人物誌.未翻譯

上条定憲 Jojo Sadanori(生没年不詳) 越後上杉氏の一族である上条上杉氏当主で上条城城主。通称は弥五郎、播磨守。別名は憲定(のりさだ)、定兼(さだかね)。上杉房実の子(あるいは孫、上杉顕定の子とする説もある)。 上杉房能を倒した新守護の上杉定実・長尾氏と敵対し、永正6年(1509年)の上杉顕定の越後侵攻に際しても長尾為景に敵対した(このときはのちに寝返って顕定を敗死に追いやったとされる)。以後は守護上杉定実に一貫して忠誠を尽くし、守護を傀儡化した長尾為景との抗争を続ける。 永正10年(1513年)9月に宇佐美房忠(ふさただ、定満の父)が小野城で挙兵し、上杉定実ら守護方と為景のあいだで抗争が勃発すると定憲も定実に応じて挙兵した。しかし10月下旬には定実は為景によって幽閉されてしまい、翌11年正月の上田荘六日市の合戦でも守護方が大敗。同年5月には房忠も岩手城で自害に追い込まれ、定憲自身は目立った動きに出ることが出来ないまま抗争は終結した。 この後しばらく越後国内の政情は小康状態が続くが、享禄3年(1530年)に定憲と為景のあいだで抗争が勃発した。為景はこの原因を大熊政秀(まさひで、朝秀の父)が定憲と為景のあいだを色々と「申し妨げた」ためと釈明している。しかし幕府を後楯にしていた為景を前に、揚北衆といった国人や上杉一門にも定憲に加担する勢力は少なく、将軍足利義晴の手引もあり翌年には収束した。 しかし、享禄4年(1531年)6月に為景が後楯としていた幕府の有力者細川高国が政変(大物崩れ)に敗れ自刃し、天文2年(1533年)9月には両者間で「再乱」が生じる。このとき定憲(定兼)は、上田長尾氏や揚北衆など国内勢力に加え、会津蘆名氏や出羽砂越氏といった国外の勢力も味方につけることに成功し、為景方への攻勢を強める。天文5年(1536年)には三分一ヶ原合戦で大敗するも、8月に為景を隠居に追い込んだ。その後の動向は不明であるが、一部史料によると、同年のうちに死去した可能性が高い。 諸系図では甥(または弟)に上条定明(さだあき)・上条頼房(よりふさ)らの名前がみえる。また、定兼(さだかね)を定憲の弟に置く系図も見られる。また、上条上杉氏は上条政繁が継いだとされる。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%A1%E5%AE%9A%E6%86%B2
上条政繁 Jojo Masashige(1545年?-沒年不詳) 上条上杉家当主、上杉氏の家臣。上条城主。初名は景義。通称は弥五郎、山城守、播磨守、織部。号は宜順斎。上杉定実の子。一説に上条上杉家の一族で越後守護上杉定実の舎弟といわれる。室は長尾政景の娘。 上条上杉家は長尾為景と敵対して没落していたが、元亀2年(1571年)、為景の子上杉謙信の代に廃絶していた上条上杉家(上条頼房か上条定憲)の家督を政繁が相続したものと見られる。天正初年間頃までには入道して宜順と号した。 謙信に仕えて上野国や越中国に転戦した。天正3年(1575年)の「上杉家軍役帳」によると96人の軍役を負担し、上杉家一門の第四位に列したという。天正5年(1577年)能登国守護畠山氏の七尾城を攻めた際には、謙信の命で畠山氏(畠山義続か)の遺児(後の義春)を養嗣子とした。 謙信の死後、御館の乱では上杉景勝に味方して、戦後もそのまま景勝に従い、重臣として遇された。天正9年(1581年)越中松倉城の河田長親が没したために、後継として同城に入る。 天正12年(1584年)羽柴秀吉に人質を送る事になると、当時景勝に実子がいなかったため、孫(義春の子)の義真(景広とも)を景勝の養子として送る事となり、軍役を免除される事となった。同年、信濃海津城の山浦景国が失脚すると、その後任として海津城に入るが、翌天正13年(1585年)には須田満親に代わられたため、景勝と対立するようになり、天正14年(1586年)上杉家を出奔して秀吉の元に依り、河内国高井郡に500石を与えられた(『寛政重修諸家譜』では直江兼続に讒言されたためとある)。以後、養子の義春の事跡に変わるので、間もなく没したものと思われる。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%A1%E6%94%BF%E7%B9%81
