首頁 Tags 三木通秋

Tag: 三木通秋

以下數據為「信長の野望.創造 戦国立志伝」遊戲版本Ver. 1.0.2.0的「大坂の陣」劇本 戰國立志傳較之前新增人物230名,位置在平田宗茂之後,寿桂尼之前: 南部重直、伊達忠宗、蒲生忠郷、岩城吉隆、上杉定勝、徳川頼房、徳川光圀、秋田俊季、浅野長重、新庄直定、松平康長、小笠原信之、小笠原政信、土方雄重、松平忠良、本多政朝、内藤政長、松平忠昌、奥平家昌、奥平忠昌、成田氏宗、日根野吉明、本多忠純、稲垣重綱、水野忠清、榊原忠次、秋元長朝、牧野忠成、酒井忠利、高力忠房、伊奈忠政、西尾忠永、鳥居成次、真田信吉、真田信政
三木通秋 Miki Michiaki(1534年—1584年) 天文3年(1534年)8月10日、三木通明(みちあき)の嫡男として英賀城内で誕生。天文13年(1544年)に元服して掃部助通秋を名乗り、三木氏の家督を相続し、英賀三木氏9代目の当主となる。 永禄12年(1569年)に赤松義祐と室町幕府15代将軍・足利義昭や織田信長の支援を受けた赤松政秀が対立した際には義祐方に与し、政秀の侵攻を受け窮地に立たされていた小寺孝隆(黒田孝高)の救援に駆けつけて、共に政秀を破り逆転勝利に貢献した(土器山の戦い)。 元亀元年(1570年)より始まった石山合戦では、領内に英賀御堂を始めとした本願寺門徒衆を多く抱え、自身も熱心な門徒であった事から顕如の檄文に呼応して挙兵し、兵430人を畿内に派遣し石山本願寺に3,000俵を送って支援をして織田氏への対立姿勢を露わにし、親織田に傾きつつあった赤松義祐や、小寺氏・別所氏ら播磨の周辺勢力とは疎遠になり始める。 天正5年(1576年)に毛利輝元が本願寺支援を決めたことで毛利氏と同盟し、英賀に毛利家臣の浦宗勝の軍勢を上陸させて播磨きっての親織田派であった小寺孝隆を5,000の兵で攻撃したが、孝隆の奇策の前に敗退した(英賀合戦)。天正6年(1578年)になると小寺政職や別所長治などの播磨国衆が織田から毛利に転じたため、通秋は三木合戦の始まりを受けて海路を使って別所氏を積極的に支援し、援軍や兵糧を送っている。 しかし、天正8年(1580年)1月に三木城が落城して別所長治が自害に追い込まれると、英賀城も織田軍の猛攻を受けて2月13日(4月26日とする書もある)には陥落。通秋は子の安明(やすあき)ら一族とともに命からがら英賀城から抜け出し、九州へと落ち延びた。しかし、天正10年(1582年)に羽柴秀吉に罪を許され英賀に戻り、かつてのような所領は失ったものの再び同地に居住して郷士頭となっている。 天正11年(1583年)12月16日に死去。享年50。遺体は播磨の西徳寺に葬られた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%80%9A%E7%A7%8B
五百位人物:河東田清重、一栗放牛、一迫隆真、稗貫晴家、氏家吉継、四釜隆秀、新井田隆景、宮崎隆親、鱒沢広勝、水谷胤重、大塚政成、郡司敏良、大塚隆成、国分盛氏、駒木根利政、白河晴綱、白河義顕、針生盛信、松本氏輔、佐瀬種常、留守景宗、遠藤盛胤、西野道俊、二本松家泰、二本松義綱、片平親綱、高玉常頼、戸蒔義広、本堂茂親、南部政直、豊島重村、浅利頼平、戸沢盛重、戸沢政重、鮭延貞綱、大和田光盛、本堂忠親、大宝寺晴時、来次時秀、東禅寺義長、東禅寺勝正、織田信安、来次氏秀、仁賀保挙誠、北楯利長、懸田俊宗、小梁川宗朝、小梁川宗秀、船尾昭直、桑折貞長、大道寺盛昌、牧野久仲、佐竹義廉、佐竹義斯、江戸通泰、江戸通政、本多利久、神生通朝、本多利朝、兼松正吉
