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上杉景信 Uesugi Kagenobu(生年不詳-1578年) 古志長尾家当主。越後栖吉城主。長尾房景(弥四郎・豊前守)の子。 古志長尾家は越後長尾氏一門衆筆頭格で、守護の上杉定実に長尾為景が反旗を翻すと、古志長尾家もこれに従った。景信の動静は享禄4年(1531年)には確認できることから、この前後に父が死去もしくは隠居して家督を継承したとみられる。為景の四男の長尾景虎の時代には上田長尾家の長尾政景や山本寺上杉家の山本寺定長らと共に景虎の重臣として名を連ねた。 永禄4年(1561年)に景虎が関東管領上杉家の名跡を継ぎ上杉政虎(後に輝虎、謙信)を名乗ると景信も上杉姓を許され以後は上杉十郎景信と名乗り、謙信の関東征伐や対武田戦に参加した。謙信の母青岩院が景信の姉であったともいう。 天正3年(1575年)の軍役帳には謙信の養子であった上杉景勝や山浦国清に次ぐ第3位で81人の軍役を課せられていた。2年後の上杉氏家臣の名簿でも越後衆及び一門衆の筆頭に位置付けられている。だが、同じ重鎮であった政景・景勝父子の上田長尾家とは元来幾つかの小競り合いを演じた対立関係であり、謙信没後の御館の乱では謙信の養子であった景勝が同じく養子である上杉景虎と家督争いを始めると、その対抗上から景虎を支持して景勝方と対立したが、居多浜の戦いで山浦国清と戦い戦死した。 古志長尾家の家督は能臣・河田長親が継いだ。しかし、遺跡のみで長尾姓に改姓は辞退し、古志長尾家は事実上断絶した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E4%BF%A1
上杉景虎 Uesugi Kagetora(1554年-1579年) 父:北条氏康、母:遠山康光妹、養父:北条幻庵、上杉謙信、正室:北条幻庵女、継室:清円院(長尾政景女)、側室:妙徳院(遠山康光義妹);幼名西堂丸または竹王丸,別名北条氏秀、北条三郎,号出西堂。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立し、武田・北条氏の間では甲相同盟の締結により天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)の娘が北条氏康嫡男の氏政に嫁いでいる(『勝山記』)。 甲相同盟は永禄12年(1569年)に一時破綻し、元亀2年(1571年)に再締結されているが、『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたという。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質として武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある(後述)。 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。 しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される 。 永禄13年(1570年)4月11日、上野国沼田で謙信と面会し、越後国へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を迎合して北条氏への牽制を行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。 元亀2年(1571年)の氏康の死去に際して、景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている。同年12月、家督を相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切となっているが、景虎は越後へ留まっている。 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵している。 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始し、北信地域における上杉領割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結される。