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堀秀政 Hori Hidemasa(1553年-1590年) 堀秀重的長子、妻為喜多島良滋之女,幼名菊千代,通稱久太郎。 出生於美濃國,幼時和從兄弟奧田直政(堀直政)由伯父一向宗僧人-堀掃部太夫一同養育。最初仕於織田信長側近-大津長昌,接著仕於木下秀吉(豐臣秀吉)。 在永祿八年(1565年)成為織田信長的小姓和側近。16歲時擔任將軍足利義昭暫住的本國寺的普請奉行等,負責各種奉行職,確立了側近的地位。信長的側近除了秀政以外,還有菅屋長賴、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、萬見重元等人。 秀政漸漸從奉行職轉移到戰場上有活躍的表現。參加織田軍主要的合戰,天正三年(1575年)參與討伐越前的一向一揆。天正五年(1577年)的紀州征伐,離開信長的本陣,與佐久間信盛和秀吉等人一同率領一支部隊。天正六年(1578年)的有岡城之戰中與萬見、菅屋等人率領鐵砲隊。天正七年(1579年)安土宗論時與菅屋、長谷川等人擔任奉行。天正八年(1580年)與菅屋、長谷川等人擔任傳教士屋敷的造營奉行。同年,在信長向蜂須賀正勝送出的書狀中發出副狀。 天正九年(1581年)的第二次天正伊賀之亂中在信樂口率領部隊。同年.被賜予近江國阪田郡2萬5千石。天正十年(1582年)甲州征伐中,跟隨信長進入甲信,因為織田信忠已經消滅武田氏而沒有參加戰鬥。本能寺之變前,明智光秀被奪接待德川家康的役職後,與丹羽長秀一同負責,在這次接待後,被編制到備中的秀吉之下。 天正十年(1582年),信長在本能寺之變後死去,秀政作為秀吉的軍監留在備中國。此後成為秀吉的家臣,在山崎之戰中參戰。與中川清秀、高山右近等人擔任先陣。 明智光秀受到柴田勝全的幫助逃離山崎後,秀政把援助光秀的從兄弟明智秀滿迫入阪本城。對敗北有所覺悟的秀滿把先祖代代相傳的家寶讓給秀政的家老直政後,在城中放火自殺。 清洲會議後,秀政取代丹羽長秀拜領近江佐和山城並成為三法師(織田秀信)藏入領的代官和守役。 在天正十年(1582年)10月20日送出的書狀中使用羽柴姓,被認為是在秀吉一族以外最初被賜予羽柴氏的人。翌年(1583年)4月,秀吉進攻越前北之莊的柴田勝家。家康向秀吉送出的書狀中寫著褒揚秀政軍功的字句。 戰後敘任從五位下左衛門督,被賞賜近江佐和山9萬石。因為從兄弟六右衛門是一向宗蓮照寺的住職的關係,於是亦負責與本願寺方交涉。 在天正十二年(1584年)的小牧長久手之戰中,己方遭到德川方大敗,但是秀政把自軍分為3個部隊,伏擊正在追擊的大須賀康高和榊原康政等人,進行挾擊並令其敗走,與家康本隊沒有戰鬥並退卻。 天正十三年(1585年),秀吉成為關白,秀政敘任從四位下侍從兼左衛門督。在同年的紀州征伐(千石堀城之戰、第二次太田城之戰)和四國平定戰中因為軍功而被賜予丹羽長秀的遺領越前國北之莊18萬石,並獲得加賀小松的村上義明、加賀大聖寺的的溝口秀勝為與力。在天正十四年(1586年)與長谷川秀一一同被允許昇殿。在秀政於各地轉戰期間,佐和山城由父親秀重和弟弟多賀秀種以城代身份在城內進行統治(『新修彥根市史第1卷(通史編古代・中世)』彥根市史編集委員會2007年1月)。 天正十五年(1587年)九州征伐中,被任命為先鋒部隊。天正十六年(1588年)被賜豐臣姓。 天正十八年(1590年)小田原征伐中參戰,被任命為左備的大將(『寬政重修諸家譜』)。進攻箱根口並攻陷山中城,攻入小田原早川口,把本陣佈在海藏寺,不過在陣中患病死去,享年38歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
堀秀治 Hori Hideharu(1576年-1606年) 堀秀政的長子、母為喜多島良滋之女、正室為長谷川秀一之女、堀親良之兄、堀忠俊之父;通稱與其父一樣都是久太郎,戒名賞泉寺殿存忠大居士,越後福島藩初代藩主。 天正十八年(1590年),與其父秀政共同參與小田原征伐,因其父於陣中病死之故繼承家督。11月6日,與其父同樣獲賜了豐臣姓。 文祿元年(1592年),文祿之役駐守肥前名護屋城。文祿二年(1593年)參與伏見城建設工事。 介於上述功績,於慶長三年(1598年)4月,由越前北之庄18萬石加增轉封至越後春日山45萬石。然而豐臣秀吉命令付屬大名也一同移動至越後,堀家家臣團的構造變得格外復雜(注一)。因秀治年少,由堀直政負責輔佐。另外,轉封越後之際,前國主上杉景勝的家老直江兼續把前半年的租稅全部收走(也有說收了全年的),秀治要求其返還,被上杉方拒絕,堀家的財政因而變得十分困難。秀治入主春日山城後並沒有對箭樓、護城河進行整修,慶長五年(1600年)計劃把居城移到福島之地(注二)。