日本戰國.人物誌

三村元祐 Mimura Motosuke(生年不詳-1567年/1571年/1575年) 三村家親的長子,三村元親之兄。後過繼給庄為資(一說穗井田實近)作養子,別名庄元祐(穗井田元祐)。 由於備中守護細川氏早已威風不在,戰國時代的備中國人眾分成尼子、大內等不同勢力相互爭鬥。庄氏本與三村氏相互聯合以圖勢力擴張,然而在永祿二年(1559年)的猿掛合戰兩家兵戎相見。兩方相持不下,毛利氏在父親家親邀請下做了兩家中介,終於和解。作為結果庄為資亦或是同族的庄實近(穗井田)收了元祐作為養嗣子。元祐做了庄氏養子後繼承了庄氏歷代相傳的通字「資」字改名「元資」(「元」獲賜自毛利氏),花押也一併變更。另外在15世紀中有同名猿掛城主庄元資,然而是另一人。此後作為三村氏分家同時也是毛利氏麾下武將四處征戰。 永祿十年(1567年),在為祭奠遭宇喜多直家暗殺的父親家親而發動的明善寺合戰(明禪寺合戰)中擔任三村軍的右翼,然而因為全軍陷入苦戰,元祐也被打得大敗(注一)。然而此後在毛利氏麾下率備中國眾出兵九州。其活躍受到毛利氏的稱讚。 元祐的結局眾說紛紜。據同時代資料,元資在支援佐井田城(又名齊田城,位於現岡山縣真庭市)時被浦上.宇喜多軍擊殺,時為元龜二年(1571年)9月4日。另說,據三村氏子孫的傳說與系圖,天正三年(1575年)的備中兵亂(注二)中加入本家備中松山三村氏一方,大戰毛利氏不敵,死於佐井田城。另有毛利家資料指出元祐於元龜二年(1571年)1月於佐井田城與宇喜多勢交戰時不敵被殺。 根據後來做成的毛利家系譜,毛利元就第四子毛利元清(穗井田元清)曾當過元祐的養子,另據元清自身寫的書狀,因所居之猿掛城(今岡山縣倉敷市)所在穗田而起名穗田(穗井田)因而否定了元祐和庄氏的關係。 注一:一說元祐在此戰中遭宇喜多忠家、戶川秀安等人所率軍勢擊殺。遊戲中也採用了這一說法。然而介於此後仍有大量文獻記載其健在,推測應為宇喜多方的誤報。 注二:天正二年(1574年),三村元親因對毛利氏與殺父仇人宇喜多直家結盟感到不滿,內通織田信長起兵反抗毛利氏。天正三年(1575年)遭小早川隆景平定。詳情見三村元親條目。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=9#postid-242 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%98%E5%85%83%E7%A5%90
三村元範 Mimura Motonori(1549年?-1575年?) 三村家親的三子,三村元祐、三村元親之弟。備中國槓城主。 其父家親死後,作為家臣輔佐兄長.三村家當主元親。後元親與織田信長聯合起兵對抗毛利輝元(備中兵亂,見三村元親條目),作為三村一方固守槓城(又做楪城,位於今岡山縣新見市)遭毛利氏小早川隆景進攻,寡不敵眾陣亡。元範是長刀達人,英勇戰鬥至最後一刻。年二十七歲。 「備中兵亂記」載槓城於天正三年(1575年)1月8日落城,「萩藩閥閱錄」則有天正二年(1574年)11月6日輝元發給楢崎豊景的感狀一封,其中載「槓城落去」,槓城落城時間可能比備中兵亂記中記載的早一些(注一)。 新見市高尾有紀念元範的「三村元範討死碑」。 注一:據此則其生卒年為1548年-1574年。 作者江蛤蟆 出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=9#postid-241
三村元親 Mimura Motochika(生年不詳-1575年) 三村家親的次子,母為阿波三好氏之女。 父親家親以毛利氏為後盾、將備中國幾近全域及備前國一部分納入勢力範圍,並謀求將勢力擴展到備前、美作國。永祿九年(1566年)、宇喜多直家因正面攻擊無法取勝,而派人以鐵砲將家親暗殺。 長兄元祐為備中庄氏養子,元親繼承家督後,向宇喜多氏展開復仇。永祿十年(1567年),率領約2萬士兵攻進備前國,但卻被僅有5千士兵的宇喜多軍所大敗(明禪寺之戰)。此役讓在備中享有威名的三村氏出現衰退,在毛利氏的援助下,元親總算止住頹勢。 之後,天正二年(1574年)、因為毛利氏與仇敵宇喜多直家結盟,元親不顧叔父三村親成、竹井氏等一部分重臣的反對,改投織田信長,反叛毛利氏。此外,也在同年支援受到宇喜多直家叛亂之苦的浦上宗景。 