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一萬田鑑實 Ichimada Akizane(生年不詳-1588年) 豐後大友氏的家臣,一萬田氏當主。小牟禮城、鳥屋山城城主。兵部大輔。美濃守。 父親是一萬田親實(鑑相),叔叔有高橋鑑種、宗像鑑久。弟弟有鑑景、鑑通、鎮之。有兩子鎮實和統賢。將一萬田家督讓與嫡男鎮實後,繼承鳥鼻城主橋爪鑑種,並改名橋爪鑑述。法名宗慶。 最初仕奉大友義鑑,和父親一同獲賜偏諱並改名鑑實(父親改名鑑相)。義鑑死後仕奉其子大友義鎮(大友宗麟),但義鎮卻於天文二十二年(1553年)以謀反的嫌疑將父親鑑相及叔父宗像鑑久誅殺,事件發生後鑑實繼承家督,並未怨恨大友宗麟而仍繼續仕奉大友家。天文十九年(1550年)討伐菊池義武、弘治三年(1557年)討伐秋月文種中皆有獲得軍功(此時繼承橋爪氏)。永祿十一年(1568年)叔父高橋鑑種謀反,鑑實並未跟隨而是站在宗麟方討伐鑑種。 永祿十二年(1569年)在與毛利氏的多多良濱之戰和嫡男一萬田鎮實及朽網鑑康一同擊退乃美宗勝和桂元重。天正六年(1578年)耳川之戰擔任殿軍,因軍功任加判眾而得以活躍在大友宗麟的身旁。自天正十四年(1586年)開始和島津氏一連串的戰爭(豐薩合戰),許多大友氏武將包含一萬田氏一族在內紛紛投靠島津氏,鑑實仍留在大友氏並立下不少軍功。 但是在天正十六年(1588年)突然被大友義統(大友宗麟之子)命令自盡。因為在先前的戰爭中家族有人謀反(族人一萬田紹傳投靠島津氏),鑑實受到牽連而被迫自盡。 註:其子鎮實也被迫自盡。鑑實的另一個兒子宗賢在大友家改易之後,曾經跟著黑田長政出征,之後做為肥後細川藩藩士延續到幕末。 作者 秋霜烈日 譯文出處 https://sepkalily41.blogspot.com/2018/07/blog-post_24.html 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%90%AC%E7%94%B0%E9%91%91%E5%AE%9F
上野隆德 Ueno Takanori(生年不詳-1575年) 上野高直之子,上野高秀之父。正室為三村家親之女鶴姬。常山城主。又稱上野高德。 隆德出自上野家旁系。天文二十三年(1554年),隆德與三村家親之女鶴姬成親。隆德自此作為三村氏家臣活動。 天正二年(1574年),三村元親對毛利家與宇喜多家聯合一事深感不滿,最終決定起兵對抗毛利,招致小早川隆景大軍討伐,史稱備中兵亂(詳見三村元親條目)。隆德積極響應主君,與毛利氏作戰。天正三年(1575年)6月2日,備中松山城陷落,三村元親自殺身亡。隆德之常山城成為三村方最後一城,然而6月4日也遭乃美宗勝軍六千餘人圍困。 數日後,上野方防線崩潰,乃美宗勝率軍展開總攻,隆德自覺取勝無望,決定將家人殺害後自盡。此時其妻鶴姬突然提出「一名敵軍都沒殺死,就這麼白白死去,豈不可惜?」便披甲提刀,帶領侍女三十餘殺了出去。然而不多久其女軍即被屠戮殆盡,鶴姬提出要與乃美宗勝進行一騎討,乃美宗勝以「女子不要舞槍弄刀」拒絕。鶴姬絕望之下逃回本丸自殺。隆德目睹其妻自盡後切腹自殺。6月7日,常山城落城。 現常山城跡(岡山縣岡山市與玉野市交界處)有據傳是當年隆德切腹之處的「腹切岩」。 作者 江蛤蟆 出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=9#postid-241
乃美宗勝 Nomi Munekatsu(1527年-1592年) 乃美賢勝之子、正室為末長景盛之女、後室為仁保隆慰之女;通稱兵部丞,別名萬菊丸、新四郎、助四郎、浦宗勝,戒名宗勝寺殿天與勝運大居士。 因父親賢勝曾經作為浦家之養子,故又稱為浦宗勝,為沼田小早川氏之庶流出身。天文十三年(1544年),毛利元就之三男小早川隆景繼承小早川家之後,宗勝向隆景宣示效忠,其才幹獲得隆景之讚賞,擔任小早川水軍的主力武將,加入毛利家旗下,活躍於瀨戶內海及西國、九州各戰場。 天文二十年(1551年),西國第一大名大內義隆遭到家臣陶隆房(陶晴賢)叛變,於「大寧寺之變」遇害,毛利元就按部就班準備妥當後,決心舉兵與陶晴賢作戰。元就鑑於海上武力優劣為勝敗之關鍵,命宗勝利用其與能島村上水軍頭領村上武吉之血緣關係,出面說服武吉協助,宗勝以「只要借用一天的軍船而已」作為台詞,說服村上水軍的加盟,讓毛利軍得以在「嚴島會戰」時掌握制海權,圍困陶晴賢,迫使陶晴賢自殺,取得勝利。 宗勝率領水軍隨同毛利元就、小早川隆景攻佔大內家領土周防、長門,在隆景麾下,與九州霸主大友宗麟之勢力對決。永祿四年(1561年),於「門司城攻防戰」當中,在大友軍的陣前強行登陸,在兩軍將士面前,與大友軍的武將伊美彈正進行「一對一單挑」,宗勝雖然負傷,但將敵將擊斃,使得毛利軍士氣大振,大友軍因無法取勝而退兵。 永祿十二年(1569年)宗勝嗣後又參加「立花城攻防戰」,表現傑出,毛利元就特命宗勝擔任立花城的城主,負責鎮守立花城,擔當毛利軍在北九州的最前線重任。但宗麟利用大內輝弘在背後起事,毛利家腹背受敵,元就命吉川元春及小早川隆景率領的毛利大軍返回平亂,宗勝的留守兵力不過數百人,遭到大友家名將戶次鑑連(立花道雪)的包圍,宗勝與道雪談判,最後同意開城投降,宗勝雖然無法守住立花城,卻也以堂堂正正的姿態撤退回到安藝,道雪亦信守諾言並未追擊,傳為佳話。 宗勝繼續追隨小早川隆景轉戰山陽地區,於天正三年(1575年)備中常山城戰役中,敵軍的城主上野隆德之妻鶴姬(三村元親之妹)率領侍女三十多人,全副武裝殺出,在戰場上蔚為奇觀,使得毛利軍陣式大亂,宗勝趨前對應,鶴姬指明要求與宗勝單挑,宗勝雖欽佩鶴姬之武勇,但以無法與女流之輩交戰為由拒絕,但其誠懇態度,亦讓鶴姬折服,乃將「國平太刀」之傳家寶刀贈予給宗勝後,返回城內自殺,讓宗勝感慨不已。 嗣後,因毛利輝元與石山本願寺顯如合作對抗織田信長,毛利家與織田家對立,天正四年(1576年)宗勝率領毛利水軍於「第一次木津川之戰」痛擊九鬼嘉隆的織田水軍,但嘉隆受信長之命,打造鐵甲船,天正六年(1578年)於「第二次木津川之戰」擊破毛利水軍,宗勝在水戰上首次落敗,但實在是因為裝備不及所致。宗勝亦曾於羽柴秀吉(豐臣秀吉)進攻別所長治的三木城之戰中,擔任援軍完成輸送糧草任務。 秀吉統一天下後,文祿元年(1592年)宗勝曾以水軍將領身份參與攻打朝鮮的「文祿之役」,但因水土不服而病倒,不久就去世,年66歲。若論宗勝之功,其率領的水軍勢力,可以說是毛利家稱霸西國及瀨戶內海的最重要憑藉。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401613
