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上杉景勝

上杉定勝 Uesugi Sadakatsu(1604年-1645年) 上杉景勝的長子、母為四辻公遠之女.桂岩院、正室為鍋島勝茂之女.市姬、側室為齊藤本盛之女.生善院;幼名千德,通稱喜平次。 生母桂岩院在誕下定勝後,百餘日後死去,因此交由直江兼續夫妻養育。慶長十五年(1610年),與第2代將軍德川秀忠見面。此時被授予千德的名字。 元和九年(1623年)2月13日,到達江戶城後得到將軍德川秀忠接見,敘任從四位下侍從,兼任彈正大弼。同年5月13日,父親景勝死去,繼任家督。 寬永元年(1624年),將軍德川秀忠為仲介人,與鍋島勝茂的女兒結婚。寬永三年(1626年)8月9日轉任左近衛權少將,以及彈正大弼如元(不變)。 接受江戶幕府的指令,加強取締吉利支丹(天主教徒)。在寬永五年(1628年)把甘粕信綱(右衛門)處刑等,在領內逮捕包括藩士等多數的天主教徒,並處以死罪。 寬永十一年(1634年)跟隨第3代將軍德川家光上洛。 寬永十五年(1638年)以六尺五寸一步的三百一反制實施總檢地,整備貢租制度。而且整備奉行、郡代、代官等的藩政、鄉村支配體制,從直江支配體制轉為藩主直屬支配體制。翌年,於鄉村中配置天主教徒橫目。 寬永二十年(1643年),進行會津藩(加藤家)第2代藩主加藤明成的除封處理。還有上杉氏的菩提寺林泉寺和直江氏的菩提寺德昌寺爭取僧錄的地位,結果破棄德昌寺。 對米澤藩士發出「不要像其他家風,萬事以質素律儀為作法要旨,衣服的小袖上下和桐褲等是無用,專心實行文武忠孝的事」(他家の風をまねすることなく、万事質素律儀を作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に勵むこと)的法令,這條法令在後來於上杉治憲初入部之際被寫進「御條目」中。 正保二年(1645年)死去,年四十二歲,戒名大上院殿權大僧都隆心。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%9A%E5%8B%9D
上杉憲政 Uesugi Norimasa(1523年-1579年) 上杉憲政為關東管領上杉憲房(上杉顯定養子)之子,後來成為上杉家本宗之山內上杉家當主。 大永五年(1525年)憲政於二歲時,父親去世,因為年幼,關東管領一職暫由憲房養子上杉憲寬代理。享祿四年(1531年),憲政成年之後,放逐憲寬,繼承祖先所傳來之關東管領地位。關東管領原為室町幕府所設置,用以輔佐鎌倉公方(由足利尊氏之子孫擔任)的關東武家棟梁,但鎌倉公方與幕府將軍衝突日盛,關東管領上杉家在幕府的授意下,反而驅逐鎌倉公方而稱雄於關東。但上杉家分裂為山內上杉氏與扇谷上杉氏,兩家互相爭權,讓北條早雲、北條氏綱父子有機可趁,而蠶食鯨吞關東各地,憲政之養祖父上杉顯定先前又在討伐越後長尾為景時戰死,故至憲政繼承關東管領時,上杉家之實力及威望已大不如前。但憲政仍然派兵協助信濃海野棟綱與入侵東信地區的甲斐守護武田信虎交戰,伺機擴大勢力。 天文十年(1541年),氏綱病逝後,北條家由北條氏康繼承家督,憲政認為機不可失,外交上與駿河守護今川義元呼應夾擊北條家,並聯合古河公方足利晴氏,扇谷上杉家之上杉朝定,將關東舊勢力予以統合,集結大軍進攻武藏河越城,企圖一舉粉碎關東新勢力的北條家。河越城守將北條綱成堅守不退,聯合軍久攻不下,氏康與義元協議休兵結束在東駿河的戰事後,舉兵北上,與綱成裡應外合,擊破聯合軍,憲政敗退,返回上野平井城。但憲政卻又持續支持東信豪族與信虎之子武田信玄對抗,不顧長野業正等人之勸阻,派兵支援東信豪族,但在「小田井原之戰」遭到擊敗,損兵折將。 天文二十年(1551年),氏康率大軍北上進逼武藏、上野交界處之神流川附近,憲政派長野業正及太田資正與氏康作戰,不敵落敗,憲政麾下的大小勢力次第降服,憲政的居城平井城僅為平日作為關東管領統治機構之居館模式,無適當之防禦工事可資抵擋,憲政惶惶終日,不得安寧,最後接受資正之建議,棄國逃向北方之越後,依附其父祖之仇人長尾為景之子長尾景虎(上杉謙信)。 謙信同意協助憲政,興兵進攻關東,直逼氏康之小田原城,氏康守城避戰,景虎前往鎌倉鶴岡八幡宮,由憲政收其為養子,改名為上杉政虎,就任關東管領之職,憲政則剃髮出家,號光徹。但信玄、氏康聯手在關東地區對抗謙信,憲政無法返回上野,一直待在越後度過悠悠歲月。 未料,天正六年(1578年),謙信驟然病逝,養子上杉景虎(北條氏秀,為氏康之子)與外甥上杉景勝發生繼承爭議,憲政聽從近臣之建議,認為支持氏康之子的景虎,有利於將來與北條氏政交涉返回上野之事,但景勝在通口与六(直江兼續)的策劃下,搶先以武力佔據春日山城,同時外交上與信玄之子武田勝賴和解,勝賴背棄景虎轉而支持景勝。景虎逃至謙信先前所營建作為憲政居館之御館,尋求庇護,景勝一不做二不休,派軍進攻御館,憲政自殺,享年五十七歲。景虎後來也遭到殺害,景勝最終成為越後國主,史稱「御館之亂」。 作者 Thbobo 出處 http://thbobo.pixnet.net/blog/post/31401636
上杉景信 Uesugi Kagenobu(生年不詳-1578年) 古志長尾家当主。越後栖吉城主。長尾房景(弥四郎・豊前守)の子。 古志長尾家は越後長尾氏一門衆筆頭格で、守護の上杉定実に長尾為景が反旗を翻すと、古志長尾家もこれに従った。景信の動静は享禄4年(1531年)には確認できることから、この前後に父が死去もしくは隠居して家督を継承したとみられる。為景の四男の長尾景虎の時代には上田長尾家の長尾政景や山本寺上杉家の山本寺定長らと共に景虎の重臣として名を連ねた。 永禄4年(1561年)に景虎が関東管領上杉家の名跡を継ぎ上杉政虎(後に輝虎、謙信)を名乗ると景信も上杉姓を許され以後は上杉十郎景信と名乗り、謙信の関東征伐や対武田戦に参加した。謙信の母青岩院が景信の姉であったともいう。 天正3年(1575年)の軍役帳には謙信の養子であった上杉景勝や山浦国清に次ぐ第3位で81人の軍役を課せられていた。2年後の上杉氏家臣の名簿でも越後衆及び一門衆の筆頭に位置付けられている。だが、同じ重鎮であった政景・景勝父子の上田長尾家とは元来幾つかの小競り合いを演じた対立関係であり、謙信没後の御館の乱では謙信の養子であった景勝が同じく養子である上杉景虎と家督争いを始めると、その対抗上から景虎を支持して景勝方と対立したが、居多浜の戦いで山浦国清と戦い戦死した。 古志長尾家の家督は能臣・河田長親が継いだ。しかし、遺跡のみで長尾姓に改姓は辞退し、古志長尾家は事実上断絶した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E4%BF%A1
