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三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五十位人物:佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、山浦國清 / 村上國清、平塚為広、安居景健 / 朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、小山明長 / 柏山明長、多賀穀政広、児玉就方、赤星親家....
前野長康 Maeno Nagayasu(1528年-1595年) 本名は坪内 光景(前野長康は通称であり、長泰とも書くが正式氏名は坪内光景、祖先の尾張富樫氏祖・富樫長泰にあやかり称す)。公的文書には本人は坪内光景・坪内長泰・富樫長泰と署名し、前野氏の養子になると、良岑長泰と署名している。名前は富樫氏の通字「泰」を使用した「長泰」が正しい。 通称は将右衛門。元は尾張国松倉城の領主である坪内氏の当主・坪内勝定の娘婿であり、別名を坪内長康とも言われているが、その出自は『武功夜話』に依拠するところが多い。定説や『寛政重修諸家譜』には勝定の嫡男であり、実名は坪内光景である。 なお、松倉城は戦国時代は尾張国葉栗郡にあったが、安土桃山時代の木曽川の洪水の後の境界変更により、美濃国羽栗郡に変わる。美濃松倉城は正確といえない。 羽柴秀吉が織田信長に仕えていた頃からの最古参の家臣である。俗に言う秀吉の墨俣一夜城築城に協力したといわれている。 信長没後、秀吉が天下人に上る過程の天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦い、天正13年(1585年)の四国攻めに参加して武功を挙げたため、同年閏8月に秀吉から播磨国三木から但馬国出石に5万3,000石で加増移封された。 豊臣政権下では聚楽第造営の奉行を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇行幸の際には、その饗応役を務めた。天正18年(1590年)の小田原征伐、文禄元年(1592年)の文禄の役にも参加して武功を挙げ、11万石に加増されている。 豊臣秀次付の家老となった後、文禄4年(1595年)に秀次が謀反の罪により秀吉に自害させられると、長康も秀次を弁護したことから連座として罪に問われて中村一氏に身柄を預けられ、自害を命じられた。享年68。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E9%87%8E%E9%95%B7%E5%BA%B7
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
大谷吉繼 Otani Yoshitsugu(1559年/1565年?-1600年) 大谷吉房/大谷盛治之子,母為豐臣秀吉正室高台院的女侍.東殿;幼名桂松,別名吉隆、通稱紀之介、平馬、大谷刑部,號白頭,戒名溪廣院殿前刑部卿心月白頭大禪定門。 關於吉繼的出生有幾個說法,父親盛治因病到豐後國治療,一度成為大友家的家臣時出生,這種說法最沒根據,也有說是羽柴秀吉(豐臣秀吉)的私生子。比較有力的說法為他是六角家的家臣大谷吉房的兒子,天正初年成為秀吉的小姓受到寵愛。 『華頂要略』的「坊官大谷家系圖」有吉繼的名字,為本願寺坊官下間賴亮妻妹之子,或青蓮院門跡坊官大谷泰珍之子,「大谷」在日本為淨土真宗本願寺覺惠代代相傳的家名(大谷姓的本字為-豅),覺惠祖父為淨土真宗宗祖親鸞,母親為覺信尼,幼時在天台宗的青蓮院習法,此為另一個說法。吉繼有兄弟姐妹,歷史上記載吉繼有栗山林齊和祐玄兩個外甥存在,栗山林齊在攝津國池田出家,被黑田長政命令出仕栗山備後一家的栗山名乘(300石-800石)。祐玄坊出現在『關原決戰圖屏風』及其他資料中,故豐臣秀吉私生子之說可信度不高。 天正年初,吉繼擔任羽柴秀吉的小姓。天正五年(1577年)10月,秀吉受命於織田信長,開始攻略播磨,駐紮在姬路城。吉繼此時與脅阪安治、一柳直末、福島正則、加藤清正及仙石秀久等擔任秀吉的御馬迴眾,當時名為大谷平馬。天正六年(1578年)5月4日,尼子勝久的上月城遭受毛利輝元軍勢的包圍,秀吉為尼子軍的救援部隊,吉繼當時也跟隨出征。之後在進攻三木城時,吉繼也擔任馬迴眾從征,秀吉10月15日在平井山宴請諸將時,也有大谷平馬的名字出現,俸祿約150石至250石。 天正十年(1582年),吉繼參與備中高松城之戰。本能寺之變後,豐臣秀吉掌握了實權,與柴田勝家發生賤岳之戰,此時吉繼成功遊說柴田方的長濱城城主柴田勝豐,使他成為豐臣軍的一員,立下足以和賤岳七把槍相較的大功。 天正十三年(1585年),吉繼與增田長盛共同率領2000兵跟隨豐臣秀吉攻伐紀州(紀州征伐),並討取了杉本荒法師。當時在發給稱名寺寺領安堵狀中署名為大谷紀之介。7月11日,秀吉敘任關白,吉繼被敘任從五位下刑部少輔,此後被人稱為「大谷刑部」。 天正十四年(1586年)在九州征伐中,吉繼與石田三成一起擔任兵站奉行,提供後勤支援立下功勞。天正十七年(1589年),成為越前國敦賀郡2萬石城主,開始修建城廓。 天正十八年(1590年),在小田原之役中擔任從軍,接下來的奧州仕置中,擔任出羽國檢地的任務,當時更與蠣崎慶廣見面,請其臣服豐臣政權。此外也受上杉景勝邀請,協助鎮壓境內一揆,因功加封南條、丹生、今立郡的村村六三等2萬6944石領地,成為敦賀5萬石大名。 文祿元年(1592年),豐臣秀吉出兵朝鮮(文祿.慶長之役),吉繼擔當船奉行及軍監,掌管船舶的調度以及物資的運輸。同年6月奉秀吉之命與奉行眾長谷川秀一、前野長康、木村重茲、加藤光泰、石田三成、增田長盛共同渡海,其中大谷、石田及增田等三人為秀吉指定統領朝鮮諸將,並彙整戰地報告。文祿二年(1593年),秀吉和明朝談和,使者(謝用梓、徐一貫)隨同石田、增田回國,秀吉在名護屋城與明使會見。後來再度回到朝鮮,進行晉州城攻防戰。文祿三年(1594年)參與建造伏見城,並前往草津溫泉療養。直到慶長二年(1597年)期間,擔任豐臣政權的中樞。慶長二年9月24日,秀吉與德川家康、富田知信及織田有樂齋前往伏見的大谷宅邸訪問,吉繼以豪華饗宴招待。慶長三年(1598年)6月16日,豐臣秀賴敘任中納言時,也抱病出席祝賀,獲秀吉賜予果子。 慶長三年(1598年)8月,豐臣秀吉死後,吉繼與五大老之一的德川家康接近。慶長四年(1599年),為保護家康免受前田利家襲擊,吉繼和加藤清正與福島正則等豐臣家武將保護德川的宅邸。並曾經為特意派部下到伏見城,阻止前田利長的「家康暗殺計劃」,而吉繼也跟柛原康政解決宇喜多秀家的內部問題,這時他在行動上都較為親近德川家康。 後來德川家康出兵討伐上杉景勝,並向全日本大名發出動員令,吉繼率3000兵力出征,途中拜訪失勢的好友石田三成,為了緩解三成與家康的緊張關係,而招募三成的兒子石田重家跟隨自己,然而三成卻請求吉繼發兵,一起與他對抗德川家康;吉繼知曉計畫後,連說三次:「三成啊,沒有勝機。」結果雖然明知沒有勝算,仍然不忍背棄好友而加入西軍。 成為西軍首要將領之後的吉繼返回敦賀城,為了牽制東軍的前田利長,成功拉攏丹羽長重、山口宗永和上田重安等大名。前田利長侵攻北之庄城時吉繼散布假情報使其動搖。前田軍聽了假情報後撤退,途中遭到丹羽軍襲擊(淺井畷之戰),最終迫使利長退回金澤城,使得他無法參與關原之戰。 9月,吉繼在三成指示下率領脅阪安治、朽木元綱、小川祐忠、戶田勝成、赤座直保等諸將襲擊美濃。九月十五日(西曆10月21日),東西兩軍展開關原之戰。吉繼率戶田勝成、平塚為廣等5700人在關原西南山中的藤川台一帶布陣,陣中還有織田信長之子織田信吉與長次兩兄弟,及蜂須賀家政的重臣高木法齋。身患麻瘋病的吉繼乘轎指揮部下和東軍的藤堂高虎、京極高知激烈交戰(也有說大谷軍指揮是由平塚為廣代為指揮),成功牽制住敵人。 因為戰前大谷吉繼已經預計小早川秀秋會倒戈投敵,所以在松尾山布陣,並在他的進軍路線設下了「攔馬柵」,事發後亦派出600人的直屬部隊狙擊嚇阻小早川陣的1萬5000人。在脫離前線的戶田勝成和平塚為廣奮戰之下,還一度將小早川秀秋逼退500米範圍達二、三次,並擊殺東軍派在秀秋身邊監視的奧平貞治。 可是正在進攻小早川秀秋的時候,脅阪安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保等四名西軍將領見小早川秀秋已然背叛西軍,竟也隨即跟著小早川秀秋一起叛變,轉向攻打大谷吉繼;而德川軍的藤堂高虎隊亦在此時趕到並加入戰鬥,導致大谷吉繼三面受敵、遭到圍攻;最後在己方各部叛軍勢力與藤堂隊的圍剿之下,大谷吉繼被擊敗,在戰場上切腹自盡,委由湯淺隆貞介錯,年四十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B9%BC