乃美隆興 Nomi Takaoki(1513年—1598年) 小早川氏の重臣。茶臼山城主。妹、もしくは娘が毛利元就の継室・乃美大方。 沼田小早川氏当主・小早川敬平の弟小早川是景を祖とする小早川庶流・小早川弘平の子として誕生。隆興の代になって領地としていた乃美郷(現・広島県東広島市)の地名を取って、乃美氏を称した。はじめ公平と名乗るが、大内義隆から一字を賜るなどして、隆興と改めた。乃美宗勝は従弟(宗勝の父・賢勝は同じ小早川庶流の浦家に養子に入ったが、元は隆興の父・弘平の弟である)。 天文12年(1543年)、尼子方に転じた備後国神辺城主山名理興が、小早川領へ侵攻した際には高山城を守備し、毛利元就と協力して山名軍を撃退。沼田小早川家と竹原小早川家との統合にも尽力し、小早川隆景擁立の実現に際しては元就から今後も粗略にしないという誓約を得る。慶長3年(1598年)、86歳で没した。 元就の継室に血族を嫁がせていることでもわかる通り、かなり早い時期から毛利氏との関係が深かった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E7%BE%8E%E9%9A%86%E8%88%88
三百八十五位人物:石卷康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、淺野長政、淺野長晟、淺利則祐、淺利賴平、前波吉繼、相良晴廣、增田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義實、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西賴晴、大西賴武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大內義長、大掾貞國、瀧川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹內久盛、築紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、豬去詮義、豬苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長續連、上杉景信、長尾當長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛實、島津義虎、島津歲久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、德田重清、那須資晴、內藤清成、內藤隆春、鍋島勝茂、南條元續、南條廣繼、南條宗勝、南條隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寢重張、禰寢重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗實、畠山義綱、畠山義續、八戶政榮、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連龍、富田景政、富田重政、武田義信、武鎗重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡賴勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高繼、芳賀高定、蜂屋賴隆、蜂須賀家政、豐島重村、北楯利長、北條高廣、北條氏勝、北條氏照、北條氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀滿、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川廣家、毛利勝永、木下秀秋、木曾義康、木村重成、木脇祐守、問註所統景、問田隆盛、矢作重常、矢澤賴綱、藥丸兼將、柳生宗矩、有馬晴信、遊佐信教、遊佐盛光、遊佐續光、里見義賴、里見忠義、立原久綱、立石正賀、留守顯宗、留守政景、龍造寺家就、龍造寺信周、龍造寺政家、龍造寺長信、鈴木重兼、鈴木重則、鈴木重朝、浪岡顯村、六角義治、垪和康忠、簗田晴助、簗田詮泰、蘆田信蕃、蠣崎慶廣、蠣崎守廣、蠣崎盛廣、龍造寺家晴、富田氏實、佐藤好信、三好長治、小幡信貞、大田原綱清、仙石秀久、稻富祐秀、支倉常長、秋山虎繁、原虎胤、織田信秀、船尾昭直、澀江政光、酒井政辰、安藤良整、長尾種常、志馱義秀、平林正恒、神保氏張、瀧野吉政、蜷川親長、井戶良弘、箸尾高春、宇喜多詮家、中島元行、豐永勝元、長壽院盛淳、橫山喜內、向井正綱、北條早雲、太田資長、尼子經久、長尾為景、淺井亮政、大友義鑑、龍造寺家兼、宮本武藏、佐佐木小次郎、二階堂盛義、梶原景宗、福留親政、小牧道家、南光坊天海、森成利、簗田政綱、毛利良勝、最上義忠、森忠政、木村定光、以心崇伝、林信勝、秋月元種、井田親之、服部康成、浪岡慶好、遠藤盛胤、川島宗泰、保土原行藤、小田邊勝成、黑澤道家、梅津憲忠、岡本宣綱、須田盛久、長尾景廣、大道寺直次、中山照守、塙安友、前田利政、生駒一正、上田重安、桑山重晴、關盛吉、田丸直昌、小笠原秀政、木曾義利、千村良重、宮部長房、新庄直賴、新庄直忠、小川祐忠、京極高知、松井康之、筒井定慶、松倉重政、南條元忠、南條元清、石野氏滿、有馬則賴、有馬豐氏、赤松則英、赤松廣秀、福原長堯、長船定行、毛利元康、毛利秀包、宍戶元續、福原廣俊、仁木義治、吉田政重、佐竹親直、秋月種