宮部長房 Miyabe Nagafusa

宮部長房 Miyabe Nagafusa宮部長房 Miyabe Nagafusa(1581年-1635年)

宮部継潤の嫡男(養子とも)。宮部長邑の父。諱は長煕(ながひろ)、定行とも。従五位下。兵部少輔。

豊臣秀吉に仕え信任を受け、1586年には従五位下兵部少輔に叙任され、豊臣姓を与えられた4。朝鮮出兵にも参加したが、彼の陣で饗応を受けた加藤光泰がその直後に吐血して急死するという事件もおきている。慶長元年(1596年)、父の隠居により家督を継ぐ。

慶長5年(1600年)の会津征伐には500人を率いて従軍。

その途中、上方で三成が挙兵した報を受けて反転して西上した。鳴海まで来たところで、小舅の池田秀氏が飛脚を寄こして西軍に付くよう言ってきた。 与力の木下重堅、垣屋恒総がすでに西軍に走ったこともあり、家中の大将格の七人衆に相談したところ、三田村太郎右衛門と高坂清兵衛は西軍に付くよう進言してきたが、宮部市兵衛、宮部采女、福永弥五右衛門、国友興左衛門らは反対する。しかし長房の心は西軍に動いていたため、熱田の渡しから桑名に行こうとしたが、見張りがいて船の往来ができないため、夜に渡ろうと船を一艘借り出し銀二百枚を渡し約束した。一艘に大勢は乗れないので上下の者十三人で夜中に陣中を抜け出し熱田に向かったが、約束の船がいなく辺りを捜しまわった。その頃家臣らは、陣中に長房が見えなくなったことにより、長房は西軍に走ったに違いないと考えたが、これに追いつく方法もなく、また、総大将が居なくなったことにより宮部家臣らはどうしようもなくなり、昔からの縁故がある田中吉政に皆で掛合ってその軍勢に加わった。 結局、長房らは船は見つからず夜明けを迎えてしまい、空となった自陣へ戻ってきて呆然としていたところを、騒動を聞きつけた徳川の目付けが長房を拘束、岡崎城に押し込められてしまった。 西軍の敗戦後、居城の鳥取城は亀井茲矩斎村政広の攻撃を受け開城し、鳥取5万石の所領は没収されてしまった。

戦後、敵味方の処分詮議の際、長房は死罪となりかけたが、田中吉政が自分の旧主で昔の恩義が忘れられない、と助命嘆願をしてくれたため、七人衆で西軍加担を進言した三田村と高坂の二人は切腹させられたが、長房は当分の間、田中吉政に預け置かれることとなった。翌年12月17日にその身柄を南部利直に預けられ、現米123駄70人扶持(約460石)を給されて暮らした。 その後、剃髪して長令と号し、寛永11年(1634年)盛岡で没した。

晩年の寛永7年(1630年)、寝返り行為を行ったのは、田中吉政に騙されてのことであるとする文書を幕府に提出した。しかし、吉政ほか既に多くの検証できる人物が死んでしまった後のことであり、真偽を定かにすることはできず、沙汰止みとなってしまった。現在も真相は不明なままである。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E9%83%A8%E9%95%B7%E6%88%BF

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