山内一豊 Yamauchi Kazutoyo(1545年-1605年) 岩倉織田氏の重臣・山内盛豊の三男として尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田)の黒田城、もしくは岩倉(現在の愛知県岩倉市)に生まれる。当時山内家は岩倉織田氏(当主は織田信安、後に信賢)の配下で、父の盛豊は家老として仕えていた。やがて岩倉織田氏は同族の織田信長と対立する。弘治3年(1557年)に兄十郎が盗賊(織田信長の手勢であるといわれる)に黒田城を襲撃された際に討死、さらに永禄2年(1559年)に岩倉城が落城した際、父の盛豊は討死もしくは自刃する。こうして主家と当主を失った山内一族は離散し、諸国を流浪する。 一豊は苅安賀城(一宮市)主・浅井新八郎(政貞)をはじめ、松倉城(岐阜県各務原市)主・前野長康、美濃国牧村城(岐阜県安八郡安八町)主・牧村政倫や近江国勢多城(滋賀県大津市)主・山岡景隆に仕える。景隆が織田信長に逆らって出奔したことから、永禄11年(1568年)頃から信長の配下に入り、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の下で家人となったと考えられるが、秀吉への仕官を天正2年頃とする説もある。 元亀元年(1570年)9月の姉川の戦いで初陣し、天正元年(1573年)8月の朝倉氏との刀禰坂の戦いでは顔に重傷を負いながらも敵将三段崎勘右衛門を討ち取った。この戦闘の際、一豊の頬に刺さったとされる矢は、矢を抜いた郎党の五藤為浄の子孫が家宝とし、現在、高知県安芸市の歴史民俗資料館に所蔵されている。これらの功績により、近江国浅井郡唐国(現在の長浜市唐国町)で400石を与えられた。 なお、「山内一豊の妻」こと見性院との結婚は、元亀年間から天正元年(1573年)の間であったと見られる。 天正4年(1576年)の竹生島奉加帳に「山内伊右衛門」と署名しており、この頃までには秀吉の直臣となっていたことが確認されている。 天正5年(1577年)には、播磨国有年(兵庫県赤穂市内)を中心に2,000石を領した。その後も秀吉の中国地方経略に加わり、播磨の三木城を巡る戦い(三木合戦)や因幡の鳥取城包囲・高松城水攻め(備中高松城の戦い)などに参加している。 天正9年(1581年)の馬揃えの際には、妻が蓄えておいた黄金で良馬を買って夫に武士の面目を施させたという美談がある。 天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでは、その前哨である伊勢亀山城(三重県亀山市)攻めで一番乗りの手柄をあげている。また、翌12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉の命で、家康を包囲するための付城構築の作業に当たっている。 四国平定後、羽柴秀次(豊臣秀次)が大幅に加増されると、田中吉政・堀尾吉晴・中村一氏・一柳直末と共にその宿老の1人として付けられて、天正13年(1585年)には若狭国高浜城主、まもなく秀次が近江八幡に転封すると、一豊も近江へ移り、長浜城主として2万石を領した。天正18年(1590年)の小田原征伐にも参戦し、秀次に従い山中城攻めにも参加した。織田信雄の改易に伴って再び秀次が尾張・伊勢で加増されると、一豊ら宿老衆も転封して、遠江国掛川に5万1,000石の所領を与えられた。この頃から大名としての行動が見られ、掛川では城の修築と城下町づくりを行い、更に洪水の多かった大井川の堤防の建設や流路の変更を川向いを領する駿府城主中村一氏とともに行っている。朝鮮の役では、他の秀次配下の諸大名と同じく出兵を免れたが、軍船の建造や伏見城の普請などを担当して人夫を供出した。 文禄4年(1595年)に秀次が謀反の疑いで処刑され、この頃に秀次の宿老であった前野長康と渡瀬繁詮はこの事件の責任を負わされて、秀次を弁護した繁詮は切腹を命じられ、長康は中村一氏に預かりとされて蟄居後、賜死とされた。しかし一豊や田中・中村・堀尾ら配下の大名衆は、秀吉の命令を遂行して秀次らを取り調べる立場となり、秀次の処断の後で逆に遺領から8,000石を加増されている。 秀吉の死後の慶長5年(1600年)には五大老の徳川家康に従って会津の上杉景勝の討伐に参加した。家康の留守中に五奉行の石田三成らが挙兵すると、一豊は下野国小山における軍議(小山評定)で諸将が東軍西軍への去就に迷う中、真っ先に自分の居城である掛川城を家康に提供する旨を発言し、その歓心を買って東軍に組した。この居城を提供する案は堀尾忠氏と事前に協議した際に堀尾が発案したが、油断してうっかり洩らしたものを聞き、自分の案として家康に申し出、感謝を受けたと言われる。また大坂の妻からの密書で石田三成の挙兵の知らせを受けたという話も有名である。これらは話の信憑性には疑問があるものの、東海道筋の他の大名である中村一氏が死の床にあり、同じく忠氏の父である堀尾吉晴も刺客に襲われて重傷を負うなど老練な世代が行動力を失っている中で、周辺の勢力が東軍に就くよう一豊が積極的にとりまとめていた。三河国吉田城主の池田輝政など、この時期に一豊とたびたび接触しており、豊臣恩顧の家臣衆の取り纏め役を果たしていたとは考えられる。 関ヶ原の戦いの前哨戦である河田島村と米野村での戦いで、西軍に味方した岐阜城主の織田秀信の軍勢を、池田輝政や浅野幸長らと共に破った。本戦でこれらの武将は南宮山に陣取った毛利・長宗我部軍などの押さえを担当したが、東軍に内応していた毛利軍先鋒の吉川広家隊が南宮山に蓋をしていたためにさしたる戦闘もなく、輝政を残して主戦場へ移動した。戦後は小山会議での右顧左眄(うこさべん)していた諸侯を一挙に徳川加担に向かわせた発言が功績として高く評価され、土佐国一国・9万8,000石を与えられた。後に、高直しにより20万2,600石を幕府から認められている。 慶長6年(1601年)、掛川から土佐に移封となり、浦戸城に入城する。大幅な加増があり、余所から入部してきた大名は、ただでさえ人手も足りなくなるので地元の元家臣を大量に雇用するのが常であったが、一領具足を中心とした旧長宗我部氏の家臣団は新領主に反発し、土佐国内で多くの紛争(旧主長宗我部盛親の復帰を求めるなど)を起こした。これに対して一豊は、新規召し抱えの家臣は上方で募るなど、重要な役職を主に外来の家臣で固めたが、有益な長宗我部旧臣は懐柔して登用した。当時はまだ土佐領内に不満分子が完全に排除されていなかった為、高知城の築城の際などには一豊と同装束六人衆を影武者として共に現地を視察したと言う。 高知平野内の大高坂山に統治の中心拠点として高知城を築城し、城下町の整備を行った。領民に対して食中毒を気遣い、鰹を刺身で食べることを禁じたという話が伝わる。それに対し、領民が鰹の表面のみをあぶり、刺身ではないと言い繕って食すようになった。これが鰹のタタキの起源だとされている。 慶長8年(1603年)、豊臣姓を下賜されて、従四位下土佐守に叙任された。 慶長10年(1605年)、高知城にて病死した。享年60。法名は大通院殿心峯宗伝大居士。墓所は高知県高知市天神町の日輪山真如寺の山内家墓所。京都市右京区花園妙心寺町の正法山妙心寺大通院。 現在、高知城には(右上の写真にある)一豊が騎馬姿で槍を持った姿の銅像が建てられている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%B8%80%E8%B1%8A