慶長年間實行了分二段階的太閤檢地方式,同時否定了一直以來的上杉檢地方式,在上、中越後實施總檢地,確立了幕藩體制的基礎,對之後的越後諸藩檢地制度也有很大影響。 慶長三年(1598年)8月,豐臣秀吉死去之後開始接近德川家康,把一族的堀直重作為人質送到江戶。慶長五年(1600年)關原之戰中加入東軍,在此之前的8月鎮壓了受直江兼續指使在越後國內發生的上杉舊臣、神官、僧侶組織的一揆(越後一揆、上杉遺民一揆)。戰後因此功勞,家康認可其所領安堵。 一揆的直接原因是由於上杉一方的煽動。秀治因直江兼續帶走年貢而陷入財政窘境,為強化財政而實施了堀檢地,對制漆等行業征收年貢,因此領民的不滿水漲船高,同時為強化寺社統制而實行了被稱為真言潰的真言宗打壓活動,有說法認為上述行動從根本上導致了一揆。 慶長十一年(1606年)5月死去,年三十一歲,嫡子堀忠俊繼承家督(注三)。 注一:越後領共45萬石。除去村上義明(本庄9萬石)、溝口秀勝(新發田6萬石),堀家領餘30萬石。再除去一門堀直政(三條5萬石)、堀直寄(阪戶5萬石)、堀親良(藏王堂4萬石),秀治直領僅十萬餘。 注二:越後福島城自秀治時代開工,直到秀治死後的慶長十二年(1607年)才完工。慶長十五年(1610年)堀忠俊改易,松平忠輝入住越後之後就被廢棄。城址位於現新潟縣上越市市立古城小學校。 注三:堀忠俊繼承藩主時年僅十歲,由堀直政輔佐,慶長十三年(1608年)直政死後,直政的兩個兒子堀直次與堀直寄開始爭奪藩政主導權。在慶長十五年(1610年),堀直次因宗教問題殺害僧侶。事後直次先在主君忠俊處參了堀直寄一本,堀直寄則直接把事情捅到了德川家康處。家康以此為由判堀忠俊與堀直次改易,堀直寄減封至1萬石。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=8#postid-216 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%B2%BB
堀親良 Hori Chikayoshi(1580年-1637年) 堀秀政的次子、母為喜多島良滋之女、正室為淺野長政之女;幼名吉千代、通稱彌太郎、初名秀成,後改為親良。 與父親秀政和長兄秀治一同仕於豐臣秀吉。在小田原征伐時以11歲之齡進行初陣,在父親死後領有越前國2萬石。 天正十九年(1591年)敘任從五位下美作守,接受秀吉下賜羽柴氏和豐臣姓以及「秀家」的名字。與秀治一同轉封至越後國並領有藏王堂4萬石,把其中1萬石分給家老近藤重勝。在秀吉死去後拜領遺物「助真」。 慶長五年(1600年)的關原之戰中與長兄秀治一同加入東軍。此時上杉景勝在本國企圖謀反並以齋藤氏、柿崎氏、丸田氏等為軍長,一揆在會津的下田村布陣,秀家馬上率軍鎮壓並獲得首級(『寬永諸家系圖傳』),為鎮壓會津上杉氏在越後挑發的上杉遺民一揆而奔走。因為這次功勞而收到德川家康、秀忠發出的感謝狀。在感謝狀中被稱呼為羽柴美作守殿,由此可知在此時仍以羽柴為姓。在戰後被家康承認所領。 慶長七年(1602年)期間與同族的堀直政不和而對立,於是稱病並前往亡父在京都伏見的屋敷中隱居。這個時候把家督讓予養嗣子鶴千代。帶領譜代家臣經由京、大阪進入紀州,寄身於領有紀州的妻子家淺野家。向岳父淺野幸長討論去向後前往駿府謁拜家康,受命成為將軍秀忠的家臣。經過4年努力後,在慶長十六年(1611年)被賜予下野國真岡1萬2千石,在江戶謁拜德川秀忠。 在大阪之陣中於土井利勝的旗下奮戰。此時棄用羽柴氏並改回堀氏,名字都改為親良。在元和四年(1618年)加增美濃國5千石,在寬永四年(1627年)被賜予下野國烏山城,於是領有烏山2萬5千石。 寬永十四年(1637年)死去,年57歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
明智秀滿 Akechi Hidemitsu(1534年-1602年) 父母不詳、正室為明智光秀之女;初名三宅彌平次,後改名明智秀滿(異說),別名光春、光遠、秀俊、光俊、光昌,通稱左馬助。 同時代的史料中記載實名是秀滿。起初是三宅彌平次,後來改名為明智彌平次(『天王寺屋會記』)。傳說還有明智光春的名字(『明智軍記』)。通稱左馬助相當有名( 『信長公記』、『川角太閤記』)。傳說幼名是岩千代,改名後叫光俊(『明智氏一族宮城家相傳系圖書』)。另外還有幾個別名流傳於世。 三宅氏説: 秀満當初的名稱是三宅彌平次。三宅氏有數人是明智光秀家臣。還有在傳說中,明智光秀的叔父明智光廉以三宅氏為姓。有説法指秀滿的父親叫作三宅出雲,或是美濃的塗師(在器具上塗上漆的人),或是備前兒島郡常山的國人三宅德置。 明智氏説: 『明智軍記』中記述,秀滿(被記作光春)是明智氏出身。明智光秀的叔父明智光安之子(『明智氏一族宮城家相傳系圖書』中記載是次男),與光秀是從兄弟的關係。亦有記載以三宅氏為姓的時期。 