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上杉憲政 Uesugi Norimasa(1523年-1579年) 上杉憲政為關東管領上杉憲房(上杉顯定養子)之子,後來成為上杉家本宗之山內上杉家當主。 大永五年(1525年)憲政於二歲時,父親去世,因為年幼,關東管領一職暫由憲房養子上杉憲寬代理。享祿四年(1531年),憲政成年之後,放逐憲寬,繼承祖先所傳來之關東管領地位。關東管領原為室町幕府所設置,用以輔佐鎌倉公方(由足利尊氏之子孫擔任)的關東武家棟梁,但鎌倉公方與幕府將軍衝突日盛,關東管領上杉家在幕府的授意下,反而驅逐鎌倉公方而稱雄於關東。但上杉家分裂為山內上杉氏與扇谷上杉氏,兩家互相爭權,讓北條早雲、北條氏綱父子有機可趁,而蠶食鯨吞關東各地,憲政之養祖父上杉顯定先前又在討伐越後長尾為景時戰死,故至憲政繼承關東管領時,上杉家之實力及威望已大不如前。但憲政仍然派兵協助信濃海野棟綱與入侵東信地區的甲斐守護武田信虎交戰,伺機擴大勢力。 天文十年(1541年),氏綱病逝後,北條家由北條氏康繼承家督,憲政認為機不可失,外交上與駿河守護今川義元呼應夾擊北條家,並聯合古河公方足利晴氏,扇谷上杉家之上杉朝定,將關東舊勢力予以統合,集結大軍進攻武藏河越城,企圖一舉粉碎關東新勢力的北條家。河越城守將北條綱成堅守不退,聯合軍久攻不下,氏康與義元協議休兵結束在東駿河的戰事後,舉兵北上,與綱成裡應外合,擊破聯合軍,憲政敗退,返回上野平井城。但憲政卻又持續支持東信豪族與信虎之子武田信玄對抗,不顧長野業正等人之勸阻,派兵支援東信豪族,但在「小田井原之戰」遭到擊敗,損兵折將。 天文二十年(1551年),氏康率大軍北上進逼武藏、上野交界處之神流川附近,憲政派長野業正及太田資正與氏康作戰,不敵落敗,憲政麾下的大小勢力次第降服,憲政的居城平井城僅為平日作為關東管領統治機構之居館模式,無適當之防禦工事可資抵擋,憲政惶惶終日,不得安寧,最後接受資正之建議,棄國逃向北方之越後,依附其父祖之仇人長尾為景之子長尾景虎(上杉謙信)。 謙信同意協助憲政,興兵進攻關東,直逼氏康之小田原城,氏康守城避戰,景虎前往鎌倉鶴岡八幡宮,由憲政收其為養子,改名為上杉政虎,就任關東管領之職,憲政則剃髮出家,號光徹。但信玄、氏康聯手在關東地區對抗謙信,憲政無法返回上野,一直待在越後度過悠悠歲月。 未料,天正六年(1578年),謙信驟然病逝,養子上杉景虎(北條氏秀,為氏康之子)與外甥上杉景勝發生繼承爭議,憲政聽從近臣之建議,認為支持氏康之子的景虎,有利於將來與北條氏政交涉返回上野之事,但景勝在通口与六(直江兼續)的策劃下,搶先以武力佔據春日山城,同時外交上與信玄之子武田勝賴和解,勝賴背棄景虎轉而支持景勝。景虎逃至謙信先前所營建作為憲政居館之御館,尋求庇護,景勝一不做二不休,派軍進攻御館,憲政自殺,享年五十七歲。景虎後來也遭到殺害,景勝最終成為越後國主,史稱「御館之亂」。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401636
上杉景信 Uesugi Kagenobu(生年不詳-1578年) 古志長尾家当主。越後栖吉城主。長尾房景(弥四郎・豊前守)の子。 古志長尾家は越後長尾氏一門衆筆頭格で、守護の上杉定実に長尾為景が反旗を翻すと、古志長尾家もこれに従った。景信の動静は享禄4年(1531年)には確認できることから、この前後に父が死去もしくは隠居して家督を継承したとみられる。為景の四男の長尾景虎の時代には上田長尾家の長尾政景や山本寺上杉家の山本寺定長らと共に景虎の重臣として名を連ねた。 永禄4年(1561年)に景虎が関東管領上杉家の名跡を継ぎ上杉政虎(後に輝虎、謙信)を名乗ると景信も上杉姓を許され以後は上杉十郎景信と名乗り、謙信の関東征伐や対武田戦に参加した。謙信の母青岩院が景信の姉であったともいう。 天正3年(1575年)の軍役帳には謙信の養子であった上杉景勝や山浦国清に次ぐ第3位で81人の軍役を課せられていた。2年後の上杉氏家臣の名簿でも越後衆及び一門衆の筆頭に位置付けられている。だが、同じ重鎮であった政景・景勝父子の上田長尾家とは元来幾つかの小競り合いを演じた対立関係であり、謙信没後の御館の乱では謙信の養子であった景勝が同じく養子である上杉景虎と家督争いを始めると、その対抗上から景虎を支持して景勝方と対立したが、居多浜の戦いで山浦国清と戦い戦死した。 古志長尾家の家督は能臣・河田長親が継いだ。しかし、遺跡のみで長尾姓に改姓は辞退し、古志長尾家は事実上断絶した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E4%BF%A1
