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仁科盛信 Nishina Morinobu(1557年-1582年) 武田信玄的五子、母為油川信守之女.油川夫人、妻有武田信繁之女、武田信廉之女、仁科盛政之女、福知新右衛門之女;通稱五郎、初名武田晴清、繼承仁科氏,改姓名為仁科盛信。 永祿四年(1561年),父親信玄對曾經為上杉謙信的內應的信濃國人眾海野、高坂、仁科諸氏做出嚴厲的懲罰。沿襲當初對諏訪氏的處分方式,由信玄次子,天生就雙目失明的龍芳繼承海野家名,稱海野勝重;由近習春日虎綱繼承高坂家名,稱高坂昌信。 五月,父親信玄攻落信濃安曇森城,命城主仁科盛政切腹。仁科氏作為清和源氏的末流的名門,信玄不忍其家名從此斷絕,因而讓當時年僅五歲的五男繼承仁科氏的家名,改稱仁科盛信。成為森城城主,擁有親族眾百騎兵力。信玄滅絕敵對的勢力,並由自己的血親或者親信繼承家名復興之,逐漸收服長期反抗而且情況錯綜複雜的信濃諸國人眾。 天正元年(1573年),父親信玄在上洛途中病危,四月十二日退至信濃駒場病死,臨終前留下「三年之內密不發喪」的遺言,盛信的兄長武田勝賴獲得武田氏的支配權,但隨即在兩年後的長筱之戰中遭受致命的慘敗。此後到天正七年(1579年),盛信被任命為伊那高遠城主。 武田氏在長筱之戰後雖說仍苟延殘喘了七年時間,但是等織田信長一一擊破「信長包圍網」的敵勢後,終於騰出手來開始對付武田氏。 天正十年(1582年)二月,織田信長編成武田討伐軍,信長本人向木曾地方進軍;嫡子織田信忠向伊那地方進軍;金森長近從飛驒向信濃進擊;德川家康向駿河進軍;曾經的盟友北條氏政也從關東方向發起攻擊,五路大軍總數高達十萬之眾。而處於絕對劣勢的武田勝賴只得采取守勢,在木曾地方委派自己的妹夫木曾義昌,伊那地方委派叔父武田信廉,飯田城委派保科正直,而盛信作為高遠城主,也走到戰爭的最前線。 在形勢優劣一目了然的情況下,勝賴的妹夫木曾義昌率先投向織田一方,反而作為織田方的先鋒對武田領地展開侵攻,這位深受信任的武田一門親族的反叛給予勝賴沉重的打擊。 二月二日勝賴命武田信豐和山縣昌景之子山縣昌滿率兵三千為先鋒,自己為總大將率軍一萬五千自新府城出發討伐木曾。與此同時,下伊那松尾城的小山田信嶺也舉起反旗,飯田城主保科正直、大島城城主武田信廉先後在十四日和十六日不戰棄城。討伐木曾的武田先鋒軍也在木曾、織田聯軍面前吃敗仗。剛剛出陣到諏訪上原城的勝賴聽到這一系列不利的消息後,急忙撤回新府,打算做最後的抵抗。 此時勝賴也曾經發密函給高原城的盛信,讓他棄城到新府與自己合流,而盛信卻拒絕把城池白白地扔給敵人,在此時就已經做好戰死的覺悟。 三月一日,勢如破竹的織田軍兵臨高遠城下,面對四面楚歌的局勢,城主盛信把兒子和妹妹松姬送往八王子城後毅然決定與城共存亡。 高遠城作為武田氏在信濃最後的據點,由城主盛信為總大將,大將小山田備中守、小山田大學(昌辰)、渡邊金太夫照、諏訪勝右衛門夫婦及其以下三千余名將士守備;而進攻的織田方總大將是織田信長的嫡子織田信忠,大將瀧川一益、河尻秀隆、森長可、毛利秀賴及其以下大軍高達五萬三千人。可以說信忠的部隊是織田進攻的主力軍,信長也許也是想借此一戰來鍛煉自己的接班人。不過巧合的是,盛信的妹妹松姬就曾經與信忠有過婚約,在戰國的末世曾經的親戚成為死敵。 織田信忠在包圍高遠城後,曾經以黃金百枚為籌碼試圖誘降盛信,被嚴詞拒絕,派出勸降的外交僧,反而被盛信割掉耳朵趕出城來,信忠因此大怒,下令對高遠城發起最後的總攻擊。 織田軍敲響從開善寺搶來的大鍾作為進攻訊號,發起怒濤般的攻勢,很快就打破木門殺入城內,武田守軍都做好必死的覺悟,紛紛刺死幼子,殺入敵陣之中,連武士的妻子女兒都紛紛拿起武器抗敵。尤其值得一提的是諏訪勝右衛門的妻子諏訪はな,身披鎧甲,手持薙刀一連砍翻五六個敵人,連敵人也都發出「女中豪傑,前所未聞」的感歎。 武田軍的奮戰可謂空前慘烈,以至於逼得地方的總大將織田信忠也親自出陣,重整旗鼓發起攻擊,在十七倍之眾的敵軍的攻擊下,武田軍逐漸不支,三之丸、搦手門、追手門相繼失陷。盛信把最後的兵力集中在二之丸防守,自己和正室百合夫人退往本丸。 在織田信長大軍的進攻之下,武田家治下的城主與將領,不是開城投降就是棄城逃亡,其中卻只有盛信率領高遠城將士勇於抵抗並奮戰至最後一刻,最終切腹自盡,年二十六歲,法號放光院自刃宗知居士。 出處 http://baike.baidu.com/view/705112.htm
