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仁賀保挙誠 NiKaho Takanobu(1560年-1624年) 出羽国由利郡の南部を支配した。実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」であり、これは次男の誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、代わりに「挙」の字を当てたためと考えられている(自身も光政から名を誠政に変えている)。なお『寛政重修諸家譜』では、挙誠を「たかのぶ」と読ませている。 仁賀保氏は通字に「挙」を、家紋に「一文字に三つ星」をそれぞれ使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通字であったのであろう。また、家紋は「一文字に三つ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを汲むのはほぼ確実である。 仁賀保氏の成立 仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信濃大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で由利郡に信濃大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信濃大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。 後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。 無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井宗家の当主である持光は鎌倉公方足利成氏の外祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏(赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。 友挙の子の大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って「仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年(1524年)の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。 挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は京都御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。 挙誠の登場 挙誠は仁賀保氏がお家騒動と敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死を遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子に入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏は歴代、山内上杉家またその分家の越後上杉家、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏当主の大宝寺義氏が独立を目指すと、仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北の小野寺義道と同盟し、背後より矢島氏に仁賀保氏を攻めさせた。この為仁賀保氏は国力を大きく落とし、天正10年(1582年)頃より翌11年(1583年)にかけ、義氏に何度か大きく攻め込まれた。このため、仁賀保氏は5代当主の重挙が死亡後、独自に当主を立てられなかったものと考えられる。6代当主の八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子に入ったのは、赤尾津氏を支援した安東愛季の意思が働いたものか。 挙誠が家督を継いだ天正13年(1585年)の時点の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。この頃、大宝寺義氏は重臣の東禅寺義長の謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長が対立しており、更には大宝寺氏を本庄繁長・上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光がそれぞれ支援していた。この戦いは本庄繁長が庄内に攻め込み、東禅寺義長を討ち取り最上軍を殲滅した事によりケリがついた。 さてこの騒動の間、最上義光は不利になりつつあった庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉の惣無事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令は聞かないという立場をとったようである。天正16年(1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉領となった。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上軍を駆逐して回ったらしい。この上杉軍と挙誠の動向からして、庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。 