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大友宗麟 Otomo Sorin(1530年-1587年) 大友義鑑的長子、母為大內義興之女、正室為一色義清之女、繼室為奈多鑑基之女、側室為一萬田親實之女;幼名鹽法師丸、實名義鎮、法號宗麟、基督教教名ドン‧フランシスコ(普蘭師司怙)。 父親義鑑原本有意將位子讓與宗麟的同父異母弟鹽市丸,因而欲廢嫡長子宗麟。在天文十九年(1550年)反而被支持宗麟的重臣們謀反,將鹽市丸及其母親殺害、義鑑亦負傷後去世。這次政變被稱為『二階崩之變』,宗麟遂於當時廿一歲繼承大友氏豊後及肥後國領主的地位。關於義鑑把宗麟廢嫡一事,一說宗麟的生母是大內義興的女兒,義鑑想把大內氏勢力排除而計劃廢嫡。 繼承領主地位後,天文二十年(1551年)宗麟接受了陶晴賢的邀請、派遺弟弟大友晴英繼承了大內氏、晴英改名大內義長。天文二十三年(1554年),菊池義武(大友義鑑之弟、宗麟的叔父)趁義鑑死於家中內亂之機,又奪回肥後領地。宗麟計誘叔父義武返回豐後,途中大友軍將義武圍困,迫其自裁,菊池家隨義武的死去而斷絕。 弘治三年(1557年)、大內氏被毛利元就消滅,大內義長自殺。毛利元就繼承了大內氏在西國的領地,開始進軍原本大內氏在北九州的領土,大友與毛利正式決裂。宗麟遂與尼子氏結盟,於築前、築後、豐前等地擴大勢力範圍。當年在他領地豐後府內還出現了劃時代的大事即日本最早的外科手術。 永祿二年(1559年),在足利幕府支持下,宗麟被任命為九州探題。次年、任官左衛門督。 永祿十二年(1569年),大友氏援助長年流亡大友氏的大內義興之侄大內輝弘,試圖恢復大內氏。宗麟遣輝弘率數千軍,向山口發動突襲,往收大內遺臣。大內輝弘成功地在周防國吉敷郡秋穗浦上陸,入占大內家別邸築山館,但終不敵毛利軍,敗逃山口,自殺於富海地方的茶臼山。而毛利因受到大內氏和尼子氏殘餘勢力的反抗,陷入兩難。經權衡得失後,毛利元就決定與大友軍和解,放棄九州領土,讓出門司城,撤兵返回中國地方平定大內氏和尼子氏的殘餘勢力。 元龜元年(1570年),大友已成為九州最強的勢力,九州境內九國佔有北部六個。 同年,大友宗麟欲討伐在肥前勢力逐漸壯大的龍造寺隆信,便派遣弟弟大友親貞率領6萬大軍進攻龍造寺領地,對此龍造寺僅集結了5千兵力防衛佐嘉城(佐賀城)。但大友親貞認為此戰過度容易便輕敵,提前舉辦勝利酒宴,於清晨遭到龍造寺氏的鍋島直茂奇襲。大友親貞在混亂中被龍造寺家臣成松信勝殺死,之後整個大友軍潰散,大友與龍造寺講和撤軍。今山之戰大敗,導致宗麟於天正四年(1576年)傳位給長子義統,隱居至丹生島城。 天正五年(1577年),南九州的島津氏開始進軍日向國,奪取了日向大名伊東家的領地,伊東義祐因此逃向大友家尋求庇護並反擊,宗麟一方面也希望奪下日向國並建設為基督聖地,名義上以繼承人大友義統領軍出陣侵略,自己則在後方做戰略指導,但在天正六年(1578年),耳川之戰中因家臣之間意見不合導致大敗、多數重臣陣亡。另外、將家督讓與大友義統後、他與兒子之間領導意見的不和亦造成大友氏的衰退。當時已開始統一日本的豐臣秀吉試圖經由談判協調島津與大友兩大九州勢力和解。宗麟於天正十四年(1586年)親赴大阪謁見秀吉請求支援對抗島津。島津氏仍持續侵略大友領地、同年12月島津家久軍佔領了他的首府豐後國府內城。丹生島城被包圍,大友宗麟一度使用大砲「國崩」、死守丹生島城。 天正十五年(1587年),豐臣秀吉親自領兵發動九州征伐,終於使島津氏降伏。在秀吉的統治下,大友義統被確立擁有豐後一國。秀吉原有意封與大友宗麟日向的領地,但宗麟因年紀已大而辭退。 同年,宗麟在豐後國津久見病死、享年五十八歲。 法號:瑞峰院殿羽林次將兼左金吾休庵宗麟大居士。 宗麟以天主教大名的形象廣為人知,天文二十年(1551年)認識了在豐後布教的耶穌會傳教士方濟 沙勿略,並成為好朋友。二十七年後的天正六年(1578年),改信天主教並受洗禮、並派遣家臣帶領親筆信給葡萄牙國王。同時他對領地內的布教活動加以保護、進行與西方的貿易。他另與博多的大商人島井宗室交相友善、進行與中國明朝和朝鮮的貿易。他曾夢想要建立天主教王國,但終於在耳川一戰後夢碎。 宗麟的性格被評論為個性自私,他曾經搶奪家臣的妻子、並因為信仰天主教和妻離婚、另外也有沈溺於酒色、橫征暴歛等記錄,這成了很多家臣和親族對他起而反抗的原因。他因廢弛政務、重臣立花道雪常對他多所勸戒,也因此他很怕遇到立花道雪。 天正十年(1582年),曾派遺了天正遣歐少年使節團前往羅馬謹見天主教教宗。 出處 http://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E5%AE%97%E9%BA%9F
大友義鑑 OTomo Yoshiaki(1502年-1550年) 大友義長之子、正室為大內義興之女、繼室為阿蘇惟憲之女;通稱五郎、初名親安,受將軍足利義晴偏諱「義」字,改名為義鑑。 永正十二年(1515年)父親義長隱居,因此繼任家督,成為第20代當主。但是因為年輕,所以直到永正十五年(1518年)為止一直由父親義長輔助,義長死後,由祖父大友親治輔助直到大永四年(1524年)。在繼任家督時,朽網親滿發起叛亂,但馬上被義鑑鎮壓。 此時為了收拾大友氏在義長時期的內在糾紛,義鑑實行積極的領土擴大政策。為此義鑑企圖在沒有大勢力的肥後擴大勢力。肥後國雖然有名族菊池氏,但是當時菊池氏因為內部糾紛而被弱化。義鑑把弟弟大友重治(菊池義武)作為養子送到菊池家,並計劃著支配肥後。但是義武與義鑑不和,最終義武企圖從大友氏之中獨立出來成為大名,於是義鑑與弟弟的骨肉之爭不斷擴大。 之後更受到大內義隆的侵攻,大內軍一時間迫近豐後(勢場原之戰),義鑑處於劣勢,但天文七年(1538年),在室町幕府第12代將軍足利義晴的仲介下,雙方和睦,與足利將軍家維持緊密關係。 天文十二年(1543年)補任肥後守護。 天文十九年(1550年),義鑑引起了後繼者問題,比起病弱的嫡男大友義鎮(大友宗麟),更希望把家督之位讓給被義鑑溺愛的三男鹽市丸。為此義鑑與寵臣入田親誠共謀把大友宗麟派的家臣逐個殺害,反而遭到感到自身危險的大友宗麟方的家臣反擊。 在2月10日,大友宗麟派家臣的津久見美作等人襲擊義鑑的居館,殺害在居館二樓的鹽市丸和鹽市丸的母親,義鑑亦受到瀕死的重傷,在2日後死去,年四十九歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E6%A2%9D%E5%85%BC%E5%AE%9A
尼子經久 Amago Tsunehisa(1458年-1541年) 尼子清定的長子、母為真木朝親之女、正室為吉川經基之女;幼名又四郎,受京極政經偏諱「經」字,名為經久,渾名十一州の太守、鬼神、雲州の狼。 文明六年(1474年),經久被送往京都,作為其主君京極政經的人質。滯留於京都期間,經久元服並拜領京極政經的偏諱「經」字,名為經久。經過五年的人質生活後,經久離開京都返回出雲。文明十年(1478年),父親清定隱退,由經久接任家督之位。 應仁之亂後,作為尼子氏主君的出雲、飛驒、隱岐、近江四國守護京極氏權力逐漸衰弱,經久則趁機發展勢力,侵佔京極氏在出雲國的寺社、土地。文明十四年(1482年),室町幕府要求出雲國繳納庄園段錢,而經久無視幕府的命令,私自下令扣押段錢並拒絕上繳。文明十六年(1484年),幕府下令剝奪經久出雲守護代的職務並且下達討伐令,三澤氏、三刀屋氏、朝山氏、廣田氏、櫻井氏、鹽冶氏、古志氏等國人紛紛響應,起兵圍攻經久的居城月山富田城。經久兵敗後遭流放,被迫投靠母家真木氏,京極政經任命出雲國人鹽冶掃部介為新出雲國守護代。 一心想奪回居城的經久秘密集結山中勝重、龜井安綱、真木上野介、河副常重等家臣,又聯絡忍者集團缽屋賀麻黨作為援助。文明十八年(1486年)元旦,缽屋眾的領袖缽屋彌之三郎率領外穿表演服裝、內藏甲胄兵刃的賀麻黨約70人,以千秋萬歲舞表演者的身份進入月山富田城。經久及其家臣56人則跟隨賀麻黨中混入城內,四處放火併夜襲守軍。月山富田城中一片混亂,城主鹽冶掃部介殺死妻子後自殺,經久通過夜襲成功地奪回居城。戰後經久將月山富田城的北方長屋賜予缽屋眾居住,缽屋眾又被稱為櫓下組,成為專門為尼子氏效力的忍者集團。 奪回月山富田城之後,經久開始著手平定出雲國內的國人眾,首當其衝的是驅逐經久時最為出力,實力最強的三澤為國。經久運用計謀,命重臣山中勝重進入三澤軍擔任臥底,取得三澤為國的信任。長享二年(1488年),山中勝重率領三澤軍的精銳進攻月山富田城,到達城下時勝重秘密向經久透露軍情,經久裡應外合擊敗三澤軍主力,三澤氏降服。此戰過後,三刀屋氏、赤穴氏等國人眾紛紛臣服於經久,出雲一國被平定。永正二年(1505年),在京極氏內亂中戰敗的京極政經出奔至出雲國,不久與經久達成和解。永正五年(1508年),京極政經託孤於經久,並將出雲守護一職讓與嫡孫吉童子丸後去世,吉童子丸此後事跡不明,經久實際成為出雲守護。 永正四年(1507年),室町幕府管領細川政元遭到暗殺,政元的三名養子細川澄之、細川澄元、細川高國展開混戰。次年,西國霸主大內義興向中國地方和北九州的大名、國人發出動員令,擁立前將軍足利義材和細川高國上洛。經久應大內義興之邀,參與上洛,參加永正八年(1511年)的船岡山之戰。經久的次子和三子也分別拜受細川高國和大內義興的偏諱,改名為尼子國久和鹽冶興久。但由於經久不滿大內義興微薄的賞賜,提前離開京都返回領國,支援反大內勢力。永正九年(1512年),經久支持備後國大場山城城主古志為信反叛大內家。永正十二年(1515年),應邀上洛的武田元繁返回領地後與大內義興養女離婚,轉而與經久弟弟尼子久幸的女兒結為姻親,隨後反叛大內氏。一時間大內領地狼煙四起,令大內義興十分頭痛。 永正十四年(1517年),山名氏聯合經久進攻石見國內大內氏城池。同年,經久聯合備中國人新見氏進攻三村氏。 永正十五年(1518年),經久分兵兩路,一路由弟弟尼子久幸率領,侵入伯耆國,攻打尾高城城主行松正盛、羽衣石城城主南條宗勝;另一路由嫡子尼子政久率領,圍攻反叛的出雲國磨石城城主櫻井宗的。尼子政久擅長吹笛,但卻因笛聲暴露目標,被櫻井守軍用箭射死。痛失愛子的經久親自率軍攻破磨石城並進行屠城,城主櫻井宗的自殺。經久隨後召開會議決定繼承人,經久想讓弟弟尼子久幸作為繼承人,但久幸卻建議由尼子政久的嫡子尼子詮久(尼子晴久)繼任,最後經久決定立晴久為繼承人。 永正十八年(1521年),石見國人吉見氏、益田氏倒向大內義興,經久應山名氏之邀出兵石見。同年,攻打今井城。次年,攻陷福屋氏的乙明城。大永三年(1523年),進攻那賀郡的波志浦,並向安藝國拓展勢力,安藝國人毛利氏背棄大內氏投靠經久。同年,尼子軍進攻安藝國的大內氏據點鏡山城,城主藏田房信和叔父藏田直信固守城池,久攻不下。毛利元就獻計分化鏡山城內部,以繼任藏田氏家督的條件策反藏田直信,城主藏田房信戰敗自盡,經久順利攻佔鏡山城。但戰後經久違背毛利元就的開出的條件,逼死藏田直信,使毛利元就對經久產生不信任感。 大永四年(1524年),經久大規模入侵伯耆國,陸續攻下米子城、澱江城、天萬城、尾高城、八橋城,隨後又攻下岩倉城、堤城、羽衣石城,南條宗勝戰敗出逃,伯耆守護山名澄之遭到驅逐,大批伯耆國人逃亡至因幡、但馬國,神社、寺廟都遭到破壞燒毀,史稱大永五月之崩壞。同年,為限制經久的擴張,大內義興與其子大內義隆、重臣陶興房率軍包圍經久盟友武田光和的居城佐東銀山城,經久動員安藝國人眾參戰,雙方交戰一月後撤軍,史稱佐東銀山城之戰。 鏡山城之戰後,年僅9歲的毛利氏當主毛利幸松丸病逝,毛利家推舉毛利興元之弟毛利元就繼任。但在尼子氏重臣龜井秀綱的指使下,毛利家臣桂廣澄、阪廣秀、渡邊勝等試圖謀反,準備擁立毛利元就之弟相合元綱繼位。在志道廣良等宿老的支持下,毛利元就平定叛亂,誅殺相合元綱。在陶興房的活動下,大永五年(1525年),繼任毛利氏家督的毛利元就背棄尼子氏,轉而投向大內氏,使安藝國內形勢向大內方偏移。 大永六年(1526年),山名氏聯合大內氏對經久進行包圍。次年,經久在備後國擊敗陶興房,原本從屬於大內氏的備後國人多數倒向尼子氏。 大永八年(1528年),大內義興去世,其子大內義隆繼任。此後四年中,尼子家與大內家多次在安藝、備後的山區中交戰,直到享祿五年(1532年),大內義隆為平定北九州的動亂而渡海,與大友義鑑、少貳資元的聯軍對峙。尼子氏反攻的時機到來,但是家中卻發生經久三子鹽冶興久的叛亂事件。 經久曾賜予三子鹽冶興久三千貫的領土,但是興久希望增加領地,於是通過龜井秀綱向經久提出增加大原郡七百貫領地的要求。但經久卻將備後國一千貫領地賞賜給興久,興久認為沒有得到想要的領地是由於秀綱進讒言的緣故,於是請求將秀綱交給自己處罰,卻遭到經久的拒絕。鹽冶興久於是聯合出雲大社、鱷淵寺、三澤氏、多賀氏、備後山內氏等勢力發動叛亂。在經久和晴久的攻擊下,鹽冶興久在佐陀城、末次城之戰中敗北,被迫逃亡甲山城投靠岳父山內直通。天文三年(1534年),鹽冶興久切腹身亡,其領地則由其子鹽冶清久和其兄尼子國久繼承。由於尼子國久勢力的擴大,為尼子晴久時期肅清新宮黨埋下伏筆。 同年,隱岐國人隱岐為清的叛亂也遭到鎮壓。尼子晴久成功入侵美作國,將尼子家的勢力向東擴展到備前國。 天文六年(1537年),在接連失去兩個兒子的打擊下,年邁的經久將家督之位讓給嫡孫尼子晴久後宣布隱居。同年,晴久攻佔屬於大內氏的石見銀山,擊敗播磨守護赤松政祐。但在天文九年(1540年)尼子氏與毛利氏、大內氏的吉田郡山城之戰中,晴久大敗,弟弟尼子久幸戰死,使尼子家的優勢喪失殆盡。 天文十年(1541年)11月30日,經久病逝於月山富田城,年八十四歳。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E7%B6%93%E4%B9%85
