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南部利直

北信愛 Kita Nobuchika(1523年-1613年)北致愛的長子,幼名彥太郎,法名松齋。北致愛為三戶南部氏的一族劍吉城主,其後信愛繼承父親的封地,領劍吉城兩千五百石,並讓次子秀愛迎娶了當主南部晴政的五女。元龜二年(1571年),南部家中發生「屋裏之變」,信愛選擇保護石川高信之子南部信直,並與南部晴政對立。後來晴政隱居,便輔佐晴政之子南部晴繼,並為晴繼戴上成年禮的烏帽子。天正十年(1582年),晴政父子先後在同年辭世,家中因為爭奪家督一事大亂,除了南部信直之外,九戶城主九戶政實力挺娶了南部晴政之次女的弟弟九戶實親。當時因為北信愛的正室為淺水城主南長義之女,而南長義又是南部信直親父石川高信之弟,由於這層姻親關係北信愛決定擁立信直,南部氏家督之位最終也在八戶政榮和北信愛領兵百人護送信直入三戶城繼任後,確定由信直坐上南部家第二十六代家督的寶座,此後北信愛稱尾張守,全力輔佐南部家的內政與外交,做為南部氏家老活躍。身為信直的擁立者,北信愛自然想讓信直的江山安穩。天正十五年(1587年),北信愛向信直建言與幾近掌握天下的豐臣秀吉臣服,在信直接納同意後,北信愛便出使金澤城拜訪秀吉的重臣前田利家並送上老鷹表示忠誠,透過前田利家與豐臣秀吉交涉。天正十七年(1589年),南部信直乘安東家檜山、湊兩系紛爭再起之際命北信愛與大湯昌次攻奪比內大館城。天正十八年(1590年),在秀吉發起小田原討伐時勸諫信直出兵參戰,終得到秀吉確保南部本領安堵的朱印狀,被承認是南部氏正統的家督,同時因為早些年的大浦為信(津輕為信)謀反而失去了津輕的領地,但是在北信愛的努力下經由前田利家從秀吉手中得到和賀、稗貫兩郡作為補償。天正十八年(1590年)信愛的四子愛邦過世。同時長年與南部信直對立的九戶政實趁大崎、葛西的遺臣們發動一揆時於天正十九年(1591年)起事,並且引誘久慈、七戶諸氏一同背叛南部家,在信直鎮壓失敗,派出北信愛與長男利直趕往京都聚樂第,乞求豐臣秀吉派出援軍助信直平亂,北信愛更以九戶政實違反當初秀吉在征討小田原前所發佈的奧羽物無事令為由進行控訴,最後秀吉以羽柴秀次為總大將展開討伐,以九戶政實的反亂被蒲生氏鄉統領六萬大軍平靖,期間北信愛的次子秀愛也有出陣,而且之後也參與平定葛西、大崎一揆,表現豪勇。戰後,秀愛成為和賀郡鳥屋崎城代,獲得八千石領地,並自信直處拜領「直」字,改名為直愛,也把鳥屋崎城易名為花卷城,三男愛繼也獲得輕米城兩千石。九戶之亂終息後,北信愛做為南部家的重臣協佐信直治國,奠定日後南部藩的基礎。慶長三年(1598年),直愛逝世,北信愛替代亡兒接任花卷城代,並且收妹夫櫻庭光康的四子為養子,是為北信景,而北信愛也在至花卷城赴任後開始進行本丸、二之丸、三之丸的整備與構築花卷城下町的工作,此外為了方便統治當地以收安撫民心之效北信愛招募起用已沒落的名門斯波遺族雫石久詮及豬去久道為家臣。慶長四年(1599年),南部信直死後,信愛剃髮自號松齋,獲得許可隱居,讓信景繼承北家。慶長五年(1600年),德川家康與石田三成引爆關原之戰,遠在東北的南部家亦被波及,花卷城周邊騷亂再起。南部家選擇投向東國有強大實力的德川家,當時同樣為東軍效力的最上義光因與上杉軍的交鋒陷入苦戰,為了救援最上,北信愛與藩主利直一同領兵救援山形城,就在南部軍主力盡出之刻,早對南部領土有覬覦之心的巖出山城主伊達政宗煽動和賀、稗貫二郡的舊領主和賀義忠和稗貫家法帶領一揆勢力包圍花卷城,由於防守薄弱三之丸被一揆軍攻下,已半失明的北信愛迅速回軍與信景合兵,以老邁之身奮力死守,因為兵力不足,北信愛將農民和町民、甚至將女官也投入戰鬥,而年輕力壯的北信景則親率五十精兵以拿手的弓箭、槍砲之術遊擊叛軍。翌年,南部利直在上杉軍退出最上領後回援將叛軍鎮壓,和賀忠親被捕送往江戶,花卷城解圍,慶長十八年(1613年)八月北信愛過世於花卷城,享壽九十一歲,因為當時北信景已經叛離南部家,所以由南部信直的次男政直繼為花卷城主。做為盛岡藩開創之時的股肱重臣,北信愛的功勞不可謂不大,據說他每次參戰都會在髮髻之中放一尊觀音像以求平安。出處#1 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&sn=288 出處#2 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E4%BF%A1%E6%84%9B
