人物誌.未翻譯

三木近綱 Mitsuki Chikatsuna(1574年—1629年) 姉小路頼綱の末子。室は石崎左平太の娘。子に森自直(叔父森自綱養子)、三木春綱。「近」の字は、金森長近からの偏諱と思われる。 羽柴秀吉の家臣・金森長近によって姉小路氏は滅ぼされたが、近綱は父が秀吉に対抗するため連携していた美濃国の遠藤慶隆の元に人質に送られていたために生きながらえた。その後、慶隆の保護を受けながら京に滞在して姉小路氏(三木氏)再興の機を窺った。 慶長19年(1614年)、大坂冬の陣の時に徳川家康に引見し、御書院番に命じられる。翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣で水野忠清に属して従軍。旧暦5月7日、天王寺・岡山の戦いにおいて形原松平氏の松平正勝(助十郎)、別所主水(別所宗治。別所重宗の子)ら旗本勢と敵陣に馬で突入した。正勝らは討死し、近綱は敵中に孤立する中で一人槍を振るって奮戦し、味方の救援の到着まで持ちこたえた。近綱はこのことを公言しなかったが、これを慶隆から水野忠清を経て江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に伝わり、その勇気を評され下総国香取郡内500石に取り立てられた。 寛永6年(1629年) 、死去。家督は春綱が継いだ。春綱の代に200石を加増されている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E8%BF%91%E7%B6%B1
三木通秋 Miki Michiaki(1534年—1584年) 天文3年(1534年)8月10日、三木通明(みちあき)の嫡男として英賀城内で誕生。天文13年(1544年)に元服して掃部助通秋を名乗り、三木氏の家督を相続し、英賀三木氏9代目の当主となる。 永禄12年(1569年)に赤松義祐と室町幕府15代将軍・足利義昭や織田信長の支援を受けた赤松政秀が対立した際には義祐方に与し、政秀の侵攻を受け窮地に立たされていた小寺孝隆(黒田孝高)の救援に駆けつけて、共に政秀を破り逆転勝利に貢献した(土器山の戦い)。 元亀元年(1570年)より始まった石山合戦では、領内に英賀御堂を始めとした本願寺門徒衆を多く抱え、自身も熱心な門徒であった事から顕如の檄文に呼応して挙兵し、兵430人を畿内に派遣し石山本願寺に3,000俵を送って支援をして織田氏への対立姿勢を露わにし、親織田に傾きつつあった赤松義祐や、小寺氏・別所氏ら播磨の周辺勢力とは疎遠になり始める。 天正5年(1576年)に毛利輝元が本願寺支援を決めたことで毛利氏と同盟し、英賀に毛利家臣の浦宗勝の軍勢を上陸させて播磨きっての親織田派であった小寺孝隆を5,000の兵で攻撃したが、孝隆の奇策の前に敗退した(英賀合戦)。天正6年(1578年)になると小寺政職や別所長治などの播磨国衆が織田から毛利に転じたため、通秋は三木合戦の始まりを受けて海路を使って別所氏を積極的に支援し、援軍や兵糧を送っている。 しかし、天正8年(1580年)1月に三木城が落城して別所長治が自害に追い込まれると、英賀城も織田軍の猛攻を受けて2月13日(4月26日とする書もある)には陥落。通秋は子の安明(やすあき)ら一族とともに命からがら英賀城から抜け出し、九州へと落ち延びた。しかし、天正10年(1582年)に羽柴秀吉に罪を許され英賀に戻り、かつてのような所領は失ったものの再び同地に居住して郷士頭となっている。 天正11年(1583年)12月16日に死去。享年50。遺体は播磨の西徳寺に葬られた。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E9%80%9A%E7%A7%8B
