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三好康長 Miyoshi Yasunaga(生年不詳-1585年?) 三好氏の1人で、初めは甥に当たる本家当主三好長慶の弟で阿波国主の三好実休に仕え、篠原自遁・加地盛時と共に実休の家臣として活動した。永禄元年(1558年)に長慶が京都郊外で室町幕府13代将軍足利義輝・細川晴元と対峙した際は実休ら四国勢の先鋒として畿内に上陸、永禄3年(1560年)の河内遠征でも実休の名代として長慶と対面、永禄5年(1562年)3月の久米田の戦い、同年5月の教興寺の戦いなどで活躍した。実休の死後は拠点を河内高屋城に移し、他の家臣団と協力して実休の遺児長治を支えた一方、茶人としての活動も見られ、津田宗達・宗及父子の茶会に度々出席している。 長慶の死後大甥に当たる三好義継(長慶の甥)が相続したが、三好三人衆と松永久秀が敵対し、家中が割れると康長は三人衆に同調し、永禄9年(1566年)2月の上芝の戦いに参戦、5月に久秀が侵入した堺を三人衆と共に包囲した。しかし、翌永禄10年(1567年)2月に義継が突如三人衆の下から逃れて高屋城から脱出、堺へ赴き久秀と手を結ぶと、康長と安見宗房も久秀側へと鞍替えしたが、永禄11年(1568年)2月には三人衆が担いだ14代将軍足利義栄の将軍就任の祝賀会と考えられる大宴会に出席しており、その頃には義継の元を去っている。この宴会には、阿波三好家の大軍を率いる篠原長房も参加しており、三人衆は松永方の細川藤賢が守る大和信貴山城を落とすなど(信貴山城の戦い)、松永勢を追い込んでいた。 しかし、15代将軍足利義昭を擁立した織田信長が同年9月7日に岐阜を出立、9月25日には大津まで兵を進めると三人衆の軍は崩壊し、29日に三人衆の1人で山城勝龍寺城主岩成友通が降伏、30日に摂津芥川山城で織田軍に抗戦した三人衆筆頭の三好長逸が細川昭元と共に退去、10月2日には三好康長も摂津越水城を放棄した篠原長房らと共に阿波へ落ち延びた。翌永禄12年(1569年)1月に康長は三人衆と共に和泉に上陸、京都本圀寺に滞在していた義昭を襲撃したが、細川藤孝や義継、摂津国人伊丹親興・池田勝正・荒木村重らの援軍に敗れ、再度阿波に逃れた(本圀寺の変)。 しかし、元亀元年(1570年)6月、三好長逸に通じた荒木村重が池田勝正を追放すると、7月21日に康長と三人衆は摂津中嶋に上陸し、野田城・福島城を築城する。織田軍は8月26日から9月23日にかけてこれを攻めるも、石山本願寺の参戦もあり攻城戦に失敗(野田城・福島城の戦い)、更に、9月27日には篠原長房率いる阿波・讃岐の軍勢が兵庫浦に上陸し山城へ向けて兵を進めたが、11月21日に久秀の仲介により長房・康長・三人衆は信長と和睦した。 元亀2年(1571年)5月、松永久秀と三好義継が信長に反旗を翻し、長房・康長・三人衆・荒木村重と共に河内の畠山昭高、大和の筒井順慶、箸尾為綱、摂津の和田惟政を攻めている。更に元亀3年(1571年)中には、将軍・足利義昭も加わり信長包囲網が形成された。 しかし、天正元年(1573年)、長房が三好長治に誅殺され阿波三好家からの支援が絶たれてしまう(上桜城の戦い)。同年7月に義昭も信長に敗れ追放(槇島城の戦い)、続いて11月に義継が討たれ三好本家が滅亡(若江城の戦い)、12月に久秀も降伏し三人衆も壊滅する中、康長は高屋城にあって三好一族の中で最後まで畿内で抵抗を続けたが、天正3年(1575年)4月に松井友閑を通じてついに降伏した(高屋城の戦い)。同年7月、所持していた名物三日月葉茶壷を信長に献上している。その後は、信長から重用されたようで、石山本願寺との和睦交渉の担当や、河内半国の支配を命じられている。 織田家において、康長は四国に強い地盤を持つ三好一族として四国攻略の担当とされ、主な活動の場を四国に移し、安宅信康の勧誘工作、当時長宗我部氏に属して岩倉城主であった子の三好康俊を寝返らせるなど成果を挙げている。ただ常時四国にいたわけではなく、河内領内の都合もあり、頻繁に河内と四国を行き来していたようである。天正4年(1576年)、石山合戦の一環として信長の部将・塙直政の与力とされ本願寺包囲網に加わったが、本願寺の奇襲を受けて逃亡、塙直政は戦死している(天王寺の戦い)。 天正9年(1581年)、康長は四国征伐の先鋒として阿波に再び渡っていたが、この際、信長の3男・神戸信孝を養子とする事が決定され、四国統一の暁には阿波一国を与えられる約束をされたと言う。