長、種子島久時、赤座吉家、足立重信、石田重家、太田一吉、大谷吉治、大野治房、大野治胤、奧村永福、金森可重、上泉泰綱、郡宗保、小西行景、高橋統增、德川家光、速水守久、福島高晴、前田利常、水野勝成、脇坂安元、村井長賴、由布惟信、小野鎮幸、飯田直景、柳生宗章、柳生三嚴、赤池長任、和久宗是、東鄉重位、安井成安、山田長政、天草時貞、伊東祐益、三浦按針、猿飛佐助、霧隱才藏、穴山小助、海野六郎、望月六郎、筧十藏、根津甚八、由利鎌之助、三好清海、三好伊三、加藤段藏、蠣崎基廣、下國師季、雫石詮貞、大崎義宣、相馬顯胤、蘆名盛舜、二本松義國、二階堂輝行、留守景宗、懸田俊宗、安東堯季、安東舜季、淺利則賴、天童賴長、天童賴貞、鮭延貞綱、結城政朝、佐野豐綱、那須高資、宇都宮尚綱、真里谷信應、長尾憲長、上杉朝定、太田資顯、藤田康邦、松平廣忠、平手政秀、遠山友忠、木造俊茂、小山田信有、板垣信方、甘利虎泰、橫田高松、高遠賴繼、小笠原長時、小笠原貞種、三木直賴、長尾晴景、長尾房長、椎名長常、神保覺廣、溫井續宗、堀江景忠、朝倉孝景、六角定賴、進藤貞治、朽木稙綱、粟屋勝久、武田義統、本願寺証如、願証寺蓮淳、波多野稙通、內藤國貞、細川持隆、細川氏綱、香川元景、香西元成
三百位人物:三好清海、三好伊三、肝付良兼、由利鎌之助、肝付兼亮、肝付兼護、穴山小助、島津豊久、伊集院忠倉、筧十蔵、根津甚八、海野六郎、望月六郎、山浦国清、高梨政頼、屋代政国、屋代勝永、須田満親、須田長義、蘆田信蕃、小笠原長時、小笠原秀政、犬甘政徳、犬甘久知、二木重吉、溝口貞泰、木曾義利、諏訪頼忠、保科正俊、三木顕綱、三木国綱、長尾晴景、上杉景信、色部勝長、色部顕長、色部長実、河田長親、北条景広、本庄慶秀、安田能元、甘粕景継、鬼小島弥太郎、水原親憲
三百六十位人物:松倉重信、松平信康、松平忠輝、松平忠吉、松野重元、沼田顕泰、沼田祐光、上村頼興、上田憲定、城井長房、城井鎮房、城親基、城親冬、植田光次、織田信光、織田信澄、織田信包、色部顕長、色部長実、新井田隆景、新関久正、新発田綱貞、新発田重家、森岡信元、森下通与、森好之、森長可、森田浄雲、真柄直隆、神戸具盛、神保長城、神保長職、仁保隆慰、壬生義雄、壬生綱房、壬生綱雄、須田長義、須田満親、水越勝重、水谷胤重、水谷正村、杉原盛重、菅沼定盈、菅谷政貞、成松信勝、成沢光氏、正木憲時、生駒親正、西園寺公広、青景隆著、石巻康敬、石川家成、南部利直、赤穴盛清、赤松政秀、赤尾清綱、跡部勝資、千葉重胤、千葉邦胤、川上久朗、川上忠克、川村重吉、浅野長政、浅野長晟、浅利則祐、浅利頼平、前波吉継、相良晴広、増田長盛、足利義氏、太田康資、太田氏資、太田重正、大浦為則、大館義実、大久保忠佐、大久保忠世、大久保長安、大崎義隆、大西頼晴、大西頼武、大道寺政繁、大友義統、大友親家、大内義長、大掾貞国、滝川雄利、谷忠澄、丹羽長重、淡河定範、池田恒興、池田勝正、池田長正、竹内久盛、筑紫惟門、中川清秀、中村一氏、中野宗時、猪去詮義、猪苗代盛胤、朝倉景鏡、長宗我部盛親、長船綱直、長船貞親、長倉祐政、長続連、上杉景信、長尾当長、長野藤定、長野稙藤、長連龍、鳥居元忠、津田重久、天野景貫、田結庄是義、田中吉政、土屋昌恒、土居清宗、土橋守重、島村盛実、島津義虎、島津歳久、島津忠直、藤田信吉、藤方朝成、徳田重清、那須資晴、内藤清成、内藤隆春、鍋島勝茂、南条元続、南条広継、南条宗勝、南条隆信、南部季賢、南方就正、蘆名盛隆、二木重吉、尼子義久、日根野弘就、禰寝重張、禰寝重長、乃美宗勝、波多野秀治、波多野晴通、梅津政景、柏山明吉、柏山明久、白石宗実、畠山義綱、畠山義続、八戸政栄、塙直政、塙直之、板倉勝重、飯尾連竜、富田景政、富田重政、武田義信、武鑓重信、服部友貞、福原貞俊、福留儀重、平岡直房、平岡頼勝、平賀元相、平田光宗、片倉重長、保科正俊、母里友信、芳賀高継、芳賀高定、蜂屋頼隆、蜂須賀家政、豊島重村、北楯利長、北条高広、北条氏勝、北条氏照、北条氏房、北信愛、牧野康成、堀秀治、本山茂宗、本多重次、本多忠政、本多忠朝、本堂忠親、明石全登、明智秀満、毛屋武久、毛利秀元、吉川元長、吉川広家
吉弘鎮信 Yoshihiro Shigenobu(生年不詳-1578年) 豊後国の戦国大名大友氏の家臣・吉弘鑑理の嫡男として誕生。弟に高橋紹運がいる。主君・大友義鎮(宗麟)から偏諱を賜り、鎮信と名乗る。 父と同様に大友氏に仕え、永禄4年(1561年)には、主君・義鎮の命で15000を率いて、毛利氏から豊前門司城を奪回するために大将として進軍した(なおその際、ポルトガル船に大筒での砲撃も依頼している)。しかし、毛利方の村上水軍らの援軍に加え、毛利方の乃美宗勝が一騎打ちにて大友方の伊美弾正を討ち取ったことで敵味方の士気が逆転したため、門司城奪還は不可能と引き際を判断した鎮信は、同年11月にはすみやかに総退却した。 永禄5年(1562年)、毛利元就の調略に乗った肥前国の龍造寺隆信が大友方の城を圧迫。同じくして、大友家臣の高橋鑑種(屋山城、宝満城)が立花鑑載(立花山城)と謀って挙兵し、毛利氏の援軍4万も立花山城を目指した。これに対し大友氏は、多伏口の戦いに勝利し龍造寺氏と和睦を急ぎ、出雲では尼子残党決起を促す。周防では、大内氏一門の生き残り大内輝弘を帰国させて挙兵させた上、ほぼ全軍を博多にて集結させた。この時、鎮信率いる隊は2~3000人。立花表布陣の毛利軍の背後に回り毛利の兵站線を叩き、毛利兵の死体は3500ほどにのぼったとされる。鎮信直属部隊の活躍は特に凄まじく、直属部隊のみで毛利兵百数十人を討ち取り、宗麟の賞賛を受けている。また、毛利軍の殿を守ったのは毛利軍きっての猛将・吉川元春であった事からも、その凄まじさがうかがえる。 元亀2年(1571年)、父・鑑理の死去により家督を継ぎ、筑前立花城督として、博多・堺の商人との交渉などで活躍した(ただし、あくまでも吉弘氏の本城は豊後本国にある屋山城や筧城であり、立花山に拠っていたのは大友家の城督としてである)。その後、大友宗隣が数々の苦言により邪魔になった立花道雪を筑前立花城督に任命して遠ざけ、代わりに鎮信を帰国させ側近とした。