三村親成 Mimura Chikashige(生年不詳-1609年) 備中国の戦国大名・三村宗親の三男として誕生。兄の三村家親の甥ともいわれる。 備中三村氏が従属していた毛利氏からの信任が厚く、毛利元就が三村氏宛の文書を当主・家親のみならず親成にも見せるように使者に言い含めていたほどである。永禄9年(1566年)に、美作国・備前国へ出陣中の兄・家親が宇喜多直家からの刺客(遠藤秀清、俊通の遠藤兄弟)に暗殺されると、機転をきかせて陣中の動揺を押さえ、兄が率いていた軍勢を代行指揮する。家親横死を秘しての余りに鮮やかな引き際であったため、直家は暗殺成功の報告を容易に信じなかったという。以後は備中兵乱に至るまで、成羽から本家である備中松山の元親をよく補佐し、三村家の屋台骨と評された。 ところが、毛利氏が三村氏にとって不倶戴天の宇喜多氏と結び、それを好機と見て取った織田信長が毛利氏からの離反を誘うが、親成は三村氏旧臣・竹井氏などとともに「織田はとても信用できかねる相手であり、毛利と手を切って織田と手を結ぶのは時期尚早である」旨の主張した。しかし、前当主・三村家親を慕う一族の大勢は織田方につくことで一致し、当主・三村元親は毛利氏離反を決定した。そのため、身の危険を感じた親成は毛利氏に通じ三村氏討伐に協力した。備中兵乱後、一定の功績が毛利氏より認められて備中成羽(鶴首)城主の地位は安堵されたが、備中松山・三村本家の叛乱を諫止できなかった咎を問われ、所領は原封の半分以下といわれる約8,000石にまで減封された。 関ヶ原の戦いまで成羽(鶴首)城主の地位にあったが、戦後に備中成羽からの離封を余儀なくされ没落。その後、備前児島三宅氏のもとへ身を寄せていたが、江戸幕府開府後、備後国に封ぜられた水野勝成に家老として召抱えられたといわれる。ただし、勝成の備後入封は親成死去から10年後の元和5年(1619年)であり矛盾している。なお、記録によると、息子の親良は慶長19年(1614年)に、親宣は元和5年(1619年)にそれぞれ勝成に召出されている。 慶長14年(1609年)10月1日に死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E8%A6%AA%E6%88%90
三条の方 Sanjo Nokata(1521年?-1570年) 武田信玄の継室である。左大臣・転法輪三条公頼の次女。姉には細川晴元室、妹には顕如の妻の如春尼がいる。子には武田義信、黄梅院(北条氏政室)、海野信親、信之、見性院(穴山梅雪室)がいる。本名は不詳。一般には三条の方、三条夫人などと称される。 京都の三条邸で生まれる。転法輪三条家は清華七家の一つで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。笛と装束の家として知られている。分家の三条西家には、当代随一の文化人として名高い三条西実隆がいる。駿河国の今川氏の仲介で天文5年(1536年)7月、武田晴信に嫁す。義信、黄梅院、信親、信之、見性院と、晴信との間に次々と3男2女をもうける。武田家の近習衆のなかには警護等を務めていたと思われる御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ10人が付けられている。 信親が先天的に、もしくは幼年期に失明し、また、1551年(天文20年)、父の公頼が大寧寺の変において殺され、1553年(天文22年)頃に信之が夭折、1565年(永禄8年)、義信が謀反に関わったとされ、東光寺に幽閉されて翌々年死去、1568年(永禄11年)、信玄の駿河侵攻のため黄梅院が離縁され、その翌年に病死するなど、度重なる不運に見舞われた。元亀元年(1570年)7月28日に死去、享年50。墓所は甲府市の円光院。 円光院の葬儀記録には、快川和尚の三条の方の人柄を称賛する「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくておだやかなお人柄で、信玄さまとの夫婦仲も、むつまじいご様子でした」と記された記録が残されている。 信仰に関しては、武田家に嫁ぐ時に持参したと伝えられている、三条家に伝わる木造釈迦如来坐像が現存して円光院に所蔵されており、彼女が向嶽寺に新寄進をしている記録が『甲斐国志』に残されている。本願寺の顕如の正室は三条の方の妹・如春尼であり、本願寺と信玄との同盟の裏には三条の方の尽力があったと考えられる。