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島津義弘 Shimazu Yoshihiro(1535年-1619年) 島津貴久的次子、母為入來院重聰之女・雪窗夫人、正室為北鄉忠孝之女;幼名又四郎,初名忠平,受將軍足利義昭偏諱「義」字,改名義珍,後改名為義弘,號惟新齋,渾名鬼石曼子。 天文二十三年(1554年)岩劍城城主祁答院良重聯合入來院重嗣、蒲生範清、菱刈重豐反對島津氏。義弘跟隨父親貴久,在大隅國西部與聯軍作戰,擊敗他們。這也是義弘的初陣。弘治三年(1557年),參與對大隅大名蒲生氏的戰鬥中,第一次取得敵將首級,但這場戰鬥中義弘也因身中五箭而重傷。 永祿三年(1560年)3月19日,豐州家的島津忠親由於無法抵擋日向國大名伊東義祐的頻繁進攻,向父親貴久求救。貴久讓義弘作忠親的養子,鎮守飫肥城。不過在永祿五年(1562年),貴久遭到肝付氏的猛烈進攻,被迫召回義弘,使養子協議成為一紙空文。 島津氏幫助北原氏從伊東氏那裡奪回失去的領地。真幸院司北原兼幸有反叛北原氏的跡象,義弘便進入真幸院之地,從此以後,義弘以飯野城為自己的居城。 永祿九年(1566年),父親貴久將家督之位讓給長子島津義久。此時,伊東義祐築造三之山城,計劃以此為據點攻打飯野城。義弘同兄義久、弟島津歲久一起,趁城未建好之時發動襲擊,但遭到伊東氏援軍的擊敗,義弘身負重傷,被迫撤退。 元龜三年(1572年),在木崎原之戰中,義弘率領300名士兵從後奇襲大敗伊東軍。此戰中他勇猛非常,雖然島津氏方面傷亡極慘重,但也為島津氏的擴張奠定基礎。 天正五年(1577年),義弘徹底將伊東氏勢力逐出日向,剷除島津氏的宿敵。而與伊東氏結盟的大友氏得知消息後,迅速派兵攻打日向。在耳川之戰中,義弘輔佐兄長島津義久,大破大友氏,乘勝遠征大友氏的根據地豐後。天正十三年(1585年),攻打八代城,肥後國守護代阿蘇氏投降。義弘多次代替兄長擔任總大將,立下赫赫戰功。天正十四年(1586年),再次攻打豐後,逐步蠶食大友氏的領地。此年,接受幕府將軍足利義昭的偏諱,改名「義珍」;翌年改名義弘。 天正十五年(1587年),大友氏向豐臣秀吉求救,豐臣秀吉發動九州征伐。義弘與島津義久都主張對豐臣氏作戰。兄弟幾人利用擅長的「釣野伏」戰術(即誘敵深入),在戶次川之戰中,一度大破豐臣、大友聯軍,殺死長宗我部信親等人,為後來島津家投靠豐臣方面贏得不少實力籌碼。根白阪之戰中,義弘雖然一馬當先奮勇殺敵,試圖激勵士氣,但由於兵力上的劣勢而大敗。之後隨著島津家久在堅田合戰敗在山田宗昌的手下,義弘自身也攻不下志賀親次所守備的岡城,之後豐臣秀長率兵與大友軍合流,島津軍的戰況每況愈下,終於在五月八日(西曆6月13日),義久決定向秀吉投降,但義弘仍然堅持主戰。二十二日,義弘終於被義久說服,派兒子久保前往豐臣軍中作人質。義久剃髮出家並改名龍伯,由義弘繼承家督,但義久仍掌握實權。雖然島津氏被保全,但僅擁有薩摩和大隅兩國,以及日向國的諸縣、真幸院等地。力主和議的島津家臣伊集院忠棟受到秀吉的讚賞,在九州進行檢地。忠棟因此受到島津氏一門的敵視。 天正十六年(1588年),義弘上洛,朝見豐臣秀吉。為以示恩寵,秀吉賜予島津義久「豐臣」之姓,義弘則被賜予「羽柴」之姓。 此後,義弘參與豐臣軍的小田原征伐,滅亡北條氏。在日本統一之後,豐臣秀吉決定入侵朝鮮,慶長二年(1592年),秀吉發動侵略朝鮮的戰爭。義弘與侄兒島津豐久都參加這場戰爭。義弘的兵團隸屬於毛利勝信(毛利勝永之父)的第四軍團,負責進攻朝鮮的江原道。義弘所率的兵團人數為一萬人,是第四軍團中人數最多的兵團。不過,在召集出徵兵團之時,島津氏領地發生反對出兵朝鮮的梅北一揆事件,使得島津兵團渡海之日被迫推遲,此後秀吉不信任義弘,義弘被迫要在朝鮮戰場上立功來消除秀吉的疑慮。 慶長二年(1597年)7月,漆川梁海戰中,義弘與藤堂高虎等部一起大敗朝鮮水軍,殺死朝鮮將領元均。8月參加南原城之戰。全州會議之後,義弘率兵團自忠清道扶餘郡北伐,經過井邑,直到全羅道的海南南下。此後自10月末起負責防守泗川。慶長三年(1598年)陰曆9月,在泗川之戰中擊退中國明朝軍董一元部的進攻。 九月十九日到十月四日,明朝與朝鮮聯軍原本打算海陸包夾小西行長防守的日軍最左翼的順天城,經過近一個月的戰鬥之後聯軍攻城失敗,不但順天城未能攻下,其他兩路之兵皆被日軍擊敗。 慶長三年(1598年)8月,太閤豐臣秀吉病死於京都伏見城;10月,執掌權力的德川家康等五大老決議撤兵,於是向在朝鮮的日本部隊下達命令準備撤退。11月,日軍以駐在蔚山的加藤清正軍團為首,開始分批撤退。此時明軍則分道進擊,由廣東南澳水師副總兵陳璘統率新任副總兵鄧子龍、遊擊馬文煥等部,以戰艦數百,分布於忠清、全羅、慶尚諸道海口預備截擊由海路撤退的日軍。 原本小西行長與明軍將領劉綎達成共識,讓日軍安全撤軍而明軍則不追擊,於十一月十日準備撤出順天城,不料明軍出爾反爾,派出船隊從海上堵住日軍的退路。小西行長於是派人向在泗川城的義弘等人求救。於是義弘、宗義智、高橋統增、立花宗茂等日軍猛將在巨濟島集結,於十七日凌晨出發前往救援小西行長,而得知日軍即將援助小西行長,陳璘派鄧子龍偕同由李舜臣統率的朝鮮水師出擊。雙方船隊在露梁海上相遇,史稱「露梁海戰」。 戰鬥一開始,義弘雖知道明朝聯軍社伏於觀音浦與南海島西北岸之間,但是為讓小西行長成功撤退,義弘假裝掉入明朝聯軍的埋伏以吸引最多可能的敵軍,於是選擇從海峽中間突破的戰術。島津部將樺山久高首先率領部隊突圍成功,島津軍使出勢弱之勢意圖吸引明朝聯軍追擊,鄧子龍眼見日軍就要突圍成功,趕忙追擊島津軍卻反而被島津軍的「釣野伏」所包圍,李舜臣見鄧子龍被島津軍包圍趕緊前來救援,卻被島津軍事先埋伏於船尾的鐵砲部隊奇襲,李舜臣身中數彈,氣絕身亡,根據朝鮮文獻記載:「砲賊伏於船尾向舜臣齊發,舜臣中丸,不省人事。」,明朝水師主將陳璘孤軍深入,被日軍船隊包圍差點被俘虜。在義弘的力戰下,日軍成功突破封鎖,並達成掩護小西行長撤退的目的後,從容撤離戰場並與日軍主力合流,駛向對馬回到九州的名護屋城。 豐臣秀吉死後,島津氏一門對伊集院忠棟的不滿終於爆發。慶長四年(1599年),由於家督繼承權問題,義弘之子島津忠恆殺死忠棟。此後忠棟之子伊集院忠真發動庄內之亂,島津氏內部發生嚴重分裂,分為以島津義久為首的反豐臣派和以義弘為首的中立派,家臣集團也都分裂為兩派,互相鬥爭。義弘只得將女兒御下嫁給忠真,達成和睦。不過此後,義弘沒有本國島津軍的決定權。 慶長五年(1600年),德川家康發動會津征伐,討伐上杉景勝。義弘接受家康的邀請,率1000人北上。伏見城被西軍圍攻時,但是伏見城城主鳥居元忠拒絕其進入伏見城,義弘一怒之下決定加入西軍。因為義弘的兵力較少,受到石田三成等西軍首腦的輕視,處於次要戰場上按兵不動。關原之戰前夕,義弘向石田三成提議夜襲東軍軍營,這個方案得到宇喜多秀家的支持,但石田三成沒有同意。在關原戰場中在西軍幾乎瓦解的時,義弘使用「捨奸」戰術,由正面突破東軍優勢兵力包圍,擊傷東軍追擊的井伊直政及松平忠吉還有本多忠勝、井伊直政等德川的重要武將。但是這也使義弘失去多名主要將領,例如是島津豐久以及長壽院盛淳。最終義弘從伊勢撤離回到薩摩。義弘的以三百兵力突破東軍十萬多人的包圍,引起全國的轟動。 關原之戰後,島津氏非常擔心德川家康會前來討伐,全境進入戒備狀態。憤怒的家康命令九州大名黑田氏、加藤氏、鍋島氏合兵三萬討伐島津氏。但島津氏在關原之戰中並無重大兵力損失,仍保有一萬多的兵力。家康擔心九州的外樣大名因不滿而再度反叛,撤銷討伐島津的命令。島津義久便以純粹是義弘的私自行動為由,以近衛前久為中介,與家康交涉,成功保住領地。義弘辭去家督之位,由島津忠恆繼承家督。 義弘辭去家督之位後,退往加治木城隱居,隨後剃髮出家,改名惟新齋。此後,島津氏由義弘、島津義久、島津忠恆(後改名家久)共同統治薩摩藩,但義弘、忠恆卻與義久互相掣肘,關係非常惡劣。慶長十年(1605年),義弘和忠恆計劃渡海進攻琉球,義久便提出強烈的反對。最終三方於慶長十四年(1609年)共同派出三千人入侵琉球。 慶長十九年(1614年),死於加治木城,年八十五歳,法名為妙圓寺殿松齡自貞庵主。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