相良晴広 Sagara Haruhiro(1513年-1555年) 永正10年(1513年)、上村頼興の長男、籐五郎頼重として上村城(麓城)で生まれた。 上村氏は相良氏初代当主相良長頼の四男の頼村を祖とする分家であったが、曽祖父上村直頼の室は第12代当主為続の姉で、さらに祖父上村頼廉は為続の三男が直頼の養子となったもので、母は直頼の弟上村長国の娘であった。実父頼興と、養父義滋(長唯)およびその異母弟(長祗、長隆)とは、従兄弟の関係にあたる。 大永4年(1524年)に相良長定と犬童長広が謀反を起こし第14代当主長祗を放逐して家督を奪い、大永6年(1526年)、瑞堅(長隆)が兵を起してこの長定と長広を追放したが、相良氏の家臣団は還俗した長隆の家督相続を容認せず、第13代当主長毎の庶長子長唯(義滋)を推戴して、さらに内紛が続いた。 前述のように宗家に匹敵する家柄を持つ上村氏は、家中で大きな影響力を持っていたが、当主の頼興は相良宗家の兄弟爭いに対して中立の立場をとって、長唯の先陣の要請を拒否していた。しかし、長唯は戦略上重要な上村城を味方につけるために、(自分に後継者となる男子がいなかったこともあって)頼興の長男頼重を相良宗家の養嗣子として迎えるという条件で、頼興の協力を取り付け、弟長隆を討ち果たした。 享禄3年(1530年)、約束を守った長唯は頼重を養子とし、18歳の頼重は名を「長為」と改めて宗家の世子となった。 天文4年(1536年)4月8日、頼興は、長為の将来を案じて、家中で信頼の厚い実弟の長種を暗殺させた。また同年5月18日、頼興は、名和氏(伯耆氏とも言う)に使者を遣わして名和武顕の娘と長為との政略結婚をまとめた。これは翌年12月22日に入輿の儀となった。なお、これより少し前の同年11月22日、長為は洞然(外祖父上村長国の号)に教えを請い、相良家の事績や家督継承者としての心得等を記した『洞然長状』を送られている。 天文6年(1538年)12月14日、長為は名を「為清」と再び改めた。 天文7年(1538年)4月13日、薩摩守護島津貴久が佐敷に来て、長唯・為清親子の饗応を受けた。貴久は伊作家・相州家から島津勝久の養子となって島津宗家(奥州家)を継いだが、薩州家の島津実久がこれに反対して乱を起こしていた。相良氏の勢力範囲はこの実久の勢力範囲の背後(北)に位置するため、協力を要請したものと思われる。実久は天草郡の天草尚種とも争乱を起しており、義滋が間に入って調停している。 天文11年(1542年)6月15日、為清は正室名和氏(伯耆氏)と離縁した。理由などはわかっていないが、名和氏との盟約(三家同盟)は破れ、天文12年(1543年)1月26日、名和勢が小川に侵攻し、相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。しかし阿蘇惟前は堅志田城を追われて八代に逃れた。相良氏・名和氏・阿蘇氏は、阿蘇氏の同盟相手を阿蘇惟前から阿蘇惟豊に代えて、天文14年に再び和睦した。 天文14年(1545年)11月27日、大内氏の仲介により、大外記大宮伊治が勅使および室町将軍の使者として八代に来航。12月2日、勅使は長唯を従五位下・宮内大輔を、為清を従五位下・右兵衛佐にそれぞれ叙した。またこの時、将軍足利義晴が一字拝領を許した旨も告げられ、長唯は「義」の字を与えられて義滋と、為清(長為)は「晴」の字を与えられて「晴広」とそれぞれ称することになった。 天文15年(1546年)8月3日、義滋は隠居して家督を晴広に譲った。相良氏が長く内紛に苦しんだ教訓から、義滋は家督相続の事実を内外に広く伝聞して、周知徹底させた。同月25日、義滋は遺書を残して他界した。また同年10月20日に祖父上村長国も死去した。 当主となった晴広は、実父頼興の後ろ楯を得て、戦乱の中でも相良氏を安定に導いていった。島津氏は三州の統一を進めていたが、まだ肥後に進出できるような余裕は無く、薩州島津家とこそ長島の帰属問題で争いがあったものの、島津宗家となった伊作島津家の島津忠良、貴久との関係は、義陽の頃の永禄7年(1564年)に悪化するまでむしろ良好で 、少なくとも晴広の晩年までは比較的平穏だった。 天文18年(1549年)8月、老臣らの勧めにより、嫡子の万満丸(義陽)を世子と定めた。これは同い年の庶弟・徳千代(頼貞)との家督争いが起こるのを未然に避ける意味があった。 これより前、菊池義武(大友重治)は兄の大友義鑑に隈府城を追われて肥前の高来に落ち延び、晴広は彼を庇護してしばしば八代で饗応していたが、天文19年(1550年)2月に義鑑が二階崩れの変で死去して大友義鎮が大友氏の家督を継ぐと、3月14日、隈本城主の鹿子木鎮国(かのこぎ あきくに)が菊池氏旧臣田島重実(たじま しげさね)と謀って菊池家再興の旗印を挙げた。義武はこの機に乗じ、招きに応じてて隈本城に入り、晴広はこれを支援した。晴広は、3月23日、名和・阿蘇・相良の三家同盟にあった阿蘇氏の重臣甲斐親直と、相良綾部助などの老臣を会談させた。大友義鎮は義武の挙兵を驚き、同じ3月23日、相良氏に協力を求めたが、晴広は拒否しただけでなく、義武と名和氏との同盟の仲介を行った。 同年6月、名和行興の家臣皆吉武真(伊予守)が叛乱して宇土城を襲撃した。行興は防戦したが、城を棄てて逃亡した。23日、晴広は自ら出陣して高津賀に陣をしいた。武真はこれを恐れて豊福城に撤退した。これにより名和行興は宇土城を奪還できたので、行興は晴広に感謝してさらに豊福城に進撃するように進言した。しかし25日、皆吉武真は兵百余をつれて八代に来て晴広に投降したので、戦うことなく豊福城は再び相良氏のもとに収まった。 一方、大友義鎮は家臣小原鑑元と佐伯惟教に大軍を与えて菊池義武を攻めさせた。7月11日、義武は合志原でこれを迎え撃った敗れた。7月20日、晴広は薩摩の東郷相模守に相良綾部助を使いに出して、大友氏との和議の仲介を依頼した。しかし8月には隈本城で義武は包囲され、戦利なしとして100騎余をつれて城を脱出し、国人衆に守られた金峰山に籠った。ところが金峰山も大友勢に攻め寄せられて、義武は一族と共に天草の河内浦城に逃れ、さらに島原に渡った。 天文21年(1552年)、頼興が、一族で岡本の地頭相良相模守頼春(長国の子、岡本頼春とも言う)を謀殺し、末弟稲留長蔵を地頭職に据えた。 天文23年(1554年)2月、義武は島津氏を頼ろうとしたが薩摩出水で入国を拒否されたために、3月、晴広を頼って水俣から人吉へと赴いて来て、永国寺で剃髪した。晴広は義武を丁重に保護した。 同年4月1日、人吉城で小火があり、万満丸は家臣宅に難を逃れた。 相良氏と大友氏の和議は成立したものの、伊作家の島津忠良に和睦斡旋を依頼するなどしても、義鎮と義武の調停は上手く行かず、義鎮は義武の身柄引き渡しを要請。4月、豊後から外交僧や田吹上総介が来たが、晴広は応じなかった。5月12日にも再び大友の使いが来たが、同様に拒否した。11月、義鎮は河尻を義武に与えると伝え、重ねて要請したので、義武は覚悟決めてこれを了承し、次男則直と娘・辰若、妻を相良氏に預け、高鑑をつれて11月15日に八代を発ったが、豊後に帰る途上の20日、木原で殺害された。 また同じ天文23年の7月、長島の領主である長島鎮真が堂崎城を放棄し、薩州島津家を頼って出水に逃れた。晴広は同城に兵を進めてこれを占領した。 弘治元年(1555年)2月7日、晴広は式目二十一条を布告した。これは「相良氏法度」として有名なものである。しかしこの「相良氏法度」は相良晴広1人が制定したものではなく、相良氏歴代の当主によって制定されたものに晴広が加筆したものである。第1条から第7条までは相良為続が制定し、第8条から第20条までは相良長毎によって、21条から41条までを相良晴広が制定したものであった。同条により、一向宗は領内で厳しく禁止された。 同年8月12日、先代の築いた八代の鷹峯城(鷹ヶ峰城、古麓城)で晴広は死去した。享年43。八代林泉院に葬られ、法名は林泉院兆山蓮慶。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E6%99%B4%E5%BA%83
相良義滋 Sagara Yoshishige(1489年-1546年) 第13代当主相良長毎の庶長子で、第14代当主長祗は異母弟。初名を長為(ながため)、通称を左兵衛尉としたが、後に長唯(ながただ)と改名し、近江守を称した。義滋を名乗るのは最晩年であり、相良 長唯の名をより長く用いた。 永正9年(1512年)、父長毎は隠居して嫡子の長祗に家督を譲った。長唯(義滋)は長祗よりも年長であったが、庶子であって宗家を継ぐ立場にはなかった。またもう一人の庶弟瑞堅(長隆)は、同様の理由の他にすでに出家していたという事情もあった。 一方で、第11代当主相良長続の長子頼金の子長定(義滋からは従叔父にあたる)も、嫡流の身でありながら没落の憂き目を見て不満を抱えていた。永正15年(1518年)、隠居後も実権を振るっていた長毎が亡くなり、若年の長祗が親政をするようになると、しばらくして家中の不満が表面化した。 大永4年(1524年)8月24日、長定が奉行犬童長広と謀って人吉城を襲った。長祗を薩摩国出水に放逐して家督を奪い、さらに翌年(1525年)には水俣城で誘殺しせんと謀って、長祗を自害に追い込んでその首を取った。(犬童の乱) 相良氏一族と家臣団では、これを簒奪として非難し、長定には従わぬという者が多くあり、彼らは協議して、長毎の庶長子である長唯を奉じることを決めた。 大永6年(1526年)5月11日、長定非難の急先鋒であった庶弟・瑞堅が、僧兵200名余で人吉城を襲い、長定・長広ら一派を追い落として城を掌握した。瑞堅は俄かに権力欲に駆られて、翌日、還俗して「長隆」と名乗り、自らが家督を相続する意思を示したが、群臣は従わず、3日後に城を出て上村に落ち延び、永里城(あさぎり町上南字永里)に立て籠もった。 人吉の群臣は生かしておけば必ず禍根になると進言し、すぐに追手を差し向けて討伐するように長唯を説得。長唯は、近在の上村城(麓城とも言う。あさぎり町上西字麓)主で、相良氏一族の実力者の上村頼興に先鋒を依頼したが、宗家の権威は弱く、兄弟爭いに巻き込まれるのを嫌ってこれを断ってきた。上村城は永里城の背後にあり、戦略上重要であるため、長唯は重ねて交渉し、「頼興の息子上村籐五郎頼重(後の晴広)を養嗣子にする」と約束して加勢を取り付けた。 5月15日 、長唯は外戚の豊永氏(原田の地頭)の手勢を率いて上村永里に出陣。頼興は(搦め手にあたる)麓諏訪山や権現山に兵を寄せ、長隆を完全に包囲した。翌16日、永里城を強襲して落とした。長隆は金蔵院に逃れ、寺に火を放ち、切腹して果てた。 5月18日、 長唯は人吉城に凱旋して、晴れて家督を相続した。 大永6年(1526年)7月13日、相良家中の混乱を突いて日向国真幸院の北原氏の軍勢が突如として現れて、人吉城を取り囲んだ。北原氏は、長毎に除かれた相良頼泰の血縁で、相良氏とは姻戚関係にあった。 北原勢は南面して、大岩瀬、梅花(かうげ)の森や中川原、対岸の地蔵山宗厳寺にも陣を布いた。上村勢が援軍し、船で城に兵糧を入れようとしたが、北原勢がこれを奪おうとし、城兵も繰り出して中川原合戦が起こった。相良側が勝って無事に兵糧は入れられたが、城兵は数が少なく、長唯は皆越の地頭皆越安芸守貞当を呼び寄せたいと思ったが、包囲されていて連絡する手段がなかった。そこに祐玉寺(人吉市東間上町)の僧・樹薫が志願し、この僧は密書を油紙に包んで川を泳ぎ、矢黒の瀬(下流地点)で上陸して間道を通って皆越に無事書状を届けた。 長唯は、城内より敵に呼び掛け、「明朝、後詰として伊東家より援兵が来るのでその上で一戦交えん」と敢えて告げさせた。皆越貞当は夜に出発すると、長唯に授けられた奇策に従い、高土原(こうどのはる)に篝火を置き、沿道にも点々と篝火を残して行って、100名余りの手勢も各々松明を手にして、実際よりも多数の軍勢が援軍に来たように見せかけた。そして人吉に至ると、皆越勢に「我らは日州伊東家の加勢の者だ。この後も軍兵が参陣するぞ」と呼ばわせ、これを聞いた北原氏の包囲勢は狼狽して潰走した。宗厳寺で僧を殺すなど狼藉を働いたり、城下に残った北原勢は尽く討ち取られ首を斬られた。(大岩瀬合戦) なお、異説であるが『日向国史』によると、伊東祐充は姉の夫である長祗が放逐されたことを知ると、大永6年7月、荒武三省、弓削木工允など家臣を球磨に派遣した。これらは8月7日、犬童長広が逃げ込んだ宮之原城(八代郡氷川町宮原)の攻略と鎮定に貢献したといい、翌年12月26日、(長祗は)都於郡城まで礼に来て、祐充は鎮定の協力に感謝されたのだという。 大永7年(1527年)4月3日、頼興の弟上村長種を八代城主とし、長定に組して謀反を起こした犬童氏の鎮定を始めた。他方で、同月24日、相良刑部大輔が豊福城を放棄して撤退。宇土城主名和武顕の家臣皆吉伊豆守武真がこれを領し、対外勢力との戦いでは一歩後退した。 享禄2年(1529年)3月8日、上村長種は佐敷の犬童一族を攻撃。7月6日には同城を落とし、11月19日には犬童重良の湯浦城(小野嶽城)を落としたので、重良父子は津奈木城へ逃れた。翌年正月5日に津奈木城を攻めて26日に落としたので、相良長定や重良父子はさらに逃亡した。27日、長種は、長祗の首を取った当人である犬童忠匡(匡政)とその息子左近を捕えて、八代に連行して処刑した。3月には、犬童刑部左衛門長広を捕え、人吉に護送して中川原で斬首した。木上城(岩城)主犬童重安(重良の弟、頼安の父)には賜死が命じられ、重良父子も後に捕まって処刑された。 同じ享禄3年(1530年)、嫡男のいなかった長唯は、頼興との約束通り、上村頼重を世子として相良長為と改名させた。 長定は長子の都々松丸を連れて船で筑後国に亡命していたが、長唯は、度々使いを送って許しを与えると甘言して、長定に帰参を勧めた。享禄4年(1531年)、長定はついにこれに騙されて球磨に帰ってきた。長唯は、長祗の首が葬られた法寿寺に長定を泊めて、11月11日、西法路(にし のりみち)に命じてその門外で討たせた。