柳生利嚴 Yagyu Toshiyoshi

柳生利嚴 Yagyu Toshiyoshi柳生利嚴 Yagyu Toshiyoshi(1579年-1650年)

天正7年(1579年)大和国柳生庄において柳生厳勝の次男として誕生。父の厳勝は領主柳生宗厳(石舟斎)の長男であったが、元亀2年(1571年)に戦場で受けた銃傷により歩行に障害を負っており、利厳誕生時は既に隠居状態にあったと伝わる。祖父石舟斎は上泉信綱から印可を受けた剣術家としても名高く、利厳は幼少期から祖父の膝下で剣術(新陰流)を学んだ。文禄3年(1594年)太閤検地で隠し田が発覚して柳生家代々の所領が没収され、慶長5年(1600年)22歳の時には叔父宗矩が御家再興を懸けて参戦した関ヶ原の役が起こったが、その間も石舟斎は利厳を手元から離すことを許さず、修業に専念させていたという。

慶長8年(1603年)利厳24歳の時に加藤清正4から自家に仕えるように懇望される。当初石舟斎は利厳の気性を案じて手元から離すのを渋っていたが、再三の要請を受けて「兵助儀は殊のほかなる一徹の短慮物にござれば、たとえ、いかようの儀を仕出かし候とも、三度まで死罪の儀は堅く御宥し願いたい」との申し出と共に了解したという4。同年3月、石舟斎より『新陰流兵法目録事』と極意を示した和歌二首を授けられた後、利厳は熊本に赴いた。熊本藩では500石を給せられたとされるが、利厳の子孫である尾張柳生家には内実は3000石を以て客分大将として遇されていたという口伝がある4

しかし熊本藩では、出仕後一年足らずで同僚と争った末にこれを斬ったことで44退転して浪人となる。同僚との争いの原因について、尾張柳生家では、当時領内で起こった百姓一揆において、鎮圧に手間取っていた伊藤長門守光兼の後任として利厳が派遣されたところ、総攻撃を主張する利厳に対して長門守が反対したためにこれを斬り捨てる次第になったという話を伝えている。長門守を斬った利厳はそのまま一揆勢に総攻撃を仕掛け、有力者20名を斬殺することでこれを鎮圧。翌朝主君.清正に事の顛末を説明して即日熊本を退転したという4[注 3]。

加藤家退転の後は、武者修行として諸国を回っていたとされているが、柳生庄に隠れ住んでいたという話も残っている4。またこの時期、福島正則から二千石で召し抱えたいとの申し出があったが、清正の旧恩を理由に応じなかったとする話も伝わる4。加藤家を退転した翌、慶長9年(1604年)、旅先で石舟斎より印可状が記された書状が届き、その翌年柳生庄に帰還した際に『没慈味手段口伝書』を授かった。この時石舟斎は利厳宛ての印可状と共に大太刀一振りと自身が師.上泉信綱から与えられた印可状も加えて授与した。

慶長11年(1606年)祖父石舟斎が死去。尾張柳生家には、家督と先祖代々の本領2000石は利厳の父.厳勝が相続し、利厳は父から旧領の神戸の庄を中心に500石余が譲られたため、その収入を元にして、その後も供を引き連れて裕福に諸国巡遊の旅を続けることが出来たという言い伝えがある4。しかし『徳川実紀』『寛政重修諸家譜』等の史料で石舟斎の跡は宗矩が継いだと記録されている事もあり、祖父の死後は叔父の庇護下にあったものと見る向きもある4

慶長14年(1609年)9月、当時熊野に隠遁していた兵法家阿多棒庵から、長刀、鑓の皆伝印可を受ける。この時棒庵は自身が師.穴沢浄見から得た印可状も利厳に授与しているため、尾張柳生家ではこれらを「唯受一人」の印可として、新当流長刀.槍一流の宗は穴沢浄見、阿多棒庵から第七世として利厳に受けつがれたとしている4

元和元年(1615年)、尾張藩藩主.徳川義直の宿老.成瀬隼人正4は、利厳を主君.義直の師範として徳川家康に推挙する。家康は利厳を駿府に招聘した上で、義直の師範となるよう直々に要請した。利厳は「江戸の但馬(叔父.宗矩)とこと違い、諸役の御奉公は一切御免蒙り、替え馬一頭もひける身分ならでは、御仕官の儀は堅く御免蒙りとう存じます。4」との条件を提示し、家康はこれらを認めて500石を給して義直の兵法師範としたという。

尾張藩に仕えて5年後の元和6年(1620年)、利厳は義直に新陰流の剣術および新当流の槍、長刀の印可を授与した[注 5]。この時利厳は自己一代の工夫考案書である『始終不捨書』の奥書に印可を添え、自身が祖父と師.棒庵から受け継いだ印可状、伝書、目録、大太刀の一切と共に義直に進上した。また後に流儀の後継者となる次男.厳包が印可を相受ける際には、義直から相伝を受ける形式を取らせた事で、尾張藩「御流儀」としての新陰流の地位は不動のものとなった。

慶安元年(1648年)、70歳で隠居して如雲斎と号し、隠居領300石を拝領する。家督は次男の利方が継承し、藩主の指南は既に義直の継子である徳川光友の指南を任されていた三男の厳包が引き継いだ4。隠居後は、京都の妙心寺の塔頭麟祥院に柳庵と呼ぶ一草庵で暮らし、同寺の住職を務める霊峰和尚4と親交を深めた。霊峰和尚が残した書簡の中には利厳について言及したものがいくつかあり、その中では晩年の利厳が草花を愛した様子が記されている4

慶安3年(1650年)京都妙心寺内で死去。享年72。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%88%A9%E5%8E%B3