吉見広頼 Yoshimi Hiroyori

吉見広頼 Yoshimi Hiroyori吉見広頼 Yoshimi Hiroyori(1535年?-1613年)

父は吉見正頼、母は大内義興の娘。正室は毛利隆元の娘.津和野局、継室は内藤隆春の娘.河原殿、側室は光井勝良の娘。子に元頼、広長、娘(河野通直室、後に末次元康室)、娘(益田広兼室)、娘(宍道元信室)、娘(天野元景室)、娘(毛利就頼室)。官位は大蔵大輔、三河守。毛利氏よりその祖先.大江広元の1字を与えられて広頼と名乗る。

父が陶晴賢と対立し、天文23年(1554年)に籠城戦の末に一時降伏した際に人質となったが、天文24年(1555年)の厳島の戦いにより晴賢が敗死すると解放された。永禄6年(1563年)に初陣、出雲白鹿城攻めで本田豊前守を討ち取った。初陣後に毛利隆元の娘を娶ったが、元亀2年(1571年)に先立たれたため内藤隆春の娘を継室に迎えた。天正7年(1579年)に備後.美作に出陣、天正10年(1582年)の備中高松城の戦いに出陣した。同年、父から家督を譲られる。

病弱で父ほどには信任を受けなかったが、毛利氏に忠実に仕え、天正14年(1586年)の九州征伐で吉川元春小早川隆景らと共に九州に従軍、豊前香春岳城攻めで功績を上げ、豊臣秀吉から感状を受け取った。天正18年(1590年)の小田原征伐では毛利水軍に加わり三沢為虎.熊谷元直.益田元祥.山内広通らと共に伊豆下田城を落とした。文禄.慶長の役には病気で出陣出来ず、嫡男の元頼が代わりに朝鮮に渡ったが、文禄3年(1594年)に元頼が津和野で病死、翌年に後妻も亡くなった。慶長2年(1597年)に次男の広長を朝鮮に渡海させ、翌3年(1598年)に広長に家督を譲り隠居した。

しかし、広長は毛利氏に反抗的で、慶長4年(1599年)に出奔したため当主に復帰、広長の帰参に腐心することになる。広長は慶長5年(1600年)に復帰したが、同年の関ヶ原の戦いで輝元は周防.長門に減封、広頼も津和野を離れて萩に移り住んだ。慶長9年(1604年)に広長が再び出奔、娘達も先立つなど晩年は不遇であった。慶長17年(1612年)に吉川広家の次男を婿養子に迎え吉見政春と名乗らせ、翌18年(1613年)に死去。

法名は秀巌舸撤、墓所は山口県阿武郡大井串山の周鷹寺。

広長は広頼の死後に戻り家督を継いだが、元和4年(1618年)に讒言で輝元に討たれ吉見氏は断絶した。政春も後に大野毛利家を興して毛利就頼と改名した。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%A6%8B%E5%BA%83%E9%A0%BC

分享到:更多 ()