戶川達安 Togawa Tatsuyasu(1567年-1628年) 戶川秀安的長子、母為石川晴清之女、正室為長船綱直之女、繼室為岡元忠之女;通稱助七郎、別名逵安、戒名不變院覺如居士。 父親秀安為「宇喜多三老」之一,起初達安被安排為宇喜多直家的繼承人宇喜多秀家的幼年侍童。達安幼年即生的健壯,到成年元服後體格更加強健並且個子很高,力氣也很大,比較家臣中的力士,寺尾作左衛門(割切大鹿之角)、高龜平八(打開加賀燈籠)更強。 天正七年(1579年),毛利家的小早川隆景鎮守忍城,宇喜多直家率軍於備中國境、備前境內的辛川城與隆景大戰,是為「辛川之役」。13歲的達安初陣隨父秀安參與此役為先鋒,達安率別動隊突擊小早川隆景軍側翼令其混亂退敗引發「辛川崩」,並與敵方守將互相以槍衾對戰,最終達安討取敵大將立下大功。 之後繼承父親秀安的備前兒島常山城成為守將,領有二萬五千六百石、與力90人、鐵砲足輕40人,擔任宇喜多家的侍大將連續參與備中高松之陣、九州征伐、小田原征伐,成為當時宇喜多家的代表武將之一。 天正十年(1582年)在備中高松之陣中,達安和父親秀安代替年幼的宇喜多秀家出陣參與羽柴秀吉(豐臣秀吉)的攻勢,於4月14日率一萬兵力於備中轉戰,奮勇進攻毛利方的冠山、宮路山、加茂等支城。之後在岡山城晉見秀吉,當時16歲的達安受到秀吉的稱讚,因而建立了在備州的武名。 天正十五年(1587年)參與九州征伐,隨初陣的主君宇喜多秀家和毛利輝元及羽柴秀長等將一同包圍日向的高城。4月17日,達安率領備前勢先鋒立下「一番討」前往被島津忠隣夜襲的友軍宮部繼潤(宮部善祥坊)陣營,後藤堂高虎、黑田孝高、龜井茲矩等也率軍來援宮部繼潤,夜中島津義弘也為援助島津忠隣而率軍前來,與達安大戰至拂曉,結果島津勢之死屍堆積如山高,義弘遂撤軍(根白坂之戰)達安先前也參與岩石城、小熊城等九州敵勢諸城的攻略,更於攻入大隅、薩摩之時於各處駐軍之地為鼓勵部下軍忠,每晚親自實行夜巡。 天正十八年(1590年)達安做為秀家的代總大將參加進攻北條氏的小田原征伐,並且把宇喜多軍的軍裝打扮的極為豪華美觀,受到諸大名的讚嘆和秀吉的稱讚。 之後達安率宇喜多軍進攻北條方的山中城,立下一番乘攻下敵方望樓,並成功奪下山中城,翌日,達安又率先登上湯本北面的山上,直迫小田原城,並發射鐵砲,其鐵炮的聲響傳至秀吉本陣,得知此事的秀吉立即派援軍支援補給,並賜糒酒給予達安做為犒賞。 文祿元年(1592年)豐臣秀吉發動侵略朝鮮的戰爭,達安作為宇喜多軍之一也率軍出戰。有一日,達安率兵出外,遇上朝鮮大軍,家臣中島賁之助是戰憤死,達安援軍打算出去營救,但達安有位新加入不久的家臣伊賀岡市之烝制止道:「敵軍看上來有數萬,此難有作為。請退回本陣等待誘敵、以圖欺敵。」 達安回應說:「如在此退去,敵必乘勝追擊。這裡只有奮戰至死而決不能退卻。」 並立刻爬上後山,乘勢攻破敵方後陣,並打擊山野小路上正在敗退的朝鮮陣營,討取首級數百。 之後日軍先鋒加藤清正的軍勢直攻入朝鮮京城後又直趨北方邊界的兀良哈進行對朝鮮軍的掃討,然而北方的極寒加上兵糧運輸遭到朝鮮水軍的截斷,加藤軍於前線遭到孤立,達安為此率軍前往兀良哈,接濟加藤軍援救加藤清正。 文祿二年(1593年)明朝呼應朝鮮的請求出動援軍,由李如松率領的四萬明朝軍隊擊破平壤的日軍一號隊小西行長,並且南下打算收復京城,日軍為此撤退至京城商議迎擊或籠城,最後在立花宗茂以及小早川隆景的堅持下決定出戰明軍。日軍因此分軍,由小早川隆景和立花宗茂等為先鋒隊,此時達安作為宇喜多軍的一員是本隊之一。 在立花宗茂做為先鋒隊一號隊於早晨時分擊破明軍先鋒查大受後,兩方軍勢在中午於碧蹄館周邊縱向列陣,此時達安的主君宇喜多秀家為爭功而想超越先鋒隊的軍陣立下先陣之功,然而小早川隆景分軍三隊擋住宇喜多軍勢並開始和明軍開戰,更傳令要求宇喜多軍為伏軍適時加入戰鬥,最後隆景配合小早川秀包、立花宗茂包圍明軍,宇喜多軍也在立花宗茂的傳令下伏擊出戰,此時達安率宇喜多軍加入戰局,和秀包、宗茂兩位同年的將領一同奮戰擊退明軍。晚年的達安在二代將軍德川秀忠前敘述此事,與立花宗茂一同受到稱讚。 文祿元年(1592年),宇喜多三老的岡利勝(元忠、家利,和子家利曾經同名)病死後,達安擔任各項國政的重臣,然而文祿三年(1594年)主君宇喜多秀家突然解除達安對於國政的職務,因為秀家於此時寵愛家臣長船綱直,並將國政轉由綱直處理,造成達安和綱直的對立,達安也漸漸對秀家感到不滿。不過即使達安和綱直對立,因為達安之妹為綱直之側室,綱直之女為達安之正室,因這層關係終於在綱直死前和解。(但是傳聞綱直之死為達安等敵對勢力毒殺所為。) 慶長5年(1600年)1月,宇喜多家中終於發生御家騷動。因為在前年死去的綱直之後,繼任國政的中村次郎兵衛同樣遭到達安、岡家利(利勝之子)、花房正成等宇喜多重臣的反感,當中的原因在於中村是切支丹(基督教)信者,和篤信日蓮宗的達安、利勝等人顯得格格不入,不管達安如何上訴秀家,秀家扔不理會達安的意見,為此達安和家利以及宇喜多詮家(左京亮,秀家堂兄,達安妹婿,後改名坂崎直盛)發動武裝佔據秀家在大阪的玉造宅邸,之間大谷吉繼和德川家臣神原康政都曾為此事而前往宇喜多家做調停,然而全都因為達安等人的堅持而失敗,最後由「五大老」之一的德川家康親自出面調停,結果是達安等宇喜多重臣離開宇喜多家轉為德川家臣而解決此事,然而此結果也造成宇喜多家之後在關原之戰戰力減半,國政也趨向衰弱。 慶長5年(1600年)達安等宇喜多家臣以新參德川家臣的身分加入會津征伐,之後轉攻歧阜城。隨後參加關原之戰,達安於前哨戰,合渡川之戰騎著愛馬「通天黑毛」渡河立下一番槍,更於關原本戰借取加藤嘉明的軍陣,聯合黑田長政的軍勢對抗石田三成軍,傳說此戰達安討取名將島左近,更取得其頭盔和鎧甲成為家傳寶物(現今戶川紀念館中僅保留頭盔上的"緒",頭盔則於大正四年由戶川安宅氏送往久能山東照宮做奉納之用。鎧甲則因早年大火燒失。),並且此戰奮勇作戰的英姿,和其頭盔的裝飾物的關係,被取異名為「干支的達安」 戰後,被家康賜與備中庭瀨藩2萬9千2百石(後加增至3萬石),期間達安修築撫川城並新建庭瀨城,熱心建立日蓮宗的寺廟如「名越妙見山」的「真城寺」、「覺如山不變院」、「啟運山盛隆寺」、「善立院」,改建城下町以及水道等,在領地也留下良好的內政功績。 外交方面則和領地相近的大大名小早川秀秋、福島正則等交好,達安曾經贈送愛馬「通天黑毛」給秀秋,秀秋也回禮名刀給達安。而福島正則也曾於書信中稱讚達安的武勇以及為人,達安也曾在福島家面臨改易危機時前往福島家勸說。 達安某年(應是大坂之陣前夕)在從江戶回到領地備中的途中經過大坂城,當時大坂豐臣家正招集浪人準備對抗德川家,當中開始有騷擾大坂附近的德川家領地的舉動,達安聽聞之後前往領地被騷擾的大名家助陣,浪人因此不敢攻擊而退去。 慶長十九年(1614年)達安也參加大坂之陣,於冬之陣中達安率軍於大阪城西方布陣,並於野田福島之戰和九鬼守隆、池田忠繼、花房職之等人乘戰船攻擊放火福島一帶,成功令敵軍退守回到大坂城。大坂夏之陣則是以培烙玉攻擊大坂城,也立下戰功,不過豐臣方因為有達安在宇喜多家時期的親戚(岡平內,達安妻兄岡家利之子、利勝孫)加入對抗德川軍,家康因此令其功過相抵。(但家利被迫切腹) 寬永四年(1628年),死去,年六十一歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B6%E5%B7%9D%E9%81%94%E5%AE%89
