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中川秀成

中川久盛 Nakagawa Hisamori(1594年-1653年) 中川秀成的長子、母為佐久間盛政之女(新庄直賴養女).虎姬、正室為松平定勝之女(德川家康養女)、子中川久清(長子)、女子(水野忠職正室);官位從五位下內膳正。 其祖父中川清秀與外祖父佐久間盛政在賤嶽之戰中分屬兩方而戰。 慶長十七年(1612年)父親秀成死,繼承家督。元和九年(1623年),受幕府之命協助處理松平忠直改易事宜,岡藩曾被選定為松平忠直流放之地。 慶安四年(1651年)讓位於長子久清,共在位39年,在位期間制定「禦政事禦定書」等岡藩基本法令。 承應二年(1653年)死去,年五十九歲。 作者 江蛤蟆 出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=2#postid-126
中川清秀 Nakagawa Kiyohide(1542年-1583年) 父は高山重清(中川重清、中川佐渡守重清)で、母は中川清村の娘。 父である中川重清は、桓武平氏良文流の後裔である常陸の高山重利の次男とされるが疑問点もある。 高山右近の父・高山友照は、中川清秀の父・高山重清と兄弟であるとされているが、高山友照は摂津出身とされているので、常陸から来たのか、元々摂津出身なのか、それともどちらかが明らかな養子なのか?余計に出自に疑問が残り、良くわからない。 ともあれ、中川清秀の父・高山重清は1535年頃?に常陸から京の都に上って、その後、摂津国に移ると中川清村に仕えたとされる。 その後、主である中川清村の嫡男・中川清照が戦死し、跡取りがなくなった中村清村は、娘と高山重清を結婚させて養子に迎え、このとき、高山重清は平氏から源氏に改め、中川重清と改名した。恐らく、父・高山重清は有能な武将だったのだろう。推測するに、1541年前後と考えられる。 そして、子になる中川清秀が1542年に誕生したのだ。幼名は虎之助。通称は中川瀬兵衛。 中川重清は稲田城主として摂津の小大名となったが、周辺には巨大勢力があり、領土経営は大変難しい状態であった為、池田城主・池田勝正に最初従属。 しかし、1564年、山崎恒政(山崎右馬允)に攻められて敗走。のち稲田城を再興するが、1570年には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降伏。以後、池田氏家臣である荒木村重の重臣として仕えた。 父・中川重清の没年や家督が譲られた時期は不明なので、この頃、既に中川家は中川清秀が率いていたと考えられる。 中川清秀の正室は稍姫(熊田宗白の娘、やや)で、1568年には中川清秀の嫡男・中川秀政、1570年には次男・中川秀成が誕生している。 池田家の一家臣であった荒木村重は、池田城から池田勝正を追いだして池田家を掌握すると、1571年には白井河原の戦いで荒木村重と中川清秀が、茨木城主・茨木重朝と高槻城主・和田惟政を討ち取ると中川清秀が荒木村次を補佐し実質的な茨木城主となった。そして、中川清秀は1577年に正式に60000石の茨木城主となっている。 この荒木村重の活躍に目をつけたのは1568年に上洛を果たした織田信長で、荒木村重は織田信長から厚い信頼を得て摂津一国を任された。 1573年、中川清秀は、柴田勝家が指揮する河内の高屋口の合戦に参加し、宣教師や相手方の首を切り、功をたてた。 1574年11月5日に、荒木村重・中川清秀らは伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を支配。高槻城主となっていた高山右近も、荒木村重の与力として加わったが、荒木村重の活躍もこう言った有能な武将が支えていたことが分かる。 