この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安に使者を出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動を良しとせず、奸智により矢島氏を攻め滅ぼし、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉の小田原征伐に加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年(1590年)12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。 なお、天正16年(1588年)に最上軍を粉砕した本庄繁長率いる上杉軍は天下軍として賊軍を成敗するという性質を持っていたと解釈すべきである。故に仁賀保氏ら由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年(1589年)に安東氏の内紛である湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田実季を支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令が出されていたのにかかわらず、上杉、仁賀保らの戦闘は私戦は考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易は免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。 挙誠の領地 挙誠の領地は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年(1590年)に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年(1595年)に他氏の傘下に入ったらしい。 但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしきことが推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。 石高は天正18年(1590年)には3,716石の記載があるが、天正20年(1592年)には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると1万2,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。 豊臣政権下 他の奥羽の武将の例に漏れず、小田原参陣の後、挙誠は妻子を京都に人質に取られた。翌天正19年(1591年)には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てている。 文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より東軍与同の誘いを受け、同族の赤尾津氏当主の赤尾津孫次郎と共に東軍に加わり、庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵して徳川家康が上洛すると、家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に義光より西軍与同の嫌疑を受けた。 しかしながら石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している景勝を攻めた。この際、上杉家臣の下次右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に家康から所領を安堵され、感状を与えられている。戦後、挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田(現在のひたちなか市)5,000石に移封された。 徳川政権下 常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。 さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。それに感銘を受けた利勝により元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。 なお、万石以上が大名であるというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。 仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0
伊達秀宗 Date Hidemune(1591年-1658年) 伊達政宗的庶長子、母為新造之方(諸說,見注一)、猶父豐臣秀吉、異母弟伊達忠宗、正室為井伊直政之女.德興院;幼名兵五郎,初名秀弘,受豐臣秀吉偏諱「秀」字,名為秀宗。 生於陸奧國柴田郡村田城,父親政宗正室愛姬尚未產出男子時,秀宗被周圍視作伊達家繼承人,喚作「禦曹司樣」(注一)。文祿三年(1594年),同政宗拜見豐臣秀吉,成為送往秀吉處的人質,在伏見城養育。 文祿四年(1595年)7月,發生了秀次事件,與豐臣秀次關係親近的政宗也因此遭到連坐,被秀吉下令國替到伊予國並由兵五郎(伊達秀宗)出任家督。結果因為德川家康不願接收而被饒恕,8月24日被命令提交由在京重臣19人(注二)聯署的誓約書,發誓「如果政宗有反意就馬上讓他隱居,另立兵五郎為當主」。 文祿五年(1596年)5月9日,成為豐臣秀吉之猶子,在秀吉之處元服獲賜秀吉偏諱起名伊達秀宗。出任從五位下侍從,獲賜豐臣姓。擔任豐臣秀賴之側小姓。 