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安藤直次 Ando Naotsugu(1555年-1635年) 安藤基能的長子、正室為中根助右衛門之女、繼室為本多信俊之女;幼名千福丸?別名彥兵衛、彥四郎、帶刀,戒名崇賢藤岩院。 年幼時就開始侍奉德川家康,從元龜元年(1570年)的姊川之戰到天正三年(1575年)的長篠之戰皆曾參戰。天正十二年(1584年)的小牧長久手之戰中有出色表現,斬殺池田元助。該役羽柴軍折損森長可、池田恆興等將領,戰後直次也從家康那裡得到弓做為賞賜。 天正十八年(1590年)、德川家康轉封到關東時,也受封1000石的領地。 慶長五年(1600年)關原之戰中,擔任德川家康的使番(傳令、巡視)一職隨軍作戰。慶長八年(1603年)、直次也參加家康被天皇任命為征夷大將軍的儀式。慶長十年(1605年)1月、受封武藏國2300石的領地,並和本多正純、成瀨正成等家康親信共同執掌幕府初期的政務。 慶長十五年(1610年)、德川家康任命直次為德川賴宣的家老(御附家老);之後直次還是參與幕政,並擔任遠江國橫須賀藩主.大須賀忠次的監護人。 從慶長十九年(1614年)開始的大阪之戰,直次代替年幼的德川賴宣率軍參戰;但長男.安藤重能不幸在大阪夏之陣中戰死。元和三年(1617年)、擔任遠江國掛川城主。 元和五年(1619年)7月19日、德川賴宣轉封到紀伊國和歌山城,直次做為紀伊藩附家老也一同轉移,並受封紀伊國田邊城3萬8000石的領地。直次深受賴宣的信任,日後賴宣也曾說「多虧了直次自己才能夠成為大名」。 寬永十二年(1635年)5月13日,逝世。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%97%A4%E7%9B%B4%E6%AC%A1
成瀨正成 Naruse Masanari(1567年-1625年) 成瀨正一的長子、母為熊谷直連之妹、正室為森川氏俊之女、繼室為本多正重之女;通稱小吉、戒名白林院殿直指宗心居士。 年少時擔任德川家康的小姓(侍童),初次上陣在天正十二年(1584年)的小牧長久手之戰、隸屬於小姓組。年僅17歲的正成,勇敢地殺入敵陣,取下敵人的首級。在家康正檢視取回的首級時,先遣部隊遭受敵軍猛烈的攻擊;正成看到部隊退縮的情形,不顧旁人的勸阻,再度殺入敵陣取回敵人首級。此戰後,正成因其功績獲家康賞賜500石俸祿及脅差(短腰刀)。 天正十三年(1585年)、德川氏將因根來寺為秀吉所滅、四散而來的50名僧兵交由正成統率,年僅17歲就成為一軍之將。這支洋槍隊就是後來稱為根來組的百人部隊(百人組)的原型,而正成也以17歲創下家康部下最年輕就擔任一軍之將的紀錄。 天正十八年(1590年)的小田原之戰也立下戰功。在家康轉封到關東後,受封下總國葛飾郡栗原藩4000石的領地,並獲得江戶城四谷宅邸的賞賜,正成將屬下根下組配置在內藤新宿以防衛甲州街道。出兵朝鮮前、諸將集結在大阪時,曾得豐臣秀吉青眼有加,想要用5萬石的高俸勸他轉投豐臣氏。但正成以不仕二君為由堅決推辭,甚至說出「無論如何都要這樣的話我就切腹」,有這麼一段軼事。 慶長五年(1600年)的關原之戰,一方面擔任家康的使番(傳令、巡視),另一方面又率領根來組百人隊為先鋒,立下了戰功,也因此被拔擢為堺的奉行。之後,和家康親信本多正純、安藤直次等人擔任老中的職務,共同執掌幕府初期的政務。此外,加封甲斐國內2萬石、三河國加茂郡內1萬石,成為下總國栗原藩3萬4000石俸祿的大名。 慶長十二年(1607年)、敘任從五位下.隼人正。慶長十五年(1610年)、擔任德川御三家之一的尾張藩主.德川義直的輔佐一職,在創藩初期指揮名古屋藩政,立下了功績。 慶長十九年(1614年)大阪冬之陣後,德川氏和豐臣氏暫時達成了和談,但和談條件是必須拆毀大阪城的二丸、三丸,並填平所有濠溝,正成和本多正純、安藤直次共同指揮填平大阪城內壕溝的工程。 尾張藩的附家老.平岩親吉過世後,平岩氏因無嗣子而斷絕家業。家康特別拜託正成出任九男.德川義直的附家老,並封給犬山城。這時,同為家康親信的安藤直次也出任家康十男、紀州藩主.德川賴宣的附家老。 寬永二年(1625年)逝世,年59歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%80%A8%E6%AD%A3%E6%88%90
