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佐竹義重 Satake Yoshishige(1547年-1612年) 佐竹義昭的長子,母為岩城重隆之女、正室為伊達晴宗之女.寶壽院、側室為細谷氏;幼名德壽丸,通稱次郎,受岩城重隆偏諱「重」字,名為義重,渾名鬼義重、阪東太郎。 繼任家督 永祿五年(1562年)父親義昭退位,繼任家督成為第18代當主。永祿八年(1565年)義昭死後掌握實權(有異說)。義昭死後,佐竹氏又離常陸統一的目標越來越遠,反對勢力開始反攻。 擴大勢力 與在父親義昭時期開始就是盟友的越後國上杉謙信加強關係。永祿九年(1566年)進攻小田氏治並奪取小田大半領地。之後立即進攻下野國那須郡的武茂氏並令其從屬。永祿十年(1567年)進攻白河義親並獲得大勝。永祿十二年(1569年)的手這阪之戰中擊敗小田氏治,大勝並奪取小田城。 另一方面,相模國的北條氏政在關東的勢力越來越強大,佐竹氏等關東氏族與後北條氏對立。氏政在元龜二年(1571年)與蘆名盛氏和結城晴朝等人結為同盟,進攻從屬於佐竹氏的多賀谷政經。此時義重派出援軍並擊退北條方。 元龜三年(1572年)令白河結城氏臣屬。更進一步利用姻親關係,把岩城氏吞併(義重是岩城重隆的外孫,名字中的「重」字是重隆的偏諱,義重亦當重隆的猶子),與那須氏講和。天正二年(1573年)與投向北條方的小田氏治再戰,氏治的所領大半被兼併,活躍地擴大勢力。天正三年(1575年)奪取白河城。 但是急速的勢力擴大令周邊的諸大名抱持著危機感,亦因為北條氏政和蘆名盛氏等人而需要兩面作戰,於是陷入困境。為打破困局而與結城氏和宇都宮氏建立婚姻關係而結為同盟以對抗氏政,以及與畿內的羽柴秀吉結盟以圖增加夥伴。但是在天正十三年(1585年)受到進出下野國的北條軍猛烈反攻而失去長沼城,在不利的狀況下與北條方和睦(沼尻合戰)。 與政宗鬥爭 與此同時,奧州的蘆名氏在蘆名盛氏死後因為當主接二連三早逝而令勢力開始衰退,另一股新勢力伊達政宗則積極地擴大勢力。義重對政宗的勢力擴大感到相當危險,在天正十三年(1585年)以救援二本松氏為名與伊達氏對立,與蘆名氏結成連合軍並向奧州出陣,兩軍在人取橋會戰(人取橋之戰)。正當武力和兵力都處於上風的義重方漸漸有利時,收到留守在常陸國的江戶氏等勢力不穩的情報後撤退,連合軍亦各自撤退。該場合戰成為後來政宗在江戶城向將軍德川家光說的生涯中的大戰往事。 天正十五年(1587年),次男佐竹義廣(蘆名義廣)成為蘆名氏的養嗣子,繼續與伊達政宗對抗。天正十六年(1588年)再次與奧州的諸大名連合,與政宗戰鬥。雖然兵力有壓倒性優勢,但是諸大名卻因為諸氏的利害關係而對立,以致連合軍軍中不和,義重亦不能戰勝政宗,經岩城常隆的調停後,各方和睦(郡山合戰)。 天正十七年(1589年),蘆名義廣在摺上原之戰中被伊達氏大敗,白河結城氏和石川氏等陸奧南部諸大名都投向伊達氏。而且佐竹氏被南部的北條氏直和北部的伊達政宗這兩大勢力挾擊,面臨滅亡的危機。同年,把家督讓給長男佐竹義宣後隱居,但仍然握有實權。 豐臣政權下 天正十八年(1590年),為表誠意而參加豐臣秀吉的小田原征伐,義重與佐竹義宣一同往小田原參陣並參與石田三成進攻忍城的戰事。之後服從秀吉的奧州仕置,被秀吉承認常陸國54萬石的支配權,成功一口氣挽回狀況。後來受秀吉的支援,進攻常陸中部的勢力江戶重通,令重通在水戶城被流放,並降服府中的大掾氏。天正十九年(1591年)2月,於太田城謀殺鹿島和行方兩郡被稱為「南方三十三館」的鹿島氏和大掾氏一族的國人領主,成功統一常陸國。 關原之戰和最後 以後把實權讓渡給佐竹義宣,在太田城過著悠閒的隱居生活,被稱為「北城大人」(北城樣)。 慶長五年(1600年)的關原之戰中,佐竹義宣因為石田三成的懇求而打算加入西軍,但是看到時勢的義重則希望加入德川方的東軍,因此父子對立。在東軍勝利後的慶長七年(1602年)5月,因為義宣沒有出兵的曖昧態度而令佐竹氏被減封至出羽國久保田20萬石(實際是40萬石)。義重向之前有交情的德川家康、德川秀忠親子請求,於是不用被改易。 在轉移到久保田後,為對付相繼爆發的反佐竹一揆而前往與佐竹義宣不同的六鄉城的居城並建構所領南部以守備一揆,但是在慶長十七年(1612年)4月19日,於狩獵中落馬死去,年六十六歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E9%87%8D
