首頁 Tags 丹羽長秀

丹羽長秀

不破光治 Fuwa Mitsuharu(生年不詳-1580年?)家系には諸説あるが、不破隼人藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔・松井蔵人直家の子・直重が不破隼人佐を称したのに始まるとする説がある他、山城国の南宮神社社家の一である松井直家が美濃国不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったとする説がある。美濃国西保城主。早くから美濃国の戦国大名・斎藤氏に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人と共に西美濃四人衆といわれることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたともいわれているが、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。『浅井三代記』によると、近江国小谷城へ赴き浅井氏の家臣・安養寺経世と内談して信長の妹・お市と浅井長政との婚約をまとめ、輿入れの際には内藤勝介と共にお市の方に供奉したというが、同書は元禄年間に出版された軍記物で同時代の史料ではないことに留意する必要がある。永禄11年(1568年)7月、信長が越前国の朝倉義景に庇護されていた足利義昭の呼びかけに応じて上洛を決意すると、和田惟政・村井貞勝・島田秀満と共に義昭を越前まで迎えに赴き、上洛戦で江北が平定されたときも、立政寺で待機していた義昭を迎えに派遣された。 その後は永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦い、元亀元年(1570年)6月の小谷城攻め、同年9月の志賀の陣、元亀2年(1571年)9月の伊勢長島攻め、元亀3年(1572年)4月の交野城後ろ巻き、天正元年(1573年)7月の槇島城の戦い、同年8月の一乗谷城の戦いに参陣した。天正2年(1574年)には、越前の前波吉継が殺害されたのを受け、羽柴秀吉や丹羽長秀らと敦賀へ出陣、同年6月の伊勢長島攻めにも参陣した。天正3年(1575年)8月、越前一向一揆平定戦に参陣し、一揆平定後に越前8郡は柴田勝家に預けられ、光治は佐々成政・前田利家と共に同国府中の2郡を治めながら、勝家に対する目付を務めることとなって、府中三人衆と呼ばれた。光治は同国竜門寺城を居城とした。以後は勝家の与力としても活動するようになり、天正5年(1577年)8月の勝家を総大将とした加賀国平定戦には、三人衆そろって参陣。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも、勝家に率いられた「越前衆」の一武将として利家らと共に参加していたが、上杉景勝が越中国に侵入して小出城を包囲したとの報せが入り、勝家以下越前衆は直ちに出陣するよう命じられた。しかし、完全に柴田勝家の指揮下に固定されたわけではなく、天正5年(1577年)2月からの雑賀攻め、天正6年(1578年)11月からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)9月の伊賀攻めに動員されている。越前国において死去したが、その年月には諸説あり、『戦国人名事典』では天正8年(1580年)12月14日、『美濃国諸家系譜』では天正9年(1581年)11月8日、『織田信長総合事典』では天正9年(1581年)以降、『織田信長家臣人名事典』では天正11年(1583年)頃としている。法名・雲樹道無大居士。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%85%89%E6%B2%BB
中川清秀 Nakagawa Kiyohide(1542年-1583年)父は高山重清(中川重清、中川佐渡守重清)で、母は中川清村の娘。父である中川重清は、桓武平氏良文流の後裔である常陸の高山重利の次男とされるが疑問点もある。高山右近の父・高山友照は、中川清秀の父・高山重清と兄弟であるとされているが、高山友照は摂津出身とされているので、常陸から来たのか、元々摂津出身なのか、それともどちらかが明らかな養子なのか?余計に出自に疑問が残り、良くわからない。ともあれ、中川清秀の父・高山重清は1535年頃?に常陸から京の都に上って、その後、摂津国に移ると中川清村に仕えたとされる。その後、主である中川清村の嫡男・中川清照が戦死し、跡取りがなくなった中村清村は、娘と高山重清を結婚させて養子に迎え、このとき、高山重清は平氏から源氏に改め、中川重清と改名した。恐らく、父・高山重清は有能な武将だったのだろう。推測するに、1541年前後と考えられる。そして、子になる中川清秀が1542年に誕生したのだ。幼名は虎之助。通称は中川瀬兵衛。中川重清は稲田城主として摂津の小大名となったが、周辺には巨大勢力があり、領土経営は大変難しい状態であった為、池田城主・池田勝正に最初従属。しかし、1564年、山崎恒政(山崎右馬允)に攻められて敗走。のち稲田城を再興するが、1570年には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降伏。以後、池田氏家臣である荒木村重の重臣として仕えた。父・中川重清の没年や家督が譲られた時期は不明なので、この頃、既に中川家は中川清秀が率いていたと考えられる。中川清秀の正室は稍姫(熊田宗白の娘、やや)で、1568年には中川清秀の嫡男・中川秀政、1570年には次男・中川秀成が誕生している。池田家の一家臣であった荒木村重は、池田城から池田勝正を追いだして池田家を掌握すると、1571年には白井河原の戦いで荒木村重と中川清秀が、茨木城主・茨木重朝と高槻城主・和田惟政を討ち取ると中川清秀が荒木村次を補佐し実質的な茨木城主となった。そして、中川清秀は1577年に正式に60000石の茨木城主となっている。この荒木村重の活躍に目をつけたのは1568年に上洛を果たした織田信長で、荒木村重は織田信長から厚い信頼を得て摂津一国を任された。1573年、中川清秀は、柴田勝家が指揮する河内の高屋口の合戦に参加し、宣教師や相手方の首を切り、功をたてた。