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三好政勝 Miyoshi Masakatsu(1536年-1632年) 天文13年(1544年)に父から家督を譲られたが、実権は父にあり、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いでは父と共に戦闘に加わっていた。しかし、父は細川晴元の側近として権勢を振るい本家当主三好長慶と対立、晴元と長慶の対立の中で天文17年(1548年)10月に長慶が晴元と父に反乱を起こすと、父と共に標的にされた政勝は籠城していた摂津榎並城を包囲され、天文18年(1549年)6月まで持ちこたえたが、父が救援に失敗して長慶に討たれると榎並城から逃亡した(江口の戦い)。 戦後晴元が13代将軍足利義輝と共に京都から近江へ逃亡すると、讃岐の香西元成や丹波の波多野晴通と通じ、長慶に対して徹底的に戦った。天文20年(1551年)3月に義輝の刺客による長慶暗殺未遂事件が起こると、混乱に乗じて元成と共に京都に侵入して撤退、7月に再度入京して相国寺に立て籠もったが、長慶の部将松永久秀・長頼兄弟に相国寺を焼き討ちされ逃亡した(相国寺の戦い)。天文22年(1553年)に晴元と義輝が結託して長慶に挑んだ際は7月に元成と共に入京、8月に義輝らが霊山城を三好軍に落とされ再度近江へ逃げ出すと、9月に丹波に出没して八木城を落とし、城主内藤国貞を討ち取った。しかし松永長頼に八木城を奪回されてからは姿をくらまし、長慶の死後は三好一族として長慶の後を継いだ義継をよく補佐した。 やがて織田信長が上洛してくると、三好三人衆や三好康長らと共に和泉の織田方の城を落したり、15代将軍足利義昭を本圀寺に攻めたり(本圀寺の変)と反信長戦線に加わった。織田軍に敗れ一旦阿波に退却、元亀元年(1570年)7月に渡海し中島天満森に着陣、野田城・福島城の戦いに参戦したが、8月28日には信長に降伏を申し出て、続く比叡山攻囲戦には織田軍に加わって戦っている(『信長公記』『尋憲記』)。降伏によって信長から9月20日に摂津豊島郡をあてがわれた(『寛政重修諸家譜』)が、元亀2年(1572年)6月に伊丹親興の領地との交換で旧領榎並を回復した(『福地源一郎氏文書』)。 しかし、元亀3年(1572年)には松永久秀・義継と細川信良の抗争の中で、松永方に属して信長が庇護していた信良を攻めている(永禄以来年代記)。この記録を最後に、しばらく史料上からはぷっつりと姿を消す。それまで行動を共にしてきた香西長信(香西元成の後継者と思われる)は、本願寺に味方して天正3年(1575年)に戦死しているが(『信長公記』)、本願寺側の武将の中に政勝の名前はない。 本能寺の変後に豊臣秀吉に仕えたとされ、次に史料に登場するのは天正20年(1592年)の文禄の役に際して、肥前名護屋の本丸番衆を務める馬廻の「三好為三」としてである(『太閤記』)。秀吉の死後は慶長5年(1600年)に徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後は旗本として1400石余を加増され(『寛政重修諸家譜』)、河内三郡の内で2020石を領した。その後は慶長9年(1604年)に因幡守に任官し、大坂の陣にも出陣し、戦場であった河内の案内に功績があったとして表彰され、鷹狩の許可を得た上茶器を与えられるなど厚遇された。徳川秀忠の御咄衆となり、寛永8年(1632年)に96歳の長寿を全うした。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E5%8B%9D
