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三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
五百位人物:有馬直純、明智秀満、鵜殿長照、赤尾清綱、増田長盛、鵜殿氏長、脇坂安治、長束正家、岡部正綱、岡部長盛、奥平貞能、葛山氏元、蒲生賢秀、蒲生秀行、京極高吉、松平広忠、籾井教業、三好義興、青山忠成、石川家成、石川康長、畠山昭高、薄田兼相、大野治長、板倉勝重、筒井定次、伊奈忠次、鈴木重朝、榊原康勝、酒井忠勝、内藤清成、牧野康成、山口重政、尼子誠久、斯波義銀、毛利長秀、津川義冬、立原久綱、織田広信、織田信秀、織田信澄、織田信包、河尻秀隆、河尻秀長、柴田勝豊、丹羽長重、宇喜多詮家、平岡頼勝、松野重元、原田直政、三村元親、前田利長、前田利政、蜂屋頼隆、古田重然、小早川秀包、森忠政、生駒親正、柴田勝政、佐久間安政、前野長康、小野木重次、桑山重晴、仙石秀久、三好長治、徳永寿昌、戸田勝成、百々安信、中村一氏、原長頼、平塚為広、堀尾吉晴、溝口秀勝、徳山則秀、毛受勝照、土岐頼次、氏家行広、日根野弘就
三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、穂井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、長野具藤、奥平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、徳川秀忠、上条政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景
原田信種 Harada Nobutane(生年不詳-没年不詳) 大蔵氏嫡流である原田氏の当主。筑前高祖山城(高祖城)主。妻は龍造寺氏の娘。原田嘉種、原田種房の父。五郎。下野守。最初の主君・龍造寺隆信より偏諱の授与を受けて信種と名乗る。 実父は肥前松浦の草野鎮永(原田了栄の次男。同時期に転封を拒否し秀吉に処刑された草野鎮永は筑後の同族だが別人)。先代の原田親種は大友宗麟に責められ自害したのだが、その嫡子秀種も戦死していたため、了栄は孫の信種にあとを継がせたのである。 このため信種は大友を憎み龍造寺に接近するのだが、祖父了栄より実父鎮永のほうを恃みがちだったため家臣らは不満の声を上げるようになる。 天正12年(1584年)、この状況を見た岸岳城主波多親は原田領内に侵攻するも、急襲によって撃退されている。 天正14年(1586年)岩屋城の戦いに参加。翌15年豊臣秀吉の九州征伐で小早川隆景の軍勢に包囲され降伏。だが所領の過少申告が発覚したため、すぐそのほとんどを没収されてしまう。以後は肥後に国替えとなり、佐々成政のちに加藤清正の与力となった。 慶長3年(1598年)、慶長の役に清正の配下として出兵。蔚山城の戦いで戦病死したとする説、降倭(朝鮮への降将)となって鉄砲の技術を伝え日本軍と戦った「沙也可」(後の金忠善)となったとする説もあるが、朝鮮役のあとに書かれた官途状が残っていることから実際には帰国しているようである。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%A8%AE
原田嘉種 Harada Yoshitane(1584年—1660年) 原田信種の長男。弟に原田種房と原田種保がいる。通称は原田伊予(役職が伊予守だった)。会津藩に出仕後は原田種次と称する。 父・信種が亡くなると家督をついで加藤清正に仕えた。しかし清正と対立し、領地没収のうえ追放処分となってしまった。 慶長12年(1607年)、弟・種房と共に寺沢広高に1000石で仕えるようになった。寛永14年(1637年)、島原・天草の乱が勃発。嘉種は二人の息子・種長、種清と共に参陣。天草は寺沢家の領地であり、押し寄せる一揆勢から富岡城を死守した。しかし、寺沢堅高(広高の子)が島原・天草の乱の責を問われ改易処分となると、嘉種は再び浪人となった。 慶安4年(1651年)、天海の仲介により江戸で会津藩主保科正之に2000石で召し抱えられ、承応3年(1654年)に会津表留守役を命じられ会津若松に下った。 明暦3年(1657年)、家督を長子種長に譲り1500石を相続させ、次子種清には500石を分与した。第3子種弼は江上勝種(江上家種の子)の養子となり江上氏(江上氏は原田氏の分家筋に当たる)を継承した。 万治3年(1660年)、会津原田氏初代当主・嘉種(種次)は76年の生涯を閉じた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%98%89%E7%A8%AE
原田隆種 Harada Takatane(生年不詳-没年不詳) 原田興種の子、正室は大内義隆の娘であり,子に種門、種吉、繁種、親種などがいる。;主君義隆から「隆」の1字を賜って隆種と名乗った。剃髪して了栄を号したので、原田了栄の名でも知られる。通称は弾正。 享禄4年(1531年)に高祖表で隆種の家臣烏田通勝、王丸進らが、被官水崎盛政と交戦した記録があり、享禄年間に父の興種から家督を譲られたと推測される。 北九州における大内氏方の代表的な国人領主の一人でしばしば大友氏方の国衆と争った。大寧寺の変で大内義隆の自刃後も、主君の恩顧に筋を通して逆臣陶隆房には従わなかったところ、筒城主で家老西重国が不満を持って肥前国の龍造寺隆信と内通したのでこれを討った。しかし天文21年(1552年)に大友氏が陶氏と連合して侵攻すると、配下の王丸隆(兵庫允)、西重通等々がこぞって寝返って陶氏に呼応したため、高祖山城は落城した。 隆種は降伏して蟄居を強いられ、陶氏から弘中隆兼が代官として姪浜城に入り、大友氏からは臼杵鑑続が派遣されて柑子岳城に入って筑前国の政所を設置したが、弘治元年(1555年)に厳島の戦いで隆房が自害すると、その混乱に乗じて高祖山城を奪還した。 弘治3年(1558年)3月、大内義長が毛利元就に攻められて翌月自害すると、筑前の大内領は大友氏に組み入れられたので、隆種も一時大友氏に属した。同年、家臣本木道哲が嫡男種門と三男繁種を讒言したので、8月7日、二人を謀反の疑いによって岐志で謀殺した。後にこれは誤情報であったと判明するが、隆種はもともと四男親種を寵愛しており、これを嫡子とした。 永禄9年(1566年)、岩屋城主高橋鑑種が毛利氏に内通し、大友義鎮に反旗を翻して宝満山城(宝満城)に籠もると、義鎮は四将を派してこれを鎮圧させようとした。隆種入道了栄は鑑種より援兵を要請され、病を理由に断ったものの、他方で了栄も密かに毛利氏に内通して大友氏に敵対した。嫡子親種を避難と人質を兼ねて安芸国の吉田城に送った。 永禄10年(1567年)9月11日、了栄は大友方の西鎮兼の居城宝珠岳城と支城を落とし、西氏を滅ぼした。さらに柑子岳城に攻めよせたが、龍造寺氏が侵攻したために攻撃を中止した。 永禄11年(1568年)4月、鑑種に同調して立花鑑載が大友氏に反乱を起こすと、毛利氏は援軍を送ったが、これに親種が加わっていた。大友勢が立花城を攻囲中、柑子岳城は城代臼杵鎮広が残っていたが、了栄は虚を突いて、7月19日、第1次池田河原の戦いで鎮広を撃破し、城を奪い取った。本来の城主臼杵鎮続は慌てて帰還し、これを回復した。鑑種は親種と清水左近将監と共に陥落した立花城を奪還しようとしたが撃退され、清水は長門に帰還、親種は高祖山城に敗走する。了栄は原田親秀を救援に派遣して、8月2日、第1次生松原合戦で追っ手を撃退したが、嫡孫秀種など家臣の多くを失った。 一連の戦いは毛利方の敗戦に終わって毛利勢は撤退したが、これを見て今度は龍造寺隆信が筑前に侵攻。了栄(および草野氏)は龍造寺氏に服して、孫(次男の種吉の子、後の原田信種)を龍造寺氏に人質に出すことになった。 永禄12年(1569年)、大友氏と龍造寺氏が和睦したため、了栄は大友氏に復した。同年、毛利氏が再び筑前に侵攻したが、このためにこれには呼応しなかった。 元亀2年(1571年)、(了栄の次男)草野鎮永入道宗陽と吉井隆光の領地争いで吉井浜合戦(吉井合戦)があった。両氏は共に了栄の配下で調停を試みたが失敗し、合戦の後、宗麟の下知で両氏は和睦した。 元亀3年(1572年)正月、鎮広の後を継いだ柑子岳城主臼杵鎮氏は、今津毘沙門(登志神社)に参詣する了栄を暗殺しようとするが、失敗。原田勢に逆襲され、これが1月28日の第2次池田河原の戦いとなって、敗れた臼杵鎮氏は泊城逃れようとしてたどり着けず、平等寺 (筑紫野市)で郎党と共に自害して果てた。 