以後は宗麟の側近を務め、奉行として活躍した。また、武勇に優れ、多々良浜の戦いや九州における毛利氏との戦いで数々の功績をあげた。 天正6年(1578年)、薩摩国の島津氏との耳川の戦いに従軍。大友宗隣が任命した総大将・田原紹忍は、実戦経験が乏しく諸将を統率する力量に欠けたため、方針がまとまらないばかりか強行派と慎重派が対立するなど足並みが揃わなかった。『戸次軍談(戸次軍記)』によれば、耳川の戦いの前哨戦ともいえる高城攻撃が開始されて、両軍の主力が小丸川、切原川挟み備えた時、斉藤鎮実と吉弘鎮信は務志賀の宗麟に旗本らと共に前線への出陣を促したが、宗麟は「田原紹忍の思意に従うべし」として動こうとはしなかった。この返事に鎮信らは怒り、「本陣の後楯なくば集結した国衆共は一時ともたず敗走すべし。粉骨砕いて我々は先を駆くるも後ろ守る勢なくして雑兵の気撓を万事如何にすべきか」と悔やんでいる。 軍議では角隈石宗と共に、様子を見ながら進退を決めるという立場を取り、一旦はそれでまとまったが、この決定に不満のあった強行派の田北鎮周が軍令を無視し、勝手に耳川を渡河し島津勢への攻撃を開始した。これを見た佐伯宗天は松山之陣より東へ迂回谷へ下り切原川へ至り渡河、島津の先陣を襲った。そのため吉弘隊もこれに巻き込まれる形で戦闘に加わらざるを得ない状況となった。 当初は、斉藤隊、吉弘隊、角隈隊、臼杵隊らを擁する大友軍が有利に戦いを進めたが、全体としての意思統一がなく統制が取れていなかったため、島津陣へ深追いするものがあとを立たなかった。そこへ島津の野伏せ兵が横腹から一斉に鉄砲を浴びせたため、大友軍の大半はたちまちち大混乱に陥った。総大将の紹忍は退却を命ずるが、すでに連絡網を断たれ各隊がバラバラとなっていた大友勢は総崩れとなった。吉弘隊や角隈隊は個別に奮戦するが、戦局はくつがえせず鎮信は戦死した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%BC%98%E9%8E%AE%E4%BF%A1
小早川隆景 Kobayakawa Takakage(1533年-1597年) 毛利元就的三子,母為吉川國經之女.妙玖、養父小早川興景、正室為小早川正平之女.問田の大方;幼名德壽丸,通稱築前宰相,別名又四郎,受大內義隆偏諱「隆」字,名為隆景,毛利隆元及吉川元春之同母弟。 天文十年(1541年),安藝國國人眾竹原小早川氏的當主.小早川興景在沒有子嗣的情況下去世,於是小早川家的重臣請求父親元就將隆景過繼竹原小早川家,在大內義隆的勸說之下元就答應過繼的請求,同時獲大內義隆偏諱「隆」字,名為隆景。由於小早川興景的妻子為元就的姪女,因此隆景在毫無障礙的情況下和平過繼竹原小早川家。天文十三年(1544年),隆景正式成為竹原小早川家的家督。 另一方面,小早川氏本家沼田小早川家的新任家督.小早川繁平年幼且體弱多病,加上雙目失明,因此部分家臣非常質疑繁平的能力。因此,沼田小早川家的家臣分為繁平派及隆景派。天文十九年(1550年),大內義隆及父親元就合謀,支持以乃美宗勝為中心的隆景擁立派,先將被懷疑與尼子氏通敵的繁平拘禁,再逼其隱居及出家,然後讓隆景迎娶繁平之妹(問田の大方),以女婿的名義入嗣沼田小早川家,繼承沼田小早川家的家督之位,統合小早川氏。 自此,小早川家被編入毛利家一門,成為毛利家直轄的精良水軍。隆景率領的小早川水軍在弘治元年(1555年)的嚴島之戰中,擊敗陶晴賢率領的大內水軍並將其封鎖在海上。同時,隆景派出乃美宗勝說服村上水軍加盟毛利軍,為毛利家的勝利作出巨大的貢獻。其後,弘治三年(1557年),隆景參與周防國及長門國的攻略,討伐大內家。 同年,父親元就隱居,隆景的長兄.毛利隆元繼任毛利家家督。隆景與兄長吉川元春繼續支持毛利本家的發展。永祿六年(1563年),隆元急病去世,由隆元的長子.毛利輝元繼位。隆景與元春扶助年幼的輝元。相對活躍於軍事攻略的元春,隆景活用水軍的情報力,主要擔當家中的政務及外交事務。隆景其後先在永祿五年(1562年)至永祿九年(1566年)的月山富田城攻略中消滅尼子氏,然後在永祿十年(1567年),為協助河野氏出兵伊予國,攻擊大洲城並勸降宇都宮豐綱。不久,為與大友氏抗衡而向九州出兵。元龜二年(1571年),父親元就去世,隆景與元春成為毛利家的兩大支柱,繼續與尼子氏、大內氏的餘黨及大友氏戰鬥。 步入天正二年(1574年),織田信長的勢力的擴張逐漸對毛利氏的勢力產生不良的影響。同年,播磨國的浦上宗景接受信長的支援,與毛利家開戰。天正三年(1575年),三村元親與織田家通敵,背叛毛利家,隆景遂討伐三村家,但同時,豐後國的大友宗麟又與信長聯絡,從後攻擊毛利家的領土,隆景又率領水軍與大友軍戰鬥。 天正四年(1576年),由於受到幕府將軍足利義昭的誘說,毛利家正式與織田家絕交,吉川元春及隆景分別從山陰、山陽二道攻擊織田家。在第一次木津川口之戰中,以小早川水軍及村上水軍為主力軍的毛利水軍擊敗織田家的九鬼嘉隆所領的九鬼水軍,救援作為信長包圍網的核心勢力的石山本願寺。不過,在兩年後天正六年(1578年)的第二次木津川口之戰中,毛利水軍敗給配備鐵甲船的九鬼水軍,失去海上的統治權。同年,作為信長包圍網的主力軍之一的上杉謙信急病去世,令石山本願寺在天正八年(1580年)不得不與信長議和,信長包圍網於是崩潰。 另一方面,織田家的山陽道攻略的司令官.羽柴秀吉(豐臣秀吉)運用軟硬兼施的手段,處處壓制毛利家。天正七年(1579年),備前國大名的宇喜多直家背叛毛利家、投靠織田家。翌年,投靠毛利家的別所長治隨著三木城的陷落而自殺。其後的天正九年(1581年),因幡鳥取城被織田家攻陷,城主吉川經家自殺。 天正十年(1582年),清水宗治駐守的備中高松城受到秀吉的圍攻。隆景及毛利輝元、吉川元春率領毛利家的三萬名主力軍前去救援。正當隆景、輝元及元春與秀吉的三萬將士抗衡著,剛剛消滅武田家的信長亦準備帶領為數三萬的軍隊支援秀吉。隆景預想到,當信長的援軍來到的時候,毛利家的勝算不大,於是隆景派遣安國寺惠瓊秘密與秀吉議和。同年6月,由於本能寺之變,信長去世。