相對於認為這是毛利家中大事而進言討伐三村氏的小早川隆景,吉川元春(反對毛利氏與宇喜多氏結盟)進言應直接和元親見面,勸說元親回心轉意以避免用兵。可是,負責山陰道的元春進言不被接受,而採用負責山陽道的隆景意見討伐三村氏。 毛利軍難以攻下在元親手中要塞化的本城備中松山城,於是採取先將周圍支城依序攻下的作戰方式。在支城紛紛陷落後,毛利軍包圍備中松山城進行持久戰。在寡不敵眾的情形下,城池終於淪陷。元親聽從家臣意見,和妻子、家臣一起逃出,但在途中受了重傷,於是派出使者向毛利軍提出切腹的請求。元親在毛利家中舊識粟屋元方的照看下,留下辭世詩數首在松連寺切腹自殺。以下是其中一首: 「人といふ 名をかる程や 末の露 きえてぞかへる もとの雫に」(人,不過是借用名字的軀體;我的生命如同消失的露水,回歸到原本的水滴。) 元親是個精通詩歌等雅緻學問的文化人,和細川藤孝也有深交。據說在元親困守備中松山城時,藤孝曾送去『八雲集』;元親自殺之際,也贈與藤孝一首詩歌。之後,元親之子勝法師丸被捕,雖然懇求饒命,但小早川隆景擔心他的聰明伶俐會在將來造成危害,還是將其殺害。至此,戰國大名三村氏的血脈完全斷絕,元親的叔父親成等旁支以他國家臣的身分延續下去。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E5%85%83%E8%A6%AA
三村家親 Mimura Iechika(1517年-1566年) 三村宗親之子,三村盛親(三村時親)之孫。三村親成之兄(一說叔父)。子三村元祐(庄元祐)、三村元親、三村元範、上田實親。有女四人,分別嫁予上野隆德、水野勝成、石川久式、楢崎元兼。正室出自同樣自稱小笠原氏支流的阿波三好氏(注一),一般認為此女為三村元親與上田實親之母。 因備中守護細川氏的威光早已十分衰微,家親藉此機會先是與庄氏聯合,後來由於其爭鬥,藉此謀求擴張勢力。因為與庄氏的爭鬥陷入膠著,恐怕是向尼子氏一邊倒的備中國人中第一個投靠毛利氏的。毛利元就對家親評價頗高,並對三村氏使者發表了大意為「備中一國自此與毛利家囊中之物別無二致」的言論,頗為欣喜。 家親與毛利氏聯合之後,逐漸驅逐了備中尼子氏一方的勢力,實現了備中的統一。據點也從備中成羽的鶴首城(今岡山縣高梁市成羽町)移到備中松山城(今岡山縣高梁市內山下),鶴首城被委任給重臣三村親成。再次在期間積極與備中守護代家庄氏、石川氏、上野氏構築姻親關係,只有庄氏一族沒有被完全掌握,因而成了一件恨事。 永祿七年(1564年),家親派遣石川久智發兵救援備前三村一方的龍口城(今岡山縣岡山市)穝所氏時庄高資、庄勝資起兵造反(注二)。 後來為了擴大勢力而出兵備前國和美作國,家親勇猛過人,數次擊敗宇喜多直家。然而永祿九年(1566年)2月5日家親於美作國興善寺與重臣進行評議時,遭受直家之命的遠藤秀清、遠藤俊通兄弟使用短管火繩槍槍擊身亡。年五十歲。死於火器暗殺在這一年代確屬一件罕事。 注一:三好家出自阿波小笠原氏,其家祖為小笠原長經之子長房。三村氏自稱家祖為小笠原長經之子長時。 注二:出自『黃薇古簡集』,此書還記載庄氏父子佔據備中松山城後遭奪回一事。 作者 江蛤蟆 譯文出處 https://www.nobuwiki.org/forum?view=thread&id=20&part=9#postid-241 日文出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E5%AE%B6%E8%A6%AA
三村親成 Mimura Chikashige(生年不詳-1609年) 備中国の戦国大名・三村宗親の三男として誕生。兄の三村家親の甥ともいわれる。 備中三村氏が従属していた毛利氏からの信任が厚く、毛利元就が三村氏宛の文書を当主・家親のみならず親成にも見せるように使者に言い含めていたほどである。永禄9年(1566年)に、美作国・備前国へ出陣中の兄・家親が宇喜多直家からの刺客(遠藤秀清、俊通の遠藤兄弟)に暗殺されると、機転をきかせて陣中の動揺を押さえ、兄が率いていた軍勢を代行指揮する。家親横死を秘しての余りに鮮やかな引き際であったため、直家は暗殺成功の報告を容易に信じなかったという。以後は備中兵乱に至るまで、成羽から本家である備中松山の元親をよく補佐し、三村家の屋台骨と評された。 