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上杉景虎 Uesugi Kagetora(1554年-1579年) 父:北条氏康、母:遠山康光妹、養父:北条幻庵、上杉謙信、正室:北条幻庵女、継室:清円院(長尾政景女)、側室:妙徳院(遠山康光義妹);幼名西堂丸または竹王丸,別名北条氏秀、北条三郎,号出西堂。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立し、武田・北条氏の間では甲相同盟の締結により天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)の娘が北条氏康嫡男の氏政に嫁いでいる(『勝山記』)。 甲相同盟は永禄12年(1569年)に一時破綻し、元亀2年(1571年)に再締結されているが、『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたという。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質として武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある(後述)。 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。 しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される 。 永禄13年(1570年)4月11日、上野国沼田で謙信と面会し、越後国へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を迎合して北条氏への牽制を行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。 元亀2年(1571年)の氏康の死去に際して、景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている。同年12月、家督を相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切となっているが、景虎は越後へ留まっている。 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵している。 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始し、北信地域における上杉領割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結される。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻する。 翌天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された(陰謀説、裏切り説等、これには様々な説がある。また、他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)。孤立無援となった景虎は、兄・北条氏政を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
三百八十五位人物:石卷康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、淺野長政、淺野長晟、淺利則祐、淺利賴平、前波吉繼、相良晴廣、增田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義實、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西賴晴、大西賴武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大內義長、大掾貞國、瀧川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹內久盛、築紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、豬去詮義、豬苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長續連、上杉景信、長尾當長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛實、島津義虎、島津歲久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、德田重清、那須資晴、內藤清成、內藤隆春、鍋島勝茂、南條元續、南條廣繼、南條宗勝、南條隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寢重張、禰寢重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗實、畠山義綱、畠山義續、八戶政榮、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連龍、富田景政、富田重政、武田義信、武鎗重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡賴勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高繼、芳賀高定、蜂屋賴隆、蜂須賀家政、豐島重村、北楯利長、北條高廣、北條氏勝、北條氏照、北條氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀滿、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川廣家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢澤賴綱、藥丸兼將、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐續光、里見義賴、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顯宗、留守政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顯村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶廣、蠣崎守廣、蠣崎盛廣、龍造寺家晴、富田氏實、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稻富祐秀、支倉常長、秋山虎繁、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、澀江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志馱義秀、平林正恒、神保氏張、瀧野吉政、蜷川親長、井戶良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豐永勝元、長壽院盛淳、橫山喜內、向井正綱、北條早雲、太田資長、尼子經久、長尾為景、淺井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、宮本武藏、佐佐木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧道家、南光坊天海、森成利、簗田政綱、毛利良勝、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林信勝、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田邊勝成、黑澤道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景廣、