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三好義興 Miyoshi Yoshioki(1542年-1563年) 三好長慶的長子、母為波多野稙通之女;通稱孫次郎,初名慶興,受將軍足利義輝偏諱「義」字,改名為義長,後改為義興。 天文二十一年(1552年)元服。永祿二年(1559年)2月,義興與父親長慶一同上洛,謁見室町幕府第13任將軍足利義輝,並且出仕於足利氏。同年12月18日,義興獲義輝賜予其名諱「義」字,改名義長。 永祿三年(1560年)1月21日,義興獲任命為正五位下築前守。後來,長慶移師至河內飯盛山城後,便將攝津芥川山城交由義興打理。 永祿四年(1561年)1月28日,義興與松永久秀一同從正五位下升官至從四位下。2月1日,義興與父親長慶、松永久秀一同獲准使用足利將軍家的桐紋,並且獲任命為御供眾和相伴眾。 六角義賢進攻京都時,義興率領7000名士兵守於梅津,松永久秀亦率領7000名士兵在西院與六角氏交戰。雖然三好軍在這場戰事中不被看好,但是在11月松永久秀的反擊下成功擊殺敵將長原重澄,雙方對峙至永祿五年(1562年),隨著叔父三好義賢在與町山高政的戰鬥中戰死後,義興讓義輝前往男山八幡避難,自己則與松永久秀在山崎布陣。因此,六角軍一度攻佔京都,後來義興在5月下旬擊敗町山軍後,六角軍才撤出京都。6月22日,義輝重返京都後賞賜義興和松永久秀等人。 8月,伊勢貞孝在京都北山串同六角軍謀反,義興與松永久秀一同率領8000名士兵在9月11日將其擊敗。另外,義興素有教養,因此獲得將軍義輝和一眾公家的信任。 永祿六年(1563年)6月,義興病倒,雖然曲直瀨道三前往替其診症,但是病情惡化,最終在8月25日於芥川山城死去,年二十二歲,按『足利季世記』記載他是死於黃疸。 義興死後,其父長慶開始變得精神恍惚,最終在翌年亦死去。長慶死後,三好氏由義興的堂弟三好義繼繼承家督之位。 有些說法認為義興試圖鏟除松永久秀,從而被意圖取代主家的松永久秀毒殺,但是一手史料中沒有任何記載,顯示松永久秀暗殺義興。就算講述這些說法的『足利季世紀』和『續應仁後記』也說明義興被松永久秀毒殺只是傳言,未有斷言,二手史料和軍記物對於這項傳言亦多有懷疑,因此推測謠言是由嫉妒松永久秀擁有不遜於主家的實力的人散播出去。『續應仁後記』形容義興是治理天下之材,卻不幸英年早逝。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E7%BE%A9%E8%88%88
三好長慶 Miyoshi Nagayoshi(1522年-1564年) 三好元長的長子、母為慶春院殿南岸智英大姊、正室為波多野稙通之女、繼室為遊佐長教之女;幼名千熊丸、通稱孫次郎、別名利長、範長。 三好氏至父親元長時,擁立細川晴元,在細川家內訌中脫穎而出,取得細川家實權。元長之堂叔父三好政長(三好宗三),恨元長專權,便和細川晴元的寵臣木澤長政、柳本賢治等一同在晴元面前詆毀元長,晴元遂日漸疏遠元長,元長怕禍事臨頭,回到自己的領地阿波。趁著元長不在,晴元的對頭細川高國(細川政元之養子)與浦上村宗聯兵攻擊晴元。晴元的手下無法控制大局,於是召回元長,元長遂在享祿四年(1531年)擁立晴元進攻京都,大破高國與浦上軍,細川高國和浦上村宗均戰死。 元長勝利後,將軍足利義晴遂以細川晴元為管領,但將軍和管領皆無實權,實權掌握在元長手上。元長掌權後第一件事就是殺了柳本賢治之子柳本甚次郎,因為柳本在元長避禍阿波時,攻擊元長之姻親伊丹元扶,但元長殺柳本,引來晴元的極度不滿。元長見晴元怒不可遏,遂削髮出家為僧,號海雲。但晴元仍懷恨不已,命三好宗三和木澤長政陰謀對付元長,兩人誘使本願寺僧圍攻元長,元長把妻與子長慶送回阿波,自己在界町的顯本寺自殺,年僅三十二歲,時天文元年(1532年)。 元長死時,長慶年僅十歲。天文三年(1534年),年僅十一歲的長慶在父親死後繼任為家督,與細川晴元和解,成為晴元的被官,獲攝津守護代之職,任越水城城主。天文二年(1533年),本願寺的僧人和細川晴元因利益糾結而大打出手,之後兩方混戰,互有勝負。晴元把將軍義晴搬出來調停。但將軍的調停效果有限,過了不久,又有玉井氏康擁立細川高國義子氏綱,以及游佐長教擁立田山植長之弟政國,和石山本願寺的僧兵勾接,京都一帶是一片混亂。晴元派手下三好宗三等人去鎮壓叛亂,師勞無功,便想起了元長之子長慶,就派人招長慶前來支援。此時長慶已經十九歲,統率晴元之侄細川持隆手下的兵,頗有勇名。 經過其弟三好義賢(三好實休)的勸諫後,長慶率軍渡海。天文八年(1539年),長慶率軍進入近畿和細川氏綱、田山政國等軍交戰,並且接受將軍足利義晴的命令,與柳澤元俊一同剿滅了洛中的盜匪。三好宗三心生妒恨,向晴元詆毀長慶。此事被長慶得知後,大怒之下與細川晴元決裂,和游佐長教聯合反戈進攻晴元的領地。天文十一年(1542年),長慶在河內太平寺擊殺仇敵木澤長政,隨後與游佐長教反目,先在翌年打敗玉井氏康擁立的細川氏綱,然後於天文十六年(1547年),長慶次弟三好義賢率軍在攝津捨利寺大破游佐長教軍。次年5月,再無力與三好抗衡的游佐長教與田山政國臣服於長慶,長慶也迎娶了游佐長教的女兒以鞏固對游佐氏的統治。 永祿四年(1561年),長慶將宿敵細川晴元囚禁於攝津芥川城,此事引起了晴元的盟友六角義賢的不滿,於是六角義賢便與田山高政結盟一同對抗三好家。 同年5月,三好四兄弟中最為年幼但最為英勇的四弟十河一存在前往有馬溫泉途中落馬傷重不治而歿。永祿五年(1562年)4月8日,田山高政與六角軍聯合進攻和泉,引發久米田之戰,是役之中素為長慶倚重的二弟義賢戰敗身死。長慶親率大軍以安宅冬康、松永久秀為先鋒於6月21日大破田山、六角聯軍,將田山高政趕回紀伊,是為教興寺之戰。 永祿六年(1563年),長慶偕同家臣松永久秀等七十三人在界受洗。同年三月一日細川晴元病逝,而長慶也在接連失去兩個弟弟的打擊下身體急速衰弱起來。國事盡為松永久秀所控制,久秀忌憚長慶嫡子三好義興武勇能斷,日後繼位自己可能將大權盡失,索性將其毒殺。 由於此事為安宅冬康所知悉,所以松永久秀又在翌年在已病得精神恍惚的長慶面前進讒言,誣告其弟安宅冬康意圖謀反。長慶大怒之下,命安宅冬康自盡。永祿七年(1564年)8月10日,失去了眾親兄弟與長子的長慶在無盡的失落與孤寂中一病歸西(另一個說法指長慶被松永久秀殺害),享年四十二歲,法名聚光院眼室宗進。長慶死後三年才舉行葬禮,墓地在現今京都市北區大德寺聚光院。 出處 http://www.twwiki.com/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6