さらに筑後に残った長子の都々松丸も刺客を送って暗殺し、長定の後を追って来た夫人と第二子の都々満丸も、鐘音寺(今の大信寺)で待ち伏せして殺害し、一家皆殺しとした。 天文元年(1532年)6月13日、天草の上津浦治種(鎮貞の祖父)が、天草尚種、志岐重経、長島但馬守、栖本氏、大矢野氏の連合軍に攻められた際、16日、長唯は兵を送って治種を助け、7月20日、連合軍を破って大勝した。 天文2年(1533年)2月20日、大宮司を追われた阿蘇惟長(菊池武経)の息子で、堅志田城主の阿蘇惟前は、相良氏との連携を求めて、政略結婚を要請した。長唯はこれを許して、4月15日、長女を惟前に嫁した。 天文3年(1534年)1月16日から3月10にかけて、長唯は現在の八代市古麓町上り山に鷹峯城(鷹ヶ峰城、古麓城)を築かせ、ここに居を移して、城下町も整備させた。 天文4年(1535年)3月16日、阿蘇惟前と名和武顕の軍が豊福の大野で合戦し、長唯は阿蘇勢に味方して、宇土勢を撃退したので皆吉武真は豊福城を棄てて撤退。同城は再び相良氏の手に落ちた。その後、長唯と名和武顕は互いに契状を交わし、長毎の代に大友義鑑の仲介によって交わされたが、内紛によって反故とされた相良氏と名和氏との和解の約束を再確認した。 同年4月8日、頼興が弟の長種を暗殺した。(この事件に関する長唯の立場や考えは不明) また同じく頼興は、5月18日に使者を遣わして武顕の娘と長為(晴広)の政略結婚をまとめて、翌年12月22日、入輿となった。これによって両家の仲はより強固となった。 これより前、肥後国では守護の菊池氏が内証により没落し、豊後の大友氏が勢力を伸張していた。菊池氏では菊池武経が出奔した後に分家から詫摩武安の子武包を迎えたが、永正17年、大友義鑑は菊池氏家臣団と謀ってこれを放逐して、弟大友重治を入れて「菊池義宗(義武)」としたが、義宗もまた菊池氏家臣団と争って天文3年(5年とする異説もあり)に隈府城を追われて、相良氏に庇護を申し出た。以前から長唯と義宗、隈本城主鹿子木三河守親貞および肥前松浦氏とは連携しており、翌年12月、高来郡より八代を訪れた義宗は、長唯と鷹峯城で会見。同盟を強固とし、高来に帰って後に義宗は義武と改名する。 八代では長唯・武顕・義武の三者はしばしば会見するなどして友好的な関係が維持された。特に義武は相良氏との親交を密にした。 天文7年(1538年)4月13日、薩摩守護島津貴久が佐敷に来て、長唯・為清親子の饗応を受けた。8月24日、義武は世子の鬼菊丸の元服を八代白木社で行い、菊池則治とした。 天文8年(1539年)3月30日、予てより建造中の渡唐船・市木丸が完成したので、八代徳淵(徳淵津)で進水式を行った。徳淵は長唯の時代から相良氏の国内・海外貿易の拠点として発展し、この地域で最大の貿易港となった。長唯は、幕府の対明貿易を一手に任された周防の守護大名大内義隆と友誼を結び、船団護衛などの名目を取り付けており、琉球やその他とも交易をしていたことが伺える。 この頃、大友氏の肥後国への影響力の拡大は年々強まっていたので、同年12月22日、これに対抗するために相良氏・阿蘇氏・名和氏は義武を奉じて大友と戦う旨の盟約を締結した。翌年4月に義武が隈本・隈庄を制圧して木山城を攻めると、大友義鑑は驚いて、偽計によって相良氏と名和氏を戦わせようとしたが、盟約によって通じていた両者はこれを見抜いて動かなかった。 天文10年(1541年)に宇土で兵乱が起こると、長唯は兵を出して鎮定に協力したが、天文11年6月15日、(理由は不明ながら)長為(為清)夫人が破鏡不縁を申し出て宇土に帰ってしまったため、相良氏と名和氏と再び不和となり、天文12年1月26日、名和勢が小川に侵攻。相良勢も兵を出して交戦して、高山でこれを撃退した。 第12代当主為続の弟頼泰が長享元年(1487年)に反乱を起こした際に、長泰の弟で、幼年故に助命された松千代丸(長弘)の子の治頼は、長じて長唯に仕えて、八代岡の地頭となっていたが、これが天文14年(1545年)に犬童頼安や宮原玄蕃らと共謀して謀反を起こした。治頼は人吉を目指したが、途中で妨害を受けて真幸院に向い、それから多良木の鍋城に入ろうとしたが、拒否されて通報された。長唯は追討を命じ、耳取原で合戦して撃破。治頼は日向に逃れ、ついで豊後に落ち延び、同地で亡くなった。 同じく天文14年12月2日、大内氏の仲介により勅使が船で八代に来航し、長唯に従五位下・宮内大輔を、為清に従五位下・右兵衛佐に叙任した。同時にこの使いは将軍足利義晴から一字拝領の偏諱を許された旨を知らせ、長唯は「義」の字を与えられて名を「義滋」と改め、為清は「晴」の字を与えられて名を「晴広」と改めた。 天文15年(1546年)5月1日、為続、長毎以来の式目を改め、義滋は新たに21ヶ条式目を制定した。これは同年8月3日に家督を譲られた晴広によって引き継がれ、彼の名をもって知られる。(相良氏法度) 隠居から間もなくして義滋は病によって亡くなった。享年58。法名は蓮乗院了徳永幸。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E7%BE%A9%E6%BB%8B
立花道雪 Tachibana Dosetsu(1513年-1585年) 戶次親家的長子、母為由布惟常之女.正光院、繼母為臼杵鑑速之姊.養孝院、正室為入田氏、繼室為問註所鑑豐之女.仁志姬(西姬/寶樹院)、側室為宗像氏貞之妹.色姬;幼名八幡丸、孫次郎,初名戶次親守、親廉、鑑連,法號麟伯軒、道雪。 少年初陣 大永六年(1526年)3月20日,豐前馬岳城主佐野親基和問田重安內通大內氏而反叛大友家,大友家令豐後大野郡藤北庄的鎧岳城主戶次親家出兵討伐,然而親家重病在床,年約13歲的道雪代父出征,身著系赤縅的鎧甲綁著水色的繩結,頭戴白星兜並附有八相前指物,腰掛家傳寶刀並騎乘附有金紋鞍的愛馬戶次黑毛,率領3千士兵連夜趕往馬岳城,於清晨時分發動攻勢,於一天之內便攻破擁兵5千人的馬岳城降服佐野親基和問田重安,許多大友家臣對道雪以年幼之身便立下如此驚異的戰功皆讚賞不已,戶次家此後受到大友更加的重用。 同年4月19日道雪之父親家病逝,因此繼承戶次家為第十五代家督,天文五年,改名為親廉官稱丹後守,往後拜領大友義鑑的「鑑」字改名為鑑連,並與津賀牟禮城主入田親誠的女兒波津結婚。 義鎮的忠臣 天文四年(1535年),肥後國人菊池氏一族反叛大友家,道雪率3千兵馬前往討伐。菊池氏聯合城氏、赤星氏、隈部氏、山鹿氏、有動氏、鹿子木氏於車返一地的險隘地形和道雪對峙,並發動火計和三方包圍,此時肥後國人之中的阿蘇氏及合志氏率三千兵力反叛菊池想轉為大友援軍為內應,然而道雪卻派使者海老名肥前傳達說:『不管戰爭的勝敗,武士的忠誠心是最優先重要的。並且我從初陣以來未嘗敗績,此戰也將不假他人之力,況此戰有大明神監督當能克敵制勝,我若僥倖得援軍必敗。』而拒絕援軍,希望對方能作為敵方盡忠作戰。此戰最後靠著道雪堂叔父戶次親宗的勇猛突擊造成敵軍混亂後,道雪以鼓聲振奮士氣,家臣綿貫吉基、由布八郎以槍隊進擊,接著足達左京、安東連信、高野大膳(此時通稱名為玄蕃允)大舉追擊而獲得勝利,豐後和築後的國人此後也盡皆歸降,道雪因此又立忠功。 天文四年(1535年),肥後國人菊池氏一族反叛大友家,道雪率3千兵馬前往討伐。菊池氏聯合城氏、赤星氏、隈部氏、山鹿氏、有動氏、鹿子木氏於車返一地的險隘地形和道雪對峙,並發動火計和三方包圍,此戰最後靠著道雪堂叔父戶次親宗的勇猛突擊造成敵軍混亂後,道雪以鼓聲振奮士氣,綿貫吉基、由布八郎以槍隊進擊,接著足達左京、安東連信、高野大膳(此時通稱名為玄蕃允)大舉追擊而獲得勝利,豐後和築後的國人此後也一一歸降,道雪因此又立忠功。 天文十五年(1546年),秋月文種謀反,大友義鑑令道雪與佐伯、臼杵、吉弘等將率兵一萬前往鎮壓。 天文十九年(1550年),大友義鎮(大友宗麟)的叔父菊池義武,和師傅入田親誠,對義鎮感到不悅,因此慫恿大友義鑑轉立義鎮的異母弟鹽市丸為下任家督並廢黜義鎮的繼承人地位,大友義鎮為此情斷義絕,於2月10日與重臣津久見美作守、田口藏人襲擊大友義鑑的居所,史稱「二階崩之變」大友義鑑、義鑑之女、鹽市丸和他的生母,以及侍女皆一同被殺盡,事變後大友義鎮成為大友家第二十一代當主。 之後於3月,道雪接受大友義鎮的命令攻打始作俑者入田親誠的居城津賀牟禮城,道雪因此而和親誠之女波津離婚,反叛兵敗的親誠在逃往阿蘇家後被迫自殺。接著道雪於8月領兵三萬五千攻破菊池義武的隈本城而立下忠功,菊池義武逃亡至島原。後於天文二十三年(1554年)接受義鎮的命令,率家臣安東家忠及小野信幸埋伏於豐後直入郡木原,包圍受到宗麟以和平為由騙其回歸豐後的菊池義武,迫使其自刃。 筑肥豐轉戰 天文二十三年(1554年)為確保豐前的領土,10月13-15日道雪等大友軍於豐前柳浦擊退駐軍於豐前門司城的毛利軍,道雪之奮戰造成毛利元就、小早川隆景大敗總崩,成功奪回門司城。同年,道雪收弟弟戶次鑑方(鑑堅)之子戶次鎮連為養子,繼承鎧獄城。 弘治二年(1556年)6月3日,大友家爆發小原鑑元之亂、道雪率部下高野大膳於豐後海部郡討伐內通毛利氏進行謀反的住民齊藤小左衛門、本庄統綱、中村長直等,15日往肥後進攻小原鑑元的南關城,鎮壓叛亂。 弘治三年(1557年),大友義鎮對倔強不服,於弘治元年(1555年)內通毛利並舉兵反叛的築前國人秋月文種、肥前國人筑紫惟門發動攻勢,於7月令道雪合高橋鑑種、臼杵鑑速以及吉弘、田北、志賀、一萬田、吉岡、田村、佐伯、朽網、小原等將共約二萬前往征討,道雪不負義鎮所望於7月7日接連攻下文種的古處山城和惟門的五箇山城,使得秋月文種自刃並降服筑紫惟門,至12日平定部分築前和肥前地區。同年大友家與毛利家簽定合約,令毛利家承認大友義鎮之弟大內義長於北九州的領地為大友領有,並且不得侵犯。 永祿元年(1558年)大友軍進攻毛利方的豐前松山城,此戰築後星野氏配下七人眾之筆頭的通口實長(通口越前守)為大友軍奮勇作戰。 永祿二年(1559年)1月秋月文種之子秋月種實受舊臣深江美濃守以及毛利家的援助擊退古處山城的大友軍,並與筑紫惟門聯繫再次對抗大友家,大友宗麟為此以加判眾筆頭的田北鑑生為總大將,以真光寺佐藤刑部率築後國人問註所鑑晴、星野鑑泰、田尻親種及肥前犬塚尚家等進攻筑紫惟門的天判山城,卻於第一次侍島之戰敗於筑紫惟門的釣野伏戰術,佐藤刑部、鑑晴、鑑泰、尚家及親種之弟的種廉、種增戰死。 8月,道雪率大友軍進攻北九州國人國人眾宗像家的領地,攻陷白山城、鳶獄城並進至宗像居城許斐山城的同時因為毛利元就破壞約定偷襲大友方門司城,道雪為防前後夾擊放棄攻城撤退至豐後。一方,門司城將怒留湯主水退至豐後,義鎮對於毛利家的毀約大怒,在對毛利以外交操作談不嚨的情形下,於永祿四年(1561年)4月先以道雪、田北鑑生、田北紹鐵、田原親賢等大友軍率六千餘騎進攻豐前,攻擊毛利方位於豐前的香春獄城,城將原田義種以落石一時擊退大友軍,但道雪冷靜的加入兵力,令追擊的原田氏遭到分斷,大友軍再各個予以擊破,終於7月15日攻落,迫使原田義種自刃。然而此舉造成築前國人眾聯手反擊大友,9月毛利軍又趁機攻落香春獄城,被宗麟委派與毛利軍對峙的城將志賀鑑隆(志賀常陸介)敗退回豐後。 後義鎮親率道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長增、齊藤鎮實、田原親賢等大軍前往豐前門司城,9月2日開始進攻,大友軍更請來葡萄牙軍艦砲擊門司城,10月9日策反毛利方的稻田禪正、葛原兵庫助,但是由於被毛利方發覺利用,於10月10日的明神尾戰鬥中遭到伏擊敗戰,26日大友軍再度總攻擊,這時道雪率領八百名弓兵攻擊毛利軍,並在數支箭上綁上寫有「戶次伯耆守鑑連隨時候教」的字條以激烈的箭雨射向毛利軍,此後毛利軍中,傳開大友家名將「戶次鑑連」的名字,武名逐漸廣傳於多個地區。同年,道雪擔任大友家掌握軍政系統的加判眾職位。 永祿五年(1562年)大友義鎮因為敗戰以及家中信仰問題而剃髮入道號「宗麟」,道雪也跟隨出家入道號「麟伯軒道雪」,不久道雪被任命為築後方分,領有築後赤司城。同時宗麟贈送黃金五十兩給予幕府,控訴毛利毀約之舉,希望足利義輝將軍出面和議,一方著手進行連絡毛利家背後的尼子義久打算準備夾擊毛利家。9月,道雪又隨大友軍進攻豐前毛利方重臣天野隆重鎮守的松山城,於豐前刈田著陣,並於上毛郡防範毛利方的夜襲,13日於松山城後的海岸與毛利軍激戰,10月13又抵抗毛利軍於柳浦一地集體的攻擊,此戰道雪討取冷泉元豐、赤川元德(赤川助右衛門)、桂元親(桂兵部大夫)三位毛利方大將,11月19日大友軍再次強攻松山城,兩方互有重大死傷。於同年內又再次攻擊香春獄城,降伏城將千手宗元。 永祿六年(1563年)1月,因松山城是個倚海難攻的要害久攻不落,大友軍最終撤退。27日道雪受足利義輝之命令對宗麟提出意見,於豐前進行「豐藝和談」。5月兩家終於談合,毛利家保有門司城,交回松山城於大友,並將香春獄城毀壞,退出九州並停止對豐築諸國人眾的援助。 永祿七年(1564年)3月25日,道雪率其麾下由布惟明等家將,再次於豐前柳浦進行作戰。4月2日大友軍於肥前、築後邊境與筑紫惟門對峙為第二次侍島之戰,5月2日兩軍激戰,大友方再次敗於惟門的釣野伏戰術,築後眾的問註所鑑豐、小河鑑昌戰死。後大友宗麟仍親自率兵平定築後,之後過於滿足現狀開始沉溺酒池肉林的玩樂生活,道雪為此強烈的勸諫宗麟。 筑前爭亂記 永祿八年(1565年)築前有「西大友」之稱的立花鑑載自去年反叛大友家,道雪與吉弘鑑理於6月奉命前往討伐,於7月4日,道雪配下由布惟信一隊討取敵猛將彌須圖書助遂攻落其居城立花山城,之後在宗麟惜其家系下沒有將其殺滅,令鑑載繼續為立花山城主。 永祿九年(1566年)毛利家攻陷月山富田城消滅尼子家後屢對築前國人如原田、麻生、宗像、秋月、筑紫等進行策反,並且岩屋、寶滿二城主的高橋鑑種因早先不滿宗麟色淫兄嫂也一併反亂,宗麟對此派出道雪和吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長增(宗歡)、齋藤鎮實五將領豐後、築後、肥後共二萬兵前往鎮壓。 