筑前臼杵一党が滅ぼされたと聞いた宗麟は激怒し、天正2年(1574年)4月1日、鎮広を再び筑前に派遣して了栄の首を要求させた。原田氏の親族で会議をしているところに親種が鷹狩りより帰り、これを聞いて憤激して自らの腹を十字に切り裂いた上で首を落として本木大原に投じさせた。これには十人余の士が追腹をして殉じた。臼杵側に検死を要求し、親種の遺体に間違いなければ帰還するように求めたところ、臼杵の執筆坂本伊織という者が、親種の首を持ち帰ると言ったために、了栄は激高して、柑子岳城を攻めて必ず宗麟に復讐すると誓ったが、この頃、大友氏の勢いは強くすぐに行動に移すことはできなかった。 嫡子を失った了栄は先祖が開基した天台宗極楽寺を再興し、曹洞宗に改めて萬歳山龍国寺として親種の菩提を祀った。また草野鎮永の次男は人質として送っていたが、龍造寺氏に請うて元服させ、了栄の養嗣子信種とした。 天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで大敗すると、筑前の情勢も再び不穏となり、筑紫広門、秋月種実、宗像氏貞が相次いで龍造寺氏に組して大友に反旗を翻し、了栄もこれに同調して蜂起した。宗麟は立花道雪、高橋紹運、志賀道輝の三将を筑前に派遣して鎮定させようとした。天正7年(1579年)、立花勢は安楽平城に集結して出撃し、7月12日、海と陸から押し寄せるが、了栄が陣頭指揮をして撃退。立花勢は生松原に退却したので、これを追撃して第2次生松原合戦となった。了栄は、大友方武将木付鑑実の立て篭もる柑子岳城を包囲した。同城は兵糧が尽きかけていたが、道雪は高祖山城を攻撃すれば了栄は囲みを解いて帰ると考えて救援を送らず、生松原に陣を敷いた。了栄は包囲を継続したまま、8月13日、これを迎撃して第3次生松原合戦となったが、これは両軍痛み分けに終わり、双方が手を引いた。しかし糧米の尽きた柑子岳城は開城投降して退いたので、志摩郡全体が原田氏の領有となった。同月19日、草野鎮永の領地に波多親が侵攻したので、了栄は援軍を送り、浜崎でこれを破った。 天正9年(1581年)、隆信と共に安楽平城を攻略。この頃、了栄は老衰でなくなったようであるが、没年不詳。一説では天正15年(1587年)6月22日卒。法名は諡武徳院殿大倫了栄大禅定門。 原田氏の実権は草野鎮永が握り、息子信種を当主としてもり立てたが、これを快く思わない者が家臣におり、これに波多親が介入して天正12年の鹿家合戦となる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E9%9A%86%E7%A8%AE
立花宗茂 Tachibana Muneshige(1567年-1643年) 高橋紹運的長子、母為齋藤鎮實之妹.宋雲院、養父為立花道雪、正室為立花道雪之女.立花誾千代(良清院);幼名千熊丸、初名高橋統虎,繼承立花氏,改名為立花宗茂。 永祿十二年(1569年),因其父紹運繼承高橋家,年約3歲的宗茂也因此移住築前寶滿城,往後在山間接受紹運不時的體力鍛煉以及合戰模擬。不過因為紹運長於軍事行動無暇照顧宗茂,便托其兄吉弘鎮信以及家中武譽極高的老將足利彌平次為其教育。當宗茂6歲時,要求必須打敗比自己大四歲的人,打敗後,再打大六歲的,又打敗後,再找大八歲的,直到打敗大15歲的才告一段落,並且能輕易使弓射落10米遠的小鳥;文學方面,要求每看一本書便要去跟明白這本書的人反覆簡述其大綱,之後又進行背誦,直到能用書中的例子說服別人為止,另外讓宗茂接觸外來事物如鐵炮和孫子兵法,也讓宗茂學習自己有興趣的書道,更長於山野中熟習花草名稱用途,在他們的教育下,宗茂八歲便能拉開築前一地所有的弓,辯論和見識也遠超過同齡人。並且由於生長之地近於築前國際良港博多津,在常於商業交易的伯父吉弘鎮信的關系下也認識如島井宗室、神屋宗湛等商道茶人,由此學習茶道以及從中探知日本各大名的情勢。 天正六年(1578年)12月,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,於《寬永諸家系圖傳》、《立花事實記》記述此戰宗茂以12歲之齡初陣。 天正八年(1580年)2月2日,道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士。 天正九年(1581年)龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下位於立花山城西南邊,大友家築前五城之一大鶴宗雲的鷺岳城,而於7月27日進軍至大宰府並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前巖屋城,宗茂之父高橋紹運與之對峙,並聯合立花家援軍竹迫統種、薦野增時於觀世音寺之戰將其擊退,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和立花道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰斗,此時紹運以弓、鐵炮、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右回於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取了井田親氏,而此石阪之戰也是宗茂普遍被認為的初陣,於當時穿著萌黃色的唐綾縅鎧甲、頭戴銀色鍬形前立兜、腰配黃金鹿皮太刀、身背裝滿箭矢的弓筒並手握塗籠之弓、腳跨栗毛馬。此戰宗茂率領3百人埋伏後帶領150騎出戰,偷襲箭射敵大將堀江備前更單挑壓制對方,並讓功給家臣荻尾大學而討取了堀江首級,初陣便獲得了家臣的信任,並且令道雪正式興起迎宗茂為婿養子的念頭。 同年8月,膝下無子的大友家重臣立花道雪,希望高橋紹運的長子宗茂能繼承立花家,起初紹運因為宗茂優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,宗茂終於成為了道雪的養子。這個時候,宗茂和道雪的女兒立花誾千代結婚成為了婿養子而繼承立花家。但是夫妻倆處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居了。 同年宗茂以立花繼承人的身分於11月6日,大友宗麟為了援助被秋月種實、問注所鑒景夾擊的家臣朽網鑒康,而受命隨道雪、紹運出陣,兩軍共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰。 同年11月12日,立花山城東北方的國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬的嫁妝給了立花,趁立花軍一面出戰秋月軍,一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、足立式部等立花家臣前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲,此戰在由布等人的奮戰慘勝,而宗像家的背叛觸怒了道雪。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡巖戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦,並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下於3月16日派由布、小野先攻擊宗像氏,4月16日才前往那珂郡巖戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,宗茂自身和薦野增時率五百兵為伏兵,途中見機分兵三百以鐵炮攻勢奇襲溷亂敵方,預留的薦野二百兵則突然立出軍旗假為援軍威嚇敵方,解除了敵軍對養父道雪的包圍並且擊破,隨後宗茂又率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再巖戶一帶的巖門莊久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取了1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日隨養父道雪攻入宗像領地,率軍侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月17日的吉原口防戰討取了吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,驅逐了宗像勢力。