上村頼孝 Uemura Yoriyoshi

上村頼孝 Uemura Yoriyoshi上村頼孝 Uemura Yoriyoshi(1517年-1567年)

相良氏の家臣。上村頼興の次男で、上村氏第14代当主。相良氏第17代当主相良晴広は実兄。通称は左衛門太夫。

天文24年(1555年)の兄相良晴広の死の後を継いだ甥相良義陽の家督相続を不満に思っており、義陽の後見人であった父頼興の死で上村氏を継いで上村城主となったのを機に、弘治3年(1557年)6月、弟の上村頼堅(豊福城主)、稲留長蔵(岡本城主)と共に反乱を起こした。しかし頼堅がまず敗れ、頼孝は久木野城に籠ったが、菱刈重任や北原氏500余名からの援軍も得たものの撃退されて、城を逃れて、同年9月20日(8月13日とも)北原氏の治める飯野4へと逃亡した。

永禄3年(1560年)、義陽が無量壽院の住職.正阿弥(東出羽守)を派遣して甘言して説得したので、7月29日、頼孝は帰国を許されたと考えて士卒700余名と共に帰還して、水俣城下に住んだ。

しかし、永禄10年になって、義陽は、奉行の蓑田信濃.高橋駿河を頼孝を討つために兵と共に差し向けた。これを聞いた深水源八郎長則は、一族衆である頼孝への仕打ちとしてこちらの侍が一人も死なない事は礼儀に反すると父の執政深水宗方へ訴え、自ら相果てる役目を志願して了承された。頼孝と源八郎は互いに酒を酌み交わした後、槍を合わせ、頼孝は源八郎を突き殺すと自ら切腹して果てた。享年51。法名は本山蓮光。

嫡子の四郎頼辰もこの時切腹した。享年24。近習も尽く殉死した。しかし他の子らは幼少を理由に許されている。

出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E9%A0%BC%E5%AD%9D