三好長逸 Miyoshi Nagayuki(生年不詳-沒年不詳) 三好氏の家臣。三好一族の長老的立場であり、松永久秀と共に三好政権の双璧と称される。三好三人衆の1人で、その筆頭格であった。 通称は孫四郎、初名を長縁ともいう。法号は宗功。さらに元亀年間からは「北斎宗功」の号を名乗り始める。官位は従四位下日向守。子に三好久助(久介、長将とも)がいる。 続柄は諸説あり、『続応仁後記』によれば三好之長の四男・孫四郎長光の子が日向守長縁(長逸)とされる。『細川両家記』などでは之長の子は「芥川次郎長光・三好孫四郎長則」であり、この三好長則の子にあたるともいう。「芥川系図」に拠ると、長縁は「初名定康、芥川三郎・日向守・従五位下・入道号北斎。芥川三郎長光の子」とされている。『史略名称訓義』では、長縁について「豊前守之康の男、彦次郎也」であり、三好政康の兄弟とする。 生年は不明だが、永正12年(1520年)に祖父とされる之長と父とされる長則が等持院の戦いで戦死しており、長則の子だとすれば出生はそれ以前ということになる。 三好長慶に仕える三好一族の1人(従叔父)として、長慶とその治世を支える。三好一族は多くが細川家の内紛の中で命を落としており、長慶が若年の頃に彼を後援してくれた三好連盛も没落し、三好政長は父・三好元長の仇であり敵対関係にあったため、長逸は長慶から頼れる一族の年長者として信頼された。長逸の活動範囲は広く、山城、摂津、河内、丹波、大和と三好家の勢力圏全域に文書を発給し、所領安堵や年貢の督促などを行っている。 天文18年(1549年)の江口の戦いで細川晴元の部将・香西元成を攻撃。天文19年(1550年)に京都奪回を図り近江国から攻めてきた細川軍を長慶の弟・十河一存らと迎撃して阻止(東山の戦い)。長慶に反発して晴元と共に近江に亡命した室町幕府13代将軍・足利義輝とも戦った。天文21年(1552年)に長慶と義輝が和睦を結ぶと送迎役の1人として義輝を亡命先の近江から出迎えている。 天文23年(1554年)に有馬重則の要請に応える形で播磨国人・別所就治の三木城を攻撃して付城を落とし、弘治元年(1555年)の丹波の波多野晴通討伐(これは敗北し、松永長頼に代わった)など長慶の勢力拡大に貢献し、三好一族の中でも長慶に最も信頼されて、永禄元年(1558年)頃までには山城飯岡城主に任ぜられ、山城南半分の統治を任されている。同年5月、再び長慶と義輝が対立して如意ヶ嶽に陣取ると6月に松永久秀と共に将軍山城に向かい、11月に両者が和睦するまで戦った(北白川の戦い)。永禄4年(1561年)に長慶の子・三好義興が義輝を屋敷で歓迎した際に接待役の1人を務めている。 また、松永久秀と共に訴訟の取次ぎ・長慶の補佐などを扱う側近として長慶に重用されて同名衆にも列せられ、長慶の弟・実休、息子の義興や久秀よりも先に永禄3年(1560年)に従四位下に叙せられた。これは長逸の三好家中における地位の高さ、影響力の大きさを示すものとされる。同年に長慶が摂津芥川山城から河内飯盛山城へ移り、代わりに芥川山城を与えられた義興が幕府出仕のため京都に常駐するようになると、不在の芥川山城を任されるなど非常に三好家の中で重要な地位を占めていたことが伺える。 長慶と義興の死後は長慶の甥で幼少の当主・三好義継を他の三人衆(三好政康、岩成友通)や松永久秀らと共に補佐し、永禄8年(1565年)5月19日には三好氏の障害となっていた足利義輝を暗殺した(永禄の変)。しかし、三好家中における主導権争いから久秀とは次第に対立を深め、11月16日に飯盛山城にいた義継を高屋城へ移し、義継を説き伏せ久秀討伐の大義名分を獲得、永禄9年(1566年)に入ると両者は交戦状態に突入した。三人衆は本国阿波を支える篠原長房と義継の大叔父・三好康長、久秀と敵対していた筒井順慶と組んで久秀と戦った。一方の久秀は畠山高政・安見宗房らと結んで対抗した。 こうした戦乱の最中に外国人の保護を行い、永禄8年7月、ガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスが京都から追放されて堺に赴く際、長逸は護衛のために家臣を同行させ、通行税免除の允許状を与えている(『フロイス日本史』)。このためフロイスは長逸を異教徒でありながらも「生来善良な人」「教会の友人」と記している。永禄9年(1866年)にも長逸について記録していて、「天下の4人の執政のうちの1人」「堺市内にきわめて豪華で立派な邸宅を有した」などと称えている。 三人衆は摂津と堺を狙う畠山軍を撃破(上芝の戦い)、筒井順慶と結託して松永久秀の本拠地信貴山城・多聞山城を包囲したが、両者共に決め手が無く争乱は長期化していった。この過程で永禄10年(1567年)、2月に三人衆に不満を抱いた義継が久秀の下へ逃亡、10月10日に三人衆の軍勢が陣取った大和東大寺を松永軍が攻撃し焼亡する事件(東大寺大仏殿の戦い)が起きている。また、その10日後には長逸の嫡男・久助が山城普賢谷で松永方の軍勢に討ち取られた。義継・久秀にこのような抵抗を受けつつも、戦局は全般的に久秀を大和に封じ込めていた三人衆方の優勢で進んでいて、三人衆が義輝の従弟にあたる足利義栄を14代将軍に就任させたことも優位に繋がった。