ところが、翌天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀の手勢に攻撃され横死した為、四国征伐は中止となり、康長は四国から逃亡し河内に帰った。その後は日の出の勢いで四国統一を目前にした長宗我部元親に対抗するため、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に従い秀吉の甥・治兵衛(三好信吉、後の豊臣秀次)を養子として迎えている。なお、康長と治兵衛の養子縁組は信長生前の天正7年(1579年)11月段階で既に実施されており、秀吉-康長ラインと光秀-元親ラインの対立が本能寺の変の一因であったとする説もある。 天正10年9月の紀州・根来寺攻めに参加しているのが最後の従軍記録であり、康長のその後の行方は詳しくわかっていないが、『宗及記』では天正12年(1584年)8月28日に津田宗及の茶会に出席しており、『元親記』では、天正13年(1585年)に秀吉に降伏した元親を出迎えている旨の記載がある。少なくとも、この辺りまでは存命していたものと思われる。 なお、本来の後継者である嫡男康俊は、三好三将と呼ばれる阿波三好家の重臣を謀殺してその首級を手土産に長宗我部氏に寝返った上、康長の四国到来に呼応して再度の反乱を試みたが、失敗して討ち果たされた。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E5%BA%B7%E9%95%B7
不破光治 Fuwa Mitsuharu(生年不詳-1580年?) 家系には諸説あるが、不破隼人藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔・松井蔵人直家の子・直重が不破隼人佐を称したのに始まるとする説がある他、山城国の南宮神社社家の一である松井直家が美濃国不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったとする説がある。 美濃国西保城主。早くから美濃国の戦国大名・斎藤氏に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人と共に西美濃四人衆といわれることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたともいわれているが、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。 『浅井三代記』によると、近江国小谷城へ赴き浅井氏の家臣・安養寺経世と内談して信長の妹・お市と浅井長政との婚約をまとめ、輿入れの際には内藤勝介と共にお市の方に供奉したというが、同書は元禄年間に出版された軍記物で同時代の史料ではないことに留意する必要がある。 永禄11年(1568年)7月、信長が越前国の朝倉義景に庇護されていた足利義昭の呼びかけに応じて上洛を決意すると、和田惟政・村井貞勝・島田秀満と共に義昭を越前まで迎えに赴き、上洛戦で江北が平定されたときも、立政寺で待機していた義昭を迎えに派遣された。 その後は永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦い、元亀元年(1570年)6月の小谷城攻め、同年9月の志賀の陣、元亀2年(1571年)9月の伊勢長島攻め、元亀3年(1572年)4月の交野城後ろ巻き、天正元年(1573年)7月の槇島城の戦い、同年8月の一乗谷城の戦いに参陣した。天正2年(1574年)には、越前の前波吉継が殺害されたのを受け、羽柴秀吉や丹羽長秀らと敦賀へ出陣、同年6月の伊勢長島攻めにも参陣した。 天正3年(1575年)8月、越前一向一揆平定戦に参陣し、一揆平定後に越前8郡は柴田勝家に預けられ、光治は佐々成政・前田利家と共に同国府中の2郡を治めながら、勝家に対する目付を務めることとなって、府中三人衆と呼ばれた。光治は同国竜門寺城を居城とした。以後は勝家の与力としても活動するようになり、天正5年(1577年)8月の勝家を総大将とした加賀国平定戦には、三人衆そろって参陣。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも、勝家に率いられた「越前衆」の一武将として利家らと共に参加していたが、上杉景勝が越中国に侵入して小出城を包囲したとの報せが入り、勝家以下越前衆は直ちに出陣するよう命じられた。 しかし、完全に柴田勝家の指揮下に固定されたわけではなく、天正5年(1577年)2月からの雑賀攻め、天正6年(1578年)11月からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)9月の伊賀攻めに動員されている。 越前国において死去したが、その年月には諸説あり、『戦国人名事典』では天正8年(1580年)12月14日、『美濃国諸家系譜』では天正9年(1581年)11月8日、『織田信長総合事典』では天正9年(1581年)以降、『織田信長家臣人名事典』では天正11年(1583年)頃としている。法名・雲樹道無大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%85%89%E6%B2%BB
