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土岐頼武 Toki Yoritake(1498年?-1547年?) 土岐政房の嫡男で弟に頼芸、治頼、揖斐光親らがいる。別名の諱として政頼(まさより、「政」は父の偏諱であろう)、盛頼(もりより)が伝わる。次郎と称す。官位は修理大夫。妻は朝倉貞景の3女。子に頼純。 土岐政房は家督を次男である頼芸に継がせようと考え、小守護代長井長弘が頼芸側に加わった。一方、守護代である斎藤利良は頼武を推したため、美濃国内は頼武派と頼芸派に分かれ、永正14年(1517年)12月27日、遂に両派の合戦となった。この合戦は頼武派が勝利したが、頼芸派は尾張に亡命していた前守護代斎藤彦四郎と連絡を取り、逆襲の機会を狙った。 永正15年(1518年)8月10日、再び両派の間で合戦が起こり、頼芸派が勝利、頼武は利良と共に利良の伯母の嫁ぎ先である越前朝倉氏のもとへ亡命した。この越前亡命中に朝倉貞景の娘と結婚したとされる。頼芸派は室町幕府に要請し、頼武の上洛を促す御内書を出してもらうことに成功したが、朝倉孝景(宗淳)はこれを無視した。 頼武の越前在国中も美濃は内乱状態にあり、永正16年(1519年)3月には垂井辺りで激戦が展開されている。同年6月16日に土岐政房が没すると、孝景は弟の景高に美濃出陣を命じる。7月、景高に率いられた3000の朝倉勢に護られて頼武は美濃に入国、9月14日の正木合戦、10月10日の池戸合戦に連戦連勝して、遂に美濃守護になることに成功した。長井長弘は没落、彦四郎は失脚した(戦死とも)。 その後、頼武政権は一応の安定を見ていたが、大永5年(1525年)6月に至り、頼芸を奉じた長井長弘が再挙兵する。6月23日、岐阜茜部で合戦があり、守護代斎藤利茂ほか頼武政権の主だった人々は守護所福光館を脱出、館は長井勢に占領された。更に8月2日、長井氏支援のため、近江から浅井亮政の軍勢が美濃に侵攻、関ヶ原今須付近で土岐軍と合戦となった。頼武は武芸谷の汾陽寺にあって、救援を朝倉氏に求めた。朝倉氏はこれに応じ、朝倉宗滴が小谷城に出張り六角氏とも協力して浅井勢を牽制、更に朝倉景職の率いる軍勢が10月14日に稲葉山まで出兵した。内乱は大永7年(1527年)末には一段落するが、その後も政情不安は続き、享禄3年(1530年)、頼武は再び越前に逃れ、頼芸は翌年「濃州太守」と呼ばれるまでになる(実際にはまだ守護に就いていない)。 朝倉軍の援助で美濃入国を果たすと、頼武は山県郡大桑城に本拠を置き再び頼芸と対決する。天文4年(1535年)、頼武は出家、恵胤と号した。6月、頼芸が父政房の17回忌を行って自らの正当性を主張したため、両者の対立は深まった。8月、修理大夫に任官、更に権威付けのため奈良正倉院秘蔵の蘭奢待の切り取りを朝廷に申請、許可されている。8月17日、朝倉氏や六角氏の援兵とともに頼武軍は攻勢を開始、11月までの間、多芸郡・池田郡から岐阜・関に及ぶ広範囲で合戦が繰り広げられ、多くの神社仏閣が焼亡した。 天文5年(1536年)6月20日、頼武(恵胤)は朝廷に対し蘭奢待切り取りの答礼をしている。しかし、これを最後に史料から姿を消している。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E9%A0%BC%E6%AD%A6
斎藤利茂 Saito Toshishige(生年不詳-没年不詳) 斎藤妙純または斎藤利為の子。通称は帯刀左衛門尉と称す。斎藤又四郎とは同一人物とも。 永正18年(1521年)頃より、斎藤利良に代わって美濃国守護土岐頼武のもとで守護代を務める。汾陽寺文書によればこの年に汾陽寺(岐阜県関市)に禁制を出している。、大永5年(1525年)、守護の頼武と対立していた頼武の弟頼芸を奉じた長井長弘と長井新左衛門が反乱を起こし、美濃守護所の福光館を占拠し、さらに利茂が拠る稲葉山城を攻め取った。 享禄3年(1530年)には頼武が越前へ逃れたことにより、庶流の長井氏が美濃実権を握った。 その後も頼芸方との対立は続き、長井氏の名跡を継いだ長井規秀(斎藤道三)と争うが、天文5年(1536年)7月、頼芸が美濃国守護となると、頼武の子土岐頼純を見捨て、六角定頼の仲介により頼芸方に寝返り、頼芸のもとで守護代を務める。 天文7年(1538年)、阿願寺文書によれば、阿願寺(岐阜県岐阜市)に寺領安堵をしている。 天文10年(1541年)までその動静が判明しているが、道三が頼芸を追放した際にともに、追放されて没落したと伝わる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%8E%E8%97%A4%E5%88%A9%E8%8C%82
朝倉孝景 Asakura Takakage(1493年-1548年) 曽祖父(7代)孝景にあやかって、自身も「孝景」と名乗った。今日においては区別するため便宜上、法名から「宗淳孝景」(大岫孝景)と呼んで区別する。 朝倉氏10代目当主。朝倉貞景の子。朝倉義景の父。母親は美濃守護代格斎藤利国の娘。妹は美濃守護土岐頼武に嫁ぎ、嫡男・土岐頼純を産む。 一門の朝倉宗滴の補佐を受けて、当時混乱の多かった周辺国の加賀・美濃・近江・若狭らにしばしば出兵・侵攻し、各国の守護家や諸勢力に軍事的優位性、政治的影響力を見せ付け、代々対立してきた加賀一向一揆との和睦をも成立させたと言われている。絶え間なく中央(京都)および周辺諸国情勢に煩わされたが、結果的に朝倉氏の勢力をさらに拡大するとともに、朝廷や幕府との繋がりをも深め、越前に更なる繁栄をもたらし、本拠・一乗谷城に京風の文化を華開かせた。 軍事面においては、当主自らではなく一族の主なものを名代として派遣する例が多い。この制度が次代の義景の統治にも影響を及ぼすこととなる。 統治面においては、守護斯波氏の下では同格であった国人衆などと呼ばれる諸勢力を完全に臣従下させるには至っていない。また、弟である朝倉景高と対立するという内紛もあった。 経済面においては、周辺諸国への大軍派遣、朝廷や幕府に対する多額の献金等からの一乗谷の繁栄が見られた。また、豪商らが名物茶器を所持していたり、家臣らが京に書物を求めるなどの面も見られた。 天文17年(1548年)3月22日に死去。波着寺への参詣の帰りに急死したという。享年56。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AD%9D%E6%99%AF_(10%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB)

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