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻する。 翌天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された(陰謀説、裏切り説等、これには様々な説がある。また、他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)。孤立無援となった景虎は、兄・北条氏政を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
北條景廣 Kitajo Kagehiro(1548年-1579年) 北條高廣之子,又名長國,通稱彌五郎,自稱丹後守。曾參與川中島之戰,因作戰勇猛而有鬼彌五郎的異名,名列上杉二十五將之ㄧ,並參加上杉氏的關東戰略攻打小田原城,作為謙信麾下的勇將出名。 永祿六年(1563年),隨父親高廣從越後北條城轉封到上野廄橋城,成為上杉謙信派駐東上野的代官,負責監視關東動態。 永祿九年(1566年),景廣一度倒戈至北條家,令上杉謙信的關東攻略受到嚴重打擊,在永祿十二年(1569年),越相同盟成立後,經由北條氏康仲介,景廣重歸上杉謙信麾下。 天正二年(1574年),父親高廣隱居,景廣繼為家督,擔任廄橋城主。 天正六年(1578年),上杉謙信死後,養子上杉景勝與上杉景虎為繼承權爆發御館之亂,景廣和本庄秀綱、上杉景信加入景虎派,為景虎派主要戰力之一,景廣為支援上杉景虎離開廄橋城把主力軍帶回越後的舊領北條城,並往援上杉景虎的御館城,和上杉景勝方展開會戰。 翌年,景廣在與景勝方的上條政繁交戰時,被政繁部將荻田主馬刺傷而亡,其麾下兵馬因而潰散,景廣作為上杉景虎倚重的戰力,他的陣亡使景虎派武將失去向心力,大量改投上杉景勝方,上杉景虎最終兵敗自刃。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%A2%9D%E6%99%AF%E5%BB%A3
本庄繁長 Honjo Shigenaga(1540年-1614年) 本庄房長之子、母不明、正室為上杉景信之女、繼室為須田滿親之女、側室為大川忠秀之女;幼名千代豬丸、通稱彌次郎、法號雨順齋全長。 天文十一年(1542年),越後守護上杉定實欲收伊達晴宗之子伊達實元作為養子,父親房長與同族的色部氏極力反對,因此與支持派的中條藤資對立。受到伊達家支援的中條藤資便對房長進行攻擊,房長聽從弟弟小川長資與同族的鯰川清長之建議逃往出羽國庄內地方的盟友大寶寺氏(武藤氏)處。但這卻是小川長資的陷阱,他趁機奪走了房長的居城,房長聽到此消息後悲憤交加,不久病死。之後本庄氏的家臣團就推擁尚年幼的繁長繼承家督,但此時實權卻落入小川長資手中。年紀還不大的繁長被周遭的人譽為「幼少時期個性就剛強勇猛」。天文二十年(1551年),在房長的第13回忌時繁長強迫小川長資切腹,重新奪回本庄家的實權。 一時獨立 繁長後來跟隨上杉謙信參加川中島之戰、關東出兵等等戰役。但本庄氏自立性比較強,因此於永祿十一年(1568年)受到武田信玄的挑撥從上杉家中與大寶寺氏聯合對抗上杉謙信,並與武田信玄、越中一向宗聯手,趁著上杉謙信攻入越中時叛變。 繁長叛變之初,曾試圖聯合鯰川盛長、色部勝長、中條景資等人一同反抗上杉謙信,但遭到他們的拒絕,其中中條景資還將信件送去給上杉謙信,讓上杉謙信適時從越中回軍越後。而武田信玄也在七月時親自發兵進攻北信濃的飯山城,請來蘆名盛氏出兵北越後。但是蘆名盛氏作戰失利,而武田信玄在包圍飯山城一個多月不果後,也撤兵回甲斐。 因此上杉謙信在當年十月先進攻大寶寺義增使其降伏,繁長因此被孤立,在十一月時正式包圍繁長的本庄城,但長期籠城作戰中,繁長讓上杉軍受到不小的打擊。但是在孤立無援下,繁長還是接受蘆名盛氏的仲介,重新歸降謙信,在二月時送出長子本庄顯長作為人質。繁長此時在上杉家中的地位一落千丈,直到謙信死去。 御館之亂 天正六年(1578年),上杉謙信死後發生御館之亂,繁長本人加入上杉景勝方與上杉景虎方的鯰川氏交戰,另一方面繁長的長子顯長與大寶寺義氏加入景虎方,御館之亂景勝勝利後便廢除顯長的家督繼承權。後來討伐新發田重家也立下許多功勞。 庄內攻防 天正十一年(1583年),最上義光欲進攻庄內地方因此想謀殺大寶寺義氏,繁長為了阻止義光便去支援大寶寺氏,大寶寺義氏為了強化本庄氏與大寶寺氏之間的關係便令其弟大寶寺義興收繁長的次子本庄充長作為養子,並改名為大寶寺義勝。