三百八十五位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豐臣秀吉、齋藤道三、德川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北條氏康、武田信玄、山縣昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼續、柿崎景家、本願寺顯如、今川義元、淺井長政、朝倉義景、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黑田孝高、宇喜多直家、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、井伊直政、足利義昭、鈴木重秀、福島正則、加藤清正、竹中重治、立花道雪、石田三成、大谷吉繼、島清興、蒲生氏鄉、鍋島直茂、片倉景綱、武田勝賴、足利義輝、尼子晴久、津輕為信、榊原康政、伊達成實、山本晴幸、真田幸隆、太原雪齋、朝倉教景、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花宗茂、高橋紹運、細川藤孝、細川忠興、村上義清、北畠具教、六角義賢、上杉憲政、結城晴朝、南部信直、小島貞興、丹羽長秀、蠣崎季廣、石川高信、丸目長惠、上泉信綱、渡邊守綱、里見義堯、蘆名盛氏、瀧川一益、佐佐成政、筒井順慶、荒木村重、九鬼嘉隆、豐臣秀長、蜂須賀正勝、藤堂高虎、小西行長、齋藤義龍、稻葉良通、石川數正、酒井忠次、本多正信、服部正成、伊達稙宗、伊達輝宗、戶澤盛安、佐竹義宣、長野業正、太田資正、北條氏政、可兒吉長、北條綱成、風魔小太郎、武田信繁、高坂昌信、內藤昌豐、真田信幸、今川氏真、柳生宗嚴、三好義賢、高山重友、赤井直正、籾井教業、島津家久、安國寺惠瓊、黑田長政、宇喜多秀家、長宗我部國親、吉良親貞、香宗我部親泰、長宗我部信親、甲斐親直、島津貴久、島津忠恒、上井覺兼、佐竹義昭、織田長益、安東愛季、直江景綱、宇佐美定滿、齋藤朝信、北條幻庵、本庄繁長、下間賴廉、鈴木重意、毛利隆元、清水宗治、毛利輝元、村上武吉、十河一存、深水長智、新納忠元、前田利益、穎娃久虎、柏山明助、仁科盛信、佐瀨種常、葛西晴信、田北鎮周、口羽通良、佐竹義廉、木曾義昌、相良義陽、別所長治、吉弘統幸、犬甘政德、村上國清、平塚為廣、朝倉景健、安田景元、北條氏繁、初鹿野昌次、里見義弘、柏山明長、多賀谷政廣、兒玉就方、赤星親家、佐世清宗、和田昭為、成富茂安、池田輝政、肝付兼亮、桂元澄、黑田職隆、甘粕景繼、松平忠直、沼田景義、前野長康、森可成、佐久間信盛、吉弘鑑理、朝比奈泰朝、大野直昌、正木時茂、七條兼仲、伊東義祐、瀧川益重、鈴木重泰、宮崎隆親、飯富虎昌、長野業盛、姉小路賴綱、城親賢、吉岡定勝、織田信雄、別所就治、相馬盛胤、小島政章、宍戶隆家、織田信忠、原田隆種、竹中重門、渡邊了、田原親賢、鬼庭綱元、上田朝直、波多野秀尚、松浦隆信、米谷常秀、相馬義胤、毛受勝照、土居宗珊、田村隆顯、本城常光、江戶忠通、肝付兼續、中條藤資、南部晴政、分部光嘉、多田滿賴、薄田兼相、色部勝長、小幡景憲、遠山綱景、一萬田鑑實、齋藤利三、小幡虎盛、菅谷勝貞、清水康英、安田長秀、長尾政景、氏家直元、北條氏邦、犬童賴安、岩城重隆、川崎祐長、土岐為賴、有馬晴純、小山田信茂、鍋島清房、武田信虎、前田利長、宇都宮廣綱、成田長忠、安東通季、大道寺盛昌、大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