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九戶政實 Kunohe Masazane(1536年-1591年) 九戶信仲的長子、母為八戶但馬之女、正室為北の方;別名左近將監。 相傳九戶氏亦是南部一族,也有其他資料稱其出自小笠原氏。九戶氏在政實這代的帶領之下變得十分壯大。 永祿十二年(1569年),受到南部晴政的請求,要求擊退侵略鹿角郡的安東愛季。之後斯波氏侵攻之際也有去支援石川高信,並有講和的貢獻。 天正十年(1582年),南部晴政去世,之後南部晴繼繼承當主。但晴繼在參加完父親的喪禮回歸三戶城的途中遭到暗殺(亦有病死說),因此南部家的家督位置又這麼的空了下來。 南部氏便緊急招集重臣們開評定會。後繼者名單有先前是南部晴政養子身分的石川信直(南部信直),以及一族中最有力勢力的九戶家,推舉政實之弟九戶實親(妻為南部晴政之女)。評定會時推舉實親的聲浪是比較高的,但在北信愛向八戶政榮的調略之下,結果還是由南部信直繼承家督。 而政實對有恩的南部宗家繼承者南部晴繼遭暗殺此事感到相當憤怒,謠傳暗殺晴繼的人正是南部信直,所以政實對信直的繼承感到相當不滿,因此返回本據地。(但也有南部晴繼是九戶家暗殺的說法。) 天正十四年(1586年),政實對於南部信直公開自稱是南部家的正式家督之事非常不快。在天正十八年(1590年)豐臣秀吉的奧州仕置後,政實的行動逐漸轉為激烈,先是天正十九年(1591年)初,拒絕對南部氏的正月參拜,接著3月就以5000人的兵力舉兵叛亂。 而南部信直應對此事,選擇向豐臣秀吉送出使者,請求討伐政實。秀吉便命令豐臣秀次為總大將,蒲生氏鄉、淺野長政及石田三成為輔,率主力軍向奧州開始進軍,同時要求其他的東北大名參陣(小野寺義道、大浦為信、戶澤政盛、秋田實季等),九戶討伐軍的兵力自此上看6萬人。 同年9月1日,討伐軍開始攻擊九戶氏的領地,怒濤般的攻勢讓九戶氏不得不選擇籠城作戰,9月2日便開始包圍九戶城,即使是再怎麼善戰的政實,也不得不感到龐大的壓力。後來選擇在9月4日時,以出家為條件,向九戶討伐軍投降。 最後政實及實親兄弟倆被綁到豐臣秀次的陣中遭斬首,結果九戶一族不論男女老幼,皆遭殺害,九戶一族自此滅亡。不過政實之弟中野康實的子孫以中野氏的身分存活下去,日後成為與八戶氏、北氏同等級的家老氏族,乃南部家老「禦三家」之一。 出處:http://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E4%B9%9D%E6%88%B6%E6%94%BF%E5%AF%A6
仁賀保挙誠 NiKaho Takanobu(1560年-1624年) 出羽国由利郡の南部を支配した。実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」であり、これは次男の誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、代わりに「挙」の字を当てたためと考えられている(自身も光政から名を誠政に変えている)。なお『寛政重修諸家譜』では、挙誠を「たかのぶ」と読ませている。 仁賀保氏は通字に「挙」を、家紋に「一文字に三つ星」をそれぞれ使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通字であったのであろう。また、家紋は「一文字に三つ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを汲むのはほぼ確実である。 仁賀保氏の成立 仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信濃大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で由利郡に信濃大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信濃大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。 後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。 無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井宗家の当主である持光は鎌倉公方足利成氏の外祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏(赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。 友挙の子の大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って「仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年(1524年)の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。 挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は京都御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。 挙誠の登場 挙誠は仁賀保氏がお家騒動と敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死を遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子に入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏は歴代、山内上杉家またその分家の越後上杉家、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏当主の大宝寺義氏が独立を目指すと、仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北の小野寺義道と同盟し、背後より矢島氏に仁賀保氏を攻めさせた。この為仁賀保氏は国力を大きく落とし、天正10年(1582年)頃より翌11年(1583年)にかけ、義氏に何度か大きく攻め込まれた。このため、仁賀保氏は5代当主の重挙が死亡後、独自に当主を立てられなかったものと考えられる。6代当主の八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子に入ったのは、赤尾津氏を支援した安東愛季の意思が働いたものか。 挙誠が家督を継いだ天正13年(1585年)の時点の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。この頃、大宝寺義氏は重臣の東禅寺義長の謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長が対立しており、更には大宝寺氏を本庄繁長・上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光がそれぞれ支援していた。この戦いは本庄繁長が庄内に攻め込み、東禅寺義長を討ち取り最上軍を殲滅した事によりケリがついた。 さてこの騒動の間、最上義光は不利になりつつあった庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉の惣無事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令は聞かないという立場をとったようである。天正16年(1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉領となった。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上軍を駆逐して回ったらしい。この上杉軍と挙誠の動向からして、庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。 この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安に使者を出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動を良しとせず、奸智により矢島氏を攻め滅ぼし、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉の小田原征伐に加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年(1590年)12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。 なお、天正16年(1588年)に最上軍を粉砕した本庄繁長率いる上杉軍は天下軍として賊軍を成敗するという性質を持っていたと解釈すべきである。故に仁賀保氏ら由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年(1589年)に安東氏の内紛である湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田実季を支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令が出されていたのにかかわらず、上杉、仁賀保らの戦闘は私戦は考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易は免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。 挙誠の領地 挙誠の領地は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年(1590年)に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年(1595年)に他氏の傘下に入ったらしい。 