立花宗茂 Tachibana Muneshige(1567年-1643年) 高橋紹運的長子、母為齋藤鎮實之妹.宋雲院、養父為立花道雪、正室為立花道雪之女.立花誾千代(良清院);幼名千熊丸、初名高橋統虎,繼承立花氏,改名為立花宗茂。 永祿十二年(1569年),因其父紹運繼承高橋家,年約3歲的宗茂也因此移住築前寶滿城,往後在山間接受紹運不時的體力鍛煉以及合戰模擬。不過因為紹運長於軍事行動無暇照顧宗茂,便托其兄吉弘鎮信以及家中武譽極高的老將足利彌平次為其教育。當宗茂6歲時,要求必須打敗比自己大四歲的人,打敗後,再打大六歲的,又打敗後,再找大八歲的,直到打敗大15歲的才告一段落,並且能輕易使弓射落10米遠的小鳥;文學方面,要求每看一本書便要去跟明白這本書的人反覆簡述其大綱,之後又進行背誦,直到能用書中的例子說服別人為止,另外讓宗茂接觸外來事物如鐵炮和孫子兵法,也讓宗茂學習自己有興趣的書道,更長於山野中熟習花草名稱用途,在他們的教育下,宗茂八歲便能拉開築前一地所有的弓,辯論和見識也遠超過同齡人。並且由於生長之地近於築前國際良港博多津,在常於商業交易的伯父吉弘鎮信的關系下也認識如島井宗室、神屋宗湛等商道茶人,由此學習茶道以及從中探知日本各大名的情勢。 天正六年(1578年)12月,龍造寺隆信侵入築前進攻寶滿、立花城,於《寬永諸家系圖傳》、《立花事實記》記述此戰宗茂以12歲之齡初陣。 天正八年(1580年)2月2日,道雪率十時連貞於早良郡討伐支持龍造寺家的鄉士。 天正九年(1581年)龍造寺隆信聯合筑紫廣門、原田隆種終於攻下位於立花山城西南邊,大友家築前五城之一大鶴宗雲的鷺岳城,而於7月27日進軍至大宰府並以筑紫廣門聯合秋月種實侵略築前巖屋城,宗茂之父高橋紹運與之對峙,並聯合立花家援軍竹迫統種、薦野增時於觀世音寺之戰將其擊退,但統種等立花家臣戰死甚多。此戰後於同日紹運和立花道雪侵攻秋月氏的嘉麻、穗波一帶,此戰秋月方的井田親之率5千餘人出擊,以其子井田親氏為先鋒軍迎戰,兩軍於穗波郡八木山的石阪一帶展開戰斗,此時紹運以弓、鐵炮、長槍隊分三段布置於阪上,正面迎擊秋月軍,秋月先陣7百人崩壞後紹運以3百人突擊,手持大長刀左突右回於千人的敵陣當中,此時原先隱兵於松林之中的道雪突然殺出夾擊秋月軍,當中立花家臣十時連貞更單挑討取了井田親氏,而此石阪之戰也是宗茂普遍被認為的初陣,於當時穿著萌黃色的唐綾縅鎧甲、頭戴銀色鍬形前立兜、腰配黃金鹿皮太刀、身背裝滿箭矢的弓筒並手握塗籠之弓、腳跨栗毛馬。此戰宗茂率領3百人埋伏後帶領150騎出戰,偷襲箭射敵大將堀江備前更單挑壓制對方,並讓功給家臣荻尾大學而討取了堀江首級,初陣便獲得了家臣的信任,並且令道雪正式興起迎宗茂為婿養子的念頭。 同年8月,膝下無子的大友家重臣立花道雪,希望高橋紹運的長子宗茂能繼承立花家,起初紹運因為宗茂優秀的資質和器量,以及身為高橋家重要的繼承人而拒絕,但是在道雪數度的懇求之後,宗茂終於成為了道雪的養子。這個時候,宗茂和道雪的女兒立花誾千代結婚成為了婿養子而繼承立花家。但是夫妻倆處的並不好,在道雪死後也沒能留下子嗣,並且還分居了。 同年宗茂以立花繼承人的身分於11月6日,大友宗麟為了援助被秋月種實、問注所鑒景夾擊的家臣朽網鑒康,而受命隨道雪、紹運出陣,兩軍共率5千兵力再次對秋月氏的嘉麻、穗波一帶攻略,當立花高橋軍收到豐後的大友軍將於原鶴一帶迎擊秋月軍後,於回軍途中遭到秋月氏的追擊,立花高橋軍利用地形於八木山附近的石阪埋伏,兩軍的激戰使立花高橋軍損失3百餘人,秋月軍死傷7百60人,當地因而被稱作千人塚,此戰是為潤野原合戰。 同年11月12日,立花山城東北方的國人眾宗像氏貞,其部分家臣不滿早先將部分領地作為色姬的嫁妝給了立花,趁立花軍一面出戰秋月軍,一面以由布惟信、薦野增時、小野鎮幸、立花鎮實、足立式部等立花家臣前往運輸兵糧不足的築前東南邊境的鷹取城時,聯合秋月軍於13日半路偷襲,此戰在由布等人的奮戰慘勝,而宗像家的背叛觸怒了道雪。 天正十年(1582年)2月,因原田信種聯合秋月種實、宗像氏貞、筑紫廣門於築前西南邊境的那珂郡巖戶鄉攻落大友方的山田民部丞鎮守的砦,並且引起早良郡山門村的鄉士反叛暴動,在立花道雪平息暴動於歸路中與原田軍在生松原遭遇引發鐵炮戰,由於勢力眾多一時無法排除,立花軍在道雪於小金原一事無法息怒之下於3月16日派由布、小野先攻擊宗像氏,4月16日才前往那珂郡巖戶鄉驅逐秋月、原田、宗像的約2千聯軍,此戰立花軍僅一千5百軍力分道雪、由布、小野三隊為本隊進攻,宗茂自身和薦野增時率五百兵為伏兵,途中見機分兵三百以鐵炮攻勢奇襲溷亂敵方,預留的薦野二百兵則突然立出軍旗假為援軍威嚇敵方,解除了敵軍對養父道雪的包圍並且擊破,隨後宗茂又率薦野增時、立花成家、小野鎮幸、由布惟信共1千騎驅逐正再巖戶一帶的巖門莊久邊野築砦的原田勢武將笠興長3百兵,討取了1百50人並追擊至早良郡。 同年12月28日隨養父道雪攻入宗像領地,率軍侵攻宗像家至天正十一年(1583年)3月17日的吉原口防戰討取了吉原貞安後又攻落宗像家居城許斐山城,驅逐了宗像勢力。期間宗茂對於生家宗像家逢遭變故的色姬待遇有加,然而色姬最後還是選擇自殺。 天正十三年(1585年)3月,在養父道雪、實父紹運出兵築後之時,宗茂以19歲之齡僅以千餘兵力守城。秋月種實見立花山城兵少便率八千大軍來攻,宗茂面對秋月八千大軍,決定率5百兵力分三隊夜襲秋月軍,原先家臣們皆反對以小軍勢出戰,應當以立花山城之堅固抵擋,但宗茂回答:「如果你們不想去的話也沒有關系,由我自己去擊退敵軍便是。作戰並非是由數量決定勝敗,而是要用出其不意的行動、奇策,如此一來將不會有不勝之事。」於是先以家老米多比鎮久率百餘名兵力繞到秋月軍後方,佯攻秋月家居城古處山城,引誘了秋月軍部分兵力追擊,這時宗茂和家老薦野增時率一百五十兵力以火計夜襲秋月本陣,造成秋月軍前後溷亂,甚至自相殘殺。一方,家老十時連貞也隱兵於森林中率兵從側面突入,鎮久也繞回來夾擊,秋月方大敗損失三百餘人,後種實內通立花家臣櫻井兄弟暗中謀反,然而卻被宗茂識破,平定了謀反的兩人,種實見內應失敗而改以小軍勢妨害耕作破壞農田等,但都被宗茂逐次擊退,秋月軍歲放棄攻城狼狽退回領地。而此戰後也令原先有丟失城池覺悟的道雪和紹運松了一口氣,宗茂也受到道雪的稱贊,不過卻受到紹運的斥責。 而據《北肥戰志》宗茂更接著出兵築前西邊,襲擊早良郡一帶之曲淵房助和副島放牛鎮守的飯盛城等龍造寺方的城砦,令周遭敵對勢力感到立花山城雖然道雪不在以及兵少,但仍有足夠實力應付敵勢的錯覺。 天正十四年(1586年),宗茂的君主大友宗麟前往大阪晉見豐臣秀吉,希望豐臣家幫助大友家抵抗島津的攻勢,同時推薦宗茂和生父紹運為豐臣家臣,大友築前的領地因此於此時轉變為豐臣家。 一方,島津軍為了統一九州而侵略肥前、築前地區,於7月10日以島津忠長、伊集院忠棟等2萬兵力攻下筑紫廣門的勝尾城後,逐漸集結北九州各地國人眾、國人的兵力至約五萬,宗茂實父紹運於12日在巖屋城以約八百人抵擋了島津聯軍約五萬兵力的攻勢,使其損傷了四千五百多人以及許多大將,拖延了近兩星期後,於27日終於全軍壯烈犧牲,28日宗茂之弟統增鎮守的寶滿城也被迫開城,島津軍在處理筑紫、高橋兩家的人質後於8月1日准備圍攻立花山城,宗茂則徹底抗戰,積極的出城使出遊擊戰術,於8月1日出其不意攻下了島津軍先前降服的筑紫廣門的勝尾城,吸引島津軍來攻後又於4日放棄勝尾城佯攻高鳥居城,島津軍再追擊時又抄小路繞至島津軍後方奇襲其後方城池,使其拖延至14日才完成對立花山城的包圍,15日抵擋了島津軍第一波的攻勢後,又趁機偷襲島津軍本陣討取百餘人的首級,更令家老內田鎮家使出詐降之計拖延時間,並且據《豐前覺書》載於8月18日擊退正在巖戶一帶准備軍糧的原田種實二千餘兵討取七百人,20日更奇襲島津軍的援軍秋月種長二千兵使其傷亡四百餘人。