佐野豊綱 Sano Toyotsuna

佐野豊綱 Sano Toyotsuna佐野豊綱 Sano Toyotsuna(1504年-1559年)

豊綱の時代も古河公方にしたがっていたと思われるが、豊綱発給の文書は一つも残されていない。謎の人物である。

「系図纂要」によると、豊綱の長男に昌綱、次男に政綱(了伯)、三男に亀王丸(幽願寺で故あって自害)、四男に又次郎(由良信濃守の養子)、五男に毘沙門丸(のちの虎松で上杉謙信の養子)らがあった。
また没年が1559年となっているが、宇都宮側の史料に興味深いものがある。

1558年にあった多功ヶ原合戦である。この時、越後の長尾景虎軍の先鋒として、佐野小太郎が出陣したのだが、宇都宮側の猛将.多功長朝に討ち取られている。
多功長朝に討ち取られた「佐野小太郎」はこの豊綱の可能性がある。突然の当主の討ち死にほど混乱するものは無い。

当主討死という屈辱的な事実を隠し、事態を収拾するため、一年遅らせて一五五九年に死亡した事にしたか。また、佐野家重臣の赤見伊賀守父子が新年の年賀に来ず、佐野泰綱に攻められ常陸に退去したことも、佐野家中の混乱ぶりを示している可能性がある。

もしくは討ち死にしたのは豊綱の子だとも受け取れる。すると初陣だったか。そうすると文献に「佐野小太郎」という名が見えるのもうなずける。

そして昌綱を泰綱の次男で豊綱の弟と仮定すると、直系の後継ぎがいなくなったから、兄弟間で家督を継承した事になる。

…と、また推測の嵐である。
当時の宇都宮家は復興したばかりで、古河公方の支援も受けていたはずである。佐野家も古河公方に協力していたはずだから、なぜ宇都宮を攻めたか疑問である。

一五五四年、古河公方.足利晴氏は北条家に反抗したため攻められ、小田原へ幽閉されてしまう。そして古河公方の座についたのが子の足利義氏である。当時、古河公方内で勢力を持っていた簗田晴助(関宿城主)の力を弱めようと、足利義氏を関宿城へ移した。そして簗田晴助を古河城に移したのだ。

古河公方をやりたい放題に使いまわす北条家に反抗するべく、豊綱は北条家および古河公方に協力する近隣諸侯を攻めたと思われる。

それとも単なる領地争いかもしれないが…。

しかし理由はどちらにしろ、結果は大将討死という最悪の事態になってしまう。

1560年直前から、上杉政虎長尾景虎)は足利藤氏足利晴氏の子)を押しており、佐野家もこちらに協力していたか。対して足利義氏を押していたのは北条氏康であるから、佐野家×宇都宮家の対立関係は1558年の時点では一応成立する。

しかしこの対立説を上げるには、少々無理がある。話は戻るが、1558年の多功ヶ原合戦に関する宇都宮方の感状で、「葦名盛氏の誘いで宇都宮領に攻め入った上杉謙信の越後軍と戦って撃退した」とあるのだ。これは非常に怪しい。謙信は、まだ長尾景虎と名乗っていたからだ。ゆえにこの感状は、やはり後世の作り物である可能性が高い。

さらにこの時代、越後の長尾景虎が関わらなくても、古河公方をめぐる近隣諸侯の間でなんらかの争いがあった可能性は高い。

自分なりの仮説をたてるとしたら、

佐野豊綱は、古河公方の衰退の懸念から、1558年当時、古河公方と北条氏康の協力もあって復興したての宇都宮家を攻め、宇都宮勢に撃退された」という説をたてる。

この時後ろ盾に古河公方、北条家、越後長尾家のいずれかがあったかはここではわからないので黒幕説は立てない事にする。

1560年に上杉政虎が関東に攻めてきたときは、宇都宮家はすでに上杉政虎に協力しており、宇都宮家は足利藤氏を押している事になる。佐野家は当主が変わり昌綱になっているが、逆に上杉家に反抗している。

この二年間で立場が全く逆となった。先代.豊綱討死(あくまで説)が、新.関東管領への反抗心になったのか、次代.昌綱は、戦国毘沙門天の化身に真っ向勝負を挑む事になる。

出處 http://www.geocities.jp/shimotsuke1000goku/sanotousyu.htm

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