保科正光 Hoshina Masamitsu(1561年-1631年) 保科正直的長子、母為跡部氏、正室為真田昌幸之女;幼名甚四郎、戒名信嚴道義大寶寺。 父親正直為甲斐武田氏家臣,正光幼年時為武田勝賴的人質。天正十年(1582年)武田氏滅亡後被救出後跟隨德川家康並前往高遠城。 天正十二年(1584年)的小牧長久手之戰和天正十八年(1590年)的小田原征伐亦有參加,在家康移封關東後被賜予下總國多胡1萬石領地。天正十九年(1591年)參加鎮壓九戶政實的反亂,由天正二十年(1592年)開始的文祿慶長之役中亦跟隨家康留守在肥前名護屋城。 慶長五年(1600年)的關原之戰中屬於東軍並守備遠江濱松城。戰後2個月間以越前北之庄城城番身份定立法興寺的寺規,規定了貢租的收納方法等,為內政盡力。因為這個功績,在戰後的11月返回舊領並被賜予高遠藩2萬5千石。慶長八年(1603年)2月負責暫時接收森忠政的川中島領而擔當松代城和飯山城的城番。慶長十年(1605年)供奉秀忠上洛、慶長十一年(1606年)的江戶城石垣普請、慶長十六年(1611年)的江戶城堀普請等事情中立下功績。 慶長十九年(1614年)的大阪冬之陣中以德川方的身份守備澱城,慶長二十年(1615年)的大阪夏之陣中於天王寺之戰中立下武功並取得14個首級,但是自身亦有3處槍傷、1處鐵砲傷。因此被秀忠讚賞為武功不比祖父正俊和父親正直差的人物。 元和二年(1616年)擔任越後三條城城番。此後亦在元和三年(1617年)秀忠上洛、元和九年(1623年)和寬永三年(1626年)秀忠、家光上洛時進行供奉,在秀忠進行日光社參時亦有供奉。還有在秀忠上洛之際負責天皇和中宮前往二條城行幸、行啟等事。 元和三年(1617年)收江戶幕府第2代將軍德川秀忠的庶子幸松丸(保科正之)為養子並負責養育。元和四年(1618年)因為跟隨秀忠上洛功績而加增5千石並成為3萬石的大名。元和六年(1620年)擔任大阪城番、元和九年(1623年)擔任伏見城番。 寬永八年(1631年)10月7日死去,年71歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E5%85%89
保科正直 Hoshina Masanao(1542年-1601年) 保科正俊的長子、正室為久松俊勝之女.多劫姬;別名甚四郎、戒名建福寺殿天關透公大居士。 正直與父親正俊,早期為武田氏效力時負責守備信濃國飯田一帶(今長野縣飯田市內)。保科氏曾經是諏訪郡高遠氏的家臣,但在正俊時已經是武田氏的直臣。由於武田譜代家老內藤昌秀無子,因此正直之弟千次郎(內藤昌月)成為昌秀的養子。 天正十年(1582年),在織田與德川聯軍進攻甲州期間,正直守在飯田城,2月14日受到織田信忠的攻勢形響,正直與阪西織部亮和小幡因幡守等人逃向高遠城。其後,正直曾一度與仁科盛信守於高遠城,後拜託其弟昌月,並逃往上野箕輪城。 本能寺之變後,天正壬午之亂爆發,正直與其弟一同歸順後北條氏,企圖重奪高遠。其後,由於德川家康在甲斐取得優勢,依田信蕃和木曾義昌等人紛紛靠攏家康,正直等信濃國人眾亦轉為替家康效力。 正直在武田時期的領地如果獲得家康確保的話,將會領得2萬5000石,然而在天正十二年(1584年)小牧、長久手之戰爆發,正直與諏訪賴忠、小笠原貞慶等等信濃眾,曾經被家康派往木曾作戰,但未有取得太大的成果,最終撤退並將正直留下。 天正十三年(1585年),正直在進攻真田昌幸的上田合戰中亦有參戰,11月石川數正突然離開德川家轉投豐臣秀吉,由於當時數正帶同作為人質的貞慶之子小笠原秀政一同出走,貞慶亦因此轉投豐臣氏。12月3日,在松本城的貞慶進攻身處高遠城的正直,但被其父正俊在鉾持除之戰中擊退。其後,正直與家康同母異父.久松氏出身的妹妹多劫姬結婚,勢力亦因而得以擴展。 天正十七年(1589年),為替豐臣秀吉在京都興建大佛,正直奉家康之命在富士山伐木收集材料。天正十八年(1590年),家康在小田原征伐勝出後入主關東,有份參戰的正直亦獲得下總多胡1萬石的領地。天正十九年(1591年)爆發的九戶政實之亂,正直也有參戰。 慶長六年(1601年)9月29日,在高遠城去世,年60歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E7%A7%91%E6%AD%A3%E7%9B%B4
五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