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、關盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直賴、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南條元忠、南條元清、石野氏滿、有馬則賴、有馬豐氏、赤松則英、赤松廣秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戶元續、福原廣俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷吉治、大野治房、大野治胤、奧村永福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、高橋統增、德川家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長賴、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章、柳生三嚴、赤池長任、和久宗是、東鄉重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、三浦按針、猿飛佐助、霧隱才藏、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十藏、根津甚八、由利鎌之助、三好清海、三好伊三、加藤段藏、蠣崎基廣、下國師季、雫石詮貞、大崎義宣、相馬顯胤、蘆名盛舜、二本松義國、二階堂輝行、留守景宗、懸田俊宗、安東堯季、安東舜季、淺利則賴、天童賴長、天童賴貞、鮭延貞綱、結城政朝、佐野豐綱、那須高資、宇都宮尚綱、真里谷信應、長尾憲長、上杉朝定、太田資顯、藤田康邦、松平廣忠、平手政秀、遠山友忠、木造俊茂、小山田信有、板垣信方、甘利虎泰、橫田高松、高遠賴繼、小笠原長時、小笠原貞種、三木直賴、長尾晴景、長尾房長、椎名長常、神保覺廣、溫井續宗、堀江景忠、朝倉孝景、六角定賴、進藤貞治、朽木稙綱、粟屋勝久、武田義統、本願寺証如、願証寺蓮淳、波多野稙通、內藤國貞、細川持隆、細川氏綱、香川元景、香西元成
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、石川利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、木造雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、長尾景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部政直、南方就正、二階堂盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢沢頼綱、薬丸兼将、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐続光、里見義頼、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顕宗、伊達政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顕村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶広、蠣崎守広、蠣崎盛広、龍造寺家晴、富田氏実、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稲富祐秀、支倉常長、秋山信友、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、渋江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志駄義秀、平林正恒、神保氏張、滝野吉政、蜷川親長、井戸良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豊永勝元、長寿院盛淳、横山喜内、向井正綱、北条早雲、太田道灌、尼子経久、今川氏親、長尾為景、浅井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、本願寺蓮如、宮本武蔵、佐々木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧源太、南光坊天海、森蘭丸、簗田政綱、毛利新助、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林羅山、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田辺勝成、黒沢道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景広、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、関盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直頼、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南条元忠、南条元清、石野氏満、有馬則頼、有馬豊氏、赤松則英、赤松広秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戸元続、福原広俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷義治、大野治房、大野治胤、奥村長福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、吉弘統増、松平家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長頼、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章
三百位人物:羽柴秀次、石川五右衛門、久武親直、三好政勝、一条兼定、河野通直、来島通康、松平忠吉、阿蘇惟将、松平忠輝、柳生宗厳、松浦鎮信、相良義陽、相良頼房、深水長智、犬童頼安、伊東義祐、伊東祐兵、稲富祐直、島津家久、種子島時尭、母里太兵衛、伊集院忠朗、伊集院忠棟、新納忠元、京極高次、花房職秀、柳生宗矩、百地三太夫、大内義長、大友義統、岩城重隆、赤井直正、本願寺証如、尼子国久、尼子勝久、里見義頼、吉田孝頼、龍造寺政家、鈴木重則、足利義氏、千葉胤富、斯波義統、相良晴広、東郷重位、武田信廉、武田義信
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
北条高広 Kitajo Takahiro(1517年?-1587年?) 高広は越後の戦国大名である長尾氏に仕え、長尾為景・長尾晴景に仕え、戦功を積んでいたが、天文23年(1554年)、長尾氏に敵対する甲斐の武田信玄と通じて北条城において主君・長尾景虎に反乱。しかしこれは翌年、長尾軍の反攻を受けて降伏した。その後は景虎(上杉謙信)に再び仕え、奉行として活躍した。 永禄6年(1563年)に上野国厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任された。これを見るに、高広が武将として優れていたのが伺える。永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この時は、同姓でまぎらわしいため後北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した(高広は元の姓である毛利を用いた)。しかしこれは翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれたため、高広は北条氏政の仲介のもと、再び上杉氏に帰参し、以後は上杉氏の家臣として忠実に仕えた。 