黑田孝高 Kuroda Yoshitaka(1546年-1604年) 黑田職隆的長子、母為明石正風之女(小寺政職養女)、正室為櫛橋伊定之女・光;幼名萬吉、通稱官兵衛、別名小寺祐隆、小寺孝隆,號如水軒、 法名如水圓清。 永祿五年(1562年)成為小寺政職的近習。同年初次上陣,與父親黑田職隆一同征伐國人眾。永祿七年(1564年)嫁到浦上清宗的妹妹在婚禮當日被赤松政秀攻打,丈夫被絞死。 永祿十年(1567年)時,孝高繼承父親職隆的家督和家老職,迎娶小寺政職的姪兒櫛橋伊定的女兒光(てる)為正室,任命為姬路城代。永祿十二年(1569年),赤松政秀得到擁戴足利義昭的織田信長麾下的池田勝正、別所安治、宇喜多直家等人支援,率領3,000兵攻打姬路城,但孝高施展突襲等戰術,僅以300兵擊退三木通秋援軍,是為青山・土器山之戰)。政秀投降於浦上宗景。 天正元年(1573年)小寺氏等播磨的大名,被討伐淺井長政、流放幕府將軍足利義昭,成功在近畿擴張勢力的織田信長、以及取得山陰山陽的毛利輝元2大勢力夾於其中(浦上宗景投靠信長、宇喜多直家則投靠輝元。)。天正三年(1575年),孝高由於其才能得到信長賞識,被主君・小寺政職勸說投往在長篠之戰中大破武田勝賴的織田氏。同年7月,在羽柴秀吉的安排下到岐阜城謁見信長。而政職亦與赤松廣秀、別所長治等人一同前往京都謁見。另一方面,同年9月、宗景敗於投靠毛利氏的直家。 天正四年(1576年),迎接了流放中的將軍・足利義昭的毛利氏,派遣水軍大將小早川隆景麾下的浦宗勝,以5.000兵從毛利同盟的三木通秋轄下的英賀上陸,進軍播磨,但孝高僅以500兵擊退毛利・三木軍(英賀合戰)。此役後,孝高將長子松壽丸(黑田長政)送往信長當人質。天正五年(1577年)秋、信長在信貴山城之戰中討伐松永久秀後,羽柴秀吉進駐播磨。孝高讓一族移到父親隱居的飾東郡國府山城甲山,把居城的姬路城提供予秀吉,自己則住在二之丸,以參謀的身份活躍。其後跟從羽柴秀長攻打太田垣景近管轄的竹田城(但馬國),與蜂須賀正勝一同參與。 在豐臣秀吉麾下,他以智謀出眾而與竹中半兵衛(竹中重治)併稱秀吉家的兩衛。天正十四年(1586年)朝廷賜與從五位下堪解由次官,參與了豐臣秀吉的九州攻伐,在對島津的戰爭中取得勝利有著極大的貢獻。翌年秀吉統一九州。戰後,被賜與豐前國中津城12萬5千石。當時國人勢力城井鎮房.野中鎮兼一揆勢力興起,孝高給與個各擊破,天正十六年(1588年)為了領內的安定,暗殺了城井。 高山重友(高山右近)比孝高還早接受基督教洗禮,由於天正十五年(1587年)7月豐臣秀吉頒布禁教令,高山右近因反抗被流放,後來孝高首先宣佈棄教令,這時身為秀吉近側的孝高以身作則,使得基督教與宣教師得以傳播信仰,對當時的諸侯產生衝擊。可由當時路易斯·弗洛伊斯留下的書簡殘篇可知。 天正十七年(1589年)將家督讓與黑田長政而退隱,以如水軒行名,仍在豐臣秀吉身旁活躍,隔年,對北條小田原征伐,在協調終戰過程有很大的功勞,於是賜與日光一文字(原氏直所有,現為國寶,福岡市博物館所藏)。文祿二年(1593年),秀吉對朝鮮出兵(文祿.慶長之役),與五奉行之一的石田三成產生爭執,惹怒秀吉,以如水圓清之號出家,隱退,將家督位讓於兒子黑田長政。 慶長五年(1600年)豐臣秀吉逝世,五大老之一德川家康向東討伐會津上杉景勝,三成卻於關原帶領西軍舉兵。其子長政屬於東軍正於關原作戰,本人在九州募兵,擊破得到毛利家支援企圖恢復舊領的大友義統。此時,孝高的行動有促成九州統一的趨勢,並認為上洛與取得天下不是難事而燃起野心。不過當關原戰役在一天內決定大勢後,野心霎時頓挫。 晚年過著隱居生活不過問政治,慶長九年(1604年)病逝於京都伏見藩邸,年五十九歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%91%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98

Send this to a friend