特に義栄の将軍就任直後に出された御供衆の名簿に「三好日向守」として加えられており、当時対立関係にあった義継と同格の立場(三好長慶以降、三好宗家の当主は御供衆の資格で将軍に仕える事が許されていた)になったことが注目される。 しかし永禄11年(1568年)、織田信長が6万と号する大軍を擁し、永禄の変で三好方が取り逃がした義輝の弟・足利義昭を押し立てて上洛を開始した。この動きに対し、三人衆はかつての宿敵である近江の六角義賢や紀伊国の国人衆、高野山等と結んでこれに徹底して対立する姿勢を示す一方で、三人衆の攻撃を受け劣勢に立っていた三好義継・松永久秀はいち早く信長に恭順する。長慶没後の三好家内紛の悪影響は甚大であり、信長の上洛を受けて六角義賢は近江を追われ(観音寺城の戦い)、将軍に擁立した足利義栄も上洛出来ず急死、三人衆方の国人衆や幕府奉公衆らからも織田方への寝返りが続出、三人衆もそれぞれの居城を落とされ逃亡した。長逸は細川信良(昭元)と共に芥川山城に籠城したがあえなく阿波へ退散した。 永禄12年(1569年)の本圀寺の変において、長逸は兵3,000を率いて摂津国池田方面から来援する織田方の池田勝正、細川藤孝、三好義継らの軍勢を桂川で迎撃したが激戦の末に敗北(桂川の戦い)、これにより三人衆の勢力は本国阿波まで後退してしまう。 しかし元亀元年(1570年)、長逸は篠原長房らと共に四国における三好軍をまとめあげ再度の反攻を図った。6月、摂津池田城で謀反を起こして城主・池田勝正を追放した荒木村重ら池田二十一人衆に呼応して摂津に軍を進めた(野田城・福島城の戦い)。織田側が戦いを有利に進めるが、摂津に本拠をもつ石山本願寺が突如、織田軍を攻撃(石山合戦の勃発)。三好軍は紀州勢や一向一揆の参戦、さらに織田方にとっての後方である近江での浅井長政・朝倉義景連合軍の攻勢に助けられ、一時的に織田軍を摂津・河内から駆逐する成果を上げた。だが三好軍にも追撃の余力はなく、11月には反織田の諸勢力と共に信長との間に和議が結ばれている。 この和議は翌年早くも破られ、三人衆は摂津・河内を拠点に石山本願寺と連携しつつ信長包囲網の一角を担った。しかし、本国阿波で三好長治が篠原長房を殺害し、家中の不和を招くなどの混乱もあり、積極策を取れないまま三好軍は徐々に衰えていく。元亀4年(天正と改元、1573年)、足利義昭自身が決起し、これに義継・久秀らが呼応してはじめて三好一族の足並みが反織田で一致した。だが同年の武田信玄の病死が反織田方にとって致命的な一撃となり、三好一族を含めた畿内の反織田勢力も一気に瓦解に突き進む。義昭は畿内から追放、三人衆の1人・岩成友通は淀城で戦死、浅井長政・朝倉義景も織田軍に討たれた。 長逸については、摂津中嶋城にて信長が派遣してきた軍勢と戦い、敗北して城を逃れたのが確認できる最後の事跡である。一説にはこの合戦で討ち死にしたともされるが、その死を確認できる史料はなく、長逸のその後については隠居・幽閉説など各種の説が存在する。政康は行方不明となり、義継は義昭を匿ったため織田軍に討ち取られ、反対に久秀は信長に降伏して生き延びた。長治は阿波の内乱で敗死、康長を始め他の三好一族は信長に臣従・討伐され、大名としての三好氏の勢力は消滅した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E9%80%B8
京極高廣 Kyogoku Takahiro(生沒年不詳) 京極高清之子、母為齋藤妙純之女;京極高吉之兄,高彌、高成之父;又名高延、高明。 高廣和弟弟高吉關係很差,由於父親高清將家督讓於高吉之故,於大永三年(1523年),受起兵反對其父的近江國人淺見貞則、淺井亮政、堀元積等人推舉,將其父與弟弟驅逐至尾張,高廣成為京極家家督。然而,實權掌握在淺見貞則手中。 大永五年(1525年),淺井亮政與父親高清和睦,流放了淺見貞則,趁此機會南近江大名六角定賴進攻亮政居城小谷城,高廣的地位很不安定。 享祿元年(1528年)與由上阪信光擁立之高吉對峙(注一)。享祿四年(1531年),受畿內一系列戰亂波及因支援細川晴元,遭細川高國側的六角定賴擊敗。天文二年(1533年)與六角定賴和解。翌年,於小谷城同高清一同接受淺井亮政接待。 天文七年(1538年)其父高清死去,繼承家督。之後,與六角定賴及高吉的軍隊交戰。天文十年(1541年),起兵反抗淺井亮政,與亮政及其子淺井久政對峙。天文十九年(1550年)講和。 此後與三好長慶連合,同六角義賢(六角定賴之子)交戰。天文二十二年(1553年)被六角軍擊敗後下落不明。 其子高成作為足利義昭近習一直仕官至室町幕府滅亡。 對於流放京極高清後近江一帶動向,網絡資料存在一些衝突,不易理清,此處均依原文。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=2#postid-132 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E5%BB%B6