三好政長 Miyoshi Masanaga(1508年-1549年) 初期の経歴は不明だが、長兄の新五郎が永正17年(1520年)に伯父の本家当主三好之長に従い等持院の戦いで細川高国に敗れ、之長と共に処刑されている。高国の政敵で之長が擁立していた細川澄元は畿内から阿波へ逃れ死去、遺児聡明丸(後の晴元)は阿波に止まり、三好一族も之長を始め多くが高国との戦いで敗死して勢力を減退させ、逼塞を余儀無くされていた。 大永6年(1526年)12月13日、高国が自ら招いた内紛で苦境に立たされていた好機に乗じ、父や次兄勝長と共に阿波勢の先鋒として堺に上陸、摂津堀城を占拠した。続いて翌7年(1527年)に北上して摂津と山城の境目に当たる山崎で反高国派の柳本賢治と合流、2月13日の桂川原の戦いで高国に勝利して近江へ追い落とし上洛を果たした。3月22日に従甥にあたる本家当主三好元長(之長の孫)が足利義維と晴元を擁立して堺に上陸、幕府と酷似した堺公方府を誕生させるとその中枢に入った。 しかし元長とは仲が悪く、賢治と組んで元長と対立するようになり、しばしば主君の晴元に讒言して元長を陥れた。大永8年(1528年)に元長が高国と12代将軍足利義晴との和睦に動くと賢治と共に反対、晴元も反対するよう説得させ元長を窮地に立たせた。また、賢治が大和・河内・摂津などで高国派を征討しながら元長派の国人を排除をした時も協力、享禄2年(1529年)に失望した元長が阿波へ帰国すると代わりに阿波勢を率いる立場に置かれた。しかし、享禄3年(1530年)に高国が播磨から挙兵して賢治が暗殺され、堺公方府が危機に陥ると晴元と相談して元長を復帰させた。晴元の命令で元長は東進する高国軍を迎え撃ち、翌享禄4年(1531年)の中嶋の戦い・大物崩れで高国を討ち取り政局を安定させた。 高国敗死後に元長が台頭すると木沢長政・茨木長隆らと結託して再び元長と対立、享禄5年(1532年)に長政が居城の河内飯盛山城を元長と結んだ畠山義堯軍に包囲されると、晴元に進言して一向一揆を起こさせて義堯・元長を討った(天文の錯乱)。以後は長政・長隆らと共に細川政権の重鎮となり、摂津榎並城主として室町幕府料所河内十七箇所を元長に代わって代官として統治した。 しかし、元長の嫡男・長慶が晴元に仕えるようになると、天文8年(1539年)に長慶と河内十七箇所の代官職を巡って対立。天文8年(1539年)閏6月に長慶が十七箇所の返還を掲げ軍を率いて上洛すると晴元は京都北西の高雄(現在の京都市右京区)へ避難、政長は4月の時点で丹波で蟄居していたが、晴元の支援で兵を集め7月に京都で長慶と小競り合いを繰り返した。この争いは近江の六角定頼と将軍義晴の調停で長慶と和睦、長慶は細川政権下で重用されるようになる。 それからは長慶と軍事行動を共にするようになり、天文10年(1541年)から翌11年(1542年)にかけての長政討伐及び太平寺の戦い、天文14年(1545年)に山城南部で起こった上野元治・元全父子の反乱鎮圧、天文15年(1546年)の細川氏綱の反乱に呼応した摂津国人の討伐、翌天文16年(1547年)の舎利寺の戦いなど晴元の有力部将として長慶と共に出陣していった。天文13年(1544年)5月に晴元の勧めで隠居、嫡男政勝に家督を譲ったが、形ばかりの隠居で以後も晴元に従軍したため長慶を始め周囲の反発を招いた。 天文17年(1548年)5月6日、政長の婿である摂津国人池田信正が晴元の命令で切腹させられた。信正は天文15年の氏綱の反乱に加担して晴元に反抗、政長の取り成しで降参して許されたが、かつての反乱を持ち出され処刑されたのである。信正の後を継いだのは息子で政長の外孫でもある長正だが、晴元の強引な介入に長慶と他の摂津国人衆が反発、10月に長慶がかつての敵だった氏綱と遊佐長教と結び、長慶派の国人も呼応して晴元に反乱を起こした。長慶には氏綱・長教と池田長正を始めとする摂津国人衆、丹波の内藤国貞、和泉の松浦氏などが味方に付き、一方の政長は主君の晴元と義晴・六角定頼を味方に引き入れるのには成功したが、摂津の味方は茨木長隆・伊丹親興ぐらいしかなく、榎並城に籠城していた政勝は三好軍に包囲され危機に陥っていた。 