また、武田氏の家紋と、彼女が皇室から使用を許された菊花紋と桐紋が彫られた愛用の鏡が、円光院に所蔵されている。さらに、円光院に伝わる当時の史料『円光院寺伝』によると、信玄が信濃国駒場で臨終間近の時、病の床に馬場信春を呼び寄せ、(安土桃山時代の高名な仏師)宮内卿法印康清に彫らせた、自分が日頃から信仰していた陣中守り本尊、刀八毘沙門・勝軍地蔵を託し、説三和尚に送り、円光院に納めてくれるように遺言したという。さらに自分の遺体も、円光院に3年間密葬させるよう遺言したという。 この2体の仏像はその遺言通り、現在も円光院に所蔵されている。笛吹市にある二宮美和神社に、永禄9年(1566年)11月25日に奉納された赤皮具足は信玄の物だという説もあるが、義信の東光寺幽閉の時期であることなどから、三条の方が義信の赤皮具足を奉納したとも考えられている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E3%81%AE%E6%96%B9
三枝昌貞 Saegusa Masasada(1537年-1575年) 甲斐国武田氏の家臣で足軽大将。諱は「守友」とされてきたが、近年は確実な文書上の表記から「昌貞」であることが指摘される。 父虎吉は「三枝右衛門尉」を名乗り武田家の奉行人として活動し、現在の山梨県中央市木原に本領を有していたという。戦国期に三枝氏は武田譜代山県昌景を寄親としている。 『甲陽軍鑑』『寛永諸家系図伝』などに拠れば昌貞は虎吉の嫡子で、武田信玄の近習衆として仕えていたが、信玄にその才能を認められて足軽大将に出世したという。『甲陽軍鑑』では昌貞は山県昌景と同族の山県氏の出自で三枝氏の養子になったとされているが、『寛永伝』では逆に昌景の娘婿(後に猶子)となり山県善右衛門尉を名乗ったとしている。なお、文書上においては永禄11年(1568年)頃から「山県勘解由左衛門尉」を称していることが確認される。『甲陽軍鑑』によれば30騎、足軽70人を指揮したという。 『寛永伝』三枝守友譜に拠れば、弘治年間には信玄の勘気を受け一時蟄居したという。文書上の初見は川中島の戦いに際した永禄4年(1561年)3月で、昌貞は信濃における活躍で知行を与えられている。さらに永禄6年(1563年)には叔父の守直(新十郎)の遺児養育と後見を命じられている。永禄12年8月には甲斐塩後郷(山梨県甲州市塩山)において代官を務めており、この頃には赦免されていると考えられている。 その後は奉行衆や武田氏の御料所の代官などを務めている。昌貞関係文書において、信玄は昌貞への加増を躊躇している文言が認められ、『寛永伝』に記される信玄の勘気を被ったとする逸話には一定の信憑性が認められている。また、昌貞関係文書は信玄直筆のものも多く含まれ、内容も叱責など信玄の感情的側面が記されている一方で、昌貞は武田家に順調に加増されていることが指摘され、信玄と昌貞の親近性を反映しているとも考えられている。 永禄8年(1565年)10月に武田家では信玄嫡男義信による謀反事件が発生しているが(義信事件)、これを受けて翌永禄9年8月には武田家臣が信玄への忠誠を誓う起請文を信濃国生島足島神社へ奉納しているが(「下之郷起請文」)、永禄9年8月の起請文では長坂昌国(源五郎)、矢島義房、佐藤民部少輔らとともに昌の名が見られる。武田家ではさらに翌永禄10年8月にも起請文の徴収を行っており昌貞はこの際も再び起請文の提出を行っており、昌貞が義信に近い立場であった可能性も考えられている。 永禄11年(1568年)の駿河今川領への侵攻(駿河侵攻)に際しては父の虎吉が駿河田中城の城将などを務めていることが確認されるが、『甲陽軍鑑』によれば信玄は同じく信玄近習の真田昌幸や曽根昌世とともに昌貞の存在を重視し、昌貞は花沢城攻めで一番槍の武功を立てたことにより信玄から感状を受け、山県昌景からは名刀「吉光」を与えられたとい逸話を記している。なお、永禄11年推定の「武田信玄陣立書」(山梨県立博物館所蔵)においては、昌貞は弓衆を率いる立場として記されている。 昌貞は信玄後期から勝頼期まで活動し、『甲陽軍鑑』『信長公記』に拠れば、以下の逸話を記している。