小山高朝 Oyama Takatomo

小山高朝 Oyama Takatomo小山高朝 Oyama Takatomo(1508年-1574年)

下野國を代表する勇將として知られた。古河公方.足利高基の偏諱を受けて高朝と名乘る。

永正十六年(1519年)、高基の意向を受けて小弓公方足利義明に味方する真裡谷氏の城である上總國椎津城を攻擊した武將の中に「結城六郎」が含まれており、これが後の高朝と推定されている。天文四年(1535年)頃に小山政長の養嗣子となって小山氏の家督を繼承した。なお、この際山川氏から來た同じ養子の小四郎を倒したとされている。

その後は父や兄と協力して、結城氏の敵對勢力と戰う。天文十六年(1547年)に父が死ぬと、その隙を突いて宇都宮氏が攻めてきたが、高朝は兄と協力してこれを驅逐した。

天文十八年(1549年)に北條氏康が古河公方.足利晴氏(高基の嫡男)の後繼に足利義氏を擁立しようと畫策したのに對して、嫡男足利藤氏を擁護する高朝はこれと對立する。だが、兄.政勝がその壓力に屈して義氏方についた上に自分の嫡男である秀綱までもこれに同調したため、隱居を余儀なくされ、永祿三年(1560年)頃に秀綱に家督を讓った。

永祿四年(1561年)に上杉謙信が大軍を率いて氏康を攻めたときは、上杉軍の一員として參じている。しかし、謙信の關東管領就任式で千葉胤富に關東諸將の首位の座を奪われたことに不滿を抱いたと言われており、直後に氏康と手を結んだために謙信の怒りを買うこととなり、翌永祿五年(1562年)、高朝は謙信に攻められて降伏した。その後は秀綱に小山城を讓り渡して榎本城に退き、永祿十三年(1570年)頃に出家して命察と號する。

兄の結城政勝の死後、三男の晴朝がその家督を繼いだが、晚年の高朝は結城氏の菩提寺の住職にあてて「自分が小山氏を繼いだ頃は、何かがあると兩親(結城政朝夫妻)が小山に來るので困惑したものだが、晴朝の事を考えると兩親の氣持ちが良く分かる」という趣旨の手紙を出して、自分に代わって晴朝を助けてくれる樣に求めている。一方、晴朝も同じ頃に父の健康が優れない事を聞いて、亂世で結城氏を守るためとはいえ父を攻めた罪に惱んでいる事を同じ住職に告白する手紙を送っている。この頃の關東は、古河公方家の內紛や北條氏と上杉氏の爭いの影響を強く受け、親子や同族が敵對する側に立って互いを攻め合う事が多くあり、小山.結城兩氏も例外ではなかったのである。

天正二年(1574年)、北條氏政を攻めようと軍備を整えていた直後に急死した。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%B1%B1%E9%AB%98%E6%9C%9D