長慶・政長陣営は互いに打つ手が無く膠着状態のまま天文18年を迎えたが、2月になり長慶が出陣して榎並城を包囲、政長も丹波を迂回して摂津へ向かい榎並城へ接近、3月1日に榎並城付近の柴島城を落とされ伊丹城へ引き上げたが、4月に晴元が摂津に出向くと軍を立て直し、5月に三宅城を占拠して晴元を迎え入れ、6月11日に三宅城から南下、柴島城と榎並城付近の江口城へ入城した。しかし、晴元の戦略は独力で長慶に立ち向かえないため六角定頼・義賢父子の援軍を待つというものだったが、政長は政勝の窮地に待ちきれず前線の江口城へ進み自ら孤立してしまった。 長慶はこの機を逃さず江口城周辺も占拠して三宅城との通路を遮断、政長は三好軍に包囲され、24日に援軍の六角軍が到着する前に長慶に江口城を攻め込まれ討死した(江口の戦い)。政勝は榎並城を放棄して行方をくらまし、晴元も長慶の追撃を恐れ京都へ逃亡した。これによって長年に亘って幕政を担ってきた細川政権は一挙に崩壊し、消滅することになる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%94%BF%E9%95%B7
一百一十二位人物:柳生三厳、赤池長任、和久宗是、東郷重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、W.アダムス、猿飛佐助、霧隠才蔵、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十蔵、根津甚八、由利鎌之助、三好清海、三好伊三、加藤段蔵、蠣崎基広、下国師季、雫石詮貞、大崎義宣、相馬顕胤、蘆名盛舜、二本松義国、二階堂輝行、留守景宗、懸田俊宗、安東堯季、安東舜季、浅利則頼、天童頼長、天童頼貞、鮭延貞綱、結城政朝、佐野豊綱、那須高資、宇都宮尚綱、真里谷信応、長尾憲長、上杉朝定、太田資顕、藤田重利、松平広忠、平手政秀、遠山友忠、木造俊茂、小山田信有、板垣信方、甘利虎泰、横田高松、高遠頼継、小笠原長時、小笠原貞種、三木直頼、長尾晴景、長尾房長、椎名長常、神保覚広、温井続宗、堀江景忠、朝倉孝景、六角定頼、進藤貞治、朽木稙綱、粟屋勝久、武田義統、本願寺証如、願証寺蓮淳、波多野稙通、内藤国貞、細川持隆、細川氏綱、香川元景、香西元成、十河存春、三好政長、筒井順昭、十市遠勝、土橋重治、尼子国久、尼子誠久、庄為資、吉川興経、吉川経世、小寺則職、大内義隆、相良武任、杉興運、杉重矩、内藤興盛、冷泉隆豊、小早川繁平、和田通興、細川元常、宇都宮豊綱、宇都宮房綱、一条房基、菊池義武、少弐冬尚、小河信安、納富信景、西郷純久、西郷純堯、上村頼孝、米良祐次、土持親成、禰寝清年、長尾虎、世良田元信、浅井茶々、大友桐、十河紫、浅井福、伊達蛍、北条貞、武田菊、有馬奈津、井伊直、木下伶、大内万、女、北条唯、六角辰、浅井文、斎藤郁、大浦戌、朝倉東、蒲生虎、伊達五郎八、伊達秋、最上義、長尾桃、浅井初、島津南、相良良、遠山覚、太田妙、伊達芳、北条鶴、織田秀子、二階堂和、蘆名順、龍造寺千世、北条誉、伊東京、武田梅、南部緑、佐竹英、波多野充、那須正、松平熊、藤田大福、女中、北条春、六角艶、武田見、伊達瞳、織田冬、松平督、前田摩阿、最上駒、今川和、伊達花、小田麗、北条光、相良千代菊、足利詩、大友清、北条静、前田豪、大谷渓、武田恵、関口瀬名、今川嶺、蠣崎圭、長尾華、北条円、最上竹、前田与免、畠山椿、北条苗、武田万里、●●●、斎藤朝、足利氏、太田小少将、松平千、浅井小督、細川扇、蘆名葵、一条喜多、北条睦、太田梶、佐竹藤、六角凪、直江船、武田松、織田五徳、本多小松、織田市、斎藤帰蝶、明智玉子、●●●2、津田宗及、千利休、菊亭晴季、山科言継、朝山日乗、快川紹喜、沢彦宗恩、アルメイダ、ソテロ、フロイス、近衛前久、今井宗久、佐吉、岐秀、老人、農民、鉄砲足軽、僧侶、公家、二本松義継、僧兵、小姓、土田御前、おね、組頭、小笠原秀清、足軽、使者、家老、伝令、忍者衆、忍者、家臣、侍、商人、F.ザビエル、豪族、子供、樋口与六、北条氏康、●●●3、田村顕重、土佐林禅棟、横瀬泰繁、風魔小太郎、真田昌輝、国友藤二郎、望月出雲守、後藤彦三郎、服部保長、津田算長、宮本道意、村上吉継、三島清右衛門、若林道円、名和武顕、三田井親武
