柳生宗矩 Yagyu Munenori

柳生宗矩 Yagyu Munenori柳生宗矩 Yagyu Munenori(1571年-1646年)

父:柳生宗厳(石舟斎)、母:奥原助豊の娘.奥原鍋(春桃御前)、正室:松下之綱の娘.おりん、側室:おふじ、おゆり;通称又右衛門,別名新左衛門,戒名西江院殿前但州太守大通宗活大居士。

元亀2年(1571年)大和国柳生庄(現在の奈良市柳生町)に生まれる4。父は柳生庄の領主で上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でもある柳生宗厳(石舟斎)。母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)。兄に厳勝、宗章等がおり、宗矩は兄達と共に父の下で兵法を学んだとされる。

若年時の行動は記録にないが、父の代に先祖代々の所領が没収されたために浪人となり、仕官の口を求めて 豊臣秀吉の小田原征伐で陣借りをしていたとする話が伝わっている4。文禄3年(1594年)5月、京都郊外の紫竹村において、父宗厳が黒田長政の仲介により徳川家康に招かれて無刀取りを披露した際に4、父と共に家康に謁見し、父の推挙を受けて200石で家康に仕えることとなる。4

豊臣秀吉の死後家康と石田三成達の対立が深まる中、慶長5年(1600年)に家康が上杉景勝討伐のために会津に向けて出陣すると、宗矩もこれに従軍する(会津征伐)。その道中、下野国小山に至って三成達西軍が挙兵した知らせを受けると、家康の命により柳生庄に戻り、筒井氏や大和の豪族と協力して西軍の後方牽制を行う。同年9月13日、無事工作を終えて家康の元に戻り4、続く関ヶ原の本戦では本陣で参加した。戦後これらの功績によって、父の代で失領した大和柳生庄2000石を取り戻すことに成功する。翌慶長6年(1601年)には後の2代将軍徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり、同年9月11日に1000石加増、合わせて3000石の大身旗本となった。444

慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍.秀忠のもとで従軍して徳川軍の案内役を務め4、秀忠の元に迫った豊臣方の武者7人(人数に異同あり)を愛刀(大天狗正家4)で瞬く間に倒したという4。なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。

大坂の役の翌年、元和2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件(坂崎事件)の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰している。その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に直盛を陥れたことになるが、宗矩はそれを終生忘れぬためなのか、元々の柳生家の家紋「地楡に雀」(われもこうにすずめ)に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。またこの際、坂崎の嫡子平四郎を引き取って200石を与えて大和に住ませ、2人の家臣を引き取り、その内1人には200石を与えている。

元和7年(1621年)3月21日、後の3代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、剣術(新陰流)を伝授する。その後、将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、寛永6年(1629年)3月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。さらに寛永9年(1632年)10月3日には、3000石を加増された後、同年12月27日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中.諸大名の監察を任とした。その後も功績をあげ、寛永13年(1636年)8月14日の4000石加増で計1万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩。さらに晩年に至って寛永17年(1640年)9月13日、500石の加増。続いて前年に亡くなった次男.友矩の遺領分2000石の加増もあり、所領は1万2500石に達した44。一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、彼ただ一人である4。また、友人の沢庵宗彭4を家光に推挙したのもこの頃(寛永期前半)4のことである。

晩年は故郷である柳生庄に戻ることもあり4、その際、陣屋に家臣や近隣の住人らを招き、申楽.闘鶏に興じるなどしていたという。正保3年(1646年)江戸麻布日が窪にある自邸で病む。同年3月20日、病が重い事を聞いた家光が見舞いに訪れ、病床の宗矩に新陰の奥義を尋ね、望みがあれば申し出るよう命じた。3月26日、死没。享年76。

遺言によって武州端芝で火葬の上、練馬区桜台の圓満山廣徳寺に葬られた。44その他、友人の沢庵宗彭を招いて開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺にも墓所があり、京都府南山城村畠山の華将寺跡に墓碑がある。また、鍋島元茂.鍋島直能により、現在の佐賀県小城市にある岡山神社内の玉成社に祀られてもいる。同年4月、その死を惜しんだ家光の推挙により従四位下を贈位された。1万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かったことを示すものと言える。

子には隻眼の剣士として知られる長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4男と他2女がいる。

出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F%E5%AE%97%E7%9F%A9