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原虎胤

成長類型:中庸型、統率型、武勇型、知略型、政治型、万能型、万能統率型 成長類型:万能武勇型、万能知略型、万能政治型、勇将型、勇将射撃特化型、勇将槍特化型、勇将騎馬特化型 成長類型:猛将型、猛将射撃特化型、猛将槍特化型、猛将騎馬特化型、文官型、外交僧型、宰相型 成長類型:軍師型、副将型、軍団長型、梟雄型、海戦名人型、籠城型、籠城達人型 成長類型:築城名手型、女性型、女武将型、薄幸美人型、良妻賢母型、女戦国大名型、くのいち型 成長類型:夜叉型、鬼型、虎型、捨て奸型、信仰心型、大筒型、鉄甲船型 成長類型:下忍型、忍型、上忍型、剣豪型、不幸型、幸運型、明智光秀型 成長類型:井伊直政型、石田三成型、今川義元型、上杉謙信型、織田信長型、織田信秀型、片倉小十郎型 成長類型:加藤清正型、蒲生氏郷型、吉川元春型、黒田官兵衛型、高坂昌信型、小早川隆景型、鈴木重秀型 成長類型:斎藤道三型、榊原康政型、佐久間信盛型、真田昌幸型、真田幸隆型、真田幸村型、島津家久型 成長類型:島津義弘型、滝川一益型、武田信玄型、武田信虎型、竹中半兵衛型、立花宗茂型、伊達政宗型 成長類型:長宗我部元親型、藤堂高虎型、徳川家康型、豐臣秀吉型、長尾為景型、原虎胤型、古田織部型 成長類型:北条氏綱型、北条氏康型、北条綱成型、細川忠興型、堀秀政型、本願寺顯如型、本多忠勝型 成長類型:前田慶次型、前田利家型、毛利隆元型、毛利元就型、最上義光型、山県昌景型 成長類型:山中鹿之介型、阿国型、ガラシャ型、帰蝶型、小松姫型、立花誾千代型
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三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、石川利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、木造雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、長尾景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部政直、南方就正、二階堂盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢沢頼綱、薬丸兼将、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐続光、里見義頼、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顕宗、伊達政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顕村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶広、蠣崎守広、蠣崎盛広、龍造寺家晴、富田氏実、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稲富祐秀、支倉常長、秋山信友、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、渋江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志駄義秀、平林正恒、神保氏張、滝野吉政、蜷川親長、井戸良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豊永勝元、長寿院盛淳、横山喜内、向井正綱、北条早雲、太田道灌、尼子経久、今川氏親、長尾為景、浅井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、本願寺蓮如、宮本武蔵、佐々木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧源太、南光坊天海、森蘭丸、簗田政綱、毛利新助、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林羅山、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田辺勝成、黒沢道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