遠山氏説: 明治時期由阿部直輔編寫校正的『惠那叢書』(鷹見彌之右衛門所著)中,明智光春(秀滿)的父親光安與美濃國明知城城主遠山景行是同一人物,以此參考的話,遠山景行之子遠山景玄與明智光春是同一人物,亦有明智光春不是秀滿的説法。遠山景玄在元龜三年(1572年)的上村合戰中戰死,但是該説法的史料不完整,所以可能是誤傳。 還有遠山景行的妻子是三河國廣瀬城城主三宅高貞的女兒,遠山景玄因為母親的關係,在某程度上是繼承了三宅氏。 前半生在《明智軍記》的最初就有記載。所以秀滿極有可能是出自明智氏。 從屬於明智家嫡流明智光秀的後見人、長山城的父親光安,但因為在弘治二年(1556年),齋藤道三與齋藤義龍的鬥爭敗北,城池被義龍方攻陷。此時在道三一方的父親自殺,但是秀滿和光秀等人成功逃走並成為浪人。 天正六年(1578年)以後,秀滿迎娶明智光秀的女兒。光秀的女兒本來已經嫁給荒木村重嫡男村次,但是因為村重叛變而離婚。之後秀滿改明智姓,但是根據文書是天正十年(1582年)4月。 天正九年(1581年),成為丹波福知山城代。 天正十年(1582年),於光秀討伐織田信長的本能寺之變中,擔任先鋒襲撃京都的本能寺。之後就任安土城的守備,與羽柴秀吉戰鬥的山崎之戰中,搶任光秀的後備隊,攻擊出濱的堀秀政時被擊敗後進入坂本城。被堀秀政軍圍城的秀滿,把財寶讓渡給包圍軍後,殺死光秀的妻子,在城中放火並自殺。在俗書中記載享年四十七歲。在『兼見卿記』中,同年被處刑的秀滿之父(名字不明)享年六十三歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E7%A7%80%E6%BB%BF
森長可 Mori Nagayoshi(1558年-1584年) 永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し「森勝蔵長可」を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。 元亀4年(1573年)3月、伊勢国の第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された。 同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。 また、天正5年(1577年)頃から内政にも参加するようになり、地元の兼山城(現・岐阜県可児市兼山)周辺の発展の為に間近を流れる木曾川を活かしての商業を重視し河港(兼山湊)の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んで専売制を敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちが尾張藩の美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、明治時代に到るまでこの制度は存続した。 天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。団と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる。 仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へと女子供の区別無く無差別に鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。 そのまま団と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島4郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。 天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可であったが、信濃国の政情は未だ不安定であり更に、上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8,000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにしてわずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが領内の統治が容易では無い事を痛感した長可は国衆の妻子供を海津城に住ませる事を義務付けし、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住ませた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし統治の確立に努めた。 