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大久保忠世 Okubo Tadayo(1532年-1594年) 大久保忠員的長子,母親為三條西公條之女,妻為近藤幸正之女,通稱新十郎、七郎右衛門。 父親忠員為三河松平家的譜代重臣,天文十八年(1549年),松平家當主松平廣忠被暗殺身死,幼主竹千代被稱霸遠江駿河的今川義元以結盟的名義帶至駿府城當做人質,三河國松平家在實質上受到了義元的支配。 永祿三年(1560年),桶狹間會戰。統率三河、遠江、駿河三國五萬大軍上洛的今川義元在桶狹間被尾張織田信長奇襲戰敗身故,已攻入大高城的松平元康趁機退回故國三河以岡崎城為根據地,脫離今川家獨立並與織田信長締盟,改名德川家康。 永祿六年(1563年),三河一向一揆蜂起叛亂,大久保忠世一族結集與一揆勢力奮戰立下戰功,之後忠世擔任仲介積極調解一揆方的不滿。 元龜三年(1572年),武田信玄發動上洛之戰興兵攻入遠江,面對武田精騎家康不顧由瀧川一益轉達的信長之意「固城堅守」,反而決定奮力一戰以維護身任兩國領主的尊嚴。德川武田兩軍遭遇於三方原,德川軍陷入武田軍的鶴翼陣,德川軍大敗,家康孤身逃跑。為了阻止武田軍進一步擴大戰果,大久保忠世與天野康景帶領洋槍隊發動夜襲,結果竟然使得武田軍一度撤退,令信玄亦十分驚嘆。 天正三年(1575年)五月,武田勝賴出兵包圍長篠城,在家康的請求下織田信長親自出征應援而來,大久保忠世與弟忠佐擔任德川軍的先鋒率領洋槍部隊以三段射擊,大破武田軍左翼山縣昌景三千赤備騎兵 ,大久保忠世在此戰中表現非常活躍,連遠在山上本陣的信長也問家康,「德川勢中標誌是金揚羽 蝶.餅的武將是誰?」,家康答說「是大久保兄弟! 蝶兄(忠世的標誌),餅弟(忠佐的標誌),皆是我臣。」 長篠會戰後昔日的強敵武田家元氣大傷,德川家康自然不會放過這大好時機,立即全面反攻一一收復以前的失地。天正三年(1575年)六月,大久保忠世在二俁城攻略戰中做為主力部隊立下大功,戰後成為二俁城城主。 天正十年(1582年),本能寺之變發生,織田信長橫死,織田軍新佔領的舊武田領甲斐信濃兩國立刻動蕩不安起來,德川家康伺機煽動甲信人民叛亂,織田家將領河尻秀隆因此被叛民所殺,森長可見勢已難挽無奈率軍撤走,甲信兩地頓成空國接連為德川家康所佔。 德川家康平定信濃一國後將其中佐久一郡封給大久保忠世並任命忠世為信州奉行,忠世接管信濃之初曾和相模北條家及領有沼田城的真田昌幸在領地分配發生問題,幸賴忠世手腕高明且處事公正,三方達成協議以無事結尾。 但領地的紛爭並未因此結束,天正十一年(1583年),家康與北條氏直對瓜分武田舊領達成協定:一、上州由北條家分國,甲、信由德川家領取,二、上野沼田城由北條家領取,將北條家的甲州都留郡和信州佐久間郡讓給德川家,三、家康的女兒督姬嫁給北條氏直。此條約對佔有沼田城的真田昌幸十分不利,因此昌幸對此向家康控訴,但是家康只以敷衍塞責的態度回應,昌幸看穿了家康決定犧牲自己的意圖,於是真田昌幸移居上田城整頓軍備以確保防守成功。 翌年春,德川家康在和豐臣秀吉的小牧、長久手一戰取得局部勝利後,邀北條家同時大舉進攻真田昌幸,北條家以北條氏照為總大將,領兵七千五百攻擊沼田城,德川家則派大將大久保忠世、平巖親吉等率兵八千出陣,忠世之弟大久保忠佐率進攻兩千人馬矢澤城,不料先是沼田城的守將矢澤賴綱頂下北條家連續三輪的猛攻,上田城的昌幸則巧借天時,信州白晝陽光明媚,夜裏烏雲密布,暴雨連綿的獨特氣候「峽霎」。派四百兵出陣,於陣前大罵家康,引起素以忠直聞名的德川軍大怒,真田軍且戰且走,昌幸趁機率領兩千兵士由德川軍背後攻擊,身任德川軍主將的大久保忠世身經百戰,一見到真田軍的罵陣便已預料到這一手,因此早留下本陣的三千軍抵擋昌幸的猛攻。 不料,此時昌幸次子真田幸村居然以區區兩百騎兵突出狂攻,副將平巖親吉軍大亂,隨後昌幸長子信幸率一千伏兵由北方殺出,東北方的矢澤三十郎也率五百兵出上田城加入圍攻,大久保忠世只好將軍勢移往千曲川撤退,沒想到由於峽霎前夜大雨的千曲川竟爆發洪水,落入真田昌幸陷阱的忠世被追擊而來的真田軍殺得大敗僅以身免,三個兒子忠生、忠賴、忠廣一一戰死。 天正十七年(1589年),豐臣秀吉在平定四國九州之後要求雄據關東五代的北條家來降,但最後因為真田家領地的問題,北條家攻擊真田昌幸所領的名胡桃城,秀吉一怒之下發起小田原討伐,其時大久保忠世與本多忠勝、井伊直政並列先鋒立下戰功。 戰後論功行賞,德川家康被轉封至關東八州,進入關東平原的德川家康以江戶城為居城,把位於關東關西要衝的舊北條氏居城小田原城賜給忠世,領四萬五千石領地。入城後不久大久保忠世便因病於文祿三年(1594年)九月過世,法名了源院日脫大居士。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/316484
天野景貫 Amano Kagetsura(生年不詳-没年不詳) 天野氏は、藤原南家工藤氏の一族。鎌倉時代以降、遠江国、三河国、安芸国などにそれぞれ分家して栄えた。景貫は遠江天野氏(天野氏庶家)の出身である。 はじめ景貫は駿河国の今川氏に従属し、天文16年(1547年)9月、戸田康光成敗を目的とした三河田原本宿の合戦などで功を立て、今川義元から感状を賜り、遠江奥山郷を領した。 永禄6年(1563年)12月、天野氏の宗家である天野景泰・元景親子が今川氏から離反したため、天野氏の惣領職を継承した。しかし、今川氏の勢力が衰退すると、永禄12年(1569年)頃には、代わって勢力を強めてきた三河国の徳川氏に鞍替えし、徳川家康の遠江国侵攻に協力した。 ところが元亀年間(1570年~1573年)以降は甲斐国の武田氏が遠江国に侵攻すると降伏し、徳川領侵攻の先導役として活躍。元亀2年(1571年)の春、菅沼定盈などの抵抗を受けて三河設楽郡への力攻めが進まず兵を収めた秋山虎繁(信友)に代わり遠江国方面から参戦したとされる。また長篠城の攻略を担当したが、多大な犠牲を払い城方へも出血を強要させるも陥落には至らなかった模様。それでも、山家三方衆に代表される設楽郡の小領主たちの従属に結びついた以上、働きは少なくなかった。 元亀4年(1573年)の武田信玄の死後、武田氏が衰退すると徳川家康の反撃を受け、景貫は奮戦したものの敗れ犬居城から退去している。武田氏滅亡後は相模国の北条氏に仕え、対佐竹氏との戦いなどで活躍した。 没年は不詳であるが、資料上で最後に確認できるのは天正12年(1584年)4月である(天野文書) 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%99%AF%E8%B2%AB