しかし、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や黒田官兵衛・竹中半兵衛・蜂須賀小六らと三木城攻めをしていた1578年7月、荒木村重が戦線を離脱して有岡城(伊丹城)に戻り織田信長に謀反を起こす。 この荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣とする説がある。 荒木村重は、織田信長の使者である明智光秀、松井友閑、万見重元に説得や、高槻城の高山右近の説得も受けて、釈明のため安土城に旅だったが、途中で寄った茨木城で中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹城に戻った。 この事により、織田勢は有岡城を包囲し、有岡城の戦いとなる。 中川清秀や高山右近らも縁故であるということもあって荒木村重に味方し各持ち城にて籠城し、荒木村重は有岡城に篭城。 黒田官兵衛も荒木村重説得の為単身で赴くが、牢に捕えられてしまった。 荒木村重は織田勢に対して徹底抗戦をしたが、中川清秀は10月28日に織田勢と戦わずに降伏し、高山右近も11月に降伏。 荒木村重は圧倒的に不利となったが、1年籠城し翌年1579年9月2日に有岡城は落城した。 領土安堵された中川清秀は、その後、織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の旗下として転戦。 娘である糸姫は、池田恒興の子・池田輝政に嫁いでいる。 1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、高山右近と共に行動し羽柴秀吉勢に合流して、山崎の戦いで主戦力として活躍。 1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも先鋒二番手として参戦。 しかし、大岩山砦を高山右近・三好秀次らと守備していた際に、柴田勝家勢の勇将・佐久間盛政の猛攻を受けた。 中川清秀の家臣、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉らも防戦に奮闘したが、中川清秀の弟・中川淵之助も討死し、中川清秀も自害。享年42。 墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。 この時、命を落とした中川家臣は、中川清秀以外に、中川淵之助熊田孫七資一熊田兵部次矩熊田三太夫資之森本道徳山岸監物重本杉村久助正英森権之助鳥養四郎太夫大田平八菅杢伝兵衛重武野尻出助重英藤井半右衛門田代太左衛門奥彦太夫光英奥彦作奥孫兵衛田能村杢左衛門入江土佐赤井弥次右衛門元定高山総吉桜井河内正利野口新助田島伝次右衛門玄正亡知半。 他には台所人11人仲間御小人20人余雑兵300人となっている。 当時の梅林寺住職・是頓和尚は、中川清秀戦死の報を受けると、すぐさま賤ヶ岳に向かい、遺髪を貰い受けて持ち帰り菩提を弔ったと言う。 中川家の家督は長男・中川秀政が相続して茨木城50000石を継ぎ、その後見人には古田重然がついた。 この古田重然は千利休の死後は天下一の茶人となった人物で「利休七哲」の一人とされ「織部流」開祖で、古田織部と呼ばれた方が有名か?古田重定(茶人である)の子で、妻は中川清秀の妹・せんである。(1569年に結婚) その後、中川秀政は古田重然と共に、小牧長久手の戦いや、四国攻めに参戦し手柄を立て、三木城主13万石となり、1590年の小田原攻めにも2000を率いて出陣している。 しかし、1592年の文禄の役で、朝鮮で鷹狩りの最中に敵兵に包囲されて亡くなった。享年25。 出處 http://senjp.com/nakagawa