上杉景勝 Uesugi Kagekatsu(1556年-1623年) 長尾政景的次子、母為上杉謙信之姐.仙桃院、養父為上杉謙信、正室為武田信玄之女.菊姬、側室為四辻公遠之女.桂岩院;幼名卯松、初名長尾顯景、繼承上杉氏,改名為上杉景勝、法名宗心。 永祿七年(1564年),政景與謙信的家臣宇佐美定滿(定行)於野尻池遊舟時意外溺死,成為謙信的養子,改名為上杉景勝。 天正六年(1578年)3月13日,謙信於征伐越中時病歿,謙信生前並沒有立下後繼者。使景勝與謙信的另一個養子上杉景虎因爭奪家督繼承權而展開內戰,景勝一方自稱根據謙信遺言景勝才是合法繼承人,並於3月24日佔據春日山城本丸(實城)與金庫,景虎則進駐春日山城下的上杉憲政的官邸(御館)與景勝對峙。 同年6月,景勝為了盡快解決與景虎的鬥爭,以東上野四郡與部分的黃金讓渡為條件交換與甲信武田家的和睦並取得其支持,翌年9月景勝迎娶武田家當主・勝賴的異母妹・菊姬為正室,締結「甲越同盟」。 天正七年(1579年)3月,雙方達成議和,由景勝的養祖父上杉憲政偕同景虎的嫡長子・道滿丸進入春日山城作為人質,卻在前往的途中被不知情的景勝手下斬殺(一說為直江兼續所策畫),聽聞噩耗的景虎於御館切腹自盡。為期兩年的御館之亂終告結束。不管怎麼說,在繼承權上,至少景勝(母親是謙信公的姐姐,父親也是長尾氏一族)在血緣上比外來子景虎(實父北條氏康)更有說服力。 上杉氏於謙信時期的天正四年(1576年)時與北陸本願寺達成協議共同對抗織田氏,但是在御館之亂爆發之後,北陸的上杉軍陷入混亂使得織田軍有機可乘。天正九年(1581年),北越後的新發田重家因不滿獎賞不公而反叛,並與織田信長內通,同時信長麾下的北陸攻略軍團・柴田勝家展開對越中上杉領內的侵攻。翌年,景勝為了出兵越中對抗柴田勝家而無暇顧及武田家,使得武田勝賴於天目山之戰中被織田氏消滅,武田氏滅亡,越後的上杉氏頓時陷入了唇亡齒寒的局面。 天正十年(1582年),織田軍壓制魚津城,上杉氏失去了在越中的所有領地。同年6月2日,京都的明智光秀叛變,引發「本能寺之變」,織田信長自盡。織田氏的北陸征伐軍受挫、柴田勝家退兵,景勝死裡逃生。但是御館之亂長期以來的混亂局面再加上織田氏的侵攻,讓謙信時期以來所擴大的國力大幅的衰退。也使得新發田重家的叛亂到了豐臣時代才得以平息。 本能寺之變後,羽柴秀吉在山崎之戰擊敗明智光秀成為織田霸權的繼承者,景勝隨後派遣直江兼續前往,達成「越水同盟」(實則為臣屬關係)。天正十一年(1583年)秀吉與其對立的柴田勝家展開賤岳之戰,景勝也奉命入侵越中。天正十二年(1584年),爆發小牧・長久手之戰,翌年真田氏以與上杉家平等關係為由放棄了同盟關係,轉而臣服於秀吉。 天正十四年(1586年)6月,景勝與直江兼續上洛會見秀吉,以養子・畠山義真作為人質成功保住了領地。同時景勝也拜揭正親町天皇受任右近衛少將。 天正十五年(1587年),在秀吉作為後盾之下,景勝討伐新發田重家平定內亂、統一越後。天正十六年(1588年)再次上洛,6月15日敘昇為從三位・參議。天正十七年(1589年),討伐佐渡本間氏,平定佐渡。此時上杉氏的領地為越後、佐渡、出羽莊內三郡以及信濃川中島四郡,合併共90萬石。同年8月,趁最上義光派遣援軍幫助大崎氏防御伊達政宗的侵攻之時,命令本莊繁長協助大寶寺氏奪回莊內地方的統治權,在十五裡原之戰大敗最上軍奪回莊內地方,後秀吉承認大寶寺氏為上杉家的與力大名。 天正十八年(1590年),秀吉以違反無事令為由,下令各家大名出兵討伐關東北條氏,是為小田原之役,景勝即派出山浦景國為先鋒會同前田利家與真田昌幸攻略上野、武藏境內的北條氏領地。同年7月,小田原城開城投降,北條氏滅亡。 文祿元年(1592年),秀吉開始向朝鮮出兵,爆發「文祿之役」,景勝率領5000人駐紮於肥前名護屋城,隨後渡海進軍朝鮮。 