太原雪齋 Taigen Sessai(1496年-1555年) 父親為庵原城主.庵原左衛門尉(庵原政盛),母為興津橫山城主・興津正信之女,兩家同為駿河大名今川氏譜代重臣;「雪齋」為道號,又稱「太原崇孚」,實際名字已不可考。 幼時即被父親送往附近的善得寺修習學問,自那時起,雪齋已然覺悟到終生要過著禪僧的生活。直至永正六年(1509年),十四歲的雪齋進入京都建仁寺,拜常庵龍崇為師,正式出家為僧,改稱「九英承菊」。 大永二年(1522年)雪齋奉今川氏親之命,到駿河善德寺,負責五男芳菊丸的教育工作。而這個芳菊丸,就是後來取名「梅岳承芳」、有「東海第一弓」之美譽的今川義元。 天文四年(1535年)六月,今川、武田軍交戰於甲駿邊界的萬澤口。雪齋遣使至小田原城,要求北條氏綱進攻甲斐東部,以解今川之急。武田信虎亦致書上杉朝興,邀其攻打小田原城,以牽制北條氏綱。因此,今川、武田兩軍陷於膠著狀態,直至秋收才各自收兵,算是結束戰事。 天文五年(1536年),今川家主今川氏輝,進軍三河時突然去世,年二十四歲;同一天,今川氏親的次子彥五郎亦被發現死亡(有一說是雪齋為擁立梅岳承芳(今川義元),用計將兩人毒殺)。由於氏輝身體虛弱無子嗣。於是雪齋以梅岳承芳的正統性作號召,對家臣進行拉攏工作。應邀加入梅岳承芳一方的,有重臣朝比奈泰能、瀨名氏貞、瀨名氏俊、關口氏廣等等。梅岳承芳在花倉之亂擊敗側室之子的三男玄廣惠探,繼承家督並還俗改名今川氏元,後接受征夷大將軍・足利義晴的偏諱改為今川義元。同時立即任用這位既是功臣又是良師的雪齋,成為自己的軍師;從此雪齋得以盡展所長,在雪齋有生之年,今川家一直處於最鼎盛的狀況。 天文十五年(1546年)十月,尾張的織田信秀發動對三河的侵略。岡崎城的松平廣忠向今川義元求援。雪齋提議救援,義元允諾,令雪齋率軍進入西三河,抵抗織田軍的入侵;接著,義元要求松平廣忠送出人質,以示對今川家的忠誠。然而,松平家的人質松平竹千代(德川家康)在前往駿府城途中被改投織田家的田原城主戶田康光劫走,送到織田信秀處,並脅迫松平廣忠離開今川家。 天文十七年(1548年)三月,織田信秀率軍五千餘再度入侵三河,今川義元遂下令雪齋為總大將,率二萬五千人前往迎戰。雙方在岡崎城東南的小豆阪一地進行對峙。兩軍不約而同的派遣先鋒部隊去查探敵情,織田方的先鋒織田信廣與今川家的朝比奈泰秀相遇,打得難分難解,雪齋再派出岡部元信領隊支援,終於擊退織田軍。 天文十八年(1549年)十一月,雪齋指揮七千大軍攻陷三河的要衝安祥城,擄獲守將織田信廣。雪齋遂跟織田信秀交涉,成功以信廣交換被劫走的松平竹千代(德川家康)。此舉不但控制松平家,並讓自家能夠隨意進出西三河區域,對戰略的部署尤有幫助。 天文二十一年(1552年)十一月今川義元把長女嫁給武田信玄的嫡子武田義信,維持同盟關係。而後,北條氏康出兵駿河,身為盟友的信玄得知消息後,立即出兵支援義元。雪齋認為北條家來犯將會是個難纏的對手,亦會阻礙上洛的計劃,於是雪齋建議對北條家進行議和。義元接納雪齋的提議,於善德寺會見武田信玄和北條氏康,進行和談,史稱「善德寺會盟」。會盟後,信玄之女黃梅院嫁給氏康之子北條氏政,氏康之女早河殿嫁給義元之子今川氏真。至此,「甲相駿三國同盟」正式成立,這個同盟維持十多年後因今川家衰落才瓦解。 弘治元年(1555年)十月,雪齋圓寂,年六十歲,死後獲賜諡號「寶珠護國禪師」。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%8E%9F%E9%9B%AA%E9%BD%8B
奥平貞勝 Okudaira Sadakatsu(1512年-1595年) 奥平貞昌(曾孫同名)の子。正室は水野忠政の妹。後室は菅沼定継の妹。奥平定能、奥平常勝、奥平貞治の父。通称、九八郎、監物。晩年に出家し、道文入道と号した。 今川氏、松平氏(徳川氏)、織田氏、武田氏など状況に応じてさまざまな陣営を渡り歩いた。家名を存続させるため、身内同士で争うなど一族に多くの犠牲を強いられる苦難の人生を送りながらも、自身は天寿を全うした。 享禄3年(1530年)5月、松平清康が八名郡の宇利城を攻めると、これに従軍。搦手門から攻め入り、功を挙げたという。その後、清康の横死(森山崩れ)で弱体化した松平氏から今川氏に転属した。天文11年(1542年)、対織田信秀戦の小豆坂合戦では岡崎勢の与力に付けられる。 弘治2年(1556年)、前室の縁で水野信元からの織田家への誘いを受けると、これに応じ、今川氏を離反。さらに縁戚の田峯菅沼氏まで誘って蜂起した。同年2月15日、自領から岡崎方面にある今川方・秦梨城への先制攻撃を敢行。秦梨城主・粟生将監永信を退散させた事に端を発し、鎮圧に派遣されてきた今川方の東条松平勢を貞勝の弟・久兵衛貞直が日近城での籠城の末に撃退する(日近合戦)。ひとまず優位に立っていた貞勝であったが、今川義元の軍令を受けた菅沼定村や本多忠俊といった東三河の諸将によって本格攻勢を受ける。同年8月には日近とは別方面で宝飯郡との郡境に近い雨山城への攻撃を防ぎ得ず、失陥してしまう(雨山合戦)。織田氏の援軍を満足に得られずに蜂起から半年程度で鎮圧されて、今川氏再属を余儀なくされた。再属に際し、弟・貞直を処分する事で離反の罪を赦免されている。 永禄3年(1560年)5月、今川義元の尾張侵攻に参戦。清康の孫・松平元康(後の徳川家康)の与力として、大高城への兵糧運び入れを支援するが、同月19日に今川義元の本隊が崩れると自領に退却した(桶狭間の戦い)。 その後、東三河の諸家が挙って松平氏へ転属する事となっても事態を静観。だが、宝飯郡で最後まで抵抗していた牧野氏でさえ転属するなど、今川氏の三河支配権回復が見込めない事態になったところで、ようやく家康へ転仕した。永禄11年(1568年)12月、徳川家康の遠江侵攻では、嫡子・定能に参戦させている。 武田軍が三河に侵攻してきた元亀2年(1571年)以降には、これまで通り家康服属を説く嫡子・定能を制して、武田氏服属を決定するなど、隠居でありながら家中での発言力を保持していたことがうかがえる。天正元年(1573年)8月21日、貞能が孫の信昌ばかりか家中の大半を引き連れて武田氏を離反し徳川氏に再属した際には、貞勝は次子・常勝など少数派とともに武田方に留まった。長篠の戦いに参戦した模様(『信長公記』)であるが、やがて同合戦で勝利した貞能が徳川氏・織田氏の後押しで勢力を伸ばすと、菅沼氏一族とともに三河の所領を放棄して、甲斐に移住した。 その後、武田の滅亡で甲斐に留まれなくなった貞勝は、子の貞能を頼って三河額田郡に隠棲した。本来、武田滅亡後に家康への再属を願い出た三河出身者には、厳しい処分が待っており、次子・常勝などは殺されたが、老齢の貞勝は咎められなかった。貞能らの嘆願が在ったものと考えられている。文禄4年(1595年)に没した。享年84。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E8%B2%9E%E5%8B%9D
