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一百一十二位人物:柳生三厳、赤池長任、和久宗是、東郷重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、W.アダムス、猿飛佐助、霧隠才蔵、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鎌之助、三好清海、三好伊三、加藤段蔵、蠣崎基広、下国師季、雫石詮貞、大崎義宣、相馬顕胤、蘆名盛舜、二本松義国、二階堂輝行、留守景宗、懸田俊宗、安東堯季、安東舜季、浅利則頼、天童頼長、天童頼貞、鮭延貞綱、結城政朝、佐野豊綱、那須高資、宇都宮尚綱、真里谷信応、長尾憲長、上杉朝定、太田資顕、藤田重利、松平広忠、平手政秀、遠山友忠、木造俊茂、小山田信有、板垣信方、甘利虎泰、横田高松、高遠頼継、小笠原長時、小笠原貞種、三木直頼、長尾晴景、長尾房長、椎名長常、神保覚広、温井続宗、堀江景忠、朝倉孝景、六角定頼、進藤貞治、朽木稙綱、粟屋勝久、武田義統、本願寺証如、願証寺蓮淳、波多野稙通、内藤国貞、細川持隆、細川氏綱、香川元景、香西元成、十河存春、三好政長、筒井順昭、十市遠勝、土橋重治、尼子国久、尼子誠久、庄為資、吉川興経、吉川経世、小寺則職、大内義隆、相良武任、杉興運、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、小早川繁平、和田通興、細川元常、宇都宮豊綱、宇都宮房綱、一条房基、菊池義武、少弐冬尚、小河信安、納富信景、西郷純久、西郷純堯、上村頼孝、米良祐次、土持親成、禰寝清年、長尾虎、世良田元信、浅井茶々、大友桐、十河紫、浅井福、伊達蛍、北条貞、武田菊、有馬奈津、井伊直、木下伶、大内万、女、北条唯、六角辰、浅井文、斎藤郁、大浦戌、朝倉東、蒲生虎、伊達五郎八、伊達秋、最上義、長尾桃、浅井初、島津南、相良良、遠山覚、太田妙、伊達芳、北条鶴、織田秀子、二階堂和、蘆名順、龍造寺千世、北条誉、伊東京、武田梅、南部緑、佐竹英、波多野充、那須正、松平熊、藤田大福、女中、北条春、六角艶、武田見、伊達瞳、織田冬、松平督、前田摩阿、最上駒、今川和、伊達花、小田麗、北条光、相良千代菊、足利詩、大友清、北条静、前田豪、大谷渓、武田恵、関口瀬名、今川嶺、蠣崎圭、長尾華、北条円、最上竹、前田与免、畠山椿、北条苗、武田万里、●●●、斎藤朝、足利氏、太田小少将、松平千、浅井小督、細川扇、蘆名葵、一条喜多、北条睦、太田梶、佐竹藤、六角凪、直江船、武田松、織田五徳、本多小松、織田市、斎藤帰蝶、明智玉子、●●●2、津田宗及、千利休、菊亭晴季、山科言継、朝山日乗、快川紹喜、沢彦宗恩、アルメイダ、ソテロ、フロイス、近衛前久、今井宗久、佐吉、岐秀、老人、農民、鉄砲足軽、僧侶、公家、二本松義継、僧兵、小姓、土田御前、おね、組頭、小笠原秀清、足軽、使者、家老、伝令、忍者衆、忍者、家臣、侍、商人、F.ザビエル、豪族、子供、樋口与六、北条氏康、●●●3、田村顕重、土佐林禅棟、横瀬泰繁、風魔小太郎、真田昌輝、国友藤二郎、望月出雲守、後藤彦三郎、服部保長、津田算長、宮本道意、村上吉継、三島清右衛門、若林道円、名和武顕、三田井親武
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