永祿十年(1567年)7月7日,大友軍擊退高橋鑑種八千使其退往寶滿城後,以臼杵鑑速攻向岩屋城討取城將足達兵部少輔二千餘人,而道雪和鑑理先後在短兵相接,矢雨如注的激戰下,以家臣小野鎮幸、足達連安、高野出雲、十時惟次、戶次親繁、戶次親宗之奮戰擊退高橋方的猛將福井玄鐵,並且此戰中道雪家臣十時惟忠(十時右近太夫惟定,連久、連貞的堂兄)奮迅連斬28人,激戰中家臣內田鎮並以肉身抵擋敵方狙擊道雪的弓箭幸而保命,終於攻陷寶滿城降服高橋鑑種。11日齋藤鎮實雖於山上城和侍島二次敗於筑紫惟門、筑紫廣門父子的釣野伏戰術損失兩百餘人,但於27日接受惟門自刃及廣門再三的降伏請求並受取筑紫榮門等人質。8月14日大友二萬兵力終於進攻秋月種實,在秋月城下的甘水、長谷山(瓜生野之戰)一帶和種實一萬二千兵對戰,此時道雪在一日為數七場的戰事當中七度持刀槍衝鋒於敵陣討取秋月方七位小有名氣的武將(此戰於戶次軍談中,記載道雪乘馬奮戰,故此時雙足應還健全。),家臣十時惟忠也手持大薙刀,單手貫穿敵兵更將其投飛,戰地因而被稱為「人投原」。15日大友軍再攻落秋月方的邑城休山茄子城,守將阪田諸正自刃,種實見狀退守至古處山城,大友軍則駐軍於休松一地休息。9月3日,大友軍陣中傳來毛利軍來攻的流言,大友軍勢因此開始撤退動作,秋月種實見機引兵一萬二千打算奇襲道雪,但是道雪一早察知率所部三千兵做迎擊態勢並設置虛旗,擊散秋月先鋒軍內田善兵衛實久和問註所鑑景(秋月治部少輔)更突崩中備軍綾部駿河五千騎,雖然問註所鑑景一度重整二千兵攻擊道雪本陣於亂戰中討取十時惟忠,但秋月種實此時見到道雪所擺之噓旗誤以為大友援軍來襲因而撤退。 4日未明,秋月種實四千兵乘著風雨,夜襲卸下軍備的大友軍吉弘鑑理、臼杵鑑速的陣營,大友軍陷入混亂,吉弘、臼杵的將兵轉往道雪陣營時更發生自相殘殺的慘況,道雪見狀吞下正在食用的飯團,急令家中大將由布惟信、小野鎮幸等人分兵驅敵,並率自軍為殿後援助吉弘、臼杵等軍撤退,更持刀槍衝入敵軍中振奮反擊士氣,激勵大友諸將如朽網宗歷(朽綱鑑康)、清田紹喜、一萬田鑑實(一萬田宗慶)、三池鎮實、田尻鑑種而開始反擊,當中田尻一隊便討取秋月方15人首級,家臣足立連安更突陣連斬18人,終使秋月軍轉為劣勢付出重大死傷而暫時撤退,並傳聞此戰的道雪被稱為「鬼道雪」。然而此戰道雪也失去五位親族,分別為叔父親久、弟弟鑑方、堂弟鑑比(鑑方及鑑比皆有同為鑑堅的名字,於各項記載此戰之文書中常被混淆)及堂叔父親繁、親宗。譜代家臣則有由布五兵衛惟清、綿貫勘解由吉廉、十時右近太夫惟忠等部將十三人以及從宗麟直屬派來助陣的小野彈正忠鑑幸(小野鎮幸之父。)於此戰陣亡,築後國人眾領主三池親高更與家臣43人一同陣亡,隨後大友軍退往築後時秋月種實又追擊至甘木高場討取利光兵庫助、橋本玄蕃允等,大友聯合軍損失約5-60位身分不等的將士,包含被討死4百人。 永祿十一年(1568年)2月立花山城主立花鑑載受到毛利元就策反再次反叛大友家,其家臣薦野宗鎮(薦野三河守,薦野增時之父。)、米多比直知(米多比大學,米多比鎮久之父。)此時為貫徹對大友家的忠義不支持鑑載的行動,遭其殺害,後薦野、米多比一族率兵投靠道雪。鑑載則於4月6日迎來毛利家的清水宗知(清水左近將監,清水宗治之兄)8千餘人和軍船百餘艘,更聯合原田隆種(原田榮)、原田親種父子與高橋鑑種家臣衛藤尾張守約1萬人於立花山城,4月24日道雪與吉弘鑑理、臼杵鑑速、志賀親守3萬餘人包圍立花山城及其白岳、松尾等7處城、砦,三個月後於7月4日大友軍強攻立花山城,道雪一軍在攻略其支城松尾城時,於立花山崖上的不利地形苦戰,先鋒高野出雲、十時惟次(十時攝津,連貞之父。)負傷,道雪因而挺進前線激勵家臣戶次鎮直、戶次鎮時、十時惟次、十時惟由(十時但馬,連貞、連久堂叔)、由布惟定(由布宮內,惟信長子)、高野出雲、小野鎮幸、足立連安(足達對馬守宗園)、吉田兼正、原尻鎮清、竹迫鑑種(竹迫日向守昌種)討取敵兵28人。當晚因為道雪的調略而令立花家臣野田右衛門大夫(野田若狹守)背叛為內應引道雪軍入城,戶次統春(後來的立花統春)、十時連久、臼杵鎮氏(臼杵進士兵衛、臼杵鑑速之弟)、池邊永晟等奮戰生捕安武民部,原田親種、清水宗知、衛藤尾張守不敵逃至立花山城西南邊海岸的名島城。 7月23日立花鑑載因支城各個陷落,帶著家族10餘人脫逃往古子城並打算集結兵力於新宮町,卻被野田右衛門大夫告知行蹤遭到道雪軍追擊,進退不得而自殺,同日道雪又與高橋鑑種於宇美河內一地進行會戰,破之,而原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知則往中國毛利家方面退卻,立花山城則交由臼杵鎮氏、田北鑑益(田北民部丞、田北鑑重之弟)、津留原掃部助暫時代守。7月29日道雪等大友軍將致力於築前反大友勢力的掃討,但清水宗知為奪回立花山城又聯絡原田親種、衛藤尾張守於8月2日又率軍5千至立花山城下,道雪軍再次和鑑理、鑑速反擊,此時臼杵鎮氏和代父指揮的吉弘鎮信率軍分斷衛藤的軍勢,將戰線從立花山城往西南移動向香椎、名島,越過多多良濱並從莒崎往博多追擊,同時道雪於8月5日率4千追擊原田親種軍勢往生松原,其父原田隆種雖率三千援助親種(第一次生松原之戰),親種仍被射落馬下兵敗逃命。14日早朝會合大友軍於立花山麓共擊敵軍,道雪軍以第一隊小野鎮幸、第二隊由布惟信、第三隊後藤種長(後藤隼人佐)、第四隊堀祥(堀東雲軒玉隱)、第五隊安東家久(安東周防守,家忠之弟)、第六隊高野大膳互相配合交替輪流進行攻擊,追擊至莒崎一地,此時高野大膳奮勇討殺於前軍指揮的衛藤尾張守,敵軍皆因為道雪的夾擊攻勢而做四散逃,全軍往東北進擊討取3百餘人於午時追擊至蘆屋一地,清水宗知則僅剩20餘人乘船回毛利領地。同日傍晚時分,為救援原田親種的原田親秀(波多江親秀)率3千和道雪又在生松原激戰,原田方損失太田孫左衛門忠茂、池園四郎兵衛種之、原田伊豆守種冬、笠新八與昌、上原新左衛門泰元以及原田親種之子原田秀種僅12歲戰死,雙方皆損失多位家臣但以道雪軍獲勝告終,此一系列戰事被統稱為蘆屋合戰。 8月19日,秋月種實終於因為失去毛利家的援助而降服大友軍。11月25日,道雪從築前山隈城移動到高良山下的富本(問本)城,28日,道雪為確保築後國人問註所鎮連不參與築前國人反亂,並感念其父鑑豐於永祿7年為大友家出兵築前討伐筑紫惟門於5月2日忠戰而亡,娶鑑豐之女仁志姬為正室。 永祿十二年(1569年)1月,大友宗麟親率五萬大軍征討「肥前之熊」龍造寺隆信,道雪和吉弘鑑理先後拒絕隆信的投降交涉,大友軍於3月23日開始攻擊,道雪與大友諸將領三萬進攻江上武種的勢福寺城並使其降服,4月6日吉弘鑑理於多伏口一地擊敗龍造寺軍主力,欲進擊之時突然發病而錯失良機。一方,在龍造寺隆信的聯絡下毛利元就見隙率吉川元春、小早川隆景、乃美宗勝4萬餘人由吉田郡山城出發經由海路於4月15日包圍立花山城並斷絕水脈,17日在道雪建議下派出城親冬提出與龍造寺的議和,後隆信也派遣老臣納富信景慰問辛勞議和的道雪,並贈送名馬一匹。5月3日立花山城被奪,宗麟聞訊急報道雪等將回軍包圍立花山城,大友軍3萬於5月5日集結於博多,道雪先於5月6日率軍與田尻鑑種一同進攻毛利軍觸發一場小戰,此戰道雪自身持槍殺敵,5月13日毛利軍度過多多良濱川於松原附近放火與大友軍交戰四回,5月18日元春和隆景率毛利軍4萬餘多多良濱,道雪、鑑理、鑑速則率兵1萬5千分三隊為先陣,之後配置約2萬的大友軍力與之對峙,雙方激戰期間,道雪見到小早川隆景一時的陣形空隙,先以8百人鐵砲隊密集射擊後自身拔刀乘馬(『築前國續風土記』載此時道雪乘馬)率隊衝入敵陣營中,毛利軍此時無法敵擋一時遭受敗戰,後撤退於立花山城,是役為堪稱中世紀日本九州最大的合戰「多多良濱合戰」。 此後戰事轉為膠著狀態,直至十月,毛利元就因為大內輝弘乘虛奪取山口高嶺城以及出雲月山富田城方面遭受「尼子復興軍」攻擊的消息,遂下令吉川元春和小早川隆景立刻撤退回國。道雪這時趁機追擊毛利軍,毛利軍陣亡者約三千四百多人。10月13日,大友三老(道雪、鑑理、鑑速)於「蘆屋會談」中決定攻擊築前混亂的元兇高橋鑑種,攻落其居城寶滿城後令其切腹自盡,但是在宗麟心軟之下只將其流放至小倉城。 擊退毛利軍後的大友軍繼續實行攻打龍造寺隆信的計劃,於元龜元年(1570年)大友六萬大軍包圍佐賀城,這時道雪因為包圍時間甚久導致築前勢力不穩而早先向宗麟提議撤軍,8月20日大友軍總大將宗麟之堂弟的大友親貞遭到鍋島直茂的夜襲被成松信勝奪去首級,大友軍失去主將而接連撤退,這時道雪以殿軍防備陣勢抵擋追擊;此戰大友軍戰死者二千人以上,遂因此敗退回領地。 家督繼承 此時立花山城因為立花鑑載的自刃而為空城,為鎮壓築前的反亂勢力,道雪在宗麟的再三說服下轉封至築前立花山城,於元龜二年(1571年)五月形式上的繼承立花氏,並迎娶宗像氏貞之妹色姬做為部份和平鎮壓手段,然而道雪於天正三年(1575年)便將家督之位讓給獨生女,年僅7歲的立花誾千代,自己退居幕後,道雪此舉完全是因為不想繼承大友叛臣立花氏這個姓氏,終生使用戶次姓。同時,被迫流放豐前小倉城的高橋鑑種其高橋氏則由吉弘鑑理次子高橋紹運繼承,鎮守岩屋、寶滿城。 筑前鎮壓戰 天正六年(1578年)大友家於耳川大敗於島津家,使的大友家逐漸式微,築前國人如秋月、原田、宗像、草野等再次大規模反叛,12月3日,秋月種實聯合築後國人眾問註所鑑景、筑紫廣門約4-5千人攻擊岩屋、寶滿城因為高橋紹運的防戰未果,後於4日在柴田川和立花高橋軍對峙,因為立花高橋軍的兵力過少而再交戰不久便撤退至山野之中,此時種實於晚上追擊,反被立花高橋軍埋伏夾擊敗戰,退回居城。同年12月11日,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,13日道雪配下的由布惟信、十時連貞、安東家忠、高野大膳因於宇美等地轉戰立功而一同被合稱「立花四天王」 天正七年(1579年)4月初秋月種實聯合筑紫廣門和豐前國人城井、長野、千手、齋藤、上原及築前國人宗像、麻生、原田、杉等氏反叛,攻向岩屋城被高橋紹運擊退,同時大友宗麟為此派出豐後的家老志賀親守(志賀道輝、道魁)率築前國人小田部鎮元(小田部鎮通、紹叱)、大鶴鎮正(大津留式部、宗雲,實為鎮元之父)二千餘攻進秋月家石阪一地(鍬摺之戰),卻遭到宗像氏貞、麻生元重、杉連並、許斐氏備、原田鑑尚(大鶴鎮正之子,但有一說為鎮正之伯父)呼應秋月軍的的埋伏包圍,紹運因此和道雪出戰夾擊敵軍救援志賀等將,後讓志賀親守暫時駐軍於岩屋城。 7月18日龍造寺隆信出兵築後之際,其武勇出眾的次子江上家種聯合原田親秀以執行總兼為大將率軍侵略大友家的安樂平城(荒平城),城主小田部鎮元頑強抵抗,此時鎮守安樂平支城.池田城的小田部家武將大教坊兼光背叛鎮元。9月11日鎮元聯合鎮守鷲岳城的大鶴鎮正之弟大鶴宗逸對池田城發動夜襲,大教坊一族85人全員戰死,同日龍造寺軍攻向池田城,鎮元與宗逸出城渡江奮戰身亡,另一方面雖然大鶴宗雲早先聯絡到立花道雪以十時連貞、小野鎮幸率6百兵並輸送兵糧物資為援軍,但是趕不及龍造寺軍的激烈攻勢;鎮元籠城長達約三個月最終仍被攻陷,立花軍僅能救走鎮元遺下的次子統房。 期間於7月27日,秋月、筑紫聯軍又偷襲大宰府,道雪聯合紹運將其擊退。8月13日派出家臣足立連安等將救援食糧不足,大友方柑子岳城的木付鑑實,於14日的歸路中在生松原一地遭原田氏夜襲(第二次生松原之戰),道雪此戰乘轎督戰。同月,宗像氏貞、麻生元重、原田鑑尚等反大友聯軍於多多良川左岸的箱崎攻入領地,道雪趁夜派一名家臣涉水度過多多良川,潛入上松城與內應放火並俘虜元重之妻,宗像、麻生、原田三將見自城起煙於是退到許斐城,元重私底下想投降道雪,但被氏貞發覺而被殺,9月18日道雪聯合紹運攻入宗像家領地的鞍手郡,氏貞敗走,鑑尚投降被志賀親守誅殺,同月秋月種實又進攻寶滿城,道雪和紹運於吉水一地將其擊退。 同9月下旬,道雪、紹運、志賀親守(道輝)為討伐原田親秀(原田隆種)進行軍議,決定由紹運留守防備秋月、筑紫,道雪則率三千兵,以小野鎮幸、由布惟信為先鋒進軍肥前高祖山城並放火燒村,原田親秀以一族之原田林慶為大將率六千出擊,將道雪軍衝散並逐漸聚集當地鄉士之兵力,追擊道雪軍至生松原,此時林慶見道雪背後河川滿潮,認為道雪之兵比起溺死將會轉而奮鬥攻擊自軍,因而打算待其退潮,同時小野鎮幸也向道雪提出該利用此背水之陣令士兵突擊敵陣,兩軍互相觀察,隨後小野、由布率五百分左右進擊,道雪後陣遂追擊將原田軍打回高祖山城,林慶則在小野、由布及薦野增時的夾攻下被討死,道雪軍攻破三之丸、二之丸後遂放火燒城返回生松原執行首實驗後回軍立花山城。(此戰載於『大友興廢記』、『戶次軍談』) 10月24日龍造寺隆信趁攻落安樂平城之氣勢再度出陣築前,派出家臣大田兵衛三千餘人聯合筑紫廣門攻擊大鶴鎮正的鷲岳城,因為高橋紹運出兵於山田山和隆信對陣為大鶴鎮正的後援而使大田、筑紫兩將撤退,但11月15日筑紫廣門又派兵游擊偵查,紹運因此鎮守於岩戶一帶監視,同時秋月種實偷襲岩屋城,紹運因此回軍岩屋並於半路打擊筑紫勢的追擊,重整岩屋城的兵力後於高尾山對戰四千秋月軍,秋月軍因紹運的火攻而有部分撤退,同時道雪出陣牽制筑紫軍並和紹運夾擊令其敗退,終令大鶴鎮正脫險。天正八年(1580年)2月,龍造寺隆信聯合秋月、筑紫、原田、草野2萬軍力進逼築前西南邊境的生松原,2日道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士(傳聞此戰也是立花宗茂的初陣),3日於月隈村築砦,16日對豐後諸將發出有名的「九條檄文」。3月,因為宗像氏貞與大友家合議,氏貞將其妹色姬嫁給道雪,並割部分領地為嫁妝,此時道雪67歲,色姬25歲。7月,道雪與龍造寺隆信合議,築前西9郡龍造寺領,東6郡大友領。9月,道雪和紹運於奈須美一帶擊退秋月種實。 天正九年(1581年)3月6日道雪於那珂郡麥野村築砦。