奥平貞能 Okudaira Sadayoshi(1537年-1599年) 奥平定勝(貞勝、道文入道)の嫡男。母は水野忠政の妹。子に奥平信昌・仙千代・奥平昌勝。娘に本多重純(本多広孝の次男)室がいる。幼名は仙千代。監物丞、通称は美作守。諱は近世の家譜・編纂物では「貞能」とするが、文書上からは「定能」であることが確認される。 奥平氏は奥三河の作手亀山城を本拠とする国衆。戦国期の永正年間には定能の祖父にあたる貞昌の頃から史料に見られ、定能の父定勝の頃には駿河今川氏が三河経略を行い、今川氏との関係を強めている。 定能の史料上の初見は天文16年(1547年)8月25日付今川義元判物写で、幼名仙千代と称していた定能は叔父藤河久兵衛尉とともに医王山砦を攻略した恩賞として、山中に知行を与えられている。叔父の藤河久兵衛尉は直後に今川氏に対して謀反を企て、翌天文17年正月26日付今川義元判物写に拠れば、定能は父定勝により今川氏への忠節の証として吉田へ人質として提出されたという。 弘治2年(1556年)10月頃までには元服し、通称九八郎を名乗る。この頃、菅沼氏など三河国衆の間では親今川派と反今川派の間で内部紛争が起こっており、東三そう劇と呼ばれている。奥平氏でも父定勝が今川氏に臣従しているのに対し、同年春頃に定能は奥平久兵衛尉・彦九郎・与十郎らと今川氏に対して逆心を企て、定勝派の親類衆により高野山へ追われ、その後赦免されたという。 永禄3年(1560年)5月 、桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に敗死した後、今川氏と松平氏(徳川家康)との間で抗争が激化するが、定能は父定勝とともに今川派として行動している。なお、この頃父の定勝は隠居し、定能への代替わりが行われたと考えられている。 永禄7年(1564年)2月、奥平氏は今川氏から離反し、徳川家康に属した 。定能は家康から、家康に敵対する牧野氏・大給松平氏の所領である牛久保領・大沼領・大給領など3500貫文と遠江三分の一の知行を宛行われ、受領名美作守を拝領している。 以後、家康の遠江侵攻に従う他、元亀元年(1570年)6月28日の姉川の戦いにも参戦する。 永禄11年(1568年)12月、甲斐の武田信玄が駿河今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。同年11月19日付武田信玄書状写に拠れば、この頃定能と武田氏は接触を行っている。元亀2年(1571年)3月頃には奥平氏は武田氏に従属しており、同年4月に行われた武田氏の三河侵攻では田嶺・長篠菅沼氏(山家三方衆)とともに案内役を務めている。武田氏は織田氏とは友好的関係を築いていたが徳川氏とは遠江領有を巡り緊張関係にあり、元亀4年(1573年)正月に武田氏による徳川領国への侵攻が開始されると、山家三方衆は武田家臣山県昌景に従い従軍している。なお、同年4月には信玄が死去し、武田氏の徳川領国の侵攻は中止されている。 元亀4年(1573年)春、野田城を降しながら撤退する武田軍を不審に思っていたが、やがて、秘匿されていた信玄の死を確信する。同年7月から包囲されていた三河設楽郡長篠城の救援に向かう武田軍の中に定能も居たが、この来援を待てなかった長篠城主菅沼正貞は翌月には降伏し、城を明け渡した。無事だった正貞は、徳川と通じているとの疑念をもたれ、救援の武田軍に身柄を拘束された。 ところが、内通疑惑は定能へも波及。定能への疑惑は真実で、家康とは密かに連絡をとりあっていたそうだが、この時点では武田信豊たち援軍諸将には露見せずに済んだ。しかし、初期の3人以外に更なる人質の供出を強いられるなど次第に立場を悪くした。 一方、その頃家康は奥三河における武田の勢力を牽制するため有力な武士団・奥平を味方に引き入れることを考え、奥平に使者を送った。定能の答は「御厚意に感謝します」という程度のものだった。そこで家康は信長に相談した。信長は「家康の長女・亀姫を定能の長男・貞昌に与えるべし」との意見を伝えてきた。 家康は信長の意見を入れ、定能に 一.亀姫と貞昌の婚約 二.領地加増 三.定能の娘を本多重純(本多広孝の次男)に入嫁させること を提示した。 元亀4年6月22日、定能は家康に 一.信玄の死は確実なこと 二.定能親子は徳川帰参の意向であること を伝え、しばらくして再び徳川の家臣となった。 8月21日、一族郎党の大半を率いて亀山城を退去し、徳川方に走った。それに伴い、離反から5日後の8月26日には、次男・仙千代をはじめとした人質3人が処刑された(一説には串刺し刑であったともいわれるが、定かではない)。 天正元年(1573年)に長男・貞昌(のちの信昌)に家督を譲って隠居し、自身は家康の許にあって、奥三河の地勢や人物関係を教える助言役に徹していたと言われている。 天正3年(1575年)5月の長篠の戦いで、酒井忠次に属して鳶ヶ巣山奇襲隊として参戦し、窮地に陥っていた長篠城救援に貢献した。戦後は、信長と家康の両将から見込まれた信昌を引き立たせるべく、表舞台から完全に退いている。 天正18年(1590年)3月、小田原遠征の途中で三河額田郡長沢に逗留した豊臣秀吉から招かれ、長篠の戦話などを所望された。その褒美として呉服を拝領し、都住まいを奨められている。上洛後は美作守に叙任され、秀吉の相伴衆として二千石を与えられた。秀吉薨去の際には、形見分けとして茶器や黄金を拝領した。 慶長3年(1598年)12月11日、伏見において病没。62歳。戒名は寿昌院殿牧庵道渓大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%B9%B3%E5%AE%9A%E8%83%BD
