戰中討伐松永久秀後,羽柴秀吉進駐播磨。孝高讓一族移到父親隱居的飾東郡國府山城甲山,把居城的姬路城提供予秀吉,自己則住在二之丸,以參謀的身份活躍。其後跟從羽柴秀長攻打太田垣景近管轄的竹田城(但馬國),與蜂須賀正勝一同參與。在豐臣秀吉麾下,他以智謀出眾而與竹中半兵衛(竹中重治)併稱秀吉家的兩衛。天正十四年(1586年)朝廷賜與從五位下堪解由次官,參與了豐臣秀吉的九州攻伐,在對島津的戰爭中取得勝利有著極大的貢獻。翌年秀吉統一九州。戰後,被賜與豐前國中津城12萬5千石。當時國人勢力城井鎮房.野中鎮兼一揆勢力興起,孝高給與個各擊破,天正十六年(1588年)為了領內的安定,暗殺了城井。高山重友(高山右近)比孝高還早接受基督教洗禮,由於天正十五年(1587年)7月豐臣秀吉頒布禁教令,高山右近因反抗被流放,後來孝高首先宣佈棄教令,這時身為秀吉近側的孝高以身作則,使得基督教與宣教師得以傳播信仰,對當時的諸侯產生衝擊。可由當時路易斯·弗洛伊斯留下的書簡殘篇可知。天正十七年(1589年)將家督讓與黑田長政而退隱,以如水軒行名,仍在豐臣秀吉身旁活躍,隔年,對北條小田原征伐,在協調終戰過程有很大的功勞,於是賜與日光一文字(原氏直所有,現為國寶,福岡市博物館所藏)。文祿二年(1593年),秀吉對朝鮮出兵(文祿.慶長之役),與五奉行之一的石田三成產生爭執,惹怒秀吉,以如水圓清之號出家,隱退,將家督位讓於兒子黑田長政。慶長五年(1600年)豐臣秀吉逝世,五大老之一德川家康向東討伐會津上杉景勝,三成卻於關原帶領西軍舉兵。其子長政屬於東軍正於關原作戰,本人在九州募兵,擊破得到毛利家支援企圖恢復舊領的大友義統。此時,孝高的行動有促成九州統一的趨勢,並認為上洛與取得天下不是難事而燃起野心。不過當關原戰役在一天內決定大勢後,野心霎時頓挫。晚年過著隱居生活不過問政治,慶長九年(1604年)病逝於京都伏見藩邸,年五十九歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%91%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
黑田長政 Kuroda Nagamasa(1568年-1623年)黑田孝高的長子,母為櫛橋伊定之女・照福院、正室為蜂須賀正勝之女(豐臣秀吉養女)・寶珠院、繼室為保科正直之女(德川家康養女)・大涼院;幼名松壽丸,通稱吉兵衛,法名興雲院殿古心道卜大居士。天正三年(1575年),父親孝高由於其才能得到織田信長賞識,被主君小寺政職勸說投往織田氏。天正五年(1577年),孝高將嫡子長政作為人質送往織田家,後來在信長的安排下被送到羽柴秀吉的居城長濱城擔任侍童。之後向林信勝(林羅山)學習孔孟之學,與父親學習兵法韜略。天正六年(1578年),由於父親孝高前往勸說背叛的荒木村重回歸織田家時遭到軟禁於伊丹城,村重對外放話說孝高已然投降,信長下令殺掉孝高留在織田家的人質長政。所幸羽柴秀吉與另一名軍師重治皆不相信黑田孝高倒戈,因此背著信長由重治安排,讓竹中家臣喜多村十助將長政藏匿的竹中氏的領地美濃菩提山城。天正十年(1582年),長政元服,在十四歲時攻打播州三木城初次上陣,開始隨秀吉轉戰四方,因戰功受封河內四百五十石,在本能寺之變後,秀吉成為爭奪天下霸權的要角,清州會議後秀吉先是在賤岳之戰擊敗同是織田家中的競爭者柴田勝家,不料正因為秀吉的大出風頭引來得到三弟信孝遺領美濃成為尾張、美濃、伊勢三國大領主的織田信雄的疑慮,他決定聯同父親的義弟德川家康一同對抗秀吉。小牧長久手之戰的爆發使秀吉頭痛不已,因為家康不比柴田勝家,他十分精通外交手段為對抗秀吉他聯合許多外圍大名一同夾擊,而此時長政擔任防備紀伊根來寺僧兵的任務,此戰過後長政因此功加封兩千石。