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五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景、佐世元嘉、木造具政、成田長泰、益田藤兼、福原資保、宮部継潤、三雲成持、小野崎従通、大田原資清、志道広良、真田幸昌、豊臣秀頼、伊達実元、内ヶ島氏理、浅利勝頼、安東茂季、寒川元隣、杉重良、桑名吉成、斯波義銀、織田信勝、泉田胤清、百地三太夫、畠山義慶
国分盛氏 Kokubun Moriuji(生年不詳-沒年不詳) 陸奥国宮城郡南部に勢力を持った国分氏の当主である。盛氏が当主となったのは1572年かそのしばらく後と考えられている。伊達氏に圧迫され、1577年に伊達氏から来た伊達政重(国分盛重)を代官として迎え、のちに当主を継がせた。これにより盛氏まで続いた世系は絶えることになった。 盛氏の活動を直接伝える史料はないが、多くの点で食い違いを見せる二系図(佐久間洞巌が編集した「平姓国分氏系図」と古内氏蔵の「平姓国分氏系図」)が宗政・盛氏・ 盛重という系統については一致し、かつ宗政と盛重の実在は確かなので、盛氏の存在も確実視してよいだろう。父は国分宗政。子はなかったとも、盛顕・盛廉・亘理元宗・天童頼貞に嫁いだ娘があったとも言われる。 佐久間編の系図によれば国分九郎盛氏は正六位上弾正忠能登守。古内氏蔵の系図によれば、五郎二郎盛氏といい、能登守。佐久間編の系図によれば、天正9年(1581年)に71歳で死んだというから、生年は永正8年(1511年)となるが、あまり信を置くことはできない。 江戸時代の地誌には、天文年中(1532年 - 1555年)に盛氏が小泉城(若林城の前身または近接地)を居城にしたと伝える。系図では、天文・永禄年間( - 1573年)に戦功がたびたびあったともいい、これは宗政が国分氏の当主だった頃にあたる。 宗政から盛氏への継承には不審な点がある。元亀2年(1571年)の棟札では、能登守宗政と連名で記される国分丹後守宗元が宗政の嫡子ではないかと思われる。しかし翌元亀3年(1572年)に国分能登守は弾正忠を国分名代にすることを伊達輝宗に認めてもらい、隠居した。「名代」が、嫡子への平常の家督相続を意味するとは思われない。棟札の丹後守宗元、名代になった弾正忠、系図上の弾正忠盛氏の関係は不明である。 天正3年(1575年)6月下旬から、相馬盛胤 (十五代当主)が国分氏ら宮城県の旧名家と共に宮城県南部へ攻勢に出ているが、相馬氏はすぐに撤退している。 盛氏の当主としての期間は長く続かず、5年後の天正5年(1577年)に、伊達輝宗は弟の政重を国分に代官として送り込んだ。。政重は国分盛重と改名して、国分氏を継いだ。盛氏が子がなかったため養子を迎えたと伝えるが、佐久間編の系図ではいったん盛顕という子が継ぎ、その後が盛重とする。盛氏の没年についても伝えは一致しない。天正5年(1577年)の継承は盛氏が死んだためとする伝えもあるが、佐久間編の系図は天正9年(1581年)没とする。盛重に対してはこの後家臣からの反発が続いており、盛氏の死か引退に、記録の錯綜にとどまらない混乱があったのかもしれない。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E7%9B%9B%E6%B0%8F
国分盛顕 Kokubun Moriaki(1532年?-1578年?) 国分盛氏の嫡子として家を継ぎ、伊達氏から婿として国分盛重を迎えて家督を譲ったとされるが、史料に錯綜や矛盾があり、真相不明である。実在しない可能性もある。 盛顕について伝えるのは、江戸時代に佐久間義和が編纂した「平姓国分系図」である。それによれば、天文元年(1532年)に国分に生まれ、小字は五郎。父は国分盛氏、母は相模定胤の女。盛氏の長子として生まれ、弟に盛廉がいた。官位として正六位上弾正忠を称した。多弱で子がなかったため、弟の盛廉に後を譲って自らは松森の塁(松森城)に移った。しかるに盛廉が元亀元年(1570年)年3月18日に戦死したため、国分の当主として復帰した。 天正3年(1575年)6月下旬から、相馬盛胤が宮城県南部へ攻勢に出た。国分氏も相馬氏に付いていた。伊達氏と相馬氏の決戦と見られるが、相馬氏は即撤退し、伊達氏優勢の状況となった。 天正5年(1577年)8月に伊達晴宗の9男盛重を養子とし、盛廉の長女と結婚させて家督を譲った。天正6年(1578年)4月14日、47歳で没。礼徳院殿前侍御史朝議郎信徹常法大居士。 ところが、やはり江戸時代に編纂された伊達氏の公式史書「伊達治家記録」は、盛顕にも盛廉にも触れず、盛氏には男子がなかったとする。そのためで伊達氏から婿として国分盛重を迎え、これに家督を譲ったと説明する。古内氏に伝わる「平姓国分氏系図」にも盛顕・盛廉が見えず、盛氏から直接に養子の盛重に継承されたことになっている。 盛重の継承について信頼できる史料として唯一のものは、国分氏の家臣である堀江掃部允にあてて伊達晴宗が出した書状で、そこには九郎を国分に代官として遣わし、堀江に相談させるので何かあったら知らせるように、とある。九郎は彦九郎盛重でよいとして、婿入りではなく代官として国分氏のもとに赴いたとなると、二つの系図も治家記録も伝えない事情がありそうである。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E7%9B%9B%E9%A1%95

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