下間頼竜 Shimotsuma Rairyu(1552年-1609年) 本願寺の僧侶。父は下間真頼、妻は池田恒興の養女で織田信時の娘。子に頼広(後の播磨播磨新宮藩主・池田重利)、宮城政次、池田輝政養女(建部光重室)、徳永昌重室、大久保長安室。幼名は松菊、通称は按察使。法名は了明。 本願寺の僧侶の中では、軍事よりも政治や文化方面に通じており、堺の商人達とも茶会などから交流があったといわれている。石山合戦においては元亀3年(1572年)に同族の下間頼資・頼純父子と共に織田信長側の細川昭元を攻めて戦功をあげている。 天正8年(1580年)に本願寺法主・顕如が信長に降伏した時、同族の下間頼廉・下間仲孝と共に和睦条約に連署した。だが、翌年に顕如の長男・教如が石山本願寺への再籠城の企てをした時、教如の側近だった頼龍は教如に従ったため顕如から叱責を受けている。文禄元年(1592年)に顕如が没し、法主となった教如に赦免され、慶長7年(1602年)の本願寺の東西分裂にも教如に従い、東本願寺の坊官となった。慶長14年(1609年)、58歳で死去。 子の頼広も教如に従ったが、やがて出奔して池田輝政に仕え、池田重利と改名して大名となった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%93%E9%A0%BC%E9%BE%8D
不破光治 Fuwa Mitsuharu(生年不詳-1580年?) 家系には諸説あるが、不破隼人藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔・松井蔵人直家の子・直重が不破隼人佐を称したのに始まるとする説がある他、山城国の南宮神社社家の一である松井直家が美濃国不破郡府中村に移住して不破氏を名乗ったとする説がある。 美濃国西保城主。早くから美濃国の戦国大名・斎藤氏に仕え、稲葉良通・安藤守就・氏家直元の3人と共に西美濃四人衆といわれることもある。他の3人とは違い斎藤氏に最後まで忠節を尽くしたともいわれているが、斎藤氏滅亡後は織田信長に仕えた。 『浅井三代記』によると、近江国小谷城へ赴き浅井氏の家臣・安養寺経世と内談して信長の妹・お市と浅井長政との婚約をまとめ、輿入れの際には内藤勝介と共にお市の方に供奉したというが、同書は元禄年間に出版された軍記物で同時代の史料ではないことに留意する必要がある。 永禄11年(1568年)7月、信長が越前国の朝倉義景に庇護されていた足利義昭の呼びかけに応じて上洛を決意すると、和田惟政・村井貞勝・島田秀満と共に義昭を越前まで迎えに赴き、上洛戦で江北が平定されたときも、立政寺で待機していた義昭を迎えに派遣された。 その後は永禄12年(1569年)8月の大河内城の戦い、元亀元年(1570年)6月の小谷城攻め、同年9月の志賀の陣、元亀2年(1571年)9月の伊勢長島攻め、元亀3年(1572年)4月の交野城後ろ巻き、天正元年(1573年)7月の槇島城の戦い、同年8月の一乗谷城の戦いに参陣した。天正2年(1574年)には、越前の前波吉継が殺害されたのを受け、羽柴秀吉や丹羽長秀らと敦賀へ出陣、同年6月の伊勢長島攻めにも参陣した。 天正3年(1575年)8月、越前一向一揆平定戦に参陣し、一揆平定後に越前8郡は柴田勝家に預けられ、光治は佐々成政・前田利家と共に同国府中の2郡を治めながら、勝家に対する目付を務めることとなって、府中三人衆と呼ばれた。光治は同国竜門寺城を居城とした。以後は勝家の与力としても活動するようになり、天正5年(1577年)8月の勝家を総大将とした加賀国平定戦には、三人衆そろって参陣。天正9年(1581年)2月の京都御馬揃えにも、勝家に率いられた「越前衆」の一武将として利家らと共に参加していたが、上杉景勝が越中国に侵入して小出城を包囲したとの報せが入り、勝家以下越前衆は直ちに出陣するよう命じられた。 