中川清秀 Nakagawa Kiyohide(1542年-1583年) 父は高山重清(中川重清、中川佐渡守重清)で、母は中川清村の娘。 父である中川重清は、桓武平氏良文流の後裔である常陸の高山重利の次男とされるが疑問点もある。 高山右近の父・高山友照は、中川清秀の父・高山重清と兄弟であるとされているが、高山友照は摂津出身とされているので、常陸から来たのか、元々摂津出身なのか、それともどちらかが明らかな養子なのか?余計に出自に疑問が残り、良くわからない。 ともあれ、中川清秀の父・高山重清は1535年頃?に常陸から京の都に上って、その後、摂津国に移ると中川清村に仕えたとされる。 その後、主である中川清村の嫡男・中川清照が戦死し、跡取りがなくなった中村清村は、娘と高山重清を結婚させて養子に迎え、このとき、高山重清は平氏から源氏に改め、中川重清と改名した。恐らく、父・高山重清は有能な武将だったのだろう。推測するに、1541年前後と考えられる。 そして、子になる中川清秀が1542年に誕生したのだ。幼名は虎之助。通称は中川瀬兵衛。 中川重清は稲田城主として摂津の小大名となったが、周辺には巨大勢力があり、領土経営は大変難しい状態であった為、池田城主・池田勝正に最初従属。 しかし、1564年、山崎恒政(山崎右馬允)に攻められて敗走。のち稲田城を再興するが、1570年には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降伏。以後、池田氏家臣である荒木村重の重臣として仕えた。 父・中川重清の没年や家督が譲られた時期は不明なので、この頃、既に中川家は中川清秀が率いていたと考えられる。 中川清秀の正室は稍姫(熊田宗白の娘、やや)で、1568年には中川清秀の嫡男・中川秀政、1570年には次男・中川秀成が誕生している。 池田家の一家臣であった荒木村重は、池田城から池田勝正を追いだして池田家を掌握すると、1571年には白井河原の戦いで荒木村重と中川清秀が、茨木城主・茨木重朝と高槻城主・和田惟政を討ち取ると中川清秀が荒木村次を補佐し実質的な茨木城主となった。そして、中川清秀は1577年に正式に60000石の茨木城主となっている。 この荒木村重の活躍に目をつけたのは1568年に上洛を果たした織田信長で、荒木村重は織田信長から厚い信頼を得て摂津一国を任された。 1573年、中川清秀は、柴田勝家が指揮する河内の高屋口の合戦に参加し、宣教師や相手方の首を切り、功をたてた。 1574年11月5日に、荒木村重・中川清秀らは伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を支配。高槻城主となっていた高山右近も、荒木村重の与力として加わったが、荒木村重の活躍もこう言った有能な武将が支えていたことが分かる。 しかし、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や黒田官兵衛・竹中半兵衛・蜂須賀小六らと三木城攻めをしていた1578年7月、荒木村重が戦線を離脱して有岡城(伊丹城)に戻り織田信長に謀反を起こす。 この荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣とする説がある。 荒木村重は、織田信長の使者である明智光秀、松井友閑、万見重元に説得や、高槻城の高山右近の説得も受けて、釈明のため安土城に旅だったが、途中で寄った茨木城で中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹城に戻った。 この事により、織田勢は有岡城を包囲し、有岡城の戦いとなる。 中川清秀や高山右近らも縁故であるということもあって荒木村重に味方し各持ち城にて籠城し、荒木村重は有岡城に篭城。 黒田官兵衛も荒木村重説得の為単身で赴くが、牢に捕えられてしまった。 