三百六十位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、木下秀吉、斎藤道三、松平元信、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田晴信、飯富昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、長尾景虎、長尾顕景、樋口兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、毛利元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友義鎮、龍造寺胤信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義秋、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、戸次鑑連、石田三成、大谷吉継、島清興、蒲生氏郷、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝頼、足利義輝、尼子晴久、久慈為信、榊原康政、伊達成実、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶隆房、吉弘統虎、吉弘鎮種、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、石川信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵、上泉信綱、渡辺守綱、里見義堯、蘆名盛氏、滝川一益、佐々成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、木下秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、斎藤義龍、稲葉良通、石川数正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戸沢盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北条氏政、可児吉長、北条綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、内藤昌豊、真田信幸、今川氏真、柳生宗厳、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安国寺恵瓊、黒田長政、宇喜多秀家、長宗我部国親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覚兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定満、斎藤朝信、北条幻庵、本庄繁長、下間頼廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、頴娃久虎、柏山明助、武田盛信、佐瀬種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政徳、村上国清、平塚為広、朝倉景健、安田景元、北条氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政広、児玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黒田職隆、甘粕景継、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七条兼仲、伊東義祐、滝川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、三木自綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戸隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡辺了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顕、本城常光、江戸忠通、肝付兼続、中条藤資、南部晴政、細野光嘉、多田満頼、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑実、斎藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北条氏邦、犬童頼安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為頼、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮広綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顕綱、平田舜範、正木頼忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、亀井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新斎、北条氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮国綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北郷時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠隣、城井正房、大熊朝秀、氏家行広、池田知正、土井利勝、徳山則秀、平田範重、穴山信君、一条兼定、堀秀政、百々安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、佐竹義広、三善一守、板部岡江雪斎、岡本顕逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、浅野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重経、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、三木嗣頼、和田惟政、新発田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大内定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長増、安東実季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間頼照、酒井家次、宇都宮朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪頼忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色満信、真壁氏幹、本庄実乃、大田原晴清、中村春続、朝比奈信置、安藤守就、山名豊国、鵜殿長持