天正3年(1575年)の長篠の戦いのときは、河窪信実(信玄の異母弟)を主将とした長篠城を監視する鳶ノ巣山の砦を守備する別働隊に配属された。そこでの守友は、鳶ノ巣山の山ろくに当たる「姥が懐」という所に設けられた支砦の守備を弟たちと担当していたため、信実と同様に主戦場から離れていた。だが、織田信長の命で送り出された酒井忠次が率いる織田・徳川の別働隊による襲撃を5月21日早朝に受ける。 酒井奇襲隊は、武田軍守備隊が無警戒な山奥から尾根伝いに背後へ迫って、5砦を撃滅する目的であった。その上、不運にも守友の担当した「姥が懐」の砦だけが、山頂や尾根に構えられた砦ではなかった為、敵襲の察知が一段と遅れたとも言われる。奇襲隊副将格の本多広孝の軍勢に、直上から逆落とし同然に攻め掛かられた守友たちではあったが、数で劣りながらも奮戦は目覚ましかったという。しかし、次第に劣勢に立たされていくばかりか、敵方には隣砦「君ヶ伏床」を壊滅させた松平清宗などが増援に加わるが、武田守備隊へは増援が無く万事休す。2人の弟・源左衛門守義、甚太郎守光たちと共に戦死したという。 昌貞が討たれた「姥が懐」の付近(愛知県新城市乗本字東畑)に、「三枝兄弟」の墓碑が所在している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9D%E6%98%8C%E8%B2%9E
三浦貞広 Miura Sadahiro(生年不詳-没年不詳) 三浦貞久の嫡子。三浦貞勝のおそらくは兄。道祖(才)五郎、次郎。能登守と称したとも考えられる。 天文17年(1548年)9月16日の父・貞久の病死を受けて家督を相続。以降惣領として出雲尼子氏のもとにあったが、後に帰国。牧尚春等と共に、三村家親によって没落した三浦氏の再興を目指した。そして永禄9年(1566年)2月、三村家親が宇喜多直家に美作国籾村の興善寺で暗殺されたのに乗じて所領を奪回した。 しかし永禄11年(1568年)2月19日、毛利元就に攻められて叔父三浦貞盛が死去、居城である高田城も落城し所領を追われた。元亀元年(1570年)、山中幸盛の支援を得て所領を奪回した。 天正2年(1574年)に浦上宗景と宇喜多直家が対立した際には浦上氏に与同し、備中国の三村元親を同盟に引き入れた。このことから宇喜多氏と交戦、更に翌3年(1575年)には備中国を平定した毛利氏の侵攻を受けるに至って、同年9月、宇喜多直家の周旋により降伏した(天神山城の戦い)。 以降貞広は天正10年(1582年)に備中高松合戦に参陣、その後播磨国林田で病死したとされる(「高田城主次第」)。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E8%B2%9E%E5%BA%83
上杉景信 Uesugi Kagenobu(生年不詳-1578年) 古志長尾家当主。越後栖吉城主。長尾房景(弥四郎・豊前守)の子。 古志長尾家は越後長尾氏一門衆筆頭格で、守護の上杉定実に長尾為景が反旗を翻すと、古志長尾家もこれに従った。景信の動静は享禄4年(1531年)には確認できることから、この前後に父が死去もしくは隠居して家督を継承したとみられる。為景の四男の長尾景虎の時代には上田長尾家の長尾政景や山本寺上杉家の山本寺定長らと共に景虎の重臣として名を連ねた。 永禄4年(1561年)に景虎が関東管領上杉家の名跡を継ぎ上杉政虎(後に輝虎、謙信)を名乗ると景信も上杉姓を許され以後は上杉十郎景信と名乗り、謙信の関東征伐や対武田戦に参加した。謙信の母青岩院が景信の姉であったともいう。 天正3年(1575年)の軍役帳には謙信の養子であった上杉景勝や山浦国清に次ぐ第3位で81人の軍役を課せられていた。2年後の上杉氏家臣の名簿でも越後衆及び一門衆の筆頭に位置付けられている。だが、同じ重鎮であった政景・景勝父子の上田長尾家とは元来幾つかの小競り合いを演じた対立関係であり、謙信没後の御館の乱では謙信の養子であった景勝が同じく養子である上杉景虎と家督争いを始めると、その対抗上から景虎を支持して景勝方と対立したが、居多浜の戦いで山浦国清と戦い戦死した。 古志長尾家の家督は能臣・河田長親が継いだ。しかし、遺跡のみで長尾姓に改姓は辞退し、古志長尾家は事実上断絶した。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E4%BF%A1