上杉景勝 Uesugi Kagekatsu(1556年-1623年) 長尾政景的次子、母為上杉謙信之姐.仙桃院、養父為上杉謙信、正室為武田信玄之女.菊姬、側室為四辻公遠之女.桂岩院;幼名卯松、初名長尾顯景、繼承上杉氏,改名為上杉景勝、法名宗心。 永祿七年(1564年),政景與謙信的家臣宇佐美定滿(定行)於野尻池遊舟時意外溺死,成為謙信的養子,改名為上杉景勝。 天正六年(1578年)3月13日,謙信於征伐越中時病歿,謙信生前並沒有立下後繼者。使景勝與謙信的另一個養子上杉景虎因爭奪家督繼承權而展開內戰,景勝一方自稱根據謙信遺言景勝才是合法繼承人,並於3月24日佔據春日山城本丸(實城)與金庫,景虎則進駐春日山城下的上杉憲政的官邸(御館)與景勝對峙。 同年6月,景勝為了盡快解決與景虎的鬥爭,以東上野四郡與部分的黃金讓渡為條件交換與甲信武田家的和睦並取得其支持,翌年9月景勝迎娶武田家當主・勝賴的異母妹・菊姬為正室,締結「甲越同盟」。 天正七年(1579年)3月,雙方達成議和,由景勝的養祖父上杉憲政偕同景虎的嫡長子・道滿丸進入春日山城作為人質,卻在前往的途中被不知情的景勝手下斬殺(一說為直江兼續所策畫),聽聞噩耗的景虎於御館切腹自盡。為期兩年的御館之亂終告結束。不管怎麼說,在繼承權上,至少景勝(母親是謙信公的姐姐,父親也是長尾氏一族)在血緣上比外來子景虎(實父北條氏康)更有說服力。 上杉氏於謙信時期的天正四年(1576年)時與北陸本願寺達成協議共同對抗織田氏,但是在御館之亂爆發之後,北陸的上杉軍陷入混亂使得織田軍有機可乘。天正九年(1581年),北越後的新發田重家因不滿獎賞不公而反叛,並與織田信長內通,同時信長麾下的北陸攻略軍團・柴田勝家展開對越中上杉領內的侵攻。翌年,景勝為了出兵越中對抗柴田勝家而無暇顧及武田家,使得武田勝賴於天目山之戰中被織田氏消滅,武田氏滅亡,越後的上杉氏頓時陷入了唇亡齒寒的局面。 天正十年(1582年),織田軍壓制魚津城,上杉氏失去了在越中的所有領地。同年6月2日,京都的明智光秀叛變,引發「本能寺之變」,織田信長自盡。織田氏的北陸征伐軍受挫、柴田勝家退兵,景勝死裡逃生。但是御館之亂長期以來的混亂局面再加上織田氏的侵攻,讓謙信時期以來所擴大的國力大幅的衰退。也使得新發田重家的叛亂到了豐臣時代才得以平息。 本能寺之變後,羽柴秀吉在山崎之戰擊敗明智光秀成為織田霸權的繼承者,景勝隨後派遣直江兼續前往,達成「越水同盟」(實則為臣屬關係)。天正十一年(1583年)秀吉與其對立的柴田勝家展開賤岳之戰,景勝也奉命入侵越中。天正十二年(1584年),爆發小牧・長久手之戰,翌年真田氏以與上杉家平等關係為由放棄了同盟關係,轉而臣服於秀吉。 天正十四年(1586年)6月,景勝與直江兼續上洛會見秀吉,以養子・畠山義真作為人質成功保住了領地。同時景勝也拜揭正親町天皇受任右近衛少將。 天正十五年(1587年),在秀吉作為後盾之下,景勝討伐新發田重家平定內亂、統一越後。天正十六年(1588年)再次上洛,6月15日敘昇為從三位・參議。天正十七年(1589年),討伐佐渡本間氏,平定佐渡。此時上杉氏的領地為越後、佐渡、出羽莊內三郡以及信濃川中島四郡,合併共90萬石。同年8月,趁最上義光派遣援軍幫助大崎氏防御伊達政宗的侵攻之時,命令本莊繁長協助大寶寺氏奪回莊內地方的統治權,在十五裡原之戰大敗最上軍奪回莊內地方,後秀吉承認大寶寺氏為上杉家的與力大名。 天正十八年(1590年),秀吉以違反無事令為由,下令各家大名出兵討伐關東北條氏,是為小田原之役,景勝即派出山浦景國為先鋒會同前田利家與真田昌幸攻略上野、武藏境內的北條氏領地。同年7月,小田原城開城投降,北條氏滅亡。 文祿元年(1592年),秀吉開始向朝鮮出兵,爆發「文祿之役」,景勝率領5000人駐紮於肥前名護屋城,隨後渡海進軍朝鮮。 文祿三年(1594年),上洛拜領「豐臣」之姓並敘昇權中納言,人稱越後中納言。 文祿四年(1595年)1月,秀吉授命景勝管領越後、佐渡的金山、銀山。同年,原來的「豐臣五大老」之一的小早川隆景因病隱居,由景勝接替隆景的空位,「五大老」分別為:內大臣德川家康、大納言前田利家、中納言毛利輝元、中納言上杉景勝、中納言宇喜多秀家。 慶長三年(1598年),移封會津一百二十萬石,是豐臣政權之下少有超過一百萬石的大名(其中出羽米澤6萬石為其家老直江兼續的封賞),往後便改稱「會津中納言」,代替蒲生氏監視東北各大名(尤其是野心極大的伊達政宗)。雖然移封會津,但景勝仍實際支配佐渡一國與越後東蒲原郡以及出羽莊內地方。 慶長三年(1598年)8月,秀吉病歿。 慶長五年(1600年),上杉景勝命令直江兼續增建神指城增加防御力。後來堀秀治向德川家康報告,指出上杉景勝有叛意。5月3日,德川家康下命各大名進攻會津。由於德川家康的軍隊在上野國小山得知石田三成進攻伏見城,經過會議後決定返回關東重整軍勢,德川軍主力沒與上杉景勝交戰,成為雙方在關原交戰的序幕。 慶長五年(1600年)10月,關原之戰中歸屬西軍,在東北地區與伊達和最上兩軍交戰。後來西軍敗北,景勝的領地由一百二十萬石減至三十萬石,並移封至本為家臣的直江兼續的領地米澤城,成為米澤藩。 元和九年(1623年)在米澤城病逝,年69歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E5%8B%9D