1574年11月5日に、荒木村重・中川清秀らは伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を支配。高槻城主となっていた高山右近も、荒木村重の与力として加わったが、荒木村重の活躍もこう言った有能な武将が支えていたことが分かる。しかし、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や黒田官兵衛・竹中半兵衛・蜂須賀小六らと三木城攻めをしていた1578年7月、荒木村重が戦線を離脱して有岡城(伊丹城)に戻り織田信長に謀反を起こす。この荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣とする説がある。荒木村重は、織田信長の使者である明智光秀、松井友閑、万見重元に説得や、高槻城の高山右近の説得も受けて、釈明のため安土城に旅だったが、途中で寄った茨木城で中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹城に戻った。この事により、織田勢は有岡城を包囲し、有岡城の戦いとなる。中川清秀や高山右近らも縁故であるということもあって荒木村重に味方し各持ち城にて籠城し、荒木村重は有岡城に篭城。黒田官兵衛も荒木村重説得の為単身で赴くが、牢に捕えられてしまった。荒木村重は織田勢に対して徹底抗戦をしたが、中川清秀は10月28日に織田勢と戦わずに降伏し、高山右近も11月に降伏。荒木村重は圧倒的に不利となったが、1年籠城し翌年1579年9月2日に有岡城は落城した。領土安堵された中川清秀は、その後、織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の旗下として転戦。娘である糸姫は、池田恒興の子・池田輝政に嫁いでいる。1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、高山右近と共に行動し羽柴秀吉勢に合流して、山崎の戦いで主戦力として活躍。1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも先鋒二番手として参戦。しかし、大岩山砦を高山右近・三好秀次らと守備していた際に、柴田勝家勢の勇将・佐久間盛政の猛攻を受けた。中川清秀の家臣、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉らも防戦に奮闘したが、中川清秀の弟・中川淵之助も討死し、中川清秀も自害。享年42。墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。この時、命を落とした中川家臣は、中川清秀以外に、中川淵之助熊田孫七資一熊田兵部次矩熊田三太夫資之森本道徳山岸監物重本杉村久助正英森権之助鳥養四郎太夫大田平八菅杢伝兵衛重武野尻出助重英藤井半右衛門田代太左衛門奥彦太夫光英奥彦作奥孫兵衛田能村杢左衛門入江土佐赤井弥次右衛門元定高山総吉桜井河内正利野口新助田島伝次右衛門玄正亡知半。他には台所人11人仲間御小人20人余雑兵300人となっている。当時の梅林寺住職・是頓和尚は、中川清秀戦死の報を受けると、すぐさま賤ヶ岳に向かい、遺髪を貰い受けて持ち帰り菩提を弔ったと言う。中川家の家督は長男・中川秀政が相続して茨木城50000石を継ぎ、その後見人には古田重然がついた。この古田重然は千利休の死後は天下一の茶人となった人物で「利休七哲」の一人とされ「織部流」開祖で、古田織部と呼ばれた方が有名か?古田重定(茶人である)の子で、妻は中川清秀の妹・せんである。(1569年に結婚)その後、中川秀政は古田重然と共に、小牧長久手の戦いや、四国攻めに参戦し手柄を立て、三木城主13万石となり、1590年の小田原攻めにも2000を率いて出陣している。しかし、1592年の文禄の役で、朝鮮で鷹狩りの最中に敵兵に包囲されて亡くなった。享年25。出處 http://senjp.com/nakagawa
丹羽長秀 Niwa Nagahide(1535年-1585年)丹羽長政的次子、正室為織田信長養女・桂峰院、側室為杉若無心之女;幼名萬千代、通稱五郎左衛門尉、渾名「鬼五郎左、米五郎左」、別名惟住長秀。依照丹羽家譜的記錄,父親丹羽長政與信長父親織田信秀同為尾張守護斯波氏的家臣。但斯波氏已衰微,自斯波義統以後皆由織田氏為實際統治者。所以長秀在天文十八年(1549年)時就仕於織田家並擔任信長的近衛,後來更娶了信長二哥信廣之女。之後參與在天文二十一年(1552年)的萱津會戰和永祿三年(1560年)的桶狹間會戰,在永祿五年(1562年)時正式獲得一萬貫的知行,同時和柴田勝家、佐佐主知一起擔任寺領安堵的奉行職務。在信長推動兵農分立的政策後,要求領內重臣離開原本世襲的農田遷移至城下住宅,這個措施令一眾老臣感到十分不滿,而支持信長之意率先放棄,改以傭兵替代農民兵的既是丹羽長秀與柴田勝家兩人。隨後在信長統一尾張的軍事行動中,丹羽長秀寢返了犬山城織田信清的家老和田新介及中島豐後守使犬山城反過來陷入信長軍勢的包圍,在城落後長秀因功受信長策為駐守犬山城的城將。對一統尾張的信長來說北進美濃乃必要的策略,從其父信秀的時代起織田家便長期對美濃展開一連串的行動,歷經齋藤家道三、義龍兩代,現今領主是第三代的龍興,不若乃祖的智謀亦不及親父的武勇,使信長得到北進的良機。由於後來各本太閣記的大興以及後人專看秀吉忽略其他織田家諸將等因素影響,使得這段期間還名喚木下藤吉郎的秀吉之功被過份地誇張為織田家進佔美濃的最大功臣,實際上當時作為信長部將的丹羽長秀同樣有著不俗的功績,長秀充分發揮其智謀武勇,在戰場上領兵攻下堂洞城,此外兵不血刃地在進攻猿啄城時截斷水源逼降城將,之後在秀吉策反大澤基康時施以援手,本身亦仲介加治田城的佐藤紀伊守改投織田家,丹羽長秀的穩重和柴田勝家的驍勇並列著名為織田家的一雙寶。就在信長一統尾張即將進軍美濃的這段時間裡,織田家的風氣也慢慢開始改變,木下藤吉郎與瀧川一益等出身浮野的司令官從諸將中冒出頭來,不像柴田勝家對木下藤吉郎始終抱持成見,對這些新人丹羽長秀都採支持的態度。就像木下藤吉郎在信長攻下美濃後受命易姓,藤吉郎決意自丹羽和柴田兩人各借一字改姓羽柴,柴田勝家藐視地一笑,丹羽長秀則是開心地說:「是嗎?