文祿三年(1594年),上洛拜領「豐臣」之姓並敘昇權中納言,人稱越後中納言。 文祿四年(1595年)1月,秀吉授命景勝管領越後、佐渡的金山、銀山。同年,原來的「豐臣五大老」之一的小早川隆景因病隱居,由景勝接替隆景的空位,「五大老」分別為:內大臣德川家康、大納言前田利家、中納言毛利輝元、中納言上杉景勝、中納言宇喜多秀家。 慶長三年(1598年),移封會津一百二十萬石,是豐臣政權之下少有超過一百萬石的大名(其中出羽米澤6萬石為其家老直江兼續的封賞),往後便改稱「會津中納言」,代替蒲生氏監視東北各大名(尤其是野心極大的伊達政宗)。雖然移封會津,但景勝仍實際支配佐渡一國與越後東蒲原郡以及出羽莊內地方。 慶長三年(1598年)8月,秀吉病歿。 慶長五年(1600年),上杉景勝命令直江兼續增建神指城增加防御力。後來堀秀治向德川家康報告,指出上杉景勝有叛意。5月3日,德川家康下命各大名進攻會津。由於德川家康的軍隊在上野國小山得知石田三成進攻伏見城,經過會議後決定返回關東重整軍勢,德川軍主力沒與上杉景勝交戰,成為雙方在關原交戰的序幕。 慶長五年(1600年)10月,關原之戰中歸屬西軍,在東北地區與伊達和最上兩軍交戰。後來西軍敗北,景勝的領地由一百二十萬石減至三十萬石,並移封至本為家臣的直江兼續的領地米澤城,成為米澤藩。 元和九年(1623年)在米澤城病逝,年69歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
上杉景虎 Uesugi Kagetora(1554年-1579年) 父:北条氏康、母:遠山康光妹、養父:北条幻庵、上杉謙信、正室:北条幻庵女、継室:清円院(長尾政景女)、側室:妙徳院(遠山康光義妹);幼名西堂丸または竹王丸,別名北条氏秀、北条三郎,号出西堂。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立し、武田・北条氏の間では甲相同盟の締結により天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)の娘が北条氏康嫡男の氏政に嫁いでいる(『勝山記』)。 甲相同盟は永禄12年(1569年)に一時破綻し、元亀2年(1571年)に再締結されているが、『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたという。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質として武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある(後述)。 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。 しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される 。 永禄13年(1570年)4月11日、上野国沼田で謙信と面会し、越後国へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を迎合して北条氏への牽制を行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。 元亀2年(1571年)の氏康の死去に際して、景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている。同年12月、家督を相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切となっているが、景虎は越後へ留まっている。 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵している。 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始し、北信地域における上杉領割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結される。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻する。 翌天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された(陰謀説、裏切り説等、これには様々な説がある。また、他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)。孤立無援となった景虎は、兄・北条氏政を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
