小山田茂誠 Oyamada Shigemasa

小山田茂誠 Oyamada Shigemasa小山田茂誠 Oyamada Shigemasa(1561年/1562年-1637年)

江戸時代の文久年間に成立したとされる小山田了三家伝「郡内小山田家長老大長老の事」に拠れば、郡内領主小山田氏の一門には複数の分家が存在し、茂誠はこのうち記録から確認される、代々仮名「平三」、官途名「弾正」を称した小山田弾正家の出自であるという。

「小山田氏系図」によれば、茂誠は天正10年の高遠城落城の際に21歳もしくは22歳であるとされ、生年は永禄4年もしくは永禄5年に推定されている4。父.小山田有誠は小山田氏当主.信有(弥三郎).信茂期に一門として活動し。

天正10年(1582年)3月に武田氏.小山田氏が滅亡すると、後北条氏に従う。

有誠のその後の動向は不明であるが、子息は武田遺臣松代藩真田家の藩士となり、家伝文書には天正3年(1575年)12月に「小山田平三」が「茂」字の偏諱を受けた一字書出が存在し4、有誠の子.茂誠が小山田氏の当主.信茂から偏諱を受けたものと考えられている4。有誠.茂誠は小山田弾正家の出自と考えられているが、茂誠は同じ武田家臣で郡内小山田氏とは別系統の石田小山田氏の子孫を自称している。

茂誠は天正18年(1590年)に真田昌幸より信濃国小県郡村松郷(長野県青木村)を与えられる。真田信之の家臣となり、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では、病に臥せていた信之の名代の信吉.信政兄弟に従い、子.之知と共に従軍した。信之の弟の信繁とも親交があり、信繁から茂誠宛に出した近況を伝える手紙は、信繁が最後に出した手紙であったという。

元和8年(1622年)、信之の松代移封に従い、松代に住し、代々次席家老となった。

寛永14年(1637年)に享年76もしくは77で死去4

出處 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E7%94%B0%E8%8C%82%E8%AA%A0