五十位人物:武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信 / 久慈為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉宗滴、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢 / 陶隆房、立花宗茂 / 吉弘統虎、高橋紹運 / 吉弘鎮種、細川幽齋 / 細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角承禎....
六角義治 Rokkaku Yoshiharu(1545年-1612年) 六角義賢的長子、母為畠山義總之女;通稱四郎,受將軍足利義輝偏諱「義」字,名為義治,別名義弼。 永祿二年(1559年),父親義賢隱居,繼承家督之位。義治為愚闇的人物,由於嫉妒重臣後藤賢豐的影響力,於永祿六年(1563年),義治殺害後藤賢豐,引發觀音寺騷動;因此義治被家臣團放逐出觀音寺城,直到家中重臣蒲生定秀、蒲生賢秀的協調之下義治才得以回到觀音寺城。但是六角家已經因為觀音寺騷動造成相當大的內部分裂,力量因此嚴重衰退, 永祿十年(1567年),雖然義治頒布六角氏式目以限制主君權力的方式企圖挽回人心,但沒有發揮太大的作用。因此有被迫把家督讓與其弟六角義定之一說。 永祿八年(1565年),三好三人眾與松永久秀殺害將軍足利義輝,其弟足利義昭逃亡藏身在六角家中。於是三好三人眾用管領的職位引誘義治,義治答應所以義昭遭到流放。也因此流落到織田家的足利義昭成為織田信長對六角家發動攻略、上洛的最好藉口。 永祿十一年(1568年),六角氏與三好三人眾之一的岩成友通一起力抗織田信長的大軍侵略,一度成功守住,但等守軍情勢稍緩又於隔年再度發動攻擊(觀音寺城作戰),因此落城而逃。 之後在六角勢力內的甲賀郡石部城與朝倉、淺井、三好聯軍從四處夾攻織田家(野田城、福島城作戰),使織田信長苦不堪言。隨後信長要求朝廷介入和議,但和議不久,信長隨即破棄和議打下朝倉,直至滅了淺井才與六角氏再度議和。之後又再於足利、武田、上杉的信長包圍網中以甲賀郡石部城為據點,義賢、義治父子一直以反信長為目標而持續作戰。而爾後六角家的身影、史料則隨著時間漸漸消逝在天下統一的過程中。 慶長十七年(1612年)死去,年六十八歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E7%BE%A9%E6%B2%BB
六角義賢 Rokkaku Yoshikata(1521年-1598年) 六角定賴的長子、母為吳服前、妻為畠山義總之女(正室姊、繼室妹);通稱四郎,法名承禎。 天文二十一年(1552年)父親定賴死後,繼承六角家家督之位。由於義賢也數次進入近畿與三好長慶作戰,一度控制山城國掌握京都。並且逼迫北近江的淺井久政臣服,將家臣平井定武之女嫁給久政之子淺井長政,也發兵北伊勢,並透過聯姻,將重臣蒲生賢秀之妹嫁給北伊勢的神戶具盛、關盛信,將兩人納入麾下。 由於淺井長政逼迫父親久政讓出家督並監禁蟄居,圖謀從六角家的支配下自立,義賢於永祿三年(1560年)發動兩萬大軍進攻淺井長政,而在野良田合戰被淺井長政突襲而大敗,也因此義賢被家臣團逼迫必須將家督的一職讓與兒子六角義治而出家,法名承禎。 但是六角義治是較其父親更為愚蠢的君主,永祿六年(1563年),義治由於殺害六角家重臣後藤賢豐而引發觀音寺騷動,導致六角家內部的嚴重分裂;永祿十一年(1568年),織田信長發兵上洛(京都)時,義賢父子因與三好三人眾結盟,阻止織田信長上洛,當織田信長率領大軍殺入近江後,六角家慘敗,義賢父子丟棄觀音寺城逃往甲賀(觀音寺城之戰),六角家也因此衰微。 之後義賢等人以游擊戰的方式在南近江一帶反抗織田信長,並且響應足利義昭的反信長包圍網,直到永祿十三年(1570年)投降;但是天正二年(1574年)義賢又逃亡伊賀並且有意東山再起,但沒有成功。義賢在石部城持續對抗織田家,直到石部城遭到織田軍攻破後(石部城之戰),義賢便下落不明,有一種說法是他之後投靠石山本願寺。 後來成為豐臣秀吉的御伽眾,慶長三年(1598年)時去世,年七十八歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%89%BF%E7%A6%8E
山崎片家 Yamazaki Kataie(1547年-1591年) 六角義賢より偏諱を賜い山崎賢家(読み同じ)と称する。義賢の子である六角義治に仕えていたが、義治と不和であったため、永禄6年(1563年)の観音寺騒動では六角氏と敵対。永禄11年(1568年)9月に織田信長が六角領内へ侵攻すると、六角家を見限りいち早く降り信長の家臣となった。そのとき、片家と名を改める。 信長に仕えて以後、近江衆として元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参加した。 元亀4年(1573年)4月、信長に従い京都の上京焼き討ちと二条城包囲に参加した。天正元年(1573年)7月、信長に従って将軍・足利義昭の槇島城を攻めた。同年の浅井氏攻めにも参加した。天正9年(1581年)9月の伊賀攻めでは信楽口からの侵入を務めた。天正10年(1582年)4月、武田征伐から凱旋する信長を在所の山崎で茶屋を設けて饗応する。 