飯尾定宗、土岐頼芸、内ヶ島雅氏、明叔慶浚、浅井亮親、多賀貞能、足利義晴、朽木晴綱、三淵晴員、細川藤賢、武田元光、武田信豊、粟屋光若、赤井時家、酒井豊数、下間頼慶、本泉寺蓮悟、富樫晴貞、十市遠忠、越智家増、柳生家厳、筒井順興、筒井順政、湯川直光、畠山稙長、畠山政国、衣笠範景
加藤明成 Kato Akinari(1592年-1661年) 加藤嘉明的長子、母為堀部市右衛門之女、正室為保科正直之女;幼名孫次郎,號休意,戒名圓通院休意。 寬永八年(1631年),父親嘉明逝世。作為長子的明成繼承家督身份,並統領父親留下的會津藩四十萬石。可是明成為人昏庸愚昧,毫無統率能力,於是很快便與藩內的家臣團對立起來。 以兩代家老重臣堀主水為首的反明成派,開始對會津藩政感到失望,家臣們相繼出國遠奔。殘酷的明成不甘家臣外逃,竟派士兵追殺出走的家臣(會津騷動)。這些事件受到幕府的關注,將軍決定追究其事,想要褫奪會津藩的權力及沒收四十萬石的榮耀。後來幕府念在加藤嘉明昔日的戰功,便封明成的長子加藤明友為加藤家繼任人,重新建立石見國吉永藩。 晚年,明成過著隱居的生活,於萬治四年(1661年)逝世,年七十歲。 事實上,明成執掌藩政期間,也並非毫無建樹。例如由蒲生時代開始建立的七層式會津若松城天守閣,曾因地震而崩塌,明成時代便將若松城天守閣加以改建,築成五層式的新城閣,對會津藩的城鎮基礎有一定貢獻。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E6%98%8E%E6%88%90
森長可 Mori Nagayoshi(1558年-1584年) 永禄元年(1558年)、森可成(三左衛門)の次男として生まれる。元亀元年(1570年)に父・可成が戦死し、長兄の可隆(伝兵衛)も同年に戦死していたため、僅か13歳で家督を継いで織田信長に仕え、信長より一字拝領し「森勝蔵長可」を名乗った。元亀3年(1572年)12月には羽柴秀吉・丹羽長秀・塙直政らとともに発給文書に連署しており、15歳にして既に他の重臣らと同じように活動している様子が窺える。 元亀4年(1573年)3月、伊勢国の第二次長島一向一揆攻めに織田信忠の部隊に参加して初陣。稲葉良通、関成政らと共に一揆勢に突撃をかけ、森家では各務元正などが功を挙げ信長よりその働きを称された。 同年の槇島城の戦いでは老巧の家臣を出し抜き先陣を切って宇治川を渡るも城内は既に殆どもぬけの殻であり高名とはならなかった。翌天正2年(1574年)には第三次長島一向一揆攻めで長島城の寄せ手に参加し関成政と共に打って出てきた一揆軍を敗走させた。また、信忠軍と一揆が川を挟んで対峙した際には船で渡河して切り込み、一揆勢27人を討ち果たすなど優れた武勇を見せた。以後は信忠配下の与力武将として長篠の戦い、美濃岩村城攻め、越中国侵攻、摂津石山本願寺攻め、三木合戦などに参加し武功を挙げている。 また、天正5年(1577年)頃から内政にも参加するようになり、地元の兼山城(現・岐阜県可児市兼山)周辺の発展の為に間近を流れる木曾川を活かしての商業を重視し河港(兼山湊)の整備、兼山の城下町の区画整理、六斎市の開催などを行っている。また内陸部で入手の難しい海魚・塩の販売需要を見込んで専売制を敷き、地元商人に専売特権を与える見返りとして税収を得た。この専売制は効果があったようで森家が美濃を去った後も、商人たちが尾張藩の美濃代官に長可の書状を持って制度の存続を求めると、尾張藩では専売ではなかった魚と塩の専売を特例として認めさせ、明治時代に到るまでこの制度は存続した。 天正10年(1582年)の甲州征伐においては団忠正と共に先鋒部隊の将として抜擢。団と長可は2月6日に木曽口より信濃国の武田領へと侵攻し、14日には松尾城の小笠原信嶺を降伏させ、飯田城の保科正直も潰走。15日には逃げる正直の部隊を追撃し数十騎を討ち取る活躍を見せる。 仁科盛信の守備する高遠城攻めでは信忠率いる本隊を待ち合流。月蔵山を上り本隊とは別行動で動き高遠城に押し寄せると森隊は三の丸の屋根に登り、板を引き剥がし城内へと女子供の区別無く無差別に鉄砲の一斉射を加え陥落させ、さらにそこから本丸方面の高遠城の守備兵を射撃し多くの敵を倒す。また、本丸の制圧においても自ら槍を取って戦い、手に傷を負うも構わず城兵を突き倒すなど奮闘する。しかしながら本隊到着前に団と共に二度の軍規違反を侵しており、この事は信長に書簡で注意を受けている。 