豐臣秀吉死後,慶長五年(1600年)五奉行的石田三成等人對五大老之一的德川家康舉兵(關原之戰),留在三成方宇喜多秀家宅中的秀宗被扣押為人質。 慶長七年(1602年)9月,拜見德川家康,作為德川氏的人質前往江戶。然而政宗正室愛姬(此時,政宗36歲,愛姬35歲,在當時屬於高齡出產)之間生下兒子虎菊丸(伊達忠宗),且未夭折平安長大,慶長八年(1603年)1月政宗攜虎菊丸拜謁家康,秀宗的立場自此變得十分微妙。慶長十四年(1609年),秀宗受家康之命娶德川四天王井伊直政之女為妻,自此被拉攏進德川陣營。然而弟弟虎菊丸於慶長十六年(1611年)12月在江戶城元服,獲賜將軍德川秀忠一字偏諱起名忠宗,由此秀宗在事實上已經被排除出伊達家家督繼承人之列。關於此事有說法認為秀宗雖是政宗長子,然而是側室飯阪氏所出的庶子因而不能繼承本家家督,然而此說法有誤。一般認為接受「秀」這個豐臣家通字,仕於秀吉、秀賴,一時獲賜豐臣姓的秀宗在德川氏的天下作為仙台藩主並不合適,這是實際上將其排除在外的理由(注三)。 因此其父考慮另起另立別家。慶長十九年(1614年)大阪冬之陣與父親一同出陣,是為初陣。戰後,政宗因參陣之功自大御所德川家康處獲賜伊予宇和島10萬石用以另立別家,同年12月25日成為伊達氏宇和島藩初代藩主。家臣團大多由政宗自伊達家中選出,秀宗入部之際,57騎騎馬團外加足輕,小者約1200名一同前往。重臣受政宗之命輔佐秀宗。此外,用於藩政整備的初期資金六萬兩也借貸自仙台藩。 元和六年(1620年),家老山家公賴遭與其對立的櫻田元親襲擊,一族幾乎滅門。秀宗對幕府和政宗壓下此事不上報,被激怒的父親一氣之下與其斷絕父子關係。公賴最早是政宗的家臣,屬於本家一側的人。為此,山家對於大小事務都要摻一腳,引得秀宗不悅。然後在次年元和七年(1621年),怒不可遏的政宗向老中土井利勝提出希望將宇和島藩交還幕府(和靈騷動,注四)。結局,在利勝調解下政宗撤回請求並和秀宗見面,當時秀宗將雖然作為長男卻因為德川時代不能繼承仙台藩家督之事,一直以來作為人質被送往別家之事,以及因此而生的對於政宗的各種怨恨全部道出。政宗對秀宗的情緒表示理解,恢復了父子關係。依次為契機此後父子關係一直不錯。 此後,秀宗致力於改善藩政。第二年的元和八年(1622年)12月,任遠江守。寬永三年(1626年)8月19日升任從四位下。 恢復父子關係後的政宗和秀宗關係親密,經常交流和歌,樂在其中,秀宗還獲贈「唐物小茄子茶入」與政宗秘藏之伽羅名香「柴舟」,這些政宗贈給秀宗的禮品作為宇和島藩家寶秘傳(此外還有茶壺銘冬寒,銘仙仙洞,在宇和島市立伊達博物館的企畫展.特別展可以見到)。寬永十三年(1636年)5月政宗死去,6月在仙台覺範寺舉行葬禮之際,秀宗與次男宗時一同列於葬儀之列(秀宗訪問仙台僅此一回)。寬永十四年(1637年)至第二年,島原之亂受幕命派兵鎮壓。 自寬永十四年(1637年)患上中風經常臥病在床。因此,寬永十五年(1638年)由世子的次子宗時(長子宗實自幼病弱,讓位於弟)返回宇和島作為「太守」「殿樣」代行政務。因而,有些記載(大武鑑)將宗時也算作宇和島藩歷代藩主之一(未正式繼承藩主即去世,見下文),由此可見幕府也因此將宗時視為實際的當主。 秀宗晚年在宇和島藩實行領內檢地,並基於此採用定免法(年貢固定化),藩士給與從一直以來給地制(地方知行制)改為藏米制(用現米支付俸祿)。慶安二年(1649年)2月5日宇和島遭大地震襲擊,次年以長期罹患中風為由由幕府獲准返回宇和島療養。 承應二年(1653年)宗時39歲即早逝,因而將三子,20歲的宗利立為世子。第二年利用藩和商人之資本推進新田開發。明曆三年(1657年)7月21日,將家督讓於世子宗利後隱居。8月16日將第五子宗純另立伊予吉田藩。自此宇和島藩為7萬石,吉田藩為3萬石。 明曆四年(1658年)6月8日,死於江戶藩邸,年六十八歲,戒名等覺寺殿拾遺義山常信大居士。 注一;曹司在日語中有貴族子弟所住房間之意,故以「禦曹司」代稱名門望族之子弟。 注二:十九人即 石川義宗、伊達成實、伊達政景(留守政景)、亙理重宗、國分盛重、泉田重光、大條宗直、桑折宗長、白石宗實、石母田景賴、大內定綱、中島宗求、原田宗資、富塚信綱、遠藤玄信、片倉景綱、山岡重長、湯目景康、湯村親元 注三:政宗在慶長十九年(1614年)11月10日送予本多正純的書狀中提到希望他將秀宗「身上之儀」(秀宗成為秀吉猶子之事)轉告德川家康與德川秀忠同時表示「返返賴入計候」(萬事拜託,務必幫忙)。 注四:此後宇和島藩怪事不斷,先是櫻田被橫樑砸死,後來山家的政敵死於各種事故,宇和島天災連連,秀宗的三個兒子(長子宗實,次子宗時及第六子)相機早死,秀宗也臥床不起。眾皆言是山家怨靈作祟。後宇和島藩設一和靈神社慰靈,故名。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=3#postid-144 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E7%A7%80%E5%AE%97
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
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五十位人物:大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新齋、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑒速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光....
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