荒木村重は織田勢に対して徹底抗戦をしたが、中川清秀は10月28日に織田勢と戦わずに降伏し、高山右近も11月に降伏。 荒木村重は圧倒的に不利となったが、1年籠城し翌年1579年9月2日に有岡城は落城した。 領土安堵された中川清秀は、その後、織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の旗下として転戦。 娘である糸姫は、池田恒興の子・池田輝政に嫁いでいる。 1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、高山右近と共に行動し羽柴秀吉勢に合流して、山崎の戦いで主戦力として活躍。 1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも先鋒二番手として参戦。 しかし、大岩山砦を高山右近・三好秀次らと守備していた際に、柴田勝家勢の勇将・佐久間盛政の猛攻を受けた。 中川清秀の家臣、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉らも防戦に奮闘したが、中川清秀の弟・中川淵之助も討死し、中川清秀も自害。享年42。 墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。 この時、命を落とした中川家臣は、中川清秀以外に、中川淵之助熊田孫七資一熊田兵部次矩熊田三太夫資之森本道徳山岸監物重本杉村久助正英森権之助鳥養四郎太夫大田平八菅杢伝兵衛重武野尻出助重英藤井半右衛門田代太左衛門奥彦太夫光英奥彦作奥孫兵衛田能村杢左衛門入江土佐赤井弥次右衛門元定高山総吉桜井河内正利野口新助田島伝次右衛門玄正亡知半。 他には台所人11人仲間御小人20人余雑兵300人となっている。 当時の梅林寺住職・是頓和尚は、中川清秀戦死の報を受けると、すぐさま賤ヶ岳に向かい、遺髪を貰い受けて持ち帰り菩提を弔ったと言う。 中川家の家督は長男・中川秀政が相続して茨木城50000石を継ぎ、その後見人には古田重然がついた。 この古田重然は千利休の死後は天下一の茶人となった人物で「利休七哲」の一人とされ「織部流」開祖で、古田織部と呼ばれた方が有名か?古田重定(茶人である)の子で、妻は中川清秀の妹・せんである。(1569年に結婚) その後、中川秀政は古田重然と共に、小牧長久手の戦いや、四国攻めに参戦し手柄を立て、三木城主13万石となり、1590年の小田原攻めにも2000を率いて出陣している。 しかし、1592年の文禄の役で、朝鮮で鷹狩りの最中に敵兵に包囲されて亡くなった。享年25。 出處 http://senjp.com/nakagawa
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、羽柴秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、津軽為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、羽柴秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路頼綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、分部光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、、
和田惟政 Wada Koremasa(1536年-1571年) 和田惟助的長子、妻為高山友照之女;別名彈正忠、紀伊入道,「攝津三守護」之一。 永祿八年(1565年),將軍足利義輝被家臣松永久秀等暗殺,惟政將出家被軟禁的義輝弟.覺慶(足利義昭)和仁木義政一起從一乘院救了出來,暫時躲藏在自己的宅邸,之後跟隨流浪的義昭。在越前國的朝倉義景、尾張國的織田信長的援助下,還俗的義昭就任第15代將軍,就從信長處獲得了攝津國芥川山城,之後又被給予高槻城,惟政和池田勝正、伊丹親興共同被足利義昭任命為攝津國的守護,三人被稱作「攝津三守護」。 之後惟政在作為足利幕臣大力參與京都周邊外交與政治的同時,作為織田氏家臣也參與信長的政治及會戰,擔任義昭和信長之間的橋樑的職務。特別是永祿十二年(1569年)10月,惟政作為向信長請求援軍的播磨國赤松氏的援軍,參加了攻擊備前國浦上氏的戰役。 在那之後,惟政在因事前往美濃國的信長處的途中,收到信長傳來的蟄居的命令。據路易斯.