景広、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、関盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直頼、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南条元忠、南条元清、石野氏満、有馬則頼、有馬豊氏、赤松則英、赤松広秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戸元続、福原広俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷義治、大野治房、大野治胤、奥村長福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、吉弘統増、松平家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長頼、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章
三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、滝川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、上杉景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家
北條綱成 Hojo Tsunashige(1515年-1587年)福島正成的長子?,北條為昌的養子,正室為北條氏綱之女.大頂院;幼名勝千代,通稱孫九郎,受北條氏綱偏諱「綱」字,名為綱成,號道感,渾名地黃八幡。大永元年(1521年),在飯田河原之戰中,父親正成等一族人大多數被武田方的原虎胤討取,於是在家臣陪同下前往小田原城接受北條氏綱保護並擔任近習。另有說法指在天文五年(1536年),正成在今川家的內紛花倉之亂中,因為支持今川義元的異母兄玄廣惠探而被討伐,因此前去投靠氏綱。北條氏綱相當喜愛綱成,把女兒嫁給綱成而令綱成成為北條家的一門,並賜予北條姓。綱成的名稱是以氏綱的「綱」字與父親正成的「成」合一。擔任氏綱之子北條為昌的後見人,在天文十一年(1542年)為昌死後,年長的綱成在形式上成為為昌的養子而擔任第3代玉繩城城主。但是在黑田基樹的著作『北條早雲とその一族』中,沒有叫作上總介正成的人物存在,在小和田哲男的『今川氏家臣團の研究』中,亦沒有福島上總介正成的名字在古記錄上出現,在古文書中亦沒有這個名字。因此,關於綱成的父親是誰人,黑田基樹在同書中推測是在大永五年(1525年)的武藏白子濱合戰中戰死、名叫伊勢九郎(別名櫛間九郎)的人物,下山治久亦在『後北條氏家臣團人名辭典』中說明,名叫櫛間九郎的人物是綱成父親的可能性非常高。天文六年(1537年),一開始與上杉家戰鬥,以後在各地轉戰。擔當北條氏的「北條五色備」中的「黃備」。天文十年(1541年),北條氏綱死去後,北條氏康繼任家督,但是對綱成的信賴沒有改變。天文十五年(1546年)的河越夜戰中,指揮長達半年多的籠城戰後,與北條本軍呼應並向敵陣突擊,為北條軍大逆轉勝利立下大功。因為這次功績而兼任河越城城主。後來以北條家中隨一猛將而活躍著,在與里見義弘戰鬥的國府台合戰中率領奇襲部隊擊碎里見軍,與武田信玄戰鬥的駿河深澤城之戰中以寡勢與武田軍激戰,令信玄都為之感嘆。元龜二年(1571年)10月,北條氏康病死,綱成亦把家督之位讓予兒子北條氏繁並隱居,剃髮而改名為上總入道道感。天正十五年(1587年)病死,年七十三歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%A2%9D%E7%B6%B1%E6%88%90