明石全登 Akashi Takenori(生年不詳-没年不詳) 備前保木城主の明石行雄(明石景親)の子として生まれた。備前明石氏(美作明石氏)は赤松氏の末裔(守護大名赤松円心の次男・赤松貞範の子孫)である。 行雄は、天神山城主の浦上宗景の家臣であったが、浦上氏滅亡の際には宇喜多直家に呼応して寝返り、以後、宇喜多家の客将となった。景親は弟の景季と共に、直家とその子の秀家に仕えて、4万石の知行までになった。景親の嫡子全登もその跡を継いで、和気郡大俣城(大股城)の城主となり、家老格であった。 慶長4年(1599年)、お家騒動(宇喜多騒動)が起こって、家宰(執政)の長船綱直が私的に殺害されると、関与した4人の重臣(戸川達安・宇喜多詮家(坂崎直盛)・岡貞綱・花房正成)が出奔したため、全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切った。主に軍事面を支えたことから、宇喜多秀家の軍師的存在だったと言う。当初、4万石の知行だったが、秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなった。 慶長5年(1600年)、東西の戦が始まると、全登は宇喜多秀家に従って出陣し、西軍に与すると7月から8月にかけて伏見城を攻略。(伏見城の戦い) 9月14日の杭瀬川の戦いでは、中村一栄をまず撃ち破って前哨戦を勝利し、9月15日の関ヶ原の戦い本戦では、宇喜多勢8,000名を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。全登は、斬り死にしようとした主君秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めた。 西軍敗走の際に田中吉政の家来・上坂万兵衛と接触したという記述がある。なお9月18日付けで、田中吉政は東近江の村々に石田三成、宇喜多秀家、島津惟新を捕らえるよう書状を配っている。 戦後、岡山城に退くが、城はすでに荒らされていて、秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔。 宇喜多氏が没落し浪人となると、キリシタン大名であり、母が明石一族である黒田如水の下で庇護されたといわれている。如水の死後、息子の黒田長政がキリスト教を禁止したため、柳川藩の田中忠政を頼ったとされている。ただしこの時期の消息については諸説ある。 慶長19年(1614年)、大坂の陣が起こると豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615年)の夏の陣では、まず道明寺の戦いに参加。後藤基次が突出して戦死し敗れたが、全登隊は水野勝成・神保相茂・伊達政宗勢と交戦して混乱に陥れ、政宗と相茂の同士討ちを起している。この戦いで全登は負傷した。天王寺・岡山の戦いでは、旧蒲生氏郷家臣の小倉行春と共に全登は300余名の決死隊を率いて、家康本陣への突入を狙っていたが、天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、水野勝成、松平忠直、本多忠政、藤堂高虎の軍勢からなる包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。 その後の消息は不明である。徳川方の複数の家伝がそれぞれに全登をこの戦いで討ち取ったと伝え、戦死したとも言うが、それ以上に落ち延びたとする伝承も多く、いくつかは嫡子内記と共に九州に、またある物には南蛮に逃亡したのであろうと取沙汰したと書かれたものもあるほどで、諸説あり、判然としない。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E5%85%A8%E7%99%BB
明石景親 Akashi Kagechika(生年不詳-没年不詳) 備前国で浦上氏の家臣として浦上則宗の代から仕える備前明石氏の出身。父の名は源三郎景憲であるとも言われるが確証は得られておらず今のところは不明である。 天文年間末からの浦上政宗と浦上宗景兄弟の分裂において『備前軍記』では終始宗景に味方した股肱の臣として挙げられており、以後宗景に重臣として仕える。永禄10年(1567年)の明善寺合戦では浦上方として宇喜多直家の援軍として駆けつけ勝利に貢献したという。 永禄11年(1568年)6月1日には備前の片上と浦伊部(いずれも現在の岡山県備前市内)の間で起こった境界争いの仲介を大田原長時・服部久家・日笠頼房・岡本氏秀・延原景能と行雄の6人が行っている。永禄12年(1569年)には10月には美作国で毛利氏に奪われた高田城の奪還を狙う三浦貞広を岡本・長船・岡らと共に支援して高田城代香川広景を攻撃した。 天正2年(1574年)から浦上宗景と宇喜多直家の対立が激化し、天神山城の戦いが開戦した際には宗景を支持し、情勢不利となっても宗景とともに天神山城に籠り交戦していたが、やがて抗い切れないと悟ると宗景を見限り天神山城に火を放った上で城内の一角を占拠し天神山城陥落のきっかけを作った。この時、行雄の裏切りが天神山陥落に絡んだことは毛利氏の記録でも確認できる。 浦上氏滅亡後は浦上時代の所領をそのまま認められたが、宇喜多氏の老臣の列には加えられず「客分」として行雄は迎え入れられた。天正6年(1578年)の第二次上月城の戦いでは攻城側の後巻として八幡城に布陣していたが、この時上月城の救援に来ていた羽柴秀吉の家臣の竹中重治に密かに通じるなど不穏な行動を取っていたものの、攻城側優位のこの戦いにおいて実際に行動は起こしていない。 天正7年(1579年)に直家が毛利氏を裏切って織田信長に通じた際には毛利との戦争に備えて備前と美作の国境付近の白石城の改修に当たった。天正8年(1580年)3月には宇喜多から毛利へと寝返った竹内為能の籠る高城攻囲に参加。この攻城戦の際、蕨尾山に陣取った行雄の軍勢が籠城兵の夜討ちによる反撃を受け平尾弾正忠が討ち取られるなどの被害を出したが宇喜多軍は高城の攻略に成功し為能を追放した。高城陥落後の同年9月には篠向城に移って城の改修をした。 天正10年(1582年)には備中高松城の戦いに直家の嫡子八郎(後の宇喜多秀家)を奉じて羽柴秀吉の元に参陣し賞賛された。 天正11年(1583年)、羽柴秀吉と毛利氏との話し合いで決められた宇喜多・毛利両氏の領地の境界で宇喜多方に組み込まれた事に不満を示し、交戦の構えを見せた娘婿である虎倉城主伊賀家久に対して城を開城し毛利領へと退去するよう説得し、家久を虎倉より退去させる事に一役買った。天正14年(1586年)に従五位下伊予守叙任、以後の書状での名乗りは明石伊予守行雄となる。 天正16年(1586年)9月8日には上洛した毛利輝元の屋敷に宇喜多秀家の使者として参上し宇喜多屋敷へと輝元を招待したいという旨を伝えた。文禄3年(1594年)に行雄は娘婿伊賀家久の遺児である才法師丸の行く末を心配して、当時の家久の主君であった小早川秀秋の家老である山口宗永に書状を送って「似合いの御用」を仰せつけて欲しいと頼んだ。また、この書状では「老足の儀」により参上は出来ないので御用は掃部助(全登)に仰せつけて欲しいとも頼んでいるので、この時既に老衰が始まっており明石氏の当主も掃部助に移譲されていたものと見られる。 文禄3年(1594年)付けの書状が行雄の遺した最後の書状であるが、没年については不明である。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%9F%B3%E8%A1%8C%E9%9B%84