、關口氏廣、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豐、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津忠良、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑑速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光、北之川親安、溝口秀勝、牧野久仲、大村純忠、高城胤吉、北鄉時久、益田元祥、平岩親吉、成田泰季、本多正純、長束正家、里見義康、堀尾吉晴、大久保忠鄰、城井正房、大熊朝秀、氏家行廣、池田知正、土井利勝、德山則秀、平田範重、穴山信君、一條兼定、堀秀政、百百安信、針生盛信、泉山政義、酒井忠世、蘆名義廣、三善一守、板部岡江雪齋、岡本顯逸、法華津前延、堅田元慶、木曾義在、泉山古康、淺野幸長、千葉胤富、桑折貞長、岡部正綱、赤松義祐、太田定久、今泉高光、飯田興秀、大崎義直、成田氏長、金森長近、多賀谷重經、長尾憲景、武田信廉、原田忠佐、姉小路良賴、和田惟政、新發田長敦、明石景親、松田憲秀、鵜殿氏長、氏家定直、大內定綱、前田玄以、蒲生定秀、吉岡長增、安東實季、河合吉統、小梁川宗朝、三好康長、下間賴照、酒井家次、結城朝勝、伊地知重興、正木時忠、諏訪賴忠、安宅信康、大掾清幹、百武賢兼、海北綱親、水原親憲、一色滿信、真壁氏幹、本庄實乃、大田原晴清、中村春續、朝比奈信置、安藤守就、山名豐國、鵜殿長持、北條氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北條景廣、富田隆實、木下昌直、岡部元信、圓城寺信胤、遠藤直經、岡本禪哲、安倍元真、大寶寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫廣門、春日元忠、戶蒔義廣、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣
五十位人物:大村喜前、青山忠成、大野治長、三木顯綱、平田舜範、正木賴忠、関口氏広、別所安治、伊達晴宗、龜井茲矩、後藤賢豊、山村良勝、佐竹義堅、遠藤慶隆、島津日新齋、北條氏規、岩井信能、木造長正、宇都宮國綱、臼杵鑒速、遠藤基信、鈴木元信、細川晴元、猿渡信光....
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
五百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名止々斎、佐竹義重、上杉憲政、結城晴朝、里見義堯、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角承禎、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田孝高、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆、長宗我部元親、大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久、島津義弘、足利義輝、足利義昭、福島正則、加藤清正、大谷吉継、島清興、竹中重治、井伊直政、榊原康政、片倉景綱、伊達成実、津軽為信、山本晴幸、真田幸隆、太原雪斎、朝倉宗滴、蒲生氏郷、鈴木重秀、後藤基次、山中幸盛、陶晴賢、立花道雪、立花宗茂、高橋紹運、鍋島直茂、細川幽斎、細川忠興、浅井亮政、林羅山、土井利勝、酒井忠世、青山忠俊、足利義明、稲葉貞通、真田幸昌、小幡景憲、蘆名盛舜、尼子経久、蠣崎季広、石川高信、丸目長恵