そのまま団と共に上野国へ侵入し、小諸城の接収や小幡氏ら国人衆の人質の徴収に当たっている。これらの戦功から武田氏滅亡後、信長から恩賞として信濃川中島4郡(高井・水内・更級・埴科)と海津城20万石を与えられた。また長可の旧領である金山は弟の成利(蘭丸)に与えられている。 天正10年(1582年)4月、海津城に入り領内の統治に取り掛かった長可であったが、信濃国の政情は未だ不安定であり更に、上杉氏の本領である越後国と接する長可の北信濃四郡は上杉氏と結んだ旧武田家臣なども存在していた。そういった中で4月5日に上杉景勝と結んだ旧武田家臣の芋川親正が地侍など8,000人を率いて蜂起。一揆勢は廃城となっていた大倉城を改修して本拠とし、稲葉貞通の守る飯山城を包囲するという事件が起こるが長可は一揆勢を撫で斬りにしてわずか2日でこれを鎮圧し、島津忠直など他の反抗的な勢力も領内から追放し支配を確立する。 残った信濃国衆も一応は臣従の姿勢を見せたが領内の統治が容易では無い事を痛感した長可は国衆の妻子供を海津城に住ませる事を義務付けし、また一揆に参加したと見られる近隣の村の住民の一部も強制的に海津城下に住ませた。また、領内への禁制発布、信濃国衆との会談や所領安堵の判断など政務を精力的にこなし統治の確立に努めた。 信濃国の仕置きを済ませた長可は上杉景勝が柴田勝家に攻められている越中魚津城の救援に向かったという知らせを受けて同年の5月23日に5,000の兵を率いて越後国への出兵を開始。越後国境付近の関川口の守りを突破し芋川親正・安田某らの守る田切城(妙高市大字田切字東裏にあった城)を落として上杉領深くまで侵攻し、6月までに春日山城からほど近い二本木(上越市)を守る上条景春を破り同地に陣を張った。当時、春日山城の兵は殆ど魚津城の救援に向かっていたが、手薄な春日山城に長可が肉薄すると上杉景勝も春日山城防衛のために魚津城救援を諦めざるを得ず、5月27日には天神山城の陣を引き払い春日山城へと兵を返す事となった。これによって景勝の援護を得られなかった魚津城は柴田軍の攻撃によって陥落し上杉軍は越中国における重要な拠点を失う。 しかし6月2日に本能寺の変で信長が討たれると一転して敵地深く進攻していた長可は窮地に立たされ6月8日には二本木の陣を払って越後国から撤退。軍議を開いて信長の仇を討つことを決定した。しかし信濃国衆にも信長死亡の報が伝わっており、長可配下の信濃国衆たちは出浦盛清を除いてほぼ全員が長可を裏切り、森軍を殲滅する為の一揆を煽動していた。これに対し長可はまず海津城の人質を逃がさぬように厳命し、入城後はただちに人質を連れて南進した。長可の家臣大塚次右衛門が一揆と交渉したが、一揆衆は森勢の前に立ちふさがったため、長可は合戦を仕掛け勝利する。森軍は松本に到着すると人質を残らず処刑し木曽谷方面へと撤退した。唯一、撤退に協力した出浦盛清に長可は深く感謝し脇差を与えている。 撤退途中に「木曽福島城の木曾義昌も暗殺を画策している」という密告を城下で商売をしていた金山の商人から受けた長可は敢えて木曽福島城を迂回せず、まずは到着日を書いた書状を義昌に送るとわざとそれより1日早い日取り、それも深夜遅くに城門を破城槌で破壊して木曽福島城に押し入るという行動を取り、一気に乱入した家臣らは義昌の息子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束し暗殺の企みを封じた。翌日になり森軍は木曽福島城を後にしたが長可は岩松丸を拉致したまま解放せずそのまま帰路を無事に往く為の人質として利用している。東美濃入りした後も苗木遠山氏・遠山友忠などが暗殺を企てていたが、木曾家から手を出さぬようにと懇願された事で結局は手出しはされず森軍は無事に旧領の金山へと辿りついた。なお、安全圏に達したと判断した長可は金山に程近い大井宿でようやく岩松丸を解放している。 同年6月24日に無事に旧領への帰還を果たし、翌日岐阜城に赴き信雄、信孝、三法師に挨拶し弔辞を述べたという。長可が各務元正ら成利に与力として付けていた部下らと合流し旧領に復した森家であったが、元与力の肥田玄蕃・久々利頼興らが離反してその勢力は衰退しており、更に小里光明・妻木頼忠・遠山友忠・斎藤利堯らも長可の排斥を企むなど周囲は敵に囲まれた状態であった。そこで長可は敵に一致団結される前に各個撃破する事を決め、7月2日未明に肥田玄蕃の米田城を攻めた。