上杉景虎 Uesugi Kagetora(1554年-1579年) 父:北条氏康、母:遠山康光妹、養父:北条幻庵、上杉謙信、正室:北条幻庵女、継室:清円院(長尾政景女)、側室:妙徳院(遠山康光義妹);幼名西堂丸または竹王丸,別名北条氏秀、北条三郎,号出西堂。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立し、武田・北条氏の間では甲相同盟の締結により天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)の娘が北条氏康嫡男の氏政に嫁いでいる(『勝山記』)。 甲相同盟は永禄12年(1569年)に一時破綻し、元亀2年(1571年)に再締結されているが、『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたという。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質として武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある(後述)。 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。 しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される 。 永禄13年(1570年)4月11日、上野国沼田で謙信と面会し、越後国へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を迎合して北条氏への牽制を行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。 元亀2年(1571年)の氏康の死去に際して、景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている。同年12月、家督を相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切となっているが、景虎は越後へ留まっている。 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵している。 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始し、北信地域における上杉領割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結される。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻する。 翌天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された(陰謀説、裏切り説等、これには様々な説がある。また、他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)。孤立無援となった景虎は、兄・北条氏政を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
上条政繁 Jojo Masashige(1545年?-沒年不詳) 上条上杉家当主、上杉氏の家臣。上条城主。初名は景義。通称は弥五郎、山城守、播磨守、織部。号は宜順斎。上杉定実の子。一説に上条上杉家の一族で越後守護上杉定実の舎弟といわれる。室は長尾政景の娘。 上条上杉家は長尾為景と敵対して没落していたが、元亀2年(1571年)、為景の子上杉謙信の代に廃絶していた上条上杉家(上条頼房か上条定憲)の家督を政繁が相続したものと見られる。天正初年間頃までには入道して宜順と号した。 謙信に仕えて上野国や越中国に転戦した。天正3年(1575年)の「上杉家軍役帳」によると96人の軍役を負担し、上杉家一門の第四位に列したという。天正5年(1577年)能登国守護畠山氏の七尾城を攻めた際には、謙信の命で畠山氏(畠山義続か)の遺児(後の義春)を養嗣子とした。 謙信の死後、御館の乱では上杉景勝に味方して、戦後もそのまま景勝に従い、重臣として遇された。天正9年(1581年)越中松倉城の河田長親が没したために、後継として同城に入る。 天正12年(1584年)羽柴秀吉に人質を送る事になると、当時景勝に実子がいなかったため、孫(義春の子)の義真(景広とも)を景勝の養子として送る事となり、軍役を免除される事となった。同年、信濃海津城の山浦景国が失脚すると、その後任として海津城に入るが、翌天正13年(1585年)には須田満親に代わられたため、景勝と対立するようになり、天正14年(1586年)上杉家を出奔して秀吉の元に依り、河内国高井郡に500石を与えられた(『寛政重修諸家譜』では直江兼続に讒言されたためとある)。以後、養子の義春の事跡に変わるので、間もなく没したものと思われる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%A1%E6%94%BF%E7%B9%81
不破光治 Fuwa Mitsuharu(生年不詳-1580年?) 家系には諸説あるが、不破隼人藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔・松井蔵人直家の子・直重が不破隼人佐を称したのに始まるとする説がある他、山城国の南宮神社社家の一である松井直家が美濃国不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったとする説がある。 美濃国西保城主。早くから美濃国の戦国大名・斎藤氏に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人と共に西美濃四人衆といわれることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたともいわれているが、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。 