国分盛顕 Kokubun Moriaki(1532年?-1578年?) 国分盛氏の嫡子として家を継ぎ、伊達氏から婿として国分盛重を迎えて家督を譲ったとされるが、史料に錯綜や矛盾があり、真相不明である。実在しない可能性もある。 盛顕について伝えるのは、江戸時代に佐久間義和が編纂した「平姓国分系図」である。それによれば、天文元年(1532年)に国分に生まれ、小字は五郎。父は国分盛氏、母は相模定胤の女。盛氏の長子として生まれ、弟に盛廉がいた。官位として正六位上弾正忠を称した。多弱で子がなかったため、弟の盛廉に後を譲って自らは松森の塁(松森城)に移った。しかるに盛廉が元亀元年(1570年)年3月18日に戦死したため、国分の当主として復帰した。 天正3年(1575年)6月下旬から、相馬盛胤が宮城県南部へ攻勢に出た。国分氏も相馬氏に付いていた。伊達氏と相馬氏の決戦と見られるが、相馬氏は即撤退し、伊達氏優勢の状況となった。 天正5年(1577年)8月に伊達晴宗の9男盛重を養子とし、盛廉の長女と結婚させて家督を譲った。天正6年(1578年)4月14日、47歳で没。礼徳院殿前侍御史朝議郎信徹常法大居士。 ところが、やはり江戸時代に編纂された伊達氏の公式史書「伊達治家記録」は、盛顕にも盛廉にも触れず、盛氏には男子がなかったとする。そのためで伊達氏から婿として国分盛重を迎え、これに家督を譲ったと説明する。古内氏に伝わる「平姓国分氏系図」にも盛顕・盛廉が見えず、盛氏から直接に養子の盛重に継承されたことになっている。 盛重の継承について信頼できる史料として唯一のものは、国分氏の家臣である堀江掃部允にあてて伊達晴宗が出した書状で、そこには九郎を国分に代官として遣わし、堀江に相談させるので何かあったら知らせるように、とある。九郎は彦九郎盛重でよいとして、婿入りではなく代官として国分氏のもとに赴いたとなると、二つの系図も治家記録も伝えない事情がありそうである。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%88%86%E7%9B%9B%E9%A1%95
大崎義宣 Osaki Yoshinobu(1526年-1550年) 伊達稙宗の次男で、大崎義直(または大崎高兼)の養嗣子。幼名は小僧丸。 大崎氏は奥州探題として陸奥国・出羽国の武士をまとめてきた家柄だが、戦国時代に入って広域の軍事・行政権限を行使できなくなり、現在の宮城県北西部の河内地方、大崎5郡に割拠する一大名になっていた。陸奥国では伊達氏が力を伸ばし、奥羽の中で随一の実力をもって周辺諸氏を服属させつつあった。 天文3年(1534年)、その領国で内紛が起こり、大崎義直は天文5年(1536年)に伊達稙宗の力を借りて反乱を鎮圧した。そして稙宗は、わが子の小僧丸を義直の養嗣子として送り込んだ。稙宗の説明によれば、川内一党、すなわち大崎家家臣団の頻りの懇望によるという。このとき稙宗の嫡子伊達晴宗は、父の意に反して古河(古川))に警護の兵を置き、後の天文の乱に連なる不協和が生まれていた。 仙台藩が編纂した『伊達正統世次考』巻8下は、稙宗から黒川郡の黒川景氏の家臣福田広重らにあてた10月7日付の書状の要約を載せる。入嗣に直接触れる確実な史料はこれだけだが、書状には年が書かれていない。『伊達正統世次考』は、小僧丸の入嗣を反乱鎮圧の後とする。これに従い、入嗣を内乱収束後の天文6年(1537年)頃にと推測する学者がいる。 しかしやはり江戸時代に書かれた「旧川状」(古川状)という記録は、義直は、稙宗の二男を跡継ぎにしていた縁で、天文5年(1536年)2月に伊達氏の援兵を引き出したと記す。内乱後の入嗣ではない。「旧川状」を根拠に、天文2年(1533年)頃に入嗣し、それに対する家中の反発が内乱を引き起こしたと考える学者もいる。前の説に従うと小僧丸の入嗣は本人が数えで12歳、兄の晴宗が19歳のとき。後の説では本人が8歳、晴宗が15歳のときである。晴宗は23歳で父に反旗を翻すこととなるが、古川で独自行動を起こした年齢をどう考えるかが問題となる。 