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三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
南条元忠 Nanjo Mototada(1579年-1615年) 南条元続の子。母:吉川元春娘?(実・吉川経久妹)。幼名虎熊,別名光成、忠成、之忠。 天正19年(1591年)、父の死去に伴い家督を継ぐが少年であったため、朝鮮出兵には叔父で後見人の小鴨元清が参加した。(『羽衣石南条記』等によれば当時13歳であったという)治世についてはあまり多く伝えられていないが、家中では後見人の座を巡る争いが起こるなどの混乱が生じていた。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは西軍につき、伏見城・大津城を攻めたが、西軍が敗れ、浪人となる。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では、旧臣とともに大坂入城、平野橋口で3000人の兵を与えられる。東軍の藤堂高虎の誘いを受け、伯耆一国を条件に東軍に寝返ろうとするも、渡辺糺に見破られ、城内千畳敷で切腹させられる。「裏切りの伯耆侍古畳み南条もって役にたたばや」と落首された。享年37。遺骸は小姓の佐々木吉高によって持ち帰られた。なお、従兄の宜政(よしまさ)の子孫は、600石を知行する旗本として存続した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E5%85%83%E5%BF%A0
南条元続 Nanjo Mototsugu(1549年-1591年) 天文18年(1549年)、伯耆の国人・南条宗勝の嫡男として生まれる。天正3年(1575年)、父・宗勝の死によって家督を継ぎ、同年に毛利氏一族の吉川元春から家督および所領を安堵されている。 ところが織田信長の勢力が因幡へも伸長して来るに及んで、尼子の遺臣・福山茲正の仲介で毛利氏から離れ織田氏へと気脈を通じるようになった。 天正8年(1579年)9月には福山茲正らを殺害した重臣の山田重直の居城・堤城を攻撃、重直・信直父子を鹿野へ敗走させ、毛利氏と完全に決裂した。豊臣秀吉の鳥取城攻撃の際は、羽衣石城にあって毛利氏の鳥取救援を妨害し、鳥取落城を早める一因を作った。 天正10年(1582年)9月、毛利氏の猛攻を受けて羽衣石城は落城するが、天正12年(1584年)の羽柴氏と毛利氏の和睦により、八橋川以東の伯耆東3郡6万石(一説に4万石)の領有が認められ、羽衣石城に復帰した。 以後は秀吉の傘下に入り、九州征伐にも加わる。天正15年(1587年)7月27日には、従五位下右衛門尉に補任された。後に伯耆守に補任されるも中風を病んで政務を行えなくなり、代わりに弟の小鴨元清が政務を執ったが、天正18年(1590年)の小田原征伐には自ら出向いた。 天正19年(1591年)7月17日、病没。同国久米郡定光寺と羽衣石城下の景宗寺に葬られた。享年43。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%9D%A1%E5%85%83%E7%B6%9A
山田重直 Yamada Shigenao(1525年-1592年) 『山田氏覚書』によれば重直は父を山田石見守高直(時直とも)とし、伯耆国久米郡堤城を本拠地とする伯耆山田氏の一族に生まれた。前掲書によれば大永5年(1525年)に生まれたという。 尼子氏によって堤城を追われた山田氏は但馬山名氏の下に逃れ、そこで「長田姓」に改めた。重直の初見は天文15年(1544年)で長田又五郎の名で登場する。但馬山名氏に仕えた重直は天文15年(1546年)頃に平三左衛門尉と改め、活躍した。永禄3年(1560年)の私部表合戦、同4年(1561年)の若桜表合戦などで功を為した重直は因幡国気多郡などに所領を与えられた。 永禄年間に入り、毛利氏と関係を持つようになった重直は永禄5年(1562年)に毛利氏の支援によって堤城を回復、翌年には但馬山名氏から離れて毛利氏の傘下に加わった。 帰国後の重直は南条氏の家臣に入ったが、自分自身はあくまでも毛利氏の家臣であると考えていたようであり、永禄9年(1566年)1月には毛利元就から出雲守の受領を与えられている。この他にも直前まで南条氏の傘下に加わることを小森久綱と共に渋っていた経緯を持つ重直は南条家内において奉行人という重臣の扱いを受けながらも、微妙な立場に置かれていた。 天正3年(1575年)に南条宗勝が死去、家督を南条元続が継ぐと重直は意見の対立からさらに孤立を深めていった。当時、元続は福山次郎左衛門の仲介で織田氏と内通するようになっており、吉川元春の命を受けた重直は天正4年(1576年)に福山一族を羽衣石城下の山田館に誘い込んで殺害した。この事件の後も重直は南条氏を毛利方に引き留めようと奔走するが、前述の事件なども絡んでかえって逆効果となり、天正7年(1579年)9月、南条元続に堤城を攻撃され子息の山田信直と鹿野城に逃れた。この時、元続には重直を殺害する意思があったらしく重直は間一髪のところで城から逃れたようである。 南条氏と決別した重直は吉川元春の下で南条氏攻撃に加わった。