『浅井三代記』によると、近江国小谷城へ赴き浅井氏の家臣・安養寺経世と内談して信長の妹・お市と浅井長政との婚約をまとめ、輿入れの際には内藤勝介と共にお市の方に供奉したというが、同書は元禄年間に出版された軍記物で同時代の史料ではないことに留意する必要がある。 永禄11年(1568年)7月、信長が越前国の朝倉義景に庇護されていた足利義昭の呼びかけに応じて上洛を決意すると、和田惟政・村井貞勝・島田秀満と共に義昭を越前まで迎えに赴き、上洛戦で江北が平定されたときも、立政寺で待機していた義昭を迎えに派遣された。 その後は永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦い、元亀元年(1570年)6月の小谷城攻め、同年9月の志賀の陣、元亀2年(1571年)9月の伊勢長島攻め、元亀3年(1572年)4月の交野城後ろ巻き、天正元年(1573年)7月の槇島城の戦い、同年8月の一乗谷城の戦いに参陣した。天正2年(1574年)には、越前の前波吉継が殺害されたのを受け、羽柴秀吉や丹羽長秀らと敦賀へ出陣、同年6月の伊勢長島攻めにも参陣した。 天正3年(1575年)8月、越前一向一揆平定戦に参陣し、一揆平定後に越前8郡は柴田勝家に預けられ、光治は佐々成政・前田利家と共に同国府中の2郡を治めながら、勝家に対する目付を務めることとなって、府中三人衆と呼ばれた。光治は同国竜門寺城を居城とした。以後は勝家の与力としても活動するようになり、天正5年(1577年)8月の勝家を総大将とした加賀国平定戦には、三人衆そろって参陣。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも、勝家に率いられた「越前衆」の一武将として利家らと共に参加していたが、上杉景勝が越中国に侵入して小出城を包囲したとの報せが入り、勝家以下越前衆は直ちに出陣するよう命じられた。 しかし、完全に柴田勝家の指揮下に固定されたわけではなく、天正5年(1577年)2月からの雑賀攻め、天正6年(1578年)11月からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)9月の伊賀攻めに動員されている。 越前国において死去したが、その年月には諸説あり、『戦国人名事典』では天正8年(1580年)12月14日、『美濃国諸家系譜』では天正9年(1581年)11月8日、『織田信長総合事典』では天正9年(1581年)以降、『織田信長家臣人名事典』では天正11年(1583年)頃としている。法名・雲樹道無大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%85%89%E6%B2%BB
丹羽長重 Niwa Nagashige(1571年-1637年) 丹羽長秀的長子,母親為織田信廣之女-深光院,正室為織田信長的五女-報恩院,幼名鍋丸,號玉峰。 天正十一年(1583年),於賤岳之戰中與父親丹羽長秀一同出兵封鎖琵琶湖的水運並協助羽柴秀吉擊敗柴田勝家,更因此功獲得包含若狹、越前及加賀半國一百二十三萬石的大封賞,長秀遂以北之莊城為居城,長重亦被任為府中城主。天正十二年(1584年)二月,丹羽長重代替重病的父親對領內的小松山王神社奉納,其後代理臥病在床的丹羽長秀應羽柴秀吉之令發兵參與小牧、長久手之戰。 翌年天正十三年(1585年)四月十六日,丹羽長秀辭世,年僅十五歲的丹羽長重繼承了父親一百二十三萬石的遺領,對於將這番龐大的領地交給這樣的年輕人,羽柴秀吉並不放心,兼之現在已經不用再顧忌織田家老同僚的觀感,不需再對丹羽家饗以龐大封賞以安昔日織田家臣之心,因此已穩固執掌天下的秀吉很快就在同年八月出兵富山城攻打佐佐成政時任命丹羽長重為先鋒,然後以長重的家臣違反軍律為由,削去丹羽家越前、加賀的領地,丹羽長重被左遷為若狹小濱城主,封地也僅餘若狹十二萬石。之後在天正十五年(1587年)出兵九州時,丹羽長重再度被豐臣秀吉以丹羽軍兵士違反軍律的藉口褫奪若狹的領地,減封為加賀松任城主,領地大幅縮水至四萬三千石,自長秀以來的重要家臣如長束正家、村上義明、溝口秀勝、戶田重政等人也相繼被豐臣秀吉策誘招募,轉仕豐臣家。 慶長三年(1598年)四月,丹羽長重在文祿之役侵略朝鮮時立功,於是統算他自小田原征伐以來的功績,加封加賀小松八萬石,加上松任的舊領,封地共達十二萬五千石,官拜從三位參議兼加賀守,隨後丹羽長重移居小松城,被世人稱為小松宰相或小松參議。 同年八月,豐臣秀吉病逝。丹羽長重親近德川家康,監視與石田三成親近的金澤城主前田利長。慶長四年(1599年)九月,增田長盛與長束正家向德川家康告密表示以前田利長為首,結合了淺野長政、大野治長及土方雄久等人意圖暗殺家康,德川家康迅速於十月進行反制讓淺野長政被逼在甲斐隱居,大野治長及土方雄久則分別被結城秀康及佐竹義宣拘禁。而對坐擁能登加賀八十萬石的前田利長,德川家康則以「前田利長有叛意」為由,任命丹羽長重為先鋒,組織前田討伐軍出兵加賀,致使前田利長在驚恐之下以家臣橫山長知為使,並託細川忠興代其向德川家康遊說,最後以母親芳春院為人質前往江戶作為條件請降。 翌年,德川家康發兵會津征伐上杉景勝,丹羽長重被置於前田軍指揮下進攻津川口,是役之中丹羽長重和前田利長爆發嚴重口角,丹羽長重對前田利長高傲的態度大為反感,於是以患病為理由領兵回國,前田利長也因為丹羽長重反常的行動起疑,擔心長重攻打前田家在加賀的領地,故隨後回軍歸國。 此時回到小松城的丹羽長重也收到了石田三成發表討伐家康的檄文,這使本與德川家康交好的丹羽長重一時陷入兩難之境,同時在加賀南部的諸大名已先後為大谷吉繼的勸說下加入西軍,於是領軍歸國的前田利長也在七月廿六日宣布加入東軍打著救援伏見城之名領兩萬五千大軍南下,前田利長南下之際先向松任的丹羽長重送信要求加入東軍參戰,丹羽長重考量到昔日兩人的恩怨以及目下自家周遭態勢而拒絕,轉投西軍,反而親領三千士兵據小松城倚天險防守,小松城本就是北陸有名的堅城因此當丹羽長重遭到前田利長大軍包圍攻擊時,雖然手上僅有三千兵馬仍穩守不失,最後前田利長判斷短時間內在小松城必定難以討好,於是索性解圍,繞路攻打大聖寺城的山口宗永,丹羽長重隨即應山口宗永之求出兵救援,侵入前田領內騷擾,但是山口宗永守不到三日,大聖寺城便為前田利長大軍攻破,前田利長挾大勝之姿持續向南進攻,對青木一矩的北之莊城發動攻擊,然而此時西軍在北陸的大將大谷吉繼為了遏阻前田軍的攻勢放出了「上杉景勝制壓越後出兵加賀」、「大谷吉繼發出援軍」等流言,加上大谷吉繼修改了前田家臣中川宗半的密信令前田利長以為大谷吉繼想從海路攻打金澤,於是退兵。 