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三好義繼 Miyoshi Yoshitsugu(1549年-1573年) 十河一存的長子、養父為三好長慶、正室為足利義晴之女;幼名熊王丸,初名十河重存、繼承三好家,名為三好義繼。 義繼出繼三好本家的過程說法不一。一般認為是三好義興死後長慶無嗣才將義繼順理成章的過繼過來,這是順理成章的。不過據『十河家傳』所言,早在十河一存在世時,就已將義繼出繼給其兄三好長慶為養子,而以二哥三好義賢的次子為十河家的養子,這樣三兄弟之間的聯系便得以加深,而後一存又以義賢在阿波的強大軍力為後盾逐步控制贊岐全境。可以肯定的是一存在永祿四年(1561年)四月病逝之後,是十河存保進入十河城繼承十河家,並在其父三好義賢的授意下將居城遷到東贊岐的虎丸城,由此可見義繼出繼三好本家的時間肯定是在一存死之前,所以才無法繼承十河家家督。另外,義繼之所以能出繼到三好家,很大程度上是因為其母是公卿九條稙通的獨生女,而義繼由此便是五攝家的外孫,這種關系自然有助於長慶加強與公卿間的聯系,而對於正試圖掌控畿內的長慶來說,這是非常重要的,結合以上種種原因,義繼在十河一存病死前就過繼到三好本家,也是不難理解的。如果說是長慶主動要義繼過繼到本家,以加強一門眾力量也有很大的可能。 不過過繼與繼承根本就是兩回事,長慶已經有一個非常優秀的嫡子三好義興,讓義繼過繼過來,也只不過是希望他以後在義興身邊發揮義賢之於長慶的那種作用吧。義興在跟隨長慶奮戰畿內時已表現出優秀的才能,永祿四年(1561年)左右長慶已經開始在做著將家督之位讓給義興的准備。從永祿四年(1561年)到永祿六年(1563年)這一段時間三好家的政令,大都是由三好義興發布,松永久秀協助執行,長慶處於半退隱狀態。然而在永祿六年(1563年)八月22日,風華正茂的三好義興卻突然發急病死掉。關於他的死有人一般說是瘟疫,但更多的說法認為是被松永久秀毒死的,因為在這兩年多的執政過程中,義興的英明果敢與久秀的權力欲望不可避免的產生沖突。此事使長慶遭到最撤底的打擊以至幾近崩潰,而後便長期臥床不起。另一方面三好本家的繼承人之位便落到義繼身上,永祿七年(1564)六月22日,義繼被准許以家督繼承人的禮儀上洛,同行的有三好長逸、松永久通等家臣及廣橋大納言國光等公卿,隨行人數達到四千人。六月二十三日,義繼進見將軍足利義輝,得到繼承三好氏家督的正式許可。七月四日,三好長慶病逝,義繼正式成為三好家督,同時由重存改名為三好義繼。 永祿八年(1565)四五月間,三好義繼在松永久秀的陪同下率三好大軍再度上洛。五月19日上午,松永久秀與三好三人眾突然攻入二條城,殺害將軍足利義輝,顯然是得到義繼的許可。而後三好軍在京城橫行到七月份,才在七月五日歸國。從義繼繼任到此期間,松永一直擔任輔佐一職,操縱義繼的行事。十月份,三好三人眾與松永久秀在河內國發生沖突,十一月十六日,乘松永久秀在大和攻擊筒井順慶之機,三好三人眾從松永派的奉行人金山長信手中綁架義繼,並殺死長信,隨後脅持義繼對三好家內外發布義繼與久秀斷絕君臣關系的公告。從此三好家下轄畿內各國國人眾分為三人眾與松永兩派,開始長期混戰。在這一段時期義繼一直居於河內高屋城,處在三好三人眾的監視之下。 永祿十年(1567年)初,三好三人眾正忙於擁立平島公方足利義榮為將軍,乘此空隙,對三人眾一直不滿的義繼在奉行人也是叫金山某(可能與被殺死的金山長信有關)的安排下逃出高屋城,移據到界附近的材木町,受到池田氏保護,二月26日,與松永久秀達成聯合,而後便與久秀一起逃入大和,開始與三好三人眾的長期作戰。由於義繼在兩個勢力間的游移,河內、攝津的大小國人眾也開始反覆不定,而這也使得三好三人眾的立場變得可笑起來。而義繼之所以選擇松永,恐怕與松永毒殺義興的傳聞有很大關系,由於義興之死,義繼才得以繼承三好家,因此義繼對松永久秀不可能不報著一種感恩的心理。加上最初三人眾是以挾持控制義繼,足以使義興產生強烈的反感,在年輕人簡單的思路和個人好惡感影響下,義繼很自然的就投向松永久秀。然而他卻沒看到久秀笑臉下的反覆無常。 永祿十一年(1568年),信長擁代足利義昭入京,攻擊勝龍寺城兵力達到驚人的五萬之巨。受到強大威攝的義繼與久秀一起加入到支持義昭幕府的隊伍中,因為雙方有著共同的敵人,三好三人眾。第二年(1568年)一月,三好三人眾突襲足利義昭的住所,隨後義繼也率軍參加對足利義昭的救援,永祿十二年(1569年)三月五日,為表示感謝,足利義昭與三義繼一起放鷹,這也是當時莫大的榮耀。