天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起きた際は、安土の自邸を焼き払い、居城の山崎城へ籠もった。しかし明智光秀の圧力を受けて降伏。一時は佐和山城の占拠などに協力したが、光秀が羽柴秀吉によって討たれると、すぐに秀吉に降って所領を安堵され、同年冬に山崎より摂津三田城主2万3000石に移封された。天正11年(1583年)8月1日には近江愛智郡内で1万4000石の知行を安堵されている。 清洲会議後、しばらくは織田信雄の家臣となっていたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで信雄と秀吉が対立するようになると、再び秀吉に属して750の兵を率い、信雄方の城を攻めている。 この後、従五位下志摩守に叙任され、以後は秀吉家臣として天正15年(1587年)の九州征伐に参加し、秀吉本陣の脇備として1000人を動員し、3月1日に大坂城を発っている。九州征伐の終了時には、石田三成・長束正家・小西行長らとともに、荒廃した博多の復興を担当する奉行として任命されている。天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には関白諸大夫として秀吉の牛車に供奉した。天正18年(1590年)の小田原征伐にも1000騎を率いて従軍する。 天正19年(1591年)3月28日に伏見の自邸で死去。享年45。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%89%87%E5%AE%B6
岩成友通 Iwanari Tomomichi(生年不詳-1573年) 三好氏の家臣で、三好三人衆の1人。姓は石成とも書く。通称は主税助。 別名に長信(ながのぶ)とも言い、元亀元年から「長信」の名乗りを使用している。三好長慶の奉行人として頭角を現し、三好政権の中枢を占めるに至った。三好政権における出世頭ともいえる人物である。 友通の出自は不明とされる。室町時代の多くを通じて細川氏の支配下であった大和石上神社の摂社に「石成神社」があることから、大和出身ではないかという見解がある他、備後国品治郡石成郷といった地名があることから、それらの土地の土豪との関係を推察されることが多い。『史略名称訓義』には「岩成古〔原文ママ〕通」に註して「主税助と号、種成と名く、備後国岩成荘住人岩成蔵人正辰の男」と記される。また、京都郊外の西九条の下司を務めていたが、やがて三好氏に臣従したともされる。『東寺百合文書』所蔵の三好元長の家臣塩田胤光が発給した文書に「岩成」の名字が見える他、同所蔵の文書には、下司の「岩成」が西九条の荘園を押領したという記述も見られる。今谷明は「阿波出身でないのは確実」と断言しており、いずれにしても、松永久秀と同様に畿内で登用されたと思われる。 史料における初見は天文19年(1550年)であり、北野社の大工職の相論において、照会の役を務めていることが確認される。翌天文20年(1551年)11月には、堺で開かれた天王寺屋の津田宗達(津田宗及の父)の茶会に出席している。その後は三好長慶の下で奉行衆として仕えた。永禄元年(1558年)の将軍山城占拠に参戦(北白川の戦い)しており、この従軍が軍事行動における友通の初見とされる。永禄5年(1562年)に六角義賢が京都に侵入した時は室町幕府13代将軍・足利義輝の警護を行った。 長慶の死後、三好三人衆の1人(他の2人は三好長逸、三好政康)として甥の三好義継の後見役を務めた。永禄8年(1565年)の足利義輝暗殺(永禄の変)をはじめ他の三人衆と行動を共にし、松永久秀や畠山高政としばしば戦った。 また永禄9年(1566年)には、土豪の中沢満房、革嶋一宣らの立て籠もった山城勝竜寺城を攻め落とすと、友通は敵対した土豪達を厳しく追及、革嶋一族を始め多くの土豪を追い出し、手に入れた土地の多くを新しい領主に与えた。同時に勝竜寺城を居城とし、山城西部の西岡を支配した。これは、勝竜寺城を拠点に西岡地区に新たな支配を確立させようとする、斬新な手法であると評価される。また、勝竜寺城も、戦の際に土豪が立て籠もる施設程度であったものが、友通が入城・整備して拠点とすることで、土豪をまとめ上げる政権の拠点として生まれ変わった。友通はそうした点から、勝竜寺城の「最初の城主」とも評される。 永禄10年(1567年)に1万の軍勢を率いて池田勝正と共に大和東大寺で久秀と対陣したが、久秀の奇襲を受けて敗北(東大寺大仏殿の戦い)。翌永禄11年(1568年)に織田信長が上洛してくると、三好長逸、三好政康、篠原長房らと連携し、それまで敵対していた六角義賢と手を組んで強く抵抗したが、守城の勝竜寺城を攻撃され退去した(勝竜寺城の戦い)。しかしこの際、他の畿内の城が抵抗らしい抵抗もせずに降伏してゆく中、友通の籠る勝竜寺城と池田勝正が籠る摂津池田城だけは強硬に抵抗した。これは、友通による支配が一定の奏功をし、土豪達が彼の元に結束していたことの証とされる。敗退の推移について、『多聞院日記』『言継卿記』によれば、永禄11年9月27日に友通は信長に抵抗して勝竜寺城へ籠城したとあるが、9月29日には落城している。言継卿記の翌永禄12年(1569年)の1月8日の記述によれば、勝竜寺城には細川藤孝が入城している。友通が勝竜寺城主であったこの時期には、光源院から勝竜寺城主である友通に礼物が送られていたことが「光源院文書」から判明しているが、9月21日とあるだけで年月は未詳となっている。永禄12年1月に信長の庇護下にあった義輝の弟・足利義昭の宿所を襲撃しているが撃退された(本圀寺の変)。 この後、信長に臣従し、信長から細川藤孝宛ての書状で「表裏なき仁」などと書かれるなど信頼関係が築かれたようだが、後に将軍・義昭が各地の大名に指令を送り信長に敵対すると(信長包囲網)、これに反応して信長に再び対立姿勢を打ち出した。しかし、天正元年(1573年)、信長の命を受けた三淵藤英・細川藤孝らの軍勢に山城淀城を攻められて奮戦したものの、内通していた味方(番頭大炊助、諏訪飛騨守)の裏切りに遭い敵中に孤立し、藤孝の家臣の下津権内(おりつ ごんない)と組み合いとなり堀に落下、水中で討ち取られ戦死した(第二次淀古城の戦い)。享年は詳らかでないが、今谷明は43歳と推定している。また、友通と併せて、岩成方の軍勢340名が戦死した。 三好長逸は行方不明となり、三好政康は既に死去していた。結果、三好三人衆は完全に崩壊した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E6%88%90%E5%8F%8B%E9%80%9A