中川秀成 Nakagawa Hideshige(1570年-1612年) 中川清秀次子、母為熊田宗白之女、中川秀政之弟、正室為佐久間盛政次女(新庄直賴養女).虎姬(注一)、子中川久盛(注二)、女子(水野元綱正室)等。 天正十一年(1583年),父親清秀於賤嶽之戰戰死之後,由其兄秀政繼承家督。 然而,兄秀政在文祿之役時,文祿元年(1592年)10月24日於朝鮮半島在鷹狩途中被敵方包圍殺死。中川家唯恐此類失態之事上報會遭改易故以「戰死」上報,被發現,豐臣秀吉大怒。然而考慮到其父清秀於賤嶽之戰之功,秀成獲得其兄遺領一半的播磨國三木6萬6千石仕於秀吉。文祿二年(1593年),第二次晉州城攻防戰被命令動員兵員一千。 文祿三年(1594年)2月,秀成受豐臣秀吉命令轉封豐後岡城7萬4千石。同年任官並獲賜豐臣姓。於慶長二年(1597年)慶長之役で動員一千五百人渡海,屬右軍,8月16日參加黃石山城攻略戰。諸將齊聚參加全州會議後獲得同池田秀雄一同壓制泰仁、光州之指示。此後,參加全羅道經略再確認之井邑會議,自忠清道轉戰全羅道。 慶長五年(1600年)關原之戰,將家臣送往丹後田邊城助力西軍攻城,關原本戰結束後倒向東軍。攻擊西軍方之臼杵城主太田一吉並於佐賀關之戰討取太田方多數家臣,因此功績戰後所領安堵。 慶長十七年(1612年)死去。其子中川久盛繼承家督。 注一:賤嶽之戰中,父親中川清秀為佐久間盛政所殺,故虎姬乃是殺父仇人之女。然而兩人感情不錯,育有子女七人,其中末子繼承佐久間家。 注二:多數資料顯示其為長子,然而原文為次子且無出處,此處存疑。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=2#postid-126 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%88%90
來島通總 Kurushima Michifusa(1561年-1597年) 村上通康的四男、母為河野通直之女、正室平賀廣相之女;幼名牛松丸、通稱助兵衛、別名通昌;初名村上通總,後以居地「來島」為姓,名為來島通總。 出身於瀨戶內海上的來島村上水軍。村上水軍的歷史相當悠久,其淵源目前以屬於河野氏分支的說法最為有力,後來村上水軍分別以所盤據的島嶼為名分成能島、因島、來島三家,既各自發展又互相支援。在來島村上氏二代目吉元時,被伊予守護河野氏收編,承認為其家臣,來島村上水軍作為河野水軍負責起瀨戶內海一帶治安,在岩城島的關立和大崎下島的御手洗設置海關,進行警戒和收取帆別錢為主。所謂的帆別錢,就是關稅,約為船上貨物價格的十分之一。 在父親通康的時代,由於河野通直無子,有意收女婿村上通康為養子繼承,但是卻受到河野一族重臣的強力反對,因為河野家臣團多是傾向由予州分家當主河野通存之子通政為繼,雙方為此幾近兵戎相向,史稱「來島騷亂」,最後是豐後大名大友義鑑出面調解,通直退讓隱居,由河野通政繼位當主,但是通政不久即病故,遂以其弟通宣繼承,後來通宣娶了伊予高仙城主河野通吉的遺孀,遂以其子牛福丸為繼承人,由於通吉生前為了河野氏宗家和予州分家的和諧多次奔走,同時擅長內政在領民中威信很高,所以河野家的主權至此終於確認。此外根據近年部分日本學者的研究,多年來被認為是河野通存之子通政,很可能是河野通直之子,而來島騷亂其實是掌握兵權的女婿與擁有正統血脈的嫡子間的爭端。不論如何此一爭端的結果,對村上通康並無益處,家中主權從主家傳到分家,再從分家傳到分家的分家,就是身為河野通直直系血親的自己完全沒份,儘管在通康一代,這股怨氣並未發作,但卻傳承到了其子通總身上,雙方君臣關係自此惡化。 永祿十年(1567年),村上通康辭世,通康遺下的三子中,長子通年改繼承得居氏、次子吉清庶出、三男又右衛門早故,因此由年僅七歲的四子通總承繼家督之位,以長子得居通年及一族中的重臣村上吉繼輔佐。