しかし、完全に柴田勝家の指揮下に固定されたわけではなく、天正5年(1577年)2月からの雑賀攻め、天正6年(1578年)11月からの有岡城の戦い、天正9年(1581年)9月の伊賀攻めに動員されている。 越前国において死去したが、その年月には諸説あり、『戦国人名事典』では天正8年(1580年)12月14日、『美濃国諸家系譜』では天正9年(1581年)11月8日、『織田信長総合事典』では天正9年(1581年)以降、『織田信長家臣人名事典』では天正11年(1583年)頃としている。法名・雲樹道無大居士。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A0%B4%E5%85%89%E6%B2%BB
中島元行 Nakajima Motoyuki(1552年-1614年) 備中国賀陽郡阿曽郷経山城(現岡山県総社市黒尾)の城主。通称は大炊介。妻は清水宗治の娘。父は中島輝行、弟は中島九右衛門、嫡男は中島義行。 中島家の本姓は藤原氏。先祖は工藤遠江介為憲の末裔(藤原南家工藤氏)の末裔で、鎌倉幕府の政所令・後に別当、十三人の合議制の一人となった。二階堂氏の祖である二階堂行政が、鎌倉二階堂に屋敷を構えたことから二階堂の苗字を称した。 室町幕府10代将軍足利義稙将軍の近侍であった二階堂大蔵少輔政行のとき、義稙の秘命を帯びて備中国の地頭として管領代大内義興の幕下に属した。初め岡山県浅口郡片島(現岡山県倉敷市)に居城し、岡山県浅口郡片島の中島に在城したので中島と改めた。後に賀陽郡阿曽の経山城の城主となり、政行・氏行・輝行・元行と四代にわたって居城した。 元行の代には大内氏に代わり中国地方の覇者となった毛利氏の幕下に属し、清水宗治とともに小早川隆景の配下となった。 元亀2年(1571年)には、経山城を守って、尼子氏の残党軍と一戦を交えている。 天正10年(1582年)、織田信長の命令により中国攻めの方面軍を率いていた羽柴秀吉が備中に侵攻し、備中国高松城が包囲された際、城主清水宗治とともに副将として元行も籠城して抗戦した(備中高松城の戦い)。 長期間に及んだ籠城戦は、宗治の切腹を条件として秀吉と和議が結ばれた。開城後、元行は宗治の嫡子源三郎(清水景治)の後見をする。 その後、豊臣政権下で大名となった小早川隆景が筑前名島(現福岡県福岡市)に移ると、清水五郎左衛門(清水景治、源三郎)と元行、元行の嫡男義行は小早川家に召しだされ、仕官した。隆景が死去すると皆、小早川家を退去し、景治は毛利輝元に仕え、元行と義行は、小寺村で帰農した。 のち、義行は慶長5年(1600年)の関ヶ原の役後まもなく結城秀康に仕官し、義行の家系は義行の嫡男昌行の子孫が継いだ。 元行は慶長19年(1614年)1月に死去、墓は報恩寺(現岡山県総社市小寺)にある。その後の中島氏は、浅尾藩主蒔田氏より客分として処遇された。 『中国兵乱記』は中島元行が著したものである。 平常の住居は賀陽郡刑部郷小寺村(現岡山県総社市小寺)にあり、南北三丁、東西四丁、四方に二重の堀をめぐらしていたという。小寺にあった中島氏の住居跡地は、現在「小寺中島公園」となっている。庭として使用していたところは、当時に近い状態で残されており、「願主 中島元行」と刻まれた廣峯神社が現在も残っている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B3%B6%E5%85%83%E8%A1%8C