期間宗茂對於生家宗像家逢遭變故的色姬待遇有加,然而色姬最後還是選擇自殺。 天正十三年(1585年)3月,在養父道雪、實父紹運出兵築後之時,宗茂以19歲之齡僅以千餘兵力守城。秋月種實見立花山城兵少便率八千大軍來攻,宗茂面對秋月八千大軍,決定率5百兵力分三隊夜襲秋月軍,原先家臣們皆反對以小軍勢出戰,應當以立花山城之堅固抵擋,但宗茂回答:「如果你們不想去的話也沒有關系,由我自己去擊退敵軍便是。作戰並非是由數量決定勝敗,而是要用出其不意的行動、奇策,如此一來將不會有不勝之事。」於是先以家老米多比鎮久率百餘名兵力繞到秋月軍後方,佯攻秋月家居城古處山城,引誘了秋月軍部分兵力追擊,這時宗茂和家老薦野增時率一百五十兵力以火計夜襲秋月本陣,造成秋月軍前後溷亂,甚至自相殘殺。一方,家老十時連貞也隱兵於森林中率兵從側面突入,鎮久也繞回來夾擊,秋月方大敗損失三百餘人,後種實內通立花家臣櫻井兄弟暗中謀反,然而卻被宗茂識破,平定了謀反的兩人,種實見內應失敗而改以小軍勢妨害耕作破壞農田等,但都被宗茂逐次擊退,秋月軍歲放棄攻城狼狽退回領地。而此戰後也令原先有丟失城池覺悟的道雪和紹運松了一口氣,宗茂也受到道雪的稱贊,不過卻受到紹運的斥責。 而據《北肥戰志》宗茂更接著出兵築前西邊,襲擊早良郡一帶之曲淵房助和副島放牛鎮守的飯盛城等龍造寺方的城砦,令周遭敵對勢力感到立花山城雖然道雪不在以及兵少,但仍有足夠實力應付敵勢的錯覺。 天正十四年(1586年),宗茂的君主大友宗麟前往大阪晉見豐臣秀吉,希望豐臣家幫助大友家抵抗島津的攻勢,同時推薦宗茂和生父紹運為豐臣家臣,大友築前的領地因此於此時轉變為豐臣家。 一方,島津軍為了統一九州而侵略肥前、築前地區,於7月10日以島津忠長、伊集院忠棟等2萬兵力攻下筑紫廣門的勝尾城後,逐漸集結北九州各地國人眾、國人的兵力至約五萬,宗茂實父紹運於12日在巖屋城以約八百人抵擋了島津聯軍約五萬兵力的攻勢,使其損傷了四千五百多人以及許多大將,拖延了近兩星期後,於27日終於全軍壯烈犧牲,28日宗茂之弟統增鎮守的寶滿城也被迫開城,島津軍在處理筑紫、高橋兩家的人質後於8月1日准備圍攻立花山城,宗茂則徹底抗戰,積極的出城使出遊擊戰術,於8月1日出其不意攻下了島津軍先前降服的筑紫廣門的勝尾城,吸引島津軍來攻後又於4日放棄勝尾城佯攻高鳥居城,島津軍再追擊時又抄小路繞至島津軍後方奇襲其後方城池,使其拖延至14日才完成對立花山城的包圍,15日抵擋了島津軍第一波的攻勢後,又趁機偷襲島津軍本陣討取百餘人的首級,更令家老內田鎮家使出詐降之計拖延時間,並且據《豐前覺書》載於8月18日擊退正在巖戶一帶准備軍糧的原田種實二千餘兵討取七百人,20日更奇襲島津軍的援軍秋月種長二千兵使其傷亡四百餘人。終於,大友家等到了豐臣秀吉從毛利家派來的援軍,使的島津軍被迫於24日從立花山城撤退,而宗茂並沒有等待援軍,隨即率一千五百名兵力追擊島津軍至築後川討取了百餘首級,又以火攻奪下了星野吉實、星野吉兼的高鳥居城,並從秋月方取回了父親的居城巖屋城和寶滿城。10月3日,宗茂被秀吉給予「九州之一物」的感狀並被評價為「剛勇鎮西第一忠義鎮西第一」(その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一)這時宗茂年僅19歲。 天正十五年(1587年),在豐臣秀吉的九州征伐中擔任「築前軍事總指揮」掛名統率如毛利輝元、小早川隆景的數萬大軍仍表現活躍,於4月初以先鋒軍先於秀吉本隊南下接連攻落肥後南關、山鹿、小代、隈本、相良、阿蘇、合志竹迫城、赤星菊池郡、有動宇土城、和仁玉名郡等地,當中和仁親實委托宗茂提出降伏,宗茂於是上呈秀吉,但當時的秀吉因為接連攻陷城池之勢不打算理會和仁親實的降服,宗茂以:「既然自身答應了對方的請求,若無法達成將有損武士信義之面目,不如將自身殺了。」迫使秀吉答應此事。 後再度為先鋒進軍薩摩攻落島津忠辰的出水城,又南下至川內擊退島津忠長,並救出被捕為人質的弟弟高橋統增夫婦,此時島津義久因日向根白阪之戰戰敗而前往川內泰平寺降伏,宗茂代秀吉前往伊集院、祁答院、入來院接收人質,後又率先進軍大口城包圍仍不降的島津重臣新納忠元,迫使其投降,九州終於平定。戰後秀吉因功給予築後柳川藩13萬2000石的領地,從大友氏獨立出來成為直屬大名。 同年8月7日,在宗茂的通知下秀吉知曉了佐佐成政移封後的肥後發生大規模的國人一揆動亂,9月5日,因其勢力猖狂決定動用九州各大名的兵力鎮壓,以築前久留米小早川秀包(毛利秀包)為總大將,肥前鍋島直茂、龍造寺政家、築後宗茂、高橋統增、筑紫廣門,甚至毛利家的安國寺惠瓊也加入討伐。 9月下旬,宗茂起初率1千2百兵力南下救援兵糧不足,被一揆方的敵將有動兼元包圍在平山城的佐佐成政軍,由於先前鍋島、安國寺惠瓊軍皆救援失敗,宗茂收集情報檢討了鍋島、安國寺兩軍皆是軍隊在前輜重在後,遭到埋伏於竹林中的敵將大津山出羽守襲擊後方以致失敗之故,令軍兵間穿插輜重隊,將兵、軍馬也配備救援物資以及兵糧彈藥,組成了互相支援、確保輜重的軍勢,並以小野鎮幸率一隊於夜中早一步潛入竹林反埋伏,另外以輜重隊引誘出大津山的軍勢時以弓、鐵炮進行背後奇襲,後分三隊反轉回攻其城砦南關城討取了大津山出羽守,一方面則趁隙以第二隊輸送兵糧,前往大手原口一帶的平山城,此時平山城遭到隈部親永的大將有動兼元的包圍,宗茂率第一隊3百人以鐵炮作先制攻擊支開隈部軍後,第二隊便趁隙運送兵糧,運完後加入戰斗從側面攻擊持續攻向隈部軍的山鹿城,城外的隈部分隊來援後第一、二隊又退後引誘,此時第三隊又進行兵糧運輸,完成了救援佐佐成政的任務,立花軍因此退往背後的山間,又引誘出山鹿城的有動志摩、有動左京等率軍追擊越過大手原口至永野原,有動兼元雖看出是陷阱要求先鋒的有動志摩回軍卻為時已晚,此時立花軍又一舉反轉進攻討取有動志摩,隈部軍遂崩壞退散。 之後又和九州各大名包圍和仁三兄弟的田中城,城中除了和仁親實、親範、親宗外還有其妹婿邊春親行共9百餘人,在毛利秀包為總大將的情況下,秀包以二重之柵將城池包圍,約二個月後邊春親行因為安國寺惠瓊的謀略而謀反,12月5日遂攻下田中城,並且在此戰中,宗茂和毛利秀包合力殺退號稱人鬼的猛將和仁親宗。然而由於先前在九州征伐時期,和仁氏曾委托立花家降伏於豐臣,有過信賴關系,宗茂在此戰後保護了和仁兄弟中的四男和仁統實,並令他成為家臣小野鎮幸的義弟,保住了和仁氏的血脈。 隨後宗茂和佐佐成政於12月26日攻下了隈部親永的城村城,而隈部親永一族12人於翌年被秀吉下令處死,宗茂為了隈部一族的武士名譽,於5月27日在柳川城的「黑門」挑選手下12人與隈部一族12人單挑,被稱為「黑門放討」結果隈部12人光榮戰死,擔任監察役的淺野長政目睹過程後在震驚之餘當場佩服其氣概,而秀吉聽聞宗茂的做法,便說:「真不愧是立花」(さすがは立花である)。 並且在這時期因為和毛利秀包時常擔任先鋒的緣故,宗茂認小早川隆景為義父,和毛利秀包結為義兄弟,並和秀包一同受領羽柴姓、從四位下侍從的官位,人稱「羽柴柳河侍從」並賜姓豐臣,成為第一批秀吉的譜代眾。天正十八年(1590年)參加由秀吉響應的小田原征伐,在巖櫬,江戶地區參陣,戰後秀吉在一次大會中於諸大名的面前稱贊「東有本多忠勝為天下無雙的大將,西有宗茂為天下無雙的大將,為東西一雙的名將」(東に本多忠勝という天下無雙の大將がいるように、西には立花統虎という天下無雙の大將がいる)。 文祿元年(1592年)參加文祿之役。和小早川隆景、毛利秀包、筑紫廣門、實弟高橋統增等一起組成第六大隊,負責攻略朝鮮西南方的全羅道,宗茂於出戰前制作約200個金箔押桃型兜給兵將佩帶,此種兜可說是立花家的一項招牌。 文祿二年(1593年)小西行長於平壤遭到明軍的猛烈攻勢而慘遭大敗,日軍各部匆忙援救小西軍並由北部南撤至京城,宗茂原本駐軍於平壤南方的牛峰,於1月10日北上救援小西軍的行動中和其弟統增共三千兵一起在龍泉山城外配合城將黑田二十四騎之一的小河信章的鐵炮攻勢,宗茂和統增分兵五隊潛伏,約七~八千敵軍因而溷亂撤退,此戰立花、黑田家稱為龍泉之戰。 同年1月25日於碧蹄館大戰前夕,明、朝聯軍偵查隊查大受、高彥伯與日軍偵查隊加藤光泰、前野長康所部遭遇,日方損失六十餘人撤退回報明軍進逼的消息,日軍陷入籠城或出戰的議論中,這時小早川隆景贊美「立花家的三千士兵足以抵擋他家敵軍一萬」(立花家の3千は他家の1萬に匹敵する。太合殿下もそうされるだろう)激勵各軍出戰.二十七日醜時許,由立花家兩位家老——十時但馬守和森下備中守釣雲,以及「騎士銃卒各數十」組成的物見隊,在王京以北約12公裏的礪石峴附近發現明軍大隊的蹤跡,火急回報本隊。於是,枕戈待旦的日軍迅速行動起來,宗茂軍先行,各部跟隨其後,相繼向礪石峴進發。