信濃国の仕置きを済ませた長可は上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城の救援に向かったという知らせを受けて同年の5月23日に5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某らの守る田切城(妙高市大字田切字東裏にあった城)を落として上杉領深くまで侵攻し、6月までに春日山城からほど近い二本木(上越市)を守る上条景春を破り同地に陣を張った。当時、春日山城の兵は殆ど魚津城の救援に向かっていたが、手薄な春日山城に長可が肉薄すると上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城救援を諦めざるを得ず、5月27日には天神山城の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日に本能寺の変で信長が討たれると一転して敵地深く進攻していた長可は窮地に立たされ6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは出浦盛清を除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。長可の家臣大塚次右衛門が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 撤退途中に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」という密告を城下で商売をしていた金山の商人から受けた長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着日を書いた書状を義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという行動を取り、一気に乱入した家臣らは義昌の息子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束し暗殺の企みを封じた。翌日になり森軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路を無事に往く為の人質として利用している。東美濃入りした後も苗木遠山氏・遠山友忠などが暗殺を企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず森軍は無事に旧領の金山へと辿りついた。なお、安全圏に達したと判断した長可は金山に程近い大井宿でようやく岩松丸を解放している。 同年6月24日に無事に旧領への帰還を果たし、翌日岐阜城に赴き信雄、信孝、三法師に挨拶し弔辞を述べたという。長可が各務元正ら成利に与力として付けていた部下らと合流し旧領に復した森家であったが、元与力の肥田玄蕃・久々利頼興らが離反してその勢力は衰退しており、更に小里光明・妻木頼忠・遠山友忠・斎藤利堯らも長可の排斥を企むなど周囲は敵に囲まれた状態であった。そこで長可は敵に一致団結される前に各個撃破する事を決め、7月2日未明に肥田玄蕃の米田城を攻めた。肥田玄蕃は病を患っていた為同夜に加治田城の斎藤利堯を頼って落ち延びた。長可はこれを聞いて「加茂山(米田城)には地の地の利が無い。加治田は利のあるところである。加治田にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。長可は7月3日の牛ヶ鼻砦での合戦を経て堂洞城跡に入り加治田城を攻めたが、これを落とすことは出来ず烏峰城に帰還した(加治田・兼山合戦)。しかし同年中に肥田玄蕃の病は重くなり加治田城で死去し、跡継は家臣の会議でも決まらなかった為、肥田家臣は離散し森家に属す者も多かった。長可は元家臣である大森城の奥村元広と上恵土城の長谷川五郎右衛門が信州からの帰還しても森家に挨拶も使者も寄越さず、更に肥田玄蕃に内通したとして大森城を重臣の林為忠に攻めさせ、更に上恵土城を攻めた為、奥村元広は城を捨てて落ち延び、長谷川五郎右衛門は自害した。 長可は同月中に今城・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略し、根本城の若尾元昌、土岐高山城の平井光村、妻木城の妻木頼忠は戦わず森家に帰順したため、森家は東濃において大きく勢力を伸ばした。また、東美濃一の堅城である岩村城も城主団忠正が本能寺の変で信忠と共に討ち死にしていたため戦を行わず接収した。更に長可は、間を置かずに幸田孫右衛門を大将として遠山友忠の本拠である苗木城へと軍勢を派遣するが、道中で孫右衛門は遠山軍の奇襲を受けて戦死した為、苗木城攻略は頓挫した。この失敗を受けて長可はひとまず戦を止め久々利頼興と和睦し、遠山友忠とは睨み合いを続けた。