この間、子息の信直が急死する悲劇に見舞われるも重直は数多くの軍功を為し、天正10年(1582年)には羽衣石城を自ら落城させることに成功した。 しかし、恩賞の先行給付の濫発のために戦後に重直が手にしたのは久米郡内の僅か28石地のみであった。さらに、天正12年(1584年)の「京芸和睦」で堤城のある久米郡は南条領と確定したため重直は古くからの本拠地から離れて西伯耆の会見郡小鷹城に移ることを余儀なくされた。 小鷹城時代の重直は60歳~70歳代と高齢で、家督を山田次郎五郎に譲って以降の活動はあまり伝えられていない。『伯耆民談記』によれば重直は天正20年(1592年)3月14日、小鷹城にて没した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%9C%A8%E8%B1%8A%E4%BF%A1
益田元祥 Masuda Motoyoshi(1558年-1640年) 父は益田藤兼、母は石津経頼の娘。妻は吉川元春の娘。幼名郎,改名元祥→牛庵,通称又兵衛,戒名桃林院殿前鴻臚全紹圀大居士。 永禄11年(1568年)、毛利元就を烏帽子親として元服する。 天正6年(1578年)の上月城の戦いに吉川元春・元長父子と共に参加、天正8年(1580年)には反旗を翻した伯耆羽衣石城主南条元続を攻め、所領を賜っている。天正10年(1582年)の備中高松城の戦いにも元春に従軍、同年に父から家督を譲られる。 主君の毛利輝元が豊臣秀吉に臣従すると、主従共に秀吉の天下統一戦に従い、天正13年(1585年)の四国攻めに参戦して伊予高尾城攻めで奮戦、天正14年(1586年)の九州征伐にも参加して豊前宇留津城攻撃で功績を挙げた。慶長元年(1596年)、豊臣姓を下賜された。天正18年(1590年)の小田原征伐にも毛利水軍を率いて三沢為虎・熊谷元直・吉見広頼らと共に伊豆下田城を落とした。文禄の役は吉川広家に従って出陣、碧蹄館の戦いでもその武略を発揮し明の軍勢を撃退している。慶長の役でも渡海して朝鮮に渡り、蔚山城の戦いにおいても広家と共に敵を撃退している。 慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、次の天下人と予想される徳川家康への接近を広家と熊谷元直・宍戸元続と共に図る。しかし慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは輝元は西軍に味方し、元祥も西軍として広家に従い富田信高の伊勢安濃津城を攻略するが、9月15日の関ヶ原の本戦では戦闘に参加しなかった。 戦後、輝元は周防・長門の2ヶ国に減封され、益田氏の領地であった石見も没収されることとなった。徳川家康は元祥の行政手腕を高く評価しており、大久保長安を通じて本領の安堵と徳川家臣としての重用を条件とし勧誘されたが拒絶、新たな所領となった長門阿武郡須佐へと移住、北の石見口の守りを担当、福原広俊と共に長州藩の政治を任された。 慶長6年(1601年)に毛利氏領国だった備後・安芸に入部した福島正則が毛利氏が慶長5年に徴収した租米の弁償を要求、元祥は福原広俊と共に解決に尽力し、慶長7年(1602年)までに完済した。慶長9年(1604年)の萩城の築城を担当、翌年の江戸幕府からの江戸城普請に選ばれている。しかし、萩城の工事で熊谷元直・天野元信と諍いを起こし、元直らが処刑される騒動に発展した(五郎太石事件)。また、父の代から吉見氏と争っていた領地を輝元に与えられたが、憤慨した吉見広長が慶長9年(1604年)に出奔している。 元和6年(1620年)、孫の元尭に家督を譲って隠居したが、元和9年(1623年)に輝元から藩政を委託され、毛利秀元・清水景治と共に財政再建に取り組んだ。 毛利氏の主要な合戦の大半に参加して武功を挙げた元祥であったが、武勇だけではなく行政手腕に非常に優れた武将であった。 周防・長門の2ヶ国に減封され、財政が極度に悪化した毛利氏は慶長12年(1607年)に検地を行ったが、内容は収入の73%を徴収するという高税をかけているため、慶長13年(1608年)に山代慶長一揆が発生、重税に苦しむ農民の逃亡と畑の荒廃をもたらした。元祥・秀元らは寛永2年(1625年)に検地を再実施、税率を50%に引き下げて農民の負担軽減を図った。収入は慶長12年の頃より減少したが、この検地で打ち出した石高が長州藩の基盤となった。同時に家臣団の大幅な所領改替も行われ、藩主家の直轄領が収入高の土地を中心に増加、藩主の権力伸長にも繋がった。 また、寛永5年(1628年)に一揆が起こった山代地方を調査、寛永8年(1631年)に貢租を紙に変更して紙を徴収する請紙制を実施した。紙は大坂で売却され大きな利益を上げた。農民保護と田畑復興政策も実行、借金の利息を減らし、逃亡した農民の呼び戻しや新田開発にも取り組み財政再建に全力を尽くした。結果、寛永9年(1632年)に長州藩の負債を返却、余剰金及び米の備蓄も可能になり、長州藩の江戸時代における財政基盤を固めることに成功した。同年に藩政から引退、寛永17年(1640年)9月22日に死去。享年83。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%8A%E7%94%B0%E5%85%83%E7%A5%A5

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