中川清秀 Nakagawa Kiyohide(1542年-1583年) 父は高山重清(中川重清、中川佐渡守重清)で、母は中川清村の娘。 父である中川重清は、桓武平氏良文流の後裔である常陸の高山重利の次男とされるが疑問点もある。 高山右近の父・高山友照は、中川清秀の父・高山重清と兄弟であるとされているが、高山友照は摂津出身とされているので、常陸から来たのか、元々摂津出身なのか、それともどちらかが明らかな養子なのか?余計に出自に疑問が残り、良くわからない。 ともあれ、中川清秀の父・高山重清は1535年頃?に常陸から京の都に上って、その後、摂津国に移ると中川清村に仕えたとされる。 その後、主である中川清村の嫡男・中川清照が戦死し、跡取りがなくなった中村清村は、娘と高山重清を結婚させて養子に迎え、このとき、高山重清は平氏から源氏に改め、中川重清と改名した。恐らく、父・高山重清は有能な武将だったのだろう。推測するに、1541年前後と考えられる。 そして、子になる中川清秀が1542年に誕生したのだ。幼名は虎之助。通称は中川瀬兵衛。 中川重清は稲田城主として摂津の小大名となったが、周辺には巨大勢力があり、領土経営は大変難しい状態であった為、池田城主・池田勝正に最初従属。 しかし、1564年、山崎恒政(山崎右馬允)に攻められて敗走。のち稲田城を再興するが、1570年には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降伏。以後、池田氏家臣である荒木村重の重臣として仕えた。 父・中川重清の没年や家督が譲られた時期は不明なので、この頃、既に中川家は中川清秀が率いていたと考えられる。 中川清秀の正室は稍姫(熊田宗白の娘、やや)で、1568年には中川清秀の嫡男・中川秀政、1570年には次男・中川秀成が誕生している。 池田家の一家臣であった荒木村重は、池田城から池田勝正を追いだして池田家を掌握すると、1571年には白井河原の戦いで荒木村重と中川清秀が、茨木城主・茨木重朝と高槻城主・和田惟政を討ち取ると中川清秀が荒木村次を補佐し実質的な茨木城主となった。そして、中川清秀は1577年に正式に60000石の茨木城主となっている。 この荒木村重の活躍に目をつけたのは1568年に上洛を果たした織田信長で、荒木村重は織田信長から厚い信頼を得て摂津一国を任された。 1573年、中川清秀は、柴田勝家が指揮する河内の高屋口の合戦に参加し、宣教師や相手方の首を切り、功をたてた。 1574年11月5日に、荒木村重・中川清秀らは伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を支配。高槻城主となっていた高山右近も、荒木村重の与力として加わったが、荒木村重の活躍もこう言った有能な武将が支えていたことが分かる。 しかし、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や黒田官兵衛・竹中半兵衛・蜂須賀小六らと三木城攻めをしていた1578年7月、荒木村重が戦線を離脱して有岡城(伊丹城)に戻り織田信長に謀反を起こす。 この荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣とする説がある。 荒木村重は、織田信長の使者である明智光秀、松井友閑、万見重元に説得や、高槻城の高山右近の説得も受けて、釈明のため安土城に旅だったが、途中で寄った茨木城で中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹城に戻った。 この事により、織田勢は有岡城を包囲し、有岡城の戦いとなる。 中川清秀や高山右近らも縁故であるということもあって荒木村重に味方し各持ち城にて籠城し、荒木村重は有岡城に篭城。 黒田官兵衛も荒木村重説得の為単身で赴くが、牢に捕えられてしまった。 荒木村重は織田勢に対して徹底抗戦をしたが、中川清秀は10月28日に織田勢と戦わずに降伏し、高山右近も11月に降伏。 荒木村重は圧倒的に不利となったが、1年籠城し翌年1579年9月2日に有岡城は落城した。 領土安堵された中川清秀は、その後、織田信長の家臣となり、丹羽長秀や池田恒興の旗下として転戦。 娘である糸姫は、池田恒興の子・池田輝政に嫁いでいる。 1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、高山右近と共に行動し羽柴秀吉勢に合流して、山崎の戦いで主戦力として活躍。 1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも先鋒二番手として参戦。 