前田利長考慮到撤退途中丹羽長重追擊的可能性,於是將部隊一分為七分散撤退,分別由山崎長德、高山右近、奧山榮明、富田直吉、今枝民部、太田長知率領,最後由長連龍擔任殿軍隱密行動。但是前田軍撤退的消息仍然為丹羽長重得知,決定在前田軍撤退必經的小松城周遭伏擊,小松城周圍都是泥沼深田,不良於行,可以牽制住前田大軍的機動力,反而方便丹羽長重以小部隊游戰。 八月九日,前田軍通過小松城東方淺井畷的山代橋時丹羽軍的江口三郎左衛門正吉對長連龍的殿軍發動突擊,丹羽長重也隨後引援軍來戰,由於淺井畷的地形限制了大軍威力的發揮,使長連龍陷入苦戰,最後因為山崎長德的回援使丹羽長重在兵力上陷入劣勢而撤退,雙方死傷慘重,前田軍更有千人以上陣亡,兩軍未能分出勝負,前田軍順利回到金澤城。前田利長回到居城後方知中計,而家康也以土方雄久出使在九月八日要求利長向美濃進軍,但是利長之弟利政為了防備前田家不會因為西軍勝出而滅亡,據能登宣佈加入西軍。雖然前田家中出現內亂,但是丹羽長重也深知以本身十二萬石的兵力實在不及前田利長所能發動的大軍,尤其大谷吉繼已馳援關原,北陸之事全由丹羽長重一家承擔,於是丹羽長重遣使者透過德川家的軍師本多正信向德川家康表明他對家康並沒有敵意,最終達成與前田利長雙方交換人質和睦。 關原之戰後,丹羽長重因從屬西軍,所領遭到沒收,後蟄居於江戶芝高輪泉岳寺,直到慶長八年(1603年)才被將軍德川秀忠再度起用於常陸古渡獲得一萬石領地。後於慶長十九年(1614年)的大阪冬之陣中參加鷸野之戰,翌年夏之陣中於若江合戰中擊破豐臣方木村重成軍的左翼木村宗明隊立下戰功,並於元和五年(1619年)增俸常陸江戶崎一萬石,同八年又增加至磐城棚倉五萬石。 寬永元年(1624年),丹羽長重奉幕府命令,為據守關東的入口構築棚倉城,長重將棚倉城建在赤館以南的久慈川河岸台地上,並將原本位於久慈川河岸的都都古和氣神社遷移,把棚倉城修建為擁有本丸、二丸的輪郭式大城。寬永三年(1626年),丹羽長重隨將軍德川秀忠上洛,於天皇行幸二條城時擔任「御酌」之務。 寬永四年(1627年),在蒲生家被改易後,丹羽長重移封至其舊領陸奧白河,領有白河、石川、田村、巖瀨四郡十萬七千石的封地,同時奉德川秀忠之命於寬永六年(1629年)起耗費四年光陰以伊達、最上、佐竹、上杉的奧羽地區的外樣大名為假想敵修築白河城鞏固此一接連奧羽、關東的要衝之地。丹羽長重遂於阿武隈川的氾濫平原上東西向的獨立丘陵上進行修築,興建一座梯郭式的平山城,增設可儲藏米糧二之丸及三之丸,並加構三重櫓,使其易守難攻。築城同時丹羽長重也極力整備招徠各地商人、職人移居城下町,並且將失領時流散的家臣重新聚集,重編家臣團。寬永十四年(1637年)閏三月四日,丹羽長重於江戶櫻田上屋敷辭世,享年六十七歲,法名為大鄰寺傑俊英。其子光重後於寬永二十年(1643年)移封二本松存至幕末。 出處 http://m.gamebase.com.tw/forum/3867/70391985
二本松義孝 Nihonmatsu Yoshitaka(1578年-卒年不詳) 天正6年(1578年)、二本松氏第11代当主・二本松義継の二男として生まれる。幼名は梅王丸。 天正13年(1585年)に父・義継が伊達政宗に討たれ、翌天正14年(1586年)に二本松城が開城すると兄・国王丸(義綱)と共に会津の蘆名氏の下へ逃れた。しかしその蘆名氏も天正17年(1589年)の摺上原の戦いで蘆名義広が政宗に敗れて滅亡し、梅王丸は兄と共に義広の実家である常陸への逃避行に従った。ところが義綱は義広と諍いを起こして暗殺されてしまい、梅王丸は江戸崎から会津へと逃れ、同地で元服。はじめ国次と名乗り、のちに義孝と称した。二本松氏は、正式には一貫して畠山を姓として来たが、義孝は初めて二本松を姓としている。 上杉景勝が会津に入封すると客分として召抱えられ慶長出羽合戦に参加。上杉氏が会津を没収された後も、義孝は会津に留まって蒲生秀行・加藤嘉明ら歴代の会津藩主の客分となっていた。寛永20年(1643年)3月の会津騒動で加藤氏が改易された際に、隠棲して故郷で余生を送ることにしたが、慶安元年(1648年)、岡崎藩主・水野忠善に招聘される。義孝は老齢を理由に自身の仕官は辞退し、代わりに息子二人を出仕させた。忠善は嫡男・義張を700石、二男・義正を300石で召抱え、義孝には養老の資として二百人扶持を給与した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E7%AF%84
井伊直政 Ii Naomasa(1561年-1602年) 井伊直親的獨子、母為奧山親朝之女、養母井伊直虎、正室為松平康親之女・花(德川家康養女)、側室為伊具;幼名虎松、萬千代,渾名井伊の赤鬼、人斬り兵部,戒名祥壽院殿清涼泰安大居士。 二歲的時候,父親直親因為涉縑暗殺主君今川氏真關係,被氏真下令處死,失去井伊谷的領地。後來生母重嫁給松下清景,改姓松下。不久生母逃到三河國,由於受到今川氏追殺,曾於三河及遠江兩地四處移居。 天正三年(1575年)德川家康在松下城獵鷹,遇上直政,直政請求成為家臣,獲家康接納,獲得井伊谷的領地,復姓井伊。 直政開始在德川家的舞台開始活躍,初次上戰場是高天神城之戰,後來立下不少戰功,更擔任德川家康的旗本手先鋒,與當時德川家的名將本多忠勝和柛原康政齊名。 天正十年(1582年)元服。同年2月,武田氏滅亡,德川家康派遣與北條氏進行外交交涉,過程頗為順利。6月,爆發本能寺之變,明智光秀謀反,當時在織田信長領地的直政陪伴家康等人安全地重返三河國。 後來直政從投降德川的武田遺臣當中,將武田家山縣昌景的赤備隊再次復活,從此赤備成為井伊軍的象徵。後被加封井伊谷4萬石。井伊對部下過度嚴謹,而且非常好戰,所以有人稱之為「赤鬼井伊」。在小牧長久手之戰初次以赤備隊參戰且表現出色,斬殺池田恆興,獲豐臣秀吉曾經高度評價。