北信景 Kita Nobukage(1575年-1615年)櫻庭光康的四子,母為北信愛之妹,通稱十左衛門。天正十八年(1590年),叔父信愛的嫡子愛邦與次子直愛相繼死去之後,被信愛收為養子,改名愛信。當主南部信直死後,信愛剃髮自號松齋,獲得許可隱居,由愛信繼承北家,正式成為花卷城主。慶長五年(1600年),為了爭奪太閣秀吉所留下的天下,德川家康與石田三成引發關原之戰時,這場動搖天下霸權的大會戰連遠在東北的南部家亦被波及,在東西軍的選邊站中,南部家選擇了在東國有強大實力的德川家,當時同樣站在東軍一方的最上因背棄與上杉的盟約,而遭到了直江兼續的攻打,為了救援最上,養父北信愛與藩主南部利直向山形出兵,沒想到同樣對最上派出援軍的伊達政宗早對南部領土有覬覦之心,趁北信愛與藩主南部利直出兵時運用謀略策動南部領下和賀、稗貫的一揆勢力對花卷城進行包圍。連忙回援的信愛以半失明的老軀之身死守,而年輕力壯的信景則親率五十精兵縱橫縱橫沙場以拿手的弓砲之術擊潰了戰心散漫的一揆軍,因為這項戰功受到當主南部利直的賞識而自南部利直處拜領「直」字,並改名為直吉。在慶長七年(1602年)時受命單任礦山奉行在尾去澤等地開採金山,其後更發掘了白根山的金脈,替南部家帶來了莫大的利益。慶長十七年(1612年),擔任南部利直近習的信景之子十藏,年方十歲居然被南部利直命令去斬殺一名罪人,結果反被誅殺,面對這樣悲哀的惡耗,信景不明白為何南部利直會讓十歲的愛子去執行這樣不合常理的任務,一怒之下放棄官職剃髮出走,臨走前藉職務之便帶了大量金塊出奔,投入大阪城。慶長十九年(1614年),大阪冬之陣時,北信景做為豐臣軍中的一員,負責三之丸北方的守備任務,使用他最精擅的弓術攻擊德川軍,令德川軍損傷不少,受阻城下,一時難以再進而聲名大噪。陣中在箭雨下搶救回來的兵士身上的箭頭均刻有「南部十左衛門信景」的銘文,使將軍秀忠質問南部利直:「信景既已出奔,為何還使用南部的姓氏?」而使南部利直險些遭受謀反的嫌疑,這也算是一種變相的報復吧!元和元年(1615年),豐臣家的大阪城在夏之陣落城後,北信景自大阪城脫出欲逃往伊勢,但在途中就被德川軍捕縛,被送至盛岡的新山川原處極刑。處刑之際,信景的手腳趾先各一個被剪掉,但他仍出言嘲笑南部利直,南部利直本來想折磨信景出在大阪之陣時因他被蒙上謀反罪名的惡氣,最後南部利直終不堪信景的羞辱,取弓箭射之,信景被當場射殺,享年四十一歲。出處 http://happyfish.zone.gamebase.com.tw/zone/happyfish/forum/3867/archive/topic/364352
南部信直 Nanbu Nobunao(1546年-1599年)石川高信的長子、母為一方井安政之女、養父南部晴政、正室為南部晴政之女、後室為泉山古康之女.慈照院、側室為稗貫御前;幼名龜九郎,通稱田子九郎,初名石川信直,繼承南部氏,改名為南部信直。晴政的養子及爭執 永祿八年(1565年),由於堂哥南部晴政一直無子,因此便招信直為女婿,將長女嫁給信直讓其成為養子,迎入三戶城。永祿九年(1566年)及永祿十一年(1568年),擊退侵入鹿角郡的安東愛季而打響名聲。永祿十三年(1570年)時,南部晴政的長子南部晴繼誕生,由於晴政是老來得子,因此十分溺愛晴繼。信直擔心自己非晴政親生骨肉,日後晴政為讓晴繼繼承家督時會剷除他,加上至天正四年(1576年)時,夫人(即晴政長女)早逝,身感危險便自行辭去晴政養子的名義,並躲至田子城。(此理可由日後的豐臣秀吉與豐臣秀次事件可知。)『八戶家傳記』記載,信直於元龜三年(1572年)時參訪於川守田村的毘沙門堂,南部晴政親自率兵襲擊在毘沙門堂的信直。為自保的信直,使用鐵砲反擊讓晴政落馬,也擊中同為晴政女婿的九戶實親(實親的夫人是南部晴政的二女)。然而南部晴政對信直的不信任感還沒結束,擔心晴政會派遣刺客的信直,也會藏身至北信愛的劍吉城或根城南部氏當主八戶政榮的根城。知道這點的晴政便連橫南部一族的有力勢力九戶氏,而信直也跟南長義及北信愛聯合來跟晴政對立。繼承南部宗家家督 天正十年(1582年),南部晴政死亡,由南部晴繼繼承家督,但同年內遭到不明的暴漢集團暗殺。有說法是信直正是幕後主導者,甚至說是信直引起內亂,殺死南部晴政父子,但真相依然不明。晴繼死後,南部一族便緊急聚集重臣召開大評定來選擇後繼者。九戶政實推舉其弟實親繼承家督,而事前北信愛就跟根城南部氏當主八戶政榮調略及南長義和北信愛共同推舉信直的狀況下,讓信直成功繼承家督。這使九戶政實懷恨在心,家中一直處於不穩的狀態。南部宗家與一族間的內部鬥爭,使得南部家對周遭的外敵抵抗力下降,對於奪取津輕地方的叛臣大浦為信也無法有效的加以討伐。豐臣政權之下 天正十四年(1586年),滅亡高水寺斯波氏斯波詮直擴大勢力。天正十五年(1587年),派遣北信愛向加賀國的前田利家表示對豐臣政權的臣服。天正十八年(1590年)1月,信直向津輕地方進軍,此時大浦為信也悄悄的上洛謁見豐臣秀吉。戰況方面,由於大浦軍的堅強抵抗及寒冬時節的影響讓南部軍陷入苦戰,之後收到豐臣秀吉的小田原征伐參戰令而撤軍。信直委任八戶政榮留守三戶城,帶著政榮之子八戶直榮及1000名兵力前往小田原,並於4月抵達。7月27日,獲得豐臣政權正式認可的7郡(糠部郡、閉伊郡、鹿角郡、久慈郡、岩手郡、紫波郡、遠野郡)所有權朱印狀。小田原征伐結束後,豐臣秀吉開始進行奧州仕置,其中最讓信直難堪的就是承認大浦為信是獨立大名,信直向秀吉上訴,認為為信是從南部家背叛出來的勢力,又違反惣無事令(禁止大名間私鬥之令),沒有理由成為大名,但因為以下幾點:.大浦為信靠著在豐臣家中的私交說情(如織田信雄、豐臣秀次、石田三成)。 .豐臣秀吉不願讓單一勢力領地過大。 .大浦為信比南部信直還要早到小田原表示對豐臣政權的臣服。 .