當先趕到的宗茂迅速占領礪石峴,由於當時大霧彌漫影響了視野,宗茂並未急於進攻,而是一面下令士卒吃早飯,一面開始排兵布陣:先陣小野和泉守鎮幸、米多比丹波守鎮久七百人,中陣十時連久、內田統續五百人,後陣宗茂與其弟高橋統增二千人。此時十時連久提出,小野鎮幸和米多比鎮久皆為家中重臣,未防有失不可為先鋒,並慨然自任,得宗茂許可爭得先鋒之位,於早六時開始超越先陣進軍。 七時,十時隊與明軍騎兵先頭部隊發生接觸。但關於此部明軍的具體人數,日本的各種記載卻說法不一,《日本戰史朝鮮役》記作二千馬軍,曾根俊虎《日本外戰史》、奧田鯨洋《日韓古跡》則均說僅有數百。 當追擊到距離望客峴數町距離的時候,忽然遭遇六七千明軍增援部隊的反擊,十時連久以下百餘人戰死,宗茂軍陷入苦戰。而據桐野作人《碧蹄館之戰》所說,立花軍當時其實是使用了一種「示弱」戰術,即以十時連久的五百兵力正面楔入敵陣然後撤退,引誘敵軍追擊,宗茂則率本隊主力二千人繞到明軍右翼,尋機攻打敵人移動中暴露出的薄弱部位。不料明軍的火炮太過猛烈,當十時連久成功完成誘敵任務准備撤出時,負責接應他的小野鎮幸卻被明軍風暴似的大炮轟擊所阻,待小野隊終於冒著炮火突入與之會合之時,十時連久已死於明將李如梅箭下,與他同時戰死的還有其部下百餘人。同年三月二十三日,石田等三奉行在王京檢點士兵人數,統計宗茂、高橋統增所部僅餘一千一百三十二人,比之碧蹄館戰前之時減員一千八百多人,而此戰之後立花軍並未再參加任何有記載的作戰,那麼,除去一部分因病疫亡故和朝鮮義兵襲擊造成的傷亡,碧蹄館之戰無疑便應當是其最主要的損失原因。 文祿三年至四年(1594年-1595年)由於明、日處於議和階段,宗茂和小早川隆景等第六大隊於朝鮮釜山南部建築城池,是為龜浦倭城。宗茂因為小早川隆景途中回國養病,因此負責了後半的建築工事,並且接應軍糧的輸送。文祿四年(1595年)回日本,於「太閣檢地」中測得柳川藩實為22萬石,且因朝鮮戰功加增4萬石為26萬石,但是不久後因為石田三成等人從中作梗,被消去10萬石而成16萬石。 慶長元年(1596年)受領秀吉賞賜的京都聚樂第中一棟豪華的住所,與妻誾千代共同前往居住,但不久後在秀吉擔心宗茂無繼承人的情況下以細川忠興引薦了矢島秀行之女八千子為側室,更提拔八千子之弟矢島重成為立花家老,誾千代為此憤慨因而和宗茂分居,移往柳川城南方邊境的宮永居館。 慶長二年(1597年)的慶長之役,宗茂因領地加增之故軍役增至五千人,先後駐守安骨浦城、固城,並和毛利秀包出入釜山擔任小早川秀秋於朝鮮前期的輔佐役。同年12月底日軍加藤清正被明軍包圍在蔚山的危機中,明將高策趁日軍大部離開釜山本陣援救蔚山之際率明軍一萬二千、朝鮮軍三萬兵力,打算偷襲釜山的日軍本陣做為對日軍救援蔚山行動的牽制而進軍至般丹一地。高策因日軍主力已抵達蔚山,遂率聯軍回軍蔚山,日軍舒緩了本陣的壓力,是為般丹之戰... 慶長三年(1598年)明朝廷叫回攻略蔚山城失敗的楊鎬,新增兵力給於劉鋌、刑玠並調派水陸約8萬軍力進朝鮮,明將鄧子龍、張榜、藍芳威、陳璘等於此時參陣,9月以麻貴為東路攻蔚山、劉鋌為西路攻順天、董一元為中路攻泗川、陳璘為水路四軍各號稱五萬的軍勢南下進攻,日軍面對龐大軍勢僅能防守,這時因為五奉行等重要軍監回日本處裏政務,剩餘的日軍集結在釜山的會議中無法決定如何抗敵,並且互相忌妒戰功,在如此情況下,宗茂說了:「一日拖過一日城池被攻陷將是早晚之事,若是將日軍最右翼的蔚山城保住,那麼泗川之敵兵也會因此有壓力而無法專注攻城,將這二處控制住的話,那麼順天之敵自然也將退兵。我立花軍願當此趨敵之軍。」此時身為日軍總大將的小早川秀秋聽後說了:「蔚山的援軍由立花擔任是良策阿,即使失敗損失僅三千的立花軍,對我軍來說也是無關痛癢。」宗茂也清楚秀秋說話不懂事故因此並無怒言,而是准備出兵。 最後於日軍撤退時,在宗茂的號招下,一方面於固城集結弟弟高橋統增、毛利秀包、寺澤廣高、共七千兵力,一方面連絡島津義弘、宗義智的一萬一千日軍分乘軍船五百艘隨立花軍援救被海陸圍困在順天城的小西行長,途中於露梁海戰和明、朝鮮水軍的李舜臣、陳璘等激戰,被大敗之。據《谷田六郎兵衛覺書》載,立花家臣池邊貞政立下一番乘踏入陳璘的戰船,但卻反遭串刺戰死。 日軍此戰勉強令小西行長脫圍,此時立花軍擔任日軍殿後,使主力軍艦退回釜山,並且援護其他日軍先回國。 最後宗茂於年底11月26日才和毛利秀包共同突破明、朝鮮軍的海上封鎖為最後狼狽逃回日本。 慶長五年(1600年)關原之戰時,宗茂拒絕了德川家康的勸誘只為了報秀吉的恩情而率四千兵力加入西軍。關原開戰前夕,近江大津城主京極高次突然叛變,主將石田三成命令毛利元康(末次元康)、毛利秀包、宗義智、筑紫廣門和宗茂一同前往攻擊,此戰宗茂無損一兵一卒擊退了夜襲的敵軍,更發揮了養父道雪的發明「早入」,將火藥和彈混合塞入竹筒並連結鐵炮掛於足輕肩上、使的立花軍的鐵炮能比他家的鐵炮隊使出3倍速以上的銃擊,並且家臣立花成家立下了一番乘。可是在攻下了城池的同時,西軍卻也在關原戰敗,遂放棄了大津城。撤退期間遇到西軍殘兵正打算燒毀通往京都和美濃交通要道的瀨田唐橋,企圖延緩東軍的進軍速度,然而宗茂卻止住了這樣的做法,說了:「這座橋是為交通要道,不僅是軍隊連對人民而言也是重要的道路,燒毀了豈不連人民也受苦!?我軍即使不燒毀這座橋仍有伏見城的守備能拖緩敵軍!」事後德川家康聽聞宗茂如此做法便稱贊說:「宗茂真是具備剛仁的第一勇者」(立花は剛なるど仁あり まことに第一の勇者である) 撤退到大阪城後,宗茂對毛利輝元提出在大阪籠城對抗東軍的計劃,可是輝元卻已答應家康的勸降而拒絕,宗茂憤而領軍回柳川。途中遇到有如殺父仇人的島津軍只餘約八十人一同等待乘船,立花家臣有人提議不如趁機報殺父之仇,然而宗茂卻斥責說,並對島津義弘聲明義弘則向宗茂提出一同前往薩摩抵抗東軍的提議,但是宗茂卻回答:「放棄自身城池,前往他人的領地作戰在立花家訓是不允許的。」義弘因此由衷佩服宗茂,並且回領地後派出重臣新納忠元率一萬兵力往柳川為援軍。 11月,宗茂回歸柳川後隨即遭到途中叛變到東軍的鍋島直茂的侵攻,而黑田如水(黑田孝高)也在一旁打算坐收漁翁之利。領地遭到侵入而不還擊是武士的恥辱,但是天下大勢已趨向家康,親自出陣對抗的行為等於不服家康,實為不智之舉,因此宗茂為了武家的意地以及對家康表示臣服,自己只坐鎮在城中運籌帷幄,指揮一萬三千的兵力,在柳川領地周邊的城砦和河口配置了堅固的防衛線,並派家臣團出戰。 宗茂命家老小野鎮幸為總大將,率一千三百餘人於江上八院一帶封住鍋島三萬二千的大軍,然而激昂的立花軍先鋒壞了軍令擅自開戰,雖然立花軍沖破鍋島12段軍陣當中的9段,然而以立花統次為始,為了救援以必死之勢突擊的先鋒安東久照、石松政之而率第2陣斷後的立花鎮實和其次男立花親雄、新田鎮實、第3陣的年輕武者十時惟久皆陸續戰死,鍋島軍則發生先鋒鍋島茂忠命危,返回本陣五反田才得以收拾軍勢的情況,可說是軍勢大亂憑人數優勢作戰,雖然鍋島軍包圍小野鎮幸的本陣,但在其拼死奮戰下沒能殲滅,最後本在戰場西方監視黑田軍動向的立花成家率三百兵力側面奇襲溷亂了鍋島軍使鍋島軍逐漸撤退,一方面掩護小野鎮幸撤退結束了此戰,結果立花方損失三百餘人,鍋島也付出二百餘人的犧牲者。之後因為黑田孝高、加藤清正率軍加入柳川城的包圍而轉為籠城,同時宗茂受到好友加藤清正的說降,在與重臣連番考慮下,宗茂因為顧慮到柳川領民的安全,終於開城交出城池。 關原之戰後宗茂被改易成了浪人。面對欣賞宗茂器量的加藤清正和前田利長的仕官勸誘,都被宗茂拒絕了。宗茂受加藤清正的好意於肥後玉名郡高瀨的清源寺當了一陣子的食客後於慶長六年(1601年)7月入秋後帶著家臣共約二十人前往京都,於翌年3月到達妙心寺依附立花道雪義子戶次茂庵所認識的吳服商富士谷紹務並暫住於大德寺大慈院,慶長八年(1603年)秋離開京都於12月到達江戶,本多忠勝因當年共受豐臣秀吉贊賞之故,安排其暫居高田寶祥寺。 終於對其才能感到可惜的德川家康於慶長九年(1604年)2月透過本多忠勝招喚宗茂,於7月25日揭見家康受任將軍幕府的御書院大番頭領5千石,慶長十一年(1606年)1月3日家康打算給宗茂陸奧棚倉的領地,但因將軍之位已讓於德川秀忠,因此於9月上旬宗茂會見秀忠後,於11月11日正式給予陸奧棚倉一萬石複歸大名身分,更於慶長十五年(1610年)7月25日加增至三萬石。 大阪之役的時候家康因擔憂宗茂的武勇智謀和統率能力會為豐臣家效力而盡力的勸說宗茂,宗茂並在大阪冬之陣於大阪城西北的天滿川濱筋口參陣,大阪夏之陣更成為德川秀忠的軍事顧問和旗本大將,預言應驗了秀忠不聽建議,率軍獨斷的突出將會遭到豐臣方大野治房突襲的戰況;後隨本多正純等人參與天王寺口抵擋突破德川軍數陣的毛利勝永的攻擊。 因這些功勞於元和六年(1620年)11月27日奇跡似地得以回歸舊領築後柳川藩,獲得十一萬九千六百石,完成了複歸柳川大名的心願,不同於丹羽長重等僅是回複大名的身分,是日本史上唯一領地改易後還能回複舊領地的人。晚年也擔任第三代將軍德川家光的相伴眾,為其說明戰國的物語故事,而德川家光也贊美宗茂為「真正的武人」。 ​寬永十四年(1637年)爆發島原之亂,宗茂在戰事後期被任命前往輔佐總大將松平信綱,負責戰略面的指揮,預言了敵兵偷襲奪糧的行動並做出預備措施,並且於有馬城攻城時展現了昔日的勇姿,參陣的諸大名以武神再臨贊歎當時的宗茂。 寬永十九年(1642年)於江戶下屋敷因胃病死去,年七十六歲,法名大圓院殿松陰宗茂大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