千葉昌胤 Chiba Masatane(1495年-1546年)永正二年(1505年)昌胤在千葉妙見宮元服,年十歲。同年,祖父千葉孝胤病死(歿年有其他說法),繼承家督之位的父親勝胤,據說為了昌胤的未來,已經有讓位的想法。四年後,隨著父親勝胤隱居出家,昌胤繼承家督之位,但勝胤仍然保有家中的實權。此時,和千葉氏有著同盟關係的古河公方家中發生內亂,足利高基流放父親足利政氏、弟弟足利義明,就任古河公方之位。之後,治理鄰國上總國的真裡谷信清將足利義明迎入家中,此舉和支持著足利高基一方的千葉氏之間也產生微妙的變化。永正十七年(1520年),足利義明軍奪取千葉氏的首席重臣原友胤(原虎胤之父)的居城小弓城;翌年,義明自封小弓公方(年代有其他說法)。因此,連千葉氏的發跡地亥鼻城都遭到小弓公方的勢力所滲透,也使得嫡子千葉利胤的成人禮無法在居城佐倉城舉行。於是,昌胤和當時勢力急速擴展的相模國後北條氏聯手,對抗小弓公方一派。此外也將妹妹嫁予陪臣高城胤吉(原氏家臣)而收為親信。享祿五年(1532年),父親勝胤過世,完全掌握家中實權的昌胤,為嫡子利胤迎娶北條氏綱之女為正室,而和支持小弓公方一派的里見氏里見義堯呈現對抗的態勢。但是這個時期的千葉氏,做為古河公方旗下的勢力,還能堅持著和後北條氏對等的立場。天文六年(1537年),為慶祝高城胤吉的居城小金城落成而親自前往祝賀,藉著茶會的名義和胤吉一同前往國府台城探查。翌年,小弓公方足利義明為討伐北條氏,掀起第一次國府台之戰,昌胤也奉古河公方足利晴氏(足利高基嫡子)之命,和高城胤吉一同參戰。在得知義明戰死的消息後,昌胤率兵進駐小弓城,在睽違18年後,重新取回小弓城。但是,也因為此戰的結果,北條氏的勢力侵入房總半島,對千葉氏造成的影響也逐漸擴大。天文十五年(1546年)昌胤過世,年五十二歲;昌胤死後,千葉氏實質上已形同北條氏的家臣。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E6%98%8C%E8%83%A4
原虎胤 Hara Toratane(1497年-1564年)原友胤之子,受武田信虎偏諱「虎」字,名為虎胤,別名虎種、號清岩,渾名鬼美濃、夜叉美濃,位列武田五名臣之一。原氏為下總國千葉一族一門,父親友胤為千葉當主千葉勝胤(千葉昌胤之父)的重臣;永正十四年(1517年),友胤的居城小弓城,被足利義明與上總真里谷信清的支援下所奪,友胤父子逃難到甲斐國投靠武田信虎,成為武田氏家臣。父親友胤投靠信虎之後屢建功績,虎胤也受武田信虎賜予「虎」字,開始活耀於足輕隊的一將。大永元年(1521年),虎胤於甲斐飯田河原戰中,擊敗今川軍的福島正成(北條綱成的實父,但有異說)而獲得功績。天文十年(1541年),信虎遭到其子武田信玄追放,和其他被新登用的家臣如板垣信方等國人眾不同,虎胤與信虎關係非常良好;在信濃得知信虎被流消息後急忙返回甲斐,向板垣信方和甘利虎泰猛烈抗議。之後虎胤轉為效力信玄,由於與小笠原氏交戰表現活躍,被任命為平瀨城城主,受到信玄的重用。天文二十二年(1553年)因為日蓮宗信徒(法華宗派系)與淨土宗信徒的紛爭,虎胤為法華宗的信徒,當時信玄希望虎胤能改為淨土宗,但虎胤不肯,因而離開甲斐到相模依附北條氏達四年之多。翌年,經過「善德寺會談」之後,甲相駿三國同盟,虎胤於弘治三年(1557年)再次成為武田氏家臣。在歸回之際,北條氏康對虎胤的離去相當惋惜。永祿二年(1559年)信玄出家剃髮,虎胤一同剃髮,號清岩。同年,虎胤於信濃割ヶ嶽城攻略時,受到槍傷而離開前線作戰行列,直到永祿四年(1561年)攻下割ヶ嶽城及第四次川中島之戰,虎胤沒有再參與作戰。永祿七年(1564年)病死,年六十八歲。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E8%99%8E%E8%83%A4
多田満頼 Tada Mitsuyori(生年不詳-1563年)甲斐武田氏家臣で足軽大将。武田信虎・武田信玄の2代に仕える。三八・三八郎、淡路守。諱は『寛永諸家系図伝』に拠れば「昌澄」、『甲斐国志』人物部第五に拠れば「満頼」としているが、文書上からは確認されない。法名は宗樊。妻は不詳だが、『寛永諸家系図伝』に拠れば土屋昌続の妹とする説がある。子は『甲陽軍鑑』に拠れば新蔵・久蔵、『寛永諸家系図伝』に拠れば新八郎(八右衛門)、昌俊とされる。また、同じく武田家の足軽大将である治部左衛門も縁者と考えられている。後代には武田の5名臣に含まれる。摂津源氏一族の多田源氏後裔と称し、源頼光の孫の多田頼綱或は、源満仲の弟の源満季の子孫というが、系譜は詳らかではない。『甲陽軍鑑』に拠れば、美濃国の生まれで、弓矢修行のため甲斐国に渡り武田信虎に仕え足軽大将となったという。晴信にも仕え、二十九の武功を挙げ、全身に二十七カ所の傷があったする逸話を持つ。原虎胤、横田高松、小幡虎盛、山本勘助とともに五人衆と称されたという。預けられた足軽・同心数は不明。確実な記録資料上においては、天文16年(1547年)8月の信濃国佐久郡・志賀城攻めにおいて活動が見られ、関東管領・上杉憲政の援軍との小田井原の戦いにおいて板垣信方らと活躍している(『勝山記』)。