伊達輝宗 Date Terumune(1544年-1585年) 伊達晴宗的次子、母為岩城重隆之女.久保姬、正室為最上義守之女.義姬(保春院);通稱彥太郎、總次郎,受足利義輝偏諱「輝」字,名為輝宗,戒名覺範寺殿性山受心大居士。 因為長兄親隆成為外祖父岩城重隆的養子,於是輝宗成為世子。天文二十四年(1555年)3月19日元服,受將軍足利義輝的偏諱而改名為輝宗。於永祿七年(1564年)迎娶最上義守之女.義姬(最上義光的妹妹),同年末期繼承家督。 不過此時家中的實權被已經隱居的父親晴宗和在天文之亂期間成為家中最大實力者的重臣中野宗時、牧野久仲父子所掌握。因此希望得到家中統制的輝宗在永祿十三年(1570年)4月,以中野宗時企圖謀反的口實攻陷久仲的居城小松城,此後把中野父子流放。另外輝宗還處罰沒有幫助自己的小梁川盛宗、白石宗利、宮內宗忠等人。 同年,正室義姬父家最上家中最上義守、最上義光父子之間發生鬥爭,輝宗出兵支援義守並進攻義光,不過因為義姬請求輝宗撤兵而歸還。 此時已掌握家中實權的輝宗提拔鬼庭良直為評定役並加以重用,而且發現中野宗時的家來遠藤基信的才能而把其召到自己身邊,令基信負責外交。以這兩人為中軸的輝宗政權持續執行父親晴宗的方針,與蘆名氏保持同盟關係,另一方面則調停南奧羽諸侯之間的紛爭。更進一步展開廣大的外交活動,在天正三年(1575年)7月向中央的實力者織田信長贈送鷹等,再命遠藤基信向北條氏政和柴田勝家頻繁地送出書簡和禮物,建築出多方的友好關係。 天正六年(1578年)因為上杉謙信死去而引發的御館之亂中,輝宗把對相馬氏的戰線交給叔父亙理元宗,並基於北條的同盟而與蘆名盛氏一同支援上杉景虎方參戰,不過御館之亂最終由上杉景勝方得到勝利,蘆名、伊達軍沒能夠阻止新發田長敦、新發田重家兄弟的奮鬥。但是在御館之亂後的論功行賞時,新發田勢的軍功被低估,而且希望仲裁的安田顯元自殺,於是新發田重家在天正九年(1581年)向上杉景勝發動叛亂,輝宗與蘆名盛氏的後繼者蘆名盛隆(二階堂盛義之子)一同支援重家,而柴田勝家亦一同連手介入越後的戰鬥。於是新發田的叛亂就陷入7年的長期戰中。 另一方面,在對相馬氏的戰鬥中,因為相馬盛胤、相馬義胤父子相當善戰,戰局完全沒有好轉,不過在天正七年(1579年)迎田村清顯的女兒愛姬為嫡男伊達政宗的正室來壓迫相馬方,於天正十年(1582年)向小齋城城主佐藤為信的調略成功的同時,在天正十一年(1583年)5月17日終於成功奪回天文之亂以後最重要的要衝丸森城,翌年(1584年)1月11日,攻略金山城(在於寬文7年(1667年)的相馬中村藩士中津幸政編纂的『奧相茶話記』中記載,因為田村清顯在天正十一年(1583年)2月的仲介下而決定丸森、金山兩城的返還)。獲得伊具郡全域的輝宗決定停戰。 同年5月,以祖父伊達稙宗的隱居領伊具郡為伊達領地,宇多郡為相馬領地,於是與相馬氏達成和解。此時的伊達家恢復稙宗時代的勢力圈(11郡餘),而且更將影響力遍及南奧羽全域。 天正十一年(1583年)收到盟友柴田勝家4月在賤岳之戰中被羽柴秀吉擊敗並滅亡的消息,於同年6月5日送給姪子岩城常隆的書狀中,提到秀吉的勢力已經蔓延到東國,希望聯合奧羽的諸大名對抗(在『性山公治家記錄』和『大日本史料』都記載書狀的發出日期是天正十一年(1583年)6月5日。另一方面,小林清治的『米澤市史』(1985)則記載是天正十年(1582年))。 天正十二年(1584年)10月6日,蘆名盛隆因為男色問題而被家臣殺害,輝宗成為出生只有1個月的當主.盛隆的兒子龜王丸的後見。輝宗在此時決定把伊達家的家督讓予嫡男伊達政宗,並移居至已修築的館山城。以後自身專注介入越後方面的事情。