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五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
土肥政繁 Doi Masashige(生年不詳-1590年) 越中国弓庄城主。通称、四郎。官位は美作守。娘は下秀久の室。 越中土肥氏は土肥実平を祖とし、鎌倉時代より新川郡堀江庄の地頭職として名が見える。戦国期には、神保長職の膨張に伴いこれに属した為、椎名・上杉氏との抗争に巻き込まれ没落し、弓庄城に拠った庶流の政繁が上杉謙信に臣従して辛うじて命脈を保った。 天正6年(1578年)に謙信が急死すると、多くの越中国人と同様、織田方に寝返った。しかしその後上杉方に復帰したらしく、同9年(1581年)8月、佐々成政により城を囲まれている。この時は何とか城を持ちこたえたが、上杉氏の後詰が得られず、翌10年(1582年)に降伏した。しかし本能寺の変が起こるとまたしても上杉方に寝返る。 同11年(1583年)2月には成政の越後出兵の隙を突いて太田新城を奪うなどの働きを見せるが、成政・秀吉・景勝の三者が和睦を結ぶと進退窮まり、弓庄城を立ち退き、越後に落ちて上杉景勝を頼った。 同12年(1584年)10月、上杉軍の越中攻めの先鋒として宮崎城攻略に功をあげたが、上杉家中では冷遇され、同18年(1590年)、越後国能生で病死した。一族はその後最上義光、村上頼勝などに仕えた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E8%82%A5%E6%94%BF%E7%B9%81
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