立花道雪 Tachibana Dosetsu(1513年-1585年) 戶次親家的長子、母為由布惟常之女.正光院、繼母為臼杵鑑速之姊.養孝院、正室為入田氏、繼室為問註所鑑豐之女.仁志姬(西姬/寶樹院)、側室為宗像氏貞之妹.色姬;幼名八幡丸、孫次郎,初名戶次親守、親廉、鑑連,法號麟伯軒、道雪。 少年初陣 大永六年(1526年)3月20日,豐前馬岳城主佐野親基和問田重安內通大內氏而反叛大友家,大友家令豐後大野郡藤北庄的鎧岳城主戶次親家出兵討伐,然而親家重病在床,年約13歲的道雪代父出征,身著系赤縅的鎧甲綁著水色的繩結,頭戴白星兜並附有八相前指物,腰掛家傳寶刀並騎乘附有金紋鞍的愛馬戶次黑毛,率領3千士兵連夜趕往馬岳城,於清晨時分發動攻勢,於一天之內便攻破擁兵5千人的馬岳城降服佐野親基和問田重安,許多大友家臣對道雪以年幼之身便立下如此驚異的戰功皆讚賞不已,戶次家此後受到大友更加的重用。 同年4月19日道雪之父親家病逝,因此繼承戶次家為第十五代家督,天文五年,改名為親廉官稱丹後守,往後拜領大友義鑑的「鑑」字改名為鑑連,並與津賀牟禮城主入田親誠的女兒波津結婚。 義鎮的忠臣 天文四年(1535年),肥後國人菊池氏一族反叛大友家,道雪率3千兵馬前往討伐。菊池氏聯合城氏、赤星氏、隈部氏、山鹿氏、有動氏、鹿子木氏於車返一地的險隘地形和道雪對峙,並發動火計和三方包圍,此時肥後國人之中的阿蘇氏及合志氏率三千兵力反叛菊池想轉為大友援軍為內應,然而道雪卻派使者海老名肥前傳達說:『不管戰爭的勝敗,武士的忠誠心是最優先重要的。並且我從初陣以來未嘗敗績,此戰也將不假他人之力,況此戰有大明神監督當能克敵制勝,我若僥倖得援軍必敗。』而拒絕援軍,希望對方能作為敵方盡忠作戰。此戰最後靠著道雪堂叔父戶次親宗的勇猛突擊造成敵軍混亂後,道雪以鼓聲振奮士氣,家臣綿貫吉基、由布八郎以槍隊進擊,接著足達左京、安東連信、高野大膳(此時通稱名為玄蕃允)大舉追擊而獲得勝利,豐後和築後的國人此後也盡皆歸降,道雪因此又立忠功。 天文四年(1535年),肥後國人菊池氏一族反叛大友家,道雪率3千兵馬前往討伐。菊池氏聯合城氏、赤星氏、隈部氏、山鹿氏、有動氏、鹿子木氏於車返一地的險隘地形和道雪對峙,並發動火計和三方包圍,此戰最後靠著道雪堂叔父戶次親宗的勇猛突擊造成敵軍混亂後,道雪以鼓聲振奮士氣,綿貫吉基、由布八郎以槍隊進擊,接著足達左京、安東連信、高野大膳(此時通稱名為玄蕃允)大舉追擊而獲得勝利,豐後和築後的國人此後也一一歸降,道雪因此又立忠功。 天文十五年(1546年),秋月文種謀反,大友義鑑令道雪與佐伯、臼杵、吉弘等將率兵一萬前往鎮壓。 天文十九年(1550年),大友義鎮(大友宗麟)的叔父菊池義武,和師傅入田親誠,對義鎮感到不悅,因此慫恿大友義鑑轉立義鎮的異母弟鹽市丸為下任家督並廢黜義鎮的繼承人地位,大友義鎮為此情斷義絕,於2月10日與重臣津久見美作守、田口藏人襲擊大友義鑑的居所,史稱「二階崩之變」大友義鑑、義鑑之女、鹽市丸和他的生母,以及侍女皆一同被殺盡,事變後大友義鎮成為大友家第二十一代當主。 之後於3月,道雪接受大友義鎮的命令攻打始作俑者入田親誠的居城津賀牟禮城,道雪因此而和親誠之女波津離婚,反叛兵敗的親誠在逃往阿蘇家後被迫自殺。接著道雪於8月領兵三萬五千攻破菊池義武的隈本城而立下忠功,菊池義武逃亡至島原。後於天文二十三年(1554年)接受義鎮的命令,率家臣安東家忠及小野信幸埋伏於豐後直入郡木原,包圍受到宗麟以和平為由騙其回歸豐後的菊池義武,迫使其自刃。 筑肥豐轉戰 天文二十三年(1554年)為確保豐前的領土,10月13-15日道雪等大友軍於豐前柳浦擊退駐軍於豐前門司城的毛利軍,道雪之奮戰造成毛利元就、小早川隆景大敗總崩,成功奪回門司城。同年,道雪收弟弟戶次鑑方(鑑堅)之子戶次鎮連為養子,繼承鎧獄城。 弘治二年(1556年)6月3日,大友家爆發小原鑑元之亂、道雪率部下高野大膳於豐後海部郡討伐內通毛利氏進行謀反的住民齊藤小左衛門、本庄統綱、中村長直等,15日往肥後進攻小原鑑元的南關城,鎮壓叛亂。 弘治三年(1557年),大友義鎮對倔強不服,於弘治元年(1555年)內通毛利並舉兵反叛的築前國人秋月文種、肥前國人筑紫惟門發動攻勢,於7月令道雪合高橋鑑種、臼杵鑑速以及吉弘、田北、志賀、一萬田、吉岡、田村、佐伯、朽網、小原等將共約二萬前往征討,道雪不負義鎮所望於7月7日接連攻下文種的古處山城和惟門的五箇山城,使得秋月文種自刃並降服筑紫惟門,至12日平定部分築前和肥前地區。同年大友家與毛利家簽定合約,令毛利家承認大友義鎮之弟大內義長於北九州的領地為大友領有,並且不得侵犯。 永祿元年(1558年)大友軍進攻毛利方的豐前松山城,此戰築後星野氏配下七人眾之筆頭的通口實長(通口越前守)為大友軍奮勇作戰。 永祿二年(1559年)1月秋月文種之子秋月種實受舊臣深江美濃守以及毛利家的援助擊退古處山城的大友軍,並與筑紫惟門聯繫再次對抗大友家,大友宗麟為此以加判眾筆頭的田北鑑生為總大將,以真光寺佐藤刑部率築後國人問註所鑑晴、星野鑑泰、田尻親種及肥前犬塚尚家等進攻筑紫惟門的天判山城,卻於第一次侍島之戰敗於筑紫惟門的釣野伏戰術,佐藤刑部、鑑晴、鑑泰、尚家及親種之弟的種廉、種增戰死。 8月,道雪率大友軍進攻北九州國人國人眾宗像家的領地,攻陷白山城、鳶獄城並進至宗像居城許斐山城的同時因為毛利元就破壞約定偷襲大友方門司城,道雪為防前後夾擊放棄攻城撤退至豐後。一方,門司城將怒留湯主水退至豐後,義鎮對於毛利家的毀約大怒,在對毛利以外交操作談不嚨的情形下,於永祿四年(1561年)4月先以道雪、田北鑑生、田北紹鐵、田原親賢等大友軍率六千餘騎進攻豐前,攻擊毛利方位於豐前的香春獄城,城將原田義種以落石一時擊退大友軍,但道雪冷靜的加入兵力,令追擊的原田氏遭到分斷,大友軍再各個予以擊破,終於7月15日攻落,迫使原田義種自刃。然而此舉造成築前國人眾聯手反擊大友,9月毛利軍又趁機攻落香春獄城,被宗麟委派與毛利軍對峙的城將志賀鑑隆(志賀常陸介)敗退回豐後。 後義鎮親率道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長增、齊藤鎮實、田原親賢等大軍前往豐前門司城,9月2日開始進攻,大友軍更請來葡萄牙軍艦砲擊門司城,10月9日策反毛利方的稻田禪正、葛原兵庫助,但是由於被毛利方發覺利用,於10月10日的明神尾戰鬥中遭到伏擊敗戰,26日大友軍再度總攻擊,這時道雪率領八百名弓兵攻擊毛利軍,並在數支箭上綁上寫有「戶次伯耆守鑑連隨時候教」的字條以激烈的箭雨射向毛利軍,此後毛利軍中,傳開大友家名將「戶次鑑連」的名字,武名逐漸廣傳於多個地區。同年,道雪擔任大友家掌握軍政系統的加判眾職位。 永祿五年(1562年)大友義鎮因為敗戰以及家中信仰問題而剃髮入道號「宗麟」,道雪也跟隨出家入道號「麟伯軒道雪」,不久道雪被任命為築後方分,領有築後赤司城。同時宗麟贈送黃金五十兩給予幕府,控訴毛利毀約之舉,希望足利義輝將軍出面和議,一方著手進行連絡毛利家背後的尼子義久打算準備夾擊毛利家。9月,道雪又隨大友軍進攻豐前毛利方重臣天野隆重鎮守的松山城,於豐前刈田著陣,並於上毛郡防範毛利方的夜襲,13日於松山城後的海岸與毛利軍激戰,10月13又抵抗毛利軍於柳浦一地集體的攻擊,此戰道雪討取冷泉元豐、赤川元德(赤川助右衛門)、桂元親(桂兵部大夫)三位毛利方大將,11月19日大友軍再次強攻松山城,兩方互有重大死傷。於同年內又再次攻擊香春獄城,降伏城將千手宗元。 永祿六年(1563年)1月,因松山城是個倚海難攻的要害久攻不落,大友軍最終撤退。27日道雪受足利義輝之命令對宗麟提出意見,於豐前進行「豐藝和談」。5月兩家終於談合,毛利家保有門司城,交回松山城於大友,並將香春獄城毀壞,退出九州並停止對豐築諸國人眾的援助。 永祿七年(1564年)3月25日,道雪率其麾下由布惟明等家將,再次於豐前柳浦進行作戰。4月2日大友軍於肥前、築後邊境與筑紫惟門對峙為第二次侍島之戰,5月2日兩軍激戰,大友方再次敗於惟門的釣野伏戰術,築後眾的問註所鑑豐、小河鑑昌戰死。