また外交面では変後すぐさま羽柴秀吉に接近し、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状が羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の連名で出され反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ている。 翌天正11年(1583年)の正月には宴を開いて久々利頼興を金山城に呼び寄せて加木屋正則により仇討させ、同日夜間に久々利城を攻めたて落城させた。また賤ヶ岳の戦いに際して柴田勝家と連携して織田信孝家臣の遠藤慶隆・遠藤胤基が兵を動かし須原城・洞戸城を攻略したという報が入ると佐藤秀方と連絡を取って遠藤領に侵攻。立花山城に篭った遠藤軍を攻め立て、遠藤清左衛門・池戸与十郎・井上作右衛門を討つも要害の立花山城は容易には陥落せず、やむなく遠藤軍の補給路を断っての兵糧攻めへと切り替えた。蓄えの充分で無い立花山城の兵糧はすぐに尽き、進退極まった遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとするが佐藤秀方から信孝自刃の知らせを聞かされると戦意を喪失し石神兵庫・遠藤利右衛門の両重臣を人質に差し出し降伏。長可は木尾村で慶隆・胤基両名と会談し和睦を成立させ、降伏を飲んだ礼として鞍付馬を両名に贈呈した(立花山の戦い)。 その後、兵を再編し同年5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始。5月20日に陥落させ、遠山友忠は城を脱出して徳川家康を頼って落ち延び、城に残った遠山兵は城を枕に悉く討死した。更に、明知城の明知遠山氏(遠山利景、遠山一行等)と、信孝方の小里城主小里光明を美濃国から追放し、信孝の重臣であった斎藤利堯も加治田城を手放したため加治田衆を含めてこれを接収し、長可は旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、加治田城を始めとするいくつかの城を廃城処分としている。 また、この頃より書状の上で「森武蔵守長可」を自称するようになっている。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。 関・遠藤両名と合流した長可は尾張へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。3月16日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く。(羽黒の戦い) 奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。 後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成軍の家臣水野太郎作清久の足軽杉山孫六鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。享年27。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E5%8F%AF
池田恆興 Ikeda Tsuneoki(1536年-1584年) 池田恆利之子、母為養德院、妻荒尾善次之女.善應院;別名勝三郎、紀伊守、號勝入。 其母為織田信長之乳母,據說信長之父織田信秀,起初為信長找了許多乳母,都因當時名為「吉法師」的信長吸奶方式強烈而造成乳頭破裂,不斷地更換乳母,直至養德院當乳母後才獲得改善。信長與生母關係不睦,卻與養德院互動良好,並尊稱其為「大御乳」。亦有學者指出後來養德院原配丈夫去世後,由信秀納為側室。 基於母親與信長深厚的緣分,恆興從十歲起就擔任信長的「馬迴眾」(親衛部隊),逐步累積戰功。於元龜元年(1570年),受封為尾張犬山城主,但其後隸屬於信長嫡子織田信忠麾下,沒有獲得進一步的發展。直至信長召回恆興,擔任進攻叛變的荒木村重之任務,於掃蕩完荒木殘黨據守的攝津花隈城後,受封攝津一國。 天正十年(1582年),信長於「本能寺之變」遭明智光秀攻擊而死,嫡子信忠亦戰死,織田家眾將群龍無首,羽柴秀吉(豐臣秀吉)從姬路城率軍兼程趕回近畿地區,恆興之領地攝津,位處西國通往近畿之要道,恆興當下選擇加入秀吉的軍團,共同討伐光秀,於「山崎會戰」中,擔任右翼指揮,於兩軍激戰時,率軍突破明智軍左翼部隊,迫近光秀本陣左側,成為決定該戰勝敗的最後關鍵。 光秀敗亡後,恆興與秀吉、丹羽長秀及柴田勝家等四人,以織田家宿老地位參與「清州會議」。會議前,秀吉早與恆興、長秀兩人事先聯絡好,力拱信長嫡孫三法師(織田秀信)擔任織田家名義上的繼承人,三票對一票,讓欲推舉信長三子織田信孝的勝家難以抗衡,會議結束後,恆興除原有的攝津之外,另取得近畿部分領地。