真是榮幸。」美濃陷落後,明智光秀以將軍特使的名義來訪,督請信長幫助足利義昭擊敗三好一黨,上京就任將軍。信長在精密考量後先與淺井家建立姻親再假意和六角家談判,然後再出奇不意地出兵近江直驅上落,當時丹羽長秀與羽柴秀吉、佐久間信盛、明智光秀等在一天之內攻下六角家南近江箕作城被世人喻為奇蹟。信長上洛後,不願後方大本營出現空虛的信長迅速回到岐阜,長秀受命與羽柴秀吉、中川重政、村井貞勝一同擔任京都奉行,在永祿十二年(1569年)丹羽長秀單獨發佈了遍照心院、誓願寺、三井寺花光坊的安堵,同年八月長秀對新降的池田勝正所領的界五力莊做出指示,並與中川重政一起本因寺學道中的知行進納進行確認,同時再次受命出戰伊勢,攻打大河內城的北田具教,與稻葉一鐵、池田恆興夜襲失敗。翌十三年,丹羽長秀先在三月和松井友閑一同擔任對界市的名物茶道具收集購入之職務,然後於四月對若狹廣野孫三郎、武田義統的忠節次第所領下安堵令,禁止渡邊太郎左衛門尉在愛宕山供料外畑村下司職務的不法行為。五月時與塙直政共同擔當鐵砲調達奉行,替織田家進行採購洋槍的事務。金崎撤退後一直順風順水的織田家陷入了四面皆敵的窘局,越前朝倉家、北近江淺井家、阿波三好餘黨以及四處蜂起的一向宗教徒與不斷發出御信替織田家增加敵人的將軍足利義昭。元龜元年(1570年)四月自越前急遽迴轉京都的織田信長命丹羽長秀和明智光秀出使若狹向武藤友益徵收人質,並與當地公方眾一色藤長會面種下日後支配若狹的伏筆。在長秀於五月回到京都後,當年六月便再次被調上戰場,出陣江北和柴田勝家、佐久間信盛、蜂屋賴隆於小谷城近邊放火,其後參加姊川之戰和池田恆興協助德川家康攻擊朝倉軍,戰後秀吉攻下橫山城,丹羽長秀也和河尻秀隆、水野信元、市橋九郎右衛門攻打佐和山城,降服淺井家猛將磯野員昌,得到信長厚信的丹羽長秀被封作掌管京、近江、美濃間要衝之地的佐和山城城主,領五萬石領地。身任佐和山城城主後,丹羽長秀先是將犬上郡的在地領主收為麾下與力,後出兵與佐久間盛信、柴田勝家、中川重政攻打神崎郡的小川城、志村城,元龜二年(1571年)九月與河尻秀隆誘殺高宮右京亮於佐和山,並制訂多賀神社條規防止混亂。隔年,丹羽長秀和明智光秀、中川重政出兵打下木戶城、田中城。七月,和佐久間盛信、柴田勝家燒毀小谷城的城下町,在信長令下丹羽長秀完全封鎖住琵琶湖的水運將淺井、朝倉的對外物資流通切斷。天正元年(1573年),信長交付給丹羽長秀軍船建造的任務,長秀在召集職人工匠商討後設計製出可拆裝的大型船,在七月五日船隻完工的同時馬上用來攻打將軍足利義昭的槙島城,倚槙島城之險自豪的足利義昭沒想到信長竟然從阪本口搭船穿越琵琶湖攻城,措手不及下城陷被擒,遭到流放,室町幕府足利家就此終結。將軍追放後,信長把軍勢開回江北圍籠小谷城,並且擊退應援的朝倉軍,更以丹羽長秀為先鋒深入越前打下一乘谷城,家督朝倉義景兵敗自盡,嫡男阿君丸也在信長命令下由丹羽長秀殺害。在淺井家的小谷城亦宣告陷落後,信長將毛頭指向伊勢的一向一揆,丹羽長秀和羽柴秀吉、佐久間信盛包圍桑名方面的西別所,攻下中島將監所鎮守的白山城。在朝倉家滅亡後,丹羽長秀出鎮混亂的若狹確立織田家對當地的支配,對若狹長源寺和遠敷郡瀧村發佈禁令,然後在若狹的御料所接受敕命得到小濱城十萬石領地,並在隔年發佈西福寺寺領的安堵。天正三年(1575年),信長任命的越前守護前波吉繼(桂田長俊)被一向一揆勢力所殺,近在咫尺的丹羽長秀和羽柴秀吉、明智光秀立即出兵鎮壓,和柴田勝家領兵攻下鳥羽城。同年四月,與村井貞勝一同處理將國人眾侵佔地歸還公家眾本領的事務,並在閏十一月,丹羽長秀對若狹遠敷郡鐵屋安堵,妥善安排鐵屋職讓他們繼續為織田家效力鑄造鐵砲。而織田信長也在此時奏請朝廷賜官給他麾下的將領,如柴田勝家官拜修理亮、瀧川一益官拜左近將監。同時期明智光秀得到「惟任」一姓和日向守的官位、塙直政改姓「原田」,拜備中守、粱田廣正易「別喜」姓,封右近大夫、羽柴秀吉拜領築前守一職,令人注目的是丹羽長秀堅決不受越前守一職,僅接受「惟住」的姓氏,依照這次信長大賜官的過程看來,織田家軍團的東西分立該是由此而見,「惟任」、「原田」、「別喜」、「惟住」都是以往鎮西的大姓,顯見拜領了築前守、日向守等九州官職的明智光秀、羽柴秀吉等人該當是往西前進的軍將,然而當時往東的上、中、下三路已分別由北陸的柴田勝家、東海道的德川家康負責,正中與美濃相接的木曾路也有信長嫡子信忠擔綱與不斷對武田部將宣慰的瀧川一益,毫無丹羽長秀可建功的餘地,反觀對西國戰事尚未正式開啟,發揮空間依然很大,所以丹羽長秀拒受越前守,改姓「惟住」該是意圖指染西線戰事的象徵。天正四年(1576年),丹羽長秀奉信長之命修建安土城,擔任普請奉行。同時身為織田譜代家臣的長秀也率領著若狹眾與瀧川一益、荒木村重組成遊擊軍團,以援軍身份往援在各地方作戰的柴田勝家、佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉等軍團,在當年五月協助佐久間信盛圍攻石山本願寺。翌五年二月和佐久間信盛、明智光秀、羽柴秀吉轉戰紀伊與協助本願寺的當地國人眾交戰,與明智光秀、瀧川一益合攻鈴木孫市的居城,之後隨柴田勝家出陣加賀迎戰攻下能登後南下的上杉謙信,在手取川戰敗,引發連鎖效應松永久秀起兵反叛,丹羽長秀和瀧川一益、羽柴秀吉協助織田信忠攻入大和,打下多聞城、信貴山城,戰後駐於大和在藥師寺發佈禁令管理當地治安。天正六年(1578年),丹羽長秀再度擔當明智光秀的援軍出兵圍攻丹波八上城、攻打園部城。然後火速轉援在播磨吃緊的羽柴秀吉,先攻下志方城,然後轉入但馬侵略神吉城。十一月,在傳來荒木村重盼變的消息後,丹羽長秀便和瀧川一益、羽柴秀吉、明智光秀隨織田信長展開對村重的圍殲。天正七年(1579年),在安土城落成時丹羽長秀因功得到珠光茶碗和備前長光的名刀。天正八年(1580年),丹羽長秀隨柴田勝家出陣加賀,平定當地的一向一揆,由長秀自小濱經海路進發截斷一向勢力的物資補給路線。在轉戰各地的同時,丹羽長秀和其他軍團長最大的不同處便是他仍然擔綱著織田家的各項重要內政工作,在五月時替天主教在安土城城下町興建禮拜所,由於之前僅考量到武士的居處,所以未留下多餘的空地,因此在長秀臨時受命後便索性挖山填湖,用山泥將鄰近的湖邊低窪填成平地興建。之後再天正九年(1581年),在正親町天皇觀閱下的大軍事演習中經由信長欽點,丹羽長秀統領武田元明、內藤、熊谷、粟屋、逸見、山縣等若狹眾擔任一番手的馬前率先行進。