末次元康 Suetsugu Motoyasu(1560年-1601年) 毛利元就的八子、母為三吉氏、養父椙杜隆康、正室為杉原盛重之女、繼室為吉見廣賴之女.矢野局;幼名少輔七郎,通稱七郎兵衛尉,別名毛利元康、富田元康,戒名石心玄也。 生於安藝國吉田庄,同母兄毛利元秋、出羽元俱,異母兄弟有毛利隆元、吉川元春、小早川隆景等。 自元就處受領出雲國末次庄(所領2400貫)末次城故常以末次元康為名。後來代替被椙杜氏迎作養子的同母兄元秋成為椙杜氏家督。 天正四年(1578年)跟隨兄長吉川元春進攻因幡國宮石城(現鳥取縣鳥取市氣高町)立功,此為初陣。天正十三年(1585年),毛利氏參加四國征伐時南條直秀(南條元續)趁機奪取伯耆國河原山城,末次元康將城奪回,因而受到褒獎。同年,接替急死的同母兄毛利元秋成為出雲國月山富田城主。天正十九年(1591年)豐臣秀吉命吉川氏當主吉川經言(吉川廣家)轉封月山富田城,元康移至備後國神邊城(現廣島縣廣島縣福山市神邊町)。 文祿元年(1592年)開始的文祿慶長之役中作為主君毛利輝元的名代出兵朝鮮。碧蹄館之戰擊退攻來的明軍一千餘人將戰鬥引向勝利,功勞甚大,獲得豐臣秀吉感狀。後於文祿四年(1595年)擔任從五位下官職,並獲賜豐臣姓。文祿之役後的慶長三年(1598年)在瀨戶內海內的小半島上修築了王子山城(現廣島縣福山市東深津町),並將居城自神邊移至此處。嫡男元宣亦生於此城。 慶長五年(1600年),豐臣秀吉死後,德川家康極盡專橫之事,與石田三成、宇喜多秀家產生對立,毛利家中對於加入哪一方也是爭論不休。因而元康一邊負責協調家中意見,一邊受毛利輝元之命與堅田元慶等人向藤堂高虎、加藤嘉明領內伊予國國人久枝又左衛門發送書信希望其內應,積極的展開各種內應工作。 關原之戰中參加前哨戰伏見城攻城戰,伏見城落城後作為西軍的大將率軍一萬五千進攻京極高次駐守的大津城(大津城之戰)。元康將本陣置於長等山,並在此與立花宗茂軍勢聯合對城內進行炮擊。9月13日開始總攻擊,掩埋了護城河,連下三の丸、二の丸直逼本丸,9月15日城主京極高次投降,同日關原之戰本戰打響,結果沒有趕上本戰。聽聞主力敗北傳聞的元康返回大阪城進行抗戰準備,由於毛利輝元無意作戰,最終撤出大阪城返回本國。 戰後由於毛利氏減封至防長兩國,所領變為長門國厚狹郡10,500石,子孫是長州藩一門家老厚狹毛利家。 慶長六年(1601年)病死於大阪木津毛利宿陣,得年四十二歲。 另:現廣島市內元安橋,本名元康橋,後為避德川家康之諱改名元安橋,此橋即得名自末次元康。橋下的河也因橋而得名元安川。以元康為名的原因一說是其指揮了架橋工作,一說此橋正好通到元康宅邸門前。元安橋經過數次改修,於1920年改為鋼筋混凝土結構。1945年廣島原爆時,此橋距爆心僅130米,然而奇跡般的並未坍塌。1989年,因為原橋結構老化進行了大幅度改修,僅保留了原橋的些許結構物。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=7#postid-207 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%AC%A1%E5%85%83%E5%BA%B7
本多政重 Honda Masashige(1580年—1647年) 本多正信的次子、養父倉橋長右衛門、直江兼續、正室為直江兼續之女・於松、繼室為大國實賴之女・阿虎;初名倉橋長五郎,後改名正木左兵衛、直江勝吉,後復姓本多,名政重,號大夢。 天正十九年(1591年)成為德川氏的家臣倉橋長右衛門的養子。不過在慶長二年(1597年)與德川秀忠的乳母大姥局的兒子川村庄八(岡部庄八)爭執,最後將其斬殺並出奔,之後成為大谷吉繼的家臣。此後成為宇喜多秀家的家臣,被賜予2萬石並改名為正木左兵衛。 慶長五年(1600年)的關原之戰中擔任宇喜多軍的一翼,以西軍的身份奮戰,不過因為西軍戰敗而逃走並在近江堅田隱居。雖然是屬於西軍方,不過只是臣下的立場,加上是本多正信的兒子,於是沒有被問罪。此後仕於福島正則,不過不久後就離去,接著被前田利長以3萬石登用。不過在慶長八年(1603年)得知舊主秀家被家康流放後,離開宇喜多氏的親戚前田家。 上杉景勝的重臣直江兼續打算接近父親正信,而希望迎政重為婿養子,慶長九年(1604年)8月,政重娶兼續之女.於松,並接受景勝的偏諱而改名為直江大和守勝吉。慶長十年(1605年)於松病死,不過因為兼續的懇求而繼續養子關係。慶長十四年(1609年),兼續收弟弟大國實賴的女兒阿虎為養女並將其嫁給政重(實賴反對兼續把政重迎為養子,在斬殺迎接政重的兼續家臣後出奔)。在此時改名為本多安房守政重。 慶長十六年(1611年)離開上杉氏。在慶長十七年(1612年)因為藤堂高虎的仲介而返回前田家並拜領3萬石,以家老身份輔助年幼的前田利常(前田利長的弟弟)。妻子阿虎被允許前往跟從在加賀的政重,而此時本庄長房(政重之前兼續的養子)等許多人都前往仕於政重,加賀本多家中有半數人以上是舊上杉、直江家臣出身都是因為這個原因,雖然這樣令上杉家在人員整理上不太方便,不過以後政重亦與上杉、直江家持續親交。 此後都仕於加賀藩,慶長十八年(1613年),前田氏被江戶幕府命令交出越中國,不過政重成功令幕府撤回命令,於是加增2萬石而領有5萬石。在加賀藩被幕府懷疑反逆之際前往江戶並作出解釋,成為令前田家迴避懲罰,因為這次功績而加增2萬石。 慶長十九年(1614年)冬天開始的大阪之陣中亦有從軍,不過被真田信繁誘導進入真田丸並戰敗,令信繁一戰成名。慶長二十年(1615年)閏6月3日,敘任從五位下安房守。 寬永四年(1627年)4月20日,嫡男政次以18歲之齡死去,正室阿虎亦在6月10日死去。在同年與西洞院時直的女兒再婚。此後在前田光高、前田綱紀時代亦一直以家老的身份輔佐前田家。 正保四年(1647年)3月,以生病為理由隱居並改名為大夢,把家督讓予五男政長,同年6月3日死去,年六十八歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%94%BF%E9%87%8D
松平忠吉 Matsudaira Tadayoshi(1580年-1607年) 德川家康的四子,母為戶塚忠春之女.西鄉局,正室為井伊直政之女.清泉院;幼名福松君,繼承東條松平家,初名為松平忠康,法名性雲院殿憲永大居士。 天正九年(1581年),在東條松平家的家忠病死之際,繼承東條松平家並領有三河國東條城1萬石,受祖父「忠」字和父親「康」字,名為松平忠康。 天正十二年(1584年),小牧長久手合戰後,與兄長結城秀康一同被送往大阪豐臣秀吉處擔任人質。 天正十八年(1590年),在豐臣秀吉發動小田原包圍戰將五代雄據關東一百年的北條家消滅後,開始以封賞的名義大規模遷易諸大名的領地,蒲生氏鄉移至會津、伊達政宗改封到大崎,而德川家康也在此時被要求改易至北條舊領關東六州二百五十萬石,家康清楚這是秀吉明升暗抑的決策,但仍表明樂意接受如此安排,並在此時替忠康留下武藏忍城十萬石,暫時由伊奈忠次代替忠康負責在武藏領的檢地。 天正十九年(1591年),因為家康對秀吉的行為皆以合作態度表示臣服,所以秀吉覺得不必再留下太多德川家的人質,所以只留下已成為秀吉養子的秀康在身邊讓忠康離開大阪城歸國。 父親家康被移封至關東地方後,在文祿元年(1592年)成為武藏國忍城城主,家康親自替忠吉元服。忠吉在伊奈忠次的協助下正式親身統管自己的領地,之後在家康的安排下迎娶德川家重臣井伊直政的女兒。 慶長三年(1598年),秀吉死後,家康謀奪天下的雄心再現,此時與家康對立的是秀吉遺臣石田三成,但是出身文吏派石田三成生性高傲、陰險小氣所以讓家康得以伺機分化與三成不睦的武鬥派加藤清正、福島正則等人,就在慶長五年(1600年),石田三成和家康之間爆發關原之戰。 當時家康招來已成年的四個兒子,起用忠吉擔任東海道行軍的大將並命忠吉的岳丈井伊直政及本多忠勝兩人擔任忠吉的補佐役,次兄秀忠則自東山道進軍關原,長兄秀康負責管制奧羽的大名上杉家,三兄信吉因為體弱多病駐守江戶城。 九月十五日上午六時,德川家康到達桃配山後開始布陣,忠吉率3000人進入關原佈陣與井伊直政、寺澤廣高三隊並列在加藤嘉明後面。在之前的軍議中家康為顧全大局答應福島正則的要求讓他擔任先鋒,這使在德川軍常任先鋒的井伊直政頗感不快,將此情況看在眼中的忠吉便逕自進入岳父的陣營向井伊直政說:「身為武士的兒子,唯有在戰場上才是正路。」 血氣方剛的忠吉這番話打動井伊直政的心弦,決定聯同忠吉不理會德川家康任命福島正則為先鋒的命令,率領麾下部隊一同進攻,忠吉與井伊直政帶三十個兵士以偵察對手之名迅速越過福島正則的陣地,然後就向西軍宇喜多秀家的部隊發射火槍,點燃大戰的硝煙。 東西軍參戰部隊完全捲進混戰,而戰事就底定於小早川秀秋的背叛,他的背叛引發西軍部隊的連鎖式反應,朽木元綱、小川祐忠及赤座直保等先後反叛加入東軍,西軍全面崩潰。 