しかし、大岩山砦を高山右近・三好秀次らと守備していた際に、柴田勝家勢の勇将・佐久間盛政の猛攻を受けた。 中川清秀の家臣、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉らも防戦に奮闘したが、中川清秀の弟・中川淵之助も討死し、中川清秀も自害。享年42。 墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。 この時、命を落とした中川家臣は、中川清秀以外に、中川淵之助熊田孫七資一熊田兵部次矩熊田三太夫資之森本道徳山岸監物重本杉村久助正英森権之助鳥養四郎太夫大田平八菅杢伝兵衛重武野尻出助重英藤井半右衛門田代太左衛門奥彦太夫光英奥彦作奥孫兵衛田能村杢左衛門入江土佐赤井弥次右衛門元定高山総吉桜井河内正利野口新助田島伝次右衛門玄正亡知半。 他には台所人11人仲間御小人20人余雑兵300人となっている。 当時の梅林寺住職・是頓和尚は、中川清秀戦死の報を受けると、すぐさま賤ヶ岳に向かい、遺髪を貰い受けて持ち帰り菩提を弔ったと言う。 中川家の家督は長男・中川秀政が相続して茨木城50000石を継ぎ、その後見人には古田重然がついた。 この古田重然は千利休の死後は天下一の茶人となった人物で「利休七哲」の一人とされ「織部流」開祖で、古田織部と呼ばれた方が有名か?古田重定(茶人である)の子で、妻は中川清秀の妹・せんである。(1569年に結婚) その後、中川秀政は古田重然と共に、小牧長久手の戦いや、四国攻めに参戦し手柄を立て、三木城主13万石となり、1590年の小田原攻めにも2000を率いて出陣している。 しかし、1592年の文禄の役で、朝鮮で鷹狩りの最中に敵兵に包囲されて亡くなった。享年25。 出處 http://senjp.com/nakagawa
中馬重方 Chuman Shigekata(1566年-1636年) 薩摩国市来郷地頭・比志島国貞に仕え、天正8年(1580年)に肥後国矢崎城攻めにて初陣。以後、天正15年(1587年)1月26日の豊後国下之城攻めに参加など、島津氏の肥後国侵攻や大友氏との戦に参加した。しかし、国貞との関係が悪化し、知行と屋敷を没収されて蒲生(現在の姶良市)に蟄居させられるが、豊臣氏による文禄の役が起こると、蟄居先より呼び戻され役に参加した。慶長3年(1598年)、慶長の役に再び参加し武功をあげる。このため島津義久、義弘より、通称を「与八郎」から、父と同じ「大蔵」を称すように命じられる。 慶長4年(1599年)、薩摩出水郷が豊臣氏直轄地から島津氏に返還された際、境目警備のため慶長5年(1600年)に出水郷(現在の出水市、阿久根市脇本、長島町にいたる地域)に移り、出水郷西目村瀬之浦(現在の阿久根市脇本)に居住。当時、肥後国の加藤清正との関係が悪化していた上、出水郷には豊臣秀吉に改易された薩州島津家の家臣が浪人となって在住していたため、その備えとして配置される。肥後国との国境最前線のため出水郷には有能な武士が配置され、ほかの郷と比べて出水郷士の知行は厚遇された。 同年関ヶ原の戦いに従軍し、伊勢路退却の御供をする。そのとき、島津義弘の馬印を捨てさせた。この功績により50石を賞賜される。 元和6年(1620年)の「出水郷衆中高帳」(鹿児島県立図書館蔵)に「西目衆中 75石 中馬大蔵少輔」とある。 寛永12年(1635年)12月18日に死去。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%A6%AC%E9%87%8D%E6%96%B9