但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしきことが推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。 石高は天正18年(1590年)には3,716石の記載があるが、天正20年(1592年)には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると1万2,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。 豊臣政権下 他の奥羽の武将の例に漏れず、小田原参陣の後、挙誠は妻子を京都に人質に取られた。翌天正19年(1591年)には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てている。 文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より東軍与同の誘いを受け、同族の赤尾津氏当主の赤尾津孫次郎と共に東軍に加わり、庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵して徳川家康が上洛すると、家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に義光より西軍与同の嫌疑を受けた。 しかしながら石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している景勝を攻めた。この際、上杉家臣の下次右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に家康から所領を安堵され、感状を与えられている。戦後、挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田(現在のひたちなか市)5,000石に移封された。 徳川政権下 常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。 さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。それに感銘を受けた利勝により元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。 なお、万石以上が大名であるというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。 仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五十位人物:佐竹義宣、長野業正、太田三楽齋 / 太田資正、北條氏政、可児吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高阪昌信、內藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生石舟齋 / 柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺恵瓊、黑田長政、宇喜多秀家....
三百位人物:羽柴秀次、石川五右衛門、久武親直、三好政勝、一条兼定、河野通直、来島通康、松平忠吉、阿蘇惟将、松平忠輝、柳生宗厳、松浦鎮信、相良義陽、相良頼房、深水長智、犬童頼安、伊東義祐、伊東祐兵、稲富祐直、島津家久、種子島時尭、母里太兵衛、伊集院忠朗、伊集院忠棟、新納忠元、京極高次、花房職秀、柳生宗矩、百地三太夫、大内義長、大友義統、岩城重隆、赤井直正、本願寺証如、尼子国久、尼子勝久、里見義頼、吉田孝頼、龍造寺政家、鈴木重則、足利義氏、千葉胤富、斯波義統、相良晴広、東郷重位、武田信廉、武田義信
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
南部信直 Nanbu Nobunao(1546年-1599年) 石川高信的長子、母為一方井安政之女、養父南部晴政、正室為南部晴政之女、後室為泉山古康之女.慈照院、側室為稗貫御前;幼名龜九郎,通稱田子九郎,初名石川信直,繼承南部氏,改名為南部信直。 晴政的養子及爭執 永祿八年(1565年),由於堂哥南部晴政一直無子,因此便招信直為女婿,將長女嫁給信直讓其成為養子,迎入三戶城。 永祿九年(1566年)及永祿十一年(1568年),擊退侵入鹿角郡的安東愛季而打響名聲。 永祿十三年(1570年)時,南部晴政的長子南部晴繼誕生,由於晴政是老來得子,因此十分溺愛晴繼。信直擔心自己非晴政親生骨肉,日後晴政為讓晴繼繼承家督時會剷除他,加上至天正四年(1576年)時,夫人(即晴政長女)早逝,身感危險便自行辭去晴政養子的名義,並躲至田子城。(此理可由日後的豐臣秀吉與豐臣秀次事件可知。) 『八戶家傳記』記載,信直於元龜三年(1572年)時參訪於川守田村的毘沙門堂,南部晴政親自率兵襲擊在毘沙門堂的信直。為自保的信直,使用鐵砲反擊讓晴政落馬,也擊中同為晴政女婿的九戶實親(實親的夫人是南部晴政的二女)。 