肥田玄蕃は病を患っていた為同夜に加治田城の斎藤利堯を頼って落ち延びた。長可はこれを聞いて「加茂山(米田城)には地の地の利が無い。加治田は利のあるところである。加治田にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。長可は7月3日の牛ヶ鼻砦での合戦を経て堂洞城跡に入り加治田城を攻めたが、これを落とすことは出来ず烏峰城に帰還した(加治田・兼山合戦)。しかし同年中に肥田玄蕃の病は重くなり加治田城で死去し、跡継は家臣の会議でも決まらなかった為、肥田家臣は離散し森家に属す者も多かった。長可は元家臣である大森城の奥村元広と上恵土城の長谷川五郎右衛門が信州からの帰還しても森家に挨拶も使者も寄越さず、更に肥田玄蕃に内通したとして大森城を重臣の林為忠に攻めさせ、更に上恵土城を攻めた為、奥村元広は城を捨てて落ち延び、長谷川五郎右衛門は自害した。 長可は同月中に今城・下麻生城・野原城・御嵩城を攻略し、根本城の若尾元昌、土岐高山城の平井光村、妻木城の妻木頼忠は戦わず森家に帰順したため、森家は東濃において大きく勢力を伸ばした。また、東美濃一の堅城である岩村城も城主団忠正が本能寺の変で信忠と共に討ち死にしていたため戦を行わず接収した。更に長可は、間を置かずに幸田孫右衛門を大将として遠山友忠の本拠である苗木城へと軍勢を派遣するが、道中で孫右衛門は遠山軍の奇襲を受けて戦死した為、苗木城攻略は頓挫した。この失敗を受けて長可はひとまず戦を止め久々利頼興と和睦し、遠山友忠とは睨み合いを続けた。また外交面では変後すぐさま羽柴秀吉に接近し、東美濃の諸氏から秀吉への取次の役目を申し付けられ、「当国に不届き者が居れば成敗するように」という旨の書状が羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の連名で出され反抗諸氏の領に攻め込む大義名分を得ている。 翌天正11年(1583年)の正月には宴を開いて久々利頼興を金山城に呼び寄せて加木屋正則により仇討させ、同日夜間に久々利城を攻めたて落城させた。また賤ヶ岳の戦いに際して柴田勝家と連携して織田信孝家臣の遠藤慶隆・遠藤胤基が兵を動かし須原城・洞戸城を攻略したという報が入ると佐藤秀方と連絡を取って遠藤領に侵攻。立花山城に篭った遠藤軍を攻め立て、遠藤清左衛門・池戸与十郎・井上作右衛門を討つも要害の立花山城は容易には陥落せず、やむなく遠藤軍の補給路を断っての兵糧攻めへと切り替えた。蓄えの充分で無い立花山城の兵糧はすぐに尽き、進退極まった遠藤軍は討死覚悟で総攻撃に出ようとするが佐藤秀方から信孝自刃の知らせを聞かされると戦意を喪失し石神兵庫・遠藤利右衛門の両重臣を人質に差し出し降伏。長可は木尾村で慶隆・胤基両名と会談し和睦を成立させ、降伏を飲んだ礼として鞍付馬を両名に贈呈した(立花山の戦い)。 その後、兵を再編し同年5月に自ら出馬し二度目の苗木城侵攻を開始。5月20日に陥落させ、遠山友忠は城を脱出して徳川家康を頼って落ち延び、城に残った遠山兵は城を枕に悉く討死した。更に、明知城の明知遠山氏(遠山利景、遠山一行等)と、信孝方の小里城主小里光明を美濃国から追放し、信孝の重臣であった斎藤利堯も加治田城を手放したため加治田衆を含めてこれを接収し、長可は旧領復帰から11ヶ月ほどで美濃における抵抗勢力を完全に駆逐し、東美濃全域並びに中濃の一部にまで版図を拡大した。統一後は領内に多すぎる城の保全の煩雑さを考え、加治田城を始めとするいくつかの城を廃城処分としている。 また、この頃より書状の上で「森武蔵守長可」を自称するようになっている。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。 関・遠藤両名と合流した長可は尾張へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。3月16日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く。(羽黒の戦い) 奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。 後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。 しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び井伊直政の軍と激突し、奮戦するも水野勝成軍の家臣水野太郎作清久の足軽杉山孫六鉄砲隊の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。享年27。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A3%AE%E9%95%B7%E5%8F%AF