ところが、毛利氏が三村氏にとって不倶戴天の宇喜多氏と結び、それを好機と見て取った織田信長が毛利氏からの離反を誘うが、親成は三村氏旧臣・竹井氏などとともに「織田はとても信用できかねる相手であり、毛利と手を切って織田と手を結ぶのは時期尚早である」旨の主張した。しかし、前当主・三村家親を慕う一族の大勢は織田方につくことで一致し、当主・三村元親は毛利氏離反を決定した。そのため、身の危険を感じた親成は毛利氏に通じ三村氏討伐に協力した。備中兵乱後、一定の功績が毛利氏より認められて備中成羽(鶴首)城主の地位は安堵されたが、備中松山・三村本家の叛乱を諫止できなかった咎を問われ、所領は原封の半分以下といわれる約8,000石にまで減封された。 関ヶ原の戦いまで成羽(鶴首)城主の地位にあったが、戦後に備中成羽からの離封を余儀なくされ没落。その後、備前児島三宅氏のもとへ身を寄せていたが、江戸幕府開府後、備後国に封ぜられた水野勝成に家老として召抱えられたといわれる。ただし、勝成の備後入封は親成死去から10年後の元和5年(1619年)であり矛盾している。なお、記録によると、息子の親良は慶長19年(1614年)に、親宣は元和5年(1619年)にそれぞれ勝成に召出されている。 慶長14年(1609年)10月1日に死去。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E8%A6%AA%E6%88%90
三条の方 Sanjo Nokata(1521年?-1570年) 武田信玄の継室である。左大臣・転法輪三条公頼の次女。姉には細川晴元室、妹には顕如の妻の如春尼がいる。子には武田義信、黄梅院(北条氏政室)、海野信親、信之、見性院(穴山梅雪室)がいる。本名は不詳。一般には三条の方、三条夫人などと称される。 京都の三条邸で生まれる。転法輪三条家は清華七家の一つで、摂関家に次ぐ家柄であり極官は太政大臣。笛と装束の家として知られている。分家の三条西家には、当代随一の文化人として名高い三条西実隆がいる。駿河国の今川氏の仲介で天文5年(1536年)7月、武田晴信に嫁す。義信、黄梅院、信親、信之、見性院と、晴信との間に次々と3男2女をもうける。武田家の近習衆のなかには警護等を務めていたと思われる御料人衆がおり、五味新右衛門をはじめ10人が付けられている。 信親が先天的に、もしくは幼年期に失明し、また、1551年(天文20年)、父の公頼が大寧寺の変において殺され、1553年(天文22年)頃に信之が夭折、1565年(永禄8年)、義信が謀反に関わったとされ、東光寺に幽閉されて翌々年死去、1568年(永禄11年)、信玄の駿河侵攻のため黄梅院が離縁され、その翌年に病死するなど、度重なる不運に見舞われた。元亀元年(1570年)7月28日に死去、享年50。墓所は甲府市の円光院。 円光院の葬儀記録には、快川和尚の三条の方の人柄を称賛する「大変にお美しく、仏への信仰が篤く、周りにいる人々を包み込む、春の陽光のように温かくておだやかなお人柄で、信玄さまとの夫婦仲も、むつまじいご様子でした」と記された記録が残されている。 信仰に関しては、武田家に嫁ぐ時に持参したと伝えられている、三条家に伝わる木造釈迦如来坐像が現存して円光院に所蔵されており、彼女が向嶽寺に新寄進をしている記録が『甲斐国志』に残されている。本願寺の顕如の正室は三条の方の妹・如春尼であり、本願寺と信玄との同盟の裏には三条の方の尽力があったと考えられる。また、武田氏の家紋と、彼女が皇室から使用を許された菊花紋と桐紋が彫られた愛用の鏡が、円光院に所蔵されている。さらに、円光院に伝わる当時の史料『円光院寺伝』によると、信玄が信濃国駒場で臨終間近の時、病の床に馬場信春を呼び寄せ、(安土桃山時代の高名な仏師)宮内卿法印康清に彫らせた、自分が日頃から信仰していた陣中守り本尊、刀八毘沙門・勝軍地蔵を託し、説三和尚に送り、円光院に納めてくれるように遺言したという。さらに自分の遺体も、円光院に3年間密葬させるよう遺言したという。 この2体の仏像はその遺言通り、現在も円光院に所蔵されている。笛吹市にある二宮美和神社に、永禄9年(1566年)11月25日に奉納された赤皮具足は信玄の物だという説もあるが、義信の東光寺幽閉の時期であることなどから、三条の方が義信の赤皮具足を奉納したとも考えられている。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E3%81%AE%E6%96%B9