此時島津義弘率餘兵向牧田口方向突擊衝去殺出一條退路,忠吉見狀和福島正則、本多忠勝、井伊直政一同追擊過去,其中希冀建立功名的忠吉更是兇猛異常,在激烈的爭戰中忠吉被島津義弘家臣松井三郎兵衛所刺傷,戰勝後忠吉與井伊直政一同謁見家康,忠吉受到家康的贊賞,同時家康也對擔任補佐役的直政表達謝意,感謝他對忠吉的教導。 戰後忠吉因在關原的戰功封尾張清洲城五十二萬石,官拜從四位下侍從,但是忠吉卻一直滯留在伏見,負責燬壞後伏見城城下町的重建,後來在慶長九年(1604年)忠吉身染重病,最後忠吉在慶長十二年(1607年)往江戶參勤途時,於三月五日在江戶城下的芝浦病逝,年二十八歲。 因為忠吉沒有嗣子,慶長二年(1597年)所生的獨子.梅貞大童子,在出生後16日死去,清洲藩由弟弟德川義直繼承,為御三家之一的尾張德川氏,同母兄長秀忠對忠吉的死去感到非常悲傷。 出處#1 http://happyfish.zone.gamebase.com.tw/zone/happyfish/forum/3867/archive/topic/316199 出處#2 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E5%90%89
森忠政 Mori Tadamasa(1570年-1634年) 元亀元年(1570年)、美濃金山城で織田信長の家臣、森可成の6男として生まれる。母は美濃の豪族林通安の娘えい(後の妙向禅尼)。幼名は仙千代。誕生と同年中に父が戦死(長兄の可隆は父に先立って戦死)したために次兄の長可が家督を継いでいる。 石山合戦の和睦の際に母の妙向禅尼は一向宗の門徒ということで織田家と本願寺の講和の使者の1人となっていたが、この和睦の締結の際に「森家ゆかりの人間を僧籍に入れる」という事が条件に入っており、仙千代が一時期僧籍に入ったが程なくして関成政(森可成の娘婿)の4男の竹若丸が代わりに僧籍に入ることになり(法名・了向)、仙千代はすぐに還俗している。 天正10年(1582年)の春頃、「長重」を名乗り織田信長に小姓として出仕するが、同僚の梁田河内守にちょっかいをかけられ、信長の前で梁田の頭を扇子で殴打したのを見咎られ、まだ幼すぎるとして3月には美濃国の母の許に返された。しかし、結果としてこれが幸いして本能寺の変に巻き込まれずに済んだ。本能寺の変が起きた時は妙向禅尼と共に近江安土城に居たが、変の事を知った森家と友好の深い甲賀流忍者の伴惟安の手引きによって妙向禅尼と共に政情不安定な安土から脱出し、甲賀にある惟安の所領に匿われている。同年9月11日に領地付近の平定を終えた長可によって迎えの使者が出され、伊勢国で引渡しが行われ妙向禅尼ともども金山へと帰った。 天正12年(1584年)4月9日、兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死。この時点で既に他の兄達は全て早世しており、森家の世継ぎは長重のみであった。長可戦死後、遺言状が羽柴秀吉に提出されたが長可は遺言書で長重への家督相続について「あとつぎ候事、いやにて候」と書き、更には金山は誰か信頼できる武将に任せて長重は秀吉の元で奉公するようにと指定するなど長重の家督相続にかなり否定的であったが、秀吉も自分に味方した武将の領地を没収する訳にはいかず遺言のこの一節は無視して、長重を金山7万石の跡継ぎとして指名し各務元正・林為忠の両家老を後見役に任命。森家も金山にそのままとどめ置かれた。長重は家督を継いでまず、かつて恩の有る伴惟安や息子の伴惟利ら長可の代まで協力者の立場であった甲賀衆に森家への仕官を打診し、正式に召抱えている。 天正13年(1585年)になると「一重」と改名。同年の富山の役に1,500の兵を率いて16歳で初陣を果たし、10月6日に従五位下右近丞に叙任。天正14年(1586年)になると「忠重」と改名し秀吉の関白拝賀のため参内している。 天正15年(1587年)2月6日、豊臣姓を下賜され、従四位下侍従に叙任された。また同時に羽柴姓と桐紋の使用を認められ、以後「羽柴右近大夫忠政」と称す。同年九州征伐には眼病を理由に参陣を見送り、陣代として大将に林為忠、副将として伴惟利らを派遣している。天正18年(1590年)の小田原征伐では自身も出馬し韮山城攻めに参加した。朝鮮出兵の折には、九州の名護屋城普請奉行を勤め、兵2,000を率いて名護屋城下に参陣している(渡海はしていない)。伏見城普請、方広寺の大仏建造などにも参加した。 慶長3年(1598年)に秀吉が死亡すると徳川家康に接近。慶長4年(1599年)に伏見城下にて、家康と前田利家・石田三成との対立によって双方に味方する諸侯・軍勢が参集し緊張状態となった際には徳川屋敷に参じて3日間詰め、家康より賞詞があった。 慶長5年(1600年)、かねてから希望していた信濃国川中島13万7,500石への加増転封の話が纏まる。これは太閤蔵入地約9万石を廃止しての加増転封であった。これにより同年2月、川中島4万石の田丸直昌と相互に入れ替わる形で領替えが行われた。この時、河尻秀長・妻木頼忠などが信濃転封には同行せず美濃にそのまま残っている。この転封は後年になって家康の独断と取られがちだが、転封前には増田長盛・前田玄以・長束正家らが信濃入りして田丸に森家への御蔵米の譲渡を指示しており、豊臣家公認の上での転封である可能性が高い。 慶長5年(1600年)3月には川中島へと入領。入領してすぐに天正壬午の乱の際に兄である長可を裏切った高坂昌元の一門を探し出して磔に架けるなど当初から強硬な姿勢で臨んだ。また居城となった海津城を「待城(兄長可と同じ地へ入領し兄の遺恨を晴らすのを心待ちにしていたからと伝えられている。その後に松平忠昌が松城、真田信之の代に幕命により松代)」と改名している。4月頃になると石田三成が森家の大坂方参陣を促すべく川中島を訪れ会談が行われた。忠政は対外的にはまだ豊臣家の家臣の体をとっていたがこの席で豊臣家批判とも取れる言動を繰り返し破談。以後は家康支持の立場を明確なものとし、本姓である森姓を再び名乗った。三成はこの時の忠政の態度に強く憤り、真田昌幸に宛てた書状の上で「忠政との遺恨格別」「秀頼様を騙し領地を掠め取った」などと名指しで批判している。 同年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、7月21日に家康の会津出兵に先立って宇都宮に着陣し合流を待ったが、7月24日に真田昌幸が西軍と通じ上田へと帰国した事を受けて忠政と石川康長両名は真田への抑えとして領国へと帰還するよう命じられている(この為、小山評定や以後の中山道隊の行軍には加わっていない)。離脱後も盛んに家康や徳川秀忠と書状を交わし情報交換を行っている。その後も家康の命で川中島在中であり、9月の第二次上田合戦の際にも出馬はせず、出馬要請なども無かった事から行った軍事行動は井戸宇右衛門ら少数の軍勢を上田の北にある地蔵峠付近へと派遣するに留まっている。 結局、秀忠率いる中山道隊は上田城を落とすことは出来ず先を急ぐことになったが忠政は秀忠の意向で仙石秀久らと共に真田の備えの為に領地に残し置かれた。忠政は葛尾城代・井戸宇右衛門配下の兵に上田の監視を命じたが、これに対して真田軍は真田信繁が9月18日と23日の2度打って出て、葛尾城に夜討と朝駆けの攻撃を敢行している。同月中に真田家は降伏・開城したが、徳川軍の入領に対して領民の一揆が起きた時に忠政はこれを速やかに鎮圧しその功を秀忠より賞された。ただ、戦後の加増はなく領地は据え置かれた。 慶長7年(1602年)8月、忠政は「右近検地」と呼ばれる信濃4郡全てを対象とした総検地を実施。検地は厳しく行われ、この検地により信濃4郡の石高は5万石以上上昇し、結果として領内の領民に多大な増税を課す事になった。領民はたまらず検地のやり直しを求める嘆願などを出したが忠政はこれを無視。圧政に耐えかねた領民はついに一揆を起こし、これは4郡に波及する大規模な全領一揆となった。