此項舉動激怒了反大寶寺親最上派的國人們,這時的繁長還在對付新發田重家,最上義光趁隙進攻。天正十五年(1587年),大寶寺義興的居城陷落並自殺,義勝則是逃回實父繁長的身邊。天正十六年(1588年),這次換繁長趁義光在對付伊達政宗的時候進攻庄內,發動十五裡原之戰大破最上軍,後追擊最上軍遭到奇襲才撤退。但已經成功幫義勝奪回庄內地方,並於天正十七年(1589年)參見豐臣秀吉,秀吉則承認大寶寺氏正式成為上杉景勝的與力大名。 短期流放 天正十八年(1590年),豐臣秀吉命上杉景勝進行檢地工作,繁長與同僚色部長真起爭執,之後奧羽地區發生反豐臣一揆。一揆平定後,由於繁長、義勝父子有煽動藤島一揆的嫌疑被流放到大和國,之後參加文祿之役才獲得赦免,並領1萬石高回歸上杉家。慶長三年(1598年),景勝轉封到東北的會津,繁長則擔任田村郡的守山城主。 松川之戰 慶長五年(1600年)爆發關原之戰,上杉景勝命繁長改任信夫郡的福島城主,並與梁川城主須田長義一同防範伊達家的侵攻。關原之戰東軍勝利,此時在攻擊最上義光的直江兼續不得不撤退(長谷堂城之戰)。10月6日,伊達家的片倉景綱、茂庭綱元、屋代景賴等人便開始攻擊福島城,義勝出城迎擊但遭伊達軍擊退。後來進行守城戰,成功擊殺了片倉景綱的數名家臣,伊達政宗停止攻擊並退往國見山的陣地,這時須田長義部將車斯忠則從信夫山的後方出陣,橫渡大隅川攻擊伊達軍後方的運輸隊,繁長也趁機進攻伊達軍,成功擊敗伊達,此乃松川之戰。但關於這場戰役有許多說法,此乃其中一種,但繁長成功守住福島城並使伊達軍撤退是千真萬確的。 戰後外交 戰後上杉家為了對付德川家康,家中分為抗戰派與講和派,直江兼續堅持抗戰到底,繁長則是支持講和,最後上杉景勝同意講和,繁長與千坂景親為了上杉家的存續到處奔波,景勝與兼續也上京向家康請罪,才從原本可能領地全部沒收的情況轉成會津120萬石減封為米澤30萬石。由於上杉家不因此事裁員,為了支付全員的薪資,多數家臣全部減薪,繁長也僅剩3300石與上杉家共渡難關。也因此事繁長繼續擔任福島城主,日後本庄氏在米澤藩也一直是家中的首席重臣。 慶長十九年(1614年)辭世,年七十三歲,法名「憲德院殿傑伝長勝大居士」。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%BA%84%E7%B9%81%E9%95%B7
河田長親 Kawada Nagachika(1545年-1581年) 河田元親的長子、正室為北條高廣之女;幼名岩鶴丸,號禪忠。 據藤原氏河田系圖所載,河田氏份屬藤原鎌足的後裔,但歷經上百年的流傳,到父親元親的時代,河田家這一脈已相當沒落了。時值永祿二年(1559年),越後大名上杉謙信上洛參見將軍足利義輝時,中途前往近江日吉大社朝拜並與六角氏會面,當時僅十四歲的長親隨父親及鄰近其他小國人眾前往接風,謙信慧眼識英雄,認為年少的長親具有不錯的才能因而將他收為側近,在回轉越後時,河田一族便隨著上杉家遷往越後居住。 由於長親溫厚的性格和智略,使他很快受到上杉謙信的重用,負責對越中方面外交工作的奉行職,並在永祿四年(1561年)上杉謙信南下關東攻打北條家時出陣,擔任上野沼田城的城將,於翌年出兵至柏崎和上杉軍會合。永祿八年(1565年)上杉謙信出兵下總協助盟友里見家時,長親也和北條高廣擔任在沼田當地集結軍勢的準備工作,隔年再次出兵關東時,也與直江景綱、北條高廣一同被任命為維持軍紀的奉行。 永祿十年(1567年),長親負責調停了犬茂島一帶土地界線劃分的爭執,長親雖是上杉家的新進將領,但是短短數年間卻已立下不遜於許多元老宿將的功勳,因此贏得上杉謙信的高度信賴,所以在古志長尾氏的景信隨謙信改姓上杉進入春日山城奉公後,上杉謙信便讓長親繼承古志長尾氏的家名,成為栖吉城主,統率謙信的旗本軍團「栖吉眾」,但是長親為區分主從之別,雖繼入古志長尾氏,平時卻絕少使用,對外文書仍是自稱「河田長親」。 永祿十一年(1568年),長親和蘆名家的平田舜範交誼促進上杉、蘆名兩家的友好,以牽制叛將本庄繁長。同時謙信和越中一向一揆的矛盾也越加強化,又有武田信玄從中主導,雙方衝突日劇,原本臣屬上杉家的越中大名椎名康胤因不滿上杉謙信饒過宿敵神保家並且與之結盟以扶助畠山義綱回歸能登,令椎名氏始終無法獨大於越中,而接受武田信玄的策反,叛出上杉家,轉而和一向一揆合攻神保家。