弗洛伊斯(Luís Fróis)稱惟政受到的是「不允許接見」、「破壞近江國內惟政所擁有的城市」「沒收收入中的2萬Cruzado(葡萄牙幣)」這類嚴厲的處罰。雖然弗洛伊斯的記錄認為這是朝山日乘向信長誣陷惟政的結果,但可以推測出同時期信長和足利義昭的關係惡化才是最大的原因。惟政對此剃髮抗議。 元龜元年(1570年)惟政在京城謁見正要攻擊越前的信長後,信長恢復了他的地位。據弗洛伊斯稱有增加3萬Cruzado的俸祿。同年6月,作為織田氏一方參加了姊川之戰。11月,面對變成多方敵對勢力的形勢,信長利用將軍義昭的權威與六角氏和解,惟政曾與在六角氏下同樣作為甲賀當地國人眾的三雲成持.三雲定持之間有密切聯繫,在這次與六角氏的和解中扮演重要角色。 元龜二年(1571年)白井河原之戰中和伊丹氏、茨木氏討伐與松永等三好三人眾聯盟的池田知正,惟政誤計了敵人的數量,下令突進,未曾料到正好被埋伏在山麓的池田氏家臣荒木村重包圍戰死,時年42歲。 後話 惟政死後不久,兒子惟長一直存有為亡父報仇的念頭。元龜四年(1573年)三月,惟長殺了親荒木派叔父和田惟增。兔死狐悲,與惟增同為親荒木派的家老高山右近重友深覺危險,立刻通報村重,村重指使高山右近在城發動叛亂,同時自己也出兵高槻呼應。右近與惟長在城中互鬥,雙方都負了傷,結果荒木一黨和高山右近佔據了高槻城,惟長逃亡伏見,不久死去,和田氏走向沒落。 惟政在自己的領地上熱心地保護基督教的事在弗洛伊斯著的『日本史』上有詳細的記載。惟政除了在弗洛伊斯會見織田信長的時候擔任中間人,還為了不讓武士去教會住宿積極地做武士的思想工作,在皇宮發出伴天連(基督教)驅逐令的綸旨後想使其撤回,硬要讓傳教士坐自己的上座等對基督教非常熱忱。還很積極地協助畿內的基督教傳教。但是,因為惟政自身在接受洗禮之前就​​戰死了,對於他的死弗洛伊斯很是哀嘆。再者,有惟政在遇到基督教之前屬於禪宗的說法。 出處#1 http://baike.baidu.com/view/898047.htm 出處#2 http://baike.baidu.com/view/1056949.htm
56 佐々陸奥守成政、36 山中鹿之助幸盛、95 黑田孝高(室田勘解由次宦孝高)、99 豊臣秀次、22 平手汎秀(平手監物)、48 菜籐利基入道立本、94 湯浅吾助、11 筒井陽舜坊順慶、82 後藤又兵衛基次、12 音川兵部大輔藤孝、49 明智左馬助光春、63 菊川治部大輔元春、30 坂井久蔵尚恒、04 武田大膳大夫晴信入道信玄、25 浅井備前守長政、59 林半四郎武俊、佐々木六角承禎、50 上杉不識院謙信、81 木村又蔵正国、76 森三左エ門可成、67 山本勘助晴幸入道、62 古早川左衛門督隆景、38 荒木摂津守村重、33 福島左衛門太夫正則、89 森本儀太夫、60 井上大九郎、55 齋藤代八郎利次、37 尼子四郎勝久、79 大谷刑部少輔吉隆、42 桜井佐吉、26 朝倉左衛門尉義景、09 齋藤竜興、03 今川治部大輔義元、65 安芸中納言照基、40 嶋左近友之、66 森蘭丸長康、50 山路将監満国、43 石川兵助貞友、84 蒲生宰相氏郷、15 長九郎左衛門連竜、100 豊臣秀吉、85 真柄十郎左衛門直澄、06 齋藤山城入道道三、58 糟屋内膳正武則、43 合郷左衛門久盈、78 八菅與六正勝、41 根来小水茶、17 中川清秀、02 北条氏康、86 亀田大隅、83 新納忠元、91 清水宗治、千場田修理進辰家、39 加藤嘉明、34 毛受勝照、53 明石全登、45 鈴木飛騨守重幸、87 岸田光成(石田三成)、54 齋藤利三、18 松田尾張守、44 伊木半七、90 鈴木豊人、32 志村政蔵勝豊、72 長宗我部元親、31 遠藤直經、52 又兵衛政明、35 滝川一益、16 和田惟政、46 鈴木孫市、48 安田国継、19 松下之綱
朝山日乗 Asayama Nichijo(生年不詳-1577年) 日蓮宗の僧,荒廃した皇居の修理費を勧進する念願を上奏し、後奈良天皇から日乗上人の号を賜ったという。日乗朝山(にちじょうちょうざん)とする説もあるが、朝山左衛門という弟が『言継卿記』に見えるため、朝山は姓であろう。諱は善茂。 彼の前半生については良く分かっていない。「フロイス日本史」によれば、次のような経歴であったとされる。 “彼には妻子があったが、貧乏のため彼女に離縁状を与えたのはそう幾年も前のことではなかった。ついで彼は兵士となり、その職にあって幾多の侵略とか殺人の罪を犯し、それらの犯罪による恐怖心から、衣服を変えはしたが習慣を変えようとはしなかった。そこで彼は羊の皮を着、僧侶となって国から国へと遍歴した。