江戸初期成立の「加沢記」によると、永禄12年(1569年)に上野国人・沼田氏で内紛が起こり高広娘婿で沼田氏当主・朝憲が殺害されると、高広は沼田氏の家臣団の求めに応じ、朝憲の父の沼田顕泰(万鬼斎)とその子の沼田景義を会津に追放したという。しかし沼田氏内紛は上杉謙信が関東へ進出する以前とのこととされ、沼田朝憲の室も当時の厩橋城主・厩橋長野氏出身と考証されており、高広と沼田氏は無関係である。 天正2年(1574年)に隠居して大胡城へ入り、家督を嫡男の景広に譲った。天正6年(1578年)、謙信が没すると出家し安芸入道芳林と号す。御館の乱では、子の景広と共に上杉景虎を支持して上杉景勝と戦うが、北条城などを落とされ、景広は戦死し、自身は武田勝頼のもとへ走った(実父とされる高定も景勝に殺害されたといわれる)。 天正10年(1582年)3月武田氏の滅亡後、北条高広は滝川一益に仕え、一益の没落後は北条氏に服属するが、同年12月沼田城の真田昌幸の離反に対する出兵を拒否し、上杉氏に帰順、北条方である那波顕宗を攻めている。 これに対し北条氏は箕輪城を押さえた上に北条氏邦だけでなく当主である北条氏直まで出陣し、厩橋城を攻めたてた為、これに高広は耐え切れず降伏、天正11年(1583年)9月には厩橋城は氏直の手に渡っている。 景広の死後、勝広が後継であったが、まもなく同名の「北条高広」が継承者となった。彼は上杉氏に帰参したものの越後の所領を取り戻すことはできず没落した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E5%BA%83
後藤勝元 Goto Katsumoto(生年不詳-沒年不詳) 初見資料は永禄8年(1565年)3月5日付の結城晴朝書状写(「伊勢古文書集」)で、勝元は越後上杉氏と結城氏、小山氏との間の取次を務めている。また、同年2月29日付蔵田紀伊守宛河田長親書状写(「伊勢古文書集」)には勝元に比定される可能性のある「左京亮」の名が見られる。 上杉謙信の関東侵攻後、倉賀野氏や河田氏ら上野国衆と共に上野国の守将となる。永禄12年(1569年)の越相同盟に際して活動が見られ、前年3月からの本庄繁長の乱においては蘆名氏のもとへ派遣されているほか、伊達氏との外交にも携わっている。元亀3年(1572年)には越相同盟の破綻により上杉氏は越後上田庄の上田衆を越中国に配置し、代わりに栃尾衆を上田庄に配置されている。勝元は栃尾衆を率いて上田庄坂戸城(新潟県南魚沼市)に在城しており(東京大学史料編纂所所蔵栗林文書)、天正2年(1574年)2月5日付上杉謙信書状(「後藤文書」)に拠れば上野における軍事行動が行われている。 天正5年(1577年)の奥付を持つ「上杉家家中名字尽手本」(『新潟県史』資料編所載)には「後藤左京亮」として記載があり、北条高広・景広、那波顕宗に次いで記載されている。天正6年の上杉謙信死去の前後に出家しているが、法名は不詳。 天正6年(1578年)、謙信死後の御館の乱の際には上野国防衛を放棄し越後へ帰国し、当初は上杉景勝につき(天正6年上杉景勝書状写「覚上公御書集」)、後に景虎方に転身し(天正6年北条氏政書状写『武家事紀』)、蒲沢城(南魚沼市)を拠点に北条高広・河田重親ら景勝方の武将と協力し景勝方と敵対した。翌天正7年2月には蒲沢城が落城し上田庄は景勝方に制圧され、3月17日には御館城が落城し景虎は自害した。 その後は景勝に信任され、越後統一のため奔走する。景勝の佐渡平定の際には両本間氏の内乱の調停に入った。上杉家はこの調停の直前に、佐渡仕置の勧告もしていたが、結局調停は失敗し武力制圧することとなった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%8B%9D%E5%85%83
由良国繁 Yura Kunishige(1550年-1611年) 由良成繁と赤井重秀の娘妙印尼の嫡男。弟に渡瀬繁詮と長尾顕長。正妻は結城晴朝の娘。子に貞繁、忠繁、女子(長尾宣景室)。別名横瀬国繁,幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は式部大輔、信濃守。 天正6年(1578年)成繁が死去する前後に家督を継ぎ、由良氏の第9代当主となった。同年越後で御館の乱が起こり、天正7年(1580年)に北条氏政と武田勝頼の同盟が崩壊すると、武田氏は佐竹氏、里見氏と同盟を結び、上州はその主戦場となった。 由良氏は父・成繁の代に上杉氏から後北条氏に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条氏と誼を通じていたが、佐竹氏とも連絡をとっており(里見義頼及び太田康資宛て梶原政景書状)、北条氏政が北条氏邦宛て書状において、「由良氏と長尾氏が佐竹方として出兵した。このままでは上州は勝頼のものとなり、当方終には滅亡となる。」と嘆いている。 しかし天正8年(1580年)に国繁らは北条方に戻っており、同年9月に佐竹義重が長尾顕長の館林城を攻撃しており、同月20日には佐竹義重と合流した武田勝頼が小泉(富岡秀高)、館林(長尾顕長)、新田(由良国繁)領に火を放ち、膳城を落としている。 天正10年(1582年)、甲斐武田氏が織田氏に滅ぼされると国繁兄弟は、他の上野国衆と同様に織田信長の重臣・滝川一益に仕えたが、同年本能寺の変で信長が横死すると、6月20日の神流川の戦いでは滝川方として戦ったが、これに滝川一益が敗北すると、北条方へ転じた。 天正11年(1583年)9月、北条氏が離反した北条高広が篭る厩橋城を攻め落とすと、国繁兄弟は祝辞のために厩橋城の北条氏直に出仕した。その際に氏直は佐竹氏を攻めるため、金山城と館林城の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、これに反発した家臣は国繁らの母・妙印尼を擁立して籠城したため、兄弟は小田原城に幽閉されてしまう。篭城勢は佐竹義重、佐野宗綱と結び、北条方であった小泉城の富岡秀長を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。 天正13年(1585年)正月、金山城、館林城は当初の予定通り北条氏照に明け渡され、兄弟の知行は安堵され、国繁は柄杓山城(桐生城)、顕長は足利城に本拠を移した。ただし北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。 天正14年(1586年)正月、長尾顕長は佐野宗綱を討ち佐野領の拝領を北条氏に求めたが、佐野領には北条氏忠が婿養子として入った。 天正15年(1587年)、国繁兄弟はついに佐竹義重に通じ北条氏直に叛旗を翻したが、天正16年(1588年)には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。 天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐でも、兄弟は小田原城に籠もることを余儀なくされていたが、嫡男の貞繁と母・妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉に仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から常陸牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。秀吉の死後は徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いに際しては江戸城の守備を命じられた。戦後、下総相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。 慶長16年(1611年)、61歳で死去。貞繁がその跡を継いだ。なお、貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E8%89%AF%E5%9B%BD%E7%B9%81

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