三月十六日,義繼與松永久秀一起參見信長,得到河內半國安堵的許諾。然而隨著信長對原三好領的全面侵入,義繼與久秀最終認識到最大的危脅就來自織田方,元龍二年(1571年)二月,松永久秀反叛信長,與三好三人眾達成和解,在此事表面上看義繼是保持中立的,實質上他卻一直與松永聯合行動。 元龜二年(1571年)年底到第二年年初這段時間,義繼與松永久秀一起致力於恢復畿內勢力,攻入之前倒向織田方的國人眾。元龜三年(1572年)四月,義繼與久秀從河內和攝津進攻敵對的細川昭元領地,八月份包圍昭元的居城中島城,年底,三好三人眾也加入對中島城的攻擊。第二年二月27日,中島城陷落,細川昭元逃往界。這一段時期正是武田信玄上洛的取得巨大進展,將軍足利義昭由此公然起兵反抗信長,並得到三好義繼的支持,究其原因,義繼當年救援義昭已使兩人結下深厚情宜,而義昭此後也用盡辦法籠絡義繼,甚至不惜將自己的妹妹嫁給義繼作後妻,一向以個人好惡決定立場的義繼自然而然的就站在義昭一方。此時三好三人眾也出現在支持義昭的隊伍中,可以說這是三好家內近十年來頭一次真正的聯合對敵,也許義繼已把這次支持義昭看成三好家再度興盛的契機吧。然而天有不測風雲,四月信玄於上洛途中去世,同月信長包圍義昭的二條城,義昭顯得不堪一擊,在交出人質後與信長講和,七月,義昭在宇治再次兵敗,二十一日,逃入義繼的居城若江城,八月二日信長軍攻擊澱城,三好三人眾中的岩成友通戰死。 十一月五日,足利義昭離開若江城逃往紀伊,十六日佐久間信盛與明智光秀攻擊若江,遭到義繼的頑強抵抗。在此關頭若江的三家老多羅尾右近、池田丹後和野間左吉聯手殺死被義繼委以處理庶政的金山駿河守,而後又打開城門引入佐久間信盛軍,其余各部織田軍紛紛殺入城內,最終包圍天守閣,在此情況之下三好義繼已經完全絕望,留下「憂世もこれまで」(對世間的憂慮到此為止)的辭世句,義無反顧的親手殺死妻妾子女,在最後時刻他終於展現出鬼十河之子的武勇,持槍殺入湧來的織田軍,親手刺死多名敵軍,最後終因體力不繼而以十文字槍切腹,結束游移反覆的短暫一生,年僅二十五歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/1128716.htm
三好義賢 Miyoshi Yoshikata(1527年?-1562年) 三好元長的次子、正室為久米義廣之女、繼室為岡本牧西之女・小少將;幼名千滿丸,別名物外軒、之虎、實休,戒名實休居士。 天文十三年(1544年),跟隨兄長三好長慶進入京都,長慶跟隨細川氏當主細川晴元,義賢則仕於細川分家・阿波守護讚州細川當主細川持隆,從此開始在四國的影響力。 天文十六年(1547年),細川晴元與細川氏綱、畠山政國、遊佐長教等勢力在攝津爆發捨利寺之戰,義賢做為細川晴元方將領出戰獲得勝利。此後隨著三好的勢力逐漸擴大,相繼轉戰讚岐、和泉等地。而由於其弟十河一存後來成為和泉國岸和田城主,讚岐一國實際上也由其支配,因此囊括三好勢力在四國的政治及軍事。 天文二十二年(1553年)6月,與其弟十河一存共同在見性寺內殺害細川持隆,並擁立其子細川真之作為傀儡。此舉雖引起持隆舊臣久米義張、佐野丹波的反抗,但亦被義賢所平定,從此完全掌握讚州細川家,稱為阿讚眾的阿波、讚岐國人眾從此歸入三好政權的勢力。 永祿三年(1560年),與兄三好長慶一同戰勝畠山高政及安見宗房,之後被委派管理河內一國。 永祿五年(1562年),遭受得到紀伊根來眾援助的畠山高政反擊、於和泉的久米田之戰中戰死,年三十六歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E8%B3%A2
三好長慶 Miyoshi Nagayoshi(1522年-1564年) 三好元長的長子、母為慶春院殿南岸智英大姊、正室為波多野稙通之女、繼室為遊佐長教之女;幼名千熊丸、通稱孫次郎、別名利長、範長。 三好氏至父親元長時,擁立細川晴元,在細川家內訌中脫穎而出,取得細川家實權。元長之堂叔父三好政長(三好宗三),恨元長專權,便和細川晴元的寵臣木澤長政、柳本賢治等一同在晴元面前詆毀元長,晴元遂日漸疏遠元長,元長怕禍事臨頭,回到自己的領地阿波。趁著元長不在,晴元的對頭細川高國(細川政元之養子)與浦上村宗聯兵攻擊晴元。晴元的手下無法控制大局,於是召回元長,元長遂在享祿四年(1531年)擁立晴元進攻京都,大破高國與浦上軍,細川高國和浦上村宗均戰死。 元長勝利後,將軍足利義晴遂以細川晴元為管領,但將軍和管領皆無實權,實權掌握在元長手上。