終於,大友家等到了豐臣秀吉從毛利家派來的援軍,使的島津軍被迫於24日從立花山城撤退,而宗茂並沒有等待援軍,隨即率一千五百名兵力追擊島津軍至築後川討取了百餘首級,又以火攻奪下了星野吉實、星野吉兼的高鳥居城,並從秋月方取回了父親的居城巖屋城和寶滿城。10月3日,宗茂被秀吉給予「九州之一物」的感狀並被評價為「剛勇鎮西第一忠義鎮西第一」(その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一)這時宗茂年僅19歲。 天正十五年(1587年),在豐臣秀吉的九州征伐中擔任「築前軍事總指揮」掛名統率如毛利輝元、小早川隆景的數萬大軍仍表現活躍,於4月初以先鋒軍先於秀吉本隊南下接連攻落肥後南關、山鹿、小代、隈本、相良、阿蘇、合志竹迫城、赤星菊池郡、有動宇土城、和仁玉名郡等地,當中和仁親實委托宗茂提出降伏,宗茂於是上呈秀吉,但當時的秀吉因為接連攻陷城池之勢不打算理會和仁親實的降服,宗茂以:「既然自身答應了對方的請求,若無法達成將有損武士信義之面目,不如將自身殺了。」迫使秀吉答應此事。 後再度為先鋒進軍薩摩攻落島津忠辰的出水城,又南下至川內擊退島津忠長,並救出被捕為人質的弟弟高橋統增夫婦,此時島津義久因日向根白阪之戰戰敗而前往川內泰平寺降伏,宗茂代秀吉前往伊集院、祁答院、入來院接收人質,後又率先進軍大口城包圍仍不降的島津重臣新納忠元,迫使其投降,九州終於平定。戰後秀吉因功給予築後柳川藩13萬2000石的領地,從大友氏獨立出來成為直屬大名。 同年8月7日,在宗茂的通知下秀吉知曉了佐佐成政移封後的肥後發生大規模的國人一揆動亂,9月5日,因其勢力猖狂決定動用九州各大名的兵力鎮壓,以築前久留米小早川秀包(毛利秀包)為總大將,肥前鍋島直茂、龍造寺政家、築後宗茂、高橋統增、筑紫廣門,甚至毛利家的安國寺惠瓊也加入討伐。 9月下旬,宗茂起初率1千2百兵力南下救援兵糧不足,被一揆方的敵將有動兼元包圍在平山城的佐佐成政軍,由於先前鍋島、安國寺惠瓊軍皆救援失敗,宗茂收集情報檢討了鍋島、安國寺兩軍皆是軍隊在前輜重在後,遭到埋伏於竹林中的敵將大津山出羽守襲擊後方以致失敗之故,令軍兵間穿插輜重隊,將兵、軍馬也配備救援物資以及兵糧彈藥,組成了互相支援、確保輜重的軍勢,並以小野鎮幸率一隊於夜中早一步潛入竹林反埋伏,另外以輜重隊引誘出大津山的軍勢時以弓、鐵炮進行背後奇襲,後分三隊反轉回攻其城砦南關城討取了大津山出羽守,一方面則趁隙以第二隊輸送兵糧,前往大手原口一帶的平山城,此時平山城遭到隈部親永的大將有動兼元的包圍,宗茂率第一隊3百人以鐵炮作先制攻擊支開隈部軍後,第二隊便趁隙運送兵糧,運完後加入戰斗從側面攻擊持續攻向隈部軍的山鹿城,城外的隈部分隊來援後第一、二隊又退後引誘,此時第三隊又進行兵糧運輸,完成了救援佐佐成政的任務,立花軍因此退往背後的山間,又引誘出山鹿城的有動志摩、有動左京等率軍追擊越過大手原口至永野原,有動兼元雖看出是陷阱要求先鋒的有動志摩回軍卻為時已晚,此時立花軍又一舉反轉進攻討取有動志摩,隈部軍遂崩壞退散。 之後又和九州各大名包圍和仁三兄弟的田中城,城中除了和仁親實、親範、親宗外還有其妹婿邊春親行共9百餘人,在毛利秀包為總大將的情況下,秀包以二重之柵將城池包圍,約二個月後邊春親行因為安國寺惠瓊的謀略而謀反,12月5日遂攻下田中城,並且在此戰中,宗茂和毛利秀包合力殺退號稱人鬼的猛將和仁親宗。然而由於先前在九州征伐時期,和仁氏曾委托立花家降伏於豐臣,有過信賴關系,宗茂在此戰後保護了和仁兄弟中的四男和仁統實,並令他成為家臣小野鎮幸的義弟,保住了和仁氏的血脈。 隨後宗茂和佐佐成政於12月26日攻下了隈部親永的城村城,而隈部親永一族12人於翌年被秀吉下令處死,宗茂為了隈部一族的武士名譽,於5月27日在柳川城的「黑門」挑選手下12人與隈部一族12人單挑,被稱為「黑門放討」結果隈部12人光榮戰死,擔任監察役的淺野長政目睹過程後在震驚之餘當場佩服其氣概,而秀吉聽聞宗茂的做法,便說:「真不愧是立花」(さすがは立花である)。 並且在這時期因為和毛利秀包時常擔任先鋒的緣故,宗茂認小早川隆景為義父,和毛利秀包結為義兄弟,並和秀包一同受領羽柴姓、從四位下侍從的官位,人稱「羽柴柳河侍從」並賜姓豐臣,成為第一批秀吉的譜代眾。天正十八年(1590年)參加由秀吉響應的小田原征伐,在巖櫬,江戶地區參陣,戰後秀吉在一次大會中於諸大名的面前稱贊「東有本多忠勝為天下無雙的大將,西有宗茂為天下無雙的大將,為東西一雙的名將」(東に本多忠勝という天下無雙の大將がいるように、西には立花統虎という天下無雙の大將がいる)。 文祿元年(1592年)參加文祿之役。和小早川隆景、毛利秀包、筑紫廣門、實弟高橋統增等一起組成第六大隊,負責攻略朝鮮西南方的全羅道,宗茂於出戰前制作約200個金箔押桃型兜給兵將佩帶,此種兜可說是立花家的一項招牌。 文祿二年(1593年)小西行長於平壤遭到明軍的猛烈攻勢而慘遭大敗,日軍各部匆忙援救小西軍並由北部南撤至京城,宗茂原本駐軍於平壤南方的牛峰,於1月10日北上救援小西軍的行動中和其弟統增共三千兵一起在龍泉山城外配合城將黑田二十四騎之一的小河信章的鐵炮攻勢,宗茂和統增分兵五隊潛伏,約七~八千敵軍因而溷亂撤退,此戰立花、黑田家稱為龍泉之戰。 同年1月25日於碧蹄館大戰前夕,明、朝聯軍偵查隊查大受、高彥伯與日軍偵查隊加藤光泰、前野長康所部遭遇,日方損失六十餘人撤退回報明軍進逼的消息,日軍陷入籠城或出戰的議論中,這時小早川隆景贊美「立花家的三千士兵足以抵擋他家敵軍一萬」(立花家の3千は他家の1萬に匹敵する。太合殿下もそうされるだろう)激勵各軍出戰.二十七日醜時許,由立花家兩位家老——十時但馬守和森下備中守釣雲,以及「騎士銃卒各數十」組成的物見隊,在王京以北約12公裏的礪石峴附近發現明軍大隊的蹤跡,火急回報本隊。於是,枕戈待旦的日軍迅速行動起來,宗茂軍先行,各部跟隨其後,相繼向礪石峴進發。當先趕到的宗茂迅速占領礪石峴,由於當時大霧彌漫影響了視野,宗茂並未急於進攻,而是一面下令士卒吃早飯,一面開始排兵布陣:先陣小野和泉守鎮幸、米多比丹波守鎮久七百人,中陣十時連久、內田統續五百人,後陣宗茂與其弟高橋統增二千人。此時十時連久提出,小野鎮幸和米多比鎮久皆為家中重臣,未防有失不可為先鋒,並慨然自任,得宗茂許可爭得先鋒之位,於早六時開始超越先陣進軍。 七時,十時隊與明軍騎兵先頭部隊發生接觸。但關於此部明軍的具體人數,日本的各種記載卻說法不一,《日本戰史朝鮮役》記作二千馬軍,曾根俊虎《日本外戰史》、奧田鯨洋《日韓古跡》則均說僅有數百。 當追擊到距離望客峴數町距離的時候,忽然遭遇六七千明軍增援部隊的反擊,十時連久以下百餘人戰死,宗茂軍陷入苦戰。而據桐野作人《碧蹄館之戰》所說,立花軍當時其實是使用了一種「示弱」戰術,即以十時連久的五百兵力正面楔入敵陣然後撤退,引誘敵軍追擊,宗茂則率本隊主力二千人繞到明軍右翼,尋機攻打敵人移動中暴露出的薄弱部位。不料明軍的火炮太過猛烈,當十時連久成功完成誘敵任務准備撤出時,負責接應他的小野鎮幸卻被明軍風暴似的大炮轟擊所阻,待小野隊終於冒著炮火突入與之會合之時,十時連久已死於明將李如梅箭下,與他同時戰死的還有其部下百餘人。同年三月二十三日,石田等三奉行在王京檢點士兵人數,統計宗茂、高橋統增所部僅餘一千一百三十二人,比之碧蹄館戰前之時減員一千八百多人,而此戰之後立花軍並未再參加任何有記載的作戰,那麼,除去一部分因病疫亡故和朝鮮義兵襲擊造成的傷亡,碧蹄館之戰無疑便應當是其最主要的損失原因。 