永祿十二年(1569年),毛利家和大友家在築前展開攻防戰,基於河野家和毛利家的同盟以及自父親通康以來和毛利家的良好關係,通總率領來島村上水軍加參毛利方,然而同時領軍出戰的能島水軍之主村上武吉卻接受了大友宗麟的寢返,無視毛利方的命令,自行將船開往周防上關,導致來島村上水軍陷入獨戰大友水軍的苦戰困境,造成來島方極大的損失,此後來島村上家與能島村上家徹底反目。 元龜二年(1571年),在毛利家的授意下由元就三子小早川隆景率小早川水軍聯合了來島通總和因島村上、乃美、兒玉、白井等各路水軍,圍勦村上武吉的本城能島城,最後村上武吉接受了小早川隆景的說服回歸毛利家,從此忠心不貳。當時制霸畿內的織田信長正領軍籠城圍攻一向宗本山石山本願寺,為了救援盟友本願寺,於天正四年(1576年)時毛利家組成下令水軍眾對石山本願寺進行物資輸送的工作。由於來島村上多是信奉曹洞宗,通總對救援一向宗並不積極,僅由重臣村上吉繼出戰,毛利家也讓村上武吉任主將,率領三島村上水軍組成的八百艘船隊出發,並在木津川口大敗織田水軍。 織田信長為了壓制毛利方在水上的優勢,信長採用剛柔並濟的手段,一方面讓九鬼嘉隆與瀧川一益著手開發新武器鐵甲船。一方面,其麾下進攻西國的主將羽柴秀吉(豐臣秀吉)也對長年有著心結的來島、能島兩家村上水軍施行分化策略,遊說勸誘通總。天正六年(1578年),三島村上水軍在木津川口為織田水軍的鐵甲船大敗,使毛利方痛失以往在水上的戰鬥優勢。同時,河野家也意圖削減通總徵收帆別錢的利益,要求上繳一部份給主家河野氏。至此,通總自父輩以來對河野氏長年來的不滿終於爆發。就心理學角度來分析,通總對河野氏當主之位有著潛在的渴望,人對本有機會卻又不再可能入手的利益有著最大的不甘與野心,對父親本來有機會可繼為河野當主卻不成,有著相當的怨氣,尤其當時通總年紀仍小,所以更容易因為對事情的看法不成熟而有著自我判斷黑白的刻板印象留存,而在心中潛藏了對河野氏的不忿,甚至有意願替父親奪來這家督之位,這樣的心理狀態其實就跟東晉時桓溫逼位不成,後來其幼子桓玄繼而行之的行為相若。 天正七年(1579年),通總聯合風早郡鹿島城城主二神豐前守和來島村上氏一族的葛籠屑城主村上吉高向河野氏樹起反旗,透過秀吉的使者接觸織田方,並且攻滅靈仙山城的中川氏和幸門城正岡氏,後二神豐前守意圖襲殺野間郡高仙山城主池原通成,但是以失敗告終,於是二神豐前守隨即進攻高仙山城,但是再度兵敗,投入來島城依附通總。當時通總起兵,未得到重臣村上吉繼的認同,於是以吉繼為首,仍有一部份家臣依然留在河野家。翌年,葛籠屑城主村上吉高被河野氏攻破,同年九月通總進攻風早郡柳原時也為橫山城主南通師所阻。 天正十年(1582年)三月,通總正式投向織田家,毛利家為防因島、能島兩家村上水軍有相同行為,於是要求兩家再度重申盟約,後聯合出兵聲討來島村上家,同時以能島村上氏為主攻入越智郡大島、風早郡忽那島和來島村上氏交戰,儘管通總和二神重成一度擊退來犯的毛利軍,但是在因島村上氏、河野氏也加入戰局後,在兵力懸殊下通總先於惠良山城戰敗,後於當年六月,龍門城、靈仙山城相繼陷落,連居城來島城亦不保,最後通總為逃生與兄長得居通年持舟越海至備中上岸,投向羽柴秀吉陣營。後在京都時,羽柴秀吉以「來島」代稱時任秀吉側近的通總,於是通總遂於此改以居地為姓,將姓氏由「村上」易為「來島」改名來島通總。 自織田信長於本能寺之變中橫死後,毛利家與羽柴秀吉再不敵對,而秀吉也在山崎會戰討伐明智光秀、賤岳之戰打敗柴田勝家後成功取代信長的地位,天正十二年(1584年)時在秀吉的命令下來島通總自村上武吉處取回了失去兩年多的來島城。後於天正十三年(1585年)秀吉發起四國討伐時,來島通總隨毛利軍進行伊予侵攻,擔任小早川軍的先鋒活躍。戰後來島通總因功領伊予野間郡一萬四千石,其兄得居通年領風早郡三千石,成為秀吉麾下大名之一。後在天正十六年(1588年),羽柴秀吉頒布海賊停止令,村上武吉因強烈反對這項律法被秀吉下令流放至長門,而來島通總則作為秀吉家臣,在參加天正十五年(1587年)的九州征伐參加毛利軍攻下豐前宇留津城、十八年的小田原征伐時與九鬼嘉隆、加藤嘉明組成水軍自海上對小田原城進攻,建立戰功。 