藤沢頼親 Fujisawa Yorichika(生年不詳-1582年) 諏訪大社大祝(おおほうり)家の諏訪氏の分流にあたる藤沢氏の生まれで父は藤沢隆親。妻は小笠原長時の妹。福与城は箕輪城とも呼ばれたため、箕輪次郎と呼ばれた。弟に権次郎がいる。 天文年間には甲斐の武田氏による信濃侵攻が本格化し、天文9年(1540年)に家督を継承した武田晴信(信玄)は諏訪郡侵攻を開始する。『高白斎記』(『高白斎記』には信濃国衆に関する記述が詳しく、以下も同書に拠る)に拠れば、天文11年(1542年)には晴信は高遠(長野県伊那市)の高遠頼継らと結び諏訪宗家の諏訪頼重を滅ぼすが、諏訪統治を巡り武田と高遠頼継が対立し、頼継は福与城(長野県上伊那郡箕輪町)の頼親や上伊那の春近衆らを糾合して武田方と敵対する。武田方は頼重の遺児虎王を奉じて諏訪一族を糾合すると同年9月25日には高継らを撃破し、26日に武田方の駒井高白斎が上伊那に侵攻し福与城を囲む。28日に頼親は武田方に降伏し、甲府へ出仕したという。 天文13年(1545年)には武田方から離反し、10月29日には再び福与城には攻められている。信濃守護で義兄にあたる筑摩郡の小笠原長時と結んで抵抗するが、翌天文14年4月には伊那高遠城を攻略した武田方が福与城を囲み、同年6月10日には和睦が成立し、武田一門衆の穴山信友、小山田信有、勝沼信友らの勧告を受けると弟の権次郎を人質に降伏し、起請文を提出し信友の傘下に配せられた。以後、武田との関係は穴山氏を通じており、天文17年(1549年)には上田原の戦いにおける武田方の敗北を機に小笠原氏と結び再び武田氏から離反するが、信友を通じて武田に降っている。 その後、年代は不明ながら上洛して三好長慶に仕えたという。長慶の没後に旧領箕輪に帰り、田中城を築いて居城とした。天正10年(1582年)武田氏、次いで織田信長が滅ぶと北条氏直に属することを企図するが、徳川家康に属する保科正直に攻められ、田中城で息子の頼広とともに自害した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E6%B2%A2%E9%A0%BC%E8%A6%AA
黑田忠之 Kuroda Tadayuki(1602年-1654年) 黑田長政的長子、母為保科正直之女.榮姬(德川家康養女)、正室為松平忠良之女.久姬(德川秀忠養女)、繼室為坪阪氏(養照院);幼名萬德丸,受德川秀忠偏諱「忠」字,初名為忠長、忠政,後改為忠之,戒名高樹院傑春宗英。 慶長七年(1602年)11月9日,忠之在築前福岡城內的藩筆頭家老栗山利安的宅邸裡出生,是福岡藩初代藩主黑田長政與正室榮姬(大涼院,德川家康的養女)之間所生的嫡長子,乳名萬德丸。在德川家康移居駿府城後曾與父親長政一同前往晉見家康。 慶長十九年(1614年)時的大阪冬之陣,由於幕府命令父親長政擔任江戶城的留守居,因此忠之代替他出陣。長政為忠之戴上關原合戰時德川家康賜予的金羊齒前立南蠻缽兜(頭盔),並讓他率領1萬人的軍隊。 元和九年(1623年),二代將軍德川秀忠與其嫡子德川家光上洛,父親長政和忠之擔任先遣早一步從江戶出發前往京都,然而長政卻在京都報恩寺因病去世,忠之因此繼承家督之位。最初從二代將軍秀忠拜領偏諱,從萬德丸改名為忠長以及忠政,直到這個時候才真正改名為忠之。在這之後,德川將軍家都會授予福岡藩的藩主及嫡子松平姓氏以及將軍的偏諱。 另外,依據父親的遺言分別給予弟弟長興5萬石(秋月藩),高政4萬石(東蓮寺藩)的領地,為此福岡藩的石高降為43萬3千石左右。 忠之作為大藩繼承人出生,與祖父黑田孝高、父親長政不同,性格上相當自我中心,事實上長政也擔憂忠之器量不足而曾考慮廢嫡,不過受到重臣栗山利章(栗山大膳)的勸諫而作罷,並將忠之託付給栗山。忠之喜愛外表華美氣派的事物,動用藩的資產建造了被幕府禁止的大型船隻鳳凰丸,組織自己的側近團體,重用倉八正俊及郡慶成等人。