文祿三年至四年(1594年-1595年)由於明、日處於議和階段,宗茂和小早川隆景等第六大隊於朝鮮釜山南部建築城池,是為龜浦倭城。宗茂因為小早川隆景途中回國養病,因此負責了後半的建築工事,並且接應軍糧的輸送。文祿四年(1595年)回日本,於「太閣檢地」中測得柳川藩實為22萬石,且因朝鮮戰功加增4萬石為26萬石,但是不久後因為石田三成等人從中作梗,被消去10萬石而成16萬石。 慶長元年(1596年)受領秀吉賞賜的京都聚樂第中一棟豪華的住所,與妻誾千代共同前往居住,但不久後在秀吉擔心宗茂無繼承人的情況下以細川忠興引薦了矢島秀行之女八千子為側室,更提拔八千子之弟矢島重成為立花家老,誾千代為此憤慨因而和宗茂分居,移往柳川城南方邊境的宮永居館。 慶長二年(1597年)的慶長之役,宗茂因領地加增之故軍役增至五千人,先後駐守安骨浦城、固城,並和毛利秀包出入釜山擔任小早川秀秋於朝鮮前期的輔佐役。同年12月底日軍加藤清正被明軍包圍在蔚山的危機中,明將高策趁日軍大部離開釜山本陣援救蔚山之際率明軍一萬二千、朝鮮軍三萬兵力,打算偷襲釜山的日軍本陣做為對日軍救援蔚山行動的牽制而進軍至般丹一地。高策因日軍主力已抵達蔚山,遂率聯軍回軍蔚山,日軍舒緩了本陣的壓力,是為般丹之戰... 慶長三年(1598年)明朝廷叫回攻略蔚山城失敗的楊鎬,新增兵力給於劉鋌、刑玠並調派水陸約8萬軍力進朝鮮,明將鄧子龍、張榜、藍芳威、陳璘等於此時參陣,9月以麻貴為東路攻蔚山、劉鋌為西路攻順天、董一元為中路攻泗川、陳璘為水路四軍各號稱五萬的軍勢南下進攻,日軍面對龐大軍勢僅能防守,這時因為五奉行等重要軍監回日本處裏政務,剩餘的日軍集結在釜山的會議中無法決定如何抗敵,並且互相忌妒戰功,在如此情況下,宗茂說了:「一日拖過一日城池被攻陷將是早晚之事,若是將日軍最右翼的蔚山城保住,那麼泗川之敵兵也會因此有壓力而無法專注攻城,將這二處控制住的話,那麼順天之敵自然也將退兵。我立花軍願當此趨敵之軍。」此時身為日軍總大將的小早川秀秋聽後說了:「蔚山的援軍由立花擔任是良策阿,即使失敗損失僅三千的立花軍,對我軍來說也是無關痛癢。」宗茂也清楚秀秋說話不懂事故因此並無怒言,而是准備出兵。 最後於日軍撤退時,在宗茂的號招下,一方面於固城集結弟弟高橋統增、毛利秀包、寺澤廣高、共七千兵力,一方面連絡島津義弘、宗義智的一萬一千日軍分乘軍船五百艘隨立花軍援救被海陸圍困在順天城的小西行長,途中於露梁海戰和明、朝鮮水軍的李舜臣、陳璘等激戰,被大敗之。據《谷田六郎兵衛覺書》載,立花家臣池邊貞政立下一番乘踏入陳璘的戰船,但卻反遭串刺戰死。 日軍此戰勉強令小西行長脫圍,此時立花軍擔任日軍殿後,使主力軍艦退回釜山,並且援護其他日軍先回國。 最後宗茂於年底11月26日才和毛利秀包共同突破明、朝鮮軍的海上封鎖為最後狼狽逃回日本。 慶長五年(1600年)關原之戰時,宗茂拒絕了德川家康的勸誘只為了報秀吉的恩情而率四千兵力加入西軍。關原開戰前夕,近江大津城主京極高次突然叛變,主將石田三成命令毛利元康(末次元康)、毛利秀包、宗義智、筑紫廣門和宗茂一同前往攻擊,此戰宗茂無損一兵一卒擊退了夜襲的敵軍,更發揮了養父道雪的發明「早入」,將火藥和彈混合塞入竹筒並連結鐵炮掛於足輕肩上、使的立花軍的鐵炮能比他家的鐵炮隊使出3倍速以上的銃擊,並且家臣立花成家立下了一番乘。可是在攻下了城池的同時,西軍卻也在關原戰敗,遂放棄了大津城。撤退期間遇到西軍殘兵正打算燒毀通往京都和美濃交通要道的瀨田唐橋,企圖延緩東軍的進軍速度,然而宗茂卻止住了這樣的做法,說了:「這座橋是為交通要道,不僅是軍隊連對人民而言也是重要的道路,燒毀了豈不連人民也受苦!?我軍即使不燒毀這座橋仍有伏見城的守備能拖緩敵軍!」事後德川家康聽聞宗茂如此做法便稱贊說:「宗茂真是具備剛仁的第一勇者」(立花は剛なるど仁あり まことに第一の勇者である) 撤退到大阪城後,宗茂對毛利輝元提出在大阪籠城對抗東軍的計劃,可是輝元卻已答應家康的勸降而拒絕,宗茂憤而領軍回柳川。途中遇到有如殺父仇人的島津軍只餘約八十人一同等待乘船,立花家臣有人提議不如趁機報殺父之仇,然而宗茂卻斥責說,並對島津義弘聲明義弘則向宗茂提出一同前往薩摩抵抗東軍的提議,但是宗茂卻回答:「放棄自身城池,前往他人的領地作戰在立花家訓是不允許的。」義弘因此由衷佩服宗茂,並且回領地後派出重臣新納忠元率一萬兵力往柳川為援軍。 11月,宗茂回歸柳川後隨即遭到途中叛變到東軍的鍋島直茂的侵攻,而黑田如水(黑田孝高)也在一旁打算坐收漁翁之利。領地遭到侵入而不還擊是武士的恥辱,但是天下大勢已趨向家康,親自出陣對抗的行為等於不服家康,實為不智之舉,因此宗茂為了武家的意地以及對家康表示臣服,自己只坐鎮在城中運籌帷幄,指揮一萬三千的兵力,在柳川領地周邊的城砦和河口配置了堅固的防衛線,並派家臣團出戰。 宗茂命家老小野鎮幸為總大將,率一千三百餘人於江上八院一帶封住鍋島三萬二千的大軍,然而激昂的立花軍先鋒壞了軍令擅自開戰,雖然立花軍沖破鍋島12段軍陣當中的9段,然而以立花統次為始,為了救援以必死之勢突擊的先鋒安東久照、石松政之而率第2陣斷後的立花鎮實和其次男立花親雄、新田鎮實、第3陣的年輕武者十時惟久皆陸續戰死,鍋島軍則發生先鋒鍋島茂忠命危,返回本陣五反田才得以收拾軍勢的情況,可說是軍勢大亂憑人數優勢作戰,雖然鍋島軍包圍小野鎮幸的本陣,但在其拼死奮戰下沒能殲滅,最後本在戰場西方監視黑田軍動向的立花成家率三百兵力側面奇襲溷亂了鍋島軍使鍋島軍逐漸撤退,一方面掩護小野鎮幸撤退結束了此戰,結果立花方損失三百餘人,鍋島也付出二百餘人的犧牲者。之後因為黑田孝高、加藤清正率軍加入柳川城的包圍而轉為籠城,同時宗茂受到好友加藤清正的說降,在與重臣連番考慮下,宗茂因為顧慮到柳川領民的安全,終於開城交出城池。 關原之戰後宗茂被改易成了浪人。面對欣賞宗茂器量的加藤清正和前田利長的仕官勸誘,都被宗茂拒絕了。宗茂受加藤清正的好意於肥後玉名郡高瀨的清源寺當了一陣子的食客後於慶長六年(1601年)7月入秋後帶著家臣共約二十人前往京都,於翌年3月到達妙心寺依附立花道雪義子戶次茂庵所認識的吳服商富士谷紹務並暫住於大德寺大慈院,慶長八年(1603年)秋離開京都於12月到達江戶,本多忠勝因當年共受豐臣秀吉贊賞之故,安排其暫居高田寶祥寺。 終於對其才能感到可惜的德川家康於慶長九年(1604年)2月透過本多忠勝招喚宗茂,於7月25日揭見家康受任將軍幕府的御書院大番頭領5千石,慶長十一年(1606年)1月3日家康打算給宗茂陸奧棚倉的領地,但因將軍之位已讓於德川秀忠,因此於9月上旬宗茂會見秀忠後,於11月11日正式給予陸奧棚倉一萬石複歸大名身分,更於慶長十五年(1610年)7月25日加增至三萬石。 大阪之役的時候家康因擔憂宗茂的武勇智謀和統率能力會為豐臣家效力而盡力的勸說宗茂,宗茂並在大阪冬之陣於大阪城西北的天滿川濱筋口參陣,大阪夏之陣更成為德川秀忠的軍事顧問和旗本大將,預言應驗了秀忠不聽建議,率軍獨斷的突出將會遭到豐臣方大野治房突襲的戰況;後隨本多正純等人參與天王寺口抵擋突破德川軍數陣的毛利勝永的攻擊。 因這些功勞於元和六年(1620年)11月27日奇跡似地得以回歸舊領築後柳川藩,獲得十一萬九千六百石,完成了複歸柳川大名的心願,不同於丹羽長重等僅是回複大名的身分,是日本史上唯一領地改易後還能回複舊領地的人。晚年也擔任第三代將軍德川家光的相伴眾,為其說明戰國的物語故事,而德川家光也贊美宗茂為「真正的武人」。 ​寬永十四年(1637年)爆發島原之亂,宗茂在戰事後期被任命前往輔佐總大將松平信綱,負責戰略面的指揮,預言了敵兵偷襲奪糧的行動並做出預備措施,並且於有馬城攻城時展現了昔日的勇姿,參陣的諸大名以武神再臨贊歎當時的宗茂。 寬永十九年(1642年)於江戶下屋敷因胃病死去,年七十六歲,法名大圓院殿松陰宗茂大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E8%8A%B1%E5%AE%97%E8%8C%82