三枝昌貞 Saegusa Masasada(1537年-1575年) 甲斐国武田氏の家臣で足軽大将。諱は「守友」とされてきたが、近年は確実な文書上の表記から「昌貞」であることが指摘される。 父虎吉は「三枝右衛門尉」を名乗り武田家の奉行人として活動し、現在の山梨県中央市木原に本領を有していたという。戦国期に三枝氏は武田譜代山県昌景を寄親としている。 『甲陽軍鑑』『寛永諸家系図伝』などに拠れば昌貞は虎吉の嫡子で、武田信玄の近習衆として仕えていたが、信玄にその才能を認められて足軽大将に出世したという。『甲陽軍鑑』では昌貞は山県昌景と同族の山県氏の出自で三枝氏の養子になったとされているが、『寛永伝』では逆に昌景の娘婿(後に猶子)となり山県善右衛門尉を名乗ったとしている。なお、文書上においては永禄11年(1568年)頃から「山県勘解由左衛門尉」を称していることが確認される。『甲陽軍鑑』によれば30騎、足軽70人を指揮したという。 『寛永伝』三枝守友譜に拠れば、弘治年間には信玄の勘気を受け一時蟄居したという。文書上の初見は川中島の戦いに際した永禄4年(1561年)3月で、昌貞は信濃における活躍で知行を与えられている。さらに永禄6年(1563年)には叔父の守直(新十郎)の遺児養育と後見を命じられている。永禄12年8月には甲斐塩後郷(山梨県甲州市塩山)において代官を務めており、この頃には赦免されていると考えられている。 その後は奉行衆や武田氏の御料所の代官などを務めている。昌貞関係文書において、信玄は昌貞への加増を躊躇している文言が認められ、『寛永伝』に記される信玄の勘気を被ったとする逸話には一定の信憑性が認められている。また、昌貞関係文書は信玄直筆のものも多く含まれ、内容も叱責など信玄の感情的側面が記されている一方で、昌貞は武田家に順調に加増されていることが指摘され、信玄と昌貞の親近性を反映しているとも考えられている。 永禄8年(1565年)10月に武田家では信玄嫡男義信による謀反事件が発生しているが(義信事件)、これを受けて翌永禄9年8月には武田家臣が信玄への忠誠を誓う起請文を信濃国生島足島神社へ奉納しているが(「下之郷起請文」)、永禄9年8月の起請文では長坂昌国(源五郎)、矢島義房、佐藤民部少輔らとともに昌の名が見られる。武田家ではさらに翌永禄10年8月にも起請文の徴収を行っており昌貞はこの際も再び起請文の提出を行っており、昌貞が義信に近い立場であった可能性も考えられている。 永禄11年(1568年)の駿河今川領への侵攻(駿河侵攻)に際しては父の虎吉が駿河田中城の城将などを務めていることが確認されるが、『甲陽軍鑑』によれば信玄は同じく信玄近習の真田昌幸や曽根昌世とともに昌貞の存在を重視し、昌貞は花沢城攻めで一番槍の武功を立てたことにより信玄から感状を受け、山県昌景からは名刀「吉光」を与えられたとい逸話を記している。なお、永禄11年推定の「武田信玄陣立書」(山梨県立博物館所蔵)においては、昌貞は弓衆を率いる立場として記されている。 昌貞は信玄後期から勝頼期まで活動し、『甲陽軍鑑』『信長公記』に拠れば、以下の逸話を記している。天正3年(1575年)の長篠の戦いのときは、河窪信実(信玄の異母弟)を主将とした長篠城を監視する鳶ノ巣山の砦を守備する別働隊に配属された。そこでの守友は、鳶ノ巣山の山ろくに当たる「姥が懐」という所に設けられた支砦の守備を弟たちと担当していたため、信実と同様に主戦場から離れていた。だが、織田信長の命で送り出された酒井忠次が率いる織田・徳川の別働隊による襲撃を5月21日早朝に受ける。 酒井奇襲隊は、武田軍守備隊が無警戒な山奥から尾根伝いに背後へ迫って、5砦を撃滅する目的であった。その上、不運にも守友の担当した「姥が懐」の砦だけが、山頂や尾根に構えられた砦ではなかった為、敵襲の察知が一段と遅れたとも言われる。奇襲隊副将格の本多広孝の軍勢に、直上から逆落とし同然に攻め掛かられた守友たちではあったが、数で劣りながらも奮戦は目覚ましかったという。しかし、次第に劣勢に立たされていくばかりか、敵方には隣砦「君ヶ伏床」を壊滅させた松平清宗などが増援に加わるが、武田守備隊へは増援が無く万事休す。2人の弟・源左衛門守義、甚太郎守光たちと共に戦死したという。 昌貞が討たれた「姥が懐」の付近(愛知県新城市乗本字東畑)に、「三枝兄弟」の墓碑が所在している。 出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9D%E6%98%8C%E8%B2%9E