同年龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下大鶴鎮正的鷲岳城而於7月27日進軍至大宰府,並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前岩屋城,紹運與之對峙,道雪並派家臣竹迫統種、薦野增時等將為援軍,雖成功於觀世音寺之戰擊退敵軍,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰鬥,此時紹運以弓、鐵砲、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右迴於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取井田親氏,此石阪之戰也是立花宗茂普遍被認為的初陣,其優異的表現令道雪正式興起迎統虎為婿養子的念頭。同年8月,膝下無子的道雪,終於對高橋紹運提出希望其長子高橋統虎(宗茂初名)能繼承立花家,起初紹運因為統虎優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,統虎終於成為道雪的養子。於8月18日,統虎和道雪的女兒立花誾千代結婚成為婿養子而繼承立花家。(但是夫妻相處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居。) 11月6日,大友宗麟為援助被秋月種實、問註所鑑景夾擊的家臣朽網鑑康(朽網宗曆、宗歷),而命道雪、紹運、宗茂出陣,立花高橋共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰(許多史料因同戰地而常與石阪之戰混淆,秋月方史料則記為八木山合戰)。 同年11月12日,立花山城東北方的宗教國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬(宗像氏貞之妹色姬為道雪側室)的嫁妝給立花,趁立花軍一面出戰秋月軍(潤野原之戰),一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、內田鎮家、足立連安等立花家臣800兵前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲(小金原之戰,立花家稱清水原之戰),此戰中足立連安連斬18人,而惟信之子由布惟次也以鐵砲狙擊敵大將河津盛長(河津修理進)立下大功,但隨後奮戰中身受13處重傷,最後在由布、小野、薦野、內田等立花家臣以背日光於高處下山衝陣等兵法上正確的判斷,宗像方大敗,將領吉田貞辰、石松秀兼等人皆被討取,而宗像家的背叛觸怒道雪,兩家之間的同盟因此破裂。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡岩戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦(貓卡城),並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下先於3月16日派小野鎮幸、由布惟信侵攻宗像許斐山城周邊的八並村,4月16日才前往那珂郡岩戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,統虎和薦野率五百兵為伏兵,道雪本隊在危急之時因統虎的策略終於擊退原田勢,隨後讓統虎率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再岩戶一帶的岩門庄久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日,攻入宗像領地,侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月16日的吉原口防戰討取吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,氏貞只能退往白山城,遂驅逐宗像勢力,而宗像氏貞之妹,道雪的側室色姬也因此於隔年3月24日在立花山城中自殺。(一說病死)同天正十一年1月期間,筑紫廣門數次於夜晚派兵侵擾立花領地,2月4日,道雪以家臣竹原藤內為伏兵擊退廣門3百兵,斬獲甚多。3月筑紫廣門又出兵太宰府,道雪與紹運共同抵禦,此戰立花統春作為先鋒立下一番槍,再次擊退筑紫軍勢。4月8日,筑紫軍又潛入築前那珂郡偷割青麥,立花軍先鋒竹原藤內與之對戰,接應主軍並行夾擊,又再次擊退筑紫軍。 筑後遠征期 天正十二年(1584年)4月12日,筑紫廣門又率軍侵攻御笠郡,道雪與紹運反擊至筑紫家領地的武藏城下,道雪家臣吉田連正、後藤連種、佐藤次郎三郎等率其部眾力戰衝鋒陷陣,紹運又分二千兵為三隊進行橫擊,筑紫軍戰敗退入城中。3月,因龍造寺隆信於沖田畷之戰對上島津軍戰敗身死,大友家為此趁機出兵想奪回築後,以宗麟次子大友親家、三子大友親盛率豐後大友軍7千人進攻築後貓尾城的黑木實久(黑木家永),實久則聯合龍造寺軍共2千餘人在貓尾城與高牟禮城籠城抗戰,經過一個月大友軍仍然無法攻落,大友家第二十二代當主大友義統為此要求道雪與高橋紹運出兵,兩軍於8月18日以紹運2千人為先陣、道雪3千人為後陣出發,紹運在渡過築後川擊滅秋月家武將芥田兵庫50餘人後與道雪越過鷹取山,並以由布惟信為殿軍,在狹窄的山道途中又遭到伏兵以鐵砲狙擊,道雪也以弓、鐵砲反擊,此時紹運以擅長鐵砲狙擊的家臣市川平兵衛反狙擊令道雪脫離險境,但伏兵仍攻擊殿軍的由布惟信,道雪又回軍以立花統春、立花成家與敵兵激戰;此時以軍師大橋桂林之計,故意朗誦歌謠悠然進軍,然後突然回軍攻擊,敵兵遂因此逃去。(傳聞此時道雪才以坐在"輿"上行軍) 19日,兩軍到達高牟禮城,隨即寢返黑木家老樁原氏部,氏部並於24日開城,龍造寺援軍的土肥吉春(土肥出雲守)因此離城逃去。此時貓尾城已被孤立,道雪和紹運開始對黑木家同族的何崎重高防守的犬尾城攻略,28日在城島、酒見・榎津・貝津進行掃討,不久開始進攻貓尾城,在樁原氏部的帶領下9月1日(一說5日)攻下貓尾城,黑木實久則自殺身亡。8日又接連攻下蒲池鎮運的山下城以及築後各處的小城如谷川城、邊春城、兼松城、山崎城還有田尻鑑種的鷹尾城,大友軍終於展開對九州築後有名的堅城「柳川城」的攻略,城將龍造寺家晴死守不出,大友軍連翻攻擊未能攻下,道雪遂於10月3日因高良山大社座主良寬之建議移陣至高良山,並攻下久留米城、安武城、西牟田城,且勸降草野鎮永的吉木城,4日改攻籠城於發心岳城的草野鎮永和星野吉實的鷹取城、福丸城,後又侵攻問註所鑑景燒毀竹井城並於秋月領甘木一地對其掃討牽制,之後於年底又回陣高良山時,大友親家和親盛卻因長期戰陣在外以疲倦為由退回豐後(一說是大友義統通知秋月種實的侵略要其回國防備),留下立花高橋軍於築後。另外此時道雪處決擅自回家鄉過年的家臣,連其父母也同罪。 天正十三年(1585年)2月上旬龍造寺家晴、鍋島直茂於柳川城率軍5千出戰布陣於高良山南方的西牟田,北方則有秋月種實、長野鎮展、草野鎮永、城井鎮房、千手氏、星野氏、問註所氏等國人施加壓力,2月中旬龍造寺政家共集結3萬餘大軍近逼高良山。龍造寺軍於4月18日以後藤家信(龍造寺隆信三子)率筑紫廣門、波多親、高木左馬助8千人於築後川壓迫。 此時豐後大友軍朽網鑑康率野上清四郎來援與道雪、紹運三大將共9千8百餘兵力分為兩軍對抗,以朽網鑑康一隊往西牟田壓制北方國人眾,道雪和紹運則於高良山西北方的築後川和寶滿川交接處的小森野一地布陣,紹運以家臣伊藤總右衛門、福田民部少輔5百兵為先鋒但不敵筑紫廣門、後藤家信等龍造寺軍的優勢兵力,紹運因此後退引誘,激戰之時紹運以其剛勇的家臣萩尾治種(萩尾大學)、成富左衛門一千五百騎從龍造寺軍側面筆直突入造成其勢虛弱,後藤、筑紫無法阻止軍勢崩壞兵卒竄逃,道雪3千兵則迂迴至北野村從側面攻擊,追擊渡過築後川至肥前鳥栖、十三部野一地,討取1百87餘名戴甲武士。此戰為小森野之戰。 後大友軍以紹運率豐後日田、玖珠、國東、南部各郡2千兵以野上清四郎為先陣,在築後川上游之一的筒川,沿川邊擺「長蛇之陣」後陣擺「雁行之陣」,又以朽網鑑康布陣於高良山腹以「鳥雲之陣」(形容如鳥群集散於雲層之間,為臨機應變的陣型)潛伏,而道雪率第二陣以小野鎮幸、由布惟信為首率京都鎮安、萩尾治種2千兵為「浮武者」(游擊兵,潛伏並見機突擊之奇兵)潛伏於野中村為後陣,且高良山座主丹波良寬也率法師武者大祝保真、宗崎孝直、稻員安守等7-8百兵力參陣於後備。兩軍以足輕隊開戰,後紹運以200挺鐵砲橫一列猛烈射擊,龍造寺軍也從高良山左側出擊,於十三部野一地野上清四郎捨身碎骨奮勇突進立下一番槍,激戰之時紹運退後,挑釁引誘龍造寺軍追擊並三度反擊討取多人,同時第二陣小野鎮幸、由布惟信與後陣京都鎮安、萩尾治種又從側面突擊斷絕敵軍後路,紹運又將右翼的先陣兵力以長槍加入攻勢,此時先陣後陣的騎兵整齊一列軍勢並進突擊,道雪更突馳追擊至敵本陣前的祇園原,龍造寺的騎馬武者多數陷於田地遂敗,損失2百83名戴甲武士。此戰為十三部野之戰。 4月23日,龍造寺家晴、筑紫廣門又率1萬6千餘後備兵力進攻高良山,於高良川沿堤防分五段軍勢。道雪、紹運、察知龍造寺軍的行動,與良寬、蒲池氏合併8千兵力布陣於祇園原,並將兵力二分,於各處配置伏兵。道雪此次親自為先陣大將,並配置由布惟信、十時惟由、十時連貞為先鋒,安東連忠、內田鎮家、竹迫連種、綿貫吉兼為後陣,高良山法師武者良寬等則隔軍配置做為後備。道雪擺出約120-200挺鐵砲,只要敵軍一接近就只發射20-30發威嚇,而龍造寺軍約7-800挺鐵砲卻因此連發,由於龍造寺軍於山間擊出多發鐵砲造成煙霧瀰漫視界不良並且受回音干擾,道雪的鐵砲隊則因為控制得當沒有受到硝煙影響,而龍造寺軍卻在這不利的狀況憑其大軍猛烈突擊,先鋒的惟信、惟由、連貞遂趁此狀況進行突擊並偽退誘敵,一度將其先鋒擊退後,龍造寺軍交替後陣不知是計猛烈追擊、道雪也加入後陣安東連忠等兵力,兩軍進入激戰被形容有如萬雷震盪,此時道雪立起馬印吹起法螺貝大為鼓舞軍勢,下令分二隊以由布惟信、十時惟由、十時連貞、內田鎮家、竹迫連種從側面突擊,此時十時連秀、綿貫吉兼、後藤種任(後藤新五兵衛)、野上清四郎等揮槍討取龍造寺方不少有功的武士,同時以「鳥雲之陣」潛伏已久的朽網鑑康也突然襲擊,龍造寺軍潰散直至中軍,龍造寺家晴、筑紫廣門無法控制敗勢,道雪追擊約2町距離後引退,而龍造寺軍又重整軍勢反擊之時,紹運和良寬之伏軍又從森林兩旁出現以弓、鐵砲猛烈攻擊,打擊龍造寺軍反擊之軍心,使其受三方圍攻大敗。此為祇園原之戰。 以上小森野、十三部野、祇園原三戰統稱築後久留米合戰(又稱為筒川合戰)是為道雪最後一次大戰役,也是其引用『孫子兵法』的「奇正戰術」最為代表性的一次戰役,其戰績被評價可媲美孫子、吳子。(此戰記載於『大友興廢記』、『九州諸將軍記』、『築後國史』、『高良山物語』等九州方面史料。) 死亡 就在大友軍與龍造寺軍鷸蚌相爭之時,島津家逐漸漁翁得利侵占兩家領地,此時龍造寺家以及一眾築前國人國人眾逐漸附屬於島津家,大友軍持續攻防至6月初,道雪開始發病,紹運因此將軍陣移至高良山下的北野村,9月道雪病狀惡化,在對家臣說:「把我的遺骸穿上甲冑並面向柳川城埋於高良山上,如果有人違背此事,那麼將世代遭受詛咒!」後於9月11日病逝世,年七十三歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%81%93%E9%9B%AA
臼杵鑑速 Usuki Akihaya(1520年-1575年) 臼杵長景的次子,初名鑑景,取自大友義鑑「鑑」字和父親長景「景」字,後改名為鑑速,法名富春院殿威翁宗勢居士。 父親長景在當初的朽網親滿之亂中表現活躍因而被拔擢為加判眾,更在享祿元年(1528年)加封為速見郡山香鄉的代官,在長景死後,其加判眾的地位由長子鑑續繼承,而鑑速則是在外交與貿易方面為大友家盡力。 天文八年(1539年),大友家嫡子鹽法師丸(大友宗麟)元服,受將軍足利義晴賜偏諱「義」字,名為義鎮,為此當主大友義鑑特別修書回禮由臼杵鑑速帶著太刀、馬、黃金等重禮上洛獻給義晴。之後在天文十六年(1547年)時促成和四國大名一色義晴的婚盟,讓義鎮迎娶了義晴之女。 同時身任志摩郡代對周邊的在地領主進行安撫將其收為與力,替大友家在築前西部勢力的安定盡力。天文十九年(1550年),大友義鎮察覺到父親義鑑想廢掉他另立三弟鹽市丸的想法,遂先透過軍師角偎石宗勸服了包含臼杵鑑續、鑑速、吉岡長增、吉弘鑑理等重臣,然後迅雷不及掩耳地發動了那令九州震驚的二階崩之變,大友義鎮協重臣津久見美作守與田口藏人,襲擊大友義鑑的居所親手弒父殺弟,將大友義鑑、義鑑的女兒、鹽市丸和他的生母全數殺害,奪取君位,成為大友家第二十一代當主。並且向反對他繼位的叔父菊池義武發動攻擊,親率大軍壓境,陣中臼杵鑑速擔當第五軍的副將協助吉岡長增率領海部、宇佐郡眾出陣和上妻鎮房及蒲池鑑盛合力掃蕩了上下築後的親菊池派。 在義鎮奪位之後,臼杵鑑速在大友義鑑的遺命指定下擔任管理大友家重要書籍和日記箱的奉行,同時鑑速因為早先已經和義鎮取得默契,亂後其地位不變,臼杵鑑速也在天文二十一年(1552年)陶晴賢殺害大內義隆後仲介義鎮之弟八郎晴英繼為第三十二代大內家督,是為大內義長。弘治三年(1557年),臼杵鑑速在宗麟政權之中升任加判眾的要職,與吉岡長增、吉弘鑑理並稱「豐後三老」並將名字由鑑景改為鑑速。 嚴島會戰後,大內家在中國的勢力遭到毛利元就侵吞而全數瓦解,義鎮之弟大內義長更在且山城籠城時切腹自殺,意圖奪下大內舊領的大友義鎮和希望指染博多的毛利元就之間的衝突以勢不可擋,兩家正式開戰。在永祿至元龜的這段期間,臼杵鑑速和戶次鑑連、吉弘鑑理等分別擔任各地軍總司令官的勤務,於豐、築、肥等國出陣和毛利家及依附其下與大友為敵的秋月、原田、筑紫、高橋、立花諸氏展開一連串的戰鬥,因功被封為玖珠郡方分〈方分為大友家的特別職銜,相當軍團長之意〉,同時仍兼任外交職務,於永祿二年(1559年)替宗麟修禮上奏向將軍足利義輝獻上三千貫以補任豐前、築前、築後的守護職。 永祿八年(1565年),毛利元就成功策反了大友一族築前立花城主立花鑑載後,寶滿城主高橋鑑種和本來還降服於大友家之下的的筑紫氏、秋月氏紛紛樹起反旗,倒向毛利家。臼杵鑑速與戶次道雪、吉弘鑑理、志賀親度諸將在大友宗麟的授意下率領兩萬大軍出兵征討,於翌年先是攻陷高橋鑑種的巖屋城,逼降五箇山城的筑紫惟門,同時臼杵鑑速還前往博多勸說神屋宗浙勿要放棄博多,讓他重新歸津經商。臼杵鑑速與戶次道雪、吉弘鑑理再度率兩萬大軍出陣,在甘水、長谷山與秋月軍七度激戰,之後猛攻入秋月氏的邑城,迫使秋月種實轉進古處山城。 當時大友軍布陣於莊山,遭到秋月種實的四千奇兵夜襲陷入苦戰,最後是戶次道雪親自殿後抵擋秋月軍的追擊,吉弘、臼杵兩隊方安然撤往築後。永祿十一年(1568年),臼杵鑑速、戶次道雪、吉弘鑑理等再度出兵攻打立花鑑載的立花城,鑑載兵敗自刃,立花山城才重新回到大友家手中。 元龜二年(1571年),臼杵鑑速被大友宗麟封為肥前方分的職務,之後在天正元年(1573年),大友宗麟所派遣的南蠻貿易船歸國之際行經島津家所屬的港口時遭當扣留,最後也是由長期負責大友家外交貿易事務的臼杵鑑速前往進行交涉,贈送了伊集院忠棟鎧甲一領,發揮其圓滑手段將事情解決。 臼杵鑑速辭世於天正三年(1575年)五月八日,年五十五歲。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&parent=151&sn=367&lorder=17&ptitle=%E4%BA%BA%E7%89%A9
