武田信豊 Takeda Nobutoyo

武田信豊 Takeda Nobutoyo武田信豊(甲斐武田氏) Takeda Nobutoyo(1549年-1582年)

天文18年(1549年)、武田氏の当主.武田信玄の実弟である信繁の次男として生まれる。母は不詳であるが法名が「養周院日藤尼」で、天正10年(1582年)3月16日に信豊とともに信濃小諸城で自害している4。信豊の生年は『当代記』に記される「享年34」より逆算4。系図類に拠れば信繁には3人の男子があるが、長兄の信頼は『高野山引導院過去帳』に拠れば天文16年(1547年)出生で、信濃国佐久郡の国衆.望月氏を継承し「望月三郎」を称した4。このため、信豊は早くから信繁の嫡男として扱われており、生母が信繁の正室であったとも考えられている4。信頼は早世したため望月氏は弟の義勝が継承し、義勝は天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死している4。義勝の戦死後は信豊の娘婿が望月氏を継承する4

永禄元年(1558年)には信豊にあたる「長老」に対して「武田信繁家訓」を授けている4。これは九十九か条の家訓で、『群書類従』巻403に収録されている。『群書類従』では「信玄家法下」と呼称されているが、これは甲府の長禅寺二世.龍山子(春国光新)による序文の位置の誤りから生じた呼称とされ、現在では古写本の堀田本に基づき「武田信繁家訓」と称されている4

永禄4年(1561年)9月、第4次川中島の戦いにおいて父の信繁が戦死し、信豊は後を継いで親族衆に列する4。なお、望月氏は、信頼(武田義勝)も第4次川中島の戦いの直後に死去しており(病死とも戦傷死ともいわれる)、信繁の三男で信頼と信豊の弟.信永が継承している。『甲陽軍鑑』に拠れば信豊は200騎を指揮したという4。『甲陽軍鑑』によれば信豊は武田家臣団において親族衆の穴山信君とともに勝頼を補佐する立場にあったという。

永禄10年(1567年)8月、武田家では信玄の嫡男である義信が廃嫡される義信事件が起こる。これに際して家臣団の動揺を統制するため行われた生島足島神社への起請文があり(下之郷起請文)、「六郎次郎」の仮名が見られ、これが信豊の初見文書となっている4。この時点で信豊は信濃諏訪衆を同心としている4。なお、親族衆では信豊と叔父にあたる信廉のみが起請文を提出している4

永禄12年(1569年)12月10日付徳秀斎宛武田信玄書状(『恵林寺文書』)に拠れば、同年の武田氏の駿河侵攻に際して、武田家の世子となった諏訪勝頼武田勝頼)とともに相模国の後北条氏の蒲原城を攻略しており、この時は「左馬助」を称している4。『新居家所蔵文書』に拠れば、元亀3年(1572年)の西上作戦では信濃高遠城在番を務めている4。一説に、麾下の軍装は黒揃えであったと伝わる。天正元年(1573年)の三河国長篠.作手侵攻にも参加している4。同年4月12日には信玄が死去。

なお、武田家における信豊の立場の基盤として信豊が東信濃支配の拠点となっていた東信濃の小諸城(長野県小諸市)主であるとする説が支配的であったが、1987年には黒田基樹により信豊の小諸領支配を示す文書は見られないことが指摘されている4。また、『信長公記』『甲乱記』『軍鑑』ではいずれも小諸城主は下曽根氏としており、武田氏滅亡に際して信豊が小諸城に逃れたことを記している4

甲越同盟により上杉領であった東上野が武田方に割譲されると、信豊は上野国衆の服属に携わっている4。信豊は上野小幡氏の娘を室に迎えているが、『甲乱記』『武田源氏一統系図』では信豊室を小幡信真(上総介)の娘としている4。しかし信真は信豊との年齢差が近く、『小幡次郎系図帳』に拠れば信豊室を信真の妹としていると記されることから、信真の父である憲重(尾張守)の娘が信豊室であると考えられている4

勝頼期には、天正3年(1575年)、三河黒瀬(現在の愛知県新城市作手黒瀬)にて、作手の国人である奥平定能.貞昌父子の動向を監視したり、長篠の戦いでは左翼4番手として出陣したものの、武田方の劣勢を察して早々に退却をしている。このことは、勝頼以上に譜代家老の春日虎綱高坂昌信)の怒りを買い、6月半ばに昌信が勝頼に提出した意見書5箇条の内の1つに、「典厩(武田信豊)に穴山(信豊と同様に戦線離脱した穴山信君)の腹を切らせるよう仰せられ、某に典厩に切腹を申し付けるよう仰せ下さい」と意見した程であったという。

天正4年(1576年)には安芸国の毛利輝元のもとへ庇護されていた将軍.足利義昭が信長妥当のため武田.北条.上杉三者の和睦を周旋すると、信豊は武田側の取次を務めている4。天正6年、越後で上杉謙信の死後に上杉景虎.上杉景勝の間で家督を巡る御館の乱が起こると、勝頼は甲相同盟に基づき景虎支援を目的に出兵する。勝頼は景勝側から和睦を提示されるとこれに応じ、景虎.景勝間の和睦を調停した。信豊は先発隊として信越国境の海津城(長野県長野市松城町)、春日虎綱とともに景勝との和睦交渉に携わる4。のちに景虎.景勝間では乱が再発し、甲相同盟は破綻する。景勝が乱を制したため勝頼は景勝との同盟を強化し甲越同盟に至り、信豊は取次役を務めている。また、勝頼は対北条氏のため常陸国の佐竹氏とも同盟を結び(甲佐同盟)、信豊は佐竹氏との同盟にも携わっている[28]。

天正8年(1580年)3月11日付印月斎宛書状(『蓮華定院文書』)に拠れば、同年には「相模守」を称している[29]。『軍鑑』によれば、天正9年(1581年)に勝頼は穴山信君と約束していた信君の嫡男勝千代と次女の婚約を破棄し、信豊の子と婚約させたという[30]。

天正10年(1582年)1月28日、信濃木曽郡の国衆.木曾義昌織田信長へ内通して武田氏に反旗を翻したため、武田勝頼は信豊を将とする討伐軍を木曾谷へ派遣する[31]。信豊は織田信忠の援軍を得た木曾勢によって鳥居峠にて敗北し、諏訪上原で勝頼勢と合流し、新府城(山梨県韮崎市)へ帰還する[32]。『信長公記』『甲乱記』に拠れば、この敗北を契機とした甲州征伐において、3月2日に信豊は家臣20騎程と共に郡内領へ逃れる勝頼と別れ、信濃小諸城へ逃れて再起を図った[33]。『当代記』に拠れば信豊は関東へ逃れる意図もあったという[34]。しかし城代の下曾根浄喜に叛かれ、二の丸に火を掛けられ嫡男の次郎や生母.養周院、家臣とともに自害した[35]。享年34。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E8%B1%8A_%28%E7%94%B2%E6%96%90%E6%AD%A6%E7%94%B0%E6%B0%8F%29