文祿元年(1592年),秀吉起兵侵略朝鮮,來島通總攜兄長得居通年和長子康親率七百水軍與同為四國大名的福島正則、蜂須賀家政、生駒親正組成兩萬四千的第五隊大軍越過對馬海峽,主要負責人馬和兵糧的輸送。同年五月七日,李氏朝鮮的全羅左道水軍節度使李舜臣在玉浦沖擊破藤堂高虎的船隊,自此開始日本水軍完全為其所制,補給線被斷,種下了日後陸軍失敗的要因。 文祿四年(1595年),來島通總在秀吉的奏請下敘任從四位出雲守。慶長二年(1597年),日朝之間的和談破裂,來島通總於八月下旬率六百人和藤堂高虎、中川秀成、菅達長組成水軍再度侵朝攻打南原城,後呼應陸軍沿全羅道的南海岸行進,於九月六日在蘭浦一帶與李舜臣率領的朝鮮水軍遭遇,朝鮮軍伺機退向鳴梁渡,十四日移進右水營沖,藤堂高虎遂於九月十六日發動全軍衝擊朝鮮水軍,但是卻被熟悉當地海域的李舜臣利用逆流時遊走砲擊,擊沉日軍三十艘戰船,日軍大敗,史稱「鳴梁海戰」,是役之中來島通總與兄長得居通年身中流矢陣亡,享年三十七歲,也成為整個文祿、慶長之役中唯一戰死的大名。 通總戰死後,領地由長子康親繼承,後於關原之戰中因為和毛利家的關係加入西軍,戰後被除封,最後透過妻子的伯父福島正則請德川家康側近本多正信斡旋加上片桐且元的緩頰方於慶長六年(1601年)在豐後得到玖珠、日田、速見三郡一萬四千石的領地,是為森藩,並於二代通春時將苗字由「來島」改為「久留島」,在明治維新後被列為子爵,昭和時期的名童話作家久留島武彥就是其後裔。 出處 http://forum.gamer.com.tw/G2.php?bsn=00064&parent=65&sn=1277&lorder=15
太田一吉 Ota Kazuyoshi(生年不詳-1617年) 太田宗清之子、子太田一成;又稱飛驒守、小源五。別名政信.宗隆.政之.重之.重正等。 一吉所屬太田氏本姓為菅原氏因出身美濃國太田村而得名。本為斯波氏家臣,後父宗清出仕織田氏。 初仕於丹羽長秀,長秀死後改仕豐臣秀吉。朝鮮出兵擔任軍監,文祿之役中參加晉州城之戰。因文祿之役中大友義統臨陣脫逃遭改易之故,獲封其舊領豐後國臼杵6萬5000石。此外,關於一吉之出世(豐後國諸大名中,6萬5000石已屬高祿)一說是因為一吉與石田三成私交甚好,故受了其蔭庇。後於慶長之役參加南原城之戰與蔚山城之戰。再後與福原長堯以及熊谷直盛等作為吏僚一派,與加藤清正、福島正則等為首的武斷派對立。 慶長五年(1600年),關原之戰中派遣甥太田政成加入東軍,親子一成參加西軍,自身在臼杵城稱病不出。然而人們從此態度中發覺一吉屬於西軍一側,臼杵城遭東軍方黑田如水及中川秀成進攻後降服。順帶一提,一吉此時認為向低祿之秀成(注一)降服乃是一大恥辱,與秀成進行徹底交戰對其造成損傷後(佐賀關之戰)降於與其交情不錯的黑田如水。 此後在京都隱居,元和三年(1617年)死去。 注一:當時中川秀成為七萬石,石高高於太田一吉,此處存疑。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=2#postid-129 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E4%B8%80%E5%90%89