元長掌權後第一件事就是殺了柳本賢治之子柳本甚次郎,因為柳本在元長避禍阿波時,攻擊元長之姻親伊丹元扶,但元長殺柳本,引來晴元的極度不滿。元長見晴元怒不可遏,遂削髮出家為僧,號海雲。但晴元仍懷恨不已,命三好宗三和木澤長政陰謀對付元長,兩人誘使本願寺僧圍攻元長,元長把妻與子長慶送回阿波,自己在界町的顯本寺自殺,年僅三十二歲,時天文元年(1532年)。 元長死時,長慶年僅十歲。天文三年(1534年),年僅十一歲的長慶在父親死後繼任為家督,與細川晴元和解,成為晴元的被官,獲攝津守護代之職,任越水城城主。天文二年(1533年),本願寺的僧人和細川晴元因利益糾結而大打出手,之後兩方混戰,互有勝負。晴元把將軍義晴搬出來調停。但將軍的調停效果有限,過了不久,又有玉井氏康擁立細川高國義子氏綱,以及游佐長教擁立田山植長之弟政國,和石山本願寺的僧兵勾接,京都一帶是一片混亂。晴元派手下三好宗三等人去鎮壓叛亂,師勞無功,便想起了元長之子長慶,就派人招長慶前來支援。此時長慶已經十九歲,統率晴元之侄細川持隆手下的兵,頗有勇名。 經過其弟三好義賢(三好實休)的勸諫後,長慶率軍渡海。天文八年(1539年),長慶率軍進入近畿和細川氏綱、田山政國等軍交戰,並且接受將軍足利義晴的命令,與柳澤元俊一同剿滅了洛中的盜匪。三好宗三心生妒恨,向晴元詆毀長慶。此事被長慶得知後,大怒之下與細川晴元決裂,和游佐長教聯合反戈進攻晴元的領地。天文十一年(1542年),長慶在河內太平寺擊殺仇敵木澤長政,隨後與游佐長教反目,先在翌年打敗玉井氏康擁立的細川氏綱,然後於天文十六年(1547年),長慶次弟三好義賢率軍在攝津捨利寺大破游佐長教軍。次年5月,再無力與三好抗衡的游佐長教與田山政國臣服於長慶,長慶也迎娶了游佐長教的女兒以鞏固對游佐氏的統治。 永祿四年(1561年),長慶將宿敵細川晴元囚禁於攝津芥川城,此事引起了晴元的盟友六角義賢的不滿,於是六角義賢便與田山高政結盟一同對抗三好家。 同年5月,三好四兄弟中最為年幼但最為英勇的四弟十河一存在前往有馬溫泉途中落馬傷重不治而歿。永祿五年(1562年)4月8日,田山高政與六角軍聯合進攻和泉,引發久米田之戰,是役之中素為長慶倚重的二弟義賢戰敗身死。長慶親率大軍以安宅冬康、松永久秀為先鋒於6月21日大破田山、六角聯軍,將田山高政趕回紀伊,是為教興寺之戰。 永祿六年(1563年),長慶偕同家臣松永久秀等七十三人在界受洗。同年三月一日細川晴元病逝,而長慶也在接連失去兩個弟弟的打擊下身體急速衰弱起來。國事盡為松永久秀所控制,久秀忌憚長慶嫡子三好義興武勇能斷,日後繼位自己可能將大權盡失,索性將其毒殺。 由於此事為安宅冬康所知悉,所以松永久秀又在翌年在已病得精神恍惚的長慶面前進讒言,誣告其弟安宅冬康意圖謀反。長慶大怒之下,命安宅冬康自盡。永祿七年(1564年)8月10日,失去了眾親兄弟與長子的長慶在無盡的失落與孤寂中一病歸西(另一個說法指長慶被松永久秀殺害),享年四十二歲,法名聚光院眼室宗進。長慶死後三年才舉行葬禮,墓地在現今京都市北區大德寺聚光院。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
三好長逸 Miyoshi Nagayuki(生年不詳-沒年不詳) 三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。 通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。 続柄は諸説あり、『続応仁後記』によれば三好之長の四男・孫四郎長光の子が日向守長縁(長逸)とされる。『細川両家記』などでは之長の子は「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」であり、この三好長則の子にあたるともいう。「芥川系図」に拠ると、長縁は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」とされている。『史略名称訓義』では、長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」であり、三好政康の兄弟とする。 生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。 天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。 