五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
内藤国貞 Naito Kunisada(生年不詳-1553年) 内藤貞正の子。同国守護を兼ねる管領の細川高国より偏諱(「国」の字)を賜り、国貞と名乗る。弾正忠・備前守。丹波国船井郡八木城主。 永正17年(1520)頃に父・貞正より丹波守護代職を譲られ、父と同様に細川高国に属した。 大永6年(1526)10月に丹波国の波多野稙通・柳本賢治兄弟がそれぞれの居城である八上城・神尾寺城に拠って高国に叛いた際、これを鎮圧するため細川尹賢に従って神尾寺城攻めに従軍したが、11月初旬には形勢を見て追討軍から離脱し、居城に引き返した。 高国の死後にはその弟・晴国に属したようだが、晴国が重用した多紀郡の国人領主・波多野秀忠との競合からかしだいに晴国との距離は開いていき、天文2年(1533)に至って12代将軍・足利義晴の赦免を受けて細川晴元に属し、丹波守護代に復帰したようである。しかし晴元との関係は良好とは言えず、天文7年(1538)10月に高国残党が蜂起した際にはこれに呼応する動きを見せ、天文14年(1545)には「高国の跡目」と称する細川氏綱に通じて晴元に叛いているが、氏綱の有力な支援者である畠山稙長が同年5月に没したことを契機に反晴元勢力が退勢となると、三好長慶・波多野秀忠らに鎮圧されている。 天文17年(1548)10月、細川晴元と決裂した三好長慶が氏綱陣営に参じると長慶に属し、天文22年(1553)9月、長慶の配下武将の松永久秀・長頼兄弟らと共に晴元方の波多野氏を攻めたが、逆に同月18日、波多野氏を支援する香西元成・三好政勝らに攻められて八木城が陥落、国貞も戦死した。 出處 http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/jin/NaitouKunisada.html
那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之
香西元成 Kozai Motonari(1518年-1560年) 細川氏の忠実な家臣で、天文16年(1547年)の舎利寺の戦いに参戦、内藤氏や三宅氏と共に軍を率いて功績を挙げた。 天文18年(1549年)の江口の戦いにおいては摂津三宅城を守り三好政長を救援して三好長慶と戦ったが、政長は敗死し、主君の細川晴元も長慶に京都から近江へ追われることになる。それからは三好政勝(政長の子)と行動を共にして丹波を拠点に長慶への抵抗を始め、天文20年(1551年)3月に政勝と共に丹波から下向して京都を襲撃、一旦引き上げた後7月に再び入京して相国寺へ立て籠もるが、長慶が派遣した松永久秀・長頼兄弟に敗れ逃亡した(相国寺の戦い)。 天文22年(1553年)、室町幕府13代将軍足利義輝が晴元支持を表明すると7月に京都へ進み義輝・晴元と合流、8月に霊山城が落とされ義輝らが近江へ逃れた後も反長慶の姿勢を崩さず、9月に政勝・波多野晴通と組んで丹波守護代内藤国貞を討ち取り八木城を奪ったが、松永長頼に奪い返された。播磨国人の明石氏と結託したが、こちらも天文24年(1555年)に長慶に降伏、かえって長慶の勢力拡大に繋がった。その後も長慶に徹底して対立・抵抗したが、永禄3年(1560年)、山城炭山城で三好氏と戦い討死した。 三好政勝らと共に織田信長と戦い、元亀元年(1570年)の野田城・福島城の戦いで降伏した後、再び本願寺に味方して天正3年(1575年)に堺の近辺の新堀の出城に籠城して織田軍に捕えられ誅殺された「香西越後守」は、名乗りから考えて元成の後継者と考えられるが、その素性は明らかでない。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E8%A5%BF%E5%85%83%E6%88%90
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