これに対して忠政は一揆を徹底的に殲滅し、捕縛された一揆衆も鳥打峠で数百人単位で磔に架けられ処刑され死者は600人余りに及ぶなど忠政の対応は苛烈なものであった。善光寺に残る「千人塚」は忠政に殺された犠牲者を弔ったものといわれ、塚には赤字で犠牲者の姓名が刻まれている。また、一揆後も検地のやり直しなどは一切行なっていない。 慶長8年(1603年)、小早川秀秋の死によって小早川家が無嗣改易されると美作一国18万6,500石(津山藩)への加増転封が決定。川中島には松平忠輝が入った。 しかしながら森家の美作入封に元小早川家臣や元宇喜多秀家の家臣の浪人や在地土豪らが反発。元小早川家臣・難波宗守が首魁となり2,680人余りで播磨・因幡国境付近を固め入国を拒否するという事態となった。 この一揆の報告を受けた忠政であったが女子供含む1,000人足らずで信濃を発つと調略に取り掛かり、美作菅党の有元佐政を寝返らせる事に成功し、彼らの案内で美作入国を目指す。この動きに気付いた国人衆は慌てて忠政を討つべく夜襲を敢行したが、忠政を捕捉出来無いどころか、別の夜襲部隊と鉢合わせして同士討ちを始めるなど連携の悪さを露呈し、この隙に忠政一行は美作入国を果たした。この有元氏は当時は浪人であったが美作菅党と呼ばれる美作の有力土豪の宗家筋に当たる家で、有元佐政は一揆に参加した一族の説得を開始。これにより一揆軍の瓦解が始まった。 そもそも一揆の目的は防衛線を固め、森家の美作国への侵入を防ぎつつ迎え撃ち、進退極まった森家が和議を申込んだところでこれまでと同じ既得権益を認めさせる事に有ったという。しかしながら、既に忠政の入国を許してしまった事から、早く森家に降伏して取り入ることにより権益の保持を狙うものが続出。離脱者の相次ぐ一揆勢は徐々に体を成さなくなり崩壊し、占拠していた林野城も森家に明け渡され一揆の指導者と目された難波宗守も自害して果て、森家に従うことを良しとしない者達は美作国を去り、一揆は殆ど森家と交戦する事も無く終息へと向かった。 乱後、有元氏や、菅納(菅)氏、福島氏、佐藤氏など早くから従う姿勢を見せた者には地主としての権利の保持や森家への仕官などが認められたが、それ以外の後から降った者達は期待したような待遇は無く、逆に士分を剥奪され帰農する事を強制するなど厳しく対応している。 無事に美作入りを果たした忠政であったが、新たな居城の建築場所を巡って以前より関係の悪化していた重臣・井戸宇右衛門との対立が表面化。忠政は同年5月に院庄の工事現場にて名古屋山三郎に井戸の殺害を命じ、宇右衛門の2人の弟も刺客を放ち暗殺し、井戸一族を抹殺した。しかしながらこの一件により筆頭家老の林為忠を初めとする林一門が森家を出奔するという事態に陥る。二頭体制の一角であった各務元正も既に亡く、これにより筆頭家老の座には若い各務元峯(元正の嫡男)が就く事になった。 慶長9年(1604年)には伴直次を総奉行とし領内の検地を実施。また、前年の事件により止まっていた城の建築予定地を院庄から鶴山の地に変更。地名を鶴山から『津山』へと改め、城の建築を再開した。これが津山城である。また、築城に際して荒廃していた大聖寺の再建にも努めた。 しばらくは家政も安定していたが、慶長13年(1608年)に石切場で筆頭家老である各務元峯が喧嘩の末に家老の小沢彦八を殺害。また仲裁に入った家老・細野左兵衛も元峯の家臣によって斬り殺されるという事件が起こる。折悪く忠政は参勤交代の為に江戸に居たが、この事件は大塚丹後守の裁量によって家中騒動などの大事には至らなかった。しかしながら忠政はこの有様に激怒し3家老の所領を召し上げた。この後、しばらくは大塚丹後守がまとめ役となったがその大塚も慶長17年(1612年)7月に死去。 こうした事から忠政は新たな家中の抑えとなる人物を探し、江戸幕府旗本となっていた叔父の森可政の津山藩入りを幕府に希望。幕府もこれを認め忠政は可政に5,000石の所領と執政職の権限、更には従弟で可政の4男可春にも3,000石の所領を与え、可政らの津山入りの際には自ら国境付近まで出迎えに赴くなど厚くもてなした。以後、家中での不祥事と言えるような出来事は収束する。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では池田忠継ら中国地方の大名と共に行軍し参加。中之島を経由し今橋付近に陣取った。しかしながら11月27日に小姓数人を引き連れて大坂城に接近するも感づかれ発砲され、軍監の城昌茂が制止して陣に戻されるという事を起こす。これにより城は軍法に背いたとして森軍に静止命令を出した。この命令は11月29日の博労淵の戦いの最中にあっても解かれなかった為に森軍は天満川を渡らず傍観に徹した。翌30日、幕府の上使である水野勝成が前日の戦いでの森軍の有様を叱責しに現れたが忠政は「軍監の命に従ったまで」と説明した。結局のところ、水野は眼前で戦いが行われているのにも関わらず静止を解かなかった城の側を罪に問い、城は軍監を罷免(後に改易)され代わりに水野が軍監として忠政と後の戦いに同行している。 翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣にも参戦。森軍は208の首級を挙げ、特に森可春は大坂方の布施屋飛騨守を討つなど活躍した。 慶長21年(1616年)、13年の歳月をかけた津山城が完成。この間にもかつての領国美濃国から人員を呼びこんでの「美濃職人町」や京や大坂・尾張から人員を招致しての「新職人町」の形成、久世牛馬市の創設などを始めとする経済の振興や、吉井川の堤防工事の実施とそれに伴っての河原町・船頭町の設置、美作の道路網の整備とそれに沿った宿場の新設、農業用水路の確保などの公共事業を始めとした多種多様な政策を計画・実行に移し津山藩の地盤を築き上げ、忠政の代に完遂が成らなかった事業も次代の森長継に引き継がれた。 寛永3年(1626年)、嫡男・忠広と2代将軍・徳川秀忠の養女・亀鶴姫(前田利常の娘)が婚姻。これは将軍家斡旋の婚姻で前田家の縁戚、更には徳川家準一門の座につく権利を得たが、寛永7年(1630年)に亀鶴姫が子なく早世したために将軍家との姻戚関係は無くなり、徳川家準一門になる機会を逸した。寛永10年(1633年)には忠広が家督を継ぐこと無く死亡している。 同年、堀尾忠晴が死亡し堀尾氏が無嗣改易になると後釜として出雲・石見・隠岐の3ヶ国への加増転封の話が浮上。老中・酒井忠勝より御内証が届けられ、忠政は当初乗り気ではなかったが結局のところこの話を受けた。 翌寛永11年(1634年)、死亡した忠広の後釜として外孫に当たる関家継(後の森長継)を養子縁組して嫡子とする事を幕府に承認される。同年7月6日、京の大文字屋宗味の邸宅で夕食をとり、宿所の妙顕寺へ戻る途中に急激に体調が悪化。強い腹痛と嘔吐感を訴え、治療の甲斐無く7月7日未明に死亡した。死因は桃に当たっての食中毒であるという。享年65。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E5%BF%A0%E6%94%BF