另一方面,與築前六端城(領地內主要的6個支城)的城主等長政時代以來的重臣對立,以減封領地或是改易等強硬手段對付這些人。 寬永九年(1632年),六端城之一的麻底良城主栗山利章向幕府控訴「黑田家有謀反的嫌疑」,讓黑田家面臨改易危機,這即是黑田騷動。3代將軍德川家光親自下裁決,接受藩側的主張判定栗山精神異常,不久後幕府下令倉八流放高野山,栗山則是被交給盛岡藩南部家看管(雖然等同於流放,不過栗山受到南部家的厚待)。 在這場騷動裡,藩主黑田家並沒有被追究責任(實際上有進行名義上的改易,也就是改封後隨即又以重新授予舊領地),不過父親長政過去的舊知,幕府老中安藤直次與幕府古老成瀨正虎等人向忠之遞出書狀,希望忠之能像長政一樣和家老商議後再推行藩政。結果便是忠之的側近政治弱化,以過去的重臣為中心的合議制政治色彩更加濃厚。 寬永十四年(1637年),島原之亂時忠之出陣並建立戰果。寬永十八年(1641年),由於幕府的鎖國令,長崎成為幕府的直轄地(長崎奉行地),福岡藩黑田家與肥前佐賀藩鍋島家奉命輪流擔任長崎的戒備。因為這件事福岡藩得到幕府的優待,參勤次數減少,藩主在江戶留滯的時間也縮短。 承應三年(1654年)2月12日,於福岡城去世,年五十三歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%91%E7%94%B0%E5%BF%A0%E4%B9%8B
黑田長政 Kuroda Nagamasa(1568年-1623年) 黑田孝高的長子,母為櫛橋伊定之女・照福院、正室為蜂須賀正勝之女(豐臣秀吉養女)・寶珠院、繼室為保科正直之女(德川家康養女)・大涼院;幼名松壽丸,通稱吉兵衛,法名興雲院殿古心道卜大居士。 天正三年(1575年),父親孝高由於其才能得到織田信長賞識,被主君小寺政職勸說投往織田氏。天正五年(1577年),孝高將嫡子長政作為人質送往織田家,後來在信長的安排下被送到羽柴秀吉的居城長濱城擔任侍童。之後向林信勝(林羅山)學習孔孟之學,與父親學習兵法韜略。 天正六年(1578年),由於父親孝高前往勸說背叛的荒木村重回歸織田家時遭到軟禁於伊丹城,村重對外放話說孝高已然投降,信長下令殺掉孝高留在織田家的人質長政。所幸羽柴秀吉與另一名軍師重治皆不相信黑田孝高倒戈,因此背著信長由重治安排,讓竹中家臣喜多村十助將長政藏匿的竹中氏的領地美濃菩提山城。 天正十年(1582年),長政元服,在十四歲時攻打播州三木城初次上陣,開始隨秀吉轉戰四方,因戰功受封河內四百五十石,在本能寺之變後,秀吉成為爭奪天下霸權的要角,清州會議後秀吉先是在賤岳之戰擊敗同是織田家中的競爭者柴田勝家,不料正因為秀吉的大出風頭引來得到三弟信孝遺領美濃成為尾張、美濃、伊勢三國大領主的織田信雄的疑慮,他決定聯同父親的義弟德川家康一同對抗秀吉。 小牧長久手之戰的爆發使秀吉頭痛不已,因為家康不比柴田勝家,他十分精通外交手段為對抗秀吉他聯合許多外圍大名一同夾擊,而此時長政擔任防備紀伊根來寺僧兵的任務,此戰過後長政因此功加封兩千石。 此時九州的戰火由南方的薩摩島津家向北燒去,首當其衝的龍造寺家在島津兄弟的猛攻下連吃敗仗,家主龍造寺隆信亦戰死於該役,隨後便與雄據北九州的霸主大友家展開攻勢,很快島津家便在耳川之戰中挫敗為回復伊東氏舊有領地出兵日向的大友家,當島津家開始攻略築前後,大友家的當主宗麟為延續家名而向秀吉求援,秀吉的第一波援軍在戶次川之戰戰敗後,秀吉發出各國在隔年3月出陣的命令,三月二十五日先到的豐臣秀長率領黑田、蜂須賀、大友、毛利、小早川、宇喜多各軍進軍豐後、日向。 當時長政與父親孝高一起隨秀長軍出征,在進攻日向財部城時長宗我部水軍從海上攻擊,當財部城的島津軍出城反擊,長政針對此一情勢提案在敵軍通路設下埋伏,並自告奮勇擔任指揮,與母裡太兵衛、栗山大助出兵奮戰立下功勳。在島津家終究臣服於秀吉大軍後,長政與父親一同拜領豐前六郡十二萬石中津成主。天正十七年(1589年),父親孝高遁入空門,法名如水,長政成為豐前中津黑田家的當主。 文祿元年(1592年),秀吉對朝鮮發動侵略戰,是役中長政擔任第三陣,率五千五百日軍渡海,在四月十七日於朝鮮釜山浦登陸進軍朝鮮南海道,在日軍會師漢城後,長政擔當漢城西北的黃海道地區,七月初,長政領軍占領清州。