同年九月,曾攻打伊賀失敗的織田信雄在精通忍術的瀧川一益輔佐下第二次對伊賀展開攻略,丹羽長秀隨軍助戰率領筒井順慶、蒲生氏鄉平定伊賀的名張郡。天正十年(1582年),丹羽長秀隨軍出征甲信武田家,之後長秀受命輔佐信長的三子信孝應十河存保的求助出兵平定四國,丹羽長秀終在實質上成為一個地方的軍團長,然而緊接而來的本能寺之變讓準備好進佔四國的兩人下半生命運起了翻天覆地的變化,進軍河內森口時四國討伐軍的兵士聞得本能寺之變後逃亡大半,但丹羽長秀仍意圖奮力一搏和信孝帶兵討伐了光秀的女婿織田信澄,然後說服信孝前往尼崎與自中國戰線迴轉的羽柴秀吉聯合討逆。在叛將明智光秀的戰鬥中,長秀先是在山崎之戰協助羽柴秀吉擊敗明智光秀。明白天下大勢所向的丹羽長秀在清州會議中與池田恆興一起成為秀吉最有力的協力者,支援秀吉擁立信長的年幼嫡孫三法師作為信長的繼承者,會議後加封近江高島・志賀兩郡,以大溝城為居城。自願屈居秀吉下風的長秀甚至還跟遠本地位天差地別的秀吉副將蜂須賀正勝一同擔任與毛利家締盟的職務,和吉川元春來往密切。翌年賤岳之戰時和秀吉聯手於海津口、敦賀口牽制柴田軍並封鎖琵琶湖水運,戰後秀吉加封越前一國與加賀半國能美、江沼兩郡給長秀,成為北之莊城城主,領地達一百二十三萬石,同時替丹羽長秀向朝廷奏請越前守的官位,並且賜姓羽柴。晚年因身患腫瘤長年臥榻,同十二年時因為德川家康、織田信雄與丹羽長秀聯手的流言直上塵囂,所以秀吉藉機要長秀上洛朝見,病重的長秀屢次回絕,雙方關係一度惡化,最後是在重臣村上義明來回奔走下方告解凍。小牧、長久手之戰前丹羽長秀抱病離開領國進入大阪城,並且派遣嫡子丹羽長重參陣,後於天正十三年(1585年),丹羽長秀在病榻上切腹自盡,年五十一歲,法名為光寺大憐宗。出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=03183&parent=151&sn=306&lorder=66&ptitle=%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%BB%8B%E7%B4%B9
丹羽長重 Niwa Nagashige(1571年-1637年)丹羽長秀的長子,母親為織田信廣之女-深光院,正室為織田信長的五女-報恩院,幼名鍋丸,號玉峰。天正十一年(1583年),於賤岳之戰中與父親丹羽長秀一同出兵封鎖琵琶湖的水運並協助羽柴秀吉擊敗柴田勝家,更因此功獲得包含若狹、越前及加賀半國一百二十三萬石的大封賞,長秀遂以北之莊城為居城,長重亦被任為府中城主。天正十二年(1584年)二月,丹羽長重代替重病的父親對領內的小松山王神社奉納,其後代理臥病在床的丹羽長秀應羽柴秀吉之令發兵參與小牧、長久手之戰。翌年天正十三年(1585年)四月十六日,丹羽長秀辭世,年僅十五歲的丹羽長重繼承了父親一百二十三萬石的遺領,對於將這番龐大的領地交給這樣的年輕人,羽柴秀吉並不放心,兼之現在已經不用再顧忌織田家老同僚的觀感,不需再對丹羽家饗以龐大封賞以安昔日織田家臣之心,因此已穩固執掌天下的秀吉很快就在同年八月出兵富山城攻打佐佐成政時任命丹羽長重為先鋒,然後以長重的家臣違反軍律為由,削去丹羽家越前、加賀的領地,丹羽長重被左遷為若狹小濱城主,封地也僅餘若狹十二萬石。之後在天正十五年(1587年)出兵九州時,丹羽長重再度被豐臣秀吉以丹羽軍兵士違反軍律的藉口褫奪若狹的領地,減封為加賀松任城主,領地大幅縮水至四萬三千石,自長秀以來的重要家臣如長束正家、村上義明、溝口秀勝、戶田重政等人也相繼被豐臣秀吉策誘招募,轉仕豐臣家。慶長三年(1598年)四月,丹羽長重在文祿之役侵略朝鮮時立功,於是統算他自小田原征伐以來的功績,加封加賀小松八萬石,加上松任的舊領,封地共達十二萬五千石,官拜從三位參議兼加賀守,隨後丹羽長重移居小松城,被世人稱為小松宰相或小松參議。同年八月,豐臣秀吉病逝。丹羽長重親近德川家康,監視與石田三成親近的金澤城主前田利長。慶長四年(1599年)九月,增田長盛與長束正家向德川家康告密表示以前田利長為首,結合了淺野長政、大野治長及土方雄久等人意圖暗殺家康,德川家康迅速於十月進行反制讓淺野長政被逼在甲斐隱居,大野治長及土方雄久則分別被結城秀康及佐竹義宣拘禁。而對坐擁能登加賀八十萬石的前田利長,德川家康則以「前田利長有叛意」為由,任命丹羽長重為先鋒,組織前田討伐軍出兵加賀,致使前田利長在驚恐之下以家臣橫山長知為使,並託細川忠興代其向德川家康遊說,最後以母親芳春院為人質前往江戶作為條件請降。翌年,德川家康發兵會津征伐上杉景勝,丹羽長重被置於前田軍指揮下進攻津川口,是役之中丹羽長重和前田利長爆發嚴重口角,丹羽長重對前田利長高傲的態度大為反感,於是以患病為理由領兵回國,前田利長也因為丹羽長重反常的行動起疑,擔心長重攻打前田家在加賀的領地,故隨後回軍歸國。此時回到小松城的丹羽長重也收到了石田三成發表討伐家康的檄文,這使本與德川家康交好的丹羽長重一時陷入兩難之境,同時在加賀南部的諸大名已先後為大谷吉繼的勸說下加入西軍,於是領軍歸國的前田利長也在七月廿六日宣布加入東軍打著救援伏見城之名領兩萬五千大軍南下,前田利長南下之際先向松任的丹羽長重送信要求加入東軍參戰,丹羽長重考量到昔日兩人的恩怨以及目下自家周遭態勢而拒絕,轉投西軍,反而親領三千士兵據小松城倚天險防守,小松城本就是北陸有名的堅城因此當丹羽長重遭到前田利長大軍包圍攻擊時,雖然手上僅有三千兵馬仍穩守不失,最後前田利長判斷短時間內在小松城必定難以討好,於是索性解圍,繞路攻打大聖寺城的山口宗永,丹羽長重隨即應山口宗永之求出兵救援,侵入前田領內騷擾,但是山口宗永守不到三日,大聖寺城便為前田利長大軍攻破,前田利長挾大勝之姿持續向南進攻,對青木一矩的北之莊城發動攻擊,然而此時西軍在北陸的大將大谷吉繼為了遏阻前田軍的攻勢放出了「上杉景勝制壓越後出兵加賀」、「大谷吉繼發出援軍」等流言,加上大谷吉繼修改了前田家臣中川宗半的密信令前田利長以為大谷吉繼想從海路攻打金澤,於是退兵。前田利長考慮到撤退途中丹羽長重追擊的可能性,於是將部隊一分為七分散撤退,分別由山崎長德、高山右近、奧山榮明、富田直吉、今枝民部、太田長知率領,最後由長連龍擔任殿軍隱密行動。但是前田軍撤退的消息仍然為丹羽長重得知,決定在前田軍撤退必經的小松城周遭伏擊,小松城周圍都是泥沼深田,不良於行,可以牽制住前田大軍的機動力,反而方便丹羽長重以小部隊游戰。