松永久秀 Matsunaga Hisahide(1510年-1577年) 父母不詳、正室為三好長慶之女.松永女房、繼室為廣橋兼秀之女.廣橋保子、側室為小笠原成助之女;通稱松永彈正,別名霜台、號道意,戒名妙久寺殿祐雪大居士。 早年 久秀出身記載不明,一說出生於永正七年(1510年),出生地有阿波國、山城國西岡、攝津國五百住等多種說法,出仕前身份可能為商人、國人眾或三好長慶的寵童,甚至有觀點認為久秀與齋藤道三是舊相識。 三好家臣 天文九年(1540年),久秀成為細川晴元部下三好長慶的右筆,在天文十一年(1542年)有作為武將在山城國南部出陣的記錄。久秀作為三好長慶的親信,深得長慶的信任。天文十八年(1549年),三好長慶將細川晴元及足利義晴、義輝驅逐至近江國,成功控制京都後,久秀出任三好氏家宰。天文二十年(1551年),久秀與弟弟松永長賴在相國寺之戰中擊敗三好政勝、香西元成。三好長慶平定攝津國後,天文二十二年(1553年),久秀出任攝津國瀧山城城主。同年,與弟弟松永長賴進攻丹波國的波多野晴通,再次擊退三好政勝、香西元成的援軍。弘治二年(1556年),被任命為京都奉行,獲得彈正忠的官位,後又迎娶三好長慶的女兒作為正室。 永祿二年(1559年),三好長慶委任久秀攻取大和國。9月,久秀將居城移至大和國信貴山城。永祿三年(1560年)6月,三好長慶征討河內國,久秀率軍封鎖信貴山城與河內國之間的道路。11月,久秀平定大和國北部,在信貴山城營造四階櫓天守閣,同年又攻破興福寺,成功控制大和一國,三好家勢力達到全盛期。久秀因為攻取大和國的功績獲得極高的地位,他自稱為藤原氏、源氏的後代,被授予從四位下.彈正少弼的官位,與三好長慶的嫡子三好義興一起擔任將軍足利義輝的相伴眾,並獲得足利義輝的允許,可以使用帶有自己家紋的塗輿。 篡奪主家 永祿四年(1561年),久秀與三好義興在將軍地藏山之戰中敗於六角義賢軍。 畿內霸主三好家自永祿四年(1561年)開始接連遭受打擊,逐漸走向衰落。這一年,有「鬼十河」之稱的三好長慶的四弟十河一存與久秀在有馬溫泉療養時突然死亡。據說當時十河一存騎一匹葦毛馬,久秀探望十河一存時說此馬不祥,但十河一存沒有聽從久秀的勸告,在乘馬前往有馬溫泉的途中墜馬身亡。也有觀點認為十河一存與久秀長期不睦,他的死是久秀下的毒手,但這種觀點尚無確切證據。 永祿五年(1562年),三好長慶的二弟三好義賢在久米田之戰與畠山高政、根來眾交戰中戰死。畠山高政乘勝包圍三好長慶的居城飯盛山城,三好長慶在三好一門眾及久秀、筱原長房等重臣聯軍的幫助下,成功解圍,並在隨後的教興寺之戰中大敗畠山高政聯軍。10月,久秀奉命成功討伐背叛三好長慶的幕府政所執事伊勢貞孝、貞良父子。同年,久秀又在大和國營造多聞山城,大和國人十市遠勝降服。但教興寺之戰的勝利只是迴光返照,悲劇仍然不斷地降臨在三好家。 永祿六年(1563年)9月,三好長慶最為器重的嫡子三好義興在芥川山城突然死亡,有觀點認為久秀害怕三好家出現一位出色的接班人,因此毒殺三好義興,接連遭受喪親之痛的三好長慶隨後一病不起。12月,久秀將家督讓與嫡子松永久通後宣布隱居,但仍掌握實權。永祿七年(1564年),久秀向三好長慶進讒言,誣陷三好長慶的三弟安宅冬康謀反,三好長慶隨後將安宅冬康召至飯盛山城命其切腹。同年8月10日,三好長慶病逝,一說他被久秀或三好三人眾毒殺。三好長慶死後,他的養子三好義繼繼承家督,而家中實權則落入久秀及三好三人眾手中。 永祿之變 三好長慶死後,作為室町幕府征夷大將軍的足利義輝致力於恢復幕府的榮光,他一方面向劍術家塚原卜傳、上泉信綱學習劍術,成為劍豪將軍;另一方面積極調停大名之間的衝突,這引起久秀和三好三人眾的不安。永祿八年(1565年)6月17日,久秀和三好三人眾以參拜清水寺為名,向京都集結約1萬人的軍隊,隨後襲擊將軍官邸二條御所。足利義輝雖奮力迎敵,斬殺多人,但無奈叛軍人數眾多,自身受傷多處,最後被長槍刺死,足利義輝的三弟足利周暠也遭到殺害,母親慶壽院自殺身亡,這場震驚日本的謀殺行動史稱永祿之變或永祿大逆。久秀和三好三人眾隨後立足利義維之子足利義榮為傀儡將軍,而足利義輝的二弟、在興福寺出家的覺慶在細川藤孝、一色藤長等人的幫助下,投靠近江國的和田惟政,後輾轉前往越前國投奔朝倉義景,還俗後改名為足利義昭。 爭奪畿內 永祿之變過後半年,久秀與三好三人眾迅速反目。永祿八年(1565年)12月,三好三人眾率軍襲擊久秀控制下的飯盛山城,三好義繼被迫到高屋城避難。得到主公三好義繼、三好康長、安宅信康等三好一門眾支持的三好三人眾聯合大和國人筒井順慶,又向將軍足利義榮徵得討伐令。陷入孤立的久秀隨後與畠山高政、安見直政及根來眾結盟。永祿九年(1566年),雙方在堺近郊交戰,上芝之戰爆發,久秀不敵逃亡至堺,筒井順慶趁勢奪回筒井城。但久秀隨後邀請堺的豪商津田宗達作為調停人,雙方達成合議。 永祿十年(1567年),不滿作為傀儡的三好義繼投奔久秀,三好三人眾於是聯合筒井順慶等反松永勢力向大和國進兵,隨後在東大寺布陣。