上杉景虎 Uesugi Kagetora(1554年-1579年) 父:北条氏康、母:遠山康光妹、養父:北条幻庵、上杉謙信、正室:北条幻庵女、継室:清円院(長尾政景女)、側室:妙徳院(遠山康光義妹);幼名西堂丸または竹王丸,別名北条氏秀、北条三郎,号出西堂。 幼少期に箱根早雲寺に預けられて「出西堂」と名乗り、喝食の僧として過ごしていたという。戦国期には相模国の後北条氏と甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏の三者で三国同盟が成立し、武田・北条氏の間では甲相同盟の締結により天文23年(1554年)に武田晴信(信玄)の娘が北条氏康嫡男の氏政に嫁いでいる(『勝山記』)。 甲相同盟は永禄12年(1569年)に一時破綻し、元亀2年(1571年)に再締結されているが、『関八州古戦録』によれば、景虎は甲相同盟の一環として武田家に人質とされていたという。一方で、『関八州古戦録』以外の確実な文書・記録資料においては景虎が人質として武田家にいたことが確認されず、近年では否定的見解が強い。また正確な生年も不明である。 永禄12年(1569年)、大叔父に当たる北条幻庵(長綱)の養子となり、幻庵の娘を妻とする。小机衆を束ね、江戸城の武蔵遠山氏とも近しくしていたとされる。なお北条時代の彼の事跡については北条氏秀と同一視されている可能性がある(後述)。 永禄12年(1569年)6月、武田氏の駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)に伴い、北条氏では甲相同盟を手切とし、越後上杉氏との越相同盟が締結された。上杉氏と北条氏は長らく敵対関係にあり、同盟締結に際しては北条氏政の次男・国増丸を上杉謙信へ養子に出すことが決められる。 しかし、同盟締結において氏政が国増丸を手放すのを拒んだため(同年10月以前)、上杉家から代わりの人質を求められる。三郎は同年12月に北条幻庵の養子になったとみられるが、翌永禄13年3月には謙信への養子入りが決まる。この際、謙信の姪(上杉景勝の姉)を三郎に娶らせることが約束される 。 永禄13年(1570年)4月11日、上野国沼田で謙信と面会し、越後国へ同行する。同月25日、春日山城にて謙信の姪との祝言が行われ、正式に謙信の養子となり、彼の初名でもあった「景虎」の名を与えられる。この際、春日山城三の丸に屋敷を与えられたという。 越相同盟に対し、甲斐武田氏は足利義昭・織田信長を通じた上杉氏との和睦や(甲越和与)、佐竹氏ら関東の勢力を迎合して北条氏への牽制を行っており、北条氏においても氏康と氏政の間で越相同盟の維持か甲相同盟の回復かで路線対立があったという。 元亀2年(1571年)の氏康の死去に際して、景虎は小田原へ帰参しているが、まもなく越後へ戻っている。同年12月、家督を相続した兄・氏政は甲相同盟の再締結を行い、これに伴い越相同盟は手切となっているが、景虎は越後へ留まっている。 天正6年(1578年)3月13日、謙信が病没すると、義兄弟の上杉景勝との家督を巡る対立が上杉家の内訌に発展し、御館の乱となる。上杉景信・本庄秀綱・北条高広らの支持を集め、実家である後北条家とその同盟国である武田家の後ろ盾もあり、当初は景虎が優勢であった。これに対し、景勝側はいち早く春日山城本丸・金蔵を奪取した。5月13日、景虎は妻子らを連れて春日山城を脱出し、城下にある御館(前関東管領である上杉憲政の屋敷)に立て籠もった。北条氏は主力が佐竹・宇都宮連合軍と対陣中だったこともあり、甲相同盟に基づいて武田勝頼に景虎への援軍を打診し、勝頼は同年5月に信越国境まで出兵している。 同年6月に景勝方は勝頼との和睦交渉を開始し、北信地域における上杉領割譲を条件に和睦が成立し、甲越同盟が締結される。6月中に勝頼は越府に着陣すると、景勝と景虎間の調停を開始した。