八月九日,前田軍通過小松城東方淺井畷的山代橋時丹羽軍的江口三郎左衛門正吉對長連龍的殿軍發動突擊,丹羽長重也隨後引援軍來戰,由於淺井畷的地形限制了大軍威力的發揮,使長連龍陷入苦戰,最後因為山崎長德的回援使丹羽長重在兵力上陷入劣勢而撤退,雙方死傷慘重,前田軍更有千人以上陣亡,兩軍未能分出勝負,前田軍順利回到金澤城。前田利長回到居城後方知中計,而家康也以土方雄久出使在九月八日要求利長向美濃進軍,但是利長之弟利政為了防備前田家不會因為西軍勝出而滅亡,據能登宣佈加入西軍。雖然前田家中出現內亂,但是丹羽長重也深知以本身十二萬石的兵力實在不及前田利長所能發動的大軍,尤其大谷吉繼已馳援關原,北陸之事全由丹羽長重一家承擔,於是丹羽長重遣使者透過德川家的軍師本多正信向德川家康表明他對家康並沒有敵意,最終達成與前田利長雙方交換人質和睦。關原之戰後,丹羽長重因從屬西軍,所領遭到沒收,後蟄居於江戶芝高輪泉岳寺,直到慶長八年(1603年)才被將軍德川秀忠再度起用於常陸古渡獲得一萬石領地。後於慶長十九年(1614年)的大阪冬之陣中參加鷸野之戰,翌年夏之陣中於若江合戰中擊破豐臣方木村重成軍的左翼木村宗明隊立下戰功,並於元和五年(1619年)增俸常陸江戶崎一萬石,同八年又增加至磐城棚倉五萬石。寬永元年(1624年),丹羽長重奉幕府命令,為據守關東的入口構築棚倉城,長重將棚倉城建在赤館以南的久慈川河岸台地上,並將原本位於久慈川河岸的都都古和氣神社遷移,把棚倉城修建為擁有本丸、二丸的輪郭式大城。寬永三年(1626年),丹羽長重隨將軍德川秀忠上洛,於天皇行幸二條城時擔任「御酌」之務。寬永四年(1627年),在蒲生家被改易後,丹羽長重移封至其舊領陸奧白河,領有白河、石川、田村、巖瀨四郡十萬七千石的封地,同時奉德川秀忠之命於寬永六年(1629年)起耗費四年光陰以伊達、最上、佐竹、上杉的奧羽地區的外樣大名為假想敵修築白河城鞏固此一接連奧羽、關東的要衝之地。丹羽長重遂於阿武隈川的氾濫平原上東西向的獨立丘陵上進行修築,興建一座梯郭式的平山城,增設可儲藏米糧二之丸及三之丸,並加構三重櫓,使其易守難攻。築城同時丹羽長重也極力整備招徠各地商人、職人移居城下町,並且將失領時流散的家臣重新聚集,重編家臣團。寬永十四年(1637年)閏三月四日,丹羽長重於江戶櫻田上屋敷辭世,享年六十七歲,法名為大鄰寺傑俊英。其子光重後於寬永二十年(1643年)移封二本松存至幕末。出處 http://m.gamebase.com.tw/forum/3867/70391985
佐久間盛政 Sakuma Morimasa(1554年-1583年)佐久間盛次的長子、母為柴田勝家之姐、正室為佐久間盛重之女;幼名理助、別名鬼玄蕃。盛政在『佐久間軍記』中記載身長六尺(約182cm),暫且不論數值的真偽,但應該是一位巨漢。永祿十一年(1568年)盛政的初陣是對六角氏的觀音寺城之戰。元龜元年(1570年)進攻越前朝倉氏手筒山城、六角氏野洲河原之戰。天正元年(1573年)對足利義昭的槙島城等合戰中參加並立下戰功。天正三年(1575年),叔父柴田勝家被賜予越前一國之際,被配到其麾下。之後在北陸與一向一揆等戰鬥時亦立下戰功,被織田信長賜予感謝狀。而且在此時附上「鬼玄蕃」的異名。天正八年(1580年),加賀一向一揆的尾山御坊陷落,成為加賀金澤城初代城主,被賜予加賀一國。天正九年(1581年),勝家赴往安土城時負責留守,上杉景勝等人乘機侵入加賀並攻陷白山城(舟岡城)。此時前來救援的盛政到達,雖然城池已經被攻下,但是盛政卻向上杉軍挑戰並將其擊破。之後同年,能登國的地侍因為景勝的煽動而蜂起,荒山城籠城之際,接受前田利家的邀請而前往救援,到達後把上杉軍擊退。天正十年(1582年),本能寺之變,信長死去後跟隨柴田勝家。柴田勝家在清洲會議後與羽柴秀吉(豐臣秀吉)加強對立;天正十一年(1583年)雙方在近江國余吳湖畔對陣。最初雙方展開持久戰,但是盛政的從兄弟.勝家養子柴田勝豐投向秀吉一側,勝豐的家臣秘密突入盛政的陣地,而秀吉則留守在大垣。因此盛政向勝家提議急襲中川清秀的陣地。起初勝家反對,但是因為盛政強烈要求而妥協,以「攻陷城砦後要馬上回來」為條件而答應。盛政的急襲作戰非常成功,而盛政亦討取了清秀,把賤岳之戰的前哨戰引向勝利。盛政以這次勝利而決定了戰爭的勝敗,並準備攻向羽柴秀長的陣地。之後向守備賤岳砦的桑山重晴命令「降伏並讓出城砦」,桑山則回答「希望能等到日落後才不抵抗」,賤岳砦的陷落似乎是沒法避免。但是,以船渡過琵琶湖的丹羽長秀軍登陸,以增援羽柴軍的身份出現,並與打算日落時從城砦退去的桑山隊合流,於是盛政為了加強攻勢而攻佔賤岳砦的作戰失敗(『柴田退治記』)。等到這次機會的秀吉,命令之前就準備好的軍隊以強行軍的方式返回戰場,盛政被敵人孤立。此時因為前田利家的部隊沒有行動,盛政的部隊與勝家本陣的連絡被切斷。結果勝家軍被秀吉軍大敗,盛政為了東山再起而逃到加賀。在逃走途中被中村的鄉民捕獲。覺悟到自己命數已盡的盛政被引到直接與秀吉對話。在引渡途中,被淺野長政以「被稱為鬼玄蕃的你,為什麼戰敗後還不自殺呢」(鬼玄蕃とも言われたあなたが、なぜ敗れて自害しなかったのか)的提問愚弄,但是盛政回答「源賴朝公被大庭景親擊敗時,逃走時躲進樹洞裡,最後不是成就了大事嗎」(源賴朝公は大庭景親に敗れたとき、木の洞に隱れて逃げ延び、後に大事を成したではないか),這個回答令到周圍的人相當感慨。秀吉對盛政的武勇相當賞識,想盛政成為自己的家臣並答應平定九州後會把肥後一國賜予盛政,但是盛政以無法忘記信長和勝家的大恩為由拒絕,並要求穿著華麗的衣裝並遊街後被處死。最後在京的市街中遊街示眾的盛政在宇治槙島被斬首,年30歲。辭世句為「世の中を迴りも果てぬ小車は火宅の門を出づるなりけり」。後話 盛政有一名叫虎姬的女兒,成為盛政義弟新庄直賴養女,後來因秀吉的命令而嫁給中川清秀次男秀成,成為豐後岡藩藩主的奧方。因為這個關係,盛政的菩提寺位於大分縣竹田市的英雄寺中。秀成在虎姬死後,因為虎姬的希望而令5男勝成復興盛政的家族。子孫直在現時在大分市存續。另外還有其他繼承盛政之名而在尾張德川家仕官的家臣存在的說法(『士林泝洄』、『尾張群書系圖部集』、『尾張國諸家系圖』)。虎姬的女兒誕下的兒子中,重行為初代,以重直、重勝、重賢、重豐、雅重一直存續。第2代的重直在上州擔任安中・阪元兩所奉行。這是因為京都所司代板倉重宗和信濃長沼藩藩主佐久間勝之(盛政之弟)的幫助。在雅重一代,由佐久間氏恢復為本姓三浦氏,但是此後斷絕。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E7%9B%9B%E6%94%BF