天正十一年(1583年),在秀吉擊敗勝家的「賤岳會戰」後,恆興又取得美濃大垣城。恆興判斷秀吉已經是信長事業的實質繼承者,急速從織田家宿老身份,轉而成為秀吉的屬將。 天正十二年(1584年),信長次子織田信雄受到秀吉威逼,向德川家康求救,家康率軍前往尾張、美濃一帶與秀吉對抗,恆興與女婿森長可都加入秀吉陣營,恆興發動攻勢先奪下犬山城,但森長可在「羽黑之戰」時敗給德川軍的酒井忠次等人,使得秀吉勢力無法繼續南進。家康鑑於恆興的犬山城攻略成功,乃決定將本陣設在小牧山一帶,並興建防禦工事,準備作長期對抗。為替女婿森長可討回面子,恆興向秀吉獻策:趁家康出兵濃尾之際,以偏軍進攻三河本土。 秀吉乃以外甥羽柴秀次擔任名義上的總大將,堀秀政擔任輔佐,由恆興與森長可擔任先鋒,合計二萬兵力從尾張進逼三河,但該軍事行動已被家康察知,家康秘密率軍從小牧山本陣出發,從後方追擊,並派榊原康政擔任先鋒先行出發圍堵入侵軍,完全沒有料到有伏軍存在,後方的秀次軍隊遭到攻擊,軍勢大亂,秀次潰走,崛秀政退兵,恆興與長子池田元助、女婿森長可在前方擔心秀次安危,急忙從前方退軍救援,結果大軍困在長久手附近的森林區域,遭到家康及康政的軍隊前後夾擊而殲滅,恆興、元助、森長可均當場戰死,年49歲。 恆興次子池田輝政後來繼續在豐臣、德川政權下效力,最後成為播磨的姬路城主。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401585
溝口宣勝 Mizoguchi Nobukatsu(1582年-1628年) 父:溝口秀勝、母:瑞雲院(長井源七郎娘)、正室:長寿院(堀秀政娘);改名:久三郎→秀信→宣勝,別名主膳正,戒名傑岑善英松嶽寺。 天正10年(1582年)若狭国高浜(現福井県高浜町)に生まれる。はじめ父・溝口秀勝と共に豊臣秀吉に仕え、慶長2年(1597年)に秀吉の偏諱を受けて秀信と称す。のち宣勝と改める。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際しては、上杉景勝に扇動された越後一揆を父とともに制圧した。 慶長15年(1610年)、父の死により跡を継いだ。このとき、溝口氏は6万石の大名であったが、宣勝は相続にあたって弟の善勝に1万2000石を分与して沢海藩を立てさせたため、新発田藩の石高は5万石となった(2000石分は新田開発によるもの)。このとき善勝は、生前に父から分与されていた5000石の領地を兄・宣勝に返し、自らはわずかの領地を改めて分与されたいと申し出たが、宣勝は「自分は家督を継いで国元に行くが、善勝は江戸に留まるので領地が少なくては奉公を勤められない」と言って承知しなかった。これを聞いた徳川秀忠は感心して、上述の通りの分与を申しつけたというエピソードが伝わっている。 宣勝は治世を通じて積極的な新田開発を行ない、1万5500石を新たに得た。宣勝の死後、この1万5500石は次男・宣秋、三男・宣俊、四男・宣知の3人の息子にそれぞれ分与され、嫡男の宣直が継いだ新発田藩の石高はやはり5万石であった。 慶長20年(元和元年/1615年)の大坂の役では松平忠輝に属して出陣した。寛永5年(1628年)10月29日、江戸において47歳で歿して江戸神田の吉祥寺(のち駒込に移り東京都文京区本駒込に現存)に葬られ、同寺は江戸における同家代々の葬地となった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E5%AE%A3%E5%8B%9D
溝口秀勝 Mizoguchi Hidekatsu(1548年-1610年) 溝口勝政的長子、母為竹田氏、正室為長井源七郎之女.瑞雲院;幼名竹丸、通稱金右衛門尉、初名定勝,受豐臣秀吉偏諱「秀」字,改名為秀勝。 最初為丹羽長秀家臣,天正九年(1581年),成為織田信長的直臣,被任命為若狹國政的監察官。 翌年,本能寺之變後又跟隨舊主長秀,成為若狹高濱城主,賤岳合戰由於戰功,受豐臣秀吉賞賜加賀大聖寺四萬四千石。 天正十三年(1585年)四月十六日,主君丹羽長秀死後,其子丹羽長重繼承其遺領,八月,長重領地遭豐臣秀吉削減,秀勝再次成為獨立大名。 翌年,敘任從五位下伯耆守,受賜豐臣姓與諱「秀」。之後陸續參加豐臣秀吉的九州征伐、小田原之陣及侵朝之役。 慶長三年(1598年),作為堀秀治(堀秀政長子)的與力受封越後新發田六萬石。 慶長五年(1600年),關原合戰中加入東軍,鎮壓越後上杉遺民一揆。之後致力於治水用水工事,鼓勵新田開發,作為初代藩主奠定新發田藩在江戶三百年間的基礎。 慶長十五年(1610年)九月二十八日死去,年63歲,法號寶光寺殿性翁淨見大居士。 出處 http://tc.wangchao.net.cn/baike/detail_854460.html
