水野信元 Mizuno Nobumoto

水野信元 Mizuno Nobumoto水野信元 Mizuno Nobumoto(生年不詳-1576年)

天文12年(1543年)父.忠政の死去を受け水野宗家の家督を継ぎ、尾張国知多郡東部および三河国碧海郡西部を領した4。天文21年(1552年)3月8日付の善導寺への寺領寄進が信頼できる初見の記録である。異母妹に於大の方がおり徳川家康の伯父にあたる。

父.忠政は松平氏と共に今川氏についていたが、信元が家督を継いで間もなく松平家広、松平広忠に嫁いだ信元の姉妹が離縁されていることから、家督を受け継いだ当初より尾張国の織田氏への協力を明らかにしていたと考えられる。実際に織田信長とは良好な同盟関係を築き、信長の村木砦の攻略に協力し4、後に刈谷城外や石ヶ瀬川(大府市南東)など尾張南部および西三河の国境周辺において今川.松平軍と戦った4。 しかし、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、敗走する今川軍によって、弟.信近が戦死したことが伝えられているだけであり4この際の動静は不明である。緒川城に詰め動静を伺っていたとも考えられる。

永禄5年、(1562年)信長と家康が清洲同盟を結ぶ際に、その仲介役となった4。信元は家康が三河を平定した後も家康の相談に乗るなど強い影響力を持っていた4。また連歌を通じて里村紹巴とも交流があった。

永禄11年(1568年)の信長の上洛に従軍。その際に信長とは別に朝廷に対して2千疋の献金を行った4。 元亀元年(1570年)の姉川の戦いにおいて佐和山城を攻落した4。 同3年(1572年)の三方ヶ原の戦いに援軍として参陣した4。信元は篭城戦を主張し野戦にこだわる家康と対立したが、結果として野戦で敗走し憔悴した家康に代わり指揮。夜の浜松城に松明をたき鉄砲隊を配し、武田軍を威嚇をして窮地を脱している。 天正2年(1574年)の長島一向一揆討伐の際には「しのはせ攻衆」に加わっていた。

『耶蘇会士日本通信』には信元は「三千の兵を率いたる大身」と記述されている。

天正3年12月(1576年1月)、佐久間信盛の讒言により武田勝頼との内通を信長に疑われ、三河大樹寺(岡崎市鴨田町字広元)において殺害された4。墓所は愛知県刈谷市天王町の楞厳寺。法名は信元院殿大英鑑光大居士。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E9%87%8E%E4%BF%A1%E5%85%83