宇喜多能家 Ukita Yoshiie(生年不詳-1534年) 宇喜多久家的長子,宇喜多直家的祖父;別名平左衛門尉、法名常玖。 明應六年(1497年),當主浦上宗助率軍1000余人從三石城出發進攻松田元勝方-松田惣右衛門駐守的富山城,卻遭到松田元勝所派的援軍和富山城兵兩面夾擊。浦上宗助兵敗,被松田軍圍困在龍の口山。留守三石城的宇喜多能家得到消息後馬上領軍出陣,擊破松田軍,將浦上宗助救回。 明應八年(1499年),浦上家發生內亂,同族的浦上則宗和浦上村國各自領軍出陣,於備前、播磨國境附近大戰。則宗兵敗,逃入白旗城,遭村國籠城。則宗的同族見白旗城即將被攻破紛紛逃亡,則宗軍士氣低落。這時能家挺身而出,以大義說動兵士,率領則宗軍奮戰擊退浦上村國軍。 文龜二年(1502年),浦上則宗病死,宗助又早死,浦上村宗繼承家督。松田元勝乘亂出兵攻打浦上氏領地。同年冬,能家為總大將率300人渡過吉井川於宍甘村附近與松田軍交戰,討殺松田氏有松右京。翌年文龜三年(1503年),能家與浦上氏兩軍攻入上道郡松田元勝的領地,於旭川の牧石の河原大戰。浦上軍在旭川附近遭遇松田大軍,遭圍困。發現浦上軍處於劣勢的能家立刻率宇喜多全軍前往救援,在笠井山與松田元勝亂戰。能家於亂軍中奮戰,身中三箭,頭部中槍受傷,終於將松田元勝擊退。 浦上村宗繼承則宗的職務,在赤松家主持政務。永正十五年(1518年),村宗因與赤松義村不和而回到居城三石城。同年9月,赤松義村率軍進攻浦上氏領地,攻落周圍諸城,逼近三石城。一夜之間,三石城兵逃走70余人。能家再次出面勸說,以其武勇得到城兵信賴。在頂住了赤松軍的強攻後,於船阪卡一戰擊敗赤松軍。 永正十六年(1519年)正月,赤松義村以重金寢返駐守香登城的浦上村宗之弟宗久。宗久答應一旦時機成熟既臨陣倒戈。負責守備二の丸的能家在得到消息後,馬上派人探聽出香登城防的虛實,並往三石城通報了浦上村宗。村宗本隊出陣攻下香登城。能家被封香登城。同年,赤松義村領兵再犯。浦上村宗和宇喜多能家合兵,以少勝多,再次擊退赤松軍。 永正十七年(1520年),浦上軍開始東美作攻略。赤松義村向小寺則職派出援軍。能家得知義村在美作集結軍隊後,率軍2000余人前往增援。同時,浦上村宗從三石城出發,率軍500人與宇喜多軍匯合。然而,在赤松軍壓倒性的優勢面前,浦上、宇喜多聯軍再次潰散,一夜逃剩70余人。能家率這70余人於清晨伏擊赤松軍成功。一度逃離的1000余人見到形勢有所改變後歸陣,浦上、宇喜多聯軍開始與赤松軍對峙。之後,村宗寢返小寺家臣成功,浦上、宇喜多聯軍乘勢掩殺,擊破赤松軍。 多次兵敗使赤松義村威信大減。浦上氏乘機將侵入播磨,成功壓制西播磨一帶。赤松義村隱居。 大永三年(1523年),繼承家督的赤松政村擁立浦上村國。浦上氏出兵平定播磨,先陣為能家次男四郎。浦上村國引300人進行防守,誘敵深入。缺乏經驗的四郎不知是計,追擊過深,遭伏兵圍困,戰死。得知四郎死訊的能家親率家臣突入村國陣,村國軍大敗。能家在此戰中的勇名傳到了管領細川高國耳中,高國賜能家名馬一匹,茶具名器釜一個。 能家為次男四郎的死十分難過,深感自己年事已高,於砥石城隱居。 天文三年(1534年),遭高取城主島村盛實攻擊,息子宇喜多興家和年僅6歲的宇喜多直家逃往備後,能家自殺。 出處 http://baike.baidu.com/view/730723.htm
小寺則職 Kodera Norimoto(1495年-1576年) 明応4年(1495年)播磨姫路城主小寺政隆(まさたか)の子として生まれる。政隆は永正16年(1519年)新たに御着城を築いてそこに居を移し、このとき則職は父に代わって姫路城主となる。 永正17年(1520年)守護赤松義村の命で、反抗する浦上村宗に従う武将・中村五郎左衛門討伐のために美作国岩屋城へと出陣する。しかし浦上家臣宇喜多能家の活躍や、友軍の赤松中務丞の寝返りもあって、遠戚の小寺祐職(すけもと)父子を戦死させるなど大敗を喫する。その後、赤松義村は浦上村宗に暗殺され、遺児となった赤松晴政も一時淡路国に落ち延びるなど浦上氏の西播磨での勢力が伸長する。この時の小寺氏は、政隆が晴政に伺候するなど赤松氏寄りの活動を続けており、享禄3年(1530年)播磨庄山城に詰めていた政隆は浦上村宗に攻められて戦死している。 享禄4年(1531年)父に代わって御着城に入り名実ともに家督者となる。則職は赤松晴政とは距離を置いていたようで、天文7年(1538年)尼子晴久が山名氏と提携して播磨に乱入した際には、晴政の籠城した高砂城の攻め手として出陣している。