天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永禄4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。 また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。 長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆(三好政康、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を説き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。三人衆は本国阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。 こうした戦乱の最中に外国人の保護を行い、永禄8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。永禄9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと称えている。 三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結託して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く争乱は長期化していった。この過程で永禄10年(1567年)、2月に三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男・久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進んでいて、三人衆が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後に出された御供衆の名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の当主は御供衆の資格で将軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。 しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊国の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、将軍に擁立した足利義栄も上洛出来ず急死、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。 永禄12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。 しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。 この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。 長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。政康は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
下間賴廉、細川幽齋、村上義清、朝倉義景、織田信忠、成田甲斐、井伊直虎、母里友信、森長可、世良田元信、大祝鶴、望月千代女、櫛橋光、石川五右衛門、弥助、山内千代、朝倉一玄、織田信長、織田信長、豐臣秀吉、德川家康、德川家康、伊達政宗、武田信玄、真田信繁、上杉謙信、毛利元就
十河一存 Sogo Kazumasa(1530年-1559年) 三好元長的四子、養父為十河景滋、正室為九條稙通之女;幼名又四郎、初名三好長正,繼承十河氏,名為十河一存。 天文元年(1532年),讚岐國人眾十河景滋世子金光早逝。在兄長長慶命令下,過繼成為了十河景滋的養子,改名為十河一存,並成為十河家當主,使三好家的勢力擴展至讚岐。 同年秋季,一存統率十河軍與讚岐的另一有力國人眾寒川元政交戰於長尾,爭戰之中寒川軍驍將鴨部神內左衛門仗其武勇率精兵五十人殺入十河軍本陣,直接衝到一存面前一槍刺穿了他的左腕,誰知年少的一存竟忍下劇痛回手一刀斬下神內左衛門的首級,然後用鹽塗抹在傷口上,再用藤蔓包紮固定做了應急的簡易處理後便神色泰然地繼續投入作戰行列且大破敵軍,彷彿毫無此傷一般,此戰之後一存武名遠播,被世人驚呼為「鬼十河」。