此時九州的戰火由南方的薩摩島津家向北燒去,首當其衝的龍造寺家在島津兄弟的猛攻下連吃敗仗,家主龍造寺隆信亦戰死於該役,隨後便與雄據北九州的霸主大友家展開攻勢,很快島津家便在耳川之戰中挫敗為回復伊東氏舊有領地出兵日向的大友家,當島津家開始攻略築前後,大友家的當主宗麟為延續家名而向秀吉求援,秀吉的第一波援軍在戶次川之戰戰敗後,秀吉發出各國在隔年3月出陣的命令,三月二十五日先到的豐臣秀長率領黑田、蜂須賀、大友、毛利、小早川、宇喜多各軍進軍豐後、日向。當時長政與父親孝高一起隨秀長軍出征,在進攻日向財部城時長宗我部水軍從海上攻擊,當財部城的島津軍出城反擊,長政針對此一情勢提案在敵軍通路設下埋伏,並自告奮勇擔任指揮,與母裡太兵衛、栗山大助出兵奮戰立下功勳。在島津家終究臣服於秀吉大軍後,長政與父親一同拜領豐前六郡十二萬石中津成主。天正十七年(1589年),父親孝高遁入空門,法名如水,長政成為豐前中津黑田家的當主。文祿元年(1592年),秀吉對朝鮮發動侵略戰,是役中長政擔任第三陣,率五千五百日軍渡海,在四月十七日於朝鮮釜山浦登陸進軍朝鮮南海道,在日軍會師漢城後,長政擔當漢城西北的黃海道地區,七月初,長政領軍占領清州。然而隨著明朝的介入,使朝鮮的戰況開始逆轉,先是小西行長於平壤大敗,日軍後援大友義統被嚇走,遂由長政出兵接應救回小西行長,旋即明軍主將李如松連續收復黃海、平安、京畿、江源、鹹境等五道,長政和小早川隆景所鎮守的朝鮮五都之一的開城也被攻下,後在漢城長政隨小早川隆景將明軍查大受部包圍在碧蹄館擊破才扳回一成,之後兩軍一度和談。在和談破滅後,於慶長二年(1597年),再度開戰,秀吉以以宇喜多秀家為主將,小西行長為先鋒,率軍四萬九千,沿宜甯、晉州一線,向全羅道挺進。右路軍以毛利輝元為主將,以加藤清正、長政為先鋒,率軍六萬四千,沿密陽、大丘一線,向全羅道挺進。同年九月,明軍副總兵解生等率軍兩千,奔赴稷山北部,與長政、伊達政宗發生遭遇戰,長政被明軍後援楊登山所敗,退守稷山。由於自戰初日軍海上的補給線全為朝鮮名將李舜臣所斷,導致日軍人心惶惶,一路上為補給殺伐不斷,尤其長政與加藤清正等武功派特別嚴重,也因此惹起民怨導致各地朝鮮民軍接連起義,令日軍的陸上補給線亦危如累卵,其時擔當日軍軍監的石田三成多次告誡,加上在戰功的上稟時三成因不滿武功派有移花接木之舉,成為日後文武兩派失和的導火線。外有明軍攻來,內有朝鮮人民起義,日軍決定南撤至沿海一帶,小西行長退守順天、加藤清正退往蔚山、長政退往梁山、島津義弘退守泅川。十二月,鎮於蔚山的加藤清正遭到四萬中朝聯軍攻打,最後長政和小西行長、淺野幸長、島津義弘來援方打退敵軍。慶長三年(1598年)四月,長政與加藤清正被召回日本,長政因功加封播磨二郡,石高達十八萬一千九百石。但是日軍在朝鮮的整體戰況終因為明、朝聯軍的奮戰以失敗告終,同年八月,這場戰爭的始作俑者豐臣秀吉病故後,宣告落幕。因為征朝時的功勳之爭,屬於武功派的長政與石田三成不睦,所以在秀吉死後,長政與德川家康接近,甚至與自己原來的正室蜂須賀正勝之女離異,改娶德川家康的養女。慶長四年(1599年)閏三月三日,一向在豐臣家內部起調解作用的五大老次席前田利家在大阪公館病逝。利家死後的第三天夜裡,長政和加藤清正、福鳥正則、細川忠興、加藤嘉明、淺野幸長以及池田輝政等七人發動政變,企圖誅殺石田三成,石田三成心知德川家康還要利用他引起豐臣家內鬥於是逃入他的府邸避過一劫。之後上杉景勝率先以五大老的身份向違反秀吉遺命的家康宣戰,清楚了解三成布置的長政跟隨家康參加對上杉景勝的會津合戰,並在石田三成起兵攻打伏見城的消息傳來後,在小山軍議上長政和德永壽昌以「治部少之舉兵,不過乃假藉豐家之名,實為其奪取天下的幌子。」為由說服秀吉自小一手帶大的福島正則等諸侯,達成使以福島正則的武功派支持德川家康的重要使命。並旋即參加東軍的先鋒東上會師清州城,其後隨福島正則與細川忠興經木曾川下游攻打竹鼻城、岐阜城。參與各場會戰的同時,長政也作為家康的代理人進行對小早川秀秋、吉川廣家等西軍將領的策反,為日後東軍的勝利奠下遠因。關原的決戰中,長政率五千四百兵馬在伊吹山脈南面的丸山佈陣,與石田三成部隊對峙。