小僧丸が大崎の跡継ぎになったのは伊達氏の軍事力を背景にしたもので、家中には反発が渦巻いていたようである。 大崎氏の内乱は、天文10年(1541年)頃に再発した。このとき伊達稙宗は再び大軍を率いて介入した。従軍した伊達晴宗が戦地で出した書状に「勿論小僧丸我等の一大事」なる文言がある。 天文11年(1542年)6月、稙宗・晴宗父子が争う天文の乱が始ると、義宣は実父の稙宗にくみしたが、義父の義直は晴宗側に立った。天文12年(1543年)5月までに宮城郡南部の国分領に入り、国分の宿敵である留守氏と対抗した。6月16日に義宣は、名取郡高館の福田玄蕃と留守氏に属する村岡蔵助に、稙宗に味方したことを認め励ます書状を送った。留守氏の家臣の切り崩しにかかったということである。7月12日には稙宗が、義宣が軍事行動を起こしたことを名取郡の秋保則盛に伝え、刈田郡と柴田郡の計略を相談するよう指示する書状を送った。稙宗は13日には柿沼広永にも同趣旨の書を送った。8月10日に稙宗は山岸宗成と山岸勝定にも同趣旨の書状を送り、戦闘状態が続いていたことが知られる。そして9月12日には支倉忠常の本拠である柴田郡長谷倉におり、少なくとも翌年1月までその地に在陣した。大崎領から南に離れた伊達勢力圏の北東部で、稙宗党をまとめるべく活動したようである。 義宣は大崎領内では東端にあたる不動堂を拠点とし、天文13年(1544年)に攻め寄せてきた大崎義直の軍と対陣した。不動堂には天文16年・17年(1547年・1548年)にも義直軍が寄せてきた。結局、大崎領の中で義宣はほとんど足場を築けなかったようである 乱後、稙宗が隠居して晴宗が伊達氏を継ぐと、義宣は居所がなくなった。『伊達正統世次考』によれば、自分と同様伊達氏から葛西氏の継嗣に入った実弟の葛西晴胤を頼って逃げる途中、葛西領内の桃生郡辻堂で義直の討手にかかって殺されたという。『会津四家合考』は病死とするが、一般には暗殺説が採られている。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B4%8E%E7%BE%A9%E5%AE%A3
山岡重長 Yamaoka Shigenaga(1553年-1626年) 天文22年(1553年)、柴田郡小成田の領主・小成田長俊の子として生まれる。幼名は御坊丸。 弘治2年(1556年)、父の長俊が相馬盛胤との合戦で討死すると、主君伊達晴宗の命により宿老中野宗時の下で養育されたが、永禄13年(1570年)4月、宗時が謀叛の疑いありとして追討され失脚すると、守屋守柏斎の下に預けられた。 元服後、小姓から始まって申次・腰物奉行を務め、天正15年(1587年)5月には米沢近郊の窪田に出没していた盗賊を退治している。天正16年(1588年)の大崎合戦には軍目付として従軍し、天正18年(1590年)5月に岩手沢城主氏家吉継が死去すると、城代として岩手沢城に入り、奥州仕置で大崎氏が改易されるまで同地に駐在。同年10月に勃発した葛西大崎一揆の鎮圧において武功を挙げた。 その後、伊達政宗に随って上洛し朝鮮出兵に従軍。文禄4年(1595年)8月24日の秀次事件に際し認められた在京重臣一同の連判状にも署名している。この頃に姓を小成田から山岡に改めているが、『伊達治家記録』では、天正年間に政宗の命により改姓したとあるのに対し、『伊達世臣家譜』では、文禄3年(1594年)2月に吉野山の花見で豊臣秀吉に拝謁した折に、秀吉の命により改姓したとしている。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際には、7月24日の白石城奪還作戦に参加し、戦勝報告の使者として家康から監視役として付けられていた今井宗薫に同行して江戸に赴き、家康から褒美として白天鵞絨の陣羽織を拝領する。またこの時、本多正信を介して岩出山から千代への居城移転許可を取り付け、これを認めた10月15日付の家康の書状を携えて帰還した。 