乃美隆興 Nomi Takaoki(1513年—1598年) 小早川氏の重臣。茶臼山城主。妹、もしくは娘が毛利元就の継室・乃美大方。 沼田小早川氏当主・小早川敬平の弟小早川是景を祖とする小早川庶流・小早川弘平の子として誕生。隆興の代になって領地としていた乃美郷(現・広島県東広島市)の地名を取って、乃美氏を称した。はじめ公平と名乗るが、大内義隆から一字を賜るなどして、隆興と改めた。乃美宗勝は従弟(宗勝の父・賢勝は同じ小早川庶流の浦家に養子に入ったが、元は隆興の父・弘平の弟である)。 天文12年(1543年)、尼子方に転じた備後国神辺城主山名理興が、小早川領へ侵攻した際には高山城を守備し、毛利元就と協力して山名軍を撃退。沼田小早川家と竹原小早川家との統合にも尽力し、小早川隆景擁立の実現に際しては元就から今後も粗略にしないという誓約を得る。慶長3年(1598年)、86歳で没した。 元就の継室に血族を嫁がせていることでもわかる通り、かなり早い時期から毛利氏との関係が深かった。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E7%BE%8E%E9%9A%86%E8%88%88
亀井秀綱 Kamei Hidetsuna(生年不詳-沒年不詳) 祖父亀井永綱の代に尼子氏に出仕。祖父と父亀井安綱は、月山富田城奪取戦に参加し、その功により、家老に任ぜられる。 安綱の子秀綱は、尼子経久・尼子晴久二代に仕え、永正5年(1508年)に経久が大内義興の上洛に従った際にはこれに随行し、永正8年(1511年)の船岡山合戦に参加するなど、家老の一人として活動した。尼子家では亀井安綱の頃より、筆頭家老格であったとされる。 亀井家の家督相続後、安芸国の毛利氏が幼少の当主・毛利幸松丸の死後、大内氏寄りである毛利元就が当主となり、尼子氏からの離反の動きを見せると、大永4年(1524年)、元就の弟である相合元綱らを教唆しクーデターによる元就打倒を画策したが、智略に優れる元就が先手を打ち、この策略は失敗に終わっている。これにより元就が寝返ったとされる。また所領問題で不満を持つ経久の子の塩冶興久の説得に失敗し、謀反の原因を作ったともされる。なお、弟の亀井利綱は興久に味方して享禄5年/天文元年(1532年)に討死している。 晩年は晴久の子尼子義久の代まで仕えて第二次月山富田城の戦いに参加し、そこで杉原盛重に親子共に討たれ死亡(鳥取県境港市に墓所)したとも、毛利氏に投降したともいうが詳細は不明である。 最新の研究では、秀綱は寺社を統率する立場にあり、主君の代理として、出雲国内の宗教勢力(杵築大社・鰐淵寺)と密に書状をやり取りし、多くの寺院の創建や修繕に関わっている。そのため多くの書状が現存している。その現存する書状や棟札などを見ると、秀綱の活動が最後に確認できるのは享禄3年(1530年)の塩冶興久の乱に関連するものであり、それ以降の資料では亀井安綱の名前が出ており、この前後に家督が安綱に継承されたことが確認できる。一次資料によって確認できる秀綱の実質的な活動範囲はここまでであり、従来通説とされてきた永禄年間頃の活動は、その後継者によって行われたと推測されている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95%E7%A7%80%E7%B6%B1
二本松義国 Nihonmatsu Yoshikuni(生年不詳-1580年) 二本松氏一門・新城村尚(第5代当主・二本松村国の弟)の子で、天文16年(1547年)に従兄弟の第7代当主・義氏が嗣子無くして死去すると、後継ぎとして迎えられた。 この年、伊達氏の内紛に端を発した天文の乱がようやく終結したが、この乱に乗じて勢力を拡大した蘆名盛氏と田村隆顕との争いは収まらず、その中間に位置する二本松氏もこれに巻き込まれることとなる。 天文20年(1551年)には結城晴綱と共に蘆名氏と田村氏の講和を仲介するなど(この時点はまだ尚国と名乗っており、義国へと改名した正確な時期は明かでない)、まだ一定の勢力を保ってはいたが、次第に弱体化して両者の間をその都度行き来してわずかな所領を安堵されるほどにまで零落していった。 元亀元年(1570年)、当時田村・相馬方に属していた義国は蘆名軍の攻撃を退け、また同年には伊達家から八丁目城主・堀越宗範が城ごと寝返るなどして、一時期勢力を盛り返したが、天正2年(1574年)4月には伊達実元・蘆名盛興の攻撃を受け、実元に八丁目城を攻め落とされた。この時点で田村清顕は伊達輝宗に和平を申し入れたが拒否されたため、10月に二本松氏は八丁目城を実元に割譲して宗範を追放することを条件に降伏し、二本松氏は田村・相馬の傘下から伊達・蘆名の傘下に移った。この頃に家督を嫡男の義継に譲ったと考えられる。 天正8年(1580年)8月1日死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E6%9D%BE%E7%BE%A9%E5%9B%BD