三浦按針 Miura Anjin(1564年-1620年) 英國的水手、引航、商人,遠東航程中遇難漂流日本,後受徳川家康封為武士;本名為威廉.亞當斯(William Adams),以三浦(受領三浦郡領地)為姓,以按針(引航的意思)為名。 出生於英格蘭東南部肯特郡Gillingham的水手家庭。在父親於12歲那年死去後,他便到倫敦泰晤士河北岸的Limehouse造船廠主Nicholas Diggins的手下當學徒。在接下來的12年學習造船、天文學與航海,然後加入皇家海軍。 亞當斯在皇家海軍服務於法蘭西斯·德瑞克之下,並在1588年西班牙無敵艦隊入侵英格蘭時擔任貨物補給船Richarde Dyffylde號的船長。 1589年,亞當斯與Mary Hyn結婚,並育有一女Deliverance。離開海軍後,亞當斯受僱為Barbary公司的引航,參與北極探險,這趟探險的目的是希望沿著西伯利亞海岸尋找到遠東的東北航線,但是後來無功而返。 被荷蘭人在東印度群島的香料貿易所吸引,34歲的亞當斯和弟弟托馬斯在1598年加入鹿特丹公司前往遠東的船隊。船隊由五艘船所組成:Hoop(希望)、Liefde(愛/慈悲)、Geloof(信仰)、Trouw(忠誠)、Blijde Boodschap(好消息/福音)。 1598年6月24日,搭乘Hoop號從鹿特丹出發,先沿著西非海岸航行、經過麥哲倫海峽,再沿著智利海岸北上。但是航海的過程中遇上種種災難,在南大西洋的惡劣天氣下,船隊失散,經過麥哲倫海峽後只剩三艘船 (Blijde Boodschap號在遭遇惡劣天氣後損壞漂流,在補給不足的情況下進入瓦爾帕萊索,並被西班牙人俘虜、Geloof號則在1600年6月返回鹿特丹,船上原109名船員只剩36人)。 航程中,亞當斯更換到Liefde號。Liefde號先在Santa Maria島(Floreana島)等待,但是只有Hoop號在1599年春出現。兩艘船的船長與亞當斯的弟弟等其他20名船員,為補給食糧問題,都在與印第安土著的衝突中失去性命。即使如此,兩艘船還是決定在1599年11月橫渡太平洋繼續完成任務。在橫渡太平洋途中,Hoop號於1600年2月底遇到颱風沉沒,所有船員不幸罹難;Liefde號上剩下的船員在痢疾和壞血病的蔓延下,也一一不支倒下。最後只有Trouw號沒有偏離預定航線太遠,來到印度尼西亞的Tidore島,但是所有倖存的船員都在1601年1月前被葡萄牙人殺害。 1600年4月29日,在經過19個月的航海,Liefde號漂流到九州豊後的臼杵 (今大分縣),船員由原來的110人減少到24人。不能自行上陸的船員由臼杵城主太田一吉派出的小船接送,並向長崎奉行寺澤廣高通報。寺沢在沒收船上的大炮、火繩槍和彈藥後向大坂城的豐臣秀賴請求指示。期間遇到耶穌會的傳教士指控他們是海盜,要求即刻處刑;於是船隻被扣留,船員被囚禁在大坂城。 5月12日,五大老之首的徳川家康接見他們。亞當斯向家康解釋航海的目的、說明荷蘭和英國等新教國與葡萄牙、西班牙等舊教國間的紛爭,化解誤會。家康命令船員將Liefde號從豊後駛往江戶,但由於嚴重毀損及腐朽,在半途便沉沒。 1605年,大部份原來的船員都在平戶大名的協助下離開日本。 人在江戶的亞當斯申請回國,但是直到1613年都沒得到批准。德川家康對於亞當斯的西方知識很感興趣,並要求他擔任外交及貿易顧問。這個時期,亞當斯也教授家康的幕僚幾何學、數學及航海等知識。1602年亞當斯與家康御用商人馬込勘解由的女兒-阿雪(お雪)結婚,育有一子Joseph及一女Susanna。 1604年,徳川家康要求亞當斯建造一艘西洋式帆船。亞當斯一開始猶豫不決,因為他只有在造船廠打過工,沒有當過工程師,但最後還是接下這個任務。亞當斯在伊豆國伊東設置日本第一個西式的造船船塢,在原De Liefde號二副耶揚子 (Jan Joosten) 及其他船員的幫助下,建造80噸的帆船。高興的家康指示建造另一艘大型可進行遠航的船舶,於是亞當斯在1607年完成120噸的船舶San Buena Ventura號。