同年8月に景虎と景勝は一時的に和睦するが、8月中に三河国の徳川氏が駿河の武田領国へ侵攻すると、勝頼は越後から撤兵し、景虎・景勝間の和睦も破綻する。 翌天正7年(1579年)、雪で北条家からの援軍も望めない中で御館は落城、景虎正室は実弟・景勝による降伏勧告を拒絶して自害し(通説では24歳とされる)、また嫡男・道満丸も上杉憲政に連れられ景勝の陣へと向かう途中に、憲政ともども何者かに殺害された(陰謀説、裏切り説等、これには様々な説がある。また、他の子供達も両親とほぼ同時期に死去したものといわれる)。孤立無援となった景虎は、兄・北条氏政を頼って小田原城に逃れようとした。しかし、その途上において鮫ヶ尾城主・堀江宗親の謀反に遭って、自害を余儀なくされた。享年26とされる。法名は「徳源院要山浄公」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%99%AF%E8%99%8E
上杉朝興 Uesugi Tomooki(1488年-1537年) 永正2年(1505年)、山内上杉家との抗争に敗れた朝良は隠居を余儀なくされたため、家督を継いで扇谷上杉家の当主となるが、実権は依然として朝良が握っていた(ただし朝良の隠居はなかったとする説もある)。 永正15年(1518年)に朝良が死去し、実権を掌握する(またはこのとき初めて家督を継承する)が、朝良には晩年になって実子の藤王丸が生まれており、朝良は死に臨んで藤王丸が成長した際に家督を譲るように遺言し、朝興は藤王丸の後見人(名代)のような立場になったとされている。 大永4年(1524年)1月、太田資高が相模国の新興大名である北条氏綱に内応したため、北条軍に江戸城を攻撃される。朝興は「居ながら敵を請けなば、武略なきに似たり」と述べて高輪原(現東京都港区高輪)で迎撃するが、敗退し江戸城を奪われて河越城に逃亡した。同年2月には資高の一族の太田資頼も氏綱に内応して岩付城を奪うが、7月には朝興に帰参したためそのまま岩付城に置かれている。このため、大永5年(1525年)2月には北条氏綱の反撃を受けて岩付城を攻め落とされたため、資頼は石戸城に一時退いた。このため、朝興は宿敵であった山内上杉家の上杉憲房や、甲斐国の都留郡において北条方と抗争していた守護・武田信虎、更に上総国の実力者である真里谷恕鑑との同盟を模索している。同年8月、白子原の戦い(現埼玉県和光市白子)で北条勢を破り、翌大永6年(1526年)6月には蕨城を奪回した。 享禄3年(1530年)6月、小沢原の戦いでは氏綱の嫡男・北条氏康に敗れたが、同年9月には太田資頼の攻撃によって岩付城を奪回している。 天文元年(1532年)、藤王丸を殺害(享年15)し、自らの息子である朝定を正式に後継者にした。天文2年(1533年)には武田信虎の嫡男勝千代(晴信)の正室として娘を嫁がせるなど、山内上杉家・武田氏らと連携して北条氏綱を攻めたが、遂に江戸城奪回を果たすことなく、天文6年(1537年)4月27日、河越城で病死した。享年50。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%9C%9D%E8%88%88
上村長種 Uemura Nagatane(1495年-1535年) 上村氏はもともと相良氏初代当主相良長頼の四男の頼村を祖とする分家であるが、頼興・長種兄弟の祖父である上村直頼の室は第12代当主為続の姉で、さらに父の上村頼廉は為続の三男が直頼の養子となったものであった。故に、第13代当主相良長毎は伯父にあたり、主君であった長祗や義滋(長唯)も従弟の関係にあった。 長種は水俣城主であったが、上村城主の兄頼興が義滋と盟約して甥の頼重を相良氏宗家の世子としたことから、長種も家老として重用され、大永7年(1527年)4月3日、八代城主となった。 享禄2年(1529年)3月8日、長種は乱を起こした犬童一族が勢力を持つ佐敷を攻めて、7月6日には同城を落とし、さらに11月19日には犬童重良の湯浦城(小野嶽城)を落としたので、重良父子は津奈木城へ逃れた。翌年正月5日に津奈木城を攻めて26日に落としたので、相良長定や重良父子はさらに逃亡した。