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
堀秀政 Hori Hidemasa(1553年-1590年)堀秀重的長子、妻為喜多島良滋之女,幼名菊千代,通稱久太郎。出生於美濃國,幼時和從兄弟奧田直政(堀直政)由伯父一向宗僧人-堀掃部太夫一同養育。最初仕於織田信長側近-大津長昌,接著仕於木下秀吉(豐臣秀吉)。在永祿八年(1565年)成為織田信長的小姓和側近。16歲時擔任將軍足利義昭暫住的本國寺的普請奉行等,負責各種奉行職,確立了側近的地位。信長的側近除了秀政以外,還有菅屋長賴、福富秀勝、大津長昌、矢部家定、長谷川秀一、萬見重元等人。秀政漸漸從奉行職轉移到戰場上有活躍的表現。參加織田軍主要的合戰,天正三年(1575年)參與討伐越前的一向一揆。天正五年(1577年)的紀州征伐,離開信長的本陣,與佐久間信盛和秀吉等人一同率領一支部隊。天正六年(1578年)的有岡城之戰中與萬見、菅屋等人率領鐵砲隊。天正七年(1579年)安土宗論時與菅屋、長谷川等人擔任奉行。天正八年(1580年)與菅屋、長谷川等人擔任傳教士屋敷的造營奉行。同年,在信長向蜂須賀正勝送出的書狀中發出副狀。天正九年(1581年)的第二次天正伊賀之亂中在信樂口率領部隊。同年.被賜予近江國阪田郡2萬5千石。天正十年(1582年)甲州征伐中,跟隨信長進入甲信,因為織田信忠已經消滅武田氏而沒有參加戰鬥。本能寺之變前,明智光秀被奪接待德川家康的役職後,與丹羽長秀一同負責,在這次接待後,被編制到備中的秀吉之下。天正十年(1582年),信長在本能寺之變後死去,秀政作為秀吉的軍監留在備中國。此後成為秀吉的家臣,在山崎之戰中參戰。與中川清秀、高山右近等人擔任先陣。明智光秀受到柴田勝全的幫助逃離山崎後,秀政把援助光秀的從兄弟明智秀滿迫入阪本城。對敗北有所覺悟的秀滿把先祖代代相傳的家寶讓給秀政的家老直政後,在城中放火自殺。清洲會議後,秀政取代丹羽長秀拜領近江佐和山城並成為三法師(織田秀信)藏入領的代官和守役。在天正十年(1582年)10月20日送出的書狀中使用羽柴姓,被認為是在秀吉一族以外最初被賜予羽柴氏的人。翌年(1583年)4月,秀吉進攻越前北之莊的柴田勝家。家康向秀吉送出的書狀中寫著褒揚秀政軍功的字句。戰後敘任從五位下左衛門督,被賞賜近江佐和山9萬石。因為從兄弟六右衛門是一向宗蓮照寺的住職的關係,於是亦負責與本願寺方交涉。在天正十二年(1584年)的小牧長久手之戰中,己方遭到德川方大敗,但是秀政把自軍分為3個部隊,伏擊正在追擊的大須賀康高和榊原康政等人,進行挾擊並令其敗走,與家康本隊沒有戰鬥並退卻。天正十三年(1585年),秀吉成為關白,秀政敘任從四位下侍從兼左衛門督。在同年的紀州征伐(千石堀城之戰、第二次太田城之戰)和四國平定戰中因為軍功而被賜予丹羽長秀的遺領越前國北之莊18萬石,並獲得加賀小松的村上義明、加賀大聖寺的的溝口秀勝為與力。在天正十四年(1586年)與長谷川秀一一同被允許昇殿。在秀政於各地轉戰期間,佐和山城由父親秀重和弟弟多賀秀種以城代身份在城內進行統治(『新修彥根市史第1卷(通史編古代・中世)』彥根市史編集委員會2007年1月)。天正十五年(1587年)九州征伐中,被任命為先鋒部隊。天正十六年(1588年)被賜豐臣姓。天正十八年(1590年)小田原征伐中參戰,被任命為左備的大將(『寬政重修諸家譜』)。進攻箱根口並攻陷山中城,攻入小田原早川口,把本陣佈在海藏寺,不過在陣中患病死去,享年38歲。出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%A7%80%E6%94%BF
太田一吉 Ota Kazuyoshi(生年不詳-1617年)太田宗清之子、子太田一成;又稱飛驒守、小源五。別名政信.宗隆.政之.重之.重正等。一吉所屬太田氏本姓為菅原氏因出身美濃國太田村而得名。本為斯波氏家臣,後父宗清出仕織田氏。初仕於丹羽長秀,長秀死後改仕豐臣秀吉。朝鮮出兵擔任軍監,文祿之役中參加晉州城之戰。因文祿之役中大友義統臨陣脫逃遭改易之故,獲封其舊領豐後國臼杵6萬5000石。此外,關於一吉之出世(豐後國諸大名中,6萬5000石已屬高祿)一說是因為一吉與石田三成私交甚好,故受了其蔭庇。後於慶長之役參加南原城之戰與蔚山城之戰。再後與福原長堯以及熊谷直盛等作為吏僚一派,與加藤清正、福島正則等為首的武斷派對立。慶長五年(1600年),關原之戰中派遣甥太田政成加入東軍,親子一成參加西軍,自身在臼杵城稱病不出。然而人們從此態度中發覺一吉屬於西軍一側,臼杵城遭東軍方黑田如水及中川秀成進攻後降服。順帶一提,一吉此時認為向低祿之秀成(注一)降服乃是一大恥辱,與秀成進行徹底交戰對其造成損傷後(佐賀關之戰)降於與其交情不錯的黑田如水。此後在京都隱居,元和三年(1617年)死去。注一:當時中川秀成為七萬石,石高高於太田一吉,此處存疑。作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=2#postid-129 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E4%B8%80%E5%90%89