使得豐臣秀吉最終駁回大浦為信叛亂的說詞,為信成功當上正式大名,並改名為津輕為信,信直不得不接受這個事實。之後秀吉因奧州仕置而遠征東北時,信直便與淺野長政共同擔任先鋒。奧州仕置後引起葛西大崎一揆、和賀稗貫一揆,天正十九年(1591年),九戶政實叛亂,史稱九戶政實之亂,也是豐臣政權之下國內最後一戰。秀吉派遣豐臣秀次作為總大將,集結許多東北地區的大名協助信直,因此迅速的就被鎮壓,政實與實親兄弟被以謀反人的身分遭處刑。討伐九戶氏後,由於討伐軍中也包含津輕為信在內,此時信直便向淺野長政表示為信是他的殺父仇人,要求讓他討伐為信。長政拒絕,蒲生氏鄉也介入幫忙說服信直,在擔心為信安危的情況下,便催促為信趕快返回領地。之後豐臣秀吉命令蒲生氏鄉修築九戶城,信直也將本據地從三戶城移到九戶城,並將九戶城改名為福岡城。而所失去的津輕3郡(平賀郡、鼻和郡、田捨郡)則改封和賀郡及稗貫郡作為補償,成為共領有9個郡的10萬石大名。11月時與長子南部利直上洛向秀吉道謝。天正二十年(1592年),參加文祿・慶長之役,率領約1000名兵力至肥前國的名護屋城參陣。渡海至朝鮮後隔年得到歸國許可。晚年 從肥前國回國後,便開始鞏固領地內的治安與建設,以及欲在盛岡建築新居城。由於領地在九戶政實之亂後有再做調整,變得與伊達氏的領地有銜接,信直知道伊達政宗是個狡猾的野心家,所以才將新居城的地點定在盛岡以防伊達政宗的侵略,而在慶長五年(1600年)關原之戰時期,伊達政宗也的確煽動和賀忠親在南部領地內引起岩崎一揆的行動來看,證明信直的顧慮是正確的。慶長三年(1598年),豐臣秀吉去世後,開始接近德川家康。慶長四年(1599年),盛岡城開始動工,同年10月5日,於福岡城病死,年五十四歲,法名常往院殿前光錄大夫江山心公大居士。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%9B%B4
南部利直 Nanbu Toshinao(1576年-1632年)南部信直的長子、母為泉山古康之女・慈照院、正室為蒲生氏鄉之女・源秀院、側室為山田九郎左衛門之妹・法源院;通稱彥九郎、別名晴直,受前田利家偏諱「利」字,名為利直。慶長三年(1598年),豐臣秀吉去世後,父親信直開始積極接近五大老筆頭的德川家康。翌年,父親信直因病逝世,利直繼承家督。慶長五年(1600年),關原之戰時期,家康命令東北及北陸的大名攻擊與西軍石田三成內通的會津上杉景勝,利直便以最上義光的後援身分參加慶長出羽合戰,但此時卻遭同為東軍的伊達政宗煽動和賀忠親於南部領地的和賀郡引起一揆。利直將主力帶回到領內後平息該亂(通稱岩崎一揆)。戰後獲德川家康承認領土,成為盛岡藩藩祖,領有10萬石。之後著手於盛岡藩政的整備,開發白根金山與西道金山等礦山來使財政安定。慶長二十年(1615年),盛岡城建造完畢,城下町也慢慢形成。因為先前有像九戶政實之亂的多數有血緣關係家臣遭處罰的案例,因此利直選擇集權獨裁化來鞏固盛岡藩的基礎。慶長十九年(1614年),出兵參與大阪之陣,與江戶幕府關係大大強化。寬永九年(1632年),在江戶的櫻田宅邸過世,年五十七歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E5%88%A9%E7%9B%B4
南部重直 Nanbu Shigenao(1606年-1664年)南部利直的三子、母為蒲生氏鄉之女・源秀院、正室為加藤嘉明之女、側室為本館甚右衛門之妹・貞心院、側室為岸本右衛門之女・隆高院;通稱權平,戒名即性院殿三峰宗玄大居士。重直於江戶櫻田屋敷出生,父親利直為陸奧盛岡藩初代藩主。寬永九年(1632年)利直死去,兩位兄長為庶子,重直繼任家督成為第2代藩主。在藩政方面,完成由祖父南部信直時代在盛岡城開始的築城工事等,專注於建立盛岡藩的根基。有著苛烈的性格。沒有兒子,卻希望列入幕閣成為譜代大名,因此收堀田正盛的兒子為養子(南部勝直),但勝直在18歲時死去。寬文四年(1664年)9月12日,於江戶死去,年五十九歲。重直在事前向第4代將軍德川家綱請求選定後繼者和南部家的存續。在重直死後,家綱裁定重直的弟弟七戶重信減封2萬石並繼承盛岡8萬石家,弟弟中里直好則繼承被減出來的八戶2萬石家,在實際上進行分割相續。最初自稱花輪重政的七戶重信改名為南部重信,中里直好改名為南部直房。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E9%87%8D%E7%9B%B4