27日、長種は、長祗の首を取った当人である犬童忠匡(匡政)とその息子左近を捕えて、八代に連行して処刑した。3月には、乱の首謀者であった元奉行の犬童刑部左衛門長広を捕え、人吉に護送して中川原で斬首した。 天文2年(1533年)、義滋が主城を移すということで、八代城を出て、八代中島(氷川町)に館を設けて移った。 長種は「花の木」と称されたほど連歌の達人で、優れた教養人でもあり、『南藤蔓綿録』には「天性、心繰り温和ニシテ内ニハ礼譲ヲ秘シ、外ニハ文武ヲ兼ネ、昼夜御執行ニハ天法兵道ヲ御執行ナリ」と評されるほどで、家中における人望は兄を凌いでいたと伝わる。しかしこれを逆に危ぶんで頼興に讒言する者があり、頼興は自分亡き後、息子の頼重(長為)の代になれば謀反を起こすのではないかと疑心暗鬼するようになった。 天文4年(1535年)、頼興は、奉行相良長兄、丸目頼美、東直政と謀り、4月8日、八代・鷹峯城に呼び出し、刺客蓑田長親(平馬允)に命じて、実弟である長種を暗殺した。享年41。法名は古岑蓮久。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E9%95%B7%E7%A8%AE
上村頼孝 Uemura Yoriyoshi(1517年-1567年) 相良氏の家臣。上村頼興の次男で、上村氏第14代当主。相良氏第17代当主相良晴広は実兄。通称は左衛門太夫。 天文24年(1555年)の兄相良晴広の死の後を継いだ甥相良義陽の家督相続を不満に思っており、義陽の後見人であった父頼興の死で上村氏を継いで上村城主となったのを機に、弘治3年(1557年)6月、弟の上村頼堅(豊福城主)、稲留長蔵(岡本城主)と共に反乱を起こした。しかし頼堅がまず敗れ、頼孝は久木野城に籠ったが、菱刈重任や北原氏500余名からの援軍も得たものの撃退されて、城を逃れて、同年9月20日(8月13日とも)北原氏の治める飯野へと逃亡した。 永禄3年(1560年)、義陽が無量壽院の住職・正阿弥(東出羽守)を派遣して甘言して説得したので、7月29日、頼孝は帰国を許されたと考えて士卒700余名と共に帰還して、水俣城下に住んだ。 しかし、永禄10年になって、義陽は、奉行の蓑田信濃・高橋駿河を頼孝を討つために兵と共に差し向けた。これを聞いた深水源八郎長則は、一族衆である頼孝への仕打ちとしてこちらの侍が一人も死なない事は礼儀に反すると父の執政深水宗方へ訴え、自ら相果てる役目を志願して了承された。頼孝と源八郎は互いに酒を酌み交わした後、槍を合わせ、頼孝は源八郎を突き殺すと自ら切腹して果てた。享年51。法名は本山蓮光。 嫡子の四郎頼辰もこの時切腹した。享年24。近習も尽く殉死した。しかし他の子らは幼少を理由に許されている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E9%A0%BC%E5%AD%9D
上村頼興 Uemura Yorioki(1490年-1557年) 肥後国国人相良氏の一族。上村城主。官位は上総介。父は上村頼廉。妻は上村長国の娘。子に相良晴広、上村頼孝、上村頼堅、稲留長蔵。 相良氏16代当主の相良義滋とは従兄弟にあたる。上村氏は相良一族内に於いて有力庶家であり、大永6年(1526年)に義滋が実弟の長隆を攻撃する際に、頼興の長男・晴広を養嗣子とすることで協力を取り付けさせるほどであった。それからは義滋を補佐し、八代城の城代を勤めるなどしている。 頼興は稀代の謀略家でもあり、実の弟・上村長種が文武に優れ武功の多い人物であった事から反乱に及ぶ事を危惧し、天文4年(1535年)これを謀殺。やがて実子の晴広が相良氏の家督を継承すると、天文21年(1552年)8月に自身の従兄弟にして義兄でもある岡本地頭・相良頼春も謀殺。その領地と地頭職を自身の四男稲留長蔵へ継がせている。 天文24年(1555年)に晴広が病没すると、その後を継いだ義陽の後見役となるが、弘治3年に没する。法名は「通山蓮秦」。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E9%A0%BC%E8%88%88