後大友宗麟仍親自率兵平定築後,之後過於滿足現狀開始沉溺酒池肉林的玩樂生活,道雪為此強烈的勸諫宗麟。 筑前爭亂記 永祿八年(1565年)築前有「西大友」之稱的立花鑑載自去年反叛大友家,道雪與吉弘鑑理於6月奉命前往討伐,於7月4日,道雪配下由布惟信一隊討取敵猛將彌須圖書助遂攻落其居城立花山城,之後在宗麟惜其家系下沒有將其殺滅,令鑑載繼續為立花山城主。 永祿九年(1566年)毛利家攻陷月山富田城消滅尼子家後屢對築前國人如原田、麻生、宗像、秋月、筑紫等進行策反,並且岩屋、寶滿二城主的高橋鑑種因早先不滿宗麟色淫兄嫂也一併反亂,宗麟對此派出道雪和吉弘鑑理、臼杵鑑速、吉岡長增(宗歡)、齋藤鎮實五將領豐後、築後、肥後共二萬兵前往鎮壓。 永祿十年(1567年)7月7日,大友軍擊退高橋鑑種八千使其退往寶滿城後,以臼杵鑑速攻向岩屋城討取城將足達兵部少輔二千餘人,而道雪和鑑理先後在短兵相接,矢雨如注的激戰下,以家臣小野鎮幸、足達連安、高野出雲、十時惟次、戶次親繁、戶次親宗之奮戰擊退高橋方的猛將福井玄鐵,並且此戰中道雪家臣十時惟忠(十時右近太夫惟定,連久、連貞的堂兄)奮迅連斬28人,激戰中家臣內田鎮並以肉身抵擋敵方狙擊道雪的弓箭幸而保命,終於攻陷寶滿城降服高橋鑑種。11日齋藤鎮實雖於山上城和侍島二次敗於筑紫惟門、筑紫廣門父子的釣野伏戰術損失兩百餘人,但於27日接受惟門自刃及廣門再三的降伏請求並受取筑紫榮門等人質。8月14日大友二萬兵力終於進攻秋月種實,在秋月城下的甘水、長谷山(瓜生野之戰)一帶和種實一萬二千兵對戰,此時道雪在一日為數七場的戰事當中七度持刀槍衝鋒於敵陣討取秋月方七位小有名氣的武將(此戰於戶次軍談中,記載道雪乘馬奮戰,故此時雙足應還健全。),家臣十時惟忠也手持大薙刀,單手貫穿敵兵更將其投飛,戰地因而被稱為「人投原」。15日大友軍再攻落秋月方的邑城休山茄子城,守將阪田諸正自刃,種實見狀退守至古處山城,大友軍則駐軍於休松一地休息。9月3日,大友軍陣中傳來毛利軍來攻的流言,大友軍勢因此開始撤退動作,秋月種實見機引兵一萬二千打算奇襲道雪,但是道雪一早察知率所部三千兵做迎擊態勢並設置虛旗,擊散秋月先鋒軍內田善兵衛實久和問註所鑑景(秋月治部少輔)更突崩中備軍綾部駿河五千騎,雖然問註所鑑景一度重整二千兵攻擊道雪本陣於亂戰中討取十時惟忠,但秋月種實此時見到道雪所擺之噓旗誤以為大友援軍來襲因而撤退。 4日未明,秋月種實四千兵乘著風雨,夜襲卸下軍備的大友軍吉弘鑑理、臼杵鑑速的陣營,大友軍陷入混亂,吉弘、臼杵的將兵轉往道雪陣營時更發生自相殘殺的慘況,道雪見狀吞下正在食用的飯團,急令家中大將由布惟信、小野鎮幸等人分兵驅敵,並率自軍為殿後援助吉弘、臼杵等軍撤退,更持刀槍衝入敵軍中振奮反擊士氣,激勵大友諸將如朽網宗歷(朽綱鑑康)、清田紹喜、一萬田鑑實(一萬田宗慶)、三池鎮實、田尻鑑種而開始反擊,當中田尻一隊便討取秋月方15人首級,家臣足立連安更突陣連斬18人,終使秋月軍轉為劣勢付出重大死傷而暫時撤退,並傳聞此戰的道雪被稱為「鬼道雪」。然而此戰道雪也失去五位親族,分別為叔父親久、弟弟鑑方、堂弟鑑比(鑑方及鑑比皆有同為鑑堅的名字,於各項記載此戰之文書中常被混淆)及堂叔父親繁、親宗。譜代家臣則有由布五兵衛惟清、綿貫勘解由吉廉、十時右近太夫惟忠等部將十三人以及從宗麟直屬派來助陣的小野彈正忠鑑幸(小野鎮幸之父。)於此戰陣亡,築後國人眾領主三池親高更與家臣43人一同陣亡,隨後大友軍退往築後時秋月種實又追擊至甘木高場討取利光兵庫助、橋本玄蕃允等,大友聯合軍損失約5-60位身分不等的將士,包含被討死4百人。 永祿十一年(1568年)2月立花山城主立花鑑載受到毛利元就策反再次反叛大友家,其家臣薦野宗鎮(薦野三河守,薦野增時之父。)、米多比直知(米多比大學,米多比鎮久之父。)此時為貫徹對大友家的忠義不支持鑑載的行動,遭其殺害,後薦野、米多比一族率兵投靠道雪。鑑載則於4月6日迎來毛利家的清水宗知(清水左近將監,清水宗治之兄)8千餘人和軍船百餘艘,更聯合原田隆種(原田榮)、原田親種父子與高橋鑑種家臣衛藤尾張守約1萬人於立花山城,4月24日道雪與吉弘鑑理、臼杵鑑速、志賀親守3萬餘人包圍立花山城及其白岳、松尾等7處城、砦,三個月後於7月4日大友軍強攻立花山城,道雪一軍在攻略其支城松尾城時,於立花山崖上的不利地形苦戰,先鋒高野出雲、十時惟次(十時攝津,連貞之父。)負傷,道雪因而挺進前線激勵家臣戶次鎮直、戶次鎮時、十時惟次、十時惟由(十時但馬,連貞、連久堂叔)、由布惟定(由布宮內,惟信長子)、高野出雲、小野鎮幸、足立連安(足達對馬守宗園)、吉田兼正、原尻鎮清、竹迫鑑種(竹迫日向守昌種)討取敵兵28人。當晚因為道雪的調略而令立花家臣野田右衛門大夫(野田若狹守)背叛為內應引道雪軍入城,戶次統春(後來的立花統春)、十時連久、臼杵鎮氏(臼杵進士兵衛、臼杵鑑速之弟)、池邊永晟等奮戰生捕安武民部,原田親種、清水宗知、衛藤尾張守不敵逃至立花山城西南邊海岸的名島城。 7月23日立花鑑載因支城各個陷落,帶著家族10餘人脫逃往古子城並打算集結兵力於新宮町,卻被野田右衛門大夫告知行蹤遭到道雪軍追擊,進退不得而自殺,同日道雪又與高橋鑑種於宇美河內一地進行會戰,破之,而原田親種,衛藤尾張守以及清水宗知則往中國毛利家方面退卻,立花山城則交由臼杵鎮氏、田北鑑益(田北民部丞、田北鑑重之弟)、津留原掃部助暫時代守。7月29日道雪等大友軍將致力於築前反大友勢力的掃討,但清水宗知為奪回立花山城又聯絡原田親種、衛藤尾張守於8月2日又率軍5千至立花山城下,道雪軍再次和鑑理、鑑速反擊,此時臼杵鎮氏和代父指揮的吉弘鎮信率軍分斷衛藤的軍勢,將戰線從立花山城往西南移動向香椎、名島,越過多多良濱並從莒崎往博多追擊,同時道雪於8月5日率4千追擊原田親種軍勢往生松原,其父原田隆種雖率三千援助親種(第一次生松原之戰),親種仍被射落馬下兵敗逃命。14日早朝會合大友軍於立花山麓共擊敵軍,道雪軍以第一隊小野鎮幸、第二隊由布惟信、第三隊後藤種長(後藤隼人佐)、第四隊堀祥(堀東雲軒玉隱)、第五隊安東家久(安東周防守,家忠之弟)、第六隊高野大膳互相配合交替輪流進行攻擊,追擊至莒崎一地,此時高野大膳奮勇討殺於前軍指揮的衛藤尾張守,敵軍皆因為道雪的夾擊攻勢而做四散逃,全軍往東北進擊討取3百餘人於午時追擊至蘆屋一地,清水宗知則僅剩20餘人乘船回毛利領地。同日傍晚時分,為救援原田親種的原田親秀(波多江親秀)率3千和道雪又在生松原激戰,原田方損失太田孫左衛門忠茂、池園四郎兵衛種之、原田伊豆守種冬、笠新八與昌、上原新左衛門泰元以及原田親種之子原田秀種僅12歲戰死,雙方皆損失多位家臣但以道雪軍獲勝告終,此一系列戰事被統稱為蘆屋合戰。 8月19日,秋月種實終於因為失去毛利家的援助而降服大友軍。11月25日,道雪從築前山隈城移動到高良山下的富本(問本)城,28日,道雪為確保築後國人問註所鎮連不參與築前國人反亂,並感念其父鑑豐於永祿7年為大友家出兵築前討伐筑紫惟門於5月2日忠戰而亡,娶鑑豐之女仁志姬為正室。 永祿十二年(1569年)1月,大友宗麟親率五萬大軍征討「肥前之熊」龍造寺隆信,道雪和吉弘鑑理先後拒絕隆信的投降交涉,大友軍於3月23日開始攻擊,道雪與大友諸將領三萬進攻江上武種的勢福寺城並使其降服,4月6日吉弘鑑理於多伏口一地擊敗龍造寺軍主力,欲進擊之時突然發病而錯失良機。一方,在龍造寺隆信的聯絡下毛利元就見隙率吉川元春、小早川隆景、乃美宗勝4萬餘人由吉田郡山城出發經由海路於4月15日包圍立花山城並斷絕水脈,17日在道雪建議下派出城親冬提出與龍造寺的議和,後隆信也派遣老臣納富信景慰問辛勞議和的道雪,並贈送名馬一匹。5月3日立花山城被奪,宗麟聞訊急報道雪等將回軍包圍立花山城,大友軍3萬於5月5日集結於博多,道雪先於5月6日率軍與田尻鑑種一同進攻毛利軍觸發一場小戰,此戰道雪自身持槍殺敵,5月13日毛利軍度過多多良濱川於松原附近放火與大友軍交戰四回,5月18日元春和隆景率毛利軍4萬餘多多良濱,道雪、鑑理、鑑速則率兵1萬5千分三隊為先陣,之後配置約2萬的大友軍力與之對峙,雙方激戰期間,道雪見到小早川隆景一時的陣形空隙,先以8百人鐵砲隊密集射擊後自身拔刀乘馬(『築前國續風土記』載此時道雪乘馬)率隊衝入敵陣營中,毛利軍此時無法敵擋一時遭受敗戰,後撤退於立花山城,是役為堪稱中世紀日本九州最大的合戰「多多良濱合戰」。 此後戰事轉為膠著狀態,直至十月,毛利元就因為大內輝弘乘虛奪取山口高嶺城以及出雲月山富田城方面遭受「尼子復興軍」攻擊的消息,遂下令吉川元春和小早川隆景立刻撤退回國。道雪這時趁機追擊毛利軍,毛利軍陣亡者約三千四百多人。