二本松義孝 Nihonmatsu Yoshitaka(1578年-卒年不詳) 天正6年(1578年)、二本松氏第11代当主・二本松義継の二男として生まれる。幼名は梅王丸。 天正13年(1585年)に父・義継が伊達政宗に討たれ、翌天正14年(1586年)に二本松城が開城すると兄・国王丸(義綱)と共に会津の蘆名氏の下へ逃れた。しかしその蘆名氏も天正17年(1589年)の摺上原の戦いで蘆名義広が政宗に敗れて滅亡し、梅王丸は兄と共に義広の実家である常陸への逃避行に従った。ところが義綱は義広と諍いを起こして暗殺されてしまい、梅王丸は江戸崎から会津へと逃れ、同地で元服。はじめ国次と名乗り、のちに義孝と称した。二本松氏は、正式には一貫して畠山を姓として来たが、義孝は初めて二本松を姓としている。 上杉景勝が会津に入封すると客分として召抱えられ慶長出羽合戦に参加。上杉氏が会津を没収された後も、義孝は会津に留まって蒲生秀行・加藤嘉明ら歴代の会津藩主の客分となっていた。寛永20年(1643年)3月の会津騒動で加藤氏が改易された際に、隠棲して故郷で余生を送ることにしたが、慶安元年(1648年)、岡崎藩主・水野忠善に招聘される。義孝は老齢を理由に自身の仕官は辞退し、代わりに息子二人を出仕させた。忠善は嫡男・義張を700石、二男・義正を300石で召抱え、義孝には養老の資として二百人扶持を給与した。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E9%87%8E%E9%95%B7%E7%AF%84
井戸良弘 Ido Yoshihiro(1532年?-1612年?) 井戸覚弘の子。室は筒井順慶の姉(『寛政重修諸家譜』)。才助。若狭守。井戸城城主。子に井戸覚弘・井戸治秀など。 大和国の国人領主の一人として筒井氏に仕えて松永久秀と度々交戦していた。のちに井戸城を子の覚弘に譲り、永禄11年(1568年)には筒井氏の影響から離れ、自らは織田信長に仕え、松永氏とも和睦してその影響下に属している。しかし、元亀元年(1570年)に、松永久秀が織田氏から離反したため、再び松永氏の侵攻を受け、同年2月には久秀に差し出していた8歳の娘が殺され、同3月には居城を追われた(『多聞院日記』)。その後、信長との対立で松永氏が没落すると塙直政に仕え、直政の戦死後は再び筒井氏に属した。 天正6年(1578年)、それまでの戦功や、直政改易後にその一族を捕縛した功などにより、それまで直政の居城であった山城国槇島城主2万石を信長から任された。 天正9年(1581年)の伊賀攻めにも筒井氏配下として従軍している。 しかし天正10年(1582年)、本能寺の変の後に起こった山崎の戦いでは不鮮明な態度をとって(次男・治秀が光秀の娘婿だったとされる)、羽柴軍に与さなかったために改易される。以後、しばらくは奈良に蟄居していたとされるが、順慶の死を契機に秀吉に出仕を命じられ、その家臣となっている。その後、時期は不明であるが細川忠興の家臣となり、関ヶ原の戦いでは、東軍に属した細川幽斎とともに、丹波国田辺城で西軍の小野木重勝軍を相手に篭城戦に参加している。 戦後は大和国に戻り、余生を過ごした。 なお、井戸氏にはこの良弘の子孫で同じく良弘と名乗った人物が数名存在する。(彼の兄にも良弘という人物が存在する) 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E6%88%B8%E8%89%AF%E5%BC%98

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