這場戰役最後在管領細川晴元的仲裁下結束,兩家恢復和睦。 當年三好兄弟之父三好元長被同族的三好宗三和木澤長政誘使本願寺僧兵圍攻而死,之後天文十二年(1543年)時玉井氏康擁立細川高國義子氏綱起兵反對細川晴元,受晴元所招長慶由四國跨海出兵支援,一存身任先鋒隨長慶與細川氏綱、田山政國等軍屢次互相攻防,一直到了天文十七年(1548年),因為殺父仇人三好宗三見長慶的地位日益水漲船高心生妒恨,再次欲以陰謀暗算,此事為長慶所知後,三好長慶一怒之下轉投細川氏綱對三好宗三發起攻勢。天文十八年(1549年)六月,在兄長三好長慶的命令下一存攻陷晴元的三重城,三好宗三戰敗身死,晴元透過六角氏逃往近江。 結束了在畿內的戰鬥,一存回到領國讚岐後便開始整頓國中的反三好勢力,分化打壓撫勦並施,與次兄義賢的阿波北伐軍互相呼應,降伏了當地強豪安富氏。為了完全統一讚岐,一存與義賢在攻降寒川政國、香西元政等國人眾後直逼香川家的天霧城,香川家當主香川之景借鄰國伊予河野家的援助方得抗衡之力,最後因為長慶在山城與借得六角兵力反攻的細川晴元的戰事陷入苦戰,一存和與義賢只好透過香西元政暫時與香川之景和解,和議成立後兩人便匆匆帶兵渡海前往尼崎援救長慶。 之後一存與次兄高屋城主三好義賢、三兄州本城主安宅冬康同為長兄三好長慶近畿戰略的重要支柱,作為家中首席猛將轉戰各方,驍勇非常,每逢戰事往往一馬當先從無退縮,在永祿二年(1559年)時與紀伊根來寺的一向宗僧徒交戰,翌年攻入河內將河內守護田山高政流放,將其領國納入三好家的支配下,成為岸和田城主,協助兄長壓制南和泉的寺內町勢力。 永祿四年(1561年),一存因為在與根來寺僧兵作戰時罹患瘡病,在與松永久秀同往攝津的有馬溫泉療養時,半途中不顧久秀的勸阻前往湯山權現參拜,在路上落馬摔傷因傷及元氣而死,也有認為一存是被松永久秀所暗殺的或見奸臣松永久秀在家中實力日長自知無力回天,故意落馬而死的說法。享年三十歲,法名清光院殿春月宗元禪定門,一存死後,十河家由次兄三好義賢之子繼承,是為十河存保。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/316063
十河存保 Sogo Masayasu(1554年-1587年) 三好義賢的次子、母為岡本牧西之女・小少將、養父為十河一存;幼名孫六,別名正安、政泰、義堅、三好三郎。 永祿四年(1561年),叔父、讚岐國十河城主十河一存忽然死亡,做為養子繼承十河家。 在宗家三好氏與織田信長敵對的時候,存保協助宗家與信長作戰。但意圖稱霸四國的土佐長宗我部元親崛起時,轉而與信長聯手抵制之,於天正元年(1573年)時正式向信長投降。 天正五年(1577年),其親兄、阿波國的三好長治遭長宗我部元親及異父兄細川真之殺害。 天正六年(1578年),進入阿波勝端城意圖挽回三好家在阿波的勢力,在信長的援助下戰況十分有利,此時的存保已經是僅存的三好勢力,實質上的非三好宗家的三好氏當主。 天正十年(1582年)逼迫細川真之自殺。 同年,存保在信長攻略四國的計劃中,擔任先鋒在讚岐及阿波奮戰,但信長卻於6月2日在本能寺之變中遇害,失去後盾的存保實力大減,因此在入侵阿波的中富川之戰中敗於長宗我部軍,被迫放棄阿波而撤往讚岐。 天正十二年(1584年)6月,讚岐的十河城及虎丸城等遭到攻陷,存保逃亡大阪的羽柴秀吉處。 翌年6月,由於參加秀吉的四國征伐,得以討回舊領讚岐十河3萬石。 天正十四年(1587年)的九州征伐之際,由於軍監仙石秀久錯誤的作戰計劃,使存保不幸在戶次川之戰中遭島津家久部隊擊斃,年33歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B2%B3%E5%AD%98%E4%BF%9D