太田牛一 Ota Gyuichi(1527年-1613年)『信長公記』などの軍記と伝記の著者。官位は和泉守。通称は又助(又介)あるいは和泉を用いた。諱は天正9年(1581年)までの文書では「信定」と署名しているのが確認できる。その後の書状では、年代の確実なもので古いものは天正17年(1589年)から「牛一」と署名して、晩年までこれを続けた。そのため信長の死んだ天正10年(1582年)前後に諱を変えたのではないかと言われている。また平家語り一方流琵琶法師が名乗りの一文字の末尾に「一」を付けるので、それに倣ったという説もある。大永7年(1527年)、尾張国春日井郡山田荘安食村(現・名古屋市北区)の恐らく土豪の家に生まれる。成願寺において僧侶をしていたが、還俗し斯波義統の家臣となる。 天文23年(1554年)7月12日の義統殺害の後、那古野城の織田信長の保護を求めた遺児の斯波義銀に付いて織田家に行った可能性がある。天文23年(1554年)、信長の家臣・柴田勝家に仕え足軽衆となる。同年7月18日、安食の戦いに参加する。義統弔い合戦の意味もあったと思われる。弓の腕を認められ、信長の直臣となり弓3人鑓3人の「六人衆」の一員となり近侍衆となる。永禄7年(1564年)、美濃斎藤氏の堂洞城攻略では二の丸の門近くの建物の高い屋根から弓を射て活躍し信長に褒められ知行を増やされる。その後は近習の書記となる。後には安土城下で屋敷を持ち、信長に近侍する官僚(吏僚)として、永禄12年(1569年)から天正10年(1582年)にかけて丹羽長秀の与力として京の寺社との間の行政を担当する。本能寺の変後は長秀に2,000石で仕え柴田勝家との戦いのため坂本城に長秀に従い参陣する。後に天正13年(1585年)の長秀没後は丹羽長重に加賀国松任で仕えるが、公務は息子に譲り同地で一時隠居する。しばらくして豊臣秀吉に召し出され、天正17年(1587年)から洛南の行政官僚となり再度寺社行政と検地なども担当し、この年から山城国加茂六郷を検地する。天正18年(1588年)には淀城を拠点にし、南山城と近江国浅井郡の代官も兼任する。天正20年(1590年)、肥前国名護屋へ秀吉に従軍し、道中の人足や馬を配分する奉行に就く。名護屋では名護屋城の建築工事の差配をする。文禄元年(1592年)の文禄の役では城の留守番衆として詰める。文禄3年(1594年)、大阪に戻る。文禄5年(1596年)5月9日、豊臣秀頼の初の上洛に供奉する。この時に後陽成天皇に『太閤御代度々御進発之記』を献上する。慶長3年(1598年)3月15日の醍醐の花見では秀吉の側室・三の丸殿の警護を務めた。同年3月17日、醍醐寺三宝院で門跡・義演から信長から秀頼までの記録を書いたと紹介され一部暗誦もした。同年9月18日の秀吉の没後は豊臣秀頼に仕えた。慶長6年(1601年)までに『関ヶ原合戦双紙』を徳川家康に献上し、11月7日中井宗茂にも進上する。慶長11年(1606年)、南禅寺金地院の河内真観寺領の代官になる。慶長12年(1607年)頃、『関ヶ原合戦双紙』奥書で自分の著作をまとめて「五代之軍記」と名付ける。慶長16年(1611年)3月28日、秀頼の家康との京都二条城での会見への上洛に供奉する。80代で感冒で重体となり、体力が低下したが回復する。隠居しないまま大阪城東南の重臣の屋敷地区の大坂玉造で慶長18年(1613年)に病死する。非常に長寿で壮健で慶長15年(1610年)、84歳の時の書も残っている。 記録作者として優れ、信長・秀吉・秀次、秀頼、家康の軍記・伝記を著述したが、信長の一代記である『信長公記』が、その綿密さと史料性の高さから特に有名である。戦記としても軍事的に正確で研究対象となっている。江戸時代の通常の編纂物や軍記物とは一線を画している。長篠の戦いを描いた屏風『長篠合戦屏風』は地形は前後に縮小されているが概ね、『信長公記』通りでありその信ぴょう性を高めている。人の行為、戦争や生死に対しては、天道が定めているという運命論者であり、信長の虐殺も坦々と事実を描くが批判はしない。他には安土城についても細部まで正確に記録していたことが、上層の絵の位置が一部入れ替わっているが加賀藩伝来の天守指図の発見で裏付けられた。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E7%89%9B%E4%B8%80
小川祐忠 Ogawa Suketada(生年不詳-没年不詳)小川伯耆守入道の子。正室は一柳直高娘。通称は左平次、孫一郎。官位は土佐守。左近太夫。小川氏は近江の土豪であり、宇多源氏あるいは藤原姓下河辺氏流といわれる。応仁の乱後の南近江の六角氏と京極氏の対立の中、六角氏の重臣・小川左近太夫が佐和山城主として置かれたことに始まる。六角氏の衰退した戦国後期には佐和山城を追われ、祐忠の頃には小川城を居城として浅井氏の家臣となっていた。元亀2年(1571年)8月、主家・浅井氏と敵対する織田信長と戦うが、同月下旬に織田氏家臣の佐久間信盛、中川重政、柴田勝家、丹羽長秀率いる軍勢の志村城攻略を知ると人質7人を差し出して降伏。吉田重勝、池田伊予守、後藤喜三郎、多賀新左衛門、阿閉貞征父子、久徳六左衛門らとともに赦されて(『信長公記』)、信長の旗本に取り立てられ、土佐守の官位を賜った(子も右馬允に任じられた)。天正7年(1579年)、安土城の築城に際して堀部佐内、青山助一とともに瓦奉行を命じられている(『安土日記』)。また、このころか、信長から茶会を免許されている。天正10年(1582年)、本能寺の変により織田信長が横死すると、明智光秀の傘下に入り山崎へも出陣したが敗北し、羽柴秀吉に降伏する。清洲会議で北近江が柴田勝家の領土となって後はその傘下となり、勝家の養子・柴田勝豊の家老として仕える。賤ヶ岳の戦いにおいては大谷吉継の調略を受け勝豊が秀吉に寝返ったため秀吉側として戦った。勝豊死後は秀吉直臣となる。小牧・長久手の戦いには兵250を率いて参陣、羽柴秀次の中入りにも中軍の一隊の将として加わった。天正18年(1590年)に小田原征伐にも参陣し武功を立て、正式に従五位下土佐守に叙任された。文禄元年(1592年)の文禄の役では、名護屋留守陣の将の1人として肥前名護屋城に在陣する。同2年には朝鮮へ渡海し、金海の戦いで伊達政宗とともに浅野長政を救援する功を立てた。慶長3年(1598年)、朝鮮安骨浦で討死した池田景雄の後を受けて伊予今治7万石を与えられ、国分城(国分山城)を居城とした(なお、伊予国分寺には祐忠のものと伝わる供養塔が残る)。同年の醍醐の花見においては三番茶屋を立て、茶室内には狩野山楽や長谷川宗仁ら当代一流の画師に馬、鷹などを描いた襖絵を描かせた。太閤検地にも関わり、慶長3年7月24日に西笑承兌から越前の検地が完了し総奉行の長束政家以下の奉行衆が上洛した事に関する書状(「西笑和尚文案」)を受け取っている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初、西軍に与して北国口守備にあたる(『上田軍記』では左馬允とともに2500の軍勢を率いたとされる)。本戦では小早川秀秋の寝返りに呼応して脇坂安治、朽木元綱、赤座直保と共に東軍に寝返り、家臣小川甚助の郎党樫井正信が平塚為広を討ち取る(「小川系図」)など武功を上げる。戦後、佐和山城攻略戦にも参加した。 しかし、通款を明らかにしなかったことを咎められ、戦後改易となる。改易の理由には領内悪政、嫡男とされる小川祐滋が石田三成と入魂であったなどの理由も伝わる。改易後は京に隠棲し(帰農したとの説もある)、程無く没したとされる(『武徳安眠記』)。出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E7%A5%90%E5%BF%A0