毛利勝永 Mori Katsunaga(1577年-1615年) 毛利勝信(森吉成)之子、正室為龍造寺政家之女;本姓森,改姓毛利,通稱豐前守,初名吉政,後改名為勝永,號一齋。 與父親勝信一同仕於豐臣秀吉。天正十五年(1587年),父親勝信被賜予豐前國小倉6萬石(一說10萬石),勝永亦被賜予豐前國內1萬石(一說4萬石),此時因為秀吉的命令而改姓中國地方太守的毛利氏。 慶長二年(1597年)向朝鮮出兵時從軍。在慶長之役中擊退進攻蔚山倭城的明.朝鮮連合軍而立下戰功。 慶長五年(1600年)的關原之戰中與父親勝信一同參戰並加入西軍。代替前往領國九州的父親指揮中央的軍勢並在伏見城之戰中獲得極大戰功,得到毛利輝元、宇喜多秀家的感謝狀和3千石加增。不過失去毛利九左衛門(香春岳城城主)和毛利勘左衛門等許多家臣,接著在攻擊安濃津城和關原本戰時與輝元的家臣一同被編入安國寺惠瓊的指揮之下,於是失去軍事編成的力量,家中亦陷入混亂狀態。 在戰後被改易,與父親一同寄身於加藤清正、之後是山內一豐之下。因為與山內家是舊識並且是親交而獲得1千石封地,父子一同受到厚待。特別是勝永的弟弟被賜予山內姓並改名為山內吉近而有厚遇。 慶長十九年(1614年),接受豐臣秀賴的邀請而從土佐逃走並進入大阪城。得到諸將的信賴並被稱為大阪城的五人眾之一。在大阪冬之陣中與真田信繁等人一同提倡積極出擊,但是一直沒被採納,在籠城戰中守備西之丸西的今橋。 慶長二十年(1615年)的大阪夏之陣中,收容在道明寺之戰中敗退的後藤基次等人的敗兵。在藤井寺佈陣後,與諸將協議下自身擔任殿軍,令真田等軍勢依次退卻,率領鐵砲隊機令全軍無事撤退。 翌日,天王寺口之戰中率領4千兵力,在德川家康本陣的正面.四天王寺南門前佈陣。在戰鬥開始後迅速討取本多忠朝和小笠原秀政等人,接著擊破淺野長重、秋田實季、柛原康勝、安藤直次、六鄉政乘、仙石忠政、諏訪忠恆、松下重綱、酒井家次、本多忠純的部隊,之後突入德川家康的本陣,顯示出自身部隊的大活躍。但是在真田隊壞滅後,戰線亦隨之崩壞,因為從四方受到關東勢的攻擊而決定撤退。勝永在退卻時亦顯示出漂亮的指揮,擊破進行反擊的藤堂高虎隊,防備著井伊直孝和細川忠興等部隊的攻擊而完成往城內撤退。 在最後成為豐臣秀賴的介錯,與兒子毛利勝家一同在蘆田矢倉平靜地自殺。另一個兒子太郎兵衛在之後被江戶幕府處刑。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%8B%9D%E6%B0%B8
毛利輝元 Mori Terumoto(1553年-1625年) 毛利隆元的長子、母為內藤興盛之女.尾崎局、正室為宍戶隆家之女.南の方、側室為兒玉元良之女;幼名幸鶴丸、受將軍足利義輝偏諱「輝」字,名為毛利輝元、法號幻庵宗瑞。 永祿六年(1563年)父親隆元早逝,輝元十一歲時就成為家督,但軍政大權仍由祖父毛利元就掌控。元就很早就將次子吉川元春、三子小早川隆景分別入繼吉川家及小早川家,建構以毛利宗家為中心,吉川家與小早川家為輔佐的「毛利兩川」體制,並煞費苦心地以「三矢之教」的故事訓誡隆元、元春、隆景三人團結的重要性。隆元去世後,元就刻意栽培輝元能成為獨當一面的大將,讓叔父元春、隆景向輝元宣示效忠,由元春負責山陰道(西國北部),隆景負責山陽道(西國南部),元龜二年(1571年)於元就病逝後,共同輔佐年輕的輝元,繼續擴張勢力,使得毛利家成為西國最大勢力。 元龜二年(1571年),中央的霸者織田信長,放逐了將軍足利義昭,義昭前來依附輝元,義昭促使輝元與「越後之龍」上杉謙信合作,形成對於信長的包圍網,毛利家與織田家遂成為敵對關係。於支援石山本願寺顯如的戰爭期間,天正四年(1576年),毛利水軍在「第一次木津川之戰」痛擊織田水軍,順利將彈藥、食糧運補進入本願寺,聲勢大振,且謙信率軍從北陸南下,擊敗柴田勝家,牽制織田軍主力,毛利家趁機協同宇喜多直家,奪回羽柴秀吉(豐臣秀吉)先前佔據的上月城,順勢將毛利家的眼中釘尼子勝久、山中鹿介等尼子家殘黨一掃殆盡。 天正六年(1578年),謙信病故,信長除了與九州大友宗麟合作,從背後擾亂輝元以外,又命九鬼嘉隆打造鐵甲船,於「第二次木津川之戰」擊敗輝元自傲的毛利水軍,直家亦改變立場,投靠織田,與秀吉合作打擊毛利軍。嗣後,秀吉率軍進攻因幡鳥取城,不以力功,而以斷絕食糧的作戰方式包圍,毛利名將吉川經家終因斷糧而自殺,戰況逐漸轉為對毛利家不利。 天正十年(1582年),秀吉繼續包圍由清水宗治所鎮守的備中高松城,秀吉採納黑田孝高之策,以水攻方式使得高松城周圍成為汪洋一片,鑑於高松城即將陷入與鳥取城一樣的狀況,毛利軍士氣將受嚴重打擊,輝元與叔父元春、隆景都親自率軍馳援,卻遭大水及秀吉軍的阻隔,只能在外圍給予守軍精神鼓勵,戰況形成膠著。輝元為了保全將士性命,命安國寺惠瓊與秀吉交涉談和事宜,雙方原本尚無交集,但信長遭到明智光秀突襲而死於「本能寺之變」的消息為秀吉所知悉後,秀吉便提出以宗治自殺作為和談條件。輝元雖不同意,但惠瓊密訪宗治,說服宗治以毛利家安泰之大義,自行了斷。秀吉急速撤軍返回近畿地區,輝元知悉信長已死,織田家群龍無首的狀態時,與元春、隆景商談是否要反悔追擊秀吉,元春主張追擊,但隆景反對,最後沒有採取行動,秀吉得以在「山崎會戰」擊敗光秀。 天正十一年(1583年),秀吉與柴田勝家進行「賤岳之戰」時,輝元亦保持中立態度觀望,秀吉獲勝後,在日本已成為無人可敵之勢力,輝元遂向秀吉宣示臣從。 輝元於豐臣政權下表現恭順,獲得本領安堵,擁有長門、周防、石見、出雲、備後各國,共計一百二十萬五千石的領地,可謂實力派大名。於秀吉病逝時,遺命德川家康、前田利家、上杉景勝、宇喜多秀家與輝元共同輔佐幼主豐臣秀賴,成為五大老之一。利家病逝後,家康與石田三成對立,三成利用家康討伐拒絕上京的景勝之機會,接受大谷吉繼之建議,透過惠瓊說服輝元,輝元前往大阪城擔任西軍名義上的總大將。但輝元卻沒有親自前往戰場而留在大阪城,僅讓毛利秀元、吉川廣家等參戰,如果加上惠瓊、小早川秀秋等,泛毛利軍團可以說是西軍最重要的武力。 慶長五年(1600年),「關原會戰」爆發,廣家因不看好西軍,早已暗通家康,以毛利宗家的安泰為條件而不出兵,戰事剛進行時,廣家先把秀元軟禁,使得西軍最大武力的毛利軍在戰場上完全作壁上觀,小早川秀秋又舉兵叛變,西軍因而慘敗,毛利軍毫髮無損。立花宗茂及秀元力主據守大阪城與家康繼續作戰,但總大將輝元態度消極而拒絕,主動退回領地。 戰後,家康違約,要將輝元改封他處並削減領地,而將周防、長門兩國封給廣家,幸賴廣家拒絕而親自向家康據理力爭,輝元最後獲得削封僅剩下周防、長門二十九萬八千石的處分,輝元嗣後剃髮隱居,將家督傳給毛利秀就。 寬永二年(1625年)病逝,年七十二歲。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401601
池田利隆 Ikeda Toshitaka(1584年-1616年) 池田輝政的長子、母為中川清秀之女.糸姬、正室為德川秀忠養女.鶴姬(榊原康政之女);幼名新藏,別名輝直、宣隆、玄隆,戒名興國院殿俊岳宗傑大居士。 利隆生於美濃國岐阜城,被賜予羽柴氏。慶長五年(1600年)與父親輝政共同在關原合戰中作為東軍方參戰。 慶長八年(1603年)年僅5歲的異母弟.池田忠繼被任命為備前國岡山藩藩主,利隆代表年幼的忠繼於3月進入岡山城。利隆作為岡山的實質性的領主負責藩政。 慶長九年(1604年),在境內實施稱為「慶長檢地」的檢地。另外指導兵農分離,廢止前岡山領主宇喜多秀家和小早川秀秋等人實行的夫役,確立江戶期近代體制。 慶長十年(1605年)敘任從四位下侍從並兼任右衛門督(此時使用豐臣姓)。同年,迎娶德川秀忠養女.鶴姬(榊原康政之女)為正室,從而加深與德川幕府間的關系。慶長十二年(1607年)任武藏守,並被賜予松平姓,被稱為松平武藏守利隆。 慶長十八年(1613年)父親輝政去世,利隆繼承家督之位,西播磨三郡(宍粟郡、佐用郡、赤穗郡)10萬石領地被分給弟弟池田忠繼,而利隆則領受姬路藩42萬石領地。這被認為是德川幕府為削弱池田氏勢力而加以分化。 慶長十九年(1614年),作為德川方的先鋒參加大阪冬之陣初戰尼崎合戰。 元和二年(1616年)於義弟京極高廣的京都四條宅邸病死,年三十三歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/3050337.htm