筒井定次 Tsutsui Sadatsugu(1562年-1615年) 父:筒井順国(慈明寺順国)、母:筒井順昭の娘、養父:筒井順慶、正室:秀子(織田信長の娘)、側室:市場姫(松平広忠の娘)?;幼名藤松、通称藤四郎、別名四郎。 一族で本家筋の筒井順慶(従兄、母方の叔父でもある)に子が無かったため、順慶の養嗣子となった。最初順慶の養子候補としては番条五郎が検討されており、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の承諾も得ていたが、五郎が謝絶したため定次が養子となった。 織田信長の死後は豊臣秀吉の家臣となり、大坂城へ人質として赴いた。天正12年(1584年)、順慶の死により家督を相続した。同年、小牧・長久手の戦いに参戦、この戦いで定次の家臣松倉重信が奮戦し、戦功を称えられ右近大夫に叙任された。天正13年(1585年)の紀州征伐では堀秀政などと共に千石堀城を攻めた。『絵本太閤記』には、この城攻めで二尺七寸の太刀を振りかざし奮戦する定次の姿が描かれている。筒井軍は奮戦したが、その分兵の消耗も大きかったと『多聞院日記』は言及している。 同年の四国攻めにおいては、中村一氏や蜂須賀正勝と共に先鋒に任じられ、東条関之兵衛が籠城する木津城を攻撃する。同年8月、秀吉と佐々成政との合戦(富山の役)が起こるが、定次は四国に在陣中であったため参戦せず、宇陀衆を代理に派遣した。閏8月、大和から伊賀上野へ移封(後述)。 天正14年(1586年)の九州征伐では、伊賀の留守を十市新二郎に任せ、1,500の手勢を率いて出陣、豊臣秀長の部隊に所属し、日向高城攻めなどで活躍する。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐では韮山城攻めに参加した。天正20年(1592年)からの文禄・慶長の役にも手勢3,000を率いて出陣し、肥前名護屋に詰めたが、朝鮮に渡航した形跡は残っていない。朝鮮の役の最中、顕著な武功を立てた加藤清正に称賛の使者を送った事や、名護屋で酒色に溺れ、中坊秀祐を憂慮させたことなどが『和州諸将軍伝』に記述されている。同書の記述によると、定次は病を得、秀吉の承諾を得て途中伊賀へ帰国したという。 天正13年(1585年)、秀吉は小牧・長久手の戦い・紀州征伐・四国攻め・富山の役など外接大名をめぐる情勢が落ち着いた閏8月に領国内の大規模な国替えを行い、畿内については一門・近臣で固める政策を実施した。この国替えで大和には秀吉の弟・羽柴秀長が入国し、代わって定次は領国を大和から伊賀上野に移封された。 この移封について、大坂や都に近い大和から定次を追い出した実質上の左遷ではないかとする説がある。この説に拠れば、石高も『当代記』などでは5万石と記されるなど、大和時代に較べて大幅な減封であり、筒井氏は伊賀で苦難の時代を送ったとされる。またこの移封の背景には、大和に根を張る寺社勢力との確執があったとされる。順慶の存命中、寺社は筒井氏に対して従順であったが、順慶が死去すると筒井家の力が弱まったと判断し、反抗的な姿勢を顕在化させたことにより、筒井氏移封および秀長の統治によりこれら勢力に対する政策を打ち出した、とされる。 これとは別に、移封時よりは後世となるが慶長期のデータでは大和は約44万石、伊賀は約10万石とされているが、(大和の全てが筒井領ではないが)明確な理由もなく約30万石もの減封は考え難い、とする説がある。江戸時代の編纂物『増補筒井家下記』には定次は伊賀12万石・伊勢の内で5万石・山城の内に3万石の計20万石を与えられており、一方、移封前の大和45万石の内で与力を除いた筒井氏の純所領は18万石であり、伊賀への移封は減封ではなくむしろ、プラス2万石の加増であったとしている。また伊賀は関東に対しての備えとしての役割を持つ街道の要衝であり、そのような重要な土地に定次を配置したことは、秀吉が定次を評価し、一定以上の信頼を寄せていたことの証左と考えることができる、とする。 ともあれ、伊賀移封に伴い、定次は伊賀上野城を築城した。また、秀吉から羽柴姓を名乗る事を許され、従五位下伊賀守に任命された。 天正14年(1586年)には、灌漑用水を巡って中坊秀祐と島左近の間で争いが起こり、定次が秀祐に有利な裁定を下した事で、憤慨した左近が筒井家を去るという事件が起こる。筒井家を去った左近は石田三成に仕えた。松倉重政、森好高、布施慶春といった有力家臣達も前後して筒井家を去っている。その背景には、秀祐らの台頭と専断があった。定次は、彼らを完全に抑制するだけの力量はなかったとも推測される。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、徳川家康から所領を安堵された(上野城を陥落させた西軍の摂津高槻城主・新庄直頼、直定父子は改易された)。