菊池義武 Kikuchi Yoshitake(1505年-1554年) 肥後国の名族菊池氏の最後(第26代)の当主。大友氏の出身で、大友重治とも言う。菊池氏一門の木野親則を曽祖父に持っており、菊池氏の血を引く人物でもある。 豊後国の戦国大名大友義長の次男として生まれた。その頃、隣国である肥後の菊池氏では家督を巡って内紛を続けていた。大友義長は最初は当主である菊池政隆を支持する姿勢を見せていたが、裏で菊池氏の家督を狙う阿蘇氏出身の武経を支援、やがて公然と筑後国・肥後国に侵攻して政隆を滅ぼしてしまった。ところが、更にその裏では武経を追い落として菊法師丸(後の義武)を菊池氏の当主にして同氏を乗っ取る工作を進めており、永正7年(1510年)には相良氏に武経排除への協力を求めている。 永正8年(1511年)に菊池武経は家中の権力闘争に嫌気が差し、矢部に逃亡。永正10年(1513年)、武経は阿蘇氏の家督を弟の惟豊から奪還した。一方、大友義長は菊法師丸を菊池氏の後継者にするように菊池氏の重臣や傘下の国人に公然と働きかけ、菊法師丸に代わって所領の安堵を約束し始めた。だが、義長は永正15年(1518年)に病死してしまう。 大友氏当主は義長の嫡男で菊法師丸の兄である大友義鑑が継いだが、義鑑も肥後に勢力を拡大するために肥後に多大な影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、武経の跡を詫摩氏出身の武包に継がせ、弟・重治の成長後に菊池氏の家督を継がせる密約を結んだ。 永正17年(1520年)に武包から家督を譲られて当主となった。重治は享禄4年3月9日に従四位下左兵衛佐に任じられ(『歴名土代』)、天文3年(1534年)までに義国を経て義武と名を改めた。この間、義武は兄・義鑑の方針に従って城氏・赤星氏・隈部氏と言った菊池氏庶流の重臣を老中(家老)から外して大友氏から連れてきた重臣と鹿子木氏や田島氏などの非菊池氏系の国人から老中を選んでいる。 だが、義武は天文3年(1534年)に大内義隆や相良氏と同盟を結んで兄に反抗し独立する。兄と不仲だったのが原因なのか、それとも自身の野心のためか、滅び行く菊池氏再興を願った為か、明確な理由は不明であるが、義武は大友氏当主に未練があり、筑後国領有という領土的野心もあったことが原因だと思われる。一方、義鑑からすれば、肥後を自分のものとするための道具である筈なのにそれが自らの意思で動き出すことは容認できない事態であった。 義鑑はかつて大友氏から義武の老中に派遣されていたことのある山下長就をはじめ、吉岡長増や田北親員らを派遣して筑後から肥後に向けて進軍させた。だが、室町幕府の仲裁によって大友義鑑と大内義隆が和平を結ぶことになると、支援を失った義武の敗北は決定的になった。義武は、肥前国の高来に亡命し、結局姻戚の相良氏を頼って落ち延びた。天文9年(1540年)に相良氏や宇土氏ら肥後南部衆の支援を得て木辺で大友方の国人衆と戦い勝利するも、隈本攻めで敗北した。一方、大友義鑑は肥後の直接統治を決意し、天文12年(1543年)には幕府に働きかけて肥後守護職を獲得した。 天文19年(1550年)に義鑑が二階崩れの変で横死すると、鹿子木氏や田島氏の支援を得て再び隈本城を奪還した。さらに、二階崩れの変をきっかけに豊後国内は内乱に陥ると予測して相良氏・名和氏・三池氏・溝口氏ら肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後全土の制圧を目指した。しかし甥の大友義鎮(後の宗麟)は直ちに国内の混乱を鎮圧すると、義武を一族から義絶する旨を表明して大軍を派遣、隈本城は落城して島原に落ち延びた。義鎮は義武討伐に協力した阿蘇氏との関係を強化し、これまで排除の対象であった城氏・赤星氏・隈部氏を取り立てることで肥後支配の安定を確立させることになる。 相良氏当主の相良晴広は、薩摩国の島津忠良に、義武と義鎮の和睦周旋を依頼するなど努めたものの講和は成らなかった。また、義武は天文23年(1554年)に剃髪して日向国か薩摩に亡命しようとするも果たせなかった。同年11月、義鎮の和平を口実にした帰国の誘いに乗り豊後へ向かうが、その途上直入郡木原で義鎮の家臣立花道雪とその配下由布惟信、安東家忠、安東連忠、小野信幸の軍勢に包囲され、自害を余儀無くされた。享年50。義武の死により、肥後の名門菊池氏は名実共に滅亡した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%8A%E6%B1%A0%E7%BE%A9%E6%AD%A6
蒲池鑑盛 Kamachi Akimori(1520年-1578年) 筑後国南部に1万2千町(約12万石)を領した大身(『大友幕下筑後領主附』)。筑後十五城筆頭大名として筑後を統轄。それまでの蒲池城に代えて、柳川城を本格的に造作し、現在の柳川の観光名所でもある水郷の掘割を縦横に張り巡らせ、柳川城を「柳川三年肥後三月肥前筑前朝飯前」と戯れ歌にも歌われるほどの九州屈指の難攻不落の堅城にし、蒲池氏の本城とする。また風浪宮の本殿の造営その他も行なっており、現在の柳川市のルーツとなる城下町としても形成されつつあった。 筑後守護大友氏の幕下にあった城持ち大名分の在地領主で、兵法に長けた武将として、筑前国、肥前国など各地に転戦する。 『西国盛衰記』によれば、父の鑑久は将軍の供をするという役目を怠って討伐されたとされ、鑑久の死(天文12年(1543年))に伴って下蒲池蒲池氏の家督を継いだものと思われる。父を大友氏によって喪った鑑盛だが、主君を恨むことなく引き続き大友義鑑・義鎮(宗麟)の二代に亘って臣従した。 また、戦の場以外では、大友氏の敵方であるはずの龍造寺家兼やその曾孫である龍造寺隆信が家臣団の反乱に遭って追われたときは、これを匿って手厚く保護し、その復帰にも協力した。『肥陽軍記』には「ここに筑後国蒲池鑑盛と云う人は下筑後にて威をふるい武勇のほまれ有り和歌管弦にも長じた情ふかい人なり」と記されているが、鑑盛は「義心は鉄のごとし」と言われるほど義に厚い人柄であったとされている。龍造寺家兼を保護したのち、隆信が肥前を追われた際には隆信をかつて家兼も住んだ蒲池領内の三潴郡一木村(大川市)に住まわせ、三百石を扶持し、家臣の原野恵俊に面倒を見させた。また隆信が佐賀へ戻る時は、蒲池氏の精兵三百で隆信を護衛させ、結果、隆信は本拠地佐賀城の奪還に成功することになる。この鑑盛による二代に渡る保護がなければ、龍造寺氏は滅びていた可能性があり、その後の龍造寺隆信の興隆もあり得なかったことになる。 鑑盛は、大内氏に代って中国地方を制圧し、九州への侵攻を開始した毛利元就と大友宗麟との間の門司城をめぐる戦い(門司城の戦い)や、また元就に加担して大友氏に反旗を翻した高橋鑑種の討伐戦などに出陣している。かつて保護した龍造寺隆信の興隆の発端となった今山の戦いに於いても蒲池鑑盛は田尻親種と共に、宗麟からの命を受けて数十隻の兵船で筑後川を渡り、龍造寺氏の村中城を包囲し攻略戦を行った。これらの合戦への参加により、宗麟からの感状を幾度も受けている。 1578年、北上する島津氏と大友氏との間の日向国の耳川の戦いには、大友軍の一翼として参加した。初老の身で病身だったが、嫡子の蒲池鎮漣や三男の蒲池統安と共に3千の兵を従えて出陣(『北肥戦史』)した。しかし、既に家督を継いでいた鎮漣は大友氏から離心しており、病気を口実に2千の兵と共に柳川へ帰城してしまう。鑑盛は大友氏の軍に留まり、開戦後は大友軍総崩れの状況下、直属の兵約1千を率いて島津氏の本営への突入を試みるなど奮戦したが大勢は揺るがず、統安と共に戦死した(『大友記』)。その最期について『筑後国史』は「湊川の戦いにおける楠木正成の壮烈な最期にも比せられる」と記している。 菩提寺の崇久寺の霊碑には、「松梅院殿長國覚久居士神儀」と記されている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E6%B1%A0%E9%91%91%E7%9B%9B
陶晴賢 Sue Harukata(1521年-1555年) 陶興房的次子,母為右田弘詮之女,正室為內藤隆時(內藤興盛長子)之女,受大內義隆偏諱「隆」字,名為隆房,後改受大友晴英偏諱「晴」字,名為晴賢。 陶氏出自多多良系的大內支裔,大內盛房之弟盛長出居周防國佐波郡右田村始稱右田氏,而後右田弘俊之子弘賢出居吉敷郡陶村,稱陶六郎弘賢,此為周防陶氏之始。陶弘賢之子弘政從陶村遷移到都濃郡富田,築若山城作為居城。從南北朝時代以來,陶氏一直是大內家的重要家臣,弘政之子弘長出任長門守護代,弘長之孫盛政出任周防守護代,從那時起,周防守護代一職與大內家重臣筆頭的位置就為陶氏所世襲。 晴賢年少時為大內義隆所重用,天文八年(1539年)父親興房病逝後繼承家督(亦有生前讓位的說法)。 天文十年(1541年),協助毛利元就擊退進攻吉田郡山城的尼子軍(吉田郡山城之戰),當時義隆授權為晴賢為大內軍的總大將。天文十一年(1542年),晴賢率領大軍反攻尼子氏的根據地月山富田城,最終慘敗而回,大內氏失去多名大將。 晴賢與文治派相良武任對立,而義隆重用相良武任,導致晴賢勢力漸失。天文十四年(1545年),相良武任出家,晴賢重新得勢,天文十七年(1548年)就任官位從五位上。天文十九年(1550年),晴賢與內藤興盛試圖暗殺相良武任,卻被義隆發現,晴賢在大內家的實力大為削弱。 大內義隆原本一直苦於無子,於是過繼其姐與一條房家之子為嗣,是為大內晴持。可惜,天文十一年(1542年)在征討出雲的尼子經久時,大內晴持戰死。因此,到天文十三年(1544年),義隆不得不從大友家過繼另一姐與豐後國大名大友義鑑次子大友晴英為嗣,是為大內義長。然而世事難料,次年,義隆的嫡子義尊出生,義隆隨即便與晴英解除過繼關係。此後,受到兵敗的沉重打擊大內義隆失去對擴張領地的野心,沉迷於特有的大內文化(包括天主教和眾道),重用文治派的相良武任;文治派與武斷派的晴賢、內藤興盛長期對立。 晴賢作為臣子對主公義隆的態度也是很微妙的,作為義隆的侍童與之一起長大,晴賢從小就對義隆有著深厚的君臣感情,對於義隆,一直也表現出足夠的忠心,最明顯的表現就是在出雲撤退時晴賢挺身冒死殿後。然而,義隆長達八年的玩物喪志,足以令任何人對義隆和大內的前途灰心,在紛亂的戰國時代,這樣的過失是致命的。作為大內的庶家,陶氏與大內一直以來是一損俱損一榮俱榮的關係。主家的沒落乃是庶家衰敗的兆頭,加上在與相良的爭鬥中處於不利地位,使陶氏已處於漸將衰亡的危急時刻。經過八年的壓抑之後,向來行事激進的晴賢不顧一切的奮力一搏也就不難理解。 天文二十年(1551年),相良武任向大內義隆匯報晴賢和內藤興盛企圖謀反,對立的責任者是杉重矩。8月,晴賢聯合同樣對於大內義隆寵幸相良武任不滿的長門守護代內藤興盛與豐前守護代杉重矩,發動叛亂。晴賢親率3000軍隊從陶氏主城、周防的富田若山城出陣,大內義隆親自率領10000餘人應戰。結果陣前2000人被晴賢策反,最終義隆一敗塗地。義隆逃至長門的天寧寺,在走投​​無路中自盡,義隆長男義尊被殺。晴賢重新迎回大友晴英繼承大內氏族,更名大內義長,自己也將名字陶隆房改為晴賢。 晴賢掌握大內家實權,仍與毛利元就表示友好,不過毛利元就卻採取消極的態度,以為大內義隆報仇為名,拒絕晴賢的支配,終於使兩者的同盟關係瓦解。 天文二十四年(1555年),毛利元就派兵在嚴島西北部的有之浦築宮尾城。晴賢則親率大軍兩萬五千出擊,在折敷畑合戰小勝毛利軍以後,直撲嚴島,踏入毛利元就設下的陷阱。 當時,毛利元就的兵力只有4000。但是,依靠兒玉就方率領的其直屬水軍、乃美宗勝率領的過繼給小早川氏的三子小早川隆景的沼田水軍,以及臨時前來助陣的因島的村上水軍,毛利元就的水軍並不處於下風。9月30日夜晚,風雨大作,毛利元就率領2000士兵潛渡大海,來到晴賢的前軍本陣所駐紮的塔之岡之後,次日清晨六時,毛利元就下令突擊。2000士兵直衝晴賢本陣,巧妙混過敵軍防線登陸的小早川隆景軍從正面向塔之岡發起衝鋒,宮尾城守軍也殺出城中,晴賢的2萬餘大軍全線崩潰。 晴賢與大將三浦房清逃至大元浦。只見波濤洶湧,全無舟船,走投無路中自殺,年34歲,法名卓鍼軒呂翁全羨。 出處#1http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E6%99%B4%E8%B3%A2 出處#2 http://baike.baidu.com/view/707627.htm?fromtitle=%E9%99%B6%E9%9A%86%E6%88%BF&fromid=128312&type=syn