榊原忠次 Sakakibara Tadatsugu(1605年-1665年) 大須賀忠政の長男で、徳川四天王榊原康政の孫である。母が徳川家康の姪であるため、忠次1代に限り終身松平姓を許される。 父の死により3歳で祖母の生家である大須賀家を相続し、遠江横須賀藩で6万石を領した。家康の配慮により、安藤直次が後見人とされている。その後、叔父に当たる榊原家当主榊原康勝に子がなく断絶しかかっていたところ、徳川四天王の血統が絶えるのを懸念した家康の命により、忠次が10歳で榊原氏館林藩10万石を相続した。一説には、忠次自身の希望で榊原家相続となったともされる。これにより、大名大須賀氏は絶家となった。 実は榊原家には、康勝の庶子の勝政がいたが、3人の家老の策謀により秘匿されていた。後に露見し、3家老は流罪になった。勝政の子孫は旗本として取り立てられ、後に忠次子孫の本家に養子を出す。 大須賀氏は絶家となったが、一部の家臣は3割加増の上で榊原氏の家臣に編入されている。 正保4年12月12日(1648年1月6日)、奥平昌能とともに幼年の徳川家綱の傅役を仰せ付けられた。その後、白河藩14万石に転封、更に姫路藩15万石に国替となり、寛文3年(1663年)には保科正之の推挙により、井伊直孝の死後、幕府の老職(大政参与)に迎えられた。 万治2年(1659年)、現在の加古川市東神吉町から米田町にかけての加古川右岸に「升田堤」という堤防を構築し、それまで2つに分かれていた升田-船頭間の川の流れを1つにする流路改変工事を実施している。 姫路では新田開発を指揮するかたわら、和歌、百人一首を嗜んだ。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E5%8E%9F%E5%BF%A0%E6%AC%A1
毛利勝永 Mori Katsunaga(1577年-1615年) 毛利勝信(森吉成)之子、正室為龍造寺政家之女;本姓森,改姓毛利,通稱豐前守,初名吉政,後改名為勝永,號一齋。 與父親勝信一同仕於豐臣秀吉。天正十五年(1587年),父親勝信被賜予豐前國小倉6萬石(一說10萬石),勝永亦被賜予豐前國內1萬石(一說4萬石),此時因為秀吉的命令而改姓中國地方太守的毛利氏。 慶長二年(1597年)向朝鮮出兵時從軍。在慶長之役中擊退進攻蔚山倭城的明.朝鮮連合軍而立下戰功。 慶長五年(1600年)的關原之戰中與父親勝信一同參戰並加入西軍。代替前往領國九州的父親指揮中央的軍勢並在伏見城之戰中獲得極大戰功,得到毛利輝元、宇喜多秀家的感謝狀和3千石加增。不過失去毛利九左衛門(香春岳城城主)和毛利勘左衛門等許多家臣,接著在攻擊安濃津城和關原本戰時與輝元的家臣一同被編入安國寺惠瓊的指揮之下,於是失去軍事編成的力量,家中亦陷入混亂狀態。 在戰後被改易,與父親一同寄身於加藤清正、之後是山內一豐之下。因為與山內家是舊識並且是親交而獲得1千石封地,父子一同受到厚待。特別是勝永的弟弟被賜予山內姓並改名為山內吉近而有厚遇。 慶長十九年(1614年),接受豐臣秀賴的邀請而從土佐逃走並進入大阪城。得到諸將的信賴並被稱為大阪城的五人眾之一。在大阪冬之陣中與真田信繁等人一同提倡積極出擊,但是一直沒被採納,在籠城戰中守備西之丸西的今橋。 慶長二十年(1615年)的大阪夏之陣中,收容在道明寺之戰中敗退的後藤基次等人的敗兵。在藤井寺佈陣後,與諸將協議下自身擔任殿軍,令真田等軍勢依次退卻,率領鐵砲隊機令全軍無事撤退。 翌日,天王寺口之戰中率領4千兵力,在德川家康本陣的正面.四天王寺南門前佈陣。在戰鬥開始後迅速討取本多忠朝和小笠原秀政等人,接著擊破淺野長重、秋田實季、柛原康勝、安藤直次、六鄉政乘、仙石忠政、諏訪忠恆、松下重綱、酒井家次、本多忠純的部隊,之後突入德川家康的本陣,顯示出自身部隊的大活躍。