土井利勝 Doi Toshikatsu(1573年-1644年) 水野信元的三子、養父土井利昌、正室為松平近清之女、側室為榮福院、松花院、正壽院;幼名甚三郎、入繼土井氏,名為土井利勝,戒名寶池院殿前拾遺穩譽泰翁覺玄大居士。 父親信元為於大之方(德川家康之母)的異母兄,利勝年幼獲許跟隨家康進行獵鷹。天正四年(1576年)父親信元因懷疑與武田氏互通消息而被處死,利勝成為土井利昌的養子。七歲時與年紀相近的安藤重信及青山忠成跟隨德川秀忠,役料收入為200俵。 慶長五年(1600年)跟隨秀忠參與攻擊上田城戰爭,因攻城問題浪費不少時間,未能趕及參與關原的戰役,戰後獲得武藏國500石領地;翌年,就任徒頭。慶長七年(1602年)成為1萬石小見川藩大名。 慶長九年(1604年),負責處理李氏朝鮮正使呂祐吉訪日本事務。慶長十年(1605年)4月,德川秀忠上洛從後陽成天皇就任征夷大將軍,而隨行的利勝亦在4月29日就任從五位下大炊頭,以後成為秀忠的左右手。 慶長十三年(1608年)成功處理日蓮宗及淨土宗的爭執。慶長十五年(1610年)1月,移封至佐倉3萬2千石。10月本多忠勝病逝,利勝成為德川秀忠的老中。 慶長十七年(1612年)加封4萬5千石。大阪之役的夏之陣,跟隨德川秀忠後動,當大野治長猛攻後進行反攻,利勝取得98個首級。戰後加封6萬2千5百石,與青山忠俊及酒井忠世保護德川家康。元和二年(1616年)以秀忠名義制訂武家諸法度及一國一城令,告知眾大名戰國時代已經完結。德川家康死後葬在久能山的葬禮由利勝負責所有一切事務。 元和九年(1623年),德川秀忠讓位給德川家光,幕後掌政,利勝與青山忠俊及酒井忠世協助家光,繼續發揮他的政治手腕。寬永二年(1625年)加封14萬石。 寬永十年(1633年)增封古河16萬石。寬永十二年(1635年)增加武家諸法度內參勤交代規則其19條,確立幕府的支配體制。寬永十三年(1636年)制定新的貨幣寬永通寶取代原有的永樂通寶,寬永通寶在明治時代初期仍然在日本流通。 寬永十四年(1637年)以中風為由辭去老中,德川家光勸留下繼續留職。寬永十五年(1638年)病情恢復,利勝晉升成為大老。 寬永二十一年(1644年)6月,利勝開始臥在病床上。7月10日,在江戶城病逝,年七十二歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E5%8B%9D
堀親良 Hori Chikayoshi(1580年-1637年) 堀秀政的次子、母為喜多島良滋之女、正室為淺野長政之女;幼名吉千代、通稱彌太郎、初名秀成,後改為親良。 與父親秀政和長兄秀治一同仕於豐臣秀吉。在小田原征伐時以11歲之齡進行初陣,在父親死後領有越前國2萬石。 天正十九年(1591年)敘任從五位下美作守,接受秀吉下賜羽柴氏和豐臣姓以及「秀家」的名字。與秀治一同轉封至越後國並領有藏王堂4萬石,把其中1萬石分給家老近藤重勝。在秀吉死去後拜領遺物「助真」。 慶長五年(1600年)的關原之戰中與長兄秀治一同加入東軍。此時上杉景勝在本國企圖謀反並以齋藤氏、柿崎氏、丸田氏等為軍長,一揆在會津的下田村布陣,秀家馬上率軍鎮壓並獲得首級(『寬永諸家系圖傳』),為鎮壓會津上杉氏在越後挑發的上杉遺民一揆而奔走。因為這次功勞而收到德川家康、秀忠發出的感謝狀。在感謝狀中被稱呼為羽柴美作守殿,由此可知在此時仍以羽柴為姓。在戰後被家康承認所領。 慶長七年(1602年)期間與同族的堀直政不和而對立,於是稱病並前往亡父在京都伏見的屋敷中隱居。這個時候把家督讓予養嗣子鶴千代。帶領譜代家臣經由京、大阪進入紀州,寄身於領有紀州的妻子家淺野家。向岳父淺野幸長討論去向後前往駿府謁拜家康,受命成為將軍秀忠的家臣。經過4年努力後,在慶長十六年(1611年)被賜予下野國真岡1萬2千石,在江戶謁拜德川秀忠。 在大阪之陣中於土井利勝的旗下奮戰。此時棄用羽柴氏並改回堀氏,名字都改為親良。在元和四年(1618年)加增美濃國5千石,在寬永四年(1627年)被賜予下野國烏山城,於是領有烏山2萬5千石。 寬永十四年(1637年)死去,年57歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
岩城貞隆 Iwaki Sadataka(1583年-1620年) 佐竹義重的三子、母為伊達晴宗之女・寶壽院、養父岩城常隆、正室為相馬義胤之女・慶雲院;幼名能化丸、通稱忠次郎、初名佐竹貞隆,繼承岩城氏,名為岩城貞隆。 天正十八年(1590年)養父常隆病死,繼承家督,被豐臣秀吉承認岩城氏所領磐城平12萬石和家督的繼承。 慶長五年(1600年),關原之戰中,最初加入東軍方,但是因為長兄佐竹義宣的命令而沒有參加征伐上杉景勝。 戰後,慶長七年(1602年)與義宣一同被處分,佐竹家被減封,貞隆更被沒收全部所領。對此貞隆向義宣促請舉兵,不過遭到拒絕。 貞隆得知妻子的實家相馬家希望再興,自身亦希望令岩城家再興,於是前往江戶並在淺草成為浪人,為再興運動盡力並多次在飯野八幡宮祈願。隨著領土被沒收,多數家臣都離散,不過有『岩城貞隆淺草御浪人中隨身諸士名元覺』中的42人跟隨。 之後,土井利勝向德川家康提出貞隆的願望後,得到由本多正信組成的3百人。慶長二十年(1615年)的大阪夏之陣中跟隨正信從軍。 因立下戰功,元和二年(1616年)被賜予信濃中村1萬石,恢復成為大名的身份。一說指貞隆的次兄・蘆名義廣為當主的蘆名氏一族天海亦為幫助貞隆而進行斡旋,表達岩城家再興的事情。亦通過母親的仲介而與在關原之戰後不和的義宣和解,義宣在和解後在資金等方面積極地向貞隆再興御家進行援助。 元和六年(1620年)死去,年38歲,戒名圓城院殿雲山宗龍大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E8%B2%9E%E9%9A%86

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