松永久秀 Matsunaga Hisahide(1510年-1577年) 父母不詳、正室為三好長慶之女.松永女房、繼室為廣橋兼秀之女.廣橋保子、側室為小笠原成助之女;通稱松永彈正,別名霜台、號道意,戒名妙久寺殿祐雪大居士。 早年 久秀出身記載不明,一說出生於永正七年(1510年),出生地有阿波國、山城國西岡、攝津國五百住等多種說法,出仕前身份可能為商人、國人眾或三好長慶的寵童,甚至有觀點認為久秀與齋藤道三是舊相識。 三好家臣 天文九年(1540年),久秀成為細川晴元部下三好長慶的右筆,在天文十一年(1542年)有作為武將在山城國南部出陣的記錄。久秀作為三好長慶的親信,深得長慶的信任。天文十八年(1549年),三好長慶將細川晴元及足利義晴、義輝驅逐至近江國,成功控制京都後,久秀出任三好氏家宰。天文二十年(1551年),久秀與弟弟松永長賴在相國寺之戰中擊敗三好政勝、香西元成。三好長慶平定攝津國後,天文二十二年(1553年),久秀出任攝津國瀧山城城主。同年,與弟弟松永長賴進攻丹波國的波多野晴通,再次擊退三好政勝、香西元成的援軍。弘治二年(1556年),被任命為京都奉行,獲得彈正忠的官位,後又迎娶三好長慶的女兒作為正室。 永祿二年(1559年),三好長慶委任久秀攻取大和國。9月,久秀將居城移至大和國信貴山城。永祿三年(1560年)6月,三好長慶征討河內國,久秀率軍封鎖信貴山城與河內國之間的道路。11月,久秀平定大和國北部,在信貴山城營造四階櫓天守閣,同年又攻破興福寺,成功控制大和一國,三好家勢力達到全盛期。久秀因為攻取大和國的功績獲得極高的地位,他自稱為藤原氏、源氏的後代,被授予從四位下.彈正少弼的官位,與三好長慶的嫡子三好義興一起擔任將軍足利義輝的相伴眾,並獲得足利義輝的允許,可以使用帶有自己家紋的塗輿。 篡奪主家 永祿四年(1561年),久秀與三好義興在將軍地藏山之戰中敗於六角義賢軍。 畿內霸主三好家自永祿四年(1561年)開始接連遭受打擊,逐漸走向衰落。這一年,有「鬼十河」之稱的三好長慶的四弟十河一存與久秀在有馬溫泉療養時突然死亡。據說當時十河一存騎一匹葦毛馬,久秀探望十河一存時說此馬不祥,但十河一存沒有聽從久秀的勸告,在乘馬前往有馬溫泉的途中墜馬身亡。也有觀點認為十河一存與久秀長期不睦,他的死是久秀下的毒手,但這種觀點尚無確切證據。 永祿五年(1562年),三好長慶的二弟三好義賢在久米田之戰與畠山高政、根來眾交戰中戰死。畠山高政乘勝包圍三好長慶的居城飯盛山城,三好長慶在三好一門眾及久秀、筱原長房等重臣聯軍的幫助下,成功解圍,並在隨後的教興寺之戰中大敗畠山高政聯軍。10月,久秀奉命成功討伐背叛三好長慶的幕府政所執事伊勢貞孝、貞良父子。同年,久秀又在大和國營造多聞山城,大和國人十市遠勝降服。但教興寺之戰的勝利只是迴光返照,悲劇仍然不斷地降臨在三好家。 永祿六年(1563年)9月,三好長慶最為器重的嫡子三好義興在芥川山城突然死亡,有觀點認為久秀害怕三好家出現一位出色的接班人,因此毒殺三好義興,接連遭受喪親之痛的三好長慶隨後一病不起。12月,久秀將家督讓與嫡子松永久通後宣布隱居,但仍掌握實權。永祿七年(1564年),久秀向三好長慶進讒言,誣陷三好長慶的三弟安宅冬康謀反,三好長慶隨後將安宅冬康召至飯盛山城命其切腹。同年8月10日,三好長慶病逝,一說他被久秀或三好三人眾毒殺。三好長慶死後,他的養子三好義繼繼承家督,而家中實權則落入久秀及三好三人眾手中。 永祿之變 三好長慶死後,作為室町幕府征夷大將軍的足利義輝致力於恢復幕府的榮光,他一方面向劍術家塚原卜傳、上泉信綱學習劍術,成為劍豪將軍;另一方面積極調停大名之間的衝突,這引起久秀和三好三人眾的不安。永祿八年(1565年)6月17日,久秀和三好三人眾以參拜清水寺為名,向京都集結約1萬人的軍隊,隨後襲擊將軍官邸二條御所。足利義輝雖奮力迎敵,斬殺多人,但無奈叛軍人數眾多,自身受傷多處,最後被長槍刺死,足利義輝的三弟足利周暠也遭到殺害,母親慶壽院自殺身亡,這場震驚日本的謀殺行動史稱永祿之變或永祿大逆。久秀和三好三人眾隨後立足利義維之子足利義榮為傀儡將軍,而足利義輝的二弟、在興福寺出家的覺慶在細川藤孝、一色藤長等人的幫助下,投靠近江國的和田惟政,後輾轉前往越前國投奔朝倉義景,還俗後改名為足利義昭。 爭奪畿內 永祿之變過後半年,久秀與三好三人眾迅速反目。永祿八年(1565年)12月,三好三人眾率軍襲擊久秀控制下的飯盛山城,三好義繼被迫到高屋城避難。得到主公三好義繼、三好康長、安宅信康等三好一門眾支持的三好三人眾聯合大和國人筒井順慶,又向將軍足利義榮徵得討伐令。陷入孤立的久秀隨後與畠山高政、安見直政及根來眾結盟。永祿九年(1566年),雙方在堺近郊交戰,上芝之戰爆發,久秀不敵逃亡至堺,筒井順慶趁勢奪回筒井城。但久秀隨後邀請堺的豪商津田宗達作為調停人,雙方達成合議。 永祿十年(1567年),不滿作為傀儡的三好義繼投奔久秀,三好三人眾於是聯合筒井順慶等反松永勢力向大和國進兵,隨後在東大寺布陣。同年11月19日,久秀與三好義繼聯合軍夜襲三好、筒井聯軍,雙方交戰時東大寺被戰火燒毀,由於大火迫使三好、筒井聯軍撤兵,久秀取得勝利,但東大寺是否被久秀主動放火燒毀尚存爭議。 