後來這艘船在1609年西班牙蓋倫帆船San Francisco號遇到颱風漂流到房總半島的御宿海岸的時候,出借給西班牙人讓他們能返回新西班牙。 1608年,亞當斯以徳川家康的名義向菲律賓總督Rodrigo de Vivero y Velasco接觸,家康希望能與新西班牙建立直接貿易關係。雙方交換友好文書,建立日本與新西班牙的正式外交關係。 對這些功績感到滿意的德川家康,封亞當斯為武士,賜於佩刀,給與相模國三浦郡逸見村(今橫須賀市東北部)250石的領地,以及一間位於江戶日本橋的宅邸,並賜名「三浦按針」,成為日本第一位白人武士。名字的「按針」代表職業引航的意思,姓氏的「三浦」則來自封邑的三浦半島。 亞當斯得到徳川家康的信任,日語也逐漸進步,沒有幾年,亞當斯便取代原先擔任家康外交顧問的耶穌會傳教士João Rodrigues。亞當斯的得寵使得耶穌會與方濟會的教士們感到恐慌。一開始他們嘗試把亞當斯改變信仰成為天主教徒,但是沒有成功。 徳川家康一方面希望從與外國人的貿易中得到利益,但另一方面也對基督教勢力的擴張感到疑慮。家康在亞當斯的影響以及大批基督徒發起的社會騷動下,在1614年將耶穌會驅逐出日本。 在亞當斯與荷蘭人意外飄流到日本以前,葡萄牙人已經在1543年來到日本,並在平戶及長崎等港口從事南蠻貿易。葡萄牙人的貿易同時也帶有傳教的目的,許多九州的大名如大村純忠、大友宗麟、有馬晴信因此皈依天主教,並支持天主教在其領地內的傳播;沒有幾年,天主教便在日本發展成為龐大且讓當權者頭痛的勢力。 1604年,為打破葡萄牙人的壟斷貿易,徳川家康派Liefde號船長Jacob Quaeckernaeck等兩名荷蘭人前往東南亞的北大年與荷蘭東印度公司接觸,邀請荷蘭人來日貿易。由於忙於應付葡萄牙人與有限的資源,直到1609年荷蘭人才在Jacques Specx率領下來到日本。兩名荷蘭使節帶著奧蘭治王子拿騷的慕黎斯的文書前往江戶,亞當斯協助這些使節談判,並讓荷蘭人獲得德川家康授予的朱印狀許可進行貿易。 在1609年8月24日荷蘭人從德川家康得到貿易權後,荷蘭人在1609年9月20日於平戶設立貿易站。這份德川家康親自授予的貿易許可被荷蘭人小心的保存在平戶以及後來的出島,為接下來兩個世紀荷蘭在日本的獨佔貿易權提供保障。 1611年,亞當斯得到不列顛東印度公司在印度尼西亞的萬丹建立據點的消息,於是寄一封信給英國人,希望得知他在英格蘭的家庭與朋友的消息,並邀請他們來日本貿易。 1613年,英國船長John Saris率Clove號抵達平戶,帶來英國國王詹姆斯一世的親筆信和禮物,並且希望建立不列顛東印度公司的貿易據點。亞當斯帶著Saris在駿府城拜訪已退休的將軍家康,再到江戶謁見現任將軍德川秀忠。秀忠給Saris一套日式盔甲,要求轉送給英國國王詹姆斯一世,這套盔甲目前被保存在倫敦塔。回程時,他們又再度拜訪家康,這次家康給予英國人貿易許可的朱印狀。一行人在1613年10月9日抵達平戶。趁這個場合,亞當斯曾經詢問並得到德川家康的同意得以返回他的祖國。不過,最後他婉拒Saris帶他回英格蘭的邀請。雖然想念在英格蘭的妻小,但是在日本有封地、有地位,要是回國便一無所有。 亞當斯接受在新成立的平戶商館的工作,成為不列顛東印度公司的雇員。亞當斯其實反對將貿易站設於平戶,平戶是一個小地方,而且離大阪、江戶等主要市場遙遠。他向Saris建議在他領地附近的浦賀(今橫須賀市東部),扼江戶灣的出口,是比較好的選擇,但是沒有被接受,重視與中國貿易的英國人還是選擇在平戶開設商館。200多年後的黑船來航美國海軍從浦賀登陸,日後橫須賀逐漸發展成為日本最大軍港,證明亞當斯的確有他獨到的眼光。 在英國商館運作的十年間(1613-1623年),除1613年來航的Clove號外,只有其他三艘船直接從倫敦抵達日本,而且帶來的商品對日本市場沒什麼價值 (寬幅絨、菜刀、鏡子、印度棉花等)。唯一能維持商館運作的是日本與東南亞之間的朱印船貿易。亞當斯持有將軍授予的朱印狀,並在公司參與朱印船貿易的過程中扮演關鍵的角色。亞當斯在1616至1618年組織幾次到暹羅及交趾的貿易,成果好壞參半。東南亞的蘇木賣回日本的價錢可達到200%的利潤。這些到東南亞的貿易幫助英國商館多苟延殘喘一陣子,平戶英國商館在1623年由於財務問題關閉。 1615年,亞當斯訪問琉球那霸的時候,帶回番薯回到平戶,並由平戶英國商館長理查·考克斯(Richard Cocks)最早在日本本土成功栽培番薯。 1616年4月,德川家康病歿,繼任的德川秀忠和德川家光對於外國人與基督徒更加不信任、對外政策逐漸轉趨保守。 1620年5月26日,亞當斯在平戶死去,年五十五歲。 出處 http://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%8C%89%E9%87%9D