在戰事全面展開後長政率黑田軍作為家康軍的右翼,和細川忠興、加藤嘉明、田中吉政、筒井定次及生駒一正等圍攻石田三成軍,由於石田軍先鋒島左近的驍勇,讓東軍的六支部隊一時受挫,長政眼見正面進攻之困難,遂遣家臣菅正利領洋槍隊射擊島左近隊,成功射傷島左近,島左近負傷後就此下落不明,替東軍的獲勝作出貢獻。戰後,長政因功受封築前五十三萬三千石領地,身任名島城主。翌年,長政在那珂郡福崎築福岡城及建立城下町,並進行領內檢地、治水、法令的整備為後代的福岡藩打下基礎。慶長八年(1603年),長政敘任從四位下築前守。翌九年,父親孝高辭世。在外樣大名中長政對德川家政權建立的可說最大,姿勢也極為恭順,但是在慶長十九年(1614年)大阪冬之役時,由於長政終究是豐家舊臣,兼之大野治長等人放出的風聲,長政與同為豐臣家舊將的福島正則、加藤嘉明、平野長泰、谷衛友等人皆擔當江戶的留守居役。由長男忠之代理從軍,同時對家康獻上鉛三千、煙硝三千斥。後於元和元年(1615年)的大阪夏之陣中長政和加藤嘉明獲准許帶少數士兵配屬在二代將軍德川秀忠軍中,活躍於天王寺、岡山之戰。元和二年(1616年)四月,德川家康辭世,葬於駿府東南方的久能山,幕府也決定興建專門用於祭祀家康的日光東照宮,長政也參加此一普請役,東照宮外石造的大鳥居便是長政用自九州運來的大石所建。元和九年(1623年),長政在京都報恩寺去世,年五十五歲。出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/73171389/1
黒田職隆 Kuroda Mototaka(1524年-1585年)大永4年(1524年)、黒田重隆の子として備前の福岡(現在の岡山県瀬戸内市)にて生まれたと伝わる。初名は満隆(みつたか)。妻は小寺氏の養女で明石正風の娘・いわ、後妻または側室として母里氏、神吉氏がいた。播磨国御着城主の小寺政職に仕え、天文12年(1543年)には政職の敵であった香山重道を討ち取った。それらの功績から天文14年(1545年)、政職の養女を娶って家老に列せられると共に、小寺の姓氏と偏諱(「職」の1字)を与えられて小寺職隆と名乗り(異説あり)、播磨姫路城の城代になった。職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた。永禄7年(1564年)には、浦上政宗の子・浦上清宗と自分の娘の婚姻を実現させたが、その宴席中に父・重隆のかつての主である赤松政秀の奇襲で浦上親子が殺害され、職隆は政秀と対立したといわれている。永禄10年(1567年)頃、子の孝高(官兵衛・如水)に家督を譲り、姫路城の南東に位置する国府山城(こうやまじょう)に隠居した。永禄12年(1569年)、かねてより対立していた赤松政秀が、足利義昭を抱える織田信長に属した池田勝正と別所安治の支援を受け、姫路城に3,000の兵を率いて攻め込んで来た際、迎撃に出るも実弟の井手友氏などを失い危機に陥っていた子・孝高救援のために自身も出馬して勝利に貢献した(青山・土器山の戦い)。その後、主君の小寺政職は織田氏に与するが、天正6年(1578年)に摂津有岡城主・荒木村重の織田氏に対する謀反に政職も呼応する向きを見せた。孝高は村重を説得するために有岡城に乗り込んだが失敗し、捕縛され牢に入れられた。孝高が幽閉され音信不通になってしまった事で黒田氏は当主不在となったが、この時、孝高の重臣7名が連署で主が不在の間は職隆の命に従う事を誓った書状を職隆に宛てて送っている。こうした要請に応じて職隆は孝高が救出されるまでの間、黒田家当主の座に復帰し、織田氏から離反した小寺氏には与さず織田氏に変わらず味方する姿勢を示した。天正8年(1580年)、荒木村重の謀反鎮圧に伴い小寺政職が逃亡すると、その子・氏職を密かに引き取って養育していたという。その清廉で忠義一徹なところを羽柴秀吉にも賞賛され、後に姫路城の留守居を任された。天正13年(1585年)8月22日、62歳で死去した。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E8%81%B7%E9%9A%86