當德川家康與秀吉和解後,就任官職從五位下侍從.兵部少輔。 天正十三年(1585年)8月,德川家康跟北條同盟一起進攻北信濃和上野,派遣鳥居元忠為總大將帶領7000人,攻打背叛德川投向上杉氏的真田氏上田城。但鳥居元忠在上田城之戰遭伏兵奇襲而退敗,家康震怒之下在9月時命令直政、大須賀康高、松平康重等帶5000人北上前往救援。在小諸城跟鳥居元忠會師穩定軍隊,此時直政聽聞北條氏直率領的3萬人,已在沼田城被真田氏用同樣的戰略敗於真田與上杉聯軍之下。 在盟軍北條擅自退兵與上杉援軍趕到之後,直政判斷此時僅剩己方孤軍跟上杉真田聯軍纏鬥沒任何利益可言,於9月28日留下大久保忠世守備小諸城後亦帶主力回師,沒跟上杉真田作任何交戰。不久德川家發生石川數正出奔事件,讓遭此變故的德川家康全面停止北信攻略。事後家康對直政回師保存德川實力的判斷沒有異議,加封直政至6萬石。 天正十八年(1590年),德川家康參加小田原征伐,任命為直政為總大將,當大軍包圍小田原城時,直政決定夜襲,並成功突圍,更是唯一成功突襲的武將。戰後,家康獲封關東地區,而直政被分封於上野國的箕輪十二萬石,是德川家家臣當中排行第一。慶長三年(1598年),接獲家康命令,將箕輪城拆除,於箕輪城附近以南地區改建高崎城(今群馬縣高崎市)作為居城。 慶長三年(1598年),豐臣秀吉過世,埋藏已久的不和隨之爆發,主要的人物分別是德川家康及石田三成,後來家康決定討伐會津的上杉景勝,直政負責遊說各地大名加入東軍的工作外,後來家康折返江戶,並向近畿地方前進,在關原之戰中協助松平忠吉(家康四男)與小西行長、宇喜多秀家等將領的激烈戰鬥,後來西軍潰敗,德川軍全軍追擊,當他們追擊島津義弘隊的時候,被鐵砲擊中肩部而墮馬受傷。 戰後,積極處理西軍大名的獎罰,與長宗我部氏交涉,後來島津氏交涉(此工作其後交由本多正信處理)。被德川家康分封於石田三成的舊領的佐和山城,石高18萬石,後來積極去除石田三成的政治風格,準備以彥根城取代原有的佐和山城。 慶長七年(1602年)因為關原之戰舊傷口破傷風復發的關係,病逝。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%BC%8A%E7%9B%B4%E6%94%BF
亙理重宗 Watari Shigemune(1552年-1620年) 亙理元宗的長子、母為國分盛氏之女、正室為相馬盛胤之女・真如院;幼名天王丸,別名源五郎。 永祿九年(1566年),由伯父伊達晴宗擔任烏帽子親並元服,在元龜年間或以前迎相馬盛胤的女兒為正室。繼任家督時期不明,不過受父親元宗讓出亙理城並移至山西金津鄉的時期則有記載,最遲是移至湧谷以前。 天正六年(1578年),伊達輝宗介入御館之亂並向越後國出兵,父親元宗被任命為與相馬戰鬥的指揮。以後,在伊具郡一帶與相馬義胤交戰,天正十一年(1583年)5月,在進攻丸森城時,於明護山建築城砦,切斷相馬軍。天正十三年11月(1586年1月),在人取橋之戰中與父親一同從軍。 天正十七年(1589年)5月,攻略相馬的領地駒嶺城(此時獲得的宇多郡北部(現今新地町)成為以後仙台藩的所領,直至幕末時期)。同年9月,在亙理郡吉田濱擊破反攻而來的相馬軍。天正十八年(1590年)5月18日,在童生淵之戰中殺死相馬隆胤。 天正十九年(1591年),在鎮壓葛西大崎一揆時從軍,於進攻佐沼城時,與父親一同負責指揮先陣,左股負傷。鎮壓一揆後,伊達政宗被豐臣秀吉命令轉封至岩出山城,此時,亙理郡仍然是伊達氏的所領,但是政宗命令亙理氏轉移至遠田郡的領地(知行高8千8百5十石)。重宗初時進入百百城,不過在同年冬天,移至湧谷城為居城,同年,建立圓同寺(後來改名為見龍寺)。 慶長五年(1600年),在關原之戰中以人質身份留在江戶,因此嫡男定宗代為出陣,攻略上杉景勝的領地白石城,於是受德川家康賞賜。 慶長九年(1604年)10月,隱居並把家督讓予定宗,受伊達政宗賜予隱居領栗原郡高清水城1千石。 慶長十一年(1606年),把末女嫁予伊達政宗的庶子宗根,並迎宗根為婿養子,令其併合隱居領和繼承亙理氏(後來的佐沼亙理氏)。因此,已經繼承亙理氏家督並成為湧谷城城主的定宗,則被允許改為伊達姓(湧谷伊達氏)。 元和六年(1620年)死去,年六十九歲。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%99%E7%90%86%E9%87%8D%E5%AE%97
仁賀保挙誠 NiKaho Takanobu(1560年-1624年) 出羽国由利郡の南部を支配した。実名は文書上確認されるのは「光誠(みつしげ)」であり、これは次男の誠政が将軍徳川家光の「光」の字を憚り、代わりに「挙」の字を当てたためと考えられている(自身も光政から名を誠政に変えている)。なお『寛政重修諸家譜』では、挙誠を「たかのぶ」と読ませている。 仁賀保氏は通字に「挙」を、家紋に「一文字に三つ星」をそれぞれ使用するため大江氏との関係を指摘する旨もあるが、「挙」の通字は文書上は確認されない。これは大井姓が誤伝により大江と伝えられ、これによるものであると考えられる。仁賀保氏はその家系は断続的ながら文書上に確認されており、「光長」「光誠」など「光」が通字であったのであろう。また、家紋は「一文字に三つ星」の他に「松葉菱」も使用しており、大井氏の流れを汲むのはほぼ確実である。 仁賀保氏の成立 仁賀保氏は清和源氏小笠原氏流の大井氏の流れを汲み、その祖先は元々は信濃大井庄の領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡を相続し、その縁で由利郡に信濃大井氏が繁栄することとなる。鎌倉時代初期、大井氏は信濃大井庄を本貫の地とし、地頭代を派遣して由利郡を支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる。当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏が地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光と仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出していたらしい。