10月13日,大友三老(道雪、鑑理、鑑速)於「蘆屋會談」中決定攻擊築前混亂的元兇高橋鑑種,攻落其居城寶滿城後令其切腹自盡,但是在宗麟心軟之下只將其流放至小倉城。 擊退毛利軍後的大友軍繼續實行攻打龍造寺隆信的計劃,於元龜元年(1570年)大友六萬大軍包圍佐賀城,這時道雪因為包圍時間甚久導致築前勢力不穩而早先向宗麟提議撤軍,8月20日大友軍總大將宗麟之堂弟的大友親貞遭到鍋島直茂的夜襲被成松信勝奪去首級,大友軍失去主將而接連撤退,這時道雪以殿軍防備陣勢抵擋追擊;此戰大友軍戰死者二千人以上,遂因此敗退回領地。 家督繼承 此時立花山城因為立花鑑載的自刃而為空城,為鎮壓築前的反亂勢力,道雪在宗麟的再三說服下轉封至築前立花山城,於元龜二年(1571年)五月形式上的繼承立花氏,並迎娶宗像氏貞之妹色姬做為部份和平鎮壓手段,然而道雪於天正三年(1575年)便將家督之位讓給獨生女,年僅7歲的立花誾千代,自己退居幕後,道雪此舉完全是因為不想繼承大友叛臣立花氏這個姓氏,終生使用戶次姓。同時,被迫流放豐前小倉城的高橋鑑種其高橋氏則由吉弘鑑理次子高橋紹運繼承,鎮守岩屋、寶滿城。 筑前鎮壓戰 天正六年(1578年)大友家於耳川大敗於島津家,使的大友家逐漸式微,築前國人如秋月、原田、宗像、草野等再次大規模反叛,12月3日,秋月種實聯合築後國人眾問註所鑑景、筑紫廣門約4-5千人攻擊岩屋、寶滿城因為高橋紹運的防戰未果,後於4日在柴田川和立花高橋軍對峙,因為立花高橋軍的兵力過少而再交戰不久便撤退至山野之中,此時種實於晚上追擊,反被立花高橋軍埋伏夾擊敗戰,退回居城。同年12月11日,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,13日道雪配下的由布惟信、十時連貞、安東家忠、高野大膳因於宇美等地轉戰立功而一同被合稱「立花四天王」 天正七年(1579年)4月初秋月種實聯合筑紫廣門和豐前國人城井、長野、千手、齋藤、上原及築前國人宗像、麻生、原田、杉等氏反叛,攻向岩屋城被高橋紹運擊退,同時大友宗麟為此派出豐後的家老志賀親守(志賀道輝、道魁)率築前國人小田部鎮元(小田部鎮通、紹叱)、大鶴鎮正(大津留式部、宗雲,實為鎮元之父)二千餘攻進秋月家石阪一地(鍬摺之戰),卻遭到宗像氏貞、麻生元重、杉連並、許斐氏備、原田鑑尚(大鶴鎮正之子,但有一說為鎮正之伯父)呼應秋月軍的的埋伏包圍,紹運因此和道雪出戰夾擊敵軍救援志賀等將,後讓志賀親守暫時駐軍於岩屋城。 7月18日龍造寺隆信出兵築後之際,其武勇出眾的次子江上家種聯合原田親秀以執行總兼為大將率軍侵略大友家的安樂平城(荒平城),城主小田部鎮元頑強抵抗,此時鎮守安樂平支城.池田城的小田部家武將大教坊兼光背叛鎮元。9月11日鎮元聯合鎮守鷲岳城的大鶴鎮正之弟大鶴宗逸對池田城發動夜襲,大教坊一族85人全員戰死,同日龍造寺軍攻向池田城,鎮元與宗逸出城渡江奮戰身亡,另一方面雖然大鶴宗雲早先聯絡到立花道雪以十時連貞、小野鎮幸率6百兵並輸送兵糧物資為援軍,但是趕不及龍造寺軍的激烈攻勢;鎮元籠城長達約三個月最終仍被攻陷,立花軍僅能救走鎮元遺下的次子統房。 期間於7月27日,秋月、筑紫聯軍又偷襲大宰府,道雪聯合紹運將其擊退。8月13日派出家臣足立連安等將救援食糧不足,大友方柑子岳城的木付鑑實,於14日的歸路中在生松原一地遭原田氏夜襲(第二次生松原之戰),道雪此戰乘轎督戰。同月,宗像氏貞、麻生元重、原田鑑尚等反大友聯軍於多多良川左岸的箱崎攻入領地,道雪趁夜派一名家臣涉水度過多多良川,潛入上松城與內應放火並俘虜元重之妻,宗像、麻生、原田三將見自城起煙於是退到許斐城,元重私底下想投降道雪,但被氏貞發覺而被殺,9月18日道雪聯合紹運攻入宗像家領地的鞍手郡,氏貞敗走,鑑尚投降被志賀親守誅殺,同月秋月種實又進攻寶滿城,道雪和紹運於吉水一地將其擊退。 同9月下旬,道雪、紹運、志賀親守(道輝)為討伐原田親秀(原田隆種)進行軍議,決定由紹運留守防備秋月、筑紫,道雪則率三千兵,以小野鎮幸、由布惟信為先鋒進軍肥前高祖山城並放火燒村,原田親秀以一族之原田林慶為大將率六千出擊,將道雪軍衝散並逐漸聚集當地鄉士之兵力,追擊道雪軍至生松原,此時林慶見道雪背後河川滿潮,認為道雪之兵比起溺死將會轉而奮鬥攻擊自軍,因而打算待其退潮,同時小野鎮幸也向道雪提出該利用此背水之陣令士兵突擊敵陣,兩軍互相觀察,隨後小野、由布率五百分左右進擊,道雪後陣遂追擊將原田軍打回高祖山城,林慶則在小野、由布及薦野增時的夾攻下被討死,道雪軍攻破三之丸、二之丸後遂放火燒城返回生松原執行首實驗後回軍立花山城。(此戰載於『大友興廢記』、『戶次軍談』) 10月24日龍造寺隆信趁攻落安樂平城之氣勢再度出陣築前,派出家臣大田兵衛三千餘人聯合筑紫廣門攻擊大鶴鎮正的鷲岳城,因為高橋紹運出兵於山田山和隆信對陣為大鶴鎮正的後援而使大田、筑紫兩將撤退,但11月15日筑紫廣門又派兵游擊偵查,紹運因此鎮守於岩戶一帶監視,同時秋月種實偷襲岩屋城,紹運因此回軍岩屋並於半路打擊筑紫勢的追擊,重整岩屋城的兵力後於高尾山對戰四千秋月軍,秋月軍因紹運的火攻而有部分撤退,同時道雪出陣牽制筑紫軍並和紹運夾擊令其敗退,終令大鶴鎮正脫險。天正八年(1580年)2月,龍造寺隆信聯合秋月、筑紫、原田、草野2萬軍力進逼築前西南邊境的生松原,2日道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士(傳聞此戰也是立花宗茂的初陣),3日於月隈村築砦,16日對豐後諸將發出有名的「九條檄文」。3月,因為宗像氏貞與大友家合議,氏貞將其妹色姬嫁給道雪,並割部分領地為嫁妝,此時道雪67歲,色姬25歲。7月,道雪與龍造寺隆信合議,築前西9郡龍造寺領,東6郡大友領。9月,道雪和紹運於奈須美一帶擊退秋月種實。 天正九年(1581年)3月6日道雪於那珂郡麥野村築砦。同年龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下大鶴鎮正的鷲岳城而於7月27日進軍至大宰府,並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前岩屋城,紹運與之對峙,道雪並派家臣竹迫統種、薦野增時等將為援軍,雖成功於觀世音寺之戰擊退敵軍,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰鬥,此時紹運以弓、鐵砲、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右迴於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取井田親氏,此石阪之戰也是立花宗茂普遍被認為的初陣,其優異的表現令道雪正式興起迎統虎為婿養子的念頭。同年8月,膝下無子的道雪,終於對高橋紹運提出希望其長子高橋統虎(宗茂初名)能繼承立花家,起初紹運因為統虎優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,統虎終於成為道雪的養子。於8月18日,統虎和道雪的女兒立花誾千代結婚成為婿養子而繼承立花家。(但是夫妻相處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居。) 11月6日,大友宗麟為援助被秋月種實、問註所鑑景夾擊的家臣朽網鑑康(朽網宗曆、宗歷),而命道雪、紹運、宗茂出陣,立花高橋共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰(許多史料因同戰地而常與石阪之戰混淆,秋月方史料則記為八木山合戰)。 同年11月12日,立花山城東北方的宗教國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬(宗像氏貞之妹色姬為道雪側室)的嫁妝給立花,趁立花軍一面出戰秋月軍(潤野原之戰),一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、內田鎮家、足立連安等立花家臣800兵前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲(小金原之戰,立花家稱清水原之戰),此戰中足立連安連斬18人,而惟信之子由布惟次也以鐵砲狙擊敵大將河津盛長(河津修理進)立下大功,但隨後奮戰中身受13處重傷,最後在由布、小野、薦野、內田等立花家臣以背日光於高處下山衝陣等兵法上正確的判斷,宗像方大敗,將領吉田貞辰、石松秀兼等人皆被討取,而宗像家的背叛觸怒道雪,兩家之間的同盟因此破裂。