竹中重治 Takenaka Shigeharu(1544年-1579年) 竹中重元之子、母為杉山久左衛門之女(妙海大姊)、正室為安藤守就之女.得月院;初名重虎,後改名為重治,通稱半兵衛,戒名深龍水徹,與黑田官兵衛並稱「二兵衛」。 永祿元年(1558年),與當時擔任不破郡岩手城主的父親重元,一同擊敗岩手彈正守忠誠,並於永祿二年(1559年)著手修建菩提山城並移居該城。 重治元服後,與美濃三人眾之一的岩村城城主安藤守就之女(法名得月院)成親,永祿五年(1562年)父親重元去世,重治繼承竹中家的家督之位及菩提山城,擁有約三萬石高土地,侍奉美濃國大名齋藤龍興。早前美濃國發生齋藤道三及齋藤義龍父子相爭,父親重元因支持道三而失勢,作為重元之子的重治雖然憑藉岳父安藤守就的關係重歸齋藤家的行列,卻不受信任,遭到冷落。 齊藤家自齊藤義龍時代,即屢屢遭受來自尾張國織田信長的侵攻,永祿四年(1561年)7月美濃再度遭受織田的侵攻,齊藤方採用重治「十面埋伏陣」獨特的伏兵戰術,擊破織田方的攻勢。永祿六年(1563年)重治再度擊退織田軍的攻勢(新加納之戰,一說為日根野弘)。 永祿七年(1564年)2月,據傳重治為了勸戒耽於酒色的主家齋藤龍興,命令當時在稻葉山城作為人質的弟弟久作(竹中重矩)裝病,隻身帶領16名隨從入城探病,然後智取以難攻不落見稱的稻葉山城,後來又將城還於龍興,震驚天下。據說,當時重治和安藤守就與日根野備中守弘就及「美濃三人眾」之一的氏家直元不和(因三人眾不能理解重治的用心,另有一說是出於嫉妒),導致尾張的織田信長有機可乘,所以才會發動取城行動。取城當夜,重治命令各家臣手持兩支火把。齋藤軍在夜色中誤以為織田家的大軍入侵,城內居民和士兵大舉逃散。重治趁勢闖入稻葉山城,很快就到龍興所住的御殿裏面見龍興,後來龍興逃往他城,在重治還城後才重新入城。重治還城後將家督之位讓予弟弟久作,隱居栗原山。曾一度以客將身分,接受淺井家的3000貫(相當15,000石高)俸祿,約一年後於舊領岩手再度隱居。 齋藤家滅亡後,重治受聘淺井家以維持生計,後來由羽柴秀吉(豐臣秀吉)勸說改侍織田信長,依照竹中重門所著的「豊鑑」記載、信長接受秀吉的要求、同意重治與牧村利貞、丸毛兼利共同擔任秀吉的「與力」。 織田信長包圍網期間,重治利用自己原先在淺井家的人脈關係,協助進行各項調略活動。包括元龜元年(1570年)淺井方長亭軒城及長比城的策反(『淺井三代記』)。姊川之戰後被任命為羽柴秀吉寄騎(傳說是因為重治和信長關係不良,但也有別一說,信長認為把重治放在秀吉麾下,比安置在自己身邊更能發揮對外拓展的才能,未必是因為關係差,可以確定的是竹中從來都不是秀吉直臣),在秀吉麾下東征西討,而與另一參謀黑田孝高並稱為「二兵衛」。羽柴秀吉之弟羽柴秀長(豐臣秀長)、部將蜂須賀正勝及前野長康等皆視重治為師,在軍中享有極高的聲譽。 羽柴秀吉被任命為進攻中國地方的山陽道的的總大將後,重治作為參謀從軍,天正六年(1578年)、宇喜多氏位於備前的八幡山城,經由重治的調略而陷落,更獲得織田信長的讚賞。秀吉的另一位幕僚黑田孝高銜命前往有岡城勸服荒木村重時,遭荒木村重軟禁,一時間誤傳孝高倒向荒木方,信長盛怒下,要求秀吉將孝高之子.松壽丸(黑田長政)處死,所幸重治以替身瞞過信長,更加深竹中與黑田家的友誼。 天正七年(1579年)4月,在討伐播磨三木城的別所長治叛亂中病情惡化。重治拒絕秀吉勸其回到京都療養的請求,堅持留在平井山前線,並留下「戰死沙場乃武士本色」的遺言後辭世,其死因推測應為肺結核或是肺炎,年三十六歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E9%87%8D%E6%B2%BB
蜂須賀正勝 Hachisuka Masakatsu(1526年-1586年) 蜂須賀正利的長子、母為安井彌兵衛尉重幸之女.安井御前、正室為大匠院(まつ、松)、側室為白雲院;通稱彥右衛門,別名小六、小六郎,戒名福聚院殿良岩淨張大居士。 蜂須賀氏是以尾張國海東郡蜂須賀鄉(現今愛知縣海部市蜂須賀)為根據地的國人領主,正勝在大永六年(1526年)作為蜂須賀正利的長男在蜂須賀城出生。父親正利死後,移住至母親的故鄉丹羽郡宮後村(現今愛知縣江南市宮後町)。 在年輕時期就率領川並眾在木曾川進行水運業而獲得利益。而且以地理知識和人脈關係來一時間仕於美濃國的齋藤道三、尾張國的岩倉城城主織田信賢、同國的犬山城城主織田信清,但是以獨立勢力的形式存在。(在講談和『太閤記』中是野盜的頭領)。 與羽柴秀吉(豐臣秀吉)的相遇有諸種說法,特別是與還是浪人的秀吉在矢矧川的橋上(矢作橋)相遇的逸話相當有名,但是當時的矢矧川上還未有架橋,因此後世創作的可能性相當高。另一說法指秀吉在仕於織田氏以前就仕於正勝,在小和田哲男的『豐臣秀吉』一書中指出,秀吉因為父親木下彌右衛門是蜂須賀正利的部下而仕於正勝。與織田信長的側室生駒吉乃的家族生駒氏有親戚關係,秀吉仕於織田氏是因為被與正勝有親戚關係的吉乃所推薦(『織田家雜錄』)。 永祿九年(1566年),在美濃國與川並眾的前野長康等人一同協助豐臣秀吉築起墨俁城(「墨俁一夜城」的逸話是後世創作的可能性相當高),在秀吉成為守備頭領之際以與力的身份行動,向齋藤氏的調略中以嚮導身份活動。之後在進攻越前天筒山城、金崎城、攻略近江橫山城、以及進攻長島一向一揆時跟隨秀吉並立下戰功。 天正元年(1573年)淺井氏滅亡後,秀吉成為近江長濱城城主(最初是小谷城城主)時被賜予長濱內的領地。 天正五年(1577年)開始的中國征伐中亦有從軍,於天正七年(1579年)進攻播磨三木城(三木合戰)、天正九年(1581年)進攻因幡鳥取城中相當活躍,因為這些功勞而被賜予播磨龍野城5萬3千石。 天正十年(1582年)的本能寺之變之際,正處於攻略備中高松城的白熱化階段期間與黑田孝高一同盡力令高松城開城,間接令中國大返還成功。天正十二年(1584年),與德川家康的小牧長久手之戰中與有從軍。 天正十三年(1585年)被朝廷下賜從四位下修理大夫。同年,在四國征伐中降服阿波木津城,負責處理四國戰役前後的交涉和領土等問題。豐臣秀吉為向長宗我部元親施加壓力而把阿波一國賜予正勝,不過正勝希望仕於秀吉側近而辭退,於是讓渡給嫡男家政,自己則沒有進入阿波。之後與黑田孝高一同負責與毛利氏溝通,確定中國地方的國境。 翌年,於大阪城外的邸宅中死去,年六十一歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/zh-hk/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%AD%A3%E5%8B%9D
豐臣秀吉 Toyotomi Hideyoshi(1537年-1598年) 木下彌右衛門之子,母為阿仲(大政所),繼父竹阿彌,猶父近衛前久,正室為淺野長勝養女.寧寧(高台院),側室為淺井長政長女.茶茶(淀殿)、成田氏長之女.甲斐姬;幼名日吉丸,初名藤吉郎,後改名秀吉,取丹羽長秀和柴田勝家各一字,改姓羽柴;認近衛前久為猶父,以其本家藤原氏為姓、後受天皇賜姓豐臣;別名元吉,綽號猴子。 由於秀吉的出身並非顯貴,有關於他早期的文獻記載十分有限,僅大概知道他少年時曾在尾張、三河、駿河等地方活動,父親曾在尾張地方國人眾蜂須賀氏(蜂須賀正利)麾下當雇傭性質的雜兵,修理兵器鍛造,七歲喪父造,八歲母改嫁。入光明寺當小沙彌(被喚為禿鼠的原因),曾經在遠江國引馬城支城頭陀寺城成為松下之綱的部下,『太閤記』記載秀吉元服時由松下之綱為烏帽子親並命名中村秀吉,但離開原因不明。後從遠房姨媽伊都父親清兵衛的鍛冶屋拿針販賣。 天文二十三年(1554年)以小者的身分成為了織田信長的家僕,被信長喚為猿或禿鼠(禿げ鼠),地位在足輕與「中間」之下,作為小者中的「草履取」的等級,若隨信長上陣,「中間」可以持脅差或木刀,小者只能幫主公提武具或充當「人夫」。