為了救援神保家,長親受命領栖吉眾擔任先鋒隨上杉謙信出兵越中攻打椎名氏,戰後謙信遂以長親擔綱越中魚津城主,和新庄城的鰺坂長實同為上杉家越中攻略的中心人物,和一向一揆展開拉鋸戰,同時長親也負責和能登大名畠山家的外交事宜,與畠山家重臣遊佐續光多有書信往來,也身任宮津八幡宮的社職,已穩定當地民心。 元龜三年(1572年),越中的上杉勢力跌到前所未有的低點,儘管長親與鰺坂長實始終奮戰不懈,但是在有地頭蛇椎名康胤之協助下,一向一揆的戰況越發有利,當年六月雙方更是合兵包圍了神保家的火宮城,其後鰺坂長實救援失利,火宮城失陷更一鼓作氣攻下了神保家的居城富山城,神保家投降一揆眾,一時越中反上杉的勢力大振。 同年八月,為此大怒的上杉謙信憤而以直江景綱為大將出兵,在鼬川擊破了神保、一揆聯軍,並於十月增兵魚津城,讓長親出戰尻垂同樣大破神保、一揆聯軍,並攻陷椎名康種的越中金山城。翌元龜四年(1573年),上杉軍攻下神保家的富山城,越中再度改幟。隔年武田信玄故於上洛之戰後,越中一向一揆失去了背後支持者,加賀的一向一揆也和織田家交戰無法長期增援越中,上杉謙信趁此大好形勢,再度加緊出兵,長親負責引領各路上杉軍猛攻各處反上杉勢力的城池,越中一向一揆、神保、椎名等先後於天正二年(1574年)戰敗臣服,神保家中親近武田家的神保長住遭到放逐,原來椎名氏的居城松倉城也交給長親。 至此,上杉謙信終於完全攻佔越中,有鑑長親在越中戰陣的功勞,獲加封越中太田下鄉的領地,同時父親元親擔任富山城主,輔佐長親統轄越中。戰後長親為了鞏固上杉家對越中的支配於今泉另築新城,並建制經營松倉金山為上杉的軍費開源。 翌天正五年(1577年),上杉謙信意圖讓畠山家送入上杉家的人質畠山義春,即謙信的養子上杉政繁繼承畠山家,藉以掌握能登一國,但是遭到了畠山家權臣長續連的反對,謙信便以此名義大舉出兵能登,攻打七尾城。是役之中,長親亦隨軍出征,為策反遊佐續光出有大力,因此在上杉謙信將主力轉往手取川迎戰來援長續連的織田軍時,長親便和鰺坂長實共同處理七尾城的接收事務。 天正六年(1578年)三月九日,上杉謙信於春日山城急死,長親悼念主恩出家入道,號禪忠。因為謙信生前未確立繼承人,兩名養子上杉景勝、上杉景虎各擁家臣對立,在這場被稱為御館之亂的繼承糾紛中,長親支援上杉景勝,但伯父河田重親及古志長尾氏的原當主上杉景信卻投向景虎方,使得古志眾一時分裂成兩方。在上杉家陷入內亂的同時,於手取川之戰中敗退的織田家大將柴田勝家也伺機捲土重來,在鎮壓加賀一向一揆後以長連龍為引導,攻奪能登,直逼越中而來。越中南方的飛驒也因謙信之死改幟,由織田信長的連襟姉小路賴綱帶頭服從織田家,並且讓降將神保長住對越中的神保家舊將進行游說,說動了齋藤信利兄弟、菊池武勝、屋代一族、神保長張等改投織田家。作為上杉家派駐越中的最高軍政指揮官,長親在家內生亂同時仍從容不迫以穩定局勢為先,未直接參與御館之亂的戰事,保住上杉家在越中的優勢。 同年九月,織田信忠為了響應神保長住的策反,派遣家臣齋藤長龍領兵穿越飛驒增援越中戰線,聯合叛出上杉家的蛇尾城主齋藤利信一同攻打今泉城,長親獲訊後隨即增兵今泉城以堅守對抗織田軍,齋藤長龍見攻城不力便趁夜退走,長親、椎名小四郎見機不可失遂啣尾追擊織田軍,不料反被齋藤長龍巧妙利用地形,借月岡野的由寬漸窄的扇狀地形,一舉反攻,今泉城淪陷。 長親乃是謙信信用多年的要將,儘管織田家在月岡野之戰一度佔了上風,但越中大部分城池仍是為長親所掌握,為了降低攻略越中的難度,在獲得織田信長首肯後,柴田勝家在天正八年(1580年)潤三月採用懷柔手段承諾劃割長親的家鄉近江一部份作為條件,試圖誘降長親,卻為長親嚴詞拒絕。 翌天正九年(1581年)三月,長親因急病於越中松倉城辭世,年37歲。 長親死去後,上杉家失去足以繼續拱衛的有力武將,在魚津城之戰失敗,越中一國大半落入織田家手中。而長親死後,其子河田岩鶴丸隨之夭折,改由三弟直親之子河田親詮繼任當主。雖然家名得以保持,但在上杉軍門中河田氏的兵權已大幅縮減,由長親一代構成的栖吉眾亦告瓦解,在上杉家改封會津後,河田親詮為改封至田村郡領三千石,後又關原之戰上杉家減封遷至米澤時,擔任信夫郡代,配屬御馬迴組存至幕末。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/topic/78823155/

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