堀尾忠氏 Horio Tadauji(1578年-1604年)父:堀尾吉晴、母:津田氏、正室:前田玄以の娘・長松院;幼名弥助,受徳川秀忠偏諱「忠」字,名為忠氏,戒名忠光寺殿前雲州太字天軸球大居士。天正6年(1578年)、当時は織田信長の家臣で後に豊臣家三中老となる堀尾吉晴の次男(異説として長男とも)として生まれる。兄・金助(金助は吉晴の弟の子で養子との説もある)が天正18年(1590年)に小田原征伐の陣中で亡くなったことから、吉晴の世子となる。元服に際しては徳川秀忠から偏諱を受けて忠氏と名乗った。類似の例に前田利家から偏諱を受けた南部利直、増田長盛から偏諱を受けた長宗我部盛親のケースがあり、大老・奉行の下に大名が統制されていた傍証となっている。慶長4年(1599年)、父の隠居に伴い、遠江浜松12万石を相続する。ただし、中老職を継承したかどうかは不明である。父は隠居料5万石を徳川家康から与えられており、またこの時点ですでに三中老制は有名無実化されていたことから、恐らくは相続していなかったものと思われる。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康方の東軍に与して山内一豊と城提供の策を謀議し、また戦前に加賀井重望による殺傷事件に遭遇して負傷した父に代わって、東軍側として関ヶ原前哨戦に武功を立てる。本戦にも参加したが、こちらでは長宗我部盛親の出撃を牽制したのみで武功を挙げていない。戦後、前哨戦における武功を徳川家康から賞されて、出雲松江24万石に加増転封された。ちなみに父・吉晴の隠居料は忠氏の加増転封に伴い収公されている。その後は父と共に協力して藩政を行なった。慶長5年(1600年)11月に堀尾家は出雲に入国する。忠氏は月山富田城を居城としたが、この城が山に囲まれて地理的に偏った場所にあり、水上交通には不便である事や城下町を広く建設できない事などから、慶長8年(1603年)に江戸幕府から新城建設の許可を得て、城地の選定に乗り出した。この城地選定に関して吉晴と忠氏の意見は異なっており、吉晴が荒隈山を、忠氏が亀田山(末次城跡)を述べるなど意見の対立があったようである。忠氏は吉晴が推す場所は余りに広大すぎて維持費がかかり過ぎ、24万石の身代では困難であるとして反対した。この選定で父子の意見は一致しないままだったという。また忠氏は慶長6年(1601年)に家臣の知行割や寺社への寄進を行ない、慶長7年(1602年)からは藩内の検地に着手した。この検地は寛永6年(1629年)まで段階的に行なわれたが、前領主の毛利家が1反を360歩にしていたのに対して忠氏は1反を300歩に改めるなど、この検地はかなり厳しかったと伝わっている(『出雲大社文書』)。慶長9年(1604年)、忠氏は城地選定のため、島根郡や意宇郡の調査をしていた。7月下旬、意宇郡の大庭大宮(神魂神社)に参拝したが、この時に神主を呼び出して「当社には小成池があると聞いた。見物したい」と伝えたが、神主は禁足地であるとして断った。しかし忠氏は国主として見なければならないと主張し、神主は案内人を連れて忠氏を池の近くまで行き、そこからは忠氏が1人で行った。そして帰って来た時に忠氏は顔色が紫色になっており、富田城に帰ってから自らの行為に後悔し、程なく病床について、8月4日に吉晴に先立って病死した。享年27。跡を子の忠晴が継いだが、幼少のため吉晴が実際の藩主として統治に当たった。病弱でもなく急死する理由は見当たらず、本当に病死かどうかは謎である。一説にはニホンマムシにかまれたためともいう。藩主としては松江城の城地を選定するという治績を残している。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B0%BE%E5%BF%A0%E6%B0%8F
宮部長房 Miyabe Nagafusa(1581年-1635年)宮部継潤の嫡男(養子とも)。宮部長邑の父。諱は長煕(ながひろ)、定行とも。従五位下。兵部少輔。豊臣秀吉に仕え信任を受け、1586年には従五位下兵部少輔に叙任され、豊臣姓を与えられた。朝鮮出兵にも参加したが、彼の陣で饗応を受けた加藤光泰がその直後に吐血して急死するという事件もおきている。慶長元年(1596年)、父の隠居により家督を継ぐ。慶長5年(1600年)の会津征伐には500人を率いて従軍。その途中、上方で三成が挙兵した報を受けて反転して西上した。鳴海まで来たところで、小舅の池田秀氏が飛脚を寄こして西軍に付くよう言ってきた。 与力の木下重堅、垣屋恒総がすでに西軍に走ったこともあり、家中の大将格の七人衆に相談したところ、三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は西軍に付くよう進言してきたが、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門らは反対する。しかし長房の心は西軍に動いていたため、熱田の渡しから桑名に行こうとしたが、見張りがいて船の往来ができないため、夜に渡ろうと船を一艘借り出し銀二百枚を渡し約束した。一艘に大勢は乗れないので上下の者十三人で夜中に陣中を抜け出し熱田に向かったが、約束の船がいなく辺りを捜しまわった。その頃家臣らは、陣中に長房が見えなくなったことにより、長房は西軍に走ったに違いないと考えたが、これに追いつく方法もなく、また、総大将が居なくなったことにより宮部家臣らはどうしようもなくなり、昔からの縁故がある田中吉政に皆で掛合ってその軍勢に加わった。 結局、長房らは船は見つからず夜明けを迎えてしまい、空となった自陣へ戻ってきて呆然としていたところを、騒動を聞きつけた徳川の目付けが長房を拘束、岡崎城に押し込められてしまった。 