そして彼は尼子の国主に叛逆を働いたために、そこから山口の国(=周防)に逃亡した。” また地下家伝では、出雲国朝山郷の領主で尼子家臣だった朝山慶綱の子とされる。これらの事から出雲国出身で尼子氏の関係者であったと推測される。そのほか、比叡山で学んでいた時期もあるという(後述)。 山口についた日乗は毛利氏に気に入られ、小さな僧院を建立した。建立の資金は、かつての遍歴中、唐物の金襴の布着れを「天皇からたまわった天皇自身の衣服だ」と偽って販売して得たものだったという。 その後、京に移った日乗は、松永久秀と三好三人衆の戦いに介入しようとし、毛利氏からの書状を久秀に届けようとして三好方の間諜に捕まった。三好家臣・篠原長房は日乗を堺に監禁した。首に鎖をつけ、両袖に1本の長い木を通し、手首をその木に縛り付けて磔のような格好にし、与えられる食事もわずか、という状態で100日以上も過ごさせたという。だが日乗はこの状態にありながら弁舌をもって周囲の人を動かし、法華経8巻を入手して近隣の人々に読み聞かせ、施しを得ていた。 永禄11年(1568年)、織田信長が上洛すると三好三人衆は退却し、日乗は自由の身となった。日乗の罪状は勅命によって許され、4月16日に参内して朝廷に物を献上したという。7月10日には近衛前久邸で法華経の講釈をしている。これを機に日乗は信長に接近していく。 永禄12年1月、征夷大将軍となった足利義昭は、毛利元就と大友宗麟を和睦させようとし、松永久秀もこの動きに協力する。日乗は久秀の使者として吉川元春の元に赴いている。この春、信長によって村井貞勝とともに皇居の修理を命じられているが、フロイスによれば日乗はこの頃から「すでにあらゆる諸貴人に知られていた」という。 4月19日、日乗は信長にキリスト教宣教師の追放を進言した。だがこれに先立つ4月8日、信長はすでに宣教師に滞在と布教を許可した朱印状を与えており、却下された。 4月20日、日乗は、信長を訪ねてきたルイス・フロイスおよびロレンソ了斎にキリスト教の教えについて訪ね、信長の面前で宗論となった。日乗は1時間半ほど教えについて質問を重ねていたが、途中で怒って刀を抜こうとし、取り押さえられた。この宗論の中でロレンソは、日乗が比叡山で心海上人という人物に教えを受けていた事について尋ねており、日乗もこれを肯定している。また、宗論では信長もロレンソにいくつかの質問をしている。 翌4月21日、日乗は岐阜に帰ろうとする信長に再び宣教師の追放を進言したが、これも却下された。 またキリシタンであった和田惟政を陥れようとして失敗し、天正元年(1573年)頃に信長の寵を失って失脚した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%B1%B1%E6%97%A5%E4%B9%97
松永久秀 Matsunaga Hisahide(1510年-1577年) 父母不詳、正室為三好長慶之女.松永女房、繼室為廣橋兼秀之女.廣橋保子、側室為小笠原成助之女;通稱松永彈正,別名霜台、號道意,戒名妙久寺殿祐雪大居士。 早年 久秀出身記載不明,一說出生於永正七年(1510年),出生地有阿波國、山城國西岡、攝津國五百住等多種說法,出仕前身份可能為商人、國人眾或三好長慶的寵童,甚至有觀點認為久秀與齋藤道三是舊相識。 三好家臣 天文九年(1540年),久秀成為細川晴元部下三好長慶的右筆,在天文十一年(1542年)有作為武將在山城國南部出陣的記錄。久秀作為三好長慶的親信,深得長慶的信任。天文十八年(1549年),三好長慶將細川晴元及足利義晴、義輝驅逐至近江國,成功控制京都後,久秀出任三好氏家宰。天文二十年(1551年),久秀與弟弟松永長賴在相國寺之戰中擊敗三好政勝、香西元成。三好長慶平定攝津國後,天文二十二年(1553年),久秀出任攝津國瀧山城城主。同年,與弟弟松永長賴進攻丹波國的波多野晴通,再次擊退三好政勝、香西元成的援軍。弘治二年(1556年),被任命為京都奉行,獲得彈正忠的官位,後又迎娶三好長慶的女兒作為正室。 永祿二年(1559年),三好長慶委任久秀攻取大和國。9月,久秀將居城移至大和國信貴山城。永祿三年(1560年)6月,三好長慶征討河內國,久秀率軍封鎖信貴山城與河內國之間的道路。11月,久秀平定大和國北部,在信貴山城營造四階櫓天守閣,同年又攻破興福寺,成功控制大和一國,三好家勢力達到全盛期。久秀因為攻取大和國的功績獲得極高的地位,他自稱為藤原氏、源氏的後代,被授予從四位下.彈正少弼的官位,與三好長慶的嫡子三好義興一起擔任將軍足利義輝的相伴眾,並獲得足利義輝的允許,可以使用帶有自己家紋的塗輿。 篡奪主家 永祿四年(1561年),久秀與三好義興在將軍地藏山之戰中敗於六角義賢軍。 