然而隨著明朝的介入,使朝鮮的戰況開始逆轉,先是小西行長於平壤大敗,日軍後援大友義統被嚇走,遂由長政出兵接應救回小西行長,旋即明軍主將李如松連續收復黃海、平安、京畿、江源、鹹境等五道,長政和小早川隆景所鎮守的朝鮮五都之一的開城也被攻下,後在漢城長政隨小早川隆景將明軍查大受部包圍在碧蹄館擊破才扳回一成,之後兩軍一度和談。 在和談破滅後,於慶長二年(1597年),再度開戰,秀吉以以宇喜多秀家為主將,小西行長為先鋒,率軍四萬九千,沿宜甯、晉州一線,向全羅道挺進。右路軍以毛利輝元為主將,以加藤清正、長政為先鋒,率軍六萬四千,沿密陽、大丘一線,向全羅道挺進。同年九月,明軍副總兵解生等率軍兩千,奔赴稷山北部,與長政、伊達政宗發生遭遇戰,長政被明軍後援楊登山所敗,退守稷山。 由於自戰初日軍海上的補給線全為朝鮮名將李舜臣所斷,導致日軍人心惶惶,一路上為補給殺伐不斷,尤其長政與加藤清正等武功派特別嚴重,也因此惹起民怨導致各地朝鮮民軍接連起義,令日軍的陸上補給線亦危如累卵,其時擔當日軍軍監的石田三成多次告誡,加上在戰功的上稟時三成因不滿武功派有移花接木之舉,成為日後文武兩派失和的導火線。 外有明軍攻來,內有朝鮮人民起義,日軍決定南撤至沿海一帶,小西行長退守順天、加藤清正退往蔚山、長政退往梁山、島津義弘退守泅川。十二月,鎮於蔚山的加藤清正遭到四萬中朝聯軍攻打,最後長政和小西行長、淺野幸長、島津義弘來援方打退敵軍。 慶長三年(1598年)四月,長政與加藤清正被召回日本,長政因功加封播磨二郡,石高達十八萬一千九百石。但是日軍在朝鮮的整體戰況終因為明、朝聯軍的奮戰以失敗告終,同年八月,這場戰爭的始作俑者豐臣秀吉病故後,宣告落幕。因為征朝時的功勳之爭,屬於武功派的長政與石田三成不睦,所以在秀吉死後,長政與德川家康接近,甚至與自己原來的正室蜂須賀正勝之女離異,改娶德川家康的養女。 慶長四年(1599年)閏三月三日,一向在豐臣家內部起調解作用的五大老次席前田利家在大阪公館病逝。利家死後的第三天夜裡,長政和加藤清正、福鳥正則、細川忠興、加藤嘉明、淺野幸長以及池田輝政等七人發動政變,企圖誅殺石田三成,石田三成心知德川家康還要利用他引起豐臣家內鬥於是逃入他的府邸避過一劫。 之後上杉景勝率先以五大老的身份向違反秀吉遺命的家康宣戰,清楚了解三成布置的長政跟隨家康參加對上杉景勝的會津合戰,並在石田三成起兵攻打伏見城的消息傳來後,在小山軍議上長政和德永壽昌以「治部少之舉兵,不過乃假藉豐家之名,實為其奪取天下的幌子。」為由說服秀吉自小一手帶大的福島正則等諸侯,達成使以福島正則的武功派支持德川家康的重要使命。並旋即參加東軍的先鋒東上會師清州城,其後隨福島正則與細川忠興經木曾川下游攻打竹鼻城、岐阜城。參與各場會戰的同時,長政也作為家康的代理人進行對小早川秀秋、吉川廣家等西軍將領的策反,為日後東軍的勝利奠下遠因。 關原的決戰中,長政率五千四百兵馬在伊吹山脈南面的丸山佈陣,與石田三成部隊對峙。在戰事全面展開後長政率黑田軍作為家康軍的右翼,和細川忠興、加藤嘉明、田中吉政、筒井定次及生駒一正等圍攻石田三成軍,由於石田軍先鋒島左近的驍勇,讓東軍的六支部隊一時受挫,長政眼見正面進攻之困難,遂遣家臣菅正利領洋槍隊射擊島左近隊,成功射傷島左近,島左近負傷後就此下落不明,替東軍的獲勝作出貢獻。 戰後,長政因功受封築前五十三萬三千石領地,身任名島城主。翌年,長政在那珂郡福崎築福岡城及建立城下町,並進行領內檢地、治水、法令的整備為後代的福岡藩打下基礎。慶長八年(1603年),長政敘任從四位下築前守。翌九年,父親孝高辭世。 在外樣大名中長政對德川家政權建立的可說最大,姿勢也極為恭順,但是在慶長十九年(1614年)大阪冬之役時,由於長政終究是豐家舊臣,兼之大野治長等人放出的風聲,長政與同為豐臣家舊將的福島正則、加藤嘉明、平野長泰、谷衛友等人皆擔當江戶的留守居役。由長男忠之代理從軍,同時對家康獻上鉛三千、煙硝三千斥。後於元和元年(1615年)的大阪夏之陣中長政和加藤嘉明獲准許帶少數士兵配屬在二代將軍德川秀忠軍中,活躍於天王寺、岡山之戰。 元和二年(1616年)四月,德川家康辭世,葬於駿府東南方的久能山,幕府也決定興建專門用於祭祀家康的日光東照宮,長政也參加此一普請役,東照宮外石造的大鳥居便是長政用自九州運來的大石所建。 元和九年(1623年),長政在京都報恩寺去世,年五十五歲。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/73171389/1
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