江戸時代に入り仙台藩が成立すると、重長は奉行職(他藩の家老に相当)を拝命し岩出山にて1,200石を知行。慶長7年(1602年)に政宗の四男・愛松丸(宗泰)が誕生すると奉行職在任のまま宗泰の傅役となり、翌慶長8年(1603年)に愛松丸が岩出山城を与えられると、城代となってこれを管理した。慶長17年(1612年)には宮城郡手樽など1,800石を加増されて3,000石となり、翌年には岩出山の知行地1,200石を宗泰の所領に編入した代替地として本吉郡小泉・黒川郡粕川・桃生郡上下堤の3か村の内に同じく1,200石が与えられた。 寛永3年(1626年)閏4月28日死去。享年74。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%87%8D%E9%95%B7
岩城親隆 Iwaki Chikataka(1537年?-1594年?) 伊達晴宗の長男 。生母は岩城重隆の娘・久保姫。伊達輝宗、留守政景、石川昭光、国分盛重、杉目直宗は同母弟、岩城常隆は息子。左京大夫。鶴千代丸。初名は宣隆。伊達政宗(輝宗の子)の伯父にあたる。 伊達晴宗の長男だが、1534年の合戦の際の晴宗と重隆との約束により、外祖父・岩城重隆の養嗣子となって岩城氏の家督継承者となる。養父の重隆の隠居後、当主に就任する。近隣の田村氏や石川氏の領土を侵したり、二階堂盛義の援助のため出兵するなどの小規模の軍事活動がみられるが、基本的には養父重隆以来の外交重視の路線を踏襲しており、実家伊達氏において実父の晴宗と実弟の輝宗が対立すると仲裁し、また、二階堂氏の去就をめぐり対立する伊達氏と蘆名氏との和睦をあっせんした記録も存在する。叔父である伊達実元に対し実父と実弟の関係を憂慮する内容の手紙を交換するなど、実家伊達氏との関係は重視していたようである。 佐竹氏は佐竹義昭の代より石川氏や白河結城氏の従属化をめざし陸奥に進出するようになり、かつては友好的であった岩城氏との関係も先代重隆の時代より徐々に悪化しつつあった。親隆は佐竹義昭の娘を妻に迎えていたにも関わらず関係は改善しなかった。 1568年から1571年にかけて佐竹氏とたびたび軍事衝突を起こす最中、隠居の岩城重隆は病死し、親隆もまもなく動静が不明となる。その後は佐竹氏出身の親隆夫人が当主代行として振舞うようになり、佐竹義重(義昭の子)が岩城家の政治に介入するようになることから、この前後に岩城家家中に何らかの異変があったものと推測されている(親隆が病のため狂乱し、当主としての活動が不可能になったためともいわれる。)。 1578年頃には常隆が当主に就任し、親隆夫人がその後見役を務めた。親隆は記録上は1594年まで存命していたとある。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E8%A6%AA%E9%9A%86
岩城貞隆 Iwaki Sadataka(1583年-1620年) 佐竹義重的三子、母為伊達晴宗之女・寶壽院、養父岩城常隆、正室為相馬義胤之女・慶雲院;幼名能化丸、通稱忠次郎、初名佐竹貞隆,繼承岩城氏,名為岩城貞隆。 天正十八年(1590年)養父常隆病死,繼承家督,被豐臣秀吉承認岩城氏所領磐城平12萬石和家督的繼承。 慶長五年(1600年),關原之戰中,最初加入東軍方,但是因為長兄佐竹義宣的命令而沒有參加征伐上杉景勝。 戰後,慶長七年(1602年)與義宣一同被處分,佐竹家被減封,貞隆更被沒收全部所領。對此貞隆向義宣促請舉兵,不過遭到拒絕。 貞隆得知妻子的實家相馬家希望再興,自身亦希望令岩城家再興,於是前往江戶並在淺草成為浪人,為再興運動盡力並多次在飯野八幡宮祈願。隨著領土被沒收,多數家臣都離散,不過有『岩城貞隆淺草御浪人中隨身諸士名元覺』中的42人跟隨。 之後,土井利勝向德川家康提出貞隆的願望後,得到由本多正信組成的3百人。慶長二十年(1615年)的大阪夏之陣中跟隨正信從軍。 因立下戰功,元和二年(1616年)被賜予信濃中村1萬石,恢復成為大名的身份。一說指貞隆的次兄・蘆名義廣為當主的蘆名氏一族天海亦為幫助貞隆而進行斡旋,表達岩城家再興的事情。亦通過母親的仲介而與在關原之戰後不和的義宣和解,義宣在和解後在資金等方面積極地向貞隆再興御家進行援助。 元和六年(1620年)死去,年38歲,戒名圓城院殿雲山宗龍大居士。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E8%B2%9E%E9%9A%86