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡岩戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦(貓卡城),並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下先於3月16日派小野鎮幸、由布惟信侵攻宗像許斐山城周邊的八並村,4月16日才前往那珂郡岩戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,統虎和薦野率五百兵為伏兵,道雪本隊在危急之時因統虎的策略終於擊退原田勢,隨後讓統虎率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再岩戶一帶的岩門庄久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日,攻入宗像領地,侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月16日的吉原口防戰討取吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,氏貞只能退往白山城,遂驅逐宗像勢力,而宗像氏貞之妹,道雪的側室色姬也因此於隔年3月24日在立花山城中自殺。(一說病死)同天正十一年1月期間,筑紫廣門數次於夜晚派兵侵擾立花領地,2月4日,道雪以家臣竹原藤內為伏兵擊退廣門3百兵,斬獲甚多。3月筑紫廣門又出兵太宰府,道雪與紹運共同抵禦,此戰立花統春作為先鋒立下一番槍,再次擊退筑紫軍勢。4月8日,筑紫軍又潛入築前那珂郡偷割青麥,立花軍先鋒竹原藤內與之對戰,接應主軍並行夾擊,又再次擊退筑紫軍。 筑後遠征期 天正十二年(1584年)4月12日,筑紫廣門又率軍侵攻御笠郡,道雪與紹運反擊至筑紫家領地的武藏城下,道雪家臣吉田連正、後藤連種、佐藤次郎三郎等率其部眾力戰衝鋒陷陣,紹運又分二千兵為三隊進行橫擊,筑紫軍戰敗退入城中。3月,因龍造寺隆信於沖田畷之戰對上島津軍戰敗身死,大友家為此趁機出兵想奪回築後,以宗麟次子大友親家、三子大友親盛率豐後大友軍7千人進攻築後貓尾城的黑木實久(黑木家永),實久則聯合龍造寺軍共2千餘人在貓尾城與高牟禮城籠城抗戰,經過一個月大友軍仍然無法攻落,大友家第二十二代當主大友義統為此要求道雪與高橋紹運出兵,兩軍於8月18日以紹運2千人為先陣、道雪3千人為後陣出發,紹運在渡過築後川擊滅秋月家武將芥田兵庫50餘人後與道雪越過鷹取山,並以由布惟信為殿軍,在狹窄的山道途中又遭到伏兵以鐵砲狙擊,道雪也以弓、鐵砲反擊,此時紹運以擅長鐵砲狙擊的家臣市川平兵衛反狙擊令道雪脫離險境,但伏兵仍攻擊殿軍的由布惟信,道雪又回軍以立花統春、立花成家與敵兵激戰;此時以軍師大橋桂林之計,故意朗誦歌謠悠然進軍,然後突然回軍攻擊,敵兵遂因此逃去。(傳聞此時道雪才以坐在"輿"上行軍) 19日,兩軍到達高牟禮城,隨即寢返黑木家老樁原氏部,氏部並於24日開城,龍造寺援軍的土肥吉春(土肥出雲守)因此離城逃去。此時貓尾城已被孤立,道雪和紹運開始對黑木家同族的何崎重高防守的犬尾城攻略,28日在城島、酒見・榎津・貝津進行掃討,不久開始進攻貓尾城,在樁原氏部的帶領下9月1日(一說5日)攻下貓尾城,黑木實久則自殺身亡。8日又接連攻下蒲池鎮運的山下城以及築後各處的小城如谷川城、邊春城、兼松城、山崎城還有田尻鑑種的鷹尾城,大友軍終於展開對九州築後有名的堅城「柳川城」的攻略,城將龍造寺家晴死守不出,大友軍連翻攻擊未能攻下,道雪遂於10月3日因高良山大社座主良寬之建議移陣至高良山,並攻下久留米城、安武城、西牟田城,且勸降草野鎮永的吉木城,4日改攻籠城於發心岳城的草野鎮永和星野吉實的鷹取城、福丸城,後又侵攻問註所鑑景燒毀竹井城並於秋月領甘木一地對其掃討牽制,之後於年底又回陣高良山時,大友親家和親盛卻因長期戰陣在外以疲倦為由退回豐後(一說是大友義統通知秋月種實的侵略要其回國防備),留下立花高橋軍於築後。另外此時道雪處決擅自回家鄉過年的家臣,連其父母也同罪。 天正十三年(1585年)2月上旬龍造寺家晴、鍋島直茂於柳川城率軍5千出戰布陣於高良山南方的西牟田,北方則有秋月種實、長野鎮展、草野鎮永、城井鎮房、千手氏、星野氏、問註所氏等國人施加壓力,2月中旬龍造寺政家共集結3萬餘大軍近逼高良山。龍造寺軍於4月18日以後藤家信(龍造寺隆信三子)率筑紫廣門、波多親、高木左馬助8千人於築後川壓迫。 此時豐後大友軍朽網鑑康率野上清四郎來援與道雪、紹運三大將共9千8百餘兵力分為兩軍對抗,以朽網鑑康一隊往西牟田壓制北方國人眾,道雪和紹運則於高良山西北方的築後川和寶滿川交接處的小森野一地布陣,紹運以家臣伊藤總右衛門、福田民部少輔5百兵為先鋒但不敵筑紫廣門、後藤家信等龍造寺軍的優勢兵力,紹運因此後退引誘,激戰之時紹運以其剛勇的家臣萩尾治種(萩尾大學)、成富左衛門一千五百騎從龍造寺軍側面筆直突入造成其勢虛弱,後藤、筑紫無法阻止軍勢崩壞兵卒竄逃,道雪3千兵則迂迴至北野村從側面攻擊,追擊渡過築後川至肥前鳥栖、十三部野一地,討取1百87餘名戴甲武士。此戰為小森野之戰。 後大友軍以紹運率豐後日田、玖珠、國東、南部各郡2千兵以野上清四郎為先陣,在築後川上游之一的筒川,沿川邊擺「長蛇之陣」後陣擺「雁行之陣」,又以朽網鑑康布陣於高良山腹以「鳥雲之陣」(形容如鳥群集散於雲層之間,為臨機應變的陣型)潛伏,而道雪率第二陣以小野鎮幸、由布惟信為首率京都鎮安、萩尾治種2千兵為「浮武者」(游擊兵,潛伏並見機突擊之奇兵)潛伏於野中村為後陣,且高良山座主丹波良寬也率法師武者大祝保真、宗崎孝直、稻員安守等7-8百兵力參陣於後備。兩軍以足輕隊開戰,後紹運以200挺鐵砲橫一列猛烈射擊,龍造寺軍也從高良山左側出擊,於十三部野一地野上清四郎捨身碎骨奮勇突進立下一番槍,激戰之時紹運退後,挑釁引誘龍造寺軍追擊並三度反擊討取多人,同時第二陣小野鎮幸、由布惟信與後陣京都鎮安、萩尾治種又從側面突擊斷絕敵軍後路,紹運又將右翼的先陣兵力以長槍加入攻勢,此時先陣後陣的騎兵整齊一列軍勢並進突擊,道雪更突馳追擊至敵本陣前的祇園原,龍造寺的騎馬武者多數陷於田地遂敗,損失2百83名戴甲武士。此戰為十三部野之戰。 4月23日,龍造寺家晴、筑紫廣門又率1萬6千餘後備兵力進攻高良山,於高良川沿堤防分五段軍勢。道雪、紹運、察知龍造寺軍的行動,與良寬、蒲池氏合併8千兵力布陣於祇園原,並將兵力二分,於各處配置伏兵。道雪此次親自為先陣大將,並配置由布惟信、十時惟由、十時連貞為先鋒,安東連忠、內田鎮家、竹迫連種、綿貫吉兼為後陣,高良山法師武者良寬等則隔軍配置做為後備。道雪擺出約120-200挺鐵砲,只要敵軍一接近就只發射20-30發威嚇,而龍造寺軍約7-800挺鐵砲卻因此連發,由於龍造寺軍於山間擊出多發鐵砲造成煙霧瀰漫視界不良並且受回音干擾,道雪的鐵砲隊則因為控制得當沒有受到硝煙影響,而龍造寺軍卻在這不利的狀況憑其大軍猛烈突擊,先鋒的惟信、惟由、連貞遂趁此狀況進行突擊並偽退誘敵,一度將其先鋒擊退後,龍造寺軍交替後陣不知是計猛烈追擊、道雪也加入後陣安東連忠等兵力,兩軍進入激戰被形容有如萬雷震盪,此時道雪立起馬印吹起法螺貝大為鼓舞軍勢,下令分二隊以由布惟信、十時惟由、十時連貞、內田鎮家、竹迫連種從側面突擊,此時十時連秀、綿貫吉兼、後藤種任(後藤新五兵衛)、野上清四郎等揮槍討取龍造寺方不少有功的武士,同時以「鳥雲之陣」潛伏已久的朽網鑑康也突然襲擊,龍造寺軍潰散直至中軍,龍造寺家晴、筑紫廣門無法控制敗勢,道雪追擊約2町距離後引退,而龍造寺軍又重整軍勢反擊之時,紹運和良寬之伏軍又從森林兩旁出現以弓、鐵砲猛烈攻擊,打擊龍造寺軍反擊之軍心,使其受三方圍攻大敗。此為祇園原之戰。 以上小森野、十三部野、祇園原三戰統稱築後久留米合戰(又稱為筒川合戰)是為道雪最後一次大戰役,也是其引用『孫子兵法』的「奇正戰術」最為代表性的一次戰役,其戰績被評價可媲美孫子、吳子。(此戰記載於『大友興廢記』、『九州諸將軍記』、『築後國史』、『高良山物語』等九州方面史料。) 死亡 就在大友軍與龍造寺軍鷸蚌相爭之時,島津家逐漸漁翁得利侵占兩家領地,此時龍造寺家以及一眾築前國人國人眾逐漸附屬於島津家,大友軍持續攻防至6月初,道雪開始發病,紹運因此將軍陣移至高良山下的北野村,9月道雪病狀惡化,在對家臣說:「把我的遺骸穿上甲冑並面向柳川城埋於高良山上,如果有人違背此事,那麼將世代遭受詛咒!」後於9月11日病逝世,年七十三歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E9%81%93%E9%9B%AA

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