奧平信昌 Okudaira Nobumasa(1555年-1615年) 奧平定能(奧平貞能)的長子、母為牧野成種之女、正室為德川家康長女.龜姬;幼名九八郎、初名貞昌、受織田信長偏諱「信」字,改名為信昌,別名定昌。 奧平氏為三河國有力國人,自祖父奧平貞勝時代起從屬於今川氏;今川義元死後今川氏沒落,奧平氏改投德川家康麾下,參與遠江國掛川城作戰。 元龜年間,武田信玄侵入三河時,從屬武田氏。天正元年(1573年)父親貞能背叛武田氏,再效力德川氏,但祖父貞勝帶領次子常勝及大部族人投奔武田氏。 天正三年(1575年),武田勝賴派遣大軍攻打長篠城,時為長篠城主的信昌,以約500兵守方力戰牽制武田軍15000兵,令武田軍無法攻克長篠城,爾後武田軍於設樂原被織田德川聯軍大敗。 戰後,織田信長為贊揚信昌於長篠城之戰僅用500兵死守武田軍15000大軍,將偏諱「信」字賞贈予,由貞昌改名為信昌,並贈予福岡一文字寶刀(長篠一文字);德川家康為獎勵信昌的戰功,賞予名刀「大般若長光」,家康並給予奧平的12名重臣特殊保証,子孫後代特殊待遇和保障。 經過此戰役之後父親貞能,正式將家督之位讓與信昌;信昌後來獲得德川家康重用,小田原征伐後,獲封上野國甘樂郡3萬石。慶長五年(1600年)參與關原之戰,戰後部隊捕獲安國寺惠瓊立功。 慶長六年(1601年),獲加封到美濃國加納藩10萬石。翌年隱居,讓位於三子奧平忠政。 慶長二十年(1615年)病逝,戒名久昌院殿泰雲道安大居士位。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A7%E5%B9%B3%E4%BF%A1%E6%98%8C
岡部元信 Okabe Motonobu(生年不詳-1581年) 岡部久綱之子、母不詳;通稱五郎兵衛,別名長教、元綱、真幸。 元信為駿河守護今川義元的重臣,在由太原雪齋和尚指揮下與「尾張猛虎」織田信秀衝突的三河「小豆阪之戰」及「安祥城之戰」中,都有傑出的軍功表現,為善戰之勇者。永祿三年(1560年),已統領駿河、遠江、三河的義元,率領大軍出征尾張,當時信秀已病亡,由織田信長繼承家業。擔任今川前鋒軍隊的將領中,除了負責運送糧草至大高城的松平元康(德川家康)以外,還有負責鎮守最前線鳴海城的岡部元信。 同年,當今川義元在「桶狹間之戰」遭到織田信長突襲而死的消息傳開來之後,今川軍因指揮官敗亡而四散逃亡時,只有元信的孤軍繼續死守鳴海城而沒有撤退,並再三擊退氣焰高漲而來犯的織田軍。信長遭遇這個意外的抵抗,便派使與元信交涉,元信表示除非信長將義元的首級歸還,否則寧願戰死也絕不棄城退卻,信長有感於其義心,加上義元的首級已無利用價值,便命人將義元首級置入棺木中,由元信一路守護棺木返回駿河。義元之子今川氏真,非常感謝元信的堅持,特別褒揚其「忠心無與倫比」,並加封領地。 包括元信在內的今川家重臣,原本都期待今川氏真能出兵討伐織田信長以報父仇,但氏真走不出今川義元率領大軍出征竟然敗死的陰影,對於再度出征尾張存有疑慮及不安,態度消極,眼見軟弱無力的氏真不足以擔當大任,今川家的家臣團也逐漸分崩離析,有人與甲斐的武田信玄暗通款曲,有人則是倒向相模的北條氏康,甚至有人與新興勢力的三河德川家康互為勾結。當信玄破壞甲相駿三國同盟而揮軍駿河時,幾乎未遇到激烈的抵抗,今川家的許多家臣都投靠了武田家。永祿十一年(1568年),元信也轉而投效信玄麾下,成了武田家駿河先方眾的首腦人物之一。 元龜四年(1573年),武田信玄病逝後,武田勝賴繼承父親的事業,繼續與織田、德川的同盟對抗,勝賴佔領了連其父親信玄生前亦無法攻陷的遠江要衝之高天神城,特別選派元信擔任高天神城的城主,鎮守遠江,以防備位處遠江濱松城的德川家康,足見勝賴對於老將元信的信賴。 自從天正三年(1575年),武田勝賴在「長篠之戰」遭到織田、德川聯軍擊敗之後,德川家康開始反攻,雖然多次入侵,遭到元信的反擊。於天正八年(1580年),家康決定在高天神城周圍興建城寨,監視高天神城並逐步進逼,長達多年的圍攻,高天神城已經陷入斷糧危機,而勝賴正與北條氏政對陣,無暇救援,家康乃下命全面總攻擊。在攻擊前夕,元信召集眾將開會,其悲壯地表示當初進入本城時,就沒有生還的打算,決定死守城池以報信玄、勝賴的二代恩義。而後德川軍進行攻城,戰事激烈,元信以下的城兵多數戰死,元信被大久保忠教家臣討取。 德川家康於戰後特地將元信的首級送至安土城給織田信長檢視。原本與元信同為今川家前鋒的家康,以及感念元信義心而將今川義元首級歸還的信長,在檢視背棄今川家而投靠武田家並因此殉死的元信首級時,或許也會有世事無常的感嘆吧! 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401429
岡部正綱 Okabe Masatsuna(1542年-1584年) 岡部久綱之子,一說為岡部元信長兄;別名貞幸、次郎右衛門。今川氏、武田氏、德川氏重臣。 年少時的正綱和德川家康一樣是今川義元在駿府城的人質。岡部家對於家康在日常生活方面幫助不少,使義元在所有重臣中對此記憶深刻。 最初仕宦於今川家,16歲時初陣就獲得2顆首級而馳名。之後不久,武田信玄對駿河展開侵略。在駿河陷落後,正綱仍然頑強抵抗。今川家滅亡,信玄對於正綱武功評價很高:「萬の兵士を得るのは容易だが、ひとりの將を得るのは難しい」,正綱即改出仕武田氏。 成為武田家家臣後,在多數戰役上如三方原之戰都表現活躍。天正九年(1581)高天神城之戰,弟弟元信戰死,被迫成為德川氏家臣。天正十年(1582)在織田信長死後開始的天正壬午之亂幫助德川家康調和武田遺臣,對於平定甲斐頗為盡力。 對於正綱死因說法不一,概約兩種:一.因戰傷醫治不好而死。二.在調和平息武田遺臣時,數次被武田遺臣催促參加酒宴,造成飲酒過量引發急性酒精中毒而死。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E9%83%A8%E6%AD%A3%E7%B6%B1