畿內霸主三好家自永祿四年(1561年)開始接連遭受打擊,逐漸走向衰落。這一年,有「鬼十河」之稱的三好長慶的四弟十河一存與久秀在有馬溫泉療養時突然死亡。據說當時十河一存騎一匹葦毛馬,久秀探望十河一存時說此馬不祥,但十河一存沒有聽從久秀的勸告,在乘馬前往有馬溫泉的途中墜馬身亡。也有觀點認為十河一存與久秀長期不睦,他的死是久秀下的毒手,但這種觀點尚無確切證據。 永祿五年(1562年),三好長慶的二弟三好義賢在久米田之戰與畠山高政、根來眾交戰中戰死。畠山高政乘勝包圍三好長慶的居城飯盛山城,三好長慶在三好一門眾及久秀、筱原長房等重臣聯軍的幫助下,成功解圍,並在隨後的教興寺之戰中大敗畠山高政聯軍。10月,久秀奉命成功討伐背叛三好長慶的幕府政所執事伊勢貞孝、貞良父子。同年,久秀又在大和國營造多聞山城,大和國人十市遠勝降服。但教興寺之戰的勝利只是迴光返照,悲劇仍然不斷地降臨在三好家。 永祿六年(1563年)9月,三好長慶最為器重的嫡子三好義興在芥川山城突然死亡,有觀點認為久秀害怕三好家出現一位出色的接班人,因此毒殺三好義興,接連遭受喪親之痛的三好長慶隨後一病不起。12月,久秀將家督讓與嫡子松永久通後宣布隱居,但仍掌握實權。永祿七年(1564年),久秀向三好長慶進讒言,誣陷三好長慶的三弟安宅冬康謀反,三好長慶隨後將安宅冬康召至飯盛山城命其切腹。同年8月10日,三好長慶病逝,一說他被久秀或三好三人眾毒殺。三好長慶死後,他的養子三好義繼繼承家督,而家中實權則落入久秀及三好三人眾手中。 永祿之變 三好長慶死後,作為室町幕府征夷大將軍的足利義輝致力於恢復幕府的榮光,他一方面向劍術家塚原卜傳、上泉信綱學習劍術,成為劍豪將軍;另一方面積極調停大名之間的衝突,這引起久秀和三好三人眾的不安。永祿八年(1565年)6月17日,久秀和三好三人眾以參拜清水寺為名,向京都集結約1萬人的軍隊,隨後襲擊將軍官邸二條御所。足利義輝雖奮力迎敵,斬殺多人,但無奈叛軍人數眾多,自身受傷多處,最後被長槍刺死,足利義輝的三弟足利周暠也遭到殺害,母親慶壽院自殺身亡,這場震驚日本的謀殺行動史稱永祿之變或永祿大逆。久秀和三好三人眾隨後立足利義維之子足利義榮為傀儡將軍,而足利義輝的二弟、在興福寺出家的覺慶在細川藤孝、一色藤長等人的幫助下,投靠近江國的和田惟政,後輾轉前往越前國投奔朝倉義景,還俗後改名為足利義昭。 爭奪畿內 永祿之變過後半年,久秀與三好三人眾迅速反目。永祿八年(1565年)12月,三好三人眾率軍襲擊久秀控制下的飯盛山城,三好義繼被迫到高屋城避難。得到主公三好義繼、三好康長、安宅信康等三好一門眾支持的三好三人眾聯合大和國人筒井順慶,又向將軍足利義榮徵得討伐令。陷入孤立的久秀隨後與畠山高政、安見直政及根來眾結盟。永祿九年(1566年),雙方在堺近郊交戰,上芝之戰爆發,久秀不敵逃亡至堺,筒井順慶趁勢奪回筒井城。但久秀隨後邀請堺的豪商津田宗達作為調停人,雙方達成合議。 永祿十年(1567年),不滿作為傀儡的三好義繼投奔久秀,三好三人眾於是聯合筒井順慶等反松永勢力向大和國進兵,隨後在東大寺布陣。同年11月19日,久秀與三好義繼聯合軍夜襲三好、筒井聯軍,雙方交戰時東大寺被戰火燒毀,由於大火迫使三好、筒井聯軍撤兵,久秀取得勝利,但東大寺是否被久秀主動放火燒毀尚存爭議。 久秀雖然取得東大寺之戰的勝利,但與實力強大的三好三人眾交戰時仍處於劣勢。永祿十一年(1568年)7月,信貴山城被攻克,久秀被迫據守多聞山城。當久秀即將敗亡的時候,上洛的織田信長挽救他的命運。 背叛信長 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁立足利義昭上洛,三好三人眾不敵,敗逃至阿波國。久秀與嫡子久通和三好義繼在芥川山城迎接織田信長,久秀向織田信長獻上名茶器九十九發茄子和名刀天下一振之吉光,並允諾獻出人質,以此為條件,向織田信長降服。織田信長則許諾赦免久秀殺害將軍足利義輝的罪名,並答應幫助他奪回大和國的支配權。在得到細川藤孝、和田惟政和佐久間信盛2萬援軍的幫助下,久秀展開反攻。次年,大和國被平定,筒井順慶的勢力遭到驅逐。 永祿十三年(1570年),織田信長出兵討伐越前國的朝倉義景,卻在途中得知妹夫淺井長政背叛的消息。織田信長腹背受敵,被迫分散撤退。在撤退過程中,久秀成功說服近江國的朽木元綱,讓信長順利通過他的領地返回岐阜城。同年,久秀將自己的女兒過繼為織田信長的養女,隨後送往三好三人眾處作為人質,雙方達成和解。 元龜二年(1571年),不甘心成為傀儡將軍的足利義昭聯合武田信玄、淺井長政、朝倉義景、本願寺、三好氏、六角義賢及延曆寺組成信長包圍網。