田原親賢 Tawara Chikakata(生年不詳-1600年) 大友氏の家臣・奈多鑑基の子として誕生。主君・大友宗麟の義兄(妻の兄)にあたるため、側近として重用された。 大友氏一族・田原氏の傍系である武蔵田原家の田原親資(ちかすけ)の養子に入り、宗麟に服従しようとしなかった田原本家(田原親宏)の牽制を行う役目を担った。こうしたこともあり、親賢の大友家中における地位は大幅に引き上げられていき、永禄8年(1565年)には加判衆となり、臼杵鑑速の死後は国政の大部分を預かるようになっていった。こうした親賢の急速な台頭に対し、重臣の立花道雪は異を唱えたが受け入れられず、大友三老など他の重臣が死去していくにつれ、さらに立場を強化していった。 ただし、宗麟はキリスト教を好んだが、親賢はキリスト教を嫌悪したらしく、養子の親虎がキリシタンとなった(洗礼名はドン=シマン)ことを知ると妹の奈多夫人のすすめもありこれを廃嫡したほどである。しかし、あくまで宗麟に対しては忠実で、その所領は大友家中でも随一とされ、当時の宣教師の記録にもその旨の記載がある。 そして大友氏の帰趨を決する戦いとなった天正6年(1578年)の耳川の戦いにおいては全軍の総指揮を任されることになったが、島津氏に大敗を喫してしまう。事実上、大友一族の凋落はこの一戦から始まっており、今日の親賢を無能と断定する評価の大部分はここから来ている。ただしもともと神仏を排撃する宗麟への不信感が高まっていたことや筑前・豊前などの遠方からかき集められた兵士も多かったことから大友方将兵の士気は低く、また贔屓にされる親賢への反感も相まって指揮系統も混乱を来していた。さらに敵である島津方の史料では「大友方でもっとも奮戦していたのが田原紹忍」と記述されていることもあり、実際の戦場での親賢の働きぶりは明確ではない。 ともあれ妙見嶽城に戻った親賢は敗戦の責を追及され、勢力の巻き返しを図る田原本家の親宏の主張で親宏から奪っていた所領を没収された。天正9年(1581年)には廃嫡した親虎に代わり宗麟の子で自身の甥にあたる大友親盛を養嗣子として迎え、家督を譲ったが、田原本家の田原親貫(親宏養子)が謀反を起こすとそれの討伐にあたるなど、引き続き大友氏のために尽くした。なお、キリスト教への嫌悪は増したらしく、耳川の敗戦はキリシタン信仰によるものとし、キリスト教の施設の破却を宗麟に主張している。 島津氏の豊後侵攻(豊薩合戦)の際には妙見嶽城を親盛に任せ、高崎山城を守備している。後に大友氏の家督を継いだ大友義統が府内を脱出した際にはこれを高崎山城、ついで親盛の守る妙見嶽城へと送った。戦後も吉統の側近として、天正15年(1587年)の宗麟の葬儀の出席や、吉統の嫡子・大友義乗の豊臣秀吉への謁見に随行している。 文禄2年(1593年)に大友氏が改易された後は、豊後岡城主の中川秀成に与力として2000石余で仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに先だって旧主・大友義統が毛利氏の手引きで西軍に与して挙兵すると、他家へ仕えていた宗像鎮続(むなかた しげつぐ)や吉弘統幸をはじめ豊後各地から集まった大友旧臣らとともにこれに従った。しかし石垣原の戦いで鎮続・統幸は討死し、吉統は黒田如水に降伏した。親賢は中川氏に帰参するも、西軍方の太田一吉との戦闘(佐賀関の戦い)に投入され討死した。法名は真士院本誉紹忍居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8E%9F%E8%A6%AA%E8%B3%A2
長束正家 Natsuka Masaie(1562年?-1600年) 豐臣政權五奉行之一。據傳父為水口盛里(安藝守)。弟有長束直吉等。長束助信、長束長吉、還譽岌閑等之父。近江國水口岡山城主。 本姓大藏氏。另有記錄說本姓為水口氏,因天正年間居城水口城被攻陷而待在長束村,取其地名改姓長束。熊本藩侍帳關於正家子孫的項目(注一)記載中至正家之父盛里為水口氏,正家以後為長束氏。 永祿五年(1562年),生於近江國栗太郡長束村(一說生於尾張國,今愛知縣稻澤市長束町有長束正家邸址碑),水口盛里長子。 起初仕於丹羽長秀,天正十三年(1585年)被提升為羽柴秀吉(豐臣秀吉)的奉公眾,丹羽氏因財政不正被豐臣家彈劾遭受大減封處分,正家以賬簿為證據據理力爭。後來成了豐臣家的直屬家臣。