西軍の敗戦後、居城の鳥取城は亀井茲矩、斎村政広の攻撃を受け開城し、鳥取5万石の所領は没収されてしまった。戦後、敵味方の処分詮議の際、長房は死罪となりかけたが、田中吉政が自分の旧主で昔の恩義が忘れられない、と助命嘆願をしてくれたため、七人衆で西軍加担を進言した三田村と高坂の二人は切腹させられたが、長房は当分の間、田中吉政に預け置かれることとなった。翌年12月17日にその身柄を南部利直に預けられ、現米123駄70人扶持(約460石)を給されて暮らした。 その後、剃髪して長令と号し、寛永11年(1634年)盛岡で没した。晩年の寛永7年(1630年)、寝返り行為を行ったのは、田中吉政に騙されてのことであるとする文書を幕府に提出した。しかし、吉政ほか既に多くの検証できる人物が死んでしまった後のことであり、真偽を定かにすることはできず、沙汰止みとなってしまった。現在も真相は不明なままである。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%95%B7%E6%88%BF
最上義俊 Mogami Yoshitoshi(1605年-1632年)最上家親的嫡子、正室為南部利直之女.七姬;通稱源五郎,初名受德川家康偏諱「家」字,名為家信,改易後退還改名義俊,戒名月照院殿華嶽英心大居士。元和三年(1617年),父親家親病死,13歲繼承家督。然而年輕的義俊被自上代家親和上上代義光時代出仕的老臣斷定為「不具藩主之才」,招致家中反彈。一部分家臣考慮另立義俊叔父.山野邊義忠為山形藩主。義俊被此激怒,向幕府告狀:先代家親死於山野邊義忠的毒殺(最上騷動)。幕府的調查結果是為:「推舉山野邊義忠的組織並不存在」「前代之急死是自然死無誤」,而後做出「義俊政治手腕極其匱乏」的結論。幕府考慮到最上家自德川家康時代就與德川家是同盟關係,功勛顯赫,於是試圖在義俊與老臣尤其是打算擁立山野邊義忠的一派之間做中介講和,然而兩派毫不妥協(部分老臣聲稱「這個主君我已看透了」拒絕合作),元和八年(1622年)8月21日,山形藩最上家改易。雖有約定在義俊中年後給與六萬石,然而因其英年早逝未有實現。出羽山形藩57萬石改易後,近江大森藩1萬石入封,寬永八年(1631年)死去,年二十七歲。嫡男.最上義智雖被獲准繼承家督,因其年少減封5000石,自此之後最上家作為交代寄合存續。雖然一般認為義俊是名庸君,然而福島正則改易時年少的義俊顯示出不俗的指揮才能,自德川秀忠處獲賜日本刀一把。後人根據最上騷動脈絡推斷當時憑藉義俊一己之力不足以統御家臣。作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20#postid-113 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E7%BE%A9%E4%BF%8A
最上義光 Mogami Yoshiaki(1546年-1614年)最上義守的長子、母為小野少將.永浦尼(大崎氏說?)、正室為大崎義直之女.釋妙英、繼室為清水義氏之女、側室為天童賴貞之女;幼名白壽,通稱源五郎、二郎太郎,受足利義輝偏諱「義」字,名為義光,受領名出羽侍從,別名高榆小僧丸、出羽殿、虎將,戒名光禪寺殿玉山道白大居士。家督繼承之前 永祿三年(1560年),進行元服禮(一說為永祿元年(1558年)),並與父親義守一同上洛拜見室町幕府第十三代將軍.足利義輝,受義輝賜與偏諱「義」字,改名為源五郎義光。而義光的母親為祝福父子倆人上洛期間的一路平安與武運昌隆所做的繡有「文殊菩薩騎獅像」七個字的刺繡,也在近年間被發現。同時由於伊達氏已經漸漸從天文之亂的內耗中逐漸恢復實力,因此父親義守時代的最上家獨立到接下來持續的領國擴張也大約於同時受到頓挫。永祿七年(1564年),義光之妹義姬為最上與伊達兩家的友好而嫁給伊達家的家督伊達輝宗,並於永祿十年(1567年)生下長男梵天丸(伊達政宗)。這段婚姻也對於日後兩家之間的外交關係有者非常大的影響。天正最上之亂 元龜元年(1570年),最上氏內發生混亂,由於對於周遭國人眾與分家的態度和伊達輝宗間領土爭奪的小摩擦,父親義守便與義光產生對立。5月,經宿老氏家定直抱病向義守進諫,兩人換取短暫的和平;同年8月(另一說為翌年(1571年))義守隱居,義光正式成為最上氏家督,但到天正二年(1574年)1月,由於義守對於義光對國人眾所採取的強硬態度深感不安,因此隱居後的義守乃致書信給女婿伊達輝宗派出援軍協同出兵,義光與義守再度爆發對立並轉變成武裝衝突(天正最上之亂)。當時最上家臣與周邊國人眾大都支持義守。最上家與周邊國人眾大致上在當時可以分成兩個派系: 義光方:義光、楯岡光直、大崎義隆、寒河江堯元(寒河江城城主) 義守方:義守、伊達輝宗、大寶寺義氏、白鳥長久(谷地城城主)、上山滿兼(上山城城主)、細川直元(小國城城主)、最上八楯:天童賴貞(天童城城主)、延澤滿延(野邊澤城城主)、長靜守兼、六田氏最上郡地區領國化 在天正最上之亂的家族內亂之後,儘管義光取得最終勝利,但最上家之分家天童賴貞、東根賴景、上山滿兼等依舊對於義光感到不滿因而進行武力抗爭。