三浦貞広 Miura Sadahiro(生年不詳-没年不詳) 三浦貞久の嫡子。三浦貞勝のおそらくは兄。道祖(才)五郎、次郎。能登守と称したとも考えられる。 天文17年(1548年)9月16日の父・貞久の病死を受けて家督を相続。以降惣領として出雲尼子氏のもとにあったが、後に帰国。牧尚春等と共に、三村家親によって没落した三浦氏の再興を目指した。そして永禄9年(1566年)2月、三村家親が宇喜多直家に美作国籾村の興善寺で暗殺されたのに乗じて所領を奪回した。 しかし永禄11年(1568年)2月19日、毛利元就に攻められて叔父三浦貞盛が死去、居城である高田城も落城し所領を追われた。元亀元年(1570年)、山中幸盛の支援を得て所領を奪回した。 天正2年(1574年)に浦上宗景と宇喜多直家が対立した際には浦上氏に与同し、備中国の三村元親を同盟に引き入れた。このことから宇喜多氏と交戦、更に翌3年(1575年)には備中国を平定した毛利氏の侵攻を受けるに至って、同年9月、宇喜多直家の周旋により降伏した(天神山城の戦い)。 以降貞広は天正10年(1582年)に備中高松合戦に参陣、その後播磨国林田で病死したとされる(「高田城主次第」)。 出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E8%B2%9E%E5%BA%83
三澤為清 Misawa Tamekiyo(1536年-1588年) 三澤為幸之子、妻為尼子晴久之女;幼名才童子丸,通稱三郎左衛門。 三澤氏之祖據說是清和源氏木曾義仲,從信州飯田遷往出雲三澤鄉橫田庄的飯田氏一族,後築三澤城,由飯田氏改為三澤氏;此後脈脈相傳,勢力不斷擴大,最終成為出雲國內最有力的國人眾。 三澤氏臣服於守護京極氏,京極氏權力逐漸衰弱,京極氏守護代尼子經久則趁機發展勢力,侵占京極氏在出雲國的寺社、土地。尼子氏與國人眾代表三澤氏形成極深的對立,國人一揆不斷發生。當尼子清貞、尼子經久父子被從月山富田城追放的時候,這樣的國人勢力中心依然存在。 此後,十代家督為忠築起橫田藤瀨城,數次擊退尼子經久的侵攻。但是十一代家督為國(為清的叔父)因尼子經久的計策而被攻破,起先成為經久手下的代官,後來由於經久的疑心而遭軟禁,後被暗殺(一說在月山富田城下斬首)。 父親為幸繼承家督,降服於尼子氏;三澤城在尼子十旗(圍繞月山富田城的防禦線)位居其二,待遇優厚;父親為幸在尼子家的數次戰役中都十分活躍,在尼子晴久的吉田遠征時也參加進攻,結果在戰敗的混亂中,為掩護晴久而戰死,為清繼承家督。 天文十年(1541年),三澤氏假意投向大內氏一方,並在第二年大內氏出雲侵攻時,擔當引導軍。但在戰事關鍵時刻,為清、吉川興經、三刀屋久扶、本城常光等眾多勢力從大內方回到尼子方,形勢發生變化,大內軍大敗逃走,為清立下功勞,受到尼子晴久重用。 毛利元就出雲侵攻時,為清看到尼子氏已到盡頭,於是加入毛利方,共同攻擊月山富田城。元龜元年(1570年),隨毛利軍在與尼子軍的布部山之戰中立功,追討尼子軍並攻擊松江的羽倉城、真山城, 天正元年(1573年)參加鳥取城進攻;翌年,回歸三澤城。 天正六年(1578年),羽柴秀吉支持的上月城尼子軍攻擊毛利氏。為清、為虎父子參加吉川元春軍,率領出雲、石見勢力與尼子軍展開激戰,最終攻落上月城。翌年,毛利方的鳥取城受到羽柴秀吉軍攻擊,天正九年(1581年)被完全包圍,為清、為虎父子隨毛利輝元參陣。 天正十年(1582年),參加備中高松城援軍,由於城主清水宗治切腹講和,為清返回三澤城。 之後,為清築龜嵩城隱居,於天正十四年(1586年)去世,年五十二歲。 出處 http://baike.baidu.com/view/6111888.htm