翌天文17年(1548年)には信濃守護・小笠原長時との戦いにおいて信玄から感状を受けている。『甲斐国志』においては、三八郎が信濃虚空蔵山砦(長野県上田市塩尻)を警護していた際に地獄の妖怪「火車鬼」を退治したという伝説や、山梨県甲府市湯村の湯村温泉で天狗を倒した鬼の湯伝説が残っている。永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いの頃は、既に病床にあり、自分の代わりに息子を参戦させている。その2年後の永禄6年(1563年)に病死。長野県諏訪郡富士見町境には多田淡路守の居城とされる先達城が所在し、近在の常昌寺には墓所がある。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E7%94%B0%E4%B8%89%E5%85%AB%E9%83%8E
太田康資 Ota Yasusuke(1531年-1581年)天文17年(1547年)ごろに父資高が死去すると家督を継ぎ、江戸城代となる。康資の妻は遠山綱景の娘(法性院)であるとされ、一旦北条氏康の養女となったのちに嫁いでいる。また、康資の所領は約2千貫(うち直轄領は半分弱)であったが、これは北条氏家臣では第6位の貫高に相当する。これらの配慮から、氏康は康資の待遇をかなり高い位置に置いていたとも見られる。しかし、所領役帳には格式の高い国衆には「殿」が付けられているのだが、康資の本領は931貫384文であるにも拘らず、彼の名前の後には付けられていない。故に家臣化していて、江戸地域において影響力は低下していたものとも考えられる。康資は武勇に優れていたと伝えられ、天文23年(1554年)に北条氏が駿河国で甲斐武田氏と戦った際には原虎胤の隊を撃退するなどの活躍を見せている。しかし、与えられた恩賞が少なかったことなどから不満を抱き(一説には曽祖父道灌が築城した江戸城の城主になれなかったことを不満に思っていたともされる)、1562年、同族の太田資正を通じて上杉家への寝返りを画策する。この寝返りは、北条方の資料には、資正や里見氏が進めた寝返りであるともいう。しかし、この寝返りは失敗し、同年10月に彼は資正の元に逃亡する。これに対して翌年に入ると氏康が武蔵松山城を攻略し、その勢いに乗じて資正・康資攻撃を計画したため、上杉謙信は自身側についている数少ない武蔵国人である両名の救出を、安房、上総、下総の領主である里見氏に要請、里見家当主であった里見義堯はこれに応じ、嫡男義弘を総大将とする大軍を派遣、義弘は国府台城に入る。1564年初頭、北条と里見、太田連合軍は激突。第二次国府台合戦であるが、北条に大敗。康資はそのまま里見氏の庇護を頼り安房に逃亡。その後も北条と戦い続けるも、1581年の里見氏の家督争いのさいに起こった正木憲時の反乱に巻き込まれ、正木憲時に加担したということでともに小田喜城で自害したとも言う。一説には資正とともに佐竹氏に逃げたとも言われ、国府台以降の経歴は曖昧である。なお、徳川家康が寵愛した側室である英勝院は、康資の娘とする説がある。また、1591年に佐竹氏に追われて逃げた江戸重通の娘が、康資の養女となったという説もある。この説だと、先ほどの1581年没説はおかしいということになる。そして、江戸時代に5万石を領した太田氏は、英勝院の親類であるという。つまり、太田氏の流れはここで不明となる。太田氏の家系図は信憑性が低いとされているものが多く、太田資宗の代に改竄があった可能性が高いとされている。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%BA%B7%E8%B3%87
小幡昌盛 Obata Masamori(1534年-1582年)小畠虎盛(小幡虎盛)之子,妻為原虎胤之女;通稱又兵衛,別名豐後守,假名孫十郎(孫次郎?);與父虎盛同為武田二十四將之一。據『甲陽軍鑒』,小幡氏一族為遠江出身,於祖父日淨(小畠盛次)、父親虎盛時期訪問甲斐被武田信虎收入麾下。父虎盛駐守北信濃地區與越後上杉謙信對峙的前線海津城,輔佐春日虎綱(高坂昌信)。據『軍鑒』,昌盛與虎盛共同駐守海津城,於永祿四年(1561年)其父虎盛在第四次川中島之戰前夕死去後繼承家督,繼續輔佐春日虎綱。文書上唯一出現是元龜二年(1571年)11月,為監督領內僧眾而組織的祈禱奉行文書中與長坂昌國之名一同,其余則見於『甲陽軍鑒』之記述。『軍鑒』中於天文二十三年(1554年),對相模國北條氏康之合戰及永祿四年(1561年)第四次川中島之戰中表現活躍。