谷地城主白鳥長久也於此時向日本京都地區的實力者織田信長派遣使者表示自己是出任羽州探題的最上家的正統繼承者。並獻上巨鷹、良馬給織田信長請求他給予自己出羽守一職。此時的義光面臨的是連最上郡一郡都沒有統一的情形。為此義光整頓家中的法度,之後更為恢復羽州探題最上氏的威信而不斷戰鬥。天正五年(1577年),義光與以天童氏為首的最上八楯進行短暫的和解,雙方進行停戰,義光也娶天童賴貞的女兒(天童御前)為側室。天正六年(1578年),上山城主上山滿兼在伊達輝宗的支援下,對最上氏的領地發動侵略作戰。後在義光的頑強抵抗下成功的將上山軍擊退。因為這原因義光便自得意滿起來,魯莽的向伊達輝宗發起攻擊,而察覺到兄長有難的義姬便在柏木山之役中趕到戰場,對義光與伊達輝宗兩人進行說服,成功的使得兩者進行停戰協議。天正八年(1580年),義光以給予其主家舊領的條件成功的誘使上山滿兼家臣里見義近、民部父子,誅殺同為滿兼家臣的里見民部之兄長里見內藏介,而義光趁此時機發兵上山城,在與里見父子的裡應外合下,誅殺城主上山滿兼,成功的奪取上山城。天正九年(1581年),義光對村山郡發動侵略作戰。首先在萬騎原之役將天童氏的姻親小國城主.細川直元擊破並佔領小國城。之後更是於夏天對小野寺重臣鮭延城主鮭延秀綱進行調略使其降伏最上氏。天正十年(1582年),天童御前與義光生下義光三子清水義親沒多久後隨即因產後身體失調死去,因此最上、天童兩家的關係也就再度惡化。天正十一年(1583年),尾浦城的大寶寺義氏向清水城攻擊,義光對清水城進行救援。翌年,義氏再次攻擊時,義光利用內應的前森藏人,當義氏進軍期間,前森的軍隊向大寶寺義氏突襲,義氏在混亂的期間自盡。天正十二年(1584年),義光利用嫡子最上義康與白鳥長久女兒的婚姻關係向白鳥長久進行懷柔,之後則是假稱自己病重不已希望長久能夠來到山形城已交代自己死後的後事,藉機暗殺谷地城主白鳥長久,形成山形城日後有名的血染之櫻花典故。(但此典故也有人懷疑乃小說家之創作)同年義光也攻擊寒河江氏與最上八楯盟主天童氏,可是遭到最上八楯之一的延澤滿延頑強抵抗,最上軍因而撤退,但儘管如此,義光仍讚嘆滿延之武勇並希望將其收為家臣,義光乃利用自己的女兒松尾姬與滿延的長子延澤光昌的婚姻,使滿延、光昌父子歸順義光,因此失去猛將的天童氏與寒河江氏乃被義光擊潰,寒河江家督寒河江堯元兵敗自殺。同時義光也對東根城主.東根賴景的家老里見源右衛門進行調略使其成為已方內應,完成東根城攻略。而剛接替死去的父親天童賴貞繼承天童氏家督之位的天童賴澄則是於同年天童城陷落後投奔伊達家。自此最上八楯宣告完全崩壞。義光也完成壓制最上郡地區全境與該地的領國化。天正十四年(1586年),小野寺義道侵入最上家領地,雙方於有屋隘口間爆發激戰。在前哨戰中,最上軍敗給小野寺軍,但在戰役的後半段,靠著義光嫡子.義康與家臣楯岡滿茂的奮戰成功的進行反擊並轉敗為勝。庄內進出與本庄繁長和伊達政宗間的鬥爭 天正十五年(1587年),大寶寺氏秘密與親族上杉家臣本庄繁長串通並試圖接近上杉景勝,但是此消息遭到義光察覺,趁其後援本庄繁長調往協助攻打叛出上杉家的新發田重家時,立即利用內應前森藏人等庄內地區國人眾的力量向大寶寺攻擊,最終大寶寺義興自盡,不過義興的養子大寶寺義勝成功的逃回親生父親本庄繁長領內。天正十六年(1588年)2月,伊達政宗率兵1萬向義光正室大崎御前的兄長大崎義隆發動進攻,義光率兵5千趕往支援大崎軍並打敗伊達軍(大崎合戰),並策反伊達家重臣鯰貝城主鯰貝宗信,後在義光妹妹義姬突然出現於戰場中懇求最上、伊達兩軍進行停戰後。最上軍與伊達軍便達成和睦,而義姬也因和睦中的條件以伊達家人質身分回到山形城。同時間,大寶寺義勝與其父親本庄繁長,趁者伊達政宗向大崎義隆發動侵攻期間,向庄內地區發起反攻,並於十五裡原之戰大破以庄內地區以國人眾為主的最上軍,奪回庄內的領地,也趁機向最上氏的領地發動侵略作戰,但隨即在東根城遭到最上軍的奇襲因而撤退。而日後在庄內裁判權的紛爭中,儘管義光請求之前便有交好的德川家康幫忙說情,但是本庄繁長與大寶寺義勝的外交手腕及上杉家重臣直江兼續與石田三成的關係,使得豐臣秀吉將庄內裁判權的歸屬交給大寶寺義勝,並承認大寶寺氏為上杉氏的與力大名。義光因此在庄內地區的爭奪戰中落敗。豐臣政權下的義光 在天正十八年(1590年)的小田原征伐中,由於準備父親義守葬禮的關係,義光甚至是比姪子伊達政宗還晚進行出兵,因而幾乎失去領地,幸好在事前拜託德川家康對秀吉的遊說,以及之後義光與其夫人大崎御前一同來到宇都宮城參見豐臣秀吉,因而確保自己24萬石的領地。同時也對於奧州置仕發布後的仙北一揆派兵進行鎮壓並趁機攻佔小野寺氏的部分領地。天正十九年(1591年),德川家康為討伐九戶政實而來到山形城時,義光便將次子家親送到家康身邊成為其侍童。也成為諸大名裡第一位將兒子送去德川家康身邊擔當貼身侍童的先驅。而同期間,豐臣秀次也為討伐九戶政實而來到山形城,並在此段滯留期間見到義光之女駒姬。秀次對於駒姬的美貌一見鍾情,便數度說服義光將駒姬嫁給自己成為自己的側室之一,起先義光並不同意這婚事,認為應該等到駒姬再年長點時在論及婚嫁。但由於秀次的關白地位,因此義光也沒有強烈拒絕,後來秀次終於說服義光讓駒姬出嫁。