平岩親吉 Hiraiwa Chikayoshi(1542年-1612年) 平岩親重的次子、母為天野貞親之女、正室為石河正信之女;幼名七之助、戒名平田院殿越翁休岳大居士,德川十六神將之一。 平岩氏傳說是物部姓的弓削氏,弓削氏的後裔右衛門尉照氏出仕新田興,因居住在碧海郡平田庄上野,稱上野氏。後來,照氏的四代孫隼人正氏貞出仕今川氏,遷到三河國額田郡阪崎村。阪崎村中有一塊叫「平岩」的巨石在氏貞的居館附近,後代因此改稱平岩氏。 平岩氏和三河松平氏確立臣屬關系是從平岩重益這一代開始。自重益起,平岩氏的信光、親忠、長親三代連任角田郡代官。大永二年(1522年),松平宗家六代松平信忠遷居大濱鄉,平岩重益跟隨信忠一起在阪崎村閒住。父親親重(平岩重益嫡子)先後仕奉松平家的長親、信忠和清康。 親吉在德川家康為今川義元人質時從之,天文十六年(1547年)以小姓身份被送往駿府城。 永祿元年(1558年)親吉初陣,獲德川家康深厚信任感,三河遠江平定戰立有戰功,就此擔任家康長子松平信康元服補佐工作。天正七年(1579年)織田信長要求松平信康自殺後選擇蜇居。後來得到家康允許,以直臣身份復職。 天正十年(1582年)織田信長橫死於本能寺之變;翌年,德川家康平定甲斐,命親吉著手建造甲府城且對於郡代的武田氏遺臣進行慰撫,親吉同時盡力於領內經營。 天正十八年(1590年)小田原征伐戰功顯赫,跟從德川家康移封關東地區,被給予廄橋3萬3000石。在關原之戰中,親吉逗留在上野國廄橋,監視關東地區以及防止上杉景勝南下。 慶長六年(1601年)親吉再度返回甲斐,獲甲府6萬3000石。慶長八年(1603年)養子松平仙千代的弟弟德川義直準備執政,封給親吉甲斐25萬石,慶長十二年(1607年)做為義直家老的親吉被轉封為尾張犬山藩主,領有12萬3000石。 慶長十六年(1612年)於名古屋城死去,年七十歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B2%A9%E8%A6%AA%E5%90%89
德川家康 Tokugawa Ieyasu(1543年-1616年) 松平廣忠的獨子、母為水野忠政之女.於大之方、正室為今川義元養女.築山殿、繼室為豐臣秀吉異父妹.朝日姬、側室為正木賴忠之女.養珠院、戶塚忠春之女.西鄉局等等;幼名竹千代,別名次郎三郎,受今川義元偏諱「元」字,初名為松平元信、元康,後改名為德川家康,尊稱大御所。 人質時代 出身於三河松平氏,自稱南北朝新田義貞的後人,新田一族的世良田親氏娶三河松平鄉的國人眾在原信重的女兒,改名松平親氏,為三河松平之祖。 父親廣忠時,松平氏位於今川與織田兩強大大名之間,且父系家族偏今川家,母系水野氏偏織田家。出身讓家康幼年充滿矛盾與危機。2歲時,母系家族首領水野忠政病逝,由水野信元繼任,信元隨後投向織田家,但其父廣忠則帶家康投向今川家,並被迫與於大離婚。6歲時,遭父親繼室之父戶田康光出賣被織田家奪為人質。8歲時,父親廣忠遭織田收買之叛徒殺死,之後今川家打敗織田家,又將家康奪為人質用以控制岡崎城。 永祿三年(1560年),今川義元為上洛,引軍進入尾張與首當其衝的織田軍交戰,家康參與該戰役,並擔任先鋒,負責突襲丸根城,並且取得丸根城守將佐久間大學的首級。不過今川義元於在戰役期間因為大意輕敵受到織田信長的奇襲(即桶狹間之戰)遭到其部下毛利新助和服部小平太梟首,其後家康返回岡崎城,原本尚未打算從今川氏從屬中獨立,不僅不斷出兵騷擾織田氏的領土並且攻打織田氏的城寨,同時頻頻上書給義元之子今川氏真,討伐織田信長,為今川義元復仇雪恥。然而今川氏真的無能使得駿河國內的政情越來越紊亂,有不少今川氏的老臣紛紛出走或逃離,使得家康終於意識到今川氏是確定走向敗亡的路途。 松平獨立 家康與織田信長締結的軍事同盟清洲同盟,又稱為織德同盟、尾三同盟,為左右日後日本歷史發展的重要同盟,是戰國時期許多盟約中締結雙方恪守諾言最好、維持時間最長的一個盟約。永祿五年(1562年)家康接受織田信長的私下求和,在兩國將軍隊撤離邊界與釐清彼此的國界之後,信長邀請家康前往尾張的清洲城締結盟約。 清洲同盟後,永祿六年(1563年)又爆發遍布西三河全境的一向一揆,當時家康的部分家臣加入一揆軍,包括本多正信及三方原之戰中慷慨赴義的夏目吉信,這是家康人生中的第一個大危機,這對當時只領有三河半國的家康是動搖國本的戰爭。經過家康近半年的苦心征戰,最終用攻心的方法將其瓦解。就這樣,岡崎周邊地區不安要素被掃除。從此,家康開始推動對今川氏的攻略。拉攏東三河的戶田氏和西鄉氏這樣的國人眾的同時,軍隊向東推進,消滅鵜殿氏一樣的敵對勢力。永祿九年(1566年)平定東三河、奧三河(三河國北部),統一三河國。 同年,從朝廷得到從五位下、三河守的任命。不久,家康自稱松平氏是清和源氏族新田氏的支流得川氏之末裔,並把「得川」改為「德川」,並於永祿十年(1567年)得敕許,改姓德川。又把從今川義元拜領到的「元」字改為「家」字。這就是後世熟知的德川家康名字的由來。 和戰武田 永祿十一年(1568年),甲斐國的武田信玄開始侵略駿河今川的領地(駿河侵攻),武田信玄遣使至岡崎拜會家康,協議兩家出兵消滅今川氏,並約定戰後以大井川為界,以西歸松平氏,往東屬武田家,史稱大井川會盟。酒井忠次代表家康以割讓遠江國為條件而與武田氏結成同盟,呼應駿河侵攻。同年年底,在武田大破駿府城後家康軍攻克今川領遠江國的曳馬城。永祿十二年(1569年)駿府城失守後,今川氏的新居城掛川城又遭到包圍。氏真本固守城池,在籠城戰的最後,家康進行開城勸告的呼籲,氏真終於投降。自此家康開始支配遠江國。今川氏遭到覆滅的命運,今川氏真也被放逐。從此家康又多獲得廿多萬石的領地,同時提高三河在諸大名眼中的地位。元龜元年(1570年),家康將治所遷往曳馬城,改名濱松。 家康東進的同時,信長也邁出統一全國的第一步。永祿十一年(1568年),織田信長奉室町幕府13代將軍足利義輝的弟弟義昭行上京之途,家康也向信長派遣援軍。當足利義昭以信長包圍網的外交及戰略包圍織田信長時,企圖以副將軍一職來說服家康,然而家康拒絕足利義昭並繼續協助織田信長。元龜元年(1570年)織田氏和德川氏聯軍在姊川(今滋賀縣長濱市野村町附近)與淺井氏、朝倉氏對壘,史稱「姊川合戰」(日語:姊川の戰い)。此戰,德川軍以少勝多擊敗朝倉軍,又配合織田軍擊敗淺井軍,立下大功。 元龜三年(1572年)10月,信長包圍網的參與者之一武田信玄動員兩萬五千人意圖進軍京都(上洛),途經家康的遠江國。當時的家康無論是兵力、戰略以及實力也比不上信玄。起初信玄剛剛入侵遠江國時家康向信長求救,但由於忙於對付近畿一帶的反信長勢力,信長沒有派遣援兵並寫信建議家康放棄遠江退回三河。