而繼任家督的政宗則與上杉景勝講和,並放棄伊達、蘆名、最上共同介入越後的策略,於是蘆名家中開始增大對伊達家的不信任感。 翌年(1585年)春天,響應田村清顯的請求,以清顯向伊達、蘆名方服從為條件,伊達氏命令從田村氏之下獨立的小濱城城主大內定綱返回田村氏的支配下。(田村氏在前年與大內氏鬥爭之際,因為對輝宗的調停方案不服而沒有跟從,於是遭到向大內氏支援的石川昭光、岩城常隆、伊達成實等人攻擊,於是田村氏屈服)而定綱則拒絕返回田村氏的命令,於是伊達政宗在同年4月向大內氏下達討伐命令。定綱向蘆名盛隆的未亡人彥姬(輝宗的妹妹,龜王丸的母親)求助,但是政宗在5月突然侵攻蘆名的領地(關柴合戰),在失敗後再向定綱和定綱的親戚.二本松城城主畠山義繼(二本松義繼)加強攻擊。因為政宗這樣激烈地轉換戰略方針,使輝宗所建構出的南奧羽外交秩序開始出現破綻。 同年10月,二本松義繼向伊達政宗請求降伏,政宗對義繼顯示出苛烈的態度,向其宣告要大幅削減所領,不過負責調停的輝宗則對政宗的決定表示不滿(義繼向輝宗請求減輕處分),於是政宗亦決定減輕處分。 10月8日,二本松義繼為向負責調停的輝宗表達謝意而前往宮森城(一說是義繼看見在館內磨刀的士兵,於是態度出現變化),突然挾持輝宗返回二本松城。伊達政宗前往追趕義繼,雙方在阿武隈川河畔的安達郡平石村高田相遇。此時政宗命令鐵炮隊射擊,於是義繼和輝宗都被擊殺(一說是義繼知道自己無路可逃,於是在殺害輝宗後割腹自殺),年四十二歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E8%BC%9D%E5%AE%97
人物:織田信長 柴田勝家 前田利家 明智光秀 丹羽長秀 羽柴秀吉 石田三成 長井規秀 松平元康 本多忠勝 伊達政宗 南部信直 最上義光 蘆名盛氏 佐竹義重 上杉憲政 結城晴朝 里見義尭 北条氏康 武田晴信 武田勝頼 飯富昌景 馬場信房 真田昌幸 真田幸村 村上義清 長尾景虎 上杉景勝 ...
三百位人物:織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、丹羽長秀、羽柴秀吉、石田三成、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、南部信直、最上義光、蘆名盛氏、佐竹義重、山内上杉憲政、結城晴朝、里見義尭、北条氏康、武田信玄、武田勝頼、山県昌景、馬場信房、真田昌幸、真田幸村、村上義清、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、朝倉義景、北畠具教、六角義賢、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、黒田官兵衛、宇喜多直家、尼子晴久、大内義隆
三百六十位人物:北条氏直、足利晴氏、結城秀康、岡吉正、一栗高春、北条景広、富田隆実、木下昌直、岡部元信、円城寺信胤、遠藤直経、岡本禅哲、安倍元真、大宝寺義氏、福原資孝、斯波詮真、佐藤為信、筑紫広門、春日元忠、戸蒔義広、鬼庭良直、真田信綱、太田政景、岡利勝、蒲池鎮漣、高島正重、佐伯惟教、山上照久、穂井田元清、阿蘇惟光、織田秀信、正木為春、大関高増、鵜殿長照、那須資胤、織田信孝、西園寺実充、長野具藤、奥平貞能、尼子勝久、上杉景虎、天野隆重、北畠晴具、朝比奈泰能、京極高吉、徳川秀忠、上条政繁、山村良候、林秀貞、高森惟直、畠山義隆、北畠具房、田尻鑑種、一色義幸、土居清良、平岡房実、小梁川宗秀、岩成友通、武田信豊、徳永寿昌、本願寺教如、高梨政頼、片桐且元、朝倉景紀、赤松則房、小島職鎮、横瀬成繁、浦上宗景
織田信長、柴田勝家、前田利家、明智光秀、豊臣秀吉、斎藤道三、徳川家康、本多忠勝、伊達政宗、最上義光、佐竹義重、北条氏康、武田信玄、山県昌景、馬場信春、真田昌幸、真田信繁、上杉謙信、上杉景勝、直江兼続、柿崎景家、本願寺顕如、今川義元、浅井長政、三好長慶、松永久秀、毛利元就、吉川元春
望月千代女、大久保忠教、三条の方、宝蔵院胤栄、伊東義祐、浦上宗景、寿桂尼、吉岡妙林、柳生利厳、小堀政一、有馬豊氏、内藤忠俊、堀尾吉晴、渡辺了、大久保長安、伊達阿南、加藤嘉明、森可成、真壁氏幹、花房職秀、十河一存、神保長職、江裏口信常、脇阪安治、九鬼守隆、長宗我部信親、定恵院、秦泉寺泰惟、福留親政、嶺松院