同時間,由於豐臣秀賴的出生,義光也派三子清水義親前往大阪擔當秀賴的侍童,希望以此確保最上家的安泰。天正二十年(1592年),由於豐臣秀吉下令出兵攻打朝鮮的關係,義光因而也率領500名士兵前往九州的前線名護屋城坐鎮,也於同一時間展開山形城的擴建工作。文祿三年(1594年),義光送一封假的書信給小野寺義道的忠臣八柏道為,成功的讓小野寺義道中義光的離間計誅殺八柏道為,之後小野寺氏在與最上氏的作戰中便經常戰敗,在關原之戰(慶長出羽合戰)時也因加入西軍,而在戰後遭到改易。文祿四年(1595年),駒姬從山形城出發並抵達大阪,但豐臣秀次卻因謀叛與眾多不良行為的嫌疑,因而遭到秀吉軟禁,駒姬也因而與秀次眾多妻室一同與秀次被軟禁。同年8月,秀次切腹謝罪後。駒姬與秀次妻室一共31人慘遭連坐,被下令押解到京都三條河畔下令處斬,當時駒姬只有15歲。一說駒姬當時也還未成為實質的秀次側室),義光想盡辦法挽救駒姬。但最終噩耗還是傳來。據傳義光夫婦聽聞噩耗時皆悲嘆不已,義光數日內食不下咽,而大崎御前則是在幾天之後便因不明原因隨者駒姬死去的消息傳來而跟著死去。義光也因此事件與伊達政宗一同受到牽連被下令進行自省。此段期間義光長子義康.次子家親也曾為父親義光的安危而進行祈福。駒姬事件發生後,義光便開始痛恨豐臣秀吉與豐臣家。因而外交態度上出現明顯的改變。一改以往對於豐臣氏進行接近的態度,而是一面倒向支持自己的好友德川家康。當慶長年間於京阪地區發生大地震時(慶長伏見地震),各個大名皆是火速趕往秀吉宅邸確認秀吉安危,但義光卻是第一時間趕往家康宅邸確認德川家康的安危,此外當秀吉邀請家康前去茶會的時候,也自願性的擔當家康的貼身護衛確保家康安危。慶長三年(1598年),在會津若松城城主蒲生秀行的家臣團之間爆發的鬥爭所引發蒲生家改易的蒲生騷動中,越後的上杉景勝為替豐臣家擔當監視奧羽諸大名的監視者與牽制關東德川家康行動因而入主會津。由於義光與上杉景勝長期在庄內地區的鬥爭與爭奪,加上景勝移封會津後依然握有佐渡島與庄內地區,因此兩者之間也因而產生嚴重矛盾,形成日後最上氏與上杉氏在慶長出羽合戰中激戰的遠因。在此期間,義光也娶清水城主清水義氏的女兒辰姬(清水御前)為繼室,年紀小義光可能約20至30歲左右的清水御前不但是名協助義光文學與內政的賢內助,據傳也是義光面臨妻女相繼死去與政治上失意的人生最低潮時,帶給他人生一道曙光的女子。慶長出羽合戰 在秀吉死後的慶長五年(1600年),由於上杉景勝回到領內進行道路整備、城池修築、收集兵器與招募浪人等備戰行動,因而引來周遭大名的舉發,後在上杉氏重臣直江兼續寫出直江狀給德川家康後,引發會津征伐。由於義光與上杉早在以前交惡,加上義光和家康之間的深厚交情,最上氏因而被委任為奧羽地區除伊達外的會津征伐軍總大將,義光命其嫡子義康為自己名代後便率領以6千5百名最上軍為主,共1萬1千名的會津征伐奧羽方面軍蓄勢待發。同年7月,石田三成於京阪地區起兵討伐德川家康,會津征伐軍主力於同月的小山評定後班師趕回西方與石田三成等西軍決戰。而義光底下的奧羽諸路軍在聽聞家康回師之後,也各自帶者自己軍隊撤回己領。9月1日由於義光支持家康的東軍,上杉氏便以直江兼續為總大將,分別從庄內地區、米澤地區率兵2萬5千向最上氏領地發動侵略作戰,義光自知不敵,因而下令大部分的城兵放棄支城,集中兵力固守堅城池長谷堂城、上山城和主城山形城。當中畑谷城守將江口光清無視於義光的撤退命令,率領300兵於畑谷城頑強抵抗。當時直江兼續也對於江口的器量感到佩服因而表示只要江口願意降伏的話,便會給與極優的待遇。但是光清無視於直江兼續的勸降,率領城兵頑強抵抗,最後與城兵一同和畑谷城玉石俱焚,而上杉軍也因此場攻城戰傷亡近1千人。畑谷城陷落後,上杉軍主力則繼續深入攻擊最上領,9月14日,上杉軍1萬7千名的主力包圍由守將志村光安與僅1千守軍的長谷堂城。而此期間志村光安與勇將鮭延秀綱奮戰以及城內守軍不斷對上杉軍進行鐵砲和弓箭的攻勢下,長谷堂守軍戰功彪炳,使得直江兼續為首的1萬7千名上杉主力軍久攻長谷堂城依舊無法攻下。此期間在最上家臣上山城城主里見民部、湯澤城城主楯岡滿茂的奮戰下也都順利擊退上杉家的側翼軍與仙北的小野寺軍。同時間義光也派遣長子義康前往伊達家向伊達政宗請求援軍支援,而此時伊達政宗正是聽聞南部利直打算派軍支援義光因而在南部領內煽動一揆已達到自己擴張領土的目的。政宗在聽聞義康前來求援,而自己留在山形城的母親義姬也寫信請求伊達家支援後,便率兵3千支援最上,但其到達最上領後並沒有直接參與戰鬥,一說即為政宗聽從片倉景綱的意見,打算等到長谷堂的最上、上杉兩軍兵疲馬乏時,再收漁翁之利。9月29日,當關原之戰的戰報傳給兩軍後,最上軍兵民聽到皆大為振奮,而上杉軍總大將直江兼續聽聞此消息後便解除對長谷堂城的包圍,並立即撤退,義光聯同伊達軍一起追擊上杉軍,但上杉軍卻在此場追擊戰中,在勇將前田利益與水原親憲所帶領的鐵砲隊率領下奮勇作戰,最上軍於此追擊戰中竟付出整場戰役中的最大傷亡,而義光本人也親率軍隊追擊,當時義光身邊的側近軍師堀(築紫)喜吽齋苦勸義光勿衝動出擊,但這時義光本隊卻遭到上杉軍的鐵砲隊火力攻擊,堀喜吽齋為保護義光而子彈從左肩貫穿到右胸當場斃命,而義光身旁的部隊長志村藤右衛門也為保護主公義光隨即成為義光的盾牌,為保護義光而戰死,這時候上杉家的鐵砲隊也成功的打中義光所戴的頭盔,而遠在戰場外的義光嫡長子義康見到父親有難,便率兵趕往父親身邊,成功保護義光。