結果、晴政は再び淡路へと遁走している。その後も晴政と播磨国衆の対立は続いたが、子の広峰長職(ながもと)の介入もあり、天文9年(1540年)晴政は則職ら播磨国衆と和睦して播磨復帰を果たしている。 天文14年(1545年)御着城主を子の政職に譲って隠居した。没年は、小寺氏が織田氏・毛利氏の選択を迫られる最中の天正4年(1576年)とされる。 次男・長職は広峰高長の養子に、側室の子である三男・則治(のりはる)は明石郡小寺城主となっている。 播磨における「小寺則職」の発給文書は文明年間や文亀年間に既にあり、その当時の系譜上の小寺家当主は則職の祖父・豊職(とよもと)や父・政隆の時代に相当する。一説には小寺氏は三代に渡って「則職」の名を使用したのではないかともいう。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E5%89%87%E8%81%B7_%28%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%29
小寺政職 Kodera Masamoto(1529年-1584年) 享禄2年(1529年)、播磨御着城主・小寺則職の長男として誕生する。小寺氏は、赤松氏の分家にあたり、祖父・政隆(まさたか)の代までは姫路城を本拠としていた。 天文12年(1543年)から塩田城主であった遠戚である小寺福職(とみもと)の補佐役として塩田城へ在城し、天文14年(1545年)父から御着城主を譲られる。小寺氏は代々、播磨国守護・赤松氏の重臣として仕え、赤松政村が「晴政」に改名した1540年から1541年ごろに元服してその偏諱(「政」の字)を受け、政職と名乗る。その後は幾たびかの小競り合いを制し、播州平野を中心として半独立勢力として割拠した。政職は外様家臣であった小寺孝隆(官兵衛、のちの黒田孝高)の能力を認め、自らの従姪(櫛橋氏の娘・光)を娶らせるなど厚遇している。 播磨に東から織田氏、西から毛利氏と大勢力が迫ってくると、当初は織田方に通じる龍野城主赤松政秀や三木城主別所安治・長治親子と敵対し、永禄12年(1569年)には青山・土器山の戦いで赤松軍と、天正元年(1573年)には増位山・有明山城で別所軍と戦っている。しかし後に小寺孝隆の進言を受けて織田信長への従属を決め、天正3年(1575年)に孝隆を岐阜に派遣し、同年のうちに自らも信長の元へ赤松氏・別所氏とともに挨拶に参上している。天正5年(1577年)には播磨沖に襲来した毛利軍を孝隆の奇策によって英賀合戦で打ち破った。これに前後して信長は播磨諸侯に人質の提出を命じたが、政職は子の氏職が病弱であったため、小寺孝隆の子・松寿丸(のちの黒田長政)を代わりに提出させたとされるが、真偽は不明。この頃から小寺孝隆は小寺家臣というより、信長によって派遣された羽柴秀吉の部将として活動することが多くなる。 天正6年(1578年)に荒木村重が摂津有岡城で信長に謀反すると(有岡城の戦い)、これに呼応して信長に背き、毛利氏と通じた。当時は東播磨の一大勢力である三木城の別所長治が既に毛利方に寝返っていたが、天正7年(1579年)に有岡城が、天正8年(1580年)に三木城がそれぞれ織田軍の攻撃によって落城し、御着城も天正8年に落城。政職は英賀を経て毛利領の備後国鞆の浦のもとへ落ち延びたという。天正12年(1584年)5月に鞆で没した。 妻は族兄にあたる小寺福職の娘で、永禄10年8月5日(1567年9月17日)に亡くなっている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%AF%BA%E6%94%BF%E8%81%B7

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