岩城重隆 Iwaki Shigetaka(生年不詳-1569年) 岩城由隆次子,有一兄岩城成隆(政隆)。這一時期岩城氏的血緣以及繼承關係不甚明了。當時由岩城成隆繼承岩城由隆之位,重隆另立分家以白土為姓。成隆與江戶氏結盟向佐竹氏施加軍事壓力以向常陸伸張勢力,然未果。後於不明時期成隆死去,重隆成為當主。 重隆最初和白河結城氏鞏固同盟關係,因而與伊達稙宗的姻親勢力正旺的近鄰相馬氏與田村氏對抗,就女兒久保姬出嫁的問題與伊達氏和相馬氏對立,後來發展為軍事衝突,結果岩城氏方戰敗,久保姬被伊達晴宗(伊達稙宗長子)娶作妻子。圍繞久保姬的紛爭有各種說法,時期也不明確。久保姬出嫁之際雙方約定伊達晴宗與久保姬之子交給岩城家作養子。不久,鶴千代丸(岩城親隆)出生。 天文十年(1541年)上洛,擔任朝廷官職。 天文十一年(1542年)伊達氏的內訌——天文之亂暴發,後來發展至將整個奧州卷入戰火,重隆屬於伊達晴宗方與伊達稙宗方的相馬氏以及田村氏爭鬥,後來與倒戈至晴宗方的蘆名氏當主蘆名盛氏一同奮戰,得到伊達晴宗讚賞。此外,與晴宗聯絡的同時挑起田村氏與二本松氏的內部鬥爭,使用各種謀略使稙宗方弱化。 天文之亂結束後,一邊繼續與田村氏和相馬氏爭鬥,同時與伊達氏、蘆名氏、佐竹氏之間施展外交謀略,頑強地求得生存。同時自伊達氏迎來鶴千代丸(岩城親隆)做為養子。不久周邊的石川氏與白河結城氏從屬於佐竹氏的程度加重,重隆將家督讓於繼嗣親隆,並為他迎娶佐竹義昭之女作為正室來締結與佐竹的友好關係。然而並無法抑制佐竹義昭、佐竹義重父子向南陸奧伸張勢力的野心。一門眾船尾氏向佐竹臣服是這一表現的象征性事件。 永祿十二年(1569年)死去。不久親隆也一病不起,岩城氏家中主導權落入佐竹氏手中。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=4#postid-154 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E9%87%8D%E9%9A%86
懸田俊宗 Kakeda Toshimune(生年不詳-1553年?) 伊達家臣。通称は三郎。陸奥国伊達郡懸田城主。 主君・伊達稙宗の娘を継室に迎え、伊達時宗丸入嗣問題では稙宗とともに入嗣の強行を図った。この入嗣問題を契機として起こった伊達氏天文の乱に際しても稙宗に加担し、稙宗の嫡男で俊宗には義兄にあたる伊達晴宗陣営と戦う。 この抗争は晴宗が稙宗を桑折西山城に幽閉したことが端緒であるが、俊宗は小梁川宗朝らによって救出された稙宗を居城・懸田城に迎え、乱の初期段階においてはこの懸田城が稙宗陣営の拠点となっている。このために晴宗や晴宗の岳父・岩城重隆らの軍勢に攻撃されたが、よく城を守り、天文13年(1544)前後には相馬顕胤らと共に稙宗陣営の中心となって伊具郡や伊達郡、信夫郡などに侵攻している。 この乱は天文17年(1548)に将軍・足利義輝の停戦命令で終息したが、その講和条件によって懸田城は破却された。この後も一定の勢力を保持するも、不満は払拭されずに晴宗に叛意を募らせたが、天文22年(1553)7月に長子・義宗ともども誅殺されて懸田氏は滅亡した。 出處 http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/KakedaToshimune.html

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