毛利高政 Mori Takamasa

毛利高政 Mori Takamasa毛利高政 Mori Takamasa(1559年-1628年)

尾張国海東郡荒子荘花筏村で生まれた。当初、森姓を称した。父高次(九郎左衛門)が羽柴秀吉の馬廻衆であったことから、高政は1577年(天正5年)より出仕している。1580年(同8年)、森家は播磨明石郡松ノ郷で3,000石(一説には6,000石)を宛がわれた。1582年(同10年)、本能寺の変で信長が横死すると、羽柴秀吉は主君の仇を討つべく中国大返しを計画する。このとき毛利氏へ人質として送り出されたのが高政と兄.重政である。高政は毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にはある。以後、毛利姓を名乗るようになる。

1583年(天正11年)の大坂城築城、1586年(同14年)の方広寺建立の際には石材運搬の奉行を務めており、この年にキリスト教の洗礼を受ける。1587年(同15年)、九州平定では舟奉行。

1589年(同17年)、山城国の検地奉行を石川貞通とともに務める。1590年(同18年)には兵600を率いて小田原征伐に参陣、戦後に行われた後陽成天皇の聚楽第行幸の際には陪従している。1591年(同19年)、朝鮮出兵の備えとして対馬に陣城普請を命じられ、清水山城.撃方山城.向ノ平砦を築いている。

1592年(文禄元年)、文禄の役では舟奉行を務め、春川合戦で敵将元豪を生け捕るという武勲を立てている。[要出典]1595年(文禄4年)9月、豊後国日田.玖珠2郡の内で2万石(一説には6万石ともいう)の朱印を受けた。併せて両郡内の蔵入地も預けられ代官を兼務した。日隈城(隈城)を居城とし、五階の天守、三階の櫓などを増築している。玖珠に築いた角牟礼城も近年、発掘調査によって大規模な遺構が確認され、学術的に注目されている。

1597年(慶長2年)、慶長の役では軍目付(いくさめつけ)に任命され、南原城攻略では軍功を挙げている。1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いでははじめは西軍に与し、丹後田辺城(舞鶴城)攻めに参加するも途中、東軍に寝返った。藤堂高虎のとりなしが改易を免れた要因の一つとなった。

1601年(慶長6年)、豊後海部郡(現在の大分県佐伯市周辺)2万石へ転封となった。1606年(慶長11年)、佐伯城を完成させた。前後して城下町の普請も行っている。レオン.パジェスの『日本切支丹宗門史』によれば慶長11年、「エルナンド.デ.サン.ヨゼフ師(アウグスチノ会)は、当時豊後から佐伯近くに行き、城下に小さな修道院を建て、聖ヨゼフの保護の下に置いた。伊勢守殿(高政)という大名は一度改宗したことのある背教者であり、自費で天主堂、もう一つさらに大規模な修道院を建てた」とある。

外様大名だったので江戸城、駿府城、名古屋城、大坂城と立続けに手伝普請を命じられ、また参勤交代、江戸藩邸の造営.維持費用等も加わり、藩財政は極度に悪化する。

1628年(寛永5年)11月16日、70歳で死去した,法名は養賢寺院殿前勢洲剋史乾外紹元。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%AB%98%E6%94%BF

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