秀吉為討伐明智光秀,爽快地與毛利家議和,趕到近畿地方。 不過,隆景的兄長及姪子.吉川元春及吉川元長則主張追擊秀吉,然而隆景認為『誓紙上的墨跡尚未乾涸就追擊對方屬於不義之舉,趁著信長之死去追擊則是不祥之舉』,阻止元春及元長父子追擊秀吉。另外,當時備中高松城的堤道崩塌,兩軍之間湧出大量泥沼,令追擊之舉變得不可能。 毛利家在天正十一年(1583年)的賤岳之戰中保持中立,是次戰事中羽柴秀吉擊敗柴田勝家,隆景將養子小早川秀包(毛利秀包)送予秀吉處作為人質,毛利家遂能從屬秀吉。 其後,隆景積極協助秀吉。在天正十三年(1585年)的四國攻略中,立下擊敗伊予國的金子元宅的戰功。秀吉在戰後論功封賞伊予三十五萬石的領土給隆景,並分封宇和郡大津城三萬五千石領土給毛利秀包。 天正十四年(1586年),隆景參與秀吉的九州攻略。戰後,隆景從秀吉處受封築前國、後國、肥前一郡共三十七萬一千三百石的領土。不過,兄長吉川元春及姪子吉川元長在是次九州攻略病死於軍中,隆景以一人之力輔佐毛利輝元。天正十六年(1588年),隆景從秀吉處獲封『羽柴』之姓。天正十八年(1590年),隆景參戰秀吉的小田原之役,討伐北條氏。 文祿元年(1592年),朝鮮文祿之役開始,隆景作為第六隊的主將,動員一萬人攻擊全羅道,然而遭到反擊。隆景為應付前來支援的明軍,將軍事配置到京畿道。文祿二年(1593年)於碧蹄館之戰與毛利秀包、立花宗茂聯手擊退明軍。 文祿三年(1594年),從豐臣氏迎接羽柴秀俊(小早川秀秋)為養子。翌年的文祿四年(1595年)隆景隱居,讓出小早川家的家督之位。此時,隆景仍然從秀吉處獲封築前國5萬石領土。 慶長二年(1597年),隆景於三原城病逝,年六十五歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%97%A9%E5%B7%9D%E9%9A%86%E6%99%AF
本願寺顯如 Honganji Kennyo(1543年-1592年) 本願寺証如的長子、母為庭田重親之女.顯能尼、妻為三條公賴之女.如春尼;幼名茶茶、法名顯如、諱光佐,院號信樂院。 本願寺教派,係由親鸞上人所創建的淨土真宗的總本山,因其法門修行容易,且允許娶妻葷食,易為武將、商人、百姓所接受,教團之勢力發展迅速;本願寺總寺設於經濟、軍事要衝之大阪石山,因本願寺派與一向宗門徒關係密切,具有驅使各地一向宗門徒的影響力,且從將軍管領細川晴元攻打石山失利以後,本願寺派的軍力讓人印象深刻及恐懼,故有許多諸侯大名、公卿等紛紛與本願寺派維持良好關係。 顯如之妻為左大臣三條公賴之女,而武田信玄之妻亦為三條公賴之女,兩人具有姻親關係,經常互相協助及利用彼此的實力。顯如可資動員之武力足以與任何戰國大名相匹敵,可謂戰國時代最強大的宗教武裝力量。 顯如原本係與三好三人眾交好而擁護足利義榮的一派,但織田信長擁護足利義昭上京,以軍事實力掌握近畿地區實權,信長向本願寺要求捐款重建將軍所用的京都二條御所並退出石山,本願寺內部多有持反對之強硬意見者,顯如不願立刻與信長反目,乃捐獻五千貫作為資金,但並未從石山退去。隨著朝倉義景、淺井長政與信長展開激戰,將軍義昭與信長之關係也開始勢如水火,顯如感到時機成熟,趁信長進剿三好三人眾之際,顯如向所有門徒宣告:「信長乃佛敵」!石山本願寺的鐘聲自此敲響,結合各地一向宗勢力與信長對抗,顯如並與義昭聯繫,要求武田信玄上京,成立「第一次信長包圍網」,信玄組成三萬大軍西上,在「三方原會戰」擊敗信長的盟友德川家康,但信玄病逝,顯如立刻與信長談判休戰,義昭卻渾然未覺,繼續作戰,最後遭到放逐,義景、長政等人亦遭到信長擊敗而亡。 不久,越前發生一向一揆峰起的事件,顯如乃派遣七里賴周、下間賴照等人前往主持,以石山、長島、越前三處為犄角再次舉兵對抗織田信長,但遭到織田軍分別擊破,長島、越前都遭到信長殲滅,武田信玄之子武田勝賴又在「長篠之戰」被信長、德川家康聯合軍擊敗,顯如再度與信長議和。 逃往西國接受毛利輝元庇護的義昭,與顯如及上杉謙信聯繫,以毛利、上杉及本願寺派為主,組成「第二次信長包圍網」,顯如決定第三次舉兵,織田信長命明智光秀為主將率軍從三方面包圍石山,但遭到本願寺派逆襲一度落敗,信長親自披甲上陣,以三千兵馬於「天王寺會戰」突破本願寺的兵力封鎖,再次構築包圍攻勢。毛利家乃派遣由乃美宗勝等人率領的水軍支援本願寺,在「第一次木津川口之戰」擊敗織田水軍,順利運補彈藥、糧草,使本願寺得以繼續與織田軍進行膠著抗戰,然而,信長命九鬼嘉隆組成鐵甲船,在「第二次木津川口之戰」擊敗毛利水軍,本願寺派陷入斷糧危機,而作為靠山的謙信也在春日山城病逝,顯如認為繼續抵抗信長並無勝算,乃透過朝廷向信長第三次提議休戰,經信長同意後,顯如從石山退去前往紀伊隱居,將門主讓給長子本願寺教如,惟教如為強硬派,堅決不退,織田軍發動總攻擊佔據石山本願寺總寺,放火連燒三天三夜才將本願寺夷為平地。 顯如與織田信長進行長達十年之久的「石山會戰」,堪稱是信長生涯最難纏的對手,但雙方居然能三戰三和,也是信長生涯唯一僅見的特例,由此可以看出顯如高明的政治手腕。顯如後來與繼承信長霸業的豐臣秀吉和解,希望在京都復興本願寺,但尚未達成目的便於文祿元年(1592年)去世。 死後,長子本願寺教如與三子准如對於應由何人繼承第十二世門主發生內部爭執,最後,於慶長七年(1602年),由德川家康捐獻土地讓教如一派獨立,成立東本願寺,准如一派則為西本願寺,本願寺就此分裂迄今,在現在的京都併存著東西本願寺。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401623-%5B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%88%B0%E5%9C%8B%E6%99%82%E4%BB%A3%5D%E6%9C%AC%E9%A1%98%E5%AF%BA%E9%A1%AF%E5%A6%82%E5%B0%8F%E5%82%B3