然而南部晴政對信直的不信任感還沒結束,擔心晴政會派遣刺客的信直,也會藏身至北信愛的劍吉城或根城南部氏當主八戶政榮的根城。知道這點的晴政便連橫南部一族的有力勢力九戶氏,而信直也跟南長義及北信愛聯合來跟晴政對立。 繼承南部宗家家督 天正十年(1582年),南部晴政死亡,由南部晴繼繼承家督,但同年內遭到不明的暴漢集團暗殺。有說法是信直正是幕後主導者,甚至說是信直引起內亂,殺死南部晴政父子,但真相依然不明。 晴繼死後,南部一族便緊急聚集重臣召開大評定來選擇後繼者。九戶政實推舉其弟實親繼承家督,而事前北信愛就跟根城南部氏當主八戶政榮調略及南長義和北信愛共同推舉信直的狀況下,讓信直成功繼承家督。這使九戶政實懷恨在心,家中一直處於不穩的狀態。 南部宗家與一族間的內部鬥爭,使得南部家對周遭的外敵抵抗力下降,對於奪取津輕地方的叛臣大浦為信也無法有效的加以討伐。 豐臣政權之下 天正十四年(1586年),滅亡高水寺斯波氏斯波詮直擴大勢力。 天正十五年(1587年),派遣北信愛向加賀國的前田利家表示對豐臣政權的臣服。 天正十八年(1590年)1月,信直向津輕地方進軍,此時大浦為信也悄悄的上洛謁見豐臣秀吉。戰況方面,由於大浦軍的堅強抵抗及寒冬時節的影響讓南部軍陷入苦戰,之後收到豐臣秀吉的小田原征伐參戰令而撤軍。信直委任八戶政榮留守三戶城,帶著政榮之子八戶直榮及1000名兵力前往小田原,並於4月抵達。7月27日,獲得豐臣政權正式認可的7郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、遠野郡)所有權朱印狀。 小田原征伐結束後,豐臣秀吉開始進行奧州仕置,其中最讓信直難堪的就是承認大浦為信是獨立大名,信直向秀吉上訴,認為為信是從南部家背叛出來的勢力,又違反惣無事令(禁止大名間私鬥之令),沒有理由成為大名,但因為以下幾點: .大浦為信靠著在豐臣家中的私交說情(如織田信雄、豐臣秀次、石田三成)。 .豐臣秀吉不願讓單一勢力領地過大。 .大浦為信比南部信直還要早到小田原表示對豐臣政權的臣服。 .使得豐臣秀吉最終駁回大浦為信叛亂的說詞,為信成功當上正式大名,並改名為津輕為信,信直不得不接受這個事實。之後秀吉因奧州仕置而遠征東北時,信直便與淺野長政共同擔任先鋒。 奧州仕置後引起葛西大崎一揆、和賀稗貫一揆,天正十九年(1591年),九戶政實叛亂,史稱九戶政實之亂,也是豐臣政權之下國內最後一戰。秀吉派遣豐臣秀次作為總大將,集結許多東北地區的大名協助信直,因此迅速的就被鎮壓,政實與實親兄弟被以謀反人的身分遭處刑。討伐九戶氏後,由於討伐軍中也包含津輕為信在內,此時信直便向淺野長政表示為信是他的殺父仇人,要求讓他討伐為信。長政拒絕,蒲生氏鄉也介入幫忙說服信直,在擔心為信安危的情況下,便催促為信趕快返回領地。 之後豐臣秀吉命令蒲生氏鄉修築九戶城,信直也將本據地從三戶城移到九戶城,並將九戶城改名為福岡城。而所失去的津輕3郡(平賀郡、鼻和郡、田捨郡)則改封和賀郡及稗貫郡作為補償,成為共領有9個郡的10萬石大名。11月時與長子南部利直上洛向秀吉道謝。 天正二十年(1592年),參加文祿・慶長之役,率領約1000名兵力至肥前國的名護屋城參陣。渡海至朝鮮後隔年得到歸國許可。 晚年 從肥前國回國後,便開始鞏固領地內的治安與建設,以及欲在盛岡建築新居城。由於領地在九戶政實之亂後有再做調整,變得與伊達氏的領地有銜接,信直知道伊達政宗是個狡猾的野心家,所以才將新居城的地點定在盛岡以防伊達政宗的侵略,而在慶長五年(1600年)關原之戰時期,伊達政宗也的確煽動和賀忠親在南部領地內引起岩崎一揆的行動來看,證明信直的顧慮是正確的。 慶長三年(1598年),豐臣秀吉去世後,開始接近德川家康。慶長四年(1599年),盛岡城開始動工,同年10月5日,於福岡城病死,年五十四歲,法名常往院殿前光錄大夫江山心公大居士。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%9B%B4
南部晴政 Nanbu Harumasa(1517年-1582年) 南部安信的長子;幼名彥三郎、初名安政,受將軍足利義晴偏諱「晴」字,改名為晴政。 天文八年(1539年)時因為家臣赤沼備中背叛並燒毀三戶城,造成南部家許多記錄文書燒毀。之後上洛,從將軍足利義晴處獲得偏諱「晴」字。天文九年(1540年),與叔父石川高信(南部信直之父)一同防衛遭戶澤政安反亂及斯波經詮侵略的岩手郡,並流放戶澤政安至秋田地區、擊退斯波經詮。天文十年(1541年)繼承南部氏第二十四代領主地位。一即位就出兵討伐謀反的工藤氏,並重建燒毀的三戶城,完成南部氏的統一。 由於晴政一直沒有兒子,於永祿八年(1565年)收堂兄弟石川信直(南部信直)為養子,讓他娶自己的女兒成為女婿迎入三戶城。永祿九年(1566年),安東愛季聯同比內郡的淺利氏殘黨、阿仁地方的嘉成一族共約5000兵,襲擊南部領地的鹿角郡,而靠著長牛城主一戶友義的奮力抵抗至降雪季節後,安東軍便退兵。 於永祿十年(1567年)安東愛季再度率領6000兵侵攻鹿角郡,晴政便派遣北氏、南氏、東氏前往救援,雖然一度擊退愛季,可不放棄的愛季同年內再次侵攻並拿下長牛城。 永祿十一年(1568年),晴政與養子南部信直共同於大湯地方布陣,南部一族的九戶政實亦進入三田城形成南北夾擊的姿態。