仁賀保氏の菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌が残っている。 後、建武の新政・南北朝などの混乱期を経て、由利郡は大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命されて由利郡に移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏の分家として、由利郡の北から雄物川河口部にかけて勢力を広げ、室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領を横領するほど勢力を増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下されたと伝えられる。 無論、当時の東北地方の政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく、関東管領・出羽探題・室町幕府の思惑が複雑に絡んだものであったと考えられる。当時の大井宗家の当主である持光は鎌倉公方足利成氏の外祖父にあたり、関東管領である上杉氏と対立関係にあった。また、醍醐寺の荘園を横領した大井氏の分家の小介川氏(赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。 友挙の子の大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って「仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年(1524年)の長尾為景宛斯波政綿書状の中に出てきており、この時代、仁賀保氏は中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。 挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方に進め、日本海に浮かぶ飛島を切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦いに敗れて討死したことにより仁賀保氏は衰退した。この時代、北出羽では湊安東氏、小野寺氏は京都御扶持衆であり、仁賀保氏は定かではないが、同じ由利郡の国人領主である滝沢氏が京都に代官所を持っていた事、御用商人の来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位を確立していたらしい。 挙誠の登場 挙誠は仁賀保氏がお家騒動と敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死を遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子に入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏は歴代、山内上杉家またその分家の越後上杉家、長尾氏と関係が深く、本庄氏や大宝寺氏らと共に上杉氏の影響を受けていたらしい。上杉謙信の死後、長尾上杉氏の影響下にあった出羽庄内の大宝寺氏当主の大宝寺義氏が独立を目指すと、仁賀保氏は大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北の小野寺義道と同盟し、背後より矢島氏に仁賀保氏を攻めさせた。この為仁賀保氏は国力を大きく落とし、天正10年(1582年)頃より翌11年(1583年)にかけ、義氏に何度か大きく攻め込まれた。このため、仁賀保氏は5代当主の重挙が死亡後、独自に当主を立てられなかったものと考えられる。6代当主の八郎が没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族が居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子に入ったのは、赤尾津氏を支援した安東愛季の意思が働いたものか。 挙誠が家督を継いだ天正13年(1585年)の時点の仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安と鋭く敵対していたが、出羽庄内地方に最上義光が勢力を伸ばし、上杉方の大宝寺氏と戦闘を繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安と和睦し、庄内戦に専念した。この頃、大宝寺義氏は重臣の東禅寺義長の謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長が対立しており、更には大宝寺氏を本庄繁長・上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光がそれぞれ支援していた。この戦いは本庄繁長が庄内に攻め込み、東禅寺義長を討ち取り最上軍を殲滅した事によりケリがついた。 さてこの騒動の間、最上義光は不利になりつつあった庄内での戦いを有利に進めるため、由利郡の国人領主にも使いし、自身に与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉の惣無事令を実行する代官であるという立場を強調している。無論、秀吉の威光を以って仁賀保氏らを自身の配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果が無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令は聞かないという立場をとったようである。天正16年(1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長が来襲して最上軍を粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉領となった。