村上武吉 Murakami Takeyoshi(1533年-1604年) 村上義忠之子、妻為村上通康之女;受菊池武俊偏諱「武」字,名為武吉,別名能島武慶,渾名日本最大の海賊,戒名大仙寺覺甫元正。 村上氏的遠祖較有力的說法是清和源氏或村上源氏。在平安時代末期起,與伊予河野氏結盟、擴張在瀨戶內海的勢力。在南北朝,北畠顯家的親生兒子進入村上家,改名為村上師清,成為三上村上氏的祖先。但在北畠氏史料未有提及,因此這個說法未能確定。 村上師清兒子分為能島、來島及因島三個勢力,世代均與伊予河野氏關係深厚。當周防國大內氏勢力擴張到伊予後,亦成為大內氏家臣。三個勢力以能島為宗家;因島與安藝國兒玉氏及小早川氏關係親近;至於來島則與伊予河野氏接觸比較多,因此很多時候會各自獨立行動。 繼承家督 永正五年(1508年),武吉年幼時,祖父隆勝被殺死。在親父村上義忠死後,為避難,自己離開了能島、託庇於肥後國的菊池氏,因此拜領當主菊池武俊偏諱「武」取名為武吉。當再返回能島時,與叔父隆重擊退了爭奪家督的對手村上義益,成功控制能島。在義益病逝後,與來島通康和解,迎娶其女締盟,順利成為村上三島的頭領。 天文二十三年(1554年),大內義長向室町幕府進貢米2000石,由陶隆房(陶晴賢)麾下的屋代島白井水軍經海路上洛,途中通過能島村上家的勢力範圍時,屋代島水軍無視武吉設立的關卡、拒繳帆別錢,更欲強行以武力突破。結果遭武吉於蒲刈伏擊,順利殲滅屋代島水軍,並將船上欲進獻幕府的2000石大米悉數沒收。 嚴島之戰後 天文二十四年(1555年),毛利元就和陶晴賢之間爆發嚴島之戰,武吉以「支援一天為限」協助毛利元就,成功封鎖陶晴賢的退路,毛利軍亦大捷而回。之後亦為毛利氏佔領周防、長門兩國作出莫大貢獻。武吉在鹽飽群島與瀨戶內海其他水軍眾聯合。在備中笠岡城(村上隆重)、備前兒島本太城(嵨吉利)及周防上關(村上武滿)等瀨戶內海重要樞紐位置均分派重臣防守,並收取通關費(帆別錢)增加水軍收入。 永祿十二年(1569年)毛利氏進攻九州島失敗,武吉與大友、三好加深關係。元龜二年(1571年)更受到大友宗麟以博多港口的南蠻貿易巨利引誘倒戈,公然擺出反毛利的姿態。毛利方為避免兒島守備隊後方遭受威脅,由小早川隆景領軍進攻兒島本太城,於4月攻陷。同年7月隆景再領軍進功能島,來島、因島水軍配合出兵進攻,孤立無援的能島向三好氏及鹽飽水軍請求兵糧補給,但被隆景的軍勢阻止,翌年元龜三年(1572年),將能島完全包圍並進行海上封鎖,被孤立的能島水軍只好向毛利投降,再次順從毛利家。 後來在大友宗麟仲介下,來島水軍與武吉達成和議,並約定:「門司、赤間及伊予共同防禦,以防備毛利的威脅」,希望能將能島水軍加入反毛利同盟,但這項約束形同具文,武吉私底下著手與毛利修補關係。天正三年(1575年)2月,備中兵亂平定後,武吉向小早川隆景送上祝儀,足見雙方關係改善不少。 毛利軍後來與織田信長交戰,在水戰中與小早川、兒島、乃美等水軍參加戰役。特別是天正四年(1576年)7月13日的第一次木津川口之戰嫡男村上元吉參戰,擊敗了織田軍,此後長期負責毛利家給本願寺運送補給的任務。但2年後再與織田軍交戰,在第二次木津川口之戰被織田軍6艘鐵甲船所擊敗。 海賊禁止令 其後,進攻中國地方的織田信長家臣羽柴秀吉(豐臣秀吉)調略下,打算拉攏來島通總率領的來島水軍,以及武吉的能島水軍,但毛利家臣乃美宗勝成功說服武吉,因此來島通總寢返至織田方,而武吉留在毛利方,織田軍成功佔領了來島。天正十年(1582年)本能寺之變後,情況出現了變化,秀吉與毛利關係漸趨緩和。後來小早川隆景再將能島讓給武吉。隆景則遷往竹原。天正十六年(1588年),豐臣秀吉執行海賊禁止令,村上的背景受到懷疑,因此派遣兒子村上元吉上洛解釋。之後跟隨隆景遷到九州築前,秀吉死後,再次魬回瀨戶內海竹原。 慶長三年(1598年)獲賜豐臣姓。 繼承家督的村上元吉與其弟村上景親跟隨毛利、小早川部隊在朝鮮作戰(文祿.慶長之役)。在關原之戰中是西軍一員,曾經攻擊伊勢灣、紀伊國沼岸,直接攻擊阿波國,進攻加藤嘉明伊予松前城。但因為嘉明的家臣佃十成發起三津濱夜襲,導致元吉戰死。戰後毛利氏減封剩下周防、長門兩國,武吉再次離開竹原,德川幕府控制了海路,村上水軍因此無法運作而壞滅,之後以毛利家家臣身份在三田尻當船手眾,負責保護朝鮮通信使。 慶長九年(1604年)武吉病逝,年七十二歲,家督由孫子元武繼承。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%AD%A6%E5%90%89
毛利元就 Mori Motonari(1497年-1571年) 毛利弘元的次子、母為福原廣俊之女、正室為吉川國經之女.妙玖、側室為乃美大方、三吉隆亮之妹.三吉氏、小幡元重之姐.中の丸;幼名松壽丸,通稱少輔次郎、右馬頭,渾名:乞食若殿、謀神,戒名洞春寺殿日賴洞春大居士。 明應九年(1500年),父親弘元因捲入大內氏及幕府之間的紛爭決定讓位給嫡男.毛利興元,元就和弘元移居多治比猿掛城。 文龜元年(1501年),母親死亡,永正三年(1506年)父親弘元因酒毒逝世,元就自少在失去雙親下長大。及後元就的居城被家臣井上元盛霸佔,因此元就被戲稱為「乞食若殿」。由養母杉大方(弘元側室)養大元就,永正八年(1511年)元服。 永正十三年(1516年),長兄興元病逝,由興元年幼的長男幸松丸就任。而附近的安藝武田氏看見毛利氏的混亂開始入侵毛利的領地,武田元繁率領大軍攻打吉川氏的有田城。吉川氏向毛利氏求援,元就為挽救有田城,代替幸松丸出兵救援,這是元就第一場參與的戰役。他用計謀引誘武田氏先鋒熊谷元直追擊並墮入毛利氏的埋伏圈,熊谷元直隊全軍覆沒,後來總大將武田元繁欲來支援熊谷隊,兩軍在城外附近爆發混戰,最後武田軍主將武田元繁被毛利氏弓箭手狙擊中箭陣亡(有田中井手之戰),此戰又被後世稱為西國的桶狹間。安藝武田氏隨之衰落。 大永三年(1523年),元就在支援尼子經久攻打安藝國的支持大內氏的藏田氏,是為鏡山城之戰,元就用計誘降敵將藏田直信從而攻陷鏡山城,因而威名大振,但毛利幸松丸也在此戰在後,以9歲幼齡病逝,最終家臣推舉元就為毛利家的繼續人。反對他為繼承人包括兩位家老阪廣秀、渡邊勝,在尼子氏的煽動下受到重臣龜井秀綱的指示下他們嘗試謀反,推舉元就之弟相合元綱取而代之。