上井覺兼 Uwai Kakuken(1545年-1589年) 上井薰兼的長子、母為肝付兼固之女、妻為敷根賴賀之女;初名為兼?,別名神左衛門、法號休安?、戒名一超宗咄庵主。 上井家自天文十九年(1550年)降服於島津貴久後,覺兼便仕於貴久長子.島津義久為其演奏音樂,奉公閒暇覺兼最愛讀太平記、平家物語、伊勢物語、法華經等書,同時對毘沙門天、藥師如來、觀世音菩薩、地藏菩薩、天神、荒神等諸神宗教也有很深的信仰。 此後在義久繼為島津家主後有鑑兩人多年的君臣之誼且上井覺兼確是有真才實學之輩,文武兩道兼善,且武藝出眾又擅長文學寫作,對於連歌、俳諧、茶道、花道、蹴鞠、狂言、幸若舞、亂舞、小唄、平家琵琶等也有極深造詣,於是在天正四年(1576年),正式將上井覺兼拔擢擔任老中一職,同時改名為覺兼,為島津家國政掌舵。 木崎原之戰後伊東家兵敗如山倒,擊敗伊東家的島津義久順勢兼併薩摩、大隅、日向三國,伊東義祐向姻親大友宗麟求助,大友宗麟在天正六年(1578年)出兵日向,以田原親賢為主將的大友軍主力包圍高城,大友軍約四萬兵馬,而高城的守備隊加上島津家久的援軍總共才三千多人,幸賴天險方保不失。得到消息的義久訊速動員三國兵力馳援,上井覺兼與島津義弘、伊集院忠棟的部隊會師於財部城,在高城下的小丸川兩軍發生激戰大友軍敗北,之後島津家在九州的勢力如旭日東昇般發展,而大友家則日暮西山漸走下坡。 之前初敗伊東家時島津義久便派四弟家久擔當佐土原城主兼日向守護代以防範大友家,待到天正八年(1580年),已經完全掌握住日向的義久派遣覺兼成為日向宮崎城主與島津家久一文一武共同統治日向,為了義久制霸九州的大業東西戰,島津軍於沖田畷殺敗龍造寺隆信後,上井覺兼四度出兵肥後替島津家併吞許多龍造寺的領地,並運用外交手段將龍造寺家配下的國人眾拉攏入島津家。 天正十四年(1586年),在龍造寺家臣服後島津義久開始進行築前的攻略,在攻打由大友雙璧之一、著名驍將高橋紹運鎮守的築前巖屋城時,上井覺兼被洋槍擊中負傷,不得已地從戰場上退下,直到十月傷勢將養好後,上井覺兼便立時再次披掛上陣與家久共同率兵攻進大友老巢豐後,大友家僅餘的豐後、築前兩國之外的九州全境皆歸入島津家的支配下。 天正十五年(1587年),秀吉傾全家之力領二十五萬五千大軍西進襲入九州,為此上井覺兼收兵撤回宮崎城以進行防守戰,在家久於高城之戰中敗於豐臣秀長之手後降服,上井覺兼自知不敵便有也尾隨稱降,之後回到鹿兒島在薩摩伊集院隱居。 天正十七年(1589年)六月十二日過世,年四十五歲。 出處 http://www.gamebase.com.tw/forum/3867/archive/topic/316533
上杉定勝 Uesugi Sadakatsu(1604年-1645年) 上杉景勝的長子、母為四辻公遠之女.桂岩院、正室為鍋島勝茂之女.市姬、側室為齊藤本盛之女.生善院;幼名千德,通稱喜平次。 生母桂岩院在誕下定勝後,百餘日後死去,因此交由直江兼續夫妻養育。慶長十五年(1610年),與第2代將軍德川秀忠見面。此時被授予千德的名字。 元和九年(1623年)2月13日,到達江戶城後得到將軍德川秀忠接見,敘任從四位下侍從,兼任彈正大弼。同年5月13日,父親景勝死去,繼任家督。 寬永元年(1624年),將軍德川秀忠為仲介人,與鍋島勝茂的女兒結婚。寬永三年(1626年)8月9日轉任左近衛權少將,以及彈正大弼如元(不變)。 接受江戶幕府的指令,加強取締吉利支丹(天主教徒)。在寬永五年(1628年)把甘粕信綱(右衛門)處刑等,在領內逮捕包括藩士等多數的天主教徒,並處以死罪。 寬永十一年(1634年)跟隨第3代將軍德川家光上洛。 寬永十五年(1638年)以六尺五寸一步的三百一反制實施總檢地,整備貢租制度。而且整備奉行、郡代、代官等的藩政、鄉村支配體制,從直江支配體制轉為藩主直屬支配體制。翌年,於鄉村中配置天主教徒橫目。 寬永二十年(1643年),進行會津藩(加藤家)第2代藩主加藤明成的除封處理。還有上杉氏的菩提寺林泉寺和直江氏的菩提寺德昌寺爭取僧錄的地位,結果破棄德昌寺。 對米澤藩士發出「不要像其他家風,萬事以質素律儀為作法要旨,衣服的小袖上下和桐褲等是無用,專心實行文武忠孝的事」(他家の風をまねすることなく、万事質素律儀を作法を旨とし、衣服は小袖上下や桐袴などは無用であり、もっぱら文武忠孝に勵むこと)的法令,這條法令在後來於上杉治憲初入部之際被寫進「御條目」中。 正保二年(1645年)死去,年四十二歲,戒名大上院殿權大僧都隆心。 出處 https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E5%AE%9A%E5%8B%9D