但是家康並沒有採納信長的建議,也沒有立刻出兵與武田對決。隨著遠江北部的城池一座座被信玄占領(一部分被攻破,另一部分投降),二俁城成為信玄的下一個目標。家康由於等待信長的援軍而沒有救援二俁城,但是當佐久間信盛率領的織田家援軍到達時二俁城已經陷落,家康的居城濱松城暴露在武田家的面前。當武田軍行軍至濱松城北面時突然掉轉方向北上三方原,德川軍亦尾隨至三方原,於同年十二月二十二日下午,兩軍已經在三方原完成布陣。由於雙方兵力懸殊,且用兵之妙信玄又略高一籌,兩軍交戰至下午六時時德川、織田聯軍大敗,織田援將平手泛秀戰死。此戰德川家死傷一千六百餘人,眾多家臣戰死,家康曾一度想要切腹。其部下分四批陸續扮成家康吸引信玄軍兵力,家康本人最終在家臣的拚命保護下突圍逃回濱松城。史稱三方原會戰。傳說家康遭武田軍山縣昌景追擊時,曾嚇到拉褲子。他讓人當場繪下自己愁苦的樣子,作為日後激勵之用。該畫像稱為「顰像」。至於武田信玄則繼續西征,但攻下野田城後突然折返,原因是信玄病重不久病逝。武田信玄死後,織田信長同年先後消滅室町幕府以及朝倉義景和淺井久政,淺井長政父子。整體上威脅織田和德川的勢力暫時結束。戰國大勢趨於統一,而家康一面與武田氏對抗,一面加強領內建設。 天正二年(1574年),武田信玄死後繼承武田家的武田勝賴率25,000大軍攻打高天神城,家康等待織田軍的增援,不過在增援到達前,高天神城已經被攻下。天正三年(1575年),武田勝賴率一萬五千人再次攻擊德川的領地長篠城,守方奧平信昌僅用500兵死守一段時間。同年5月,德川氏聯合意欲一口氣掃平武田氏的織田氏於長篠設樂原大破武田勝賴。織田信長命令士兵一人帶一把木柴,紮成一道柵欄,用3000火槍兵輪番出擊,射死上千武田氏騎兵。雖然兩軍死傷甚多,不過武田軍損失多名大將,間接使武田家衰退,是為長篠之戰。 天正七年(1579年),有謠言說家康正妻築山殿(本名叫瀨名姬,出生於駿河庵原郡瀨名鄉,關口親永之女,母親是今川義元的妹妹,血緣上即是今川義元的甥女)聯合兒子信康(家康嫡長子)欲倒向武田家,以及築山殿和信康對待其妻德姬(織田信長次女)態度惡劣。因此信長下令家康立刻處決築山殿以及信康,最後築山在流放途中被家臣刺殺,信康則是切腹謝罪。 天正十年(1582年),織田和德川攻打武田領地,首先是木曾義昌背叛武田家,接著信長和家康和後北條氏政分三路攻擊武田的根據地,武田家臣則開始大量倒戈,導致織德北三方聯軍只花一個月就殲滅武田家。勝賴在天目山將武田家第二十代家督的身分傳給嫡子武田信勝,完成信玄的遺願後,與妻子切腹自盡。家康因其戰功,被信長增封家康駿河一國。信長頒布武田狩獵令,即任何與武田有關的人都要撲殺(武田氏家臣穴山梅雪因投降信長免遭處罰),家康則暗中命令井伊直政招降並藏匿武田家的遺臣(此即後來在小牧.長久手之戰大放異彩的井伊赤備隊),與織田信長殺害遺臣有所分別,而江戶時代的武田氏族幾乎是家康在此時所藏匿的。 秀吉時代 天正十年(1582年),消滅武田氏的勢力後,家康被信長招待到安土城,部下嫌料理難吃(大多說法是信長嫌光秀招待不周,魚蝦有腥臭),信長當場懲處主辦人明智光秀。6月2日,明智光秀突然謀反,以迅雷不及掩耳之勢包圍京都本能寺,信長被迫自焚,史稱本能寺之變。信長一死,圍繞政權落入誰手的問題各大名之間展開激烈鬥爭。本能寺之變時家康正在界市(又稱「界港」,現位於大阪府中部),因急取近道需經伊賀返回三河,期間由服部半藏正成、茶屋四郎次郎清延等護送平安回到三河,才免遭危難,後稱「神君伊賀穿越」。此時羽柴秀吉在山崎之戰(又稱天王山之戰)擊敗明智光秀。明智光秀逃亡至時小栗栖被專門獵殺落魄武士的農民刺殺。 同年,家康在平安回到岡崎後,乘機發兵進攻統治空窗期的武田舊領,與同時窺伺武田舊領的北條氏發生激烈衝突,期間依田信蕃、真田昌幸的奇襲作戰成功的截斷北條軍的補給線,北條軍在將上野與佐久郡僅有的軍力投入後亦無法挽回頹勢,尤其關東平原的佐竹義重此時又開始蠢蠢欲動,使北條終於決定與德川講和。10月29日締結和議,內容如下:一、氏直迎娶家康之女督姬。二、甲斐、信濃歸家康所有,上野則放任北條侵吞,互不干涉。戰爭至此告一段落。 本能寺之變後,羽柴秀吉迅速趕回並成功打敗明智光秀和政敵柴田勝家之後,成為織田家家臣中,最具威望和實力之人。而此時,織田信長次子織田信雄亦日益感受到秀吉對他的極大威脅。於天正十一年(1583年),與家康聯合,對抗羽柴秀吉。天正十二年(1584年)3月,秀吉挾其在山崎、賤岳兩戰皆勝之餘威號稱約12萬5千餘名大軍準備開戰。當時德川軍加上信雄兵力,總數約6萬餘人,處於劣勢。於是家康在經過深思熟慮之後,所採用策略是:取內線集中優勢兵力以主動攻勢為原則,且視時機而動。3月28日家康急行軍抵達小牧山和自長島趕來的織田信雄軍一起集結布陣。秀吉軍遠道而來,師勞兵疲,兵力雖多,但德川軍防守嚴密,不敢貿然進攻,於是採用池田恆興所建議之迂迴戰術(另一說為其養子三好秀次所建議),派2萬大軍意圖直接攻擊德川居城三河岡崎城,使德川軍軍心動搖,不戰而敗;且小牧山地勢孤立,如果軍隊繞至小牧山後,來個前後夾攻,德川軍必敗無疑。而家康早已得到情報,並在必經之路長久手谷地設伏,池田軍大敗。當秀吉趕來救援為時已晚,戰爭於是陷入僵持階段。由於長期交戰,軍兵疲憊,再加上家康又遲遲不與秀吉就此一戰之後的善後情勢表達其和談條件。羽柴秀吉與織田信雄單方面進行和談。自此之後,家康即在戰略上陷入孤立態勢。12月,家康基於政治及戰略考量下將次子於義丸(結城秀康)送與秀吉作養子,臣服於羽柴秀吉。 天正十三年(1585年)德川氏和北條氏雙方達成分割武田家遺領的協議。可當家康要求當地領主真田昌幸歸還沼田城給北條氏時,真田以此地為我故有支配而拒絕,並與敵對關係的上杉氏友好。同年7月,回到濱松城的家康得知真田昌幸謀反,立即於8月派7千兵力開赴上田城,而真田軍兵力只有1千5百人。8月2日德川軍進攻二丸遭受猛力反擊而撤退,在撤退期間同時遭到上田城城兵的追擊和來自砥石城的側面攻擊,德川軍因而陷入混亂,在追擊戰中矢澤城的士兵同時出擊。結果在神川,德川軍多數的士兵溺死。真田軍憑藉的地形之利使德川軍戰死達1千3百人,而己方只損失40人。不久真田方得知上杉軍派出增援部隊,28日德川軍開始撤退。大久保忠世諸將還留在城內打算奮力一拼。但是11月德川的譜代重臣石川數正出奔到豐臣家,至此德川軍完全放棄,全軍退出。此戰在《真田軍記》和《三河物語》都有記錄。真田昌幸因此被評為擁有優秀智謀的武將,也因此,家康對真田氏評價頗高,故改採懷柔政策,將本多忠勝女兒本多小松嫁給昌幸長子信之。 