桜庭直綱 Sakuraba Naotsuna

桜庭直綱 Sakuraba Naotsuna桜庭直綱 Sakuraba Naotsuna(生年不詳-1620年)

櫻庭光康的長子、母為北致愛の娘(北信愛妹)、妻木村秀茂娘;別名佐々木与三郎、櫻庭安房。

櫻庭家は南部氏初代、南部光行の奥州下向以前からの譜代の家柄であり、三上、安芸、福士氏と並んで南部四天王と称された。(『南部根元記』)

初め佐々木与三郎と名乗っていたが、天正10年(1582年)、元服の際、主君南部信直から「直」の一字と来国次の太刀を賜り直綱と名乗る。 (『宝翰類聚』)

天正19年(1591年) 九戸政実の乱では主君の意を受けて領内諸豪族の説得に当たった。(『二戸川嶋家文書』)

慶長5年(1600年) 和賀忠親の反乱である岩崎一揆では馬上の侍大将として70人の部隊を率い、南部軍の主力として戦っている。(『聞老遺事』岩崎御出陣人数定)

また、この戦いの出陣軍令書に北信愛、楢山五佐衛門直隆、直綱の連盟があり、この頃には南部家中の重要な地位を確立しているものと考えられる。

慶長6年(1601年)、主君の命を受けた直綱は、伊達氏と結んだ遠野地方の豪族、阿曽沼広長を討つため350人の部隊を率いて阿曽沼軍と戦い、これを打ち破っている。(『南部史要』)

慶長17年(1612年)徳川秀忠が仙洞御所造営の普請を命じるため江戸の南部藩邸を訪れた際、直綱も南部利直、重直、八戸直政、北直継と共に会談に参加している。4

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では南部軍は片桐且元の居城茨木城の破却を行ったが、北信景の大坂城籠城事件があったためか大坂夏の陣では参陣を許されなかった。

元和元年(1615年)家老に就任。晩年は政務、財務の取締も行っていた。(南部藩『御系譜』)

元和2年(1616年)閉伊郡花輪村に後の盛岡藩主となる南部重信が生まれると、その確認のため「御検視」として向かう。(『小本家記録』)

元和6年(1620年)卒去。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E5%BA%AD%E7%9B%B4%E7%B6%B1

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