この時、仁賀保氏らは庄内に出兵して最上軍を駆逐して回ったらしい。この上杉軍と挙誠の動向からして、庄内の領有権は歴代上杉氏のものであり、上杉軍・仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。 この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安に使者を出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動を良しとせず、奸智により矢島氏を攻め滅ぼし、矢島氏を利用して由利郡を自身の領土にしようと画策した義光の野望を挫いた。以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉の小田原征伐に加わり、仁賀保郷・矢島郷の領有を認められ、天正18年(1590年)12月24日付の知行宛行状により、由利郡南半分を領有することが決定した。 なお、天正16年(1588年)に最上軍を粉砕した本庄繁長率いる上杉軍は天下軍として賊軍を成敗するという性質を持っていたと解釈すべきである。故に仁賀保氏ら由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年(1589年)に安東氏の内紛である湊騒動に対して、由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され、秋田実季を支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令が出されていたのにかかわらず、上杉、仁賀保らの戦闘は私戦は考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易は免れたが、湊安東家の領土は没収され天領となった。 挙誠の領地 挙誠の領地は現在のにかほ市と由利本荘市矢島・鳥海地区に跨る。天正18年(1590年)に奥州仕置が行われたとき、由利郡では仁賀保氏のほか、赤尾津氏、滝沢氏、打越氏、岩屋氏、石沢氏、下村氏、根井氏、玉米氏、潟保氏らの存続が認められた。この内、石沢、下村、玉米、根井、潟保氏は文禄4年(1595年)に他氏の傘下に入ったらしい。 但し、現在にかほ市教育委員会に保管されている「仁賀保家文書」には打越氏・根井氏宛の秀吉からの知行宛行状も含まれている。両氏とも大名として存続しているので、当初から挙誠にまとめて交付され、仁賀保氏の傘下に入っていたらしきことが推察される。後に根井は完全に仁賀保氏の傘下に入り、打越氏は軍事指揮下に入ったようである。また、潟保氏配下の稲葉氏の覚書により、関ヶ原の戦いの折には潟保氏の配下が仁賀保軍に加わっていた事が確認できるので、潟保領も仁賀保氏領になっていたと考えられる。 石高は天正18年(1590年)には3,716石の記載があるが、天正20年(1592年)には8,000石強であることが確認されており、領内に設置された天領分を合わせると1万2,000石はあったものと考えられる。これに後に根井氏・潟保氏分が加わった。 豊臣政権下 他の奥羽の武将の例に漏れず、小田原参陣の後、挙誠は妻子を京都に人質に取られた。翌天正19年(1591年)には九戸政実の乱の討伐軍の一軍として参陣し、『奥羽永慶軍記』によれば大功を立てている。 文禄の役では肥前名護屋城に駐屯し、「おこし炭」の役をこなしている。また、牧使城攻撃の一軍として渡海する予定であったが、落城したため渡海することは無かった。文禄年間末からは北東北総ての大名に言い渡された杉材木の献上事業に豊臣政権が崩壊するまで従事した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、最上義光より東軍与同の誘いを受け、同族の赤尾津氏当主の赤尾津孫次郎と共に東軍に加わり、庄内まで出陣したが、石田三成が挙兵して徳川家康が上洛すると、家康より文書を受けて後、居城に帰還している。その直後、上杉方より唆された矢島満安の遺臣が一揆を起こした為、これを討伐した。この為、庄内の上杉勢を攻めることができず、後に義光より西軍与同の嫌疑を受けた。 しかしながら石田三成が敗死した後、ただ一人徹底抗戦している景勝を攻めた。この際、上杉家臣の下次右衛門の菅野城を始め、数多くの城を攻め落とし、自身も負傷するほど力戦した。このため、後に家康から所領を安堵され、感状を与えられている。戦後、挙誠は秋田実季らと共に西軍与同の嫌疑を受け、慶長7年(1602年)、常陸国武田(現在のひたちなか市)5,000石に移封された。 徳川政権下 常陸武田に移封になった挙誠は江戸に屋敷をつくり、大坂冬の陣では馬廻りの一軍として出兵、翌夏の陣では淀城の守備を務めた。元和2年(1616年)に伏見城番、元和9年(1623年)には大坂城の守衛を務めた。 さて、時の老中土井利勝の家臣に鮭延秀綱という人物が居た。秀綱は元々は最上義光の重臣であり、最上騒動に絡んで土井家に御預けになっていた。その秀綱が主君利勝の諮問に答え、関ヶ原の戦いの時の挙誠の勇戦振りを語った。それに感銘を受けた利勝により元和9年(1623年)10月18日、挙誠は旧領仁賀保に所領を与えられ転封になった。この際、分家の打越氏にも領土の内の矢島郷を与えた様である。よって、仁賀保氏は打越領を含めると旧領をほぼ取り戻したことになる。この際、挙誠は仁賀保主馬という人物に700石与えている。分家であろうかと考えられる。 なお、万石以上が大名であるというのは後世の感覚であり、当時は外様の領土持ちは大名であったと考えるべきである。仁賀保氏も打越氏も領内に居城を持ち、住んでいた。 仁賀保郷に復帰した翌年の寛永元年(1624年)2月14日に死去、享年65(『寛政譜』の没年は誤り)。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E8%B3%80%E4%BF%9D%E6%8C%99%E8%AA%A0