追擊戰最終上杉軍主力回到上杉領國內,而最上軍則是於戰後向上杉家的庄內地區發動侵略作戰,並成功迫使上杉家庄內最後一個據點酒田東禪寺城的守將降伏從城中撤出。在關原之戰後,最上氏被分配57萬石的領地,當中加封的部分包括上杉氏庄內地區、由利十二黨領地與一部份小野寺義道的領地。晚年 江戶幕府成立以後,義光為恢復領內的繁榮,因此對於自己的百姓所採取的政策是相當的寬容,也因此相傳在義光時代最上氏的領地都沒有發生過一揆的事蹟。因此義光治下的百姓也常常歌頌到「最上源五郎可是無視稅役的」(最上源五郎は役をばかけぬ)。之後義光也繼續擴建山形城的規模,不但使山形城成為日本國內數一數二的平城,同時也進行城下町整備,同時也為活絡商人町的發展也對於城下的地子錢與年貢進行免除。並發送土地與整備羽州街道和設立定期市集,同時點對從上杉氏奪來的日本海貿易商港酒田港做非常大的建設與投資。也對於庄內地區到山形城的沿路街道進行改修、擴建。同時義光也對於最上川的水運開鑿下很大的功夫。使其水運量大增並因此改善山形藩的財政,同時也對於工匠為主的職人町設為「御免町」免除各項的勞役,也有部分的工匠受到家臣般的規格待遇。而當時山形城下町數共約31個左右,人口約19,796人,加上最上家臣團,估計當時山形城的人口約到達3萬人左右。在農政面方面,義光也命家臣北楯利長、新關久正等修建北楯大堰與因幡堰等水利設施使得領內的農業用水獲得解決,庄內平原地區的開發也因而大為發展,即使到今日,日本的庄內地區的農業仍然受到這些水利設施非常大的幫助。而義光也將庄內地區的大寶寺城進行改築,並更名為鶴岡城,並有意晚年在此鶴岡城進行隱居。但原本義光與嫡子義康良好的關係,卻在短短幾年之內因不明原因而生變,這時候最上家中也有些人有將與幕府親近的次子家親設為繼承人的想法。慶長八年(1603年,一說為1611年),義光暗殺長男義康,原因不明,這卻是導致最上氏在義光死後家中混亂最後被幕府改易的遠因。(但這件事情近年來也興起一些新的說法,也就是義康暗殺之事也有可能非義光指使,而是由家臣戶井半左衛門自己獨斷暗殺義康。原因在於當義康遭到暗殺之後,義光聽聞消息據傳悲痛不已,甚至痛哭失聲,而義光為準備義康的後事跟早年死去的愛女駒姬的後事也都耗盡心力。)而義光在『分限帳』提到家臣戶井半左衛門時也有提到「成敗」(處罰)二字。因此義康暗殺是否為義光指使,至今仍舊是個無法確定的定案。慶長十六年(1611年)3月。義光就任從四位下左近衛少將與出羽守的官職。慶長十八年(1613年),義光來到駿河城慶祝駿河城擴建完成時開始病發。慶長十九年(1614年),當義光由駿河城回山形城後,於山形城病死,年六十九歲。出處https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E4%B9%89%E5%85%89
桜庭直綱 Sakuraba Naotsuna(生年不詳-1620年)櫻庭光康的長子、母為北致愛の娘(北信愛妹)、妻木村秀茂娘;別名佐々木与三郎、櫻庭安房。櫻庭家は南部氏初代、南部光行の奥州下向以前からの譜代の家柄であり、三上、安芸、福士氏と並んで南部四天王と称された。(『南部根元記』)初め佐々木与三郎と名乗っていたが、天正10年(1582年)、元服の際、主君南部信直から「直」の一字と来国次の太刀を賜り直綱と名乗る。 (『宝翰類聚』)天正19年(1591年) 九戸政実の乱では主君の意を受けて領内諸豪族の説得に当たった。(『二戸川嶋家文書』)慶長5年(1600年) 和賀忠親の反乱である岩崎一揆では馬上の侍大将として70人の部隊を率い、南部軍の主力として戦っている。(『聞老遺事』岩崎御出陣人数定)また、この戦いの出陣軍令書に北信愛、楢山五佐衛門直隆、直綱の連盟があり、この頃には南部家中の重要な地位を確立しているものと考えられる。慶長6年(1601年)、主君の命を受けた直綱は、伊達氏と結んだ遠野地方の豪族、阿曽沼広長を討つため350人の部隊を率いて阿曽沼軍と戦い、これを打ち破っている。(『南部史要』)慶長17年(1612年)徳川秀忠が仙洞御所造営の普請を命じるため江戸の南部藩邸を訪れた際、直綱も南部利直、重直、八戸直政、北直継と共に会談に参加している。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では南部軍は片桐且元の居城茨木城の破却を行ったが、北信景の大坂城籠城事件があったためか大坂夏の陣では参陣を許されなかった。元和元年(1615年)家老に就任。晩年は政務、財務の取締も行っていた。(南部藩『御系譜』)元和2年(1616年)閉伊郡花輪村に後の盛岡藩主となる南部重信が生まれると、その確認のため「御検視」として向かう。(『小本家記録』)元和6年(1620年)卒去。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%BA%AD%E7%9B%B4%E7%B6%B1