但元就在志道廣良協助下,清除謀反勢力。 大永五年(1525年),由於毛利氏與尼子家敵對及家督繼承人問題內耗下,元就決定轉而臣服於大內義興之下。 享祿二年(1529年),攻滅曾經透過幸松丸介入毛利家的外戚石見國人眾高橋興光。同年,與長年宿敵宍戶家修補關係。將其中一名女兒嫁給宍戶氏家督宍戶元源嫡孫宍戶隆家。後來毛利家亦招攬生城山天野氏及有著殺父之仇的原武田氏家臣熊谷氏,確保安藝國人盟主的地位。 天文八年(1539年),大內氏消滅北九州大名少貳氏,大內氏與大友氏關係得以和解。因而安心向安藝武田氏發動攻擊,首先是向佐東銀山城發動攻擊,元就跟隨戰鬥,城主武田信實逃離佐東銀山城,一度前往若狹國,後來成為尼子氏家臣。 天文九年(1540年),尼子晴久率領三萬大軍入侵吉田郡山城,分兩路進攻毛利氏。先鋒由尼子氏精銳部隊新宮黨擔當,尼子國久為大將經備後進入安藝,元就向姻親宍戶氏求援,宍戶氏及深瀨氏部隊在可愛川附近以投石戰術截擊新宮黨,尼子國久敗走。尼子晴久稍後親率尼子大軍經石見進入安藝,並得到毛利氏舊盟吉川氏加入,在吉田郡山城附近的風越山佈下本陣。元就徵召全境領民加上原有的3000兵準備籠城戰死守,並向大內氏及附近安藝國人眾求援。基於劣勢,毛利軍採取游擊戰減少士兵傷亡,竹原小早川氏及駐紮在豐島的大內氏杉隆相部隊亦與毛利氏合流,尼子勢亦把本陣轉移至青光山。戰事由8月初持續到11月底,他們終於等到大內氏援軍,在陶隆房率領1萬士兵支援下,毛利氏和大內氏部隊成功突襲尼子本陣,討取尼子氏高尾久友,尼子氏戰況危急,原來反對尼子晴久出兵的尼子久幸不惜犧牲己命,掩護晴久撤退,結果被毛利氏中原善左衛門討取。毛利和大內的襲擊成功迫使士氣低落的尼子軍撤退,毛利家確定安藝國的勢力。 同年,毛利軍順勢收復被尼子軍攻佔的佐東銀山城,武田氏家督武田信實逃亡到出雲國,一門眾武田信重切腹自盡,安藝武田氏徹底滅亡。戰後元就將安藝武田氏旗下的川內警固眾組織化,後來成為毛利水軍的基礎。 天文十一年(1542年)至天文十二年(1543年)與大內軍聯合攻打月山富田城(第一次月山富田城之戰),但是安藝國吉川氏家督吉川興經、出雲國人眾三澤為清、三刀屋久扶等叛變,由於大內軍戰線過長,後路一度被尼子軍阻礙,毛利氏家臣渡邊通喬裝為元就的替身,與安藝國人眾小早川正平等人的以死相許奮戰下,元就安全返回吉田郡山城。次年,元就派遣兒玉就忠以及福原貞俊支援備後國三吉氏,但是支援軍被尼子軍所擊敗(布野崩)。 長期臣服於大內氏之下,亦為大內氏立下功勞的元就備受大內義隆的信任,大內義隆將大內氏家老重臣內藤興盛之女收為養女,並許配給曾在山口擔任人質的元就長子.毛利隆元,以此強化大內和毛利的關係。 天文十六年(1547年),元就試圖控制正室妙玖出身的吉川氏,他利用當時吉川氏家臣團的不和,拉攏吉川興經叔父、妙玖的兄弟吉川經世,幫助經世剷除興經寵信的家臣大鹽右衛門尉,並與吉川經世、森脅祐有合謀迫使吉川興經隱居,將次男(吉川元春)過繼吉川氏成為興經的養子,把興經送到毛利領內監視居住。 三年後,元就為免除禍根,委派旗下的國人眾熊谷信直、天野隆重就將吉川興經及其子吉川千法師殺死。另外,元就亦介入安藝國人眾小早川氏的繼承人問題,當時小早川氏分為竹原小早川氏和沼田小早川氏,竹原小早川氏家督興景病亡無嗣,元就先把三子德壽丸(小早川隆景)送往竹原繼承竹原小早川氏,得到手島景繁及磯兼景通等竹原家家臣支持。沼田小早川氏家督小早川正平在月山富田城之戰陣亡,當時小早川繁平(小早川正平長子)雙目失明並不適合繼任家督,元就計劃讓小早川隆景迎娶正平之女,並繼承沼田家,一統兩家小早川。為此元就重施故技拉攏沼田家家臣,如乃美宗勝、椋梨弘平、梨子羽宣平、國貞景氏,但也有部分小早川氏家臣反對,在親毛利派的沼田家臣協助下,反對派的田阪全慶、土倉秋平、近宗長平被殺,小早川氏落入毛利氏的控制下,小早川繁平隱居讓渡家督予小早川隆景,兩小早川氏重新統一。 透過這兩次事件,毛利氏控制吉川氏及小早川氏,確立毛利兩川體制,吉川氏鄰近出雲國和石見國,小早川氏則握有水軍且位處安藝國東南,兩家直接併入毛利氏無疑大大增強毛利氏的實力。元就透過婚姻外交結盟、軍事援助及過繼等手段,把毛利氏勢力逐漸伸展至整個安藝國,甚至接受大內氏的命令進入臨近的備後國,攻打親尼子氏的備後國人眾江田隆連、杉原理興等。 天文十九年(1550年),元就一舉剪除以家臣井上元兼為首的安藝井上氏一族,僅少數井上族人因或與毛利氏有姻親關係;或為元就心腹得以倖免,事件過後毛利氏家臣發表向元就忠誠的宣誓文書。透過這次清洗行動,元就加強家臣對主家的向心力,代表毛利氏正式轉化為戰國大名。 天文二十年(1551年),大內義隆被家臣陶晴賢推翻(大寧寺之變),大內義隆及嫡子龜童丸被弒,陶晴賢不欲負上謀反的罪名,因此向豐後國大友氏過繼大友晴英(大內義長)到大內氏,繼承大內氏。元就一直對陶晴賢的謀反行動不置可否,待義隆死後元就先發制人,出兵攻擊平賀氏的頭崎城及大內氏的槌山城,元就出兵支援平賀氏宗家的平賀廣相奪回被大內義隆指派、來自小早川氏的平賀隆保所佔據的平賀氏家督位置,平賀隆保走投無路下自盡。然而毛利氏仍然未公開跟陶晴賢決裂,石見國吉見氏家督、大內義興女婿吉見正賴首先宣佈討伐陶晴賢,並聯絡元就共事。吉見正賴跟陶晴賢相比實力顯得懸殊,不久戰敗降服。可是這時候,毛利氏卻公開向陶晴賢斷交,並繼續攻打原屬大內氏控制的安藝國西部。 有鑑於兩軍的兵力動員差距,毛利軍最多只能召集4000兵,而陶軍可以召集3萬兵。倘若元就選擇正面跟陶晴賢作戰,可謂毫無勝算。元就決定用計策對付陶晴賢。首先,元就偽造一封書信,刻意洩露給陶晴賢知道,信中涉及毛利氏跟陶晴賢得力家臣江良房榮聯絡,並且得到江良房榮答應擔任內應。陶晴賢不虞有詐,當下捕殺江良房榮。與此同時,元就為避免和大內氏決戰之時受到尼子氏襲擊,元就再次運用偽造書信的策略,同樣刻意把書信洩露給尼子氏家督尼子晴久,元就假造與身兼尼子晴久叔父和丈人、精銳部隊新宮黨領導人尼子國久秘密交往,於是使晴久懷疑新宮黨忠誠,結果晴久召喚新宮黨到月山富田城覲見,以此成功誘殺新宮黨大部分核心成員,包括尼子國久及其子尼子誠久、尼子敬久、誠久數子。