山崎片家 Yamazaki Kataie

山崎片家 Yamazaki Kataie山崎片家 Yamazaki Kataie(1547年-1591年)

六角義賢より偏諱を賜い山崎賢家(読み同じ)と称する。義賢の子である六角義治に仕えていたが、義治と不和であったため、永禄6年(1563年)の観音寺騒動では六角氏と敵対。永禄11年(1568年)9月に織田信長が六角領内へ侵攻すると、六角家を見限りいち早く降り信長の家臣となった。そのとき、片家と名を改める。

信長に仕えて以後、近江衆として元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参加した。

元亀4年(1573年)4月、信長に従い京都の上京焼き討ちと二条城包囲に参加した。天正元年(1573年)7月、信長に従って将軍.足利義昭の槇島城を攻めた。同年の浅井氏攻めにも参加した。天正9年(1581年)9月の伊賀攻めでは信楽口からの侵入を務めた。天正10年(1582年)4月、武田征伐から凱旋する信長を在所の山崎で茶屋を設けて饗応する。

天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起きた際は、安土の自邸を焼き払い、居城の山崎城へ籠もった。しかし明智光秀の圧力を受けて降伏。一時は佐和山城の占拠などに協力したが、光秀が羽柴秀吉によって討たれると、すぐに秀吉に降って所領を安堵され、同年冬に山崎より摂津三田城主2万3000石に移封された。天正11年(1583年)8月1日には近江愛智郡内で1万4000石の知行を安堵されている。

清洲会議後、しばらくは織田信雄の家臣となっていたが、天正12年(1584年)の小牧.長久手の戦いで信雄と秀吉が対立するようになると、再び秀吉に属して750の兵を率い、信雄方の城を攻めている。

この後、従五位下志摩守に叙任され、以後は秀吉家臣として天正15年(1587年)の九州征伐に参加し、秀吉本陣の脇備として1000人を動員し、3月1日に大坂城を発っている。九州征伐の終了時には、石田三成長束正家小西行長らとともに、荒廃した博多の復興を担当する奉行として任命されている。天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には関白諸大夫として秀吉の牛車に供奉した。天正18年(1590年)の小田原征伐にも1000騎を率いて従軍する。

天正19年(1591年)3月28日に伏見の自邸で死去。享年45。

出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B4%8E%E7%89%87%E5%AE%B6