同年11月19日,久秀與三好義繼聯合軍夜襲三好、筒井聯軍,雙方交戰時東大寺被戰火燒毀,由於大火迫使三好、筒井聯軍撤兵,久秀取得勝利,但東大寺是否被久秀主動放火燒毀尚存爭議。 久秀雖然取得東大寺之戰的勝利,但與實力強大的三好三人眾交戰時仍處於劣勢。永祿十一年(1568年)7月,信貴山城被攻克,久秀被迫據守多聞山城。當久秀即將敗亡的時候,上洛的織田信長挽救他的命運。 背叛信長 永祿十一年(1568年)9月,織田信長擁立足利義昭上洛,三好三人眾不敵,敗逃至阿波國。久秀與嫡子久通和三好義繼在芥川山城迎接織田信長,久秀向織田信長獻上名茶器九十九發茄子和名刀天下一振之吉光,並允諾獻出人質,以此為條件,向織田信長降服。織田信長則許諾赦免久秀殺害將軍足利義輝的罪名,並答應幫助他奪回大和國的支配權。在得到細川藤孝、和田惟政和佐久間信盛2萬援軍的幫助下,久秀展開反攻。次年,大和國被平定,筒井順慶的勢力遭到驅逐。 永祿十三年(1570年),織田信長出兵討伐越前國的朝倉義景,卻在途中得知妹夫淺井長政背叛的消息。織田信長腹背受敵,被迫分散撤退。在撤退過程中,久秀成功說服近江國的朽木元綱,讓信長順利通過他的領地返回岐阜城。同年,久秀將自己的女兒過繼為織田信長的養女,隨後送往三好三人眾處作為人質,雙方達成和解。 元龜二年(1571年),不甘心成為傀儡將軍的足利義昭聯合武田信玄、淺井長政、朝倉義景、本願寺、三好氏、六角義賢及延曆寺組成信長包圍網。久秀起兵響應,聯合三好義繼發動叛亂,但在進攻筒井順慶的領地時反遭擊破(辰市城之戰),松永、三好聯軍大敗,筒井城、高田城等城池相繼被奪,最後在佐久間信盛、明智光秀的仲介下,雙方議和。隔年3月,久秀又連和三好義繼攻打町山昭高的交野城,織田信長派遣柴田勝家等人支援下,久秀跟三好義繼棄戰退兵(交野城之戰),元龜四年(1573年),武田信玄病死,信長包圍網破裂。在反織田勢力逐個被消滅的背景下,久秀親自前往岐阜城,向織田信長獻出多聞山城和不動國行之刀等寶物表示降服。 身亡 天正四年(1576年),久秀隨佐久間信盛參與石山合戰。但在次年,久秀的宿敵筒井順慶被織田信長授予大和守護的職位。9月,久秀撤回協助信長進攻石山本願寺的兵力,並呼應上杉謙信、毛利輝元、本願寺等反織田勢力,據守於信貴山城再次反叛。織田信長派松井友閒安撫,但久秀拒絕降服。 織田信長得知消息後,下令將久秀作為人質的兩個孫子在京都六條河原處死,隨後以織田信忠為總大將,筒井順慶、明智光秀、細川藤孝、佐久間信盛、羽柴秀吉、丹羽氏勝為副將,率軍4萬包圍信貴山城。一說織田信長多次派人勸說久秀獻出茶器古天明平蜘蛛投降,但遭到久秀的拒絕。久秀本想依靠信貴山城的堅固進行防戰,但前往本願寺求援的家臣森好久卻被筒井順慶用金子三十兩收買,作為奸細入城的200名織田軍鐵炮隊在三之丸叛變,織田軍迅速攻破城池。久秀隨後在信貴山城的天守閣放火,久秀、久通父子二人切腹或投火自盡。另一個流傳甚廣的說法是久秀將炸藥放入古天明平蜘蛛,點燃炸藥爆炸身亡。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%A7%80
毛屋武久 Keya Takehisa(1554年-1628年) 近江国神崎郡で田原長久の嫡男として生まれたが、織田信長と六角義賢の戦いで父親が戦死したため、幼い「田原虎千代」は六角氏に仕えた書家建部賢文に養育された。元亀2年(1571年)、田原金十郎と名乗り和田惟政に仕えるが、同年のうちに惟政が織田信長に倒されたため、近江国に戻って山崎片家に仕えた。近江の在地勢力である山崎氏は六角氏の配下であったが、情勢を鑑みて織田氏に転属した。 柴田勝家の家臣となった金十郎は、長篠の戦いに参加した際に敗走する味方の蒲生氏郷の軍勢を救出している。また、越前国毛屋畠の一揆を鎮圧した際には、勝家から300石を賜り、その地名に由来する「毛屋」の姓を与えられ、以降「毛屋主水正」と名乗るようになった。その後、賭博疑惑をかけられたため、毛受勝照の力添えを得て勝家の元を退去し、能登の前田利家に3年間80石の扶持をもらって匿ってもらう。天正6年(1578年)の有岡城の戦いには織田方の雑兵として参戦。天正8年(1580年)、摂津国の池田恒興に700石で仕える。天正11年(1583年)、池田家が美濃国大垣城主となった際に致仕し、佐々成政に仕えた。 天正16年(1588年)、肥後の統治に失敗し、国人一揆を引き起こした引責で成政が改易されると、他の佐々旧臣らと共に豊前中津17万石を与えられていた黒田長政に300石で仕官した。天正18年(1590年)、奥州会津42万石の大名となった蒲生氏郷は、若き頃の恩を理由に歴戦の士である毛屋主水を1万石で登用したいと打診したが、主水は「黒田家は唐入り(文禄・慶長の役)が決まっており、その前に退去することはできない。無事に帰ることができたら蒲生家に移籍する」として断っている。唐入りの戦場では経験を基にして数々の戦功を立て、無事に帰還したが、長政の妨害に遭い、蒲生家への転属は行われなかった。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦時より黒田家の旗奉行を務めた。また、関ヶ原の合戦により加増を受け、都合700石となり、益田正親の組下に入れられた。大坂の役にも高齢ながら従軍している。 元和6年(1620年)、大坂城の普請に当たる。元和8年(1622年)、菅正利の子・重利に「主水正」の称号を与えるため、長政の命により「武蔵守」を称することとなる。寛永3年(1626年)、子の毛屋武重に家督を譲る。 中風を患った後、剃髪して文賀と号した。寛永5年(1628年)10月26日、病を得て死去。75歳。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%B1%8B%E6%AD%A6%E4%B9%85

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