岡定俊 Oka Sadatoshi(生年不詳-没年不詳)父は若狭太良庄城(福井県小浜市)の城主、岡和泉守盛俊という。岡越後守と称し、諱は定俊。岡野左内、岡野定政、岡野定俊と書かれることもある。後に編纂された『上杉将士書上』など、上杉氏の関連文書では岡野左内となっていることから、岡野の表記も多く定まっていない。ただし現存する史料では、慶長2年(1597年)に蒲生氏が村の境界争いに出した裁定書に、奉行人の一人として岡左内の名で署名がある。元亀4年(1573年)に織田信長が若狭を制圧した後、領主となった丹羽長秀に仕えずに若狭を離れ、蒲生氏に仕官したものと考えられる。『武徳編年集成』によれば天正12年(1584年)秋から半年の間、蒲生氏郷は木造具政の篭城する戸木城を包囲した。この戦いで18歳の岡源八なる者が、敵将の畑作兵衛重正を討ち取ったという。この源八が左内であるとされる。合戦で多くの功績を挙げ、氏郷が会津92万石を領してからは1万石の知行を与えられた。氏郷没後の慶長3年(1598年)、蒲生騒動で宇都宮18万石に減封となったが、ここで蒲生氏に替わり会津を領地とした上杉氏に仕え直した。上杉氏宰相の直江兼続から4200石を与えられている。上杉氏と伊達氏が争った慶長6年(1601年)の松川合戦では、伊達政宗を散々に打ち破る戦功を挙げたという。『武辺咄聞書』によれば、南蛮の伴天連より贈られた「角栄螺の甲」と「鳩胸鴟口の具足」を身につけていたとされ、これは西洋甲冑(南蛮胴)ではないかといわれている。上杉氏が120万石から米沢30万石に転封されると、再び会津60万石の領主となった蒲生秀行に仕え、1万石の猪苗代城城代に任ぜられた。熱心なキリシタンでもあり、私財で教会や神学校を建て、神父を招いて布教に励んだという。子孫は後に蒲生氏が改易されてからは、黒田氏や津軽氏に仕官した。いくつかの逸話が知られているが、利殖に巧みであり、部屋中に金銭を敷き詰めて、その上で裸になって昼寝するのを楽しみとしたという。この話はよく知られ、『雨月物語』中の一篇「貧福論」にも採用されている。単なる守銭奴ではなく、慶長5年(1600年)の会津征伐では上杉家諸将が急な戦費調達に苦しむ中、こういう時にこそ惜しみなく使わねばならないと、財貨を主君の景勝に献上し、同僚に貸し与えた。上杉氏の転封に当たっては、借財の証文を全て焼き払って退散し、直江兼続からもその人物を惜しまれたという。出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%AE%9A%E4%BF%8A
明智光秀 Akechi Mitsuhide(1528年?-1582年)明智光綱的長子、母為お牧の方、養父明智光安、正室為妻木範熙之女.熙子;幼名彥太郎,通稱十兵衛、惟任日向守,號笑庵,戒名秀岳院宗光禪定門。光秀早年的事蹟記載甚少。根據明智軍記記載,光秀最初侍奉美濃明智城主齋藤道三,後來道三成為大名,光秀亦成為齋藤氏家臣,後來因為齋藤義龍和道三的內亂,光秀支持道三,道三在長良川交戰戰死,光秀及家人來到若狹武田氏後前往越前朝倉氏,其後隨足利義昭一同投靠織田信長。與織田信長結盟後,在京都執行政務工作。在加入信長家臣團後因功勳卓著而受到重用,永祿十一年(1568年)協助攻打觀音寺城,並在隔年的本國寺之變中抵禦三好三人眾的反撲建立功勞,但是足利義昭突然謀反,試圖與織田氏鄰接大名成立信長包圍網,光秀決定叛離義昭,成為信長的直臣,其後為信長在攻打淺井及朝倉立下功績,在元龜二年(1571年)被分封到近江國滋賀郡,並築起阪本城,賜姓惟任,官至日向守。光秀為織田信長參與一向宗以及應付荒木村重的內亂,肅清內亂後再被信長任命攻打丹波國的波多野氏,在天正五年(1577年)成功擊敗波多野秀治,成為一國之主,接著光秀在該地築起新的龜山城及福智山城,擁有指揮織田家附近城主的重要武將。由於光秀的領地在近畿地方亦被稱為「近畿管領」(與關東管領不同,純粹是一個稱呼,並非實在的官位)『明史』外國列傳二百一十外國三也曾記載日本部份的該段史蹟,不過可能源自於聽說,所以文中出現阿奇支為織田信長部下,但織田最後死於明智之手的記載,阿奇支(Akechi,日文明智的唸法)。「日本故有王,其下稱關白者最尊,時以山城州渠信長為之。偶出獵,遇一人臥樹下,驚起衝突,執而詰之。自言為平秀吉,薩摩州人之奴,雄健蹺捷,有口辯。信長悅之,令牧馬,名曰木下人。後漸用事,為信長畫策,奪並二十餘州,遂為攝津鎮守大將。有參謀阿奇支者,得罪信長,命秀吉統兵討之。俄信長為其下明智所殺,秀吉方攻滅阿奇支,聞變,與部將行長等乘勝還兵誅之,威名益振。」光秀為何突然叛變織田信長,到今天仍然是未解之謎,路易斯.弗洛伊斯於『耶穌會日本年報』上記載當時光秀率軍衝入本能寺並向信長射箭;當時的權中納言山科言經的『言經卿記』亦明記發生時間與光秀衝入本能寺。天正十年(1582年)6月3日、4日期間,光秀費力勸降諸方勢力,尤其希冀細川藤孝跟筒井順慶加入己方,但多數家臣對光秀弒主行為感到不齒皆選擇回絕,少數支持者都是實力不成氣候的小勢力。5日,光秀進入安土城。7日,朝廷派敕使拜訪光秀,任命其為京都守護。9日,正準備前往京都時接到羽柴秀吉回師的消息後出兵山崎。於6月13日,光秀回軍與羽柴秀吉、丹羽長秀、織田信孝等戰於天王山(山崎之戰),由於兵少勢微,加上多數部將選擇支持打出討逆叛徒口號的秀吉軍,明智軍潰敗;光秀循小路欲逃回阪本,卻於當日深夜在小栗栖被刺殺。出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80