但是在真田隊壞滅後,戰線亦隨之崩壞,因為從四方受到關東勢的攻擊而決定撤退。勝永在退卻時亦顯示出漂亮的指揮,擊破進行反擊的藤堂高虎隊,防備著井伊直孝和細川忠興等部隊的攻擊而完成往城內撤退。 在最後成為豐臣秀賴的介錯,與兒子毛利勝家一同在蘆田矢倉平靜地自殺。另一個兒子太郎兵衛在之後被江戶幕府處刑。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%8B%9D%E6%B0%B8
水野重央 Mizuno Shigenaka(1570年-1621年) 水野忠分の三男。官位は従五位下対馬守。諱は初め重信(しげのぶ)を名乗り、のち重央、次いで重仲(しげなか)に改めたとされる。 天正4年(1576年)、母方の従兄に当たる徳川家康に初めて謁見し、のち家康に近侍して5,500石を知行する。天正16年(1588年)に大番頭となり、天正20年(1592年)2月1日には武蔵国埼玉郡・上総国山辺郡内に1,500石を加増される。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは大番頭として従軍。慶長6年(1601年)5月11日、従五位下対馬守に叙任。慶長11年(1606年)、家康の十男・徳川頼宣の後見を家康から託され、慶長13年(1608年)に頼宣の家老となり、常陸国内に1万石を与えられた。幼少である頼宣に代わり、水戸藩では重央が国政に当たっている。慶長14年(1609年)、頼宣が駿河国駿府藩に転封されると、同年12月22日に重央は遠江国浜松城主となって2万5,000石を与えられた。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では初陣を飾った頼宣に従って天王寺付近に布陣し、翌慶長20年(1620年)の大坂夏の陣では天王寺・岡山の戦いで後詰として活躍した。元和3年(1617年)10月24日には駿河・遠江両国内に1万石を加増されている。 元和5年(1619年)、頼宣が紀州藩に移ると、重央は同年7月19日に紀伊国新宮に3万5,000石を与えられ、安藤直次と共に頼宣の附家老としてその補佐に務めた。しかし附家老という身分上、大名としての資格を失うことになった。 元和7年(1621年)11月12日に和歌山で死去。享年52。戒名は全龍院殿日山常春大居士。墓所は和歌山市直川の全正寺。長男の重良は附家老が陪臣として扱われることに不満を抱き、弟の定勝に新宮3万5,000石を継がせようとしたが、結局徳川秀忠と家光の説得を受けて元和9年(1623年)に家督を継いでいる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E9%87%8D%E5%A4%AE
津軽建広 Tsugaru Takehiro(生年不詳-1640年) 三河国の外科医、大河内江三の二男として生まれる。江春と名乗り、相模国の戦国大名北条氏政の下で外科医を務めた。 天正18年(1590年)の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると浪人となる。後に津軽為信に仕え、慶長4年(1599年)には為信の長女富子を娶り、津軽家の婿養子となる。慶長6年(1601年)、大光寺城(1万石)の城代となる。 慶長12年(1607年)、津軽為信の長男津軽信建が死去すると、その弟信枚が家督を継いだ。建広は信建の嫡男熊千代が家督を継ぐことを主張し、江戸へ上るとかねてより親交のあった本多正信を通じて幕府へ直訴した。訴状は正信に受け入れられ、熊千代の相続が決定するかと思われたが、安藤直次がこれに反対した。 幕閣の裁定としては安藤直次の主張が容れられ、慶長14年(1609年)に信枚の藩主相続が正式に幕府から認められた。それを受け、信枚は藩内の熊千代派の粛清を行った。