久秀雖然取得東大寺之戰的勝利,但與實力強大的三好三人眾交戰時仍處於劣勢。永祿十一年(1568年)7月,信貴山城被攻克,久秀被迫據守多聞山城。當久秀即將敗亡的時候,上洛的織田信長挽救他的命運。 背叛信長 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁立足利義昭上洛,三好三人眾不敵,敗逃至阿波國。久秀與嫡子久通和三好義繼在芥川山城迎接織田信長,久秀向織田信長獻上名茶器九十九發茄子和名刀天下一振之吉光,並允諾獻出人質,以此為條件,向織田信長降服。織田信長則許諾赦免久秀殺害將軍足利義輝的罪名,並答應幫助他奪回大和國的支配權。在得到細川藤孝、和田惟政和佐久間信盛2萬援軍的幫助下,久秀展開反攻。次年,大和國被平定,筒井順慶的勢力遭到驅逐。 永祿十三年(1570年),織田信長出兵討伐越前國的朝倉義景,卻在途中得知妹夫淺井長政背叛的消息。織田信長腹背受敵,被迫分散撤退。在撤退過程中,久秀成功說服近江國的朽木元綱,讓信長順利通過他的領地返回岐阜城。同年,久秀將自己的女兒過繼為織田信長的養女,隨後送往三好三人眾處作為人質,雙方達成和解。 元龜二年(1571年),不甘心成為傀儡將軍的足利義昭聯合武田信玄、淺井長政、朝倉義景、本願寺、三好氏、六角義賢及延曆寺組成信長包圍網。久秀起兵響應,聯合三好義繼發動叛亂,但在進攻筒井順慶的領地時反遭擊破(辰市城之戰),松永、三好聯軍大敗,筒井城、高田城等城池相繼被奪,最後在佐久間信盛、明智光秀的仲介下,雙方議和。隔年3月,久秀又連和三好義繼攻打町山昭高的交野城,織田信長派遣柴田勝家等人支援下,久秀跟三好義繼棄戰退兵(交野城之戰),元龜四年(1573年),武田信玄病死,信長包圍網破裂。在反織田勢力逐個被消滅的背景下,久秀親自前往岐阜城,向織田信長獻出多聞山城和不動國行之刀等寶物表示降服。 身亡 天正四年(1576年),久秀隨佐久間信盛參與石山合戰。但在次年,久秀的宿敵筒井順慶被織田信長授予大和守護的職位。9月,久秀撤回協助信長進攻石山本願寺的兵力,並呼應上杉謙信、毛利輝元、本願寺等反織田勢力,據守於信貴山城再次反叛。織田信長派松井友閒安撫,但久秀拒絕降服。 織田信長得知消息後,下令將久秀作為人質的兩個孫子在京都六條河原處死,隨後以織田信忠為總大將,筒井順慶、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝為副將,率軍4萬包圍信貴山城。一說織田信長多次派人勸說久秀獻出茶器古天明平蜘蛛投降,但遭到久秀的拒絕。久秀本想依靠信貴山城的堅固進行防戰,但前往本願寺求援的家臣森好久卻被筒井順慶用金子三十兩收買,作為奸細入城的200名織田軍鐵炮隊在三之丸叛變,織田軍迅速攻破城池。久秀隨後在信貴山城的天守閣放火,久秀、久通父子二人切腹或投火自盡。另一個流傳甚廣的說法是久秀將炸藥放入古天明平蜘蛛,點燃炸藥爆炸身亡。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
細川真之 Hosokawa Saneyuki(1538年-1582年) 細川持隆之子、母為小少將、異父弟為三好長治、十河存保、長宗我部右近大夫;通稱六郎、掃部頭。 天文22年(1553年),父親持隆被三好實休殺死後,真之被擁立成為傀儡(此時母親小少將成為實休的妻子)。在實休死後,仍然被其子三好長治(異父弟)當作傀儡利用,因此感到相當不滿。 天正4年(1578年)12月,逃出勝瑞城後投靠福良連經,逃到那賀郡的仁宇山中(『昔阿波物語』)。天正6年(1578年),與同樣對三好長治不滿的小笠原成助等人聯手,向土佐國的長宗我部氏請求救援並討伐長治。 三好長治死後,三好越後守、矢野國村、河村左馬亮等人,擁立長治弟弟‧繼承讃岐國十河氏的十河存保(異父弟,十河一存養子)並將其迎接到勝瑞城。天正7年(1579年),因為曾是細川方的有力國人伊澤賴俊被攻滅等事,戰況陷入不利。另一方面,土佐國的長宗我部元親與織田信長結為同盟,於是在與阿波三好氏的抗爭中處於優位,但是後來與成為後三好氏後援的織田氏敵對,受到信長將會侵攻四國的威脅。 天正10年(1582年)6月,十河存保的後盾織田信長在本能寺之變中死去,同年8月,長宗我部元親向阿波國侵攻,十河存保被擊敗,於是失去統治阿波的本據勝瑞城,被迫向讃岐虎丸城撤退(中富川之戰)。 天正10年(1582年)死去。 