久秀起兵響應,聯合三好義繼發動叛亂,但在進攻筒井順慶的領地時反遭擊破(辰市城之戰),松永、三好聯軍大敗,筒井城、高田城等城池相繼被奪,最後在佐久間信盛、明智光秀的仲介下,雙方議和。隔年3月,久秀又連和三好義繼攻打町山昭高的交野城,織田信長派遣柴田勝家等人支援下,久秀跟三好義繼棄戰退兵(交野城之戰),元龜四年(1573年),武田信玄病死,信長包圍網破裂。在反織田勢力逐個被消滅的背景下,久秀親自前往岐阜城,向織田信長獻出多聞山城和不動國行之刀等寶物表示降服。 身亡 天正四年(1576年),久秀隨佐久間信盛參與石山合戰。但在次年,久秀的宿敵筒井順慶被織田信長授予大和守護的職位。9月,久秀撤回協助信長進攻石山本願寺的兵力,並呼應上杉謙信、毛利輝元、本願寺等反織田勢力,據守於信貴山城再次反叛。織田信長派松井友閒安撫,但久秀拒絕降服。 織田信長得知消息後,下令將久秀作為人質的兩個孫子在京都六條河原處死,隨後以織田信忠為總大將,筒井順慶、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝為副將,率軍4萬包圍信貴山城。一說織田信長多次派人勸說久秀獻出茶器古天明平蜘蛛投降,但遭到久秀的拒絕。久秀本想依靠信貴山城的堅固進行防戰,但前往本願寺求援的家臣森好久卻被筒井順慶用金子三十兩收買,作為奸細入城的200名織田軍鐵炮隊在三之丸叛變,織田軍迅速攻破城池。久秀隨後在信貴山城的天守閣放火,久秀、久通父子二人切腹或投火自盡。另一個流傳甚廣的說法是久秀將炸藥放入古天明平蜘蛛,點燃炸藥爆炸身亡。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
毛屋武久 Keya Takehisa(1554年-1628年) 近江国神崎郡で田原長久の嫡男として生まれたが、織田信長と六角義賢の戦いで父親が戦死したため、幼い「田原虎千代」は六角氏に仕えた書家建部賢文に養育された。元亀2年(1571年)、田原金十郎と名乗り和田惟政に仕えるが、同年のうちに惟政が織田信長に倒されたため、近江国に戻って山崎片家に仕えた。近江の在地勢力である山崎氏は六角氏の配下であったが、情勢を鑑みて織田氏に転属した。 柴田勝家の家臣となった金十郎は、長篠の戦いに参加した際に敗走する味方の蒲生氏郷の軍勢を救出している。また、越前国毛屋畠の一揆を鎮圧した際には、勝家から300石を賜り、その地名に由来する「毛屋」の姓を与えられ、以降「毛屋主水正」と名乗るようになった。その後、賭博疑惑をかけられたため、毛受勝照の力添えを得て勝家の元を退去し、能登の前田利家に3年間80石の扶持をもらって匿ってもらう。天正6年(1578年)の有岡城の戦いには織田方の雑兵として参戦。天正8年(1580年)、摂津国の池田恒興に700石で仕える。天正11年(1583年)、池田家が美濃国大垣城主となった際に致仕し、佐々成政に仕えた。 天正16年(1588年)、肥後の統治に失敗し、国人一揆を引き起こした引責で成政が改易されると、他の佐々旧臣らと共に豊前中津17万石を与えられていた黒田長政に300石で仕官した。天正18年(1590年)、奥州会津42万石の大名となった蒲生氏郷は、若き頃の恩を理由に歴戦の士である毛屋主水を1万石で登用したいと打診したが、主水は「黒田家は唐入り(文禄・慶長の役)が決まっており、その前に退去することはできない。無事に帰ることができたら蒲生家に移籍する」として断っている。唐入りの戦場では経験を基にして数々の戦功を立て、無事に帰還したが、長政の妨害に遭い、蒲生家への転属は行われなかった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦時より黒田家の旗奉行を務めた。また、関ヶ原の合戦により加増を受け、都合700石となり、益田正親の組下に入れられた。大坂の役にも高齢ながら従軍している。 元和6年(1620年)、大坂城の普請に当たる。元和8年(1622年)、菅正利の子・重利に「主水正」の称号を与えるため、長政の命により「武蔵守」を称することとなる。寛永3年(1626年)、子の毛屋武重に家督を譲る。 中風を患った後、剃髪して文賀と号した。寛永5年(1628年)10月26日、病を得て死去。75歳。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%B1%8B%E6%AD%A6%E4%B9%85

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