首頁 Tags 太田牛一

Tag: 太田牛一

里見伏、犬塚信乃、犬川荘助、犬山道節、犬飼現八、犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角、卜部季武、碓井貞光、坂田金時、渡辺綱、源頼光、源義経、織田信長、織田信長、豐臣秀吉、德川家康、德川家康、伊達政宗、武田信玄、真田信繁、上杉謙信、毛利元就、黑田孝高、石田三成、後藤基次、長宗我部盛親、明石全登、真田信幸、德川家康、藤堂高虎、立花宗茂、大谷吉繼、黑田孝高
太田牛一 Ota Gyuichi(1527年-1613年) 『信長公記』などの軍記と伝記の著者。官位は和泉守。通称は又助(又介)あるいは和泉を用いた。 諱は天正9年(1581年)までの文書では「信定」と署名しているのが確認できる。その後の書状では、年代の確実なもので古いものは天正17年(1589年)から「牛一」と署名して、晩年までこれを続けた。そのため信長の死んだ天正10年(1582年)前後に諱を変えたのではないかと言われている。また平家語り一方流琵琶法師が名乗りの一文字の末尾に「一」を付けるので、それに倣ったという説もある。 大永7年(1527年)、尾張国春日井郡山田荘安食村(現・名古屋市北区)の恐らく土豪の家に生まれる。成願寺において僧侶をしていたが、還俗し斯波義統の家臣となる。 天文23年(1554年)7月12日の義統殺害の後、那古野城の織田信長の保護を求めた遺児の斯波義銀に付いて織田家に行った可能性がある。 天文23年(1554年)、信長の家臣・柴田勝家に仕え足軽衆となる。同年7月18日、安食の戦いに参加する。義統弔い合戦の意味もあったと思われる。弓の腕を認められ、信長の直臣となり弓3人鑓3人の「六人衆」の一員となり近侍衆となる。永禄7年(1564年)、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では二の丸の門近くの建物の高い屋根から弓を射て活躍し信長に褒められ知行を増やされる。 その後は近習の書記となる。後には安土城下で屋敷を持ち、信長に近侍する官僚(吏僚)として、永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として京の寺社との間の行政を担当する。本能寺の変後は長秀に2,000石で仕え柴田勝家との戦いのため坂本城に長秀に従い参陣する。後に天正13年(1585年)の長秀没後は丹羽長重に加賀国松任で仕えるが、公務は息子に譲り同地で一時隠居する。 しばらくして豊臣秀吉に召し出され、天正17年(1587年)から洛南の行政官僚となり再度寺社行政と検地なども担当し、この年から山城国加茂六郷を検地する。天正18年(1588年)には淀城を拠点にし、南山城と近江国浅井郡の代官も兼任する。天正20年(1590年)、肥前国名護屋へ秀吉に従軍し、道中の人足や馬を配分する奉行に就く。名護屋では名護屋城の建築工事の差配をする。文禄元年(1592年)の文禄の役では城の留守番衆として詰める。文禄3年(1594年)、大阪に戻る。文禄5年(1596年)5月9日、豊臣秀頼の初の上洛に供奉する。この時に後陽成天皇に『太閤御代度々御進発之記』を献上する。慶長3年(1598年)3月15日の醍醐の花見では秀吉の側室・三の丸殿の警護を務めた。同年3月17日、醍醐寺三宝院で門跡・義演から信長から秀頼までの記録を書いたと紹介され一部暗誦もした。 同年9月18日の秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えた。慶長6年(1601年)までに『関ヶ原合戦双紙』を徳川家康に献上し、11月7日中井宗茂にも進上する。慶長11年(1606年)、南禅寺金地院の河内真観寺領の代官になる。慶長12年(1607年)頃、『関ヶ原合戦双紙』奥書で自分の著作をまとめて「五代之軍記」と名付ける。慶長16年(1611年)3月28日、秀頼の家康との京都二条城での会見への上洛に供奉する。 80代で感冒で重体となり、体力が低下したが回復する。隠居しないまま大阪城東南の重臣の屋敷地区の大坂玉造で慶長18年(1613年)に病死する。 非常に長寿で壮健で慶長15年(1610年)、84歳の時の書も残っている。 記録作者として優れ、信長・秀吉・秀次、秀頼、家康の軍記・伝記を著述したが、信長の一代記である『信長公記』が、その綿密さと史料性の高さから特に有名である。戦記としても軍事的に正確で研究対象となっている。江戸時代の通常の編纂物や軍記物とは一線を画している。長篠の戦いを描いた屏風『長篠合戦屏風』は地形は前後に縮小されているが概ね、『信長公記』通りでありその信ぴょう性を高めている。人の行為、戦争や生死に対しては、天道が定めているという運命論者であり、信長の虐殺も坦々と事実を描くが批判はしない。他には安土城についても細部まで正確に記録していたことが、上層の絵の位置が一部入れ替わっているが加賀藩伝来の天守指図の発見で裏付けられた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E7%89%9B%E4%B8%80
江口正吉 Eguchi Masayoshi(生年不詳—1631年?) 近江国出身と伝わる。織田氏の家臣・丹羽長秀の家臣として幼年から近侍し、たびたび戦功を立てる。 織田信長の死後、清洲会議以降は織田家四宿老合議のうえ、京奉行の一人となった。また、時期は不明だが若狭国吉城の城主も務めている。 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、陥落寸前の賤ヶ岳砦に援軍に行こうとする主君・長秀を、重臣・坂井直政と共に諫めた。しかし長秀は「直政は老巧の者だから自重せよと言うのはわかる。だが正吉は若いくせになぜそのようなことを言うのか」と叱ったという。その後、丹羽軍は賤ヶ岳の友軍を助け、正吉はこの戦の活躍によって7600石に加増された。 長秀の死後、丹羽家は度重なる減封によって没落し、村上頼勝、溝口秀勝、太田牛一、長束正家、上田重安、戸田勝成など多くの重臣が去るなかで正吉は丹羽家を離れず、長秀の跡を継いだ丹羽長重に付き従った。やがて小田原征伐などの功により丹羽家が加賀小松12万5千石に加増されると、正吉は家老として1万石を領した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前、西軍についた丹羽家は東軍の前田利長の軍勢に夜襲をしかける(浅井畷の戦い)。このときの大将は正吉で、殿軍の長連龍に対して大きな戦果を挙げた。 ところが戦後、丹羽家は他の西軍の大名と同じく改易されると、正吉は結城秀康に見出され1万石で仕官するが、後に退去した。 その後は京で死去したとも、丹羽家が大名として復帰した際に息子と共に再仕官したともいわれる。没年は丹羽家譜では慶長8年(1603年)、江口家系図では寛永8年(1631年)とされている。後述の白河での逸話を考えると、主君の丹羽長重が白河に移封されたのが寛永4年(1627年)であるため、この頃までは生存していたとも考えられる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%8F%A3%E6%AD%A3%E5%90%89
Send this to a friend