之後鹿角郡的安東軍投降,鹿角郡再次變回南部家的領地。 在這些戰役之中,晴政成功收編八戶氏及九戶氏等一族有力勢力成為家臣團,創造南部家最興盛的時期。這時南部氏的領土,北起現在青森縣的下北半島,南至岩手縣的北上川中央部分,被謳歌為「南部領如三日月變滿月圓」。 永祿十三年(1570年),晴政的長子南部晴繼誕生,由於晴政是老來得子,因此十分溺愛晴繼。南部信直擔心自己非晴政親生骨肉,日後晴政為讓晴繼繼承家督時會剷除信直。 元龜二年(1571年),同為南部氏族的大浦為信(津輕為信)於津輕地方謀反,討伐晴政的叔父石川高信,並一一殲滅周遭的南部系國人眾。這時的晴政仍想對付南部信直,因此討伐軍沒能討伐為信成功。 『八戶家傳記』記載,南部信直於元龜三年(1572年)時參訪於川守田村的毘沙門堂,晴政親自率兵襲擊在毘沙門堂的信直。為自保的信直,使用鐵砲反擊讓晴政落馬,也擊中同為晴政女婿的九戶實親。 天正四年(1576年),南部信直夫人(晴政長女)早逝,信直身感危險便自行辭去晴政養子的名義,並躲至田子城。然而晴政對信直的不信任感還沒結束,擔心晴政會派遣刺客的信直,也會藏身至北信愛的劍吉城或八戶政榮的根城。知道這點的晴政便連橫九戶氏,而信直也跟南長義及北信愛聯合來跟晴政對立。 天正十年(1582年)逝世,年六十六歲,有病死說也有遭南部信直派人士謀反殺害之說,後由南部晴繼繼承家督。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%99%B4%E6%94%BF
大寶寺義氏 Daihoji Yoshiuji(1551年-1583年) 大寶寺義增之子、母不明;幼名滿千代、別名武藤義氏、四郎三郎,號桃翁,法號淨影,渾名庄內屋形、惡屋形。 大寶寺、土佐林、來次、砂越四家乃是控制庄內平野的四家國人眾,其中大寶寺家因為領有羽黑山,利用宗教權威來擴大本家實力,因此是四家中實力最強者。 永祿十二年(1569年),父親義增與本庄繁長聯合對抗上杉謙信,但是因為不敵而臣服,義氏被送入上杉家當人質,並且在隔年便在上杉謙信的壓力下將家督讓給嫡子義氏,改由受到謙信所信任的土佐林禪棟監督。但後來土佐林禪棟聯合越後國人眾大川長秀入侵大寶寺家時,義氏連忙請出上杉謙信調停才告解決。 元龜二年(1571年),義氏派遣家臣和仙北的小野寺輝道締結同盟,並與秋田安東家和睦。同時土佐林禪棟也再度叛變,義氏一改前年退讓的態度,迅速反撲打敗土佐林禪棟,並藉此機會肅清領內,促成來次氏、砂越氏稱臣,義氏成功統一庄內平野。 為了和最上義光對抗,義氏聯合伊達輝宗在天正二年(1574年)攻打清水城,後以失敗告終。 天正六年(1578年),大寶寺家的靠山,上杉謙信病逝。來次氏因不滿義氏的統治而叛變,雖然最終遭到鎮壓,但是義氏考量到領地的穩定,反而增加來次氏的知行作為安撫。 義氏見織田信長已經控制日本中央一帶,勢力龐大,遂於天正七年(1579年)派使者前往京都向織田信長送上馬匹、獵鷹,而被織田信長許以「屋形」的稱號及從五位下左京大夫的官位。 天正十年(1582年),義氏鞏固和小野寺家的同盟,還結合仙北戶蒔、金澤、六鄉等國人眾並與津輕為信取得聯繫,在當年十二月大舉進攻由利郡的國人眾,但因為安東愛季派出援軍幫助由利的國人眾,最後義氏兵敗撤退。但他並未死心,隨即於翌年正月再次出兵,但也再次被安東愛季派兵擊退。 同年三月二十七日,妹婿前森藏人與最上義光勾結,聯合砂越氏、來次氏襲擊義氏,義氏兵敗自刃,年三十三歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%B6%E5%AF%BA%E7%BE%A9%E6%B0%8F
安東堯季 Ando Takasue(生年不詳-1551年) 安東宣季之子,安東愛季的外祖父。通稱安東二郎、左衛門佐。初名為定季。也有記載為堯季。號鐵船庵,出家後改名洪廓(洪郭)。法名大虛。亦被稱為湊左衛門佐入道。 安東氏的族譜有許多矛盾之處,有些將堯季記為安東友季之子,也有說法是定季將家督讓給友季後出家,但因友季的早死而還俗並改名堯季 堯季除了保護寺社外,並和自曾祖父安東昭季以來一直不和的宗家檜山安東家締結和議,把女兒嫁給檜山安東舜季。在天文十二年(1543年)及天文十五年(1546年)寄給本願寺証如的書信,顯示出堯季為了領國的安定而和中央的權貴來往。 一直無法生下男子,認領弟安東友親之子友季卻早死,於是迎來外孫舜季的次子春季當養子,並改名友季成為第8代當主,堯季出家。而友季夭折之後還俗,改名堯季成為第9代當主。 堯季死後,由外孫舜季的三男茂季繼承湊安東家成為第十代當主,天正七年(1579年)茂季去世,埋下湊騷動的遠因。 註:安東通季(安東茂季之子)於天正十七年(1589年)起兵反叛安東實季,為第三次湊合戰。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_19.html 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E6%9D%B1%E5%A0%AF%E5%AD%A3

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