北条高広 Kitajo Takahiro(1517年?-1587年?) 高広は越後の戦国大名である長尾氏に仕え、長尾為景・長尾晴景に仕え、戦功を積んでいたが、天文23年(1554年)、長尾氏に敵対する甲斐の武田信玄と通じて北条城において主君・長尾景虎に反乱。しかしこれは翌年、長尾軍の反攻を受けて降伏した。その後は景虎(上杉謙信)に再び仕え、奉行として活躍した。 永禄6年(1563年)に上野国厩橋城主に任命され、関東方面の政治や軍事を任された。これを見るに、高広が武将として優れていたのが伺える。永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この時は、同姓でまぎらわしいため後北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した(高広は元の姓である毛利を用いた)。しかしこれは翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれたため、高広は北条氏政の仲介のもと、再び上杉氏に帰参し、以後は上杉氏の家臣として忠実に仕えた。 江戸初期成立の「加沢記」によると、永禄12年(1569年)に上野国人・沼田氏で内紛が起こり高広娘婿で沼田氏当主・朝憲が殺害されると、高広は沼田氏の家臣団の求めに応じ、朝憲の父の沼田顕泰(万鬼斎)とその子の沼田景義を会津に追放したという。しかし沼田氏内紛は上杉謙信が関東へ進出する以前とのこととされ、沼田朝憲の室も当時の厩橋城主・厩橋長野氏出身と考証されており、高広と沼田氏は無関係である。 天正2年(1574年)に隠居して大胡城へ入り、家督を嫡男の景広に譲った。天正6年(1578年)、謙信が没すると出家し安芸入道芳林と号す。御館の乱では、子の景広と共に上杉景虎を支持して上杉景勝と戦うが、北条城などを落とされ、景広は戦死し、自身は武田勝頼のもとへ走った(実父とされる高定も景勝に殺害されたといわれる)。 天正10年(1582年)3月武田氏の滅亡後、北条高広は滝川一益に仕え、一益の没落後は北条氏に服属するが、同年12月沼田城の真田昌幸の離反に対する出兵を拒否し、上杉氏に帰順、北条方である那波顕宗を攻めている。 これに対し北条氏は箕輪城を押さえた上に北条氏邦だけでなく当主である北条氏直まで出陣し、厩橋城を攻めたてた為、これに高広は耐え切れず降伏、天正11年(1583年)9月には厩橋城は氏直の手に渡っている。 景広の死後、勝広が後継であったが、まもなく同名の「北条高広」が継承者となった。彼は上杉氏に帰参したものの越後の所領を取り戻すことはできず没落した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E5%BA%83
北條景廣 Kitajo Kagehiro(1548年-1579年) 北條高廣之子,又名長國,通稱彌五郎,自稱丹後守。曾參與川中島之戰,因作戰勇猛而有鬼彌五郎的異名,名列上杉二十五將之ㄧ,並參加上杉氏的關東戰略攻打小田原城,作為謙信麾下的勇將出名。 永祿六年(1563年),隨父親高廣從越後北條城轉封到上野廄橋城,成為上杉謙信派駐東上野的代官,負責監視關東動態。 永祿九年(1566年),景廣一度倒戈至北條家,令上杉謙信的關東攻略受到嚴重打擊,在永祿十二年(1569年),越相同盟成立後,經由北條氏康仲介,景廣重歸上杉謙信麾下。 天正二年(1574年),父親高廣隱居,景廣繼為家督,擔任廄橋城主。 天正六年(1578年),上杉謙信死後,養子上杉景勝與上杉景虎為繼承權爆發御館之亂,景廣和本庄秀綱、上杉景信加入景虎派,為景虎派主要戰力之一,景廣為支援上杉景虎離開廄橋城把主力軍帶回越後的舊領北條城,並往援上杉景虎的御館城,和上杉景勝方展開會戰。 翌年,景廣在與景勝方的上條政繁交戰時,被政繁部將荻田主馬刺傷而亡,其麾下兵馬因而潰散,景廣作為上杉景虎倚重的戰力,他的陣亡使景虎派武將失去向心力,大量改投上杉景勝方,上杉景虎最終兵敗自刃。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%A2%9D%E6%99%AF%E5%BB%A3