尼子誠久第四子在乳母保護下逃亡京都東福寺出家,他就是後來被山中幸盛擁立的尼子勝久。時為天文二十三年(1554年),經過兩次精心策劃的反間計,元就成功削弱大內氏和尼子氏。 為開戰的準備,元就仍需要多做些預備工作,他認為必須把陶晴賢引誘上安藝國南方的嚴島決戰,利用那裏不利於大部隊活動的地形,一舉消滅陶軍,於是他先在嚴島上建築宮尾城,委派己斐直之、新裡宮內少輔率領少量士兵進駐,又派遣間諜進入大內氏領內散佈謠言,宣稱元就害怕陶晴賢攻打宮尾城,讓陶晴賢信以為真。為加強計謀的效果,元就指示擔任自己家臣、嚴島對岸的櫻尾城城主桂元澄寫信予陶晴賢以報父仇為名暗通陶晴賢,願擔任陶軍內應,配合其攻打嚴島雲雲。經過這幾件事,元就成功讓陶晴賢相信攻克宮尾城便能消滅毛利氏。 天文二十三年(1554年),陶晴賢派遣先鋒宮川房長先行出兵三千攻擊毛利氏,雙方在折敷畑山開戰,是為折敷畑之戰。宮川房長部隊和安藝國反毛利氏勢力合流,全軍增加到7000人,但卻被元就、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景四父子從三方面包圍,宮川房長戰敗而亡,支持大內氏的安藝國人眾野間隆實被元就招降後滅族,至此安藝國完全落入毛利氏手中。 天文二十四年(1555年),陶晴賢不顧重臣弘中隆兼等反對決意親征嚴島,弘中等人主張應從陸路攻打毛利氏。陶晴賢得到屋代島水軍的援助,全軍分乘500艘船隻渡海攻打嚴島宮尾城。元就在此時成功爭取到瀨戶內海海賊眾的三家村上水軍加入,據說當元就求助村上水軍時,只要求村上水軍借出船隻一日時間搭載毛利士兵往嚴島。雙方主力在嚴島交戰(嚴島之戰),元就、隆元和元春三父子乘著暴風雨登陸嚴島,並乘夜翻越博弈尾突襲駐紮在山坡下塔之岡的陶軍,另一方面小早川隆景及兒玉就方等率領毛利水軍和村上水軍包圍嚴島對開海面並消滅大內氏的屋代島水軍三浦房清等,陸上的陶軍被毛利軍夜襲而一片混亂,潰不成軍。弘中隆兼及其子隆助嘗試組織士兵抵抗不果,雙雙陣亡。最終僅得4000士兵的元就擊敗5倍於己、號稱二萬大軍的陶晴賢,陶晴賢本人則一路奔逃到陶軍登陸地大元浦,他眼見海面盡是毛利水軍,自覺無路可逃便自盡斷。經此一役,毛利氏加緊進攻大內氏領地,確立橫跨周防、安藝兩國的霸權。 弘治三年(1557年),出兵攻打大內氏(防長經略),接連擊敗或降服大內氏的國人眾,如杉隆泰、椙杜隆康、山崎興盛、江良賢宣等,包圍長門且山城,大內氏家老內藤隆世以毛利氏許諾保全大內義長性命為條件開城投降後切腹自盡,但毛利氏仍強逼義長自盡,大內氏亦告滅亡。同年,亦將家督讓給毛利隆元,但是自己繼續掌握實權。 雖然毛利氏控制大內氏大部份在中國地方的舊領土,毛利軍為奪取石見銀山屢屢向尼子家發起攻勢,弘治二年(1556年)敗給尼子晴久後(忍原崩),永祿二年(1559年)元就再度進攻,雖拿下小笠原長雄鎮守的溫湯城,但無法打下山吹城,毛利軍在撤退時遭到山吹城守將本城常光的突襲受到重創,毛利軍大敗而回(降露阪之戰)。及後,元就假意答應讓出石見銀山的管理權,方能讓本城常光倒戈投降,但本城一族隨即遭到毛利氏誅殺,銀山落入毛利氏手中。本城常光的死令不少一度轉投毛利氏的石見、出雲國人眾,如福屋隆兼、三澤為清、三刀屋久祐等重投尼子氏。 永祿三年(1560年)12月,尼子晴久病逝,由尼子義久繼任。尼子氏出現混亂,幕府將軍足利義輝介入,雖然元就一度無意與幕府協調和解工作,但是為顧及面子,元就決定與尼子氏和睦,史稱雲藝和議。但是毛利氏在第二年撕毀和約。 永祿四年(1561年),尼子軍前線主將本城常光被元就派人勸降。翌年,派兵攻打尼子軍的白鹿城,毛利軍攻佔白鹿城之後基本上將月山富田城包圍起來,對尼子氏來說白鹿城的失陷等於月山富田城已無屏障,大批國人眾被逼降服於毛利氏之下。其後為攻打月山富田城做好足夠的準備。 永祿六年(1563年),毛利隆元在備後國與當地國人眾和智誠春見面後突然急病逝世,對元就造成不少打擊,有傳隆元被下毒暗殺,元就命令和智誠春及隆元心腹赤川元保自盡以示負責。 永祿八年(1565年),毛利軍對月山富田城開始進行包圍,第一次包圍被尼子軍擊退。同年9月,進行第二次包圍,期間成功散佈謠言雲尼子氏家老宇山久兼已和毛利氏內通,尼子義久盡信傳言,將負責處理兵糧的宇山久兼斬首處死。毛利軍經過長時間的包圍下,城內開始缺糧,城中開始以粥代飯,陸續出現投降的士兵。11月,尼子義久向毛利軍投降,與兩名弟弟移送安藝國監禁長達二十多年。當時毛利氏已經成為控制八國的大名。 尼子仍未正式滅亡,部份尼子家家餘臣仍然嘗試作出反抗,山中幸盛推舉尼子誠久在京都出家的兒子尼子勝久,試圖恢復尼子氏的政權,另外大友氏亦準備在九州進行爭奪原屬大內氏的豐前國和築後國領地,長年流亡大友氏的大內義興之侄大內輝弘得到大友氏援助試圖恢復大內氏,向山口發動突襲,毛利陷入兩難情況。毛利氏為進入北九州的門戶——豐前門司城多番和大友氏作戰,並且和古處山城的秋月種實結盟,又策反臣從大友氏的立花山城城主立花鑑載和寶滿山城城主高橋鑑種,經過權衡得失之後,元就決定與大友軍和解,撤兵返回中國地方平定大內氏和尼子氏的殘餘勢力。毛利放棄九州的領土,把大友宗麟一直無法攻佔的門司城讓出,最後毛利軍擊敗受大友氏援助入侵周防的大內輝弘。雖然多個出雲國的城堡被尼子軍攻佔,但毛利軍成功守住險要月山富田城。元龜元年(1570年),毛利輝元率兵在布部山之戰擊敗尼子軍,將尼子軍完全驅逐出雲。 晚年期間,元就開始與京畿活躍的勢力接觸,幕府將軍足利義昭與織田信長關係決裂後,曾拉攏元就參與「信長包圍網」,不過元就拒絕義昭,元就並與信長維持良好關係,在元就逝世,信長派遣使者悼念他。 元就踏入晚年身體開始衰弱,曾經找足利義輝醫師曲直瀨道三治療,並且成功康復。但最終元龜二年(1571年)6月14日,於吉田郡山城病逝,年七十五歲。 出處:https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E5%85%83%E5%B0%B1

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