三村親成 Mimura Chikashige

三村親成 Mimura Chikashige三村親成 Mimura Chikashige(生年不詳-1609年)

備中国の戦国大名.三村宗親の三男として誕生。兄の三村家親の甥ともいわれる。

備中三村氏が従属していた毛利氏からの信任が厚く、毛利元就が三村氏宛の文書を当主.家親のみならず親成にも見せるように使者に言い含めていたほどである。永禄9年(1566年)に、美作国.備前国へ出陣中の兄.家親が宇喜多直家からの刺客(遠藤秀清、俊通の遠藤兄弟)に暗殺されると、機転をきかせて陣中の動揺を押さえ、兄が率いていた軍勢を代行指揮する。家親横死を秘しての余りに鮮やかな引き際であったため、直家は暗殺成功の報告を容易に信じなかったという。以後は備中兵乱に至るまで、成羽から本家である備中松山の元親をよく補佐し、三村家の屋台骨と評された。

ところが、毛利氏が三村氏にとって不倶戴天の宇喜多氏と結び、それを好機と見て取った織田信長が毛利氏からの離反を誘うが、親成は三村氏旧臣.竹井氏などとともに「織田はとても信用できかねる相手であり、毛利と手を切って織田と手を結ぶのは時期尚早である」旨の主張した。しかし、前当主.三村家親を慕う一族の大勢は織田方につくことで一致し、当主.三村元親は毛利氏離反を決定した。そのため、身の危険を感じた親成は毛利氏に通じ三村氏討伐に協力した。備中兵乱後、一定の功績が毛利氏より認められて備中成羽(鶴首)城主の地位は安堵されたが、備中松山.三村本家の叛乱を諫止できなかった咎を問われ、所領は原封の半分以下といわれる約8,000石にまで減封された。

関ヶ原の戦いまで成羽(鶴首)城主の地位にあったが、戦後に備中成羽からの離封を余儀なくされ没落。その後、備前児島三宅氏のもとへ身を寄せていたが、江戸幕府開府後、備後国に封ぜられた水野勝成に家老として召抱えられたといわれる。ただし、勝成の備後入封は親成死去から10年後の元和5年(1619年)であり矛盾している。なお、記録によると4、息子の親良は慶長19年(1614年)に、親宣は元和5年(1619年)にそれぞれ勝成に召出されている。

慶長14年(1609年)10月1日に死去。

出處 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%91%E8%A6%AA%E6%88%90

  • 织田信三

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