しかし慶長13年(1608年)、幕命により突如として改易され、ここに大名としての筒井氏は滅亡した。 改易の理由については、度々大坂城に赴き、豊臣秀頼や大野治房らと誼を通じていたこと、領国における悪政、酒色に耽溺したから、キリシタンによる訴訟など、数々の理由が挙げられているが、最近では筒井氏も豊臣恩顧の大名であり、さらに伊賀という大坂近郊の要地を支配していたことを危険視した幕府によるでっちあげの改易ではないかとされている(事実、定次改易後の伊賀には外様ながら譜代並の藤堂高虎が入った)。どちらにせよ、定次は改易された後、その身柄は鳥居忠政のもとに預けられることとなった(『続武家補佐』)。『武徳編年集成』『東武談叢』『増補筒井家記』などは高虎の下に預けられたと記述しており、また江戸に預けられたと主張する文献でも、『大和郡山市史』は江戸の鳥居家屋敷を預け場所としている。現在では、『続武家補佐の記述』が定説として採用されている。 そして慶長20年(1615年)3月5日、大坂冬の陣にて豊臣氏に内通したという理由により、嫡男・順定と共に自害を命じられた。享年54。切腹を賜った経緯について、『伊陽安民記』『翁物語』は、大坂冬の陣の際、城中から放たれた矢の一つに筒井家で使われていたものがあり、その矢が内応の示唆を疑わせ、自害を命じられたと記している。しかしこの矢は筒井家が改易された際に四散したものが大坂城に紛れ込んだものと考えられており、幕府がこれを内応と解釈したのは定次を葬る為のでっち上げであった。 『奈良坊目拙解』は、自害した定次父子の遺骸を伝香寺の住職が大安寺に葬り、伝香寺に石塔を建立したと伝える。 筒井氏は家康の尽力で定次の従弟に当たる筒井定慶が継いだが、大坂夏の陣で豊臣方に大和郡山城を攻め落とされ、逃亡した後に自害した。これにより筒井氏その物が消滅したように書いてある書籍が多いが、定次流以外の他の筒井氏一族は東大寺住職や奉行や旗本などとして存続し、現在まで家名を保っている(筒井政憲、下曽根信敦父子など)。 定次には娘が3人がいたが、それぞれ鞆田九左衛門、新庄直氏、多田正吉に嫁いで天寿を全うした。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1
織田秀信 Oda Hidenobu(1580年-1605年) 織田信忠的長子、母為鹽川長滿之女.德壽院、正室為和田孫太夫之女、繼室為生地真澄之女.町野;幼名三法師、別名三郎、通稱「岐阜中納言」、法名「大善院圭嚴松貞」。 織田秀信出生時,由於當時織田信忠的正室死前並未誕下兒子,因此秀信並非是信忠的嫡長子,而是長子。 天正十年(1582年)本能寺之變期間,留在歧阜城,在前田玄以的保護下,到清洲城避難。在清洲會議中,羽柴秀吉力挺秀信為織田家繼承人,由四位家臣行使守護職責,史稱「織田四宿老」,分別為羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恆興(織田信長乳兄弟)。結果秀信獲得近江國阪田郡3萬石領地,由堀秀政(名義上是織田家臣,實際上是羽柴家臣,在羽柴家中享受同族待遇)代管。天正十二年(1584年),遷移到丹羽長秀的阪本城。 天正十六年(1588年),在歧阜城元服,名為三郎秀信。就任從四位下官職。同年4月後陽成天皇前往聚樂弟時,在『聚樂亭行幸記』中以朝臣三郎侍從秀信被記載。在當時列席人士官位排第五,與前田利長、豐臣秀勝、結城秀康並列。 天正十八年(1590年),小田原征伐時列入第六番隊,是堀秀政隊中左備大將指揮鐵炮隊。 天正二十年(1592年),豐臣秀勝死後獲得歧阜13萬石領地,將部分織田氏的舊家臣再次召集,稻葉貞通時任家老。 天正二十年(1592年)跟隨長岡忠興,出征朝鮮。翌年返回日本,與豐臣秀吉會面後,獲贈羽柴姓,在當時的史書中有岐阜中納言名字。 織田秀信信奉吉利支丹(基督教),慶長二年(1597年)與弟織田秀則一起信奉。秀信在領地內建設基督教設施,不過沒有一面傾向支持基督教,亦保護佛寺、神道寺廟。 慶長五年(1600年),關原之戰爆發,織田秀信拜見豐臣秀賴後獲得200枚黃金及2000至3000石的兵糧。石田三成以美濃及尾張兩國領地利誘秀信加入西軍,並派遣家臣柏木彥右衛門及河瀨左馬之助支援秀信。面德川軍的先遣部隊向岐阜城進軍,織田秀信選擇迎擊,雙方在木曾川及米野交戰,織田軍戰敗退守歧阜城。織田軍在防守歧阜城時仍然奮戰,但是由於雙方兵力懸殊,織田軍戰敗。 原本織田秀信與弟秀則打算切腹自殺,卻被福島正則阻止。戰後,織田秀信的13萬石領地被沒收,並被流放到高野山,五年後過世,年二十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1

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