信建の腹心であった金信則は領地召し上げの上切腹、建広は追放処分となったが、建広の居城引渡しを巡って家臣が大光寺城に籠城する。信枚家臣の高坂蔵人の活躍などにより、村市館の一戸兵庫之助らとともに騒動は鎮圧された。これを津軽騒動と言う。 建広は後に上京して、江戸幕府の医官(御典医)となった。 以上の経歴がありながら、大河内姓には復さずに以降も津軽氏を名乗り、長男の建次は徳川秀忠(当時は大御所)に拝謁。次男建義も将軍徳川家光に拝謁するなど、津軽氏一門の一家としての名跡を認められており、『寛政重修諸家譜』にも津軽藩本家、黒石支藩とは別に、津軽氏として記載がある。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD%E5%BB%BA%E5%BA%83
黑田忠之 Kuroda Tadayuki(1602年-1654年) 黑田長政的長子、母為保科正直之女.榮姬(德川家康養女)、正室為松平忠良之女.久姬(德川秀忠養女)、繼室為坪阪氏(養照院);幼名萬德丸,受德川秀忠偏諱「忠」字,初名為忠長、忠政,後改為忠之,戒名高樹院傑春宗英。 慶長七年(1602年)11月9日,忠之在築前福岡城內的藩筆頭家老栗山利安的宅邸裡出生,是福岡藩初代藩主黑田長政與正室榮姬(大涼院,德川家康的養女)之間所生的嫡長子,乳名萬德丸。在德川家康移居駿府城後曾與父親長政一同前往晉見家康。 慶長十九年(1614年)時的大阪冬之陣,由於幕府命令父親長政擔任江戶城的留守居,因此忠之代替他出陣。長政為忠之戴上關原合戰時德川家康賜予的金羊齒前立南蠻缽兜(頭盔),並讓他率領1萬人的軍隊。 元和九年(1623年),二代將軍德川秀忠與其嫡子德川家光上洛,父親長政和忠之擔任先遣早一步從江戶出發前往京都,然而長政卻在京都報恩寺因病去世,忠之因此繼承家督之位。最初從二代將軍秀忠拜領偏諱,從萬德丸改名為忠長以及忠政,直到這個時候才真正改名為忠之。在這之後,德川將軍家都會授予福岡藩的藩主及嫡子松平姓氏以及將軍的偏諱。 另外,依據父親的遺言分別給予弟弟長興5萬石(秋月藩),高政4萬石(東蓮寺藩)的領地,為此福岡藩的石高降為43萬3千石左右。 忠之作為大藩繼承人出生,與祖父黑田孝高、父親長政不同,性格上相當自我中心,事實上長政也擔憂忠之器量不足而曾考慮廢嫡,不過受到重臣栗山利章(栗山大膳)的勸諫而作罷,並將忠之託付給栗山。忠之喜愛外表華美氣派的事物,動用藩的資產建造了被幕府禁止的大型船隻鳳凰丸,組織自己的側近團體,重用倉八正俊及郡慶成等人。另一方面,與築前六端城(領地內主要的6個支城)的城主等長政時代以來的重臣對立,以減封領地或是改易等強硬手段對付這些人。 寬永九年(1632年),六端城之一的麻底良城主栗山利章向幕府控訴「黑田家有謀反的嫌疑」,讓黑田家面臨改易危機,這即是黑田騷動。3代將軍德川家光親自下裁決,接受藩側的主張判定栗山精神異常,不久後幕府下令倉八流放高野山,栗山則是被交給盛岡藩南部家看管(雖然等同於流放,不過栗山受到南部家的厚待)。 在這場騷動裡,藩主黑田家並沒有被追究責任(實際上有進行名義上的改易,也就是改封後隨即又以重新授予舊領地),不過父親長政過去的舊知,幕府老中安藤直次與幕府古老成瀨正虎等人向忠之遞出書狀,希望忠之能像長政一樣和家老商議後再推行藩政。結果便是忠之的側近政治弱化,以過去的重臣為中心的合議制政治色彩更加濃厚。 寬永十四年(1637年),島原之亂時忠之出陣並建立戰果。寬永十八年(1641年),由於幕府的鎖國令,長崎成為幕府的直轄地(長崎奉行地),福岡藩黑田家與肥前佐賀藩鍋島家奉命輪流擔任長崎的戒備。因為這件事福岡藩得到幕府的優待,參勤次數減少,藩主在江戶留滯的時間也縮短。 承應三年(1654年)2月12日,於福岡城去世,年五十三歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%91%E7%94%B0%E5%BF%A0%E4%B9%8B
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