後來因幫信長拿草鞋時將草鞋放進懷裡暖鞋獲得信長的歡心。天文二十四年(1555年)陪同信長側室生駒吉乃回娘家小折城的生駒屋敷,經吉乃介紹認識生駒氏親戚蜂須賀正勝與川並眾。永祿四年(1561年)與淺野長勝的養女.寧寧結婚,從妻姓,更名為木下秀吉。永祿十三年(1570年)信長準備進攻朝倉義景的中途,在金崎遭到盟友淺井長政攻擊背後,此戰秀吉為殿後軍一員,保護信長安全撤離(金崎之戰)。 元龜元年(1570年)姊川之役後,秀吉擔任此役奪取的近江國橫山城城代,並以此領地可動員的兵力一千人及在地情報,天正元年(1573年)在小谷城之戰從防禦土壘最矮(約一米五)的中段京極丸,切斷淺井父子倆的防守區域,因此信長擊敗了淺井長政,長政自盡,淺井的舊屬歸織田家所有,以此功秀吉支配(領有一小部分600貫約2400石-3000石)北近江三郡十二萬石成為城主,將根據地移至近江國今濱城,利用小谷城的土石建材增建今濱城後易名為長濱城。後賜苗字「羽柴」。 他同時也招募家臣,在封為城主前他底下的家臣就是蜂須賀正勝(與力)、重治(寄騎小姓)、前野長康(小六若黨),尚未元服的福島正則、加藤清正,一門眾的淺野長政、羽柴秀長。而大谷吉繼、石田三成等家臣,皆是出身於近江地侍小姓,增田長盛則出身尾張國中島郡增田村,原為信長家臣後改寄騎羽柴秀吉。 天正四年(1576年)支援北陸柴田勝家對抗上杉軍,秀吉因為和勝家戰略上意見不一而擅自撤離,結果勝家在手取川之戰中大敗,使勝家和信長有所不滿。在織田信忠的指揮下,秀吉參與攻擊松永久秀的戰鬥。 天正五年(1577年)赤松則房、別所長治、小寺政職臣從信長之下,秀吉受命攻略中國地方,任播磨國國主,根據城為姬路城,受命後不久別所長治及荒木村重背叛織田信長,秀吉討伐,天正七年(1579年)使宇喜多氏完全臣服於織田氏,天正八年(1580年)別所長治和荒木村重戰敗,別所被捕,切腹自盡;荒木逃離,全家被信長誅殺。秀吉開始與毛利氏及山名氏交戰,攻下了鳥取城、三木城、高松城等重要據點,秀吉在此發揮了長時間包圍戰城池戰法——斷糧(干殺し),使敵軍提早開城投降。 天正十年(1582年)明智光秀於支援秀吉出兵毛利氏途中,發動背叛兵變,攻佔京都並夜襲投宿在本能寺的織田信長,是為本能寺之變,信長焚毀本能寺,屍骨無獲,其長子織田信忠於二條御所戰敗後切腹自盡。當時羽柴秀吉正親自率兵包圍備中國的高松城。由於黑田官兵衛(黑田孝高)用計水攻高松城,而使光秀向毛利氏報信的信使隔天在被水包圍的城下被羽柴軍所抓,所以秀吉在事變隔天便得知消息。秀吉向毛利氏隱瞞信長身亡的消息,透過毛利家外交僧安國寺惠瓊與城主清水宗治斡旋。之後,在毛利氏大老小早川隆景主導下,他迅速與毛利氏議和,並率兵在五日內「強行軍」約200公里返京,並隨即與明智軍展開決戰,這次行軍史稱「中國大撤退(中國大返し)」,行動之迅速大大震撼了京師的明智軍。回師之時,秀吉以信長之名為號召,成功收納流竄在各地的信長舊屬,於山崎之戰,大敗準備不及的明智光秀,最終明智光秀逃走時被獵殺落難武士的村民殺死,秀吉乘機控制京都一帶,不過無法阻止織田氏內部出現派系分裂。主要分裂為柴田勝家、織田信雄、織田信孝以及羽柴秀吉等派系。 秀吉在清洲城重臣在清洲會議上得到多數織田族人與家臣支持,擁立尚在襁褓的織田信忠長男三法師(織田秀信)繼任家督。但為此得罪了同屬織田重臣的柴田勝家,導致其擁立信長三子織田信孝對抗秀吉。隔年,雙方決裂,秀吉先迫使信孝投降,後來羽柴與柴田軍在賤岳決戰,最初勝家佔盡優勢,中川清秀遭到突擊陣亡,但是秀吉率兵衝上前線使形勢急變,最終秀吉取得勝利。隨著羽柴軍包圍北之庄城,勝家與妻子阿市自殺,此外織田家另一重臣瀧川一益則被迫蟄居,織田信孝不久被殺,丹羽長秀和池田恆興歸服,大致上平定了織田家內反秀吉勢力。天正十一年(1583年),秀吉在石山本願寺的舊址上建大阪城,當時到訪的大友宗麟將它稱為「戰國無雙的城」,但城堡在防禦上亦有缺點,在大阪冬之陣中,真田信繁進行了修築加強防禦。 天正十二年(1584年),原先與秀吉合作的信長次子織田信雄聯合德川家康反對秀吉,羽柴軍便與兩人展開史稱小牧.長久手之戰的戰事。此戰之初擁有兵力優勢的羽柴軍直撲德川領地,但途中卻遭到德川軍伏擊,有「鬼武藏」之稱的大將森長可與池田恆興戰死,秀吉其後撤兵,改為攻擊美濃國織田信雄,信雄投降,迫使雙方談和,德川軍與羽柴軍達成和戰協議。 天正十三年(1585年),秀吉派遣秀長、小早川隆景等將領攻打剛統一四國的長宗我部氏,利用兵力的差距迫使其歸降並減封至只剩土佐一國。此外秀吉派遣藤堂高虎為首的部隊,平定了雜賀眾,首領鈴木重意被斬首處死。此外,秀吉派重兵攻打越中國佐佐成政,開戰派大軍包圍,成政不戰而降。秀吉原本覬覦征夷大將軍一職,不過流浪的前將軍足利義昭拒絕以秀吉為猶子,不入源氏籍,便無法成為將軍。於是秀吉轉目標為關白(需入攝家),當任的關白二條昭實也拒絕了秀吉要求。天正十三年(1585年)秀吉找上公家的前關白近衛前久幫忙,讓近衛前久認自己為猶子(以本家藤原氏為姓),迫二條昭實讓位,就任關白。天正十四年(1586年),為了攏絡德川家康使其成為自己的助力,秀吉將其妹旭姬(四十二歲)嫁與德川家康(四十三歲),並為家康正室,甚至將自己的母親大政所送回家康身邊成為人質,德川家康此後臣從秀吉。同年,受天皇賜姓豐臣並就任太政大臣(平民出身者第一人),確立了政權。 天正十四年(1586年),九州大名大友宗麟向秀吉請求支援,天正十五年(1587年)派遣秀長率領大軍攻擊島津氏的支城,使義久投降,戰後島津氏被分配到薩摩、大隅、日向三國。平定九州後遷入聚樂第,同年十月於北野天滿宮舉辦北野大茶會,邀請農民與公卿貴族,據說兒時玩伴石川五右衛門也有參加。天正十六年(1588年)秀吉開始實行刀狩令,加強了兵農分離的政策。 天正十五年(1587年),禁止基督教。天正十七年(1589年)北條氏的家臣豬俁邦憲奪取了真田昌幸管轄下名胡桃城,導致秀吉下令全日本大名討伐北條氏,不服從者將會受到失去領土的處分。次年3月1日秀吉率20萬大軍向北條氏攻擊,攻陷北條各個支城下逐漸向小田原城包圍,7月北條氏政、氏直父子開城投降。氏政、氏照兩兄弟切腹自盡,氏直被流放到高野山,戰後秀吉為各大名分封新的領土。天正十九年(1591年)奧州大名「獨眼龍」伊達政宗自動來請降,日本三島(本州、四國、九州)到此統一。 天正十九年(1591年),將關白之位讓給外甥豐臣秀次,自稱太閤。天正十九年(1591年)秀吉進行他人生中最後一場日本國內戰爭,派遣了蒲生氏鄉、淺野長政及石田三成聯同東北地方大名平定九戶政實之亂。同年,秀吉命令茶人千利休切腹自盡,詳細原因不明。一說是利休於寺廟擺設自己的雕像激怒到秀吉;另有一說是由於利休過於向秀吉進諫(例如反對秀吉意欲向大明出兵)以致。 文祿元年(1592年)秀吉率兵20萬侵略朝鮮,史稱「文祿之役」(朝鮮方面稱為壬辰倭亂)。兵員以西日本諸大名為主。戰爭初期,久經沙場的日軍攻勢猛烈、勢如破竹,以極快的速度先後攻佔朝鮮王京漢城與陪都平壤,並迅速攻佔朝鮮境內大量主要城市,直趨明朝邊境。朝鮮宣祖馬上向明朝求救。秀吉於5月攻佔漢城後便研議要遷都北京,將北京周圍10「國」之地獻為御用,賜公卿以俸祿,賜其部下以10倍於原有的領地,甚至命豐臣秀次為大唐(中國)關白,日本關白由羽柴秀秋或宇喜多秀家擔任,朝鮮則交給羽柴秀勝或宇喜多秀家統治。明神宗派遣遼東總兵李如松率兵入援朝鮮。在明軍(約5萬)和朝鮮三道水師提督李舜臣等的反擊下,日軍攻勢遇阻。終於在文祿二年(1593年)日軍因遭逢損失,秀吉遂被迫與明朝和談。 其實日方代表小西行長出身商人家庭,精於商業謀略,偽造秀吉降表與明朝議和,而明方使者沈惟敬本是市井無賴,就稱秀吉的目的是要求恢復雙邊貿易。雙方於是締結和約,日軍就此暫退釜山。 文祿四年(1595年),秀吉將豐臣秀次流放到高野山,然後將秀次處死,其過程嚴酷出乎人們意料,秀次的一家連同侍女和孩子39人都被砍頭,之後屍首被拋荒不得埋葬。此外亦令秀次支持者切腹,包括前野長康等人。