天正十七年(1589年)後北條氏拒絕臣服豐臣家,於是豐臣秀吉下令全日本大名討伐北條。家康在支援戰線上有不少功勞,以家康為主力的軍隊從東海道向小田原進發,最終北條氏在小田原城被包圍一段時間後投降。關白豐臣秀吉就此統一日本。戰後家康轉封關東,領有相模國、伊豆國、武藏國、上野國大部、下野國小部、下總國、上總國(至關原之戰時,約為二百五十五萬七千石),改建江戶城為居城。家康移封關東之事一宣布,內藤修理亮清成便奉家康令,率領大谷庄兵衛、村田右衛門等人,正式接受城池。天正十八年(1590年)八月,家康踏上決定他後半生命運的江戶土地。 奪取霸權、關原之戰 慶長三年(1598年),豐臣秀吉病逝,繼承人是只有六歲的豐臣秀賴。豐臣秀吉於病逝前設立五大老和五奉行,家康為五大老首席。家康在秀吉病逝前,安排與部分大名進行婚姻,又在秀吉死後,私自分封領地;因此開始造成其他中老和奉行的不滿,尤以石田三成為甚,三成的行動惹來加藤清正、福島正則等人襲擊(文治、武鬥派鬥爭)。在家康安排下,三成在佐和山城隱居。家康繼續在伏見城及大阪城執行政務。 慶長四年(1599年)在大阪城祝賀豐臣秀賴時,家康察覺對自己的暗殺計劃,主謀者是前田利長、淺野長政、大野治長及土方雄久。大阪城內要求討伐前田利長的聲勢高昂。家康在準備出兵之際,前田利長將他的生母芳春院送往江戶城成為人質,事件得以平息。 不過,不滿家康的聲音並沒有減退,戶澤正盛匯報東北地方大名上杉景勝積極進行軍備,行動極不尋常,家康派遣使者要求景勝匯報甚至迫使上洛。上杉景勝沒有理會警告,其家臣直江兼續寫《直江狀》指責家康,家康看過後大怒,終在5月3日發表討伐上杉的宣言。雖然五奉行中的前田玄以、長束正家和增田長盛以及三中老的中村一氏及生駒親正要求中止出征,但家康決意行動,6月16日由大阪城出發,7月2日到達江戶城。 7月中旬,石田三成與部分支持豐臣家的大名開始有所行動,以打倒家康為目的,7月18日包圍伏見城,並開始進行攻擊。8月1日西軍攻下伏見城。7月24日家康在小山的時候,斥候匯報石田三成起兵的舉動。家康在7月25日進行小山評定,大部分的隨行大名支持家康的行動,並立即折返到江戶城。 8月家康回到江戶城,並派遣先鋒部隊在東海地方及東近畿地方交戰。家康在9月1日出發,9月14日到達美濃。9月15日雙方在關原交戰,最初的形勢對東軍不利,西軍逐步進迫到本陣;不過到中午左右,西軍的小早川秀秋受到德川軍恐嚇射擊後叛變支持東軍,形勢得以扭轉(也有論點認為小早川秀秋早就已經暗地和家康勾結,射擊不過只是反叛的信號而已)。最後東軍在此場戰爭取勝,自此權力落在德川家手中。 就任將軍、成立幕府 戰後,家康積極處理政務,調配大名間的領土,而且經常在京都活動。為成為將軍,他嘗試將德川氏的系譜改變(其實從「松平」改為「德川」時就早已改變)。慶長八年(1603年),朝廷中的使者到達伏見城,家康出任征夷大將軍,並創立江戶幕府,也稱為德川幕府,同年將千姬嫁給豐臣秀賴以示友好。慶長十年(1605年)家康退位給三男秀忠,被一般人稱為大御所。家康表面上在駿府城隱居,但實際上家康仍然掌握大權,在岡本大八事件和大久保長安事件之中均由家康作主導。 攻占大阪城 慶長十九年(1614年)方廣寺鐘銘事件中,家康藉口鐘銘內文有對自己不利的文句,嘗試迫使豐臣秀賴完全臣服;但是豐臣方擺出備戰的姿態:豐臣軍積極招募浪人,加強軍備,但卻沒有大名加入大阪方(除阿波的蜂須賀家政但被家督至鎮勸說,放棄舉兵),致使家康下令各諸侯準備攻擊大阪城。德川軍在11月15日開始進行攻擊,並步步進迫,迫使豐臣的軍隊撤回大阪城內,12月4日前田軍和松平軍擅自攻擊真田丸,遭到真田信繁的猛烈反抗,結果大敗。家康最終利用大炮直接攻擊大阪城,迫使淀殿(豐臣秀賴母親)提出交涉,雙方達成協議,大阪方面要求德川不得處分秀賴等參戰諸將,秀賴、淀殿不用前往江戶作人質,家康看似寬大的爽快答應,唯一的條件是:將大阪方面除本丸外所有外城一併拆除並且填平護城溝。至此大阪城成一座裸城,戰事暫告停止,稱大阪冬之陣。 慶長二十年(1615年),填平一切壕溝,拆毀二丸、三丸的大阪城形同空殼,家康見時機成熟再次出兵,而豐臣軍在這次戰役雖然積極迎擊,但是只剩本丸的大阪城比山砦還不如,德川軍在多處地方相繼捷報,最終迫近大阪城。但在天王寺岡山之戰中,家康一度陷入危機,真田信繁擊潰松平忠直帶領的一萬五千越後兵壓進家康本陣,導致家康旗本眾大崩潰,本陣倒退數裡後才穩下陣腳,這也是家康一生除三方原之戰外最狼狽的一戰,甚至一度考慮自盡,最後勉強逃出一命;同時德川秀忠在岡山戰鬥,亦因為過於突出,遭到大野軍的突擊陷入混亂,當眾將聞到家康有危險而作出救援,在兵力懸殊的優勢下,德川軍最終取得勝利,豐臣秀賴切腹自盡,遺兒國松在戰後不久被擄獲而處死,豐臣家正式滅亡,是為大阪夏之陣。 晚年 家康實行一國一城令和武家諸法度等政策,維持國家穩定。元和二年(1616年)1月,在一次出外獵鷹時突然腹痛倒下,從此臥病不起。3月21日獲朝廷贈獲太政大臣一職。4月17日,於駿府城病逝,年七十五歲,法名東照大權現,法號安國院。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B7%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
斯波義銀 Shiba Yoshikane(1540年-1600年) 斯波義統的長子;幼名岩龍丸,忌諱尾張守護的斯波氏而改姓津川氏,名為津川義近,入道法號三松軒。 父親義統雖然是尾張守護,但是沒有實權,而是支配著尾張下四郡的守護代織田信友的傀儡,但是在天文二十三年(1554年)當義銀率領部下前去狩獵之際,義統被信友和信友的家臣.尾張小守護代阪井大膳殺害。知道此事的義銀馬上命令織田信長討伐信友。但是隨著尾張守護代信友被消滅,比起信友更加利用斯波家為傀儡的信長得勢。 此後義銀受到信長的庇護,一時間信長為了轉移內部和外間的視線而定下計劃,奉義銀為守護來企圖與三河國的吉良氏、駿河國的今川氏等、以及守護足利氏一門的同士立下盟約等,義銀以信長的傀儡身份而繼續被利用著。 締結這個同盟時,義銀與吉良氏的吉良義昭會談,但是雙方都以自己是足利一門最高的身份而爭奪席次。根據『信長公記』記載,為了締結同盟,斯波・吉良兩家的軍勢到達約定的地點上野原,雙方以一町之隔的距離設置了很多人戒備。