另記他在作為內藤昌豐配下擔任西上野的總橫目(注一)。此外出於武田信玄「鬼之子與鬼之女頗為相配」的考量,娶原虎胤之女為妻(注二)。還有一段逸話:父親虎盛死後,昌盛希望辭去海津城副將之職,調回武田信玄身邊做旗本,招致信玄大怒被勒令蟄居於甲府妙音寺並切腹,在諏訪勝賴(武田勝賴)與土屋昌續求情下被赦免,留任足輕大將。武田勝賴時期之天正十年(1582年),織田信長、德川家康連合軍入侵甲斐(甲州征伐),昌盛臥病在床未能參戰。武田氏敗勢濃厚之際,與逃亡至甲斐善光寺的勝賴道別不久後病死,年四十九歲。另外,據『甲陽軍鑒』記載與武田勝賴道別時的內容,可推斷昌盛所患之病即死因可解釋為地方病(日本血吸蟲病,見注三),這是少有的在『甲陽軍鑒』成書的近世前期揭示甲斐國地區地方病蔓延可能性的記錄,格外引人注目。注一:總橫目:戰國時代武田氏、上杉氏設置之職務,是被派往新歸屬國監視兵將動向的橫目之總長。注二:昌盛之父小幡虎盛人稱「鬼虎」,而原虎胤人稱「鬼美濃」。注三:日本血吸蟲病:於該病的重災區甲斐地區被稱為地方病,由日本血吸蟲(Schistosoma japonicum)引起的寄生蟲病,幼蟲經由皮膚感染,後寄生於消化系統中,最終致死。腹部腫脹是該病的典型症狀。『甲陽軍鑒』中記載昌盛此時積聚脹滿,乘轎而行,由此推測他很可能是患了日本血吸蟲病。作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=4#postid-150 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B9%A1%E6%98%8C%E7%9B%9B
小幡虎盛 Obata Toramori(1491年-1561年)小畠虎次之子;幼名孫十郎,受武田信虎偏諱「虎」字,名為虎盛、號日意,渾名鬼虎,武田の五名臣之一。實姓小畠氏,通說的小幡氏為誤解,小幡氏是上野國的武家名,兒子小幡昌盛時,才被武田信玄允許使用,亦有虎盛是上野小幡氏遠親的系圖,在此以小幡氏為準。虎盛出身東海遠江,明應九年(1500年)父親虎次仕於武田信虎,跟隨進入甲斐。永正元年(1504年),父親虎次鎮壓今井信是叛亂出陣,但被討死;虎盛以14歲之齡繼承家督,在武田信虎麾下以足輕大將的身份在甲斐國統一戰以及與今川氏、後北條氏的戰鬥中活躍。大永元年(1521年),在今川氏配下的福島正成進攻甲斐之際,與原虎胤一同擔任先鋒並成為迎擊的最前線。因為這些與今川、北條氏戰鬥的戰功而受武田信虎的偏諱「虎」一字,於是改名為虎盛,而亦因為武勇而被稱為「鬼虎」。天文十年(1541年),在武田信虎被追放後跟隨其子武田信玄而活躍。天文二十年(1551年),隨信玄入道並與原虎胤、真田幸隆等一同剃髮,號日意。永祿年間以高阪昌信的副將身份進入海津城,在抑制上杉氏中活躍著。永祿四年(1561年)6月,病死,年七十一歲。遺言「好好地認清自己吧」(よくみのほどをしれ)在日本相當有名。一生中參加過36次合戰,獲得感狀36枚,身上有41次受傷。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%95%A0%E8%99%8E%E7%9B%9B
板垣信方 Itagaki Nobukata(1489年?-1548年)板垣信泰之子;別名板垣信形、板垣駿河守,武田二十四將、武田四天王之一。身為武田氏宿老,在武田信虎統治的時期,以勇將之名活躍於世;負責對今川家的外交,在今川家背叛武田家進攻甲斐時被追究責任,遭放逐今川、武田交界山區,於今川氏親死後才被允許歸回武田氏。後來信方受命擔任年輕的武田信玄師傅一職,對信玄常常提出各項諫言,對往後的信玄打下良好基礎。天文十年(1541年)信方與甘利虎泰、飯富虎昌成功協助信玄將信虎流放,之後成為武田家的首席重臣。當信玄沒有親自出陣之際,通常武田軍的總指揮都是由信方代管,並為佔領信濃國一事盡心盡力。天文十四年(1545年)攻陷高遠城、天文十五年(1546年)在笛吹卡擊破上杉憲政,在在顯露出信方的軍略才能。在佔領南信濃後,成為諏訪代官,因為施政過於嚴苛引起當地人民不滿。翌年,與村上氏開戰之初便面臨到幾被全滅的地步,後多虧原虎胤的救援才得扭轉頹勢。天文十七年(1548年)的上田原之戰時,因開戰之初便小有斬獲而舉行檢視屍首,沒想到在此時被村上軍村上義清急襲,信方反應不及,遂戰死於亂軍之中。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E5%9E%A3%E4%BF%A1%E6%96%B9