由於其算術能力高超,一手包攬了財政工作,此外還負責管理豐臣氏的藏入地以及實施太閤檢地。 天正十四年(1586年)之九州征伐及天正十八年(1590年)之小田原征伐中出任兵糧奉行負責調配軍糧,將二十萬石軍糧送至前線,毫不耽擱,此外在小田原周邊買米三萬石,作為小田原斷糧戰術的一環。對支城作戰中家臣家所帶刀、臼杵平四郎、一宮善兵衛、有阪宮內、增田新次郎等參與忍城攻城戰立功。正家本人也於里見氏臣從於豐臣秀吉時負責向其傳達命令。戰後作為正家家臣的弟弟正隆(長束直吉)被秀吉招募成為直參。文祿慶長之役留守肥前名護屋同時擔任兵糧奉行。其間,於天正十四年(1586年)娶本多忠勝之妹榮子為正室,天正十七年(1589年),長子半右衛門助信出生。遂將山中三十郎派往半右衛門處擔任家老(『北野社家日記』)。天正十八年(1590年)正月13日負責迎接作為人質上洛的德川秀忠,與德川家的關係加深。 正家同時參與了農村支配工作,文祿三年(1594年)2月與豐臣秀次談話,中川秀成入封豐後時與鄰接的藏入地代官太田一吉尋求合作以重建因戰亂而荒廢的農村,指示了逃亡農民的還鄉政策。與此同時期還參與了伏見城的建設。 文祿四年(1595年)正家拜領近江水口城5萬石,同時名列五奉行的末席。慶長二年(1597年)加增至12萬石,官位也升遷至從四位下侍從。將領內的家松山的淨慶寺改名大德寺並給予保護,因此緣故,日後遺兒被該寺收養,成為該寺三世門跡,號還譽岌閑(注二)。蒲生秀行遭受減封時,正家招聘了蒲生家的浪人松田秀宣等人。 豐臣秀吉死後加入石田三成一方,共同謀劃打倒德川家康,然而並未阻止家康進入伏見城,與前田玄以一同懇求家康中止會津征伐然而未被採納。後來街頭巷尾流傳著其子與家臣計劃暗殺前往參加會津征伐的家康的傳說,家康因甲賀眾篠山景春通報之故過水口城不入。 慶長五年(1600年)與石田三成等人一同擁立毛利輝元為總帥起兵對抗家康。開戰之始為山崎家盛所騙,將池田輝政的妻子扣留於大阪城作為人質的計劃失敗。後來派遣陣代家所帶刀,武者奉行伴五兵衛帶兵參與進攻伏見城,在家臣甲賀眾鵜飼藤助的斡旋下成功策反了城內的甲賀眾,得以攻陷伏見城。8月下旬參與攻擊伊勢安濃津城(安濃津城之戰)。然而轉戰伊勢過程中將少數敵軍船隊誤認作德川家康本隊後撤退,十分失態。此後,正家派遣弟弟直吉留守水口岡山城,自己前往大垣城。 關原之戰中與毛利秀元、吉川廣家共同佈陣於南宮山(岐阜縣不破郡),在本戰開始前在南宮神社附近與淺野隊交戰,還與池田輝政隊交火。然而關原本戰中由於吉川廣家掣肘,與毛利秀元、長宗我部盛親一樣未能參戰,因西軍崩潰不得不撤退。據傳此時為幫助島津隊撤退派遣家臣為其帶路。 逃出戰場後在水口城附近遭到山岡景友(注三)部隊攻擊敗走,弟玄春被捕,遭到處刑。正家在松田秀宣活躍下得以逃入城中。得到攻城方龜井茲矩、池田長吉本領安堵的承諾後出城,然而這是兩人為騙他出城耍的花招,正家因而被捕。此時重臣嶺三郎兵衛、家所帶刀、伏兔彥之丞以下6人也被攻入城中的池田軍活捉。被捕的正家與弟弟直吉一同由家臣奧村左馬助擔任介錯切腹。據說其享年39歲。重臣6名也於同日在近江日野切腹。首被放在京都三條橋示眾,財產被池田長吉奪走。祀所在當地古城山的阿迦之宮。 注一:正家之子長束長吉娶了細川藤孝的外孫女為妻,憑著這層關係得以仕官於熊本藩細川家。 注二:正家與本多榮姬之子,生於關原之戰後,出生後其母即去世,由長束家遺臣養大,後來在大德寺出家。 注三:山岡景友:足利氏家臣,後仕於織田信長和豐臣秀吉。關原之戰中屬於東軍,戰後成為常陸古渡藩主,石高一萬。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=6#postid-180 日文出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%9D%9F%E6%AD%A3%E5%AE%B6