現場的一方是吉良義昭,另一方是義銀,彼此都在陣前設置床幾,但是兩人一步都沒有動過。事實上為了爭取面談的席次而發生爭執,因為雙方互不相讓,面談只是互相在十步的距離前見面,連見面禮都沒有就完結了。 但是,當初與吉良氏爭奪席次的義銀為了搶回斯波氏的權勢而與吉良氏計劃將信長趕走,義銀與在尾張建立御座所的斯波氏一門石橋氏、吉良義昭、今川義元、河內的服部友貞串通,把今川氏的軍勢從海上引入尾張。但是此事被信長知道,結果義銀被趕出尾張,大名斯波武衛家自此滅亡。後來信長上洛後,武衛家的京屋敷就用作為將軍足利義昭的居城。 後來在河內國的町山高政保護下,洗禮信奉基督教。之後與信長和解,此際改名為津川義近。其中一個女兒嫁給信長的弟弟織田信包的長男,深化與織田家的關係,在織田政權下受到織田家親族中貴族的待遇。 在本能寺之變之後,因為弟弟津川義冬是信長兒子織田信雄的家老,於是向他投靠,義冬被信雄殺害後,在小牧、長久手之戰中守在義冬的居城松島城,降於豐臣秀吉並成為秀吉的家臣。 在秀吉政權下與足利義昭和山名豐國一同成為御伽眾,當初在外交方面活躍,為處班東北的斯波家(大崎氏、最上氏等)當主和伊達政宗等大名折衝。但是在小田原之役後,他希望赦免後北條氏的北條氏直而惹怒了秀吉並失勢。後來被赦免,但沒有回復原有的政治影響力。天正十七年(1589年)3月,與細川信良和尾藤知信一同被捲入在聚樂第發生的塗污書物事件而一時間被捕縛。慶長五年(1600年)逝世,年61歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%96%AF%E6%B3%A2%E7%BE%A9%E9%8A%80
早川殿 Hayakawa Dono(生年不詳-1613年) 北条氏康の長女、北条氏政の異母姉とするのが通説であるが、出生年や生母を確定できる史料はない。氏康の正室瑞渓院(今川氏親の娘)の娘とする見解もあり、この場合氏真とはいとこ婚であったことになる。 氏政の姉とする説は、出生順に子を示している『寛政重修諸家譜』や『小田原編年録』所収系図において、早川殿が氏政よりも先に掲げられていることから来ている。また、江戸時代初期に成立した『校訂松平記』にも「氏真の御前は氏政の姉にて御座候」と記されている。 一方、氏政の妹とする推測もある。氏政は天文7年(1538年)生まれで氏真と同年であるが、早川殿が氏真より年上とすれば30代半ばから4人の子を産むという高齢出産になるためである。 氏康の正室瑞渓院(今川氏親の娘)は、従来天文6年(1537年)嫁入とされてきたため、早川殿を氏政の姉と見る場合は側室の所生ということになる。しかし、瑞渓院の嫁入は天文4年(1535年)が妥当とする見解もあり、この見解に立てば氏政の姉である早川殿が瑞渓院所生(氏政の同母姉)であることも成り立つ。 後北条氏と駿河の今川氏はもともと後北条氏の始祖である伊勢盛時(北条早雲)の姉北川殿が今川義忠の正室であり、義忠と北川殿の子今川氏親を盛時が家臣として補佐していたことから同盟関係(駿相同盟)にあったが、天文6年(1537年)に氏親の子今川義元が北条氏と敵対関係にあった甲斐の武田氏と駿甲同盟を結んだことから敵対関係に入り、富士川以東をめぐる争奪戦が約10年にわたり繰り広げられていた(河東の乱)。武田・北条・今川氏の間で甲相駿三国同盟が結ばれると、早川殿はその婚姻政策の一環として天文23年(1554年)7月に今川義元の嫡子氏真(17歳)の許に嫁いだ。甲斐で記された『妙法寺記』には、輿入の行列の見事さが伝聞として記されている。伊豆と駿河の国境を流れる境川に架けられた農業用水の千貫樋は、北条氏康からの聟引出物として建設されたという伝承もある。 年次は不明ながら、早川殿は駿河時代に長女(吉良義定室)を儲けたと思われる。 永禄11年(1568年)12月、甲斐国の武田信玄が駿河侵攻を行うと、氏真とともに遠江国掛川城へ逃れた。この逃避行の際、武田氏は早川殿の保護を怠ったために、早川殿が徒歩で逃げる羽目になった。このことに父の北条氏康は激怒し、武田との同盟を破棄して長年の宿敵だった上杉謙信との同盟に切り替え(越相同盟)、今川氏を支援するために駿河に出兵した。 翌年、掛川城の開城により、氏真・早川殿と長女らは伊豆国(当時)戸倉城に移った。ついで実父を頼って氏真らとともに小田原の早川へ移っており、「早川殿」の称はここから来ていると推測される。元亀元年(1570年)、長男今川範以を生む。氏真が33歳で得た嫡男である。 元亀2年(1571年)10月、父氏康が死去し、甲相同盟の復活によって氏真の駿河帰国が頓挫すると、12月に氏真とともに小田原を出奔し、浜松の徳川家康を頼った。『校訂松平記』には、北条氏政が武田信玄と結んだ際、信玄が氏真を討つべく人数を小田原に送り込んだが、これを知った早川殿が大いに腹を立て、小田原に在住していた譜代の者を集めて船を仕立て、氏真とともに白昼に小田原を退去した、との記述がある。 氏真が家康の庇護下に入ったのち、夫とともに浜松周辺で暮らしていたと思われる。天正4年(1576年)、次男品川高久を儲けた。さらに三男西尾安信、天正7年(1579年)には四男澄存を産んでいる。早川殿の動向を史料から直接うかがうことはできないが、夫と行動をともにしたとするならば天正18年(1590年)頃に京都に移り、慶長12年(1607年)11月には長男範以に先立たれる。慶長17年(1612年)には京都を離れ、江戸品川に移る。次男高久はすでに徳川秀忠に出仕していた。 慶長18年(1613年)2月15日、氏真に先立って江戸で死去した。法名・蔵春院殿天安理性。甲相駿三国同盟で成立した三組の夫婦のうち、離別を経なかったのは氏真夫妻のみである。 早川殿の死に際し、末子澄存は高野山高室院で日牌供養をおこなった。25回忌の折に澄存によって造立された墓が、高家今川氏の所領であった観泉寺(現・東京都杉並区今川二丁目)に現存している。 また、元和4年(1618年)著賛のある、氏真夫妻の肖像画が現存している(米国の個人蔵)。夫妻の没後まもなく遺族により追慕のために制作されたものとみられる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A9%E5%B7%9D%E6%AE%BF

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