根據『三好記』記載,天正10年(1582年)10月,十河存保再度向阿波國侵攻,派遣江村次郎大夫、本木新左衛門、露口兵庫、江邑兵衛進等數百人軍勢進攻真之的茅岡城,戰敗的真之在八幡原自殺,阿波細川家滅亡。真之死去是在中富川之戰中敗北的十河存保向讃岐國撤退後的時間,在先前的敗戰中難以回復的十河軍能再向阿波侵攻並攻擊茅岡城的可能性成疑,此外,進行襲撃的江村等人被記載為「山林之逆徒」(山林の逆徒),因此有說法指他們是跟隨真之的阿波國人,亦有一說指這是長宗我部元親肅清舊勢力的舉動(小笠原成助和新開實綱等有力者亦在這段時期被元親謀殺)。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E7%9C%9F%E4%B9%8B
香西佳清 Kozai Yoshikiyo(1553年-1588年) 天文22年(1553年)、誕生。父は香西元成とも、元成の子・香西元載の子ともいわれる。香西氏は細川四天王の一家であったが、天文年間の三好氏の讃岐侵攻により三好実休、十河一存兄弟に従っていた。 永禄11年(1568年)、香西又五郎(元載)が備前児島の本太城を攻めるも、毛利氏の傘下にいた能島村上水軍の家臣・島吉利に敗れ戦死したため、その頃に家督を継いだと思われる。ところが、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いに三好三人衆方として参陣したおりに疱瘡に罹り、失明した。 佳清は三好方として転戦し、元亀2年(1571年)5月には、毛利氏の圧迫を受けていた浦上宗景の求めに応じ、三好家の重臣・篠原長房が阿波・讃岐の兵を率いて備前児島を攻めるとこれに参陣。また元亀4年(1573年)、三好長治と十河存保が篠原長房を誅殺した上桜城の戦いにおいて主力となった讃岐勢として家臣の植松資久を派遣し、長房の子・篠原長重を討ち取った。 その一方で、寒川氏に迫り讃岐大内郡4郷を縁戚の安富氏に割譲させ三好氏の基盤を強化するなど強権をふるう三好長治に対し、天正2年(1574年)春、佳清は香川之景と連判で長治の実弟・十河存保に長治ら阿波勢を非難し離反を警告する申し入れを行った。これに対し同年10月、三好長治は讃岐に出兵し香西氏を攻めたが、大西氏・長尾氏・寒川氏ら主だった讃岐衆も香西氏・香川氏に加勢、また土佐国の長宗我部元親が三好方として参戦していた海部友光の不在の隙をつき阿波南部の海部城を包囲したため、長治は撤退。更に天正3年(1575年)に畿内において高屋城の戦いが起こり、河内国高屋城と摂津国新堀城が落城し、三好康長が織田信長に降伏した。これにより、三好氏は畿内の拠点を喪失し勢いが衰えてくると、天正4年(1576年)に香西佳清の使者として新居資教が、香川之景の使者として香川元春が織田信長に謁見し、香川氏と香西氏は揃って織田氏に従属した。 この頃、長宗我部氏を警戒し、新たに藤尾山に藤尾城を築き、勝賀城(佐料)から本拠を移した。ところがこれ以降、香西氏は内輪もめが続いた。天正6年(1578年)に妻との離縁により義父で香西氏に付いていた羽床資載が離反し、抗争に発展。 また、家督相続をめぐり、佳清の弟・千虎丸の相続を支持する同族の香西清長が子の清正が佳清派の新居資教、植松資正を成就院にて殺害し(成就院事件)、植松氏(植松往正、植松資久など)の報復により佳清派が優勢となると清長父子は備前国に退去させられた。 その間に長宗我部氏が台頭し、天正10年(1582年)には、長宗我部元親の子・香川親和を大将とする軍が佳清の居城・藤尾城に向けて大規模な侵攻を行った。この侵攻に対し、香西資淳・植松往正の奇襲で一時足止めに成功したものの、城下の伊勢馬場および西光寺表で敗れ落城寸前に追い込まれた。しかし、既に長宗我部に従い、親和の養父となっていた香川之景が仲裁に入ったため、佳清は長宗我部氏に臣従することを受け入れて降伏した。天正13年(1585年)に羽柴秀吉による四国征伐が始まると、長宗我部方として戦い、攻め手の小西行長隊に大砲による砲撃で応戦するなど奮闘したものの、敗れて下野したという。以後は宗可と号し、讃岐の国主となった仙石秀久や生駒親正から扶持を与えられて余生を過ごした。 天正16年(1588年)に死去。享年36。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E8%A5%BF%E4%BD%B3%E6%B8%85

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