石田三成 Ishida Mitsunari(1560年-1600年) 石田正繼的次子、母為巖田氏・瑞岳院、正室為宇多賴忠之女・皎月院;幼名佐吉、別名三也、豐臣政權五奉行之一。 石田氏為近江國坂田郡石田村當地國人眾,父親正繼作為地侍,與淺井家相同為京極氏的被官。 後世《三獻茶》創作故事中,三成最初是近江國某寺院打雜的僧侶。天正二年(1574年),父兄成爲長濱城城代羽柴秀吉的與力家臣。根據其子記載,天正五年(1577年)首次以小姓身份前往御著城(姬路城)從軍,跟隨秀吉攻略中國地方,參與了備中高松城之戰。 天正十年(1582年)6月,織田信長死於本能寺之變,羽柴秀吉掌握實權,三成作爲秀吉心腹逐漸嶄露頭角。天正十一年(1583年),在山崎之戰中表現活躍。在賤岳之戰擔當先鋒,監視柴田勝家的行動取得功績。天正十二年(1584年)參加了小牧長久手之戰。同年擔任近江國蒲生郡的檢地奉行。 豐臣政權時期 三成在朝鮮之役時寫給豐臣秀吉的一封信,其中對包括小早川秀秋在內的武將在戰場上輕舉妄動予以譴責。 天正十三年(1585年)7月11日,豐臣秀吉就任関白,三成也官拜從五位下治部少輔。同年末,被封為水口城四萬石的城主,但實際上水口城自天正13年7月被封與中村一氏,天正18年(1590年)又轉封增田長盛,文祿四年(1595年)再被長束正家繼承,因此三成並沒有真正領有過該城。 天正十四年(1586年)1月、以幾乎是自己年俸一半(1萬5000石)的代價延請到原筒井順慶的家臣島左近。豐臣秀吉也為之愕然,爲敦促島左近忠於三成,秀吉將自己的菊桐紋外套賜予島左近。同年,三成成功斡旋越後國的上杉景勝上洛臣服秀吉。秀吉任命三成為堺奉行,三成施展行政手腕把堺建設成給養補充基地。 天正十五年(1587年),平定九州之戰中成功地勸降了九州薩摩島津氏。次役水軍是決定勝負的關鍵,三成在後勤方面的出色支持是取得勝利主要原因之一。 九州平定後,被任命為博多奉行主掌九州的戰後重建。天正十六年(1588年)斡旋薩摩國島津義久進京謁見豐臣秀吉。 天正十七年(1589年),擔任美濃國檢地。 天正十八年(1590年)豐臣秀吉討伐關東相模北條氏,三成率領二萬五千大軍圍攻了北條家的武藏國忍城,當時部隊中有佐竹義宣、真田昌幸、大谷吉繼等名將,近年出土的書信顯示當時三成駁斥以水攻攻略忍城(秀吉攻略高松城的方法),但秀吉仍下令引荒川之水展開水攻。後北條氏各地的支城和本城小田原城相繼陷落,忍城的戰鬥一直持續到7月上旬。由於豪雨造成決堤,無功而返。當時留下的遺跡石田堤至今尚存。同年秀吉奧州仕置,三成擔任檢地奉行,功績大幅提升。亦擔任津輕為信與秀吉之間的仲介,而為信對三成心存感激,日後命長子保護三成次子與迎三成三女作為其三子之妻等事作為報恩。 文祿元年(1592年)出征朝鮮之役和增田長盛、大谷吉繼一起駐守漢城擔任日軍縂奉行。文祿二年(1593年),參加了碧蹄館之戰和幸州山城之戰。之後護送明朝的講和使者謝用梓和徐一貫回到肥前名護屋,積極參與同明朝的停戰交涉。三成代豐臣秀吉發布指令,同時推進和談的舉動招致豐臣家中武斷派福島正則等人的仇視,種下關原之戰的敗因。 文祿三年(1594年),被任命為島津氏和佐竹氏的領國奉行,進行檢地。 文祿四年(1595年),奉豐臣秀吉之命,審問豐臣秀次的謀反事件(秀次事件其實是秀吉為將関白及豐臣政權家督職位傳給自己的親生兒子豐臣秀賴而挑起,豐臣秀次最終切腹)。秀次死後,其領地內近江7萬石劃歸三成。同年三成獲得了近江佐和山十九萬石四千石的封地。(世人所說三成手上有兩件至寶,一個是佐和山城,一個就是島左近)。 慶長元年(1596年),接待了明朝講和的使者。同年被任命為京都奉行。奉豐臣秀吉之命鎮壓天主教。三成陽奉陰違盡量放過天主教徒,同時進言秀吉不要妄殺天主教信徒。 慶長二年(1597年),慶長之役中在日本國內擔任後方支援。慶長三年(1598年),豐臣秀吉打算將小早川秀秋的領地筑後國,筑前國下賜三成,被三成婉拒。筑後,筑前被劃為藏入地,三成被任命為名島城代官。原本予定慶長四年(1599年)和福島正則、増田長盛一起再次出征朝鮮。然而隨著慶長三年(1598年)8月秀吉去世計劃取消,代而進行安排遠征軍歸國的工作。 秀吉死後 作為豐臣秀吉一手提拔起來的親信嶄露頭角,在內政和軍需方面發揮了卓越的領導才能,但是由於在戰爭上戰績不高而被同為豐臣家的武鬥派武將所輕視,又因豐臣家內部文治派與武鬥派賞罰問題標準不一,使得兩派之間關係處的不是很好,其中又以三成與福島正則、加藤清正之間關係最為惡劣,所以在秀吉逝世後武鬥派開始加強監視。 豐臣秀吉死後,豐臣家由豐臣秀賴繼承,但是擁有関東250萬石的大老德川家康勢力不斷壯大有取而代之之勢。慶長三年(1598年)8月19日三成組織了一次暗殺家康的行動。家康為奪取覇權,拉攏與三成對立的福島正則,加藤清正,黑田長政等人並私自聯姻。慶長四年(1599年)1月,三成以家康以沒有許可聯姻爲由,在前田利家的支持下向家康興師問罪。家康無奈被迫於2月2日跟三成立下和約。 然而閏3月3日唯一能和德川家康相抗衡的大老前田利家病逝。慶長四年(1599年),在大坂受到加藤清正、福島正則、黑田長政、細川忠興、池田輝政、加藤嘉明(也有可能是蜂須賀家政)、淺野幸長等七將的襲擊,後來受到佐竹義宣的支援才得以脫逃。上述七將圍困住三成躲藏的伏見城,在家康的仲介下,以三成隱退為條件,七將方才退兵。3月10日家康派次子結城秀康伴送三成返回領地佐和山城。這次事件中家康保護了與自己為敵的三成成爲一段佳話,但是這個故事在江戶時期的資料中並無出現,直至明治以後『日本戰史·関原役』才有出現,不得不令人懷疑其是否可信。 前田利家死後,三成蟄居,德川家康處於獨步天下的狀態,同利家、三成定下的合約如同一紙白書,私下通婚和分配領地的行動重新進行。 關原 慶長五年(1600年),三成乘德川家康出兵會津討伐上杉景勝之機,聯合對家康不滿的宇喜多秀家、毛利輝元、小西行長等諸大名結成西軍(反德川軍),並推舉毛利輝元為總大將。高舉反旗與勢力抬頭的德川家康及豐臣武斷派大名等東軍在關原對決。值得一提的是三成力邀好友大谷吉繼助拳,大谷雖然明知和家康正面衝突無異於以卵擊石,但在勸説三成失敗後,明知毫無勝算依然加入西軍,此擧令家康也大跌眼鏡(大谷和家康也有很好的交情)。 7月12日,三成命令兄長石田正澄於近江國愛知川設置哨卡阻止家康討伐會津的殿後部隊鍋島勝茂、前田茂勝和家康的本隊會合,逼迫他們加入西軍。7月13日,三成將東軍大名的妻子和子女作爲人質關押在大坂城內。然而加藤清正的妻子等人逃脫,細川忠興的妻子放火自焚,三成的人質作戰宣告失敗。 7月17日,西軍總大將毛利輝元入大坂城,同日前田玄以、增田長盛與長束正家等三奉行連名列舉了德川家康的13條罪狀,並公布了彈劾狀。7月18日,西軍進攻由家康重臣鳥居元忠把守的伏見城(詳見伏見城之戰)。伏見城十分堅固,守軍負隅頑抗。三成發現守門的是甲賀衆,於是和長束正家將甲賀衆家屬抓為人質相要挾。8月1日,甲賀衆打開城門伏見城於是陷落。8月2日,三成向各全國大名公布了伏見城陷於己手的消息(伏見城是豐臣秀吉的居城,扼守京都南方要衝,豐臣秀吉生前在此發號施令,大名們在此都有自己的宅第,是當時實質上的權力中心,因此公布伏見城被佔領的消息可以極大打擊對手的心理)。 8月,德川家康以超過預想的速度平定了伊勢國轉而西上打亂了三成的部署。14日晚間,三成放棄固守大垣城在美濃阻止家康的計劃擺開在關原野戰的架勢。9月15日,決定天下的關原之戰終於開戰。起先局勢對西軍有利,三成本隊有6900人,多次抵抗住細川忠興、黑田長政、加藤嘉明、田中吉政數倍於己的兵力衝擊。島左近、蒲生賴鄉及前野忠康等人利用高處的有利地形給東軍沉重的打擊。然而西軍普遍士氣低落,隨著時間的推移戰局開始不利,最終由於小早川秀秋和脇坂安治的臨陣倒戈,使得西軍崩潰,三成從戰場往伊吹山方向逃走。 三成起先越過伊吹山東面的相川山到達春日村,然後通過新穗峠繞道姉川,經曲谷,七回峠到草野谷。然後從小谷山谷口沿高時川溯流而上逃到古橋。9月21日,被家康手下的田中吉政捕獲。 9月18日,東軍的攻陷佐和山城,三成的父親正繼等人戰死。 9月22日,三成被押送到大津城在城門口示衆,在此德川家康與之會面。9月27日,被押解至大坂。9月28日同小西行長和安國寺惠瓊三人在大坂與堺示衆。9月29日,押解至京都,由京都所司代奧平信昌看管。 10月1日,三成被處斬六條河原,年四十一歲。首級在三條河原示衆,最後由生前好友春屋宗園、澤庵宗彭領取安葬。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%94%B0%E4%B8%89%E6%88%90

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