賜死的原因可能是當時輿論流傳著「殺生關白」(豐臣秀次的綽號)過去所發生的亂行,加上秀吉打算以年幼的次男秀賴作為家中的繼承人,因此秀次就成了眼中釘。 文祿五年(1596年)九月,秀吉歡喜地迎接明朝使者,明、朝議和使來日,秀吉宴饗之。然宣讀國書,始知議和實為冊封,大明欲封秀吉為日本國王。秀吉方覺受騙,大怒道:「吾掌握日本,欲王則王,何待髯虜之封!且吾而為王,何以對天皇!」,並欲殺明朝使節,為旁人勸止,於是下令驅逐明朝使節。慶長二年(1597年)正月,秀吉再次遣兵入侵朝鮮,史稱「慶長之役」(朝鮮方面稱為「丁酉再亂」)。日軍盤據釜山,再進逼漢陽。然而明朝援軍(約8萬)加入戰鬥行列後,日軍攻勢再度受阻,被迫死守於海岸各倭城。 慶長三年(1598年)8月18日,秀吉在伏見城突然逝世,年六十二歲。死前他亦已託付前田利家監視德川家康及輔佐豐臣秀賴。而入侵朝鮮半島的豐臣軍在接獲德川家康為首的五大老命令及以石田三成為首的五奉行安排下,向明朝隱瞞了秀吉的死訊,隨後與明朝議和並逐漸從朝鮮撤軍。可是這場戰役豐臣氏為首的軍隊損失巨大;大名元氣大傷,此役也埋下了德川家康日後成為征夷大將軍的一個重要伏因。而日本與朝鮮的關係,到慶長十二年(1607年)才恢復正常。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B0%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89
豐臣秀長 Toyotomi Hidenaga(1540年-1591年) 竹阿彌之子、母為大政所阿仲、妻為智雲院;幼名小竹、通稱小一郎、初名長秀、後改名為秀長,別名大和大納言,戒名大光院殿前亞相春岳紹榮大居士。 天文九年(1540年),秀長出生在尾張國中村,是織田家同朋眾竹阿彌的孩子,是豐臣秀吉的同母異父弟弟(一說同父親弟弟)。在年幼的時候,當時的兄長秀吉離開家裡,所以秀長並沒有時常見到兄長。秀長開始跟在秀吉身旁的時間並沒有確切的紀錄,不過大概是在秀吉出仕織田家後並與寧寧婚禮(永祿七年(1564年))之後。在兩人的婚禮後,秀長成為織田家步卒小頭目。 據說,秀長曾向兄長秀吉的義弟淺野長政提出做他的家臣的請求。秀長從完全沒有武士知識的狀態,到成為秀吉的助手只花數年的時間,進步的異常快速。現在所留下的秀吉的親筆書信中,有許多的字辭都十分的講究,但是當時有書信的工作難應付這種見解,因此有人推斷那些書信是秀長代筆的可能性很高。由此可見秀吉信任秀長已經到可以託付細鎖而重要的工作。 元龜元年(1570年),織田信長領軍攻打越前國朝倉氏時,聽聞近江國大名淺井長政(信長之妹織田市的丈夫)陣前倒戈的消息,並且為幫助朝倉氏而從後夾擊。織田軍決定退兵,然後由兄長秀吉擔任殿後的軍隊。而跟在秀吉身邊的秀長被任命為第一的備大將,與蜂須賀正勝、前野長康一起盡力退兵的工作。 天正元年(1573年),兄長秀吉因為淺井氏滅亡的功勞成為長濱城城主,並改名為與羽柴秀吉。一般認為,秀長本身也有擔任城代,而他也從此時開始也使用秀長這個正式名字。而這名字應該是取自織田家家臣丹羽長秀的名字,在當時,秀吉不被織田家其他家臣看好,就只有丹羽站在秀吉這一方。數年後,可以說是秀長右腕的藤堂高虎出仕,之後藤堂高虎也有侍奉秀長的養嗣子秀保,直到秀保去世。 天正二年(1574年),兄長秀吉因為越前國一向一揆的對峙而出征,秀長以秀吉的代理身分出征長島一向一揆。也因為這段史實被記在信長公記,因此認定秀長是個武將就是在此時。後來由於信長的命令,秀吉成為成為中國方面總司令以及平定播磨、但馬等國(中國征伐)。之後秀吉向黑田孝高(黑田官兵衛)發出的親筆信時常以小一郎(秀長)作為信賴的代詞等,可以看出秀長漸漸成為秀吉陣營中的最重要的人物(黑田侯爵家文件)。 天正五年(1577年),但馬國竹田城(城代齋村政廣)陷落,秀長被任命為城代。 天正八年(1580年),兄長秀吉軍攻打但馬國出石城,在出石城陷落後,可以說是完全平定但馬。之後,秀長任出石城主,成為但馬七郡十萬五千石的大名,在領地內從事生野銀山的管理。 這段期間,秀長也作為兄長秀吉的家臣參加三木合戰、鳥取城之戰、備中高松城之戰等戰事,立下不少戰功。 天正十年(1582年)六月二日,織田信長因為部下明智光秀的反叛而死於京都本能寺(本能寺之變)。兄長秀吉從備中國高松城急返,六月十三日,與明智軍戰於山崎(山崎之戰)。此時,秀長和黑田孝高一同守備天王山。同天,明智光秀戰敗自盡而死(一說為土民所殺)。同年,秀長任從五位下美濃守。 天正十一年(1583年)兄長秀吉和織田家家臣柴田勝家戰於賤岳(賤岳之戰),而秀長自然有參戰。就在兩軍對峙的當口,織田信孝舉兵。在秀吉壓制信孝後,敵將佐久間盛政突襲中川清秀的陣營,中川在奮戰而死。不過,最後秀吉軍勝利。史料.老人雜話裡說到,據說因為清秀戰死的責任,秀長被秀吉叱責。可是也有說秀吉的行動小心謹慎的緣故,叫守備的秀長作戰。如果真的是把作戰的任務交給守備的秀長,不能摧毀敵軍的陣勢的可能性也就比較高。而且,老人雜話作為史料頗受質疑。有一說法,就在這一年,秀長將苗字(姓氏)由木下改為羽柴。 天正十二年(1584年),兄長秀吉與德川家康和織田信雄的聯軍發生戰事(小牧長久手之戰)。秀長進軍守山,監視織田信雄。之後,外甥羽柴秀次(豐臣秀次,姊阿智之長子)因為戰事失利而被秀吉斥責,此事十分有名。同年六月的時候,改名為秀長。此後,秀吉遠征秀長也有隨軍,四國征討也有立下戰功,而秀長也盡力於回復秀吉對秀次的信賴。 天正十三年(1585年),紀州征討時,和豐臣秀次一起被兄長秀吉任命為副官。戰事結束後,秀吉封給秀長紀伊國和和泉國等的六十四萬石的領地。同年,和歌山城築城的任命藤堂高虎為普請奉行。這是被譽為築城名手的高虎最初所築的城。 天正十三年(1585年)六月,秀長在四國征伐中作為兄長秀吉的代理,擔任兵力超過十萬人的軍隊總司令。可是,長宗我部氏反抗激烈,且因為毛利氏和宇喜多氏的聯合軍遲來,於是有人建議秀長向秀吉增援。而秀長送出的書信(四國御發向事)被認為是現存少量的秀長的書信之一。 同年八月,因為長曾我部氏征討的功績,增領大和國的郡山城,成為一百一十六萬石的大名。有著悠閒自適的形象的秀長領土(大和、和泉、紀伊)中,寺社勢力卻十分強大,完全治理好並不是一件容易的事。最後用極為強制的手段才讓領地內安定下來,但這也造成日後的重大問題。 天正十四年(1586年),二月八日,入攝津國有馬湯山(多聞院日記),這被視為秀長的健康狀況漸漸出現變化的象徵。之後,連續數次往來溫泉療養(湯治)。在湯治中,秀長也陸續拜訪本願寺、金庫院、寶光院。 同年,十月二十六日,一直拒絕上洛的德川家康終於到達大阪,暫住在秀長邸。同天晚上,發生兄長秀吉請求成為家康臣下的事件。有這段記錄的史料並不少(家忠日記)(德川實紀)。可是除秀長、秀吉以外被紀錄下來的人物只有淺野長政,一般認為這只是秘密作戰。 天正十五年(1587年),九州征討,秀長擔任別動隊日向國方面總司令。包圍同耳川之戰的高城,4月17日島津忠鄰夜襲宮部繼潤的軍隊,並且島津義弘率援軍突擊(根白板之戰)。在宮部繼潤抗戰的期間,藤堂高虎、黑田孝高、戶川達安等將聯合反擊,島津軍戰敗因此撤回薩摩國。之後,島津家久為議和而訪問秀長,日向方面的進軍結束。同年八月,秀長因為立下功績,而從二位大納言,因此後來的人多稱秀長為大和大納言。 天正十八年(1590年),元月左右,秀長的病情開始惡化,因此並沒有參與小田原征伐。十月左右,外甥豐臣秀次前往談山神社,祈禱秀長的病痊癒。所以,一般都認為秀長和秀次之間的關係良好。 天正十九年(1591年),於大和國郡山城逝世,年五十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%90%E8%87%A3%E7%A7%80%E9%95%B7

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