陶興房 Sue Okifusa(1475年-1539年) 文明14年(1482年)、父が暗殺される(大内山口事件)。長兄陶武護が家督を継ぐも、次兄陶興明と対立して出奔してしまう。武護は後に帰参して興明を殺害するも、内藤弘矩を讒言したため大内義興の手で誅殺され、残った興房が家督を継いだ。叔父の右田弘詮が後見した。 家督継承後、義興に従って各地を転戦する。畿内で行われた船岡山の戦いに従軍し、また出雲の尼子経久との戦いで軍功を重ねた。 大永4年(1524年)、大内義興・義隆父子に従って安芸に出陣し、義隆の別働隊に従って安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかしこの時は武田氏の救援に来た毛利元就の攻撃を受けて敗北している。 享禄元年(1528年)12月の義興の死後は、その嫡子・大内義隆に仕えた。大内家では当主の交代の際に常に一族や家臣団による権力闘争が発生していたが、義隆の時には興房の補佐並びに徳望により、この手の争いが起こらず平和裏に当主交代が行なわれている。 義隆時代の初期は北九州方面への勢力拡大が行なわれ、北九州を任されていた杉興運が享禄3年(1530年)8月の田手畷の戦いで少弐氏に大敗したため、天文元年(1532年)11月に大軍を率いて長門から九州に渡海し、大友義鑑・少弐資元らと対峙した。この興房率いる大内軍には杉興運や仁保隆重、秋月氏、菊池氏、九州千葉氏、原田氏など北九州の主だった将が従った。しかし少弐資元の家臣・筑紫惟門が勝尾城で強く抵抗し、大友義鑑が筑前に侵攻して星野親忠を降伏させるなど苦戦が続いた。このため天文2年(1533年)2月には義隆より興房の従兄弟である陶隆康が援軍として派遣され、援軍を得た興房は大攻勢に転じて肥前三根郡千栗村で少弐資元を破り追撃し、さらに大友方の筑前柑子岳城(現在の福岡市西区)を落とし、大友方の本拠である豊後に侵攻した。この興房の大攻勢の結果、大内軍の優勢が確立し、天文2年(1533年)12月には筑紫惟門が降伏した。また天文3年(1534年)4月6日、豊後勢場ヶ原の戦いで大友方の吉弘氏直、寒田親将らを討って大勝し、大友家の豊後に圧力を加えた。しかし勝利に乗じて7月に肥前三津山(現在の佐賀県神埼郡)に在陣して龍造寺家兼の佐賀城を攻めようとしたが、龍造寺軍の逆襲にあって敗北している。とはいえ興房の優位は揺るがず、10月には少弐資元を追い詰めた上で懐柔を図った。興房は龍造寺家兼に使者を送って資元の隠居と少弐冬尚への東肥前半国安堵を条件とした仲介を依頼する。大友義鑑とも和睦を図り、天文4年(1535年)に大内家優位のまま和睦が成立し、興房は山口に帰還した。 天文5年(1536年)には義隆の命令で再度肥前に侵攻して多久城を包囲し、9月に少弐資元を自刃させ、少弐氏を一時滅亡へ追いやった。 天文8年(1539年)4月18日に死去。享年65。次男の陶隆房(陶晴賢)が家督を継いだ。生前に譲っていたとする説もある。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B6%E8%88%88%E6%88%BF
高橋紹運 Takahashi Joun(1548年-1586年) 吉弘鑑理的次子、母為大友義鑑之女、正室為齋藤鎮實之妹・宋雲院;幼名千壽丸,受大友義鎮偏諱「鎮」字,初名鎮理;繼承高橋氏,受高橋鑑種偏諱「種」字,名為高橋鎮種,入道法號「紹運」,以「高橋紹運」之名為人所知。 永祿四年(1561年),紹運十三歲迎來了初陣,作為吉弘隊的一員隨大友軍與毛利軍展開豐前門司城的爭奪戰。由於毛利水軍於此戰先奪得了制海權,大友軍遭到挫敗,為抵擋毛利軍的追擊,紹運遂負責吉弘隊的殿後工作,並且目睹了前輩戶次鑑連(立花道雪)的奮戰,於這場撤退戰之中得到了寶貴的作戰經驗。 自從毛利家介入北九州的爭奪戰後,勢力不穩的築前國人如秋月種實、原田親種、以及不滿大友宗麟的高橋鑑種、立花鑑載 相繼接受毛利家的寢返而叛亂。 紹運在參與永祿八年(1565年)的立花鑑載討伐後,永祿九年(1566年)巖屋、寶滿二城主的高橋鑑種因早先不滿宗麟色淫兄嫂也一併反亂,宗麟對此派出立花道雪和吉弘鑑理、臼杵鑑速三將前往鎮壓,紹運也隨軍參加。 永祿十年(1567年),紹運隨父鑑理及立花道雪、臼杵鑑速的進攻下,大友軍勢於7月7日先後在短兵相接,矢雨如注的激戰下攻陷高橋鑑種的巖屋城和寶滿城,降服了高橋鑑種,11日大友軍齋藤鎮實也於苦戰後於27日接受了筑紫廣門的降服,8月14日大友二萬軍勢於秋月城下的甘木、長谷山一帶和秋月種實對戰,鎮理此時於秋月城旁的小石原川的奮戰也不遜於道雪。 15日,種實見邑城休山茄子城遭到攻陷退守至古處山城,大友軍則駐軍於休松一地休息,9月3日,秋月種實夜襲紹運和父親吉弘鑑理的陣營,大友軍一時混亂形成同士討的慘況,立花道雪此時率自軍為殿後援助吉弘、臼杵等軍撤退,紹運也奮力抵擋追兵,終使秋月軍轉為撤退。 永祿十一年(1568年)2月,立花山城主立花鑑載受到毛利元就策反再次反叛大友家,其家臣薦野宗鎮(薦野三河守,薦野增時之父。)、米多比直知(米多比大學,米多比鎮久之父。)此時為了貫徹對大友家的忠義不支持鑑載的行動,遭其殺害,鑑載則於4月6日迎來毛利家的清水宗知(左近將監,清水宗治之兄)8千餘人和軍船百餘艘,更聯合原田隆種(原田了榮)、原田親種父子與高橋鑑種家臣衛藤尾張守約1萬人於立花山城,4月24日大友軍以立花道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速、志賀親守3萬餘人包圍了立花山城及其白岳、松尾等7處城、砦,三個月後於7月4日大友軍強攻立花山城,其中紹運一隊在追擊立花軍後人數所剩不多並且多數已經餓壞,紹運此時分發飯團並激勵了士氣。 7月23日,立花勢因為道雪的調略而令立花家臣野田右衛門大夫背叛為內應,立花鑑載因而兵敗離城脫逃後自殺,而原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知則往中國毛利家方面退卻,立花山城則交由臼杵鎮氏(臼杵進士兵衛)、田北民部丞、津留原掃部助暫時代守。7月29日,紹運隨父鑑理等大友軍將致力於築前反大友勢力的掃討,不料原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知於8月2日突然又奪下了立花山城,此時紹運和兄長吉弘鎮信代父指揮吉弘軍,和臼杵鎮氏合作率軍分斷了衛藤的軍勢,將戰線從立花山城往南移動向香椎、名島,越過多多良濱並從莒崎往博多追擊;最後大友軍以立花道雪為主力於14日奪回了立花山城並給於敵軍莫大反擊。19日,秋月種實終於因為失去了毛利家的援助而降服大友軍。 永祿十二年(1569年)1月,大友宗麟親率大軍征討「肥前之熊」龍造寺隆信,隆信拒絕了立花道雪和吉弘鑑理的和平交涉,大友軍於3月開始攻擊,大友諸將領三萬進攻江上武種的勢福寺城並使其降服,後紹運和兄長鎮信隨父吉弘鑑理於多伏口一地擊敗龍造寺軍主力,欲進擊之時鑑理卻突然發病而錯失良機。一方,在龍造寺隆信的聯絡下毛利元就見隙率吉川元春、小早川隆景、乃美宗勝4萬餘人由吉田郡山城出發經由海路於4月15日,包圍立花山城並斷絕水脈,17日,在道雪建議下派出城親冬提出與龍造寺的議和。5月3日,立花山城被奪,宗麟聞訊急報大友軍各將回軍包圍立花山城,大友軍3萬於5月5日,集結於博多,5月13日,毛利軍度過多多良濱川於松原附近放火與大友軍交戰四回,5月18日,元春和隆景率毛利軍4萬餘多多良濱,大友軍以道雪、鑑理、鑑速率兵1萬5千分三隊為先陣,之後配置了約2萬的大友軍力與之對峙,這時紹運和兄長鎮信一同作為吉弘隊先鋒與毛利軍激戰,之後兩軍陷入膠著狀態。十月,毛利元就得到山口高嶺城和月山富田城分別被大內輝弘和山中鹿之介攻擊的消息,立即下令吉川元春和小早川隆景撤退。紹運與兄長鎮信此時又一同領軍進行追擊,擊敗了毛利軍。 10月13日,大友三老(道雪、鑑理、鑑速)於「蘆屋會談」中決定攻擊築前混亂的元凶高橋鑑種,攻落其居城寶滿城後令其切腹自盡,但是在宗麟心軟之下只將其流放至小倉城,自此高橋本家斷絕。 大友家在討平了立花鑑載和高橋鑑種後,因為其居城立花山城和巖屋、寶滿城皆為築前軍事要地,要是不快點派有能之人鎮守將會重現如多多良濱之戰一樣的窘境戰事,大友宗麟於是考慮由自己信賴的家臣擔任城督之職。由於前巖屋城主高橋鑑種的本家一萬田家(高橋鑑種乃大友家臣一萬田親泰之子,天文十五年(1546年)入繼高橋家)與吉弘家有著姻緣關係,宗麟因此考慮到令紹運之父吉弘鑑理繼承,但是當時鑑理病重不能理事,長子鎮信已經繼承了吉弘家業管理筧城,因此當時在家中人望甚高的紹運就變成了不二人選,於永祿十二年(1569年)繼承了高橋氏,領巖屋、寶滿二城,並將名字繼承高橋家通字「種」改名為高橋鎮種。而立花氏則由大友家第一名將立花道雪於元龜二年(1571年)坐鎮於立花山城而繼承,便是世人所熟知的「立花道雪」。 天正六年(1578年),大友家於耳川大敗於島津家,紹運之兄吉弘鎮信以及紹運之妻宋雲院的兄長齋藤鎮實皆壯烈戰死於此役,紹運因此剃髮入道號紹運(紹雲)。 耳川之敗使的大友家逐漸式微,不僅使的肥前龍造寺隆信大舉入侵築前築後,築前國人如秋月、原田、宗像、草野等也再次大規模反叛,12月,以秋月種實為首的築前國人率先攻擊巖屋、寶滿城,但是因為紹運的奮力防戰而沒被攻下,但呼應種實的築後國人眾問註所鑑景約4~5千人卻攻下了柴田城,因此紹運聯絡立花道雪一同抵抗於柴田川佈陣的秋月聯軍,從矢戰到鐵砲戰並於川中作戰,不久因為立花高橋軍的兵力過少便打算撤退至山野之中設伏引誘秋月軍追擊,此時種實不疑有他追擊至夜晚,在紹運的引誘下配合立花家的由布惟信、小野鎮幸等將繞過山陰從秋月軍背後奇襲,種實因而大敗,狼狽的退往柴田城,一方面紹運在秋月撤退的路上事先擺好了數十面軍旗和馬印假為豐後大友援軍到來,秋月種實中計而繞路逃回領地,又繼續遭到紹運和道雪的追擊,高橋軍此時討取了3百人,秋月家此戰損失許多家臣。 天正七年(1579年)正月,筑紫廣門聯合秋月種實進攻巖屋城,被紹運的重臣屋山種速擊敗,3月豐前蓑島城主杉重良反叛大友家,紹運攻落其居城將其討伐,4月初秋月種實聯合筑紫廣門和豐前國人城井、長野、千手、齋藤、上原及築前國人宗像、麻生、原田、杉等氏反叛攻向巖屋城,在築前石栗領一地被高橋紹運擊破,同時大友宗麟為此派出豐後的家老志賀親守(志賀道輝、道魁)率築前國人小田部鎮元(小田部鎮通、紹叱)、大鶴宗雲(大津留式部、鎮正,實為鎮元之父)二千餘攻進秋月家石阪一地,卻遭到宗像氏貞、麻生元重、杉連並、許斐氏備、原田鑑尚呼應秋月軍的的埋伏包圍,紹運因此和道雪出戰夾擊敵軍救援了志賀等將,後讓志賀親守暫時駐軍於巖屋城,18日,原田隆種(了榮)、筑紫廣門進攻小田部的安樂平城之時,紹運又出兵相救,然而秋月種實又趁機出兵巖屋城聯合宗像、杉兩軍包圍志賀親守並於針磨山佈陣,紹運也出兵往二日市與之對陣,並散播大友方於筑紫方面的援軍朝夜須郡前來的虛報,秋月種實中計因而退回居城。 7月27日,紹運與道雪又和秋月種實、筑紫廣門戰於大宰府,9月18日,道雪聯合紹運攻入宗像家領地的鞍手郡,宗像氏貞敗走,原田鑑尚投降被志賀親守誅殺。同月秋月種實又進攻寶滿城,紹運和道雪於吉水一地將其擊退,10月24日,龍造寺隆信趁著先於9月11日,攻落大友方小田部鎮元的安樂平城之氣勢再度出陣築前,派出家臣大田兵衛三千餘人聯合筑紫廣門攻擊大友方大鶴宗雲的鷺岳城,紹運為此出兵於山田山和隆信對陣為大鶴宗雲的後援,遂使大田、筑紫兩將撤退,但11月15日,筑紫廣門又派兵游擊偵查,紹運因此鎮守於巖戶一帶監視,同時秋月種實又偷襲巖屋城,紹運因此回軍巖屋並於半路打擊筑紫勢的追擊,重整巖屋城的兵力後於高尾山對戰四千秋月軍,秋月軍因紹運的火攻而有部分撤退,同時道雪出陣牽制筑紫軍並和紹運夾擊令其敗退,終令大鶴宗雲脫險。 天正八年(1580年),紹運持續對戰秋月家於豬膝合戰,始終沒讓秋月、宗像等敵對勢力佔到便宜,維持了大友家的領地。同年8月下旬秋月種實內通了紹運的筆頭重臣北原鎮久。由於鎮久早因為大友家逐漸勢微,覺得高橋家於築前被敵對勢力圍繞難以生存,而想投靠秋月家,並向紹運如此建議,但紹運仍然不為所動,於是鎮久計畫追放紹運,聯合秋月家另尋高橋家當主,然而知曉這項計畫的高橋家臣伊藤一蓑不顧洩漏密謀將被誅殺的危機,毅然通知了紹運,於是紹運在鎮久登城之時,安排萩尾治種(萩尾大學)、內田下野埋伏殺了鎮久,而鎮久之子北原種興(北原進士兵衛、攝津守)原本打算聯合一族為父報仇,但紹運以書信告知種興:「你的父親內通秋月家將給高橋家帶來禍害,於是不由得將他殺害,但是你的忠誠心我非常清楚,由於你和這件事毫無關係沒有參予謀反,因此勿對我起疑心,殺你父親實在是百般無奈,然而對此反叛之人不誅不行,現在令你為北原家當主,希望能洗刷你父的污名盡忠。」並將鎮久的領地全交由種興繼承,而種興了解了事情之原委是秋月種實作祟之故,並發誓對高橋家盡忠而將喪父之恨轉向秋月。 同時紹運利用此事逆向操作,以種興寫書信通知秋月家臣內田彥五郎:「我父親與秋月的密約因為被發現而被誅殺,因此我極度怨恨紹運,已有與其一戰致死的覺悟,痛失父親的我即使是當主,也恨不得將其殺之復仇,請在近日派兵至巖屋,開戰之時我將率兵於巖屋放火,待討取紹運後將歸參秋月家。」反過來騙取秋月家進攻,秋月種實不疑有他,派內田彥五郎率5百餘兵前往巖屋城,種興遂在居城‧龍城的蘆木山以酒餚招待秋月軍,至夜晚趁秋月軍兵酒醉睡眠之時,紹運從巖屋城率6百兵與種興進行包圍夜襲秋月軍,自內田彥五郎戰死以下損失3百餘人,其悽慘的戰況被稱為「蘆木的慘劇」。 同年9月,秋月種實為了報內田彥五郎被殺之仇,以問註所鑑景(秋月治部少輔)、上野四郎兵衛、惠利暢堯、綾部駿河守率1萬2千軍勢殺向巖屋城,並於奈須美一帶的森林佈陣。紹運便聯合立花道雪軍勢,以小野鎮幸、由布惟信為先鋒,遂在奈須美展開激戰,兩軍互以鐵砲、弓矢、槍隊攻擊難分勝負,這時立花高橋軍以綿貫吉兼(四月一日佐三兵衛)、竹迫連種(竹迫進士兵衛)為遊軍側面突擊秋月終使秋月軍開始崩壞後退,紹運、道雪見狀追擊更令秋月軍更加崩潰,秋月種實見自軍後退而不斷喊叫自軍回陣,然而種實又看見戰場另一側出現大友軍的旗幟,反而意識到再不撤退將被斷了後路,於是敲鐘收兵退回古處山城。而戰場另一側的大友軍旗實為紹運早先安排好的噓旗計策,成功令秋月種實的復仇之戰徒勞無功,而此戰被稱為「血風奈須美之陣」。 天正九年(1581年),龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下大鶴宗雲的鷺岳城而於7月27日,進軍至大宰府並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前巖屋城,紹運與之對峙,並聯合立花家援軍竹迫統種、薦野增時於觀世音寺之戰將其擊退,統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰鬥,此時紹運以弓、鐵砲、長槍隊分三段佈置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右迴於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取了井田親氏,而此石阪之戰也是立花宗茂普遍被認為的初陣,率1百50人配合紹運和道雪的攻勢奇襲秋月軍後陣討取了敵將堀江備前,其優異的表現令立花道雪正式興起迎宗茂為婿養子的念頭。8月18日,令高橋統虎(立花宗茂)和道雪生女立花誾千代結婚,宗茂因而繼承立花氏,高橋氏則由紹運次子高橋統增為繼承人。 同年11月,大友宗麟接獲一直忠於大友家的問註所統景的急報,要求出兵討伐早先反叛至秋月家的一族問註所鑑景,11月4日,宗麟派出朽網鑑康(朽網宗曆、宗歷)3千人包圍了築後鑑景的井上城,秋月種實為此率6千人夾擊宗曆,這時立花道雪和高橋紹運以及長子宗茂受到大友宗麟的指示率5千前往救援,然而宗曆卻在豐後大友軍的援助下與秋月軍於8日的原鶴合戰後安全退卻,期間於6日,立花高橋軍通過秋月領地撤退,在穗波、嘉麻一帶割取糧草並放火延緩秋月軍追擊,後佈陣於八木山潤野原一帶迎擊秋月軍,最終秋月軍敗戰損失7百60人,立花高橋軍損失3百餘人,當地因此被稱為千人塚,是為潤野原之戰。(許多史料因同戰地而常與石阪之戰混淆,秋月方史料則記為八木山合戰) 天正十一年(1583年)9月底,肥前國人筑紫廣門入侵紹運轄內的三笠郡,紹運與筑紫勢拉據了五、六日後,逼退了筑紫勢。10月2日,秋月種實又趁隙攻下紹運領地的米山,紹運迅速出兵於當日隨即對戰秋月軍奪回了米山,並追擊討取2百餘人。 天正十二年(1584年)3月,龍造寺隆信於沖田啜之戰對上島津軍戰敗身死,大友家為此趁機出兵想奪回築後,以宗麟次子大友親家、三子大友親盛率豐後大友軍7千人進攻築後貓尾城的黑木實久(黑木家永),實久則聯合龍造寺軍共2千餘人在貓尾城與高牟禮城籠城抗戰,經過了一個月大友軍仍然無法攻落,大友家第二十二代當主大友義統為此要求道雪與高橋紹運出兵,兩軍於8月18日,以紹運2千人為先陣、道雪3千人為後陣出發,紹運在渡過築後川擊滅秋月家武將芥田兵庫50餘人後與道雪越過鷹取山,並以由布惟信為殿軍,在狹窄的山道途中又遭到伏兵以鐵砲狙擊,道雪也以弓、鐵砲反擊,此時紹運以擅長鐵砲狙擊的家臣市川平兵衛反狙擊令道雪脫離險境。 19日,兩軍到達高牟禮城,隨即寢返黑木家老樁原氏部,氏部並於24日開城,龍造寺援軍的土肥出雲因此離城逃去。此時貓尾城已被孤立,道雪和紹運開始對黑木家同族的川崎重高防守的犬尾城攻略,並在城島城巡邏,不久開始進攻貓尾城,在樁原氏部的帶領下9月1日,攻下了貓尾城,黑木實久則自殺身亡。此後又接連攻下蒲池鎮運的山下城以及築後各處的小城如谷川城、邊春城、兼松城、山崎城還有田尻鑑種的鷹尾城,大友軍終於展開對九州築後有名的堅城「柳川城」的攻略,大友軍在連翻攻擊下未能攻下此城,道雪遂於10月3日,移陣至高良山,4日改攻籠城於發心岳城的草野鎮永和問註所鑑景並燒毀竹井城,這段期間因為道雪和紹運兩軍時常一同出擊立功,使得當時有人這麼說著:『有紹運的地方一定會有道雪』因而被讚稱為「大友雙璧」 之後於年底兩軍又回陣高良山時,大友親家和親盛卻因嫉妒紹運和道雪的戰功以及長期戰陣在外以疲倦為由退回豐後,僅留下立花高橋軍於築後。 天正十三年(1585年)2月上旬,龍造寺家晴、鍋島直茂於柳川城率軍5千出戰佈陣於高良山南方的西牟田,北方則有秋月種實、長野鎮展、草野鎮永、城井鎮房、千手氏、星野氏、問註所氏等國人施加壓力,2月中旬龍造寺政家共集結3萬餘大軍近逼高良山。龍造寺軍於4月18日,以後藤家信(龍造寺隆信三子)率筑紫廣門、波多親、高木左馬助8千人於築後川壓迫。 此時豐後大友軍朽網鑑康率野上清四郎來援與道雪、紹運三大將共9千8百餘兵力分為兩軍對抗,以朽網鑑康一隊往西牟田壓制北方國人眾,道雪和紹運則於高良山西北方的築後川和寶滿川交接處的小森野一地佈陣,紹運以家臣伊藤總右衛門、福田民部少輔5百兵為先鋒但不敵筑紫廣門、後藤家信等龍造寺軍的優勢兵力,紹運因此後退引誘,激戰之時紹運以其剛勇的家臣萩尾治種(萩尾大學)、成富左衛門一千五百騎從龍造寺軍側面筆直突入造成其勢虛弱,後藤、筑紫無法阻止軍勢崩壞兵卒竄逃,道雪3千兵則迂迴至北野村從側面攻擊,追擊渡過築後川至肥前鳥棲、十三部野一地,討取1百87餘名戴甲武士。此戰為小森野之戰。 後大友軍以紹運率豐後日田、玖珠、國東、南部各郡2千兵以野上清四郎為先陣,在築後川上游之一的筒川,沿川邊擺「長蛇之陣」後陣擺「雁行之陣」,又以朽網鑑康佈陣於高良山腹以「鳥雲之陣」(形容如鳥群集散於雲層之間,為臨機應變的陣型)潛伏,而道雪率第二陣以小野鎮幸、由布惟信為首率京都鎮安、萩尾治種2千兵為「浮武者」(游擊兵,潛伏並見機突擊之奇兵)潛伏於野中村為後陣,且高良山座主丹波良寬也率法師武者大祝保真、宗崎孝直、稻員安守等7~8百兵力參陣於後備。 兩軍以足輕隊開戰,後紹運以200挺鐵砲橫一列猛烈射擊,龍造寺軍也從高良山左側出擊,於十三部野一地野上清四郎捨身碎骨奮勇突進立下一番槍,激戰之時紹運退後,挑釁引誘龍造寺軍追擊並三度反擊討取多人,同時第二陣小野鎮幸、由布惟信與後陣京都鎮安、萩尾治種又從側面突擊斷絕敵軍後路,紹運又將右翼的先陣兵力以長槍加入攻勢,此時先陣後陣的騎兵整齊一列軍勢並進突擊,道雪更突馳追擊至敵本陣前的祇園原,龍造寺的騎馬武者多數陷於田地遂敗,損失2百83名戴甲武士。此戰為十三部野之戰。 4月23日,龍造寺家晴、筑紫廣門又率1萬6千餘後備兵力進攻高良山,於高良川沿堤防分五段軍勢。道雪、紹運、察知龍造寺軍的行動,與良寬、蒲池氏合併8千兵力佈陣於祇園原,並將兵力二分,於各處配置伏兵。 道雪此次親自為先陣大將,並配置由布惟信、十時惟由、十時連貞為先鋒,安東連忠、內田鎮家、竹迫連種、綿貫吉兼為後陣,高良山法師武者良寬等則隔軍配置做為後備。 道雪擺出約120~200挺鐵砲,只要敵軍一接近就只發射20~30發威嚇,而龍造寺軍約7~800挺鐵砲卻因此連發,由於龍造寺軍於山間擊出多發鐵砲造成煙霧瀰漫視界不良並且受迴音干擾,道雪的鐵砲隊則因為控制得當沒有受到硝煙影響,而龍造寺軍卻在這不利的狀況憑其大軍猛烈突擊,先鋒的惟信、惟由、連貞遂趁此狀況進行突擊並偽退誘敵,一度將其先鋒擊退後,龍造寺軍交替後陣不知是計猛烈追擊、道雪也加入後陣安東連忠等兵力,兩軍進入激戰被形容有如萬雷震盪,此時道雪立起馬印吹起法螺貝大為鼓舞軍勢,下令分二隊以由布惟信、十時惟由、十時連貞、內田鎮家、竹迫連種從側面突擊,此時十時連秀、綿貫吉兼、後藤種任、野上清四郎等揮槍討取龍造寺方不少有功的武士,同時以「鳥雲之陣」潛伏已久的朽網鑑康也突然襲擊,龍造寺軍潰散直至中軍,龍造寺家晴、筑紫廣門無法控制敗勢,道雪追擊約2町距離後引退,而龍造寺軍又重整軍勢反擊之時,紹運和良寬之伏軍又從森林兩旁出現以弓、鐵砲猛烈攻擊,打擊了龍造寺軍反擊之軍心,使其受三方圍攻大敗。此為祇園原之戰。 以上小森野、十三部野、祇園原三戰統稱築後久留米合戰(又稱為筒川合戰)是為道雪、紹運引用《孫子兵法》的「奇正戰術」最為代表性的一次戰役,其戰績被評價可媲美孫子、吳子。(此戰記載於《大友興廢記》、《九州諸將軍記》、《築後國史》、《高良山物語》等九州方面史料。) 兩軍在數戰中維持著膠著狀態,而九州南部的島津家卻在這時快速崛起,侵攻大友及龍造寺的領地,龍造寺不敵降服了島津家,築前國人如秋月、原田等見狀也陸續歸屬島津家。 於6月頃立花道雪突然於陣中發病,紹運對這位如同父親一般的前輩除了迅速請來醫師看診外,每天日夜不離的照顧,並將軍隊從高良山下移至北野村。9月11日,道雪再對家臣說完壯烈的遺言後逝去,頓失支柱的大友軍只能撤退,這時紹運說了: 『如同喪失柺杖的老人和於無燈的闇夜中行走一樣,我等復興大業已不可成,心頭就像行屍走肉一般空虛...』 之後紹運擔任殿軍運送道雪遺體,敵對的士兵見狀並沒有攻擊,而是深深的對道雪這位徹頭徹尾忠心於大友家並且一生37場大合戰皆無敗的名將致敬。 同年9月13日,筑紫廣門趁著道雪新死之際出兵奪下了紹運的寶滿城,他於入夜後先以千手喜雲率3百人以和尚之姿入侵寶滿山,並於城中放火,然後再派家臣島田武藏於和久堂城、村山近江守於柴田城出陣,擊破了防守的高橋老臣伊藤源右衛門和花田加右衛門,最後高橋軍在家老屋山中務的奮戰下護送了城中的紹運之妻宋雲院和次男統增至巖屋城,而寶滿城則被廣門攻下。 此時豐臣秀吉在本能寺事變後迅速提高地位成為關白,大友宗麟見自家衰落而向秀吉臣服並希望能援救被島津家攻擊的自家。筑紫廣門此時風聞秀吉的九州征伐計畫,遂決定離反島津家而想以紹運之子統增娶廣門之女的方式和紹運談和,因為紹運之妻和廣門之妻是姊妹,兩家皆由衷希望同盟,紹運便以歸還寶滿城以及交換雙方家老、中老之子為人質答應這項和議,而紹運會答應的原因,無非不是因為多了一道防衛島津家的戰線。天正十四年(1586年)2月,紹運次子高橋統增和廣門之女加禰姬結婚,至此,築前呈現立花、高橋和筑紫的「三國小同盟」。 秋月種實見筑紫和高橋家的同盟後要求龍造寺及島津出兵攻擊,島津義久為此慎重考慮過後於6月令一族的島津忠長為總大將聯合肥築兩州國人約5萬人進攻築前,7月6日,筑紫廣門遭受島津家接連攻陷居城更痛失愛子筑紫晴門後不敵投降,之後紹運將主力兵集結於巖屋城,寶滿城則留下統增夫婦和筑紫家臣約6百餘人,不久紹運聽聞筑紫家臣因為廣門被島津家俘虜而呈現不穩的情勢,反覆在兩城之間調動兵力警戒守備,果然筑紫家臣挾持了統增夫婦,最後在高橋家臣伊藤源右衛門果斷的圍攻下平息了這場小亂事。 7月14日,島津軍五萬對巖屋城發動了攻勢,紹運以763人相差了約50倍的兵力抵擋,每日不間斷的持續攻防... 《築前續風土記》中記載: 「終日終夜,槍聲都未有停息之時,士卒們在城中廝殺的呼喊生於大地之間回盪。城中隨處都可能是決定生死的場所,一次次的進攻被擊退,生命在戰鬥中消失。」 島津軍進攻了10日,不僅沒攻下敵砦還丟失了部分自軍兵砦,損失了許多兵士,島津忠長為此斷糧阻水,但是巖屋城的士兵仍然士氣高漲,並且負傷的高橋士兵其面對敵人的程度勝過了當時的島津士兵。之後島津軍替換生力軍攻擊,高橋將士才略顯疲態,終於在26日,島津軍攻破了巖屋城外圍進至二之丸和三之丸,此時高橋軍以大石大木和弓矢鐵砲攻擊島津軍,一時之間又遭受更大的損害。 忠長為此派出新納忠元為使者向紹運勸降,卻被紹運以忠言駁斥,其言語也受到島津士兵的喝采,忠元找不到話回覆,島津忠長遂決定於27日展開總攻擊。 27日,早朝約4~6時島津軍發動最後攻勢,紹運等高橋家臣雖然拚命的防戰,但是在踩踏著己方屍體蜂泳而至的島津軍面前,敗亡只是時間的問題了,殘存的士兵們在和紹運做了訣別後以遍體鱗傷之軀向敵軍發動了杜絕的逆襲,在本丸指揮的紹運,親自給負傷著敷藥以示鼓勵,並背誦佛經為亡者弔喪。這時候島津軍終於攻入了本丸,紹運手持大長刀帶領著旗本衝入敵軍陣中,斬殺了十七人。紹運此時的奮戰之姿被記載在《西藩野史》中: 「紹運雄略絕倫,領兵上陣,數次擊破薩軍攻勢、殺傷甚多。」 面對紹運等人瘋狂的奮戰,畏怯的敵軍敗逃出了本丸,不過紹運身上也已經傷痕累累了,兵士們也只剩下最後的五十餘人,多數也是有重傷在身。知道自己到了最後的時刻的紹運登上了本丸的最高處,在門檻上刻下辭世句後就切腹自殺了,享年39歲,時間是在下午五點左右。因紹運作為榜樣,殘存的武士們全體切腹殉死了,為紹運介錯的吉野左京亮也用同一把刀自盡。當為了奪取紹運頭顱而衝進本丸的島津將兵們,看到眼前這種壯烈場面都驚訝的的停止了腳步。 島津軍總大將島津忠長雖然與紹運敵對,但仍給他極高的稱讚,並用最高的軍禮執行首實檢。而且忠長還嘆息道: 『哎!這麼英勇的武將卻死在我的手裡,如果能和他成為朋友該是件多麼令人愉快的事情啊。弓矢可以取得人命,但我現在卻痛恨它們起來。』並在往後於紹運的墓上刻下讚詩: 一將功成冠九州 戰場血入染河流 殺人刀是活人劍 月白風高巖屋秋 島津軍在此戰因為紹運的死命防戰下,戰死的大將有二十七騎,死者則高達三千人之多,負傷者也有一千五百人。高橋軍還給予島津日向方面的援軍上井覺兼壞滅的打擊,並且曾在耳川之戰守住高城的勇將山田有信也被打的重傷昏迷,島津嫡系子弟也死傷慘重。 次年,用大軍降伏島津家的秀吉,在經過大宰府時讚嘆紹運主從的忠義,稱讚其為「亂世之華」並對他的陣亡感到十分可惜。 後來紹運之子立花宗茂在封地柳河建了天叟寺,統增在封地三池修建紹運寺,紹運的家臣藤內重勝在太宰府修建了西正寺,用